Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

蒼い地球の運命への問い──不可知論と行…  

「人間革命と人間の条件」アンドレ・マルロー(池田大作全集第4巻)

前後
2  東西文明の対話による《普遍的人間》の追求というだけの主題であるならば、仏師ナーガセーナ=ミリンダ王の問答からタゴール=ロマン・ロランの出会いをへて、鈴木大拙=K・G・ユングの交流にいたるまで、歴史上、重要な証言はかならずしも稀少としない。その数は増えるいっぽうであろう。しかし、人間への問いが歴史的実践の意志と結びついた東西間の対話ともなると、これは本書をもって嚆矢とするのではなかろうか。「いかにすべきか?」は、ここでは歴史の地平において問われている。しかも「原爆戦は起こらないとはっきり断定できるのは三十年後のことまでであって、その後のことはわからない」(マルロー氏)というように、もっと端的にいえば、失われた地平線の手まえにおいて問われているのである。
 そこに、本対話において、不世出のこのフランス人天才ジエニーが、人間を語るときと行動を語るときとで語調に変化を来たす理由がひそんでいる。「あなたの眼からすれば人間にとってなにが一ばん重要ですか?」と池田会長に問うときのマルロー氏は、永遠なる東洋をまえにした質問者、古代ギリシアのあのミリンダ王の分身とも見えよう。しかし、《汚染》という「共通の敵」をもつことによって世界を結束させるべく創価学会がイニシアチヴをとるように、と薦めるときの氏の語調は、行動を提案すべく現れた人間のそれなのである。
 そして、この態度に、仏法の実践者にして史上まれな教団の組織者である池田大作氏にたいしてマルロー氏が寄せる、なみひととおりならぬ信頼が窺えるとともに、なぜこの出会いをもとうと彼が欲したか、その深い理由が隠されていると見なければなるまい。単に語るためにマルロー氏は来たのではなかったからである。
 注意しなければならぬ。歴史的行動をとるようにとマルロー氏はアドヴァイスしているのであって、政治的行動をとるようにと言っているのではないのである。「もう五十年もたてば政治家などというものはいなくなってしまうでしょう」との彼の一言は、ここにおいて雷の一撃を発する。創価学会会長・池田大作氏と公明党との関係は、マルローの眼からすれば、仏法の実践者・池田大作氏と歴史的世界との関係ほど重要ではないであろう。その理由は、アンドレ・マルロー氏が池田大作氏のうちに期待しているものは、ひっきょう──あるいは、おそらく──新しい形での《垂示者》「le Pr'edicateur」と呼ばれるべきものにほかならないからだ。
 対談の終わりごろで、前者が政治家消滅を語り、後者が「政治家にかわるべきものは民衆でしょう」と応ずるとき、マルロー氏の心中にあったものは、むしろこの垂示者といったことであろう。“塩への行軍”をなしとげたインドの《導師グールー》、また、西欧にあっては、ヴェズレーの丘より十字軍を送った一聖者のごとき。近くは、長征の毛沢東でさえも、マルローにとっては垂示者である。人類史には、《法(ないし真理)》が歴史とかかわりをもつ、めくるめく一点が存する。ほかの多くの人々が類型的に考えるように「宗教と科学との接点」という以上に、マルロー氏にとっては「真理と歴史との接点」のほうが緊要であり、そこにこそ、第三代創価学会会長にたいして氏が寄せる関心の中核があると見られるのである。
 このように突っこんでとらえずに、うわべだけで二人の話のやりとりを追っていくと、皮相な見かたに終わってしまう危険がじゅうぶんこの対話には蔵されている。たとえば、「禅と武士道」と語るマルローを貴族主義的ないし反平和主義的と臆測しうるように。また、軍縮会議のための話しあいの必要性について語る池田氏を理想主義的、「条約や協定は、けっきょくたいして重要でない」と答えるマルロー氏を現実主義的と判断しうるように。核全廃を主張する池田会長の言葉をマルローはかならずしも理想主義的とは聞かなかったであろう。なぜなら政治の立場から見てこそユートピックと見えるのであって、それはマルローの観点ではないからだ。「広島・長崎の日本が核全廃にむかって世界の先駆をきるのは歴史的使命」というように滔々と語る学会会長の言葉を、相手は、とくに首肯することなく傾聴するにとどまっている。フランスが核保有国だからではない。そのような《歴史的使命》を達成させるためにこそ、いかに垂示者が民衆を引っぱっていくことが必要でしょう──と、マルローとしては言いたかったことと思われる。
3  『沈黙の声』から『神々の変貌』にいたるマルローの美術論そのものが、いかにこの核心のまわりに思索の懸河を織りなしてきたことであろう。真理の立場よりすれば外観は虚飾にすぎないとの観点──いっさいの宗教の根底そのものであるこの礎石一個をはずしてしまえば、おそらくダ・ヴィンチ以後もっとも重要とみられるこれらの形而上学的反美学の全楼閣は崩壊してしまうであろう。ということは、とりもなおさず、マルローの美術論、いや、おそらく文学そのものが、がんらい宗教にあって美術にはない、ある本質的問いより発想されたものであり、ここからして周辺の誤解・無理解のいっさいは生まれてきたということである。近著『仏法・西と東』において池田氏は「衆生の内なる生命が本体であるにもかかわらず、外なる仏像が本体になるのは転倒」と述べているが(「美術として見る場合はまったく別」と断わりながら)、この見かたをマルロー氏は否定しないであろう。かつてパスカルの同様の見かたを否定しなかったとおなじように。宗教(というよりも信仰、そして信仰というよりも法)を選べば、“造型”は消える。だがもし、宗教を選ばないとなると?……
 真理の一語をめぐって両人の出会いを見るとき、したがって信仰者と非信仰者との出会いというふうにそれを見るならば軽率のそしりを免れないであろう。俗に、信ずる者は強し、という。では、「信じない」マルローは強くなかったであろうか? 祖父をも父をも自殺によって失ったマルローである。最近著『冥界の鏡』においては、レジスタンスの一指揮官として独軍の捕虜となり、明日の死刑を期して福音書を翻読しつつもなお「自分が《真理》から決定的に切り離されている」ことを再確認したマルローである。が、そのために、彼自身、自殺の道を選んだであろうか?
4  ここで私たちは、まったく未知の、不可知論と行動の関係の図式のうちに導きいれられるのである。だが、ほんとうにまったく未知の? たしかにパスカルの、《賭け》の原理があるにはあった。『パンセ』の著者にとって、信仰は、信じられないながらも「神はある」ことのほうに賭ける跳躍の行為であった。不可知論は行動を妨げなかったのである。ときには犠牲にいたるほどの。そして旧約の大予言者から聖アウグスティヌスをへてマイスター・エクハルトにいたるまで、西欧の空は、このパスカルの《隠れたる神デウス・アブスコンデイトス》をつつむ夜の神秘家の思想によって、いかに閃々と貫かれてきたことであろう。アンドレ・マルローも、神は不可知であるとするこれら神秘家の列に加えられることを拒否しないであろう──もし、かれにして、不可知のままについにこの神を容認しさえするならば。だが、彼にとって、ひっきょう「街々の十字架の告げ知らせる信仰」はないのである。しかも、「神はない」ことのほうに賭ける行為を選ぶということなく。彼は、ただ、人間の根源的《悪》にたいして対抗して出る行為に身を賭けるのみである。「不可知論者にとって悪魔にたいする可能な定義はこうだ」とマルローは『空想美術館』で書いている。「すなわちそれは、人間のなかにあって人間を破壊しようとするもののいっさいである」と。神はある、ということは疑わしい。しかし、悪魔のほうは、確実に実在するのだ。戦慄のスペイン画家ゴヤからマルローがただ一点選んだ絵は、人間を貪り喰う怪神サチュルヌの絵であり、そこに彼は《人間の条件》そのもののシンボルを見たのであった。行動は、したがって、神があろうとなかろうと、この条件そのものとの無限闘争を意味する結果となる。
 不可知論をめぐるマルロー=池田両氏の対話において重要なことは、二人がその信ずるところにおいて出会わず、行うところにおいて出会っているということである。彼岸の生を信ずるかとの学会会長の質問にたいして相手は、「不可知論は懐疑ということではなく、イコール信仰と同様であって、死を考えることは不可能であるということの肯定です」と答えているが、これは私の胸に、マルローについて忘れえざるある手紙の一節を想いださせるものである。バングラデシュ義勇軍を興して長征する日を待ちつつあった時期のマルローに私が問い、彼が答えた往復書翰の一節は、つぎのようであった。
5  ──不可知論アグノスチシスムの立場でありながらなおかつあなたに正義の行為をとらしめるものはなにか?
 ──不可知論とはいえ、要するにそれは、信仰以上のものでもなければ信仰以下のものでもない。それに、私がある行動を選ぶとき、はたして私がその行動を選んだといえるだろうか、それとも行動が私を選んだといえるだろうか?
6  《行動》によって人間が別個のなにものかになりうることを信ずる立場の表明として、私はこれ以上の深い言葉を知らない。かつて日本において「行動主義」の名のもとに華々しく喧伝されたような「行動を信ずる」立場の表明ではない。「人間がかぎりなく人間をこえうることを信ずる」信仰告白アクト・ド・フォアなのだ。
 そして、どうしてそれが《人間革命》を標榜する池田会長の信念と共通しないはずがあろうか?
 同氏が最初マルローに魅かれて接近したのは、やはりバングラデシュへの義挙がきっかけだったと聞く。行為が人間を告げたのだ。そして世界中のどれほど多くの人々、とくに若者が、この人間、万人に属する《人間》に感じて別のなにものかに成っていったことか──私はそのいくたの例を知っているのである。
7  ここまでくると、東西の対話、というふうに、もはや本書の意義を簡単に規定することはできないであろう。「死後存続を信じますか?」との前述の池田会長の問いは、西洋が東洋に発した問いであってもおかしくないであろうし、同様に、「あなたの眼には人間にとってなにが最重要と映りますか?」とのマルローの問いは、東洋から西洋への問いであったほうがむしろ自然と思われるほどである。そして池田会長が、人間変革を語りながら同時に「現涅槃」を信じ、マルローが人間を《変貌メタモルフオーズ》の運命のなかにあると信じつつ、しかも人間性の究極の与件とされる《サクレ(聖なるもの)》を信ずる立場にあると考えるとき、いよいよ「東西」の語をもって両人の対話を規定することは困難になってくるのである。東西の対話、あるいは信仰者と不可知論者との対話という以上にこれは、明日の人類の運命そのものにたいする共通の問いではなかろうか? ときに問いは共通に発せられていると思われるほどであり、要するに、《持続するもの》によって《持続せざるもの》が、永遠の立場によって私たちの世紀が、最後の形而上学的情熱によってテクノロジー文明が問われているのである。ただし、人間と歴史への変革の意志をうちに秘めて。マルローは「人間形成」と言い、池田は「人間革命」という。「人間にとってなにが最重要ですか?」との問いに、愛・希望・永生……といった諸価値の語彙をもって答えず、変革による価値創造の必要性をもって答える対話者の言葉にマルローは注目したことであろう。人間を変えずしてなにを変ええようか? これは永遠なる宗教的命題であり、マルクス主義のアンチテーゼである。ところで重要なことは、史上空前の物質的解決をせまられた二十世紀末の人類にとって、この宗教的命題が歴史的命題──しかも緊急令の相をおびてきたということである。
 「世界の人々を覆っている一ばん深い諸問題は、じつは簡単な形をとって現れうるものです」との本対談中でのマルローの指摘は、このへんの情況を踏まえた発言と見るとき、その意味がはっきりしてくることであろう。ローマ・クラブ以来──ということは「アポロ以後」というのとおなじ一九六九年後ということだが──世界の現実は《問題複合体プロブレマチツク》として捉えられるにいたった。コンピューターによる問題解析能力との連動によって。東に饑饉ありといえば西の食糧備蓄を示し、南に旱魃ありといえば北の備蓄を示唆する、といったふうに。社会のイメージは地球のイメージとなり、グローバリズムの一語は人類の錦の御旗となった。しかし、いっぽう、人間は個人となり、さらに単位になりさがった。この単位が、核攻撃のボタンを押すのである。人類史の最大のアイロニーは、最高度の複雑な問題を解く能力を有しながら、単位より人間への簡単な復帰の図式を解く点において無力なことであり、ここに、「百年後の人類のために」進路の指針をもとめる池田会長にむかって「人間の権利=他者の権利」を教えることこそ最重要と説くマルローの言葉の真義があると見なければなるまい。
8  国連は、世界人権宣言を発した国連もまた、この点において無力であろうか?超大国間の確執の問題になるというとこれを回避しようとするこの国際機関にたいして、マルローは根本的に不信であり、いっぽう創価学会は「国連を守る世界市民の会」の世界的組織化を呼びかけている。ガンジーの名を引きあいにしてマルローが池田氏に「もしあなたがその真理(《人間の権利》即《他者の権利》)を説かれるならば、世界中の人々があなたの創られた大学へやってくるでしょう」と語るとき、ほんとうの意味で危機救済に必要な方法と彼が考えるものは、現存の巨大な国際機関といったものとはもっと別物である、というふうな含みをもっていたことかと思われる。
 それはいったい、どのようなものか? 過去にモデルをもとめることはマルローの本意ではあるまい。ただ、彼としては、確固たる方法論の実践化といった意味でローマ・クラブの例などを注視してきたことは事実であろう。昨年、ネルー平和賞で得た金を基金の一部として投げだし、ある種の方法論インスチテュートをつくるようにとインドに示唆したあたりにも、関心のありどころが窺われよう。また、もちろん、文化大臣マルローが十年間にわたってフランスの国土に建設せしめた、まことにオリジナルにしてかつ普遍的価値をもった文化会館の例も想いだされてくる。『聖堂が白かったとき』の名著を遺したル・コルビュジエも、これらの多角的芸術活動の殿堂の建設者の一人であった。たとえ“六八年五月ソワサントメ”の学生運動以後、変質の憂き目を見たとはいえ、意義としてなおこれらの会館メゾンは私たちをして顧みさせるだけの値打をもっている。いまにして思えば、これらもまた、明確に《人間形成》を理念として打ちだした一個の方法論インスチテュートだったのである。
9  信頼し、来たり、提案して、この西方の人は去っていった。学会会員の若い女性群が手に手にフランスの旗を振って“モナ・リザ大使”アンドレ・マルロー氏を本部に迎えたときの光景を、私は想いだす。歓迎陣に可憐な女性ばかりが配されていたことから、なによりも“レジスタンスの英雄”としてここではマルローは迎えられたという印象が、そのとき私には強かった。通訳としてそのとき私は同坐し(本多真知子さんとともに)、かくも豊富に流露する二人物間の思想の白熱球をさばくのに没念した。昼食を挟んでの短時間に、あまりにも多くの話題を投じようとしたためであろう、池田会長はものすごい早口で、しかし朗々と語りつづけ、祈祷文を読みあげるようなそのひたむきな気魄に私は打たれた。いっぽう、対するアンドレ・マルロー氏は淡々と、しかもあくまで真摯に、ときに機関銃のように打ちだされる質問を選別して、「だれでも避けることのできない死についてどうお考えですか?」と中途に挿入された質問にたいしては、軽くこれを制するように、「できればこの点については対談の最後にお答えしたい」と応じたのが印象的であった。
 闔国こうこくの人去ってまた来たらず……
 しかも『碧巌録へきがんろく』とは違って、一期一会は、こんどは池田会長のほうからフランスで、十七世紀の古風な館の“柴の戸”を叩くというかたちで再会の欣びにかわった。これには私は立ち会う機会を得なかったけれども。「ちょっと日本だろう?」──かつてそう言って邸前の藤の花房のまえにマルローはポーズしたことがあったが、きっとそのように、彼にとっての日本の象徴のもとに立って遠来の客を迎えたにちがいないと、私は想像したことであった。あの、フランスの象徴をかざして、彼を創価学会本部の門口に迎えた乙女らの波のように……
10  付記
 なお、本対談中に、アンドレ・マルロー氏より池田大作氏にたいして、海外での本書の出版権に関して絶対にそれを譲渡しないようにと要請があり、池田会長がそれを了承した旨をここに付記しておく。「もし、コピーライトはここに帰属するというふうにしますと、法的にはほかがまたそれを買えるわけですから、絶対的にほかに転載させないようにしていただきたい」との強い要請であった。
11  〔執筆者紹介〕
 筑波大学教授、コレージュ・ド・フランス客員教授、国際美術評論家連盟会員、人体科学会理事。
 一九三二(昭和七)年生まれ。東京教育大学大学院修士課程でフランス文学を修め、一九六三年、フランス政府給費留学生としてパリ大学に学ぶ。滞仏十一年、その間、フランス語による唯一の日本人評論家として、「ル・モンド」「フィガロ」「NRF」などに執筆、また講演家としても定評を得る。
 アンドレ・マルロー研究家として国際的に知られ、一九七四年来日したマルローに同行して、氏が皇太子殿下・妃殿下へご進講した際の通訳をつとめる。
 一九八八年、コレージュ・ド・フランス客員教授として招かれ、「アンドレ・マルローと那智の滝」のテーマで連続講義を行い、絶賛を得て、パリ、ジュリヤール社より出版。
 主著に『マルロー日本への証言』(美術公論社)、
 主訳書にアンドレ・マルロー『反回想録』(新潮社)。
 受賞として、一九八〇年にフランス政府より文芸騎士勲章、
 九八八年にコレージュ・ド・フランスより「王の教授」章。

1
2