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人格神と「法」  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  人格神と「法」
 池田 ところで、そうした人間が知りえない力の源泉をなすものとして、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教は、いずれも万物の究極に唯一絶対神を立て、これらを人格的な存在として捉えています。
 これに対して、仏教では、究極にあるものは「法」(ダルマ)です。それは、非人格的な存在といえるでしょう。
 ここから、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教においては、人間は神の意志に従うことが求められることになります。これに対して、仏教では、法を正しく知り、それに合致した生き方が強調されます。
 このことは、人格神の宗教が人間個々に自立性を求めないのに対し、法を根本とする宗教は人間の自立性をもたらすという違いを意味すると思いますが、いかがでしょうか。
 また、法は普遍的に存在しますから、人によって近いとか遠いとかの差はありません。すなわち、万人が平等に近づくことができるわけです。それに対し、人格神の場合は、その存在が限定され、それに近い人と遠い人という差別を生ずると考えられます。仏教でも、仏という人格的存在を根本として考える教派もありますから、一律的にはいえませんが、人格神の宗教と「法」を究極のものとする宗教との特質の捉え方について、教授はどのようにお考えになりますか。
2  ウィルソン ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の伝統である人間の姿をもつ神は、超自然的な力がきわめて具体的な形に概念化されたものであり、その起源は、中東において抽象的思考の能力が発達する以前の時代に遡ります。古代イスラエル民族が、部族神として崇め、民族の運命の導き手と想定し、たぶん強い力をもつものと考えた存在は、人間の姿に似せて想像されたものです。このため、その神は人間のさまざまな属性、なかんずく人間的感情をもつものと考えられました。私たちはこうした考え方のすべてに、未開の、発展段階にある原始的な部族民の、比較的低級な知的素養を見て取ることができます。今日では、選ばれた民の部族神としての神という概念は、民族中心主義的であるばかりか、人種差別主義的でさえあると、みなされるでしょう。
 このような伝統から生まれた諸宗教が発達するにつれて、特にキリスト教の場合、この神人同形説(注1)がしだいに修正されました。キリスト教は、神人同形説が一見強化されたように見えたことから始まっています。なぜなら、その拠よりどころとなっているのは、神が肉体をもって現れ、大工の子イエスとして、人間と共に生活した、という信念であるからです。これは先祖からずっと伝わってきた考え方です。
3  しかし、逆説的ではありますが、再燃したこの神人同形説が、神というものの、より霊的な概念への道を開いたのです。それは「神は人間の姿で現れることもあろう。しかし、神は、同時に、人間が正確に捉えることのできない、複雑な存在でもある。なぜなら、神は聖霊としても現れるからである」という概念でした。ここから――少なくとも類推的にいえば――神の霊は、人間の意識にも客観的世界にも、さまざまな形で現れると考えられるようになりました。ですから、今日、神が人間として生きたということを否定するキリスト教徒はほとんどいないでしょうが、同時に、神が常に人間の姿でのみ現れると考える信者はさらに少ないことでしょう。一部の信者にとっては、神は人格的な存在でしょうが、おそらく大部分の信者にとっては、神は、抽象的で、希薄で、霊的な存在なのです。もっとも、多くの人々は、神をいかに理解すべきかについて、おそらく漠然とした考えしかもっていません。
 神人同形説が人々を惹きつける力には、根強いものがあります。人間は、他のいかなる種類の存在を理解するよりも、人間そのものをよく理解します。このため、人間は、発達した、知的雰囲気の社会環境においてさえ、物理的・社会的現象を説明する際に、ときとして擬人的なモデル(模型)に戻ることがあるのです。
4  宗教では、そうしたモデルは古来の聖典の中に堅固に守られていますが、ときには教養ある信者でも、神を霊的な存在と考えることから後退して、神の属性や性質を人間との類推において論ずることがあります。また一方、純然たる神人同形説を提唱する根本主義の諸教派が復活し、興隆する場合もあります。これは、特にアングロ・サクソン諸国で顕著な傾向です。
 とはいえ、キリスト教徒は、また、神の法、および神の超越的な恩寵という概念にも魅力を感じています。そこでは、法は個別的・具体的な規律という捉え方から変容して、普遍的抽象的な原則という概念になっています。正統派ユダヤ教とイスラム教にあっては、法は、依然として細目にわたる規則の列挙にすぎませんが、キリスト教においては、その重点が、法を文字通りに遵守することよりは、むしろ法の精神に与る方向へと移行しています。
 もちろん、キリスト教の教会史においても、特に教会法(注2)の発展に見られるように、細目にわたる規則が少なからず再強調されたことが、しばしばあります。この過程を、ルドルフ・ゾーム(注3は「愛から法への過程」として特徴づけ、マックス・ウェーバー(注4)は、カリスマの日常化(注5)の過程と呼びました。教会法が、ローマ・カトリック教会(注6)内でだけ維持されたことは、論をまちません。これに対して、プロテスタント教会(注7)の場合は、カルヴィニズム(注8)の厳格さが優勢を占めた時期もあり、また、法に囚われた諸派がずっと存続したこともありましたが、むしろ神の恩寵を重視する行き方が、宗規法典に隷従しようとする勢力を和らげてきたといえましょう。
5  これは逆説的なことですが、キリスト教では、ときとして神の存在を神人同形的に捉えながら、同時に、神の法の重要性に対する関心を保ち続けています。これに対して、仏教では、法の説示から始まったにもかかわらず、そのいくつかの形態では、神または神々という強い関心へと逆戻りしています。このことは、ある場合には(なかんずく小乗教の諸国において)古来の神々や聖霊が根強く存続していることに端的に現れていますし、またある場合には(これは大乗教の伝統に見受けられることですが)仏陀の神格化とか、さらには、広範に見られる人物像による仏陀の表現などに現れています。こう見てくると、明らかに神の原理が至高の位置など占めてはおらず、公式には否定すらされている宗教的伝統においてさえ、超自然的なものを擬人的に捉える考え方が、いまだに顔を出しているわけです。
 部族神に起源をもつ宗教では、神の概念は、ただ徐々に普遍化されるだけです。これに対して、もともと普遍的な法に基づいて発生した宗教では――人間は、より直接的・人格的な拠りどころを求める存在であるため――地方的な精霊や神々へと、周期的に回帰しています。この二種類の宗教の間には、重大な相違があります。
 ある面では、いかなる宗教でも、それが有効であるか否かの決め手は、一つには、その成員を最も高度な精神性へと社会化(注9)するために、その宗教がどのような手段を展開するかにかかっています。とはいえ、人間にとっては、普遍的な法であっても、あるいはたとえ普遍化した神の場合であっても、それについての知識だけで満足するのは困難なことのように思われます。人間は、その人間としての経験により近い形態の拠りどころを求めます。つまり、土地の聖霊とか、慈悲深い仏陀とか、憐れみ深い受難のキリストとかです。
6  普遍性を主張していく過程で、宗教は、大部分の人間の経験範囲を超えてしまうように見えたかもしれません。また、そのメッセージ(託宣)を純粋な形で維持しようとして、あまりにも非個人化してしまうこともあったかもしれません。しかし、実際には、社会そのものが地方性をしだいに克服するにつれて、地方的、部族的、偏向的な神々は、ますます時代遅れになっていったのです。
 西洋の社会秩序は、着々と、その道徳律においてより普遍的になり、その運用においてますます非個人的になっていきました。そして、宗教においては、ピューリタン革命(注10)に見られるように、道徳法に従うという考え方が、ますます重要になっていきました。その法は、道徳的規範であり、救済の手段というよりは、むしろ人間としての義務を提示したものでした。その法を定めたとされる神は、もはや、法の運用には、さほど重要な存在ではなくなったのです。こうした、非人格的な法が普遍的に働いているという観念は、世俗化(注11)の度を深める社会秩序と、うまく合致しました。そして、キリスト教が相続した神人同形的な超自然主義や、典礼や教会機構といった、宗教的な内容の社会的意義が減少したときでも、この、普遍的な法の概念は存続したのです。
 これに対比して、仏教は、散在する神々という付加物が除去されたときには、世俗化した社会にもっとうまく適合して存続し、降盛するかもしれません。また、よりよい立場を占めて、そうした世俗化社会に、適切な普遍的克服を与えていくかもしれません。
7  池田 教授のお答えによって、すでに十分明確ではありますが、ユダヤ・キリスト教が「人格神」を根本とすること、仏教が「法」を根本とすることについて、それぞれの聖典から挙げて、その意味をはっきりさせておきたいと思います。
 ユダヤ・キリスト教では、人類の祖先であるアダムとイブは、神によって創られたとします。最初、アダムとイブは、エデンの楽園で、何一つ苦しみを知らないで生活していたのが、悪魔に誘惑され、神の戒めに背いて“知恵の実”を食べてしまい、神の怒りによって楽園を追放された、と教えています。
 悪魔とは、堕落した天使とされますが、万物創造の神はいつ天使を創ったのか、なぜ天使が堕落したのか、また、食べてはならない禁断の実をなぜ神は作っておいたのか、神が創った人間の心に、どうして神の戒めに背く心が仕組まれていたのか等々、キリスト教神学の門外漢の私にとっては疑問が尽きませんが、それらは、ここでは問題外としましょう。私がここで問題にしたいのは、アダムとイブが神の命に背いたために処罰として楽園を追放され、そこに人間の苦しみが始まったという点です。つまり、人間の苦の原因は、神の怒りなのです。知恵の実そのものは、なんら苦をもたらす毒ではありません。
8  これと対照的に、仏教では、法華経に、良医とその子供たちの話があります。子供たちは、父の留守中に毒薬を知らずに飲んでしまい、そのために苦しみます。父親は帰宅して、その有様を見て、苦しみを癒す薬を調合し、子供たちに飲ませようとします。素直に飲んだ子は苦から救われますが、毒が強く、本心を失っている子は飲もうとしないため、父が知恵を用いる話が述べられています。
 この場合、苦しみの原因は、父の留守中に誤って飲んだのが毒薬であったことです。父が処罰するという人為的行動が因なのではなく、毒薬の作用という自然の法理によっています。
 ユダヤ・キリスト教の「父なる神」と、この仏教の「父なる良医」の行動も対照的です。「神」は怒って子供たちを楽園から追放し、苦しみに突き落とします。それに対して「良医」は、子供たちを憐れんで、薬を飲ませ、苦しみから救おうとするのです。
 もとより、この「神」が、ただ怒りのみの神でなく、後に救世主を遣わすという慈悲も持ち合わせていること――それがイエス・キリストによって実現したのだとされていること――は、私も知っています。しかし、自分の意志に従わないものに厳しい罰を科す神に対して、信ずる人々が畏怖を抱いたことは、否定できないところでしょう。
 キリスト教神学においては、この「神」を再解釈して、「法」ないし「法のようなもの」の擬人的表現であるとしているのでしょうが、基本的には、意志・感情をもつ人格的存在とする考え方が一貫しています。
 これに対して、仏教では、仏陀を絶対者として崇拝する信仰もありますが、その場合も、仏陀は決して“創造主”ではありません。仏教は基本的には「法」が根本であって、仏陀は、この「法」を覚知し、人々に教え、あるいはこの「法」によって得た知恵を自在に働かせて、人々を救う存在です。この考え方は、真理を観察し、学んで、それを技術化して、生活・人生に活用しようとする現実の文化と共通するもので、教授も言われているように、社会に適した普遍的倫理を与えるうえで、より有利な宗教であると私は考えています。
9  (注1)神人同形説神は人間と同じ姿、形をしているとする考え方。ユダヤ・キリスト教では、神は己が姿になぞらえて人間を創造したと教える。
 (注2)教会法初期ローマ教会における公会議や歴代教皇、有力な司教等の権威によって制定された教会内規則の体系。キリスト教徒の信仰、道徳、慣行などに関するもので、主にカトリック教会、ギリシャ正教会の支配体系であったが、後にその支配力は主(司)教制度のある諸教会にも及んだ。
 (注3)ルドルフ・ゾーム(一八四一年―一九一七年)ドイツの法制史学者。ライプチヒ大学教授等を歴任。ローマ法からゲルマン法、教会法と研究領域は幅広い。主著の『ローマ法教程』『教会法』は有名。
 (注4)マックス・ウェーバー(一八六四年―一九二〇年)ドイツの経済学者・社会学者。フライブルク、ハイデルベルク各大学の教授を歴任。彼の研究は、社会科学方法論、経済学、経済史、社会学などの広い分野にわたり、包括的な社会学体系を残した。近代資本主義の特質をプロテスタンティズムと関連させて究明したことは顕著な業績である。
 (注5)カリスマの日常化特異的、霊感的もしくはカリスマ的な諸現象が規則的、日常的(慣例的)な現象へと還元されていくことをいい、社会学において特に認められている過程。ウェーバーがこの過程を初めて概念化した。社会の配列が一貫性、リズム、秩序を達成していく全般的過程の一部をなす。
 (注6)ローマ・カトリック教会カトリック教会はローマ教皇を首長とする故にローマ教会、ローマ・カトリック教会とも呼ばれる。キリストが創立した正統の教会であることを主張する世界最大の教会である。
 (注7)プロテスタント教会十六世紀にルター、カルヴァンらの宗教改革で、ローマ・カトリック教会に反抗して成立した教会。カトリック教会の教義中心主義に対して、個人の信仰に中心を置く。
 (注8)カルヴィニズムスイスの宗教改革者カルヴァンに端を発する思想運動。カルヴァンの影響により、十六世紀のジュネーブにプロテスタント・キリスト教の一派としてのカルヴァン派が生まれた。改革派あるいは長老派と呼ばれる教派もその流れに属する。近代精神の発達に大きな影響を及ぼし、したがって社会・政治の面にも少なからぬ影響を与えた。
 (注9)社会化一般的な意味では、新生児が社会の規範をはじめとする文化全般を受け入れ、習得して、社会のさまざまな規則や習慣に適応していく過程をいう。これは直接的な外的圧力(社会の統制力)というよりも各自の(社会化された)正誤の判断力に従ってなされる。社会化の過程は、他者との社会的な相互作用を通して強化される。成人して後は、個人が新しい忠誠(信仰)の対象や新たな役割に参画する際、一定の第二次的な社会化(再社会化)を体験し、自らが、新たな信者となった宗教組織なり、職業なりの社会的規範を習得し、内面化していくことをいう。
 (注10)ピューリタン革命ピューリタン(清教徒)とは、イギリスで十七世紀後半、英国国教会の宗教的圧迫に反対し、社会の腐敗堕落を嘆いて、プロテスタントの精神を徹底させようと立ち上がった人々。日常生活における清浄・簡素・厳格な道徳的行為を主張した。一六四二年、王党派とピューリタンを主とする市民層の対立が激化し、内乱に発展、共和制が樹立された。これをピューリタン革命という。
 (注11)世俗化一般に宗教的な思想・行動・制度などが近代社会において意義や影響力を失っていくことだが、より正しくは宗教の制度、象徴の支配から社会・文化のさまざまな分野が抜け出していく過程をいう。これに対して、世俗主義とは、反宗教的なイデオロギーのことであり、さまざまな現象に対して完全に合理的な解釈を与え、精神的な目標よりも世俗的な目的を追求する思想をいう。

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