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宗教的感情の源泉  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  宗教的感情の源泉
 池田 人類学、考古学などにおいては、発掘される人骨に埋葬の痕跡が見られるかどうかが、宗教的感情があったか否かを判断する手がかりにされると聞きます。
 たしかに、死体に対してなんらかの敬意を払い、なんらかの形式に則って埋葬するということは、死後の世界という、目に見えないものを意識し、そこになんらかのイメージを抱いていたことを物語ります。
 目に見えないものを想定し、それに対して畏敬の念を抱くことは、それ自体、高度な精神機能の表れであり、そこに、宗教の一つの出発点があったといえると思います。
 しかも、そうした目に見えない世界への畏敬から、現実の人生を振り返り、自己の本能的欲望を抑え、自分の生き方を正しく導こうとするまでになれば、これは、立派な宗教的精神といえるのではないでしょうか。
 現代の私たちが憂えなければならないことは、形式や儀礼としての宗教に対する関心の希薄化や低下などではなく、本能的欲望や衝動に対する導き手としての、宗教的精神の喪失です。
 こうした、宗教の発祥およびその原点という問題についての、教授のお考えをうかがいたいと思います。
 埋葬儀式が、そのまま宗教の発祥に結びついていると考えてよいかどうか。また、いずれの民族においても、宗教の最も深い起点は、死への関心にあったといってよいかどうか、といった問題です。
2  ウィルソン 宗教的感情、ことに、比較的素朴な人々の間に見られる宗教的感情は、人間が不安や未知の事柄、厄介な事態などに直面して経験する、種々の基本的な情感から生起するもののようです。こうした現象から生起する感情は、畏敬、恐怖、崇敬などの心や、強大と思われる諸力を鎮めたいという欲求を、刺激します。依存心、無力感、深刻な不安などが生じると、そうした、自分では制御できない、さまざまな情動を鎮めるための行為が必要になります。これらの儀礼的行為は、一つには、それらが馴染みの――ときにはほぼ習慣化した――反応となるため、また、もう一つには、それらが引き起こすと思われる客観的な諸々の結果によって、主観的状況に変化をもたらすのです。
 宗教的儀礼は、情動の静かな表現といえましょう。言い換えれば、儀礼は、種々の情動を、実際よりもずっと緩和抑制された形にして、人々の心に呼び起こさせるものです。このため、放置しておけば危険きわまりない外的な諸力も、儀礼によって抑制できる、もしくは少なくとも部分的に操作できるという考えを――おそらくときには錯覚の場合もあるでしょうが――人々に抱かせるのです。儀礼が適切な反応として確立されるにつれて、人々は、不安や未知との遭遇から生起する自身の情感の、直接的で、きわめて強い衝撃から守られるようになります。儀礼によって、人々は、状況を“封じ込め”、自己を抑制することができ、また、さもなければ本来“粗野”で破壊力を秘めているはずの自己の情感を、洗練され、高度化された形で体験できるようになるといえます。これらの洗練された感情は、宗教的儀礼、神話、イデオロギーといった「装置」で濾過された感情とみなしてよいでしょう。
3  埋葬の儀式は、まぎれもなく、そうした社会的「装置」の重要な一例でした。なぜなら、死別とは、あらゆる個人、あらゆる集団が、特にはっきりとした形で、厄介な事態に直面する状態であるからです。この体験は、誰にとっても共通のものでありながら、また、常に深刻な体験でもあります。
 埋葬の儀式は、有害な情動を抑制しようとする要求の普遍的な表れであり、この情動は、もし抑えきれないと、生き残った個人、集団、さらには社会秩序の構造さえも、危うくするかもしれないと考えられたのです。
 だからといって、埋葬(もしくは死体の処理)が、あらゆる人間社会で必ず明確に宗教的関心の焦点をなしている、ということではありません。むしろ、死者への恐れ、変化した生活状況への危惧、さらには、死霊がもつとされる力や復讐心にまつわる苦悩などが、死別に際して人々が抱く情感をいくらかでも緩和しようとする欲求を、人間社会にきわめて広範に引き起こしているのです。死別は、人間にとって常に深刻な体験ではありますが、それが必ず宗教的感情の最も深い源泉であったといえば、たぶんいいすぎになるでしょう。宗教は、人間が死に直面するような場合はもちろん、日常生活の平常な状況の中でも、人間の心の均衡を保つことに、常に関わっています。
4  死は、人間にとって、未知の側面を代表するものではありますが、他にも、人間にとって不確かな事象はあります。人間は、自然の事物(川、火山、海)に現れる力に、尊崇の念を抱くでしょう。また、世俗の(注1)君主の権勢ですら、人々に、畏怖と崇敬の強い感情を起こさせうるものです(そうした感情は、それらの人物の機嫌を宥める必要があると、さらに強くなるかもしれません)。人々が戦争、疫病、飢饉、経済破綻などで経験する不安な社会状況が、強力な反応を生んで、宗教の形態をとることもありましょう。
 ところが、これらの他にも宗教的感情の源泉はあります。社会集団の存続や再興を祝うことも、多くの場合、宗教的感情の根源と考えられています。人間は、集団を形成することによって、社会的な力を感じます。これは、人間にとっては、自らが高度の社会的存在であるという、神秘的ともいえる感覚であり、そこからも宗教的感情の源泉が発しているのです。
5  池田 いま教授は、宗教の起源に関して、死以外にも、自然界の強大な力、世俗君主の力等への畏敬尊敬の念、社会的不安への反応、集団の力への畏敬といったものも、宗教的感情の源泉になりうることを指摘されました。私は、最も古い人類の遺跡から、物的証拠として確認できるものとして、死者への畏敬という点を取り出して挙げたわけですが、人類文明の発展史をたどり、あるいは現在の人間社会に見られる宗教の実態を観察するならば、教授が指摘されたような、さまざまな宗教的感情の源泉を挙げることができると思います。
 一つの考え方として、人間がまだそれほど整った社会体制を形成していない段階においては、死や自然の力への畏敬が宗教的感情の主な源泉になった。それが、社会体制が形成され、しだいに自然の力の衝撃に対するクッションとなるにつれて、国家集団や君主の力への畏敬を源泉とする宗教的感情が、大きい比重を占めていった。さらに、これらの多様な源泉に対して哲学的思考が加えられることによって、それらを統合する一者という抽象的概念が生じ、唯一神あるいは究極的真理への崇拝という宗教が発展していった。――このように見ることができるのではないでしょうか。
 ともあれ、このような、感覚機能で捉えることのできないものの存在を信じ、それを畏敬あるいは憧憬することによって、感覚的欲望の充足のみを求める心や、不安といったものに対し、抑制し、鎮め、昇華させることができるわけで、私は、そうした人間の置かれている状況は、人間が人間である以上は不変であり、宗教的感情の発生は人間性にとって自然なことでもあり、不可欠なことでもあると考えています。
6  (注1)世俗(神に関わる事柄と区別して)世間の事象万般を表す。社会(公民)の権威、非宗教的な文化を示す用語と定義されるが、ときに一般信徒に仕える一部の聖職者を表すのに用いられる場合もある。

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