Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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序 文  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

前後
1  序 文
 一九七八年の十二月下旬から約一カ月間、本書の対談者の一人であるウィルソンは、創価大学と東洋哲学研究所の合同招聘によって、日本を訪れた。その訪問時の最初に、もう一人の対談者である創価学会インタナショナル会長の池田は、ウィルソンを夕食に招いた。会話はさまざまな話題にわたり、たがいに非常に異なった、しかし、必ずしも大きな隔たりがあるとはいえない観点にともに刺激を見出しながら、会談は予定よりはるか長時間に及んだ。
 たがいに自分について説明し合い、相手の世界観を認識し合い、相互の立場の細かい点までを知り合う中から、私たちはおたがいに、一方は新しい宗教運動の指導者としての、他方は学究的な社会学者としての、固定概念を取り去っていった。こうして、両者の間には、もう一度会ってさらに話し合い、より広い範囲の諸問題について意見を交換し合いたいという願望が、自然に生まれてきた。そして、私たちはその場で直ちにこのことを決めたのである。
 以後、両対談者は、日本で、またヨーロッパで、折に触れては再会を重ね、さらに、かなり長文の文書交換をもって双方の発言をまとめ、これを敷衍した。そして、編集と削除を経て、ここに、対談として上梓する次第である。
 これほど長期にわたる一連のやりとりの後には――友情が芽生えるような、どんな文書交換の当事者間にも起こりがちなことであるが――私たち両対談者の間に、相手を讃え合ったり“大いに世の中を正した”という自己満足に陥ったりする誘惑が生じたとしても不思議ではなかった。そのような何らかの感情が、この対談そのものの歓びによってさらに強化されるということも、十分にありえたはずであった。私たちは、そうした誘惑には屈しなかったつもりである。
2  この対談は、私たち双方にとって興味深いものであったが、他の人々にとってもまた、興味あるものとなるよう願っている。しかし、私たちは、何か結論めいたことを本書で述べるというような錯覚には、陥っていないと思う。ここで扱われた諸問題は、すべて未解決のままに残されている。二人の関心を惹いたほとんどすべての主題に関して、私たちは必ずしも専門家ではないし、そのいくつかについては、まったくの門外漢であり、素人ですらある。したがって、私たちとしては、二人一緒にであれ、別々にであれ、これらの問題について権威あることを言えるなどとは、夢想だにしていない。私たちはともに、これらの諸問題について、他の人々がどう考えるかを常に知ることの大切さを、十分に承知している。二人は、分別ある人々の意見の動向を熱心に観察し、反応し、論評を加える立場にあるという意味において、ともに世論の見守り役とでもいうべきであろう。
 本書で両者が触れている問題のいくつかが、すでにそれぞれの分野の専門家たちによって、はるかに広く討論され、論議の主題となってきたことは確かである。私たちもそのことを知ってはいるが、しかし、それは大きな障害とはならなかった。私たちは、必ずしもすべてを見渡せる立場にいるわけではないが、一方は日蓮大聖人の仏法の視点から、他方は学理的な社会学の観点から、それぞれ広範な現代の関心事を概観しうる有利な立場を占めており、したがって、私たちがここにさまざまな観察のやりとりを提示するのは、論評者としての精神に立ってのことである。
3  この対談は、二人がたがいに専門的知識をもつといえる分野についても、枝葉末節や専門的事項には集中していない。私たちの目的は、大乗ないし日蓮大聖人の仏法を包括的に説明することにあったのでもなければ、宗教社会学の内容を論ずることにあったのでもない。そうした主題についての情報を求める人々には、他に求めるべき情報源があるはずである。
 本書では、むしろ、宗教――仏教ならびに他の諸宗教――が人間の重大な関心事に影響を与える際の、倫理的・哲学的・心理学的・治療学的・組織的・歴史的な、さまざまな現れ方を論じている。これらの話題においては、とりわけ宗教指導者と宗教社会学者が論議し合うことによって、独自の貢献ができると思われたからである。両者の発言は、したがって、主として知識ある読者ともいうべき人々また専門家でない人々へ、さらには、一分野だけの専門家へ向けられたものである。なぜなら、後者もまた、自分の専門分野以外では、同じく素人であるからである。
4  本書の各ページにおいて、専門家は、その分野が仏教であるにせよ、あるいは社会学であるにせよ、自分の専門分野に関しては、何ら新たな事柄を学ぶことはないに違いない。しかし、そうした専門家もまた、幅広い公平無私の論評に対しては、それを自由な意見の交換に資するものとして、また専門家のみならずより多くの人々による討論の継続に資するものとして、これを歓迎していただけると思う。私たちがこの対談を発刊するのは、遺伝子工学や妊娠中絶の問題から宗教の自由、親子の関係、さらには人間性の本質にまで及ぶ、今日的な論議を呼んでいる諸々の主題についても、なお門外漢が意見を述べる余地はある、いやその余地が残されていなければならないという、確かな信念からである。
 私たちは、この対談を開始するずっと以前から、ここで論じ合われたほとんどすべての事柄について、それぞれ別個に考察を廻らしていた。しかし、たがいの思考を明瞭に示すことを通して、また日本と西洋の文化の間にあるかなり大きな境界線を越えて意思を伝達し合うことを通して、私たちはともに、これまでは取り上げずにおいた視点についても、より綿密な吟味と、より十分な再評価を加えることになった。
5  私たちは、ときとして、相手が理解できないような話し方をしたかもしれない。しかし、これは決して、私たちの翻訳者や通訳者の力が不十分だったからではない。そうした事態が生じるのは、通常は、どんな個人間の談話でも、(厳密に数理的な事柄を除くすべてについて)たがいの文化上の前提の広がりや深さが吟味されないままに進められ、異文化圏の人々に伝達する必要が生じたときに初めてそれらが顕になる、といった理由によるのである。最初は、翻訳作業そのものが障害になるかとも思われたが、実際には、それは私たちにとってより深い自己認識への踏み石となり、これによって、両者はともに、自らの叙述事項の再検討と思考の明確化を迫られたのである。いずれの言語でも、それを母国語とする人は、定義が不明確で、曖昧で、系統立っていない仮定や論点を、厳密に調べずにすますことができ、また、そのままにしておくほうが手っ取り早いものである。誰しもときに“当たり前のこととされている”命題を用いることがあるが、一つの文化圏の中ではその共通の基盤がしっかりしているため、同国人同士であるならば、いかに曖昧で直観に頼った話し方であっても、言外のほのめかしや言及を相手が理解してくれることを、たがいに当てにすることができるのである。
6  翻訳は、私たちにとって有益な経験であった。隠されていた文化上の仮説を明確にせざるをえなかったし、両者はともに、それまでは自明のように見えた概念を再評価することによって、得るところが大であった。私たちは、言語上だけでなく、文化上の不明瞭な箇所に取り組んでくれた通訳者・翻訳者の諸氏に、深く感謝している。特に、日本語から英語への翻訳を一手に引き受けてくれたリチャード・L・ゲージ氏に対して、池田は、深い感謝の意を表するものである。
 私たちは、この対話を、たんに二つの文化圏、つまり東洋と西洋、わけても日本とイギリスをつなぐ橋としてのみならず――もちろん、その役割も果たすものとは信じるが――、同時に、現代世界のますます専門化する社会秩序の中で、稀にしかなされなくなった種類の対話の見本になればと願っている。
7  かつて、さほど遠くない昔に、少なくとも幾人かの人々が、広範囲の知識を恣にして、少なからず隔たりのある種々の学問分野に親しく興味を抱き、そうした種々の学問が、これら博学者の頭の中でたがいに補い合っているという時代があった。これらの人々は、より狭い分野の専門家たちを各分野において自分のために使うことによって、自らの知識の幅を広げたのであるが、さらにその結果、彼ら自身、その非凡な能力と、何でも知ろうとする知性と、絶大な努力とによって、そうした諸分野に対して彼ら独自の貢献をなしえたのである。しかし、今日はすでに、そうした博学者たちの時代ではない。私たちはいずれも、すでに消滅してしまったこうした人々と同類ではまったくないし、また、彼らの幅広い能力を真似ようというような見当違いも犯していないつもりである。しかしながら、私たちも、何かあの博学者たちがもっていた探究精神に通じるものをもっていると言っておきたい。私たち二人は、いずれか一人だけではなしえなかったことを、つまり、一人であったなら当たり前のこととして見過ごしたかもしれない諸問題を取り上げて、共同で再検討しようとしたのであるから――。
 当然のことながら、活動的な仏教団体の指導者にとっての関心事と、宗教社会学者の目的や方法・仮定との間には根本的な隔たりがある。にもかかわらず、本書での論議の本質をなす問題、すなわち、宗教の社会的役割という問題は、私たち双方にとって深い関心事である。両者は、対談の随所において、たがいの出発点となる前提を明確にするよう努めたが、このため、ある面では、私たちの論議はいくぶん異例のものになっている。
8  もちろん、宗教社会学者が(特に自分の研究対象である運動の)宗教指導者と対談することは、決して珍しいことではない。しかし、より客観的な態度で宗教問題を論じるために、社会学者がその積極的な調査活動の役割から暫時退いたり、または宗教指導者が教団内の弟子たちの指導者・助言者としての主要な役務から一時離れるということは、あまり例のないことである。そうした討論を行うことは、私たちのうちの一方にとっては、宗教的事象はあくまで倫理上中立な社会学的探究の対象なのであるから、経験主義的で方法論上正当化される研究態度から一時離れることを意味する。また他方にとっては、日蓮大聖人の仏法に関する見解が彼の表明する価値観や関心事の本質をなしていることは明らかであるにしても、特別にその立場をこの対話の多くのやりとりの中で主張する試みは行っていないのであるから、その意味で、これも客観的な探究精神に立ってのことである。
 こうして私たちは、たがいの中間のどこかの一点で相まみえ、それぞれが、自身の通常の活動からもたらされた洞察を提供し合ったわけである。したがって、この出合いの基盤となっているのは、研究活動に従事する学者のそれでもないし、教義を解説する仏教指導者のそれでもない。そして、私たちは、それぞれが特別な関心をもつ領域をたがいに踏み出そうとするこの試みを、“日ごろ大事に抱いている観念や価値観を皮肉にも無視している”などと人々に思わせることなしに、実行しえたと信じている。
9  ある人々は、宗教指導者が、自分の信仰を分かち合っていない、またどの宗教にも帰属していない一学者と、何の制約もない討論をするという考えに立つことは難しいのではないか、しかも、双方のやりとりの記録が彼自身の門下の手に渡ることになるのだから、それは一層困難なことではないか、と想像するかもしれない。同様に、宗教社会学者が、場合によってはあからさまな価値判断にもつながりかねないやり方で、宗教の本質に関わる問題を論じること自体、不安に感じることではないか、と想像するかもしれない。しかし、そのような斟酌は、私たちのいずれにも、何らの逡巡を与えるものではなかった。
 この対談を行おうという発想そのものが、すでに池田から出たものであったし、彼の意図は、当初から、これらの対話の記録を、創価学会員のみならず広く社会一般にも提示することにあったのである。このような姿勢は、そのこと自体、この仏法者の立場が開放的であることを証明するものである。一方、ウィルソンとしても、現代の諸問題の重要性に鑑みて、人々が人類のさまざまな関心事への態度を決定するうえで、社会学上の見識が、正しく、かつ適切に利用される機会があるべきであるとの確信に立っていた。両者の価値観にいかに開きがあったとしても――それらの相違のいくつかは以下の本文にも現れているが――、私たちが、自由な知的討論に徹するという価値を分かち合っていることは明らかであろう。そうした価値を重んじる精神は、私たちのこの対話の中に具体的に見られるはずである。
10  上座部仏教の彼岸志向性のみを知り、キリスト教といえばその典礼や救済論、またその超越主義的な、そしてときには神話的な傾向を思い起こす西洋の読者諸氏は、これほどまでに宗教の社会的役割にのみ焦点を当てたこの宗教論議を、社会学独特の視点への明らかな譲歩ではないかと、あるいは誤って想像するかもしれない。しかし、実際には、まったくその反対である。日蓮大聖人の仏法には、本来、現世を重視する傾向があり、そのため宗教を社会的現象と捉えていくことが、私たち対談者の共通の基盤として直ちに合意されたのである。日蓮大聖人の仏法のまさにそうした特徴そのものが、社会学者との対話を容易にさせているのである。このため、両者の見解が食い違っている場合でも、私たちの心を占めているものは、近似のものである。私たちは、信仰に対する狭量な正当化には関心をもっていないし、宗教ないし諸宗教に関する最終的な評価を結論づけようとも思っていない。私たちの一方にとっては、そうした事柄はすでに解決ずみであり、もう一方にとっても、それは主たる関心事ではない。
 私たちは本書で、宗教のもつ影響力という視点から、急速かつ徹底的に変貌しつつある世界における、人類の状況に焦点を当てている。したがって、私たちがここで論じているのは、宗教的感情の本質、奇跡の特性、死後の生命観の意義、神秘主義、合理性の限界とその宗教への関わり等々である。また、両者のやりとりの中では、いくつかの、いくぶん些細な性質の話題もかなりの部分を占めたため、以下の本文中で、それらは予想以上に多くのスペースをとっている。その反面、いくつかの基本的な問題の多くは、むしろ当然の問題として、大きく扱われてはいない。しかし、こうしたあり方こそが純粋な意見交換の特質なのであり、抽象的・一般的な類いの問題から必然的に呼び起こされる思考よりも、いくつかの特定の主題のほうが、より活発な思考を触発するものである。私たちは、そうした展開を、ほぼそれらが生じるままにまかせておいたことに、満足している。
11  私たちはまた、分類のはっきりしている話題を項目ごとにまとめ、見出しを付けることによって、この対話を秩序立てようと試みた。しかし、いかなる一連の対話でも、一つの項目から次の項目へと連続する場合もあるし、ときには急に途切れる場合もあることは、当然のことであろう。私たちは、会話のやりとりに現れるそうしたまったく当然の展開を、すべて取り除こうとはしなかった。読者諸氏もまた、両者の、たがいの影響の与え合いがどう進展していったかを、知りたく思うに違いないと信じたからである。
 当初、私たちの意見交換を記録に残すことを初めて決めたとき、両者の見解がどの程度まで分かれるのか、ともに疑問に思わざるをえなかった。しかし、そうした可能性に対して、私たちは何らの抑制も修正も加えなかったし、興味深そうな話題を差し止めたり避けたりすることも、一切しなかった。実際、こうした精神に立ってのやりとりのお陰で、私たちはたがいに、いくつかの論点を切り開くことができたのである。それらを巡っての私たちの異なる観点が、真実の意見交換に見られるあの知的興奮を生み出しうることを、私たちは願っている。
 池田大作
 ブライアン・ウィルソン

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