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日蓮大聖人・池田大作

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社会主義国の印象  

「人間革命と人間の条件」アンドレ・マルロー(池田大作全集第4巻)

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2  池田 ソビエトは、いっていることはレーニン以来本質において同じだけれども、社会がそれに関係なく変化しつづけていることは事実でしょう。生産のための手段のうち、大きなものは政府が握るという方向は、すでにいくつかの資本主義国でみられております。一方、いまのソ連の計画経済で課題になっているのは、労働の能率をいかにして上げるかとか、需要を単に満たすといった段階から、人々の望む製品をつくるといった方向が、真剣に考えられているようです。
 これまでの社会主義国にとって唯一の目標といっていいのは、生産力の向上であった。しかしこれからは人間のメンタルな面、つまり人間の欲求にそって、それに応える形で社会主義を推し進めていかなければならないのではないか、と考えます。生産力第一主義ともいえるものの根底には、マルクス主義のイデオロギーからくるものがあります。マルクス主義の描く共産主義社会の理想は、飛躍的な生産力の発展により無限の富を噴出させ、人々は“欲するままに働き、欲するままに消費する”ことのできる状態として指摘されております。
 つまり生産力の発展はそのまま社会全体の進歩につうずるという“進歩信仰”にのっとったものでありますが、これはなにも社会主義のみならず、十八、九世紀のヨーロッパでは当然の思考であったし、つい最近まで人類に支配的な考えでもありました。しかしいまは、人間にとって進歩とはなにか──を問い直さなければならなくなっています。
 人間の欲求にそった経済活動への志向の根底にあるものは、やはり“人間”を原点にしていこう、という考えかたです。その意味でソ連でも資本主義国のように、たとえば一つの製品をつくるにしても、それが人々の求める製品であるかどうかを、やかましいほど問題にしています。同じ形の靴だけでは、いくらつくっても売れない、新しいファッションを──というわけです。
 こうして人類の経済は、資本主義国の有力生産手段の国有化や、社会主義国では資本主義国における経済活動の要素の導入によって、混合した方向に進んでいるとみます。いわば二つの体制のどちらがいいのか、といった次元ではなく、人類は一つの文明の実験を、いま行っていると私はみています。
 ところでヨーロッパでは「神は死んだ」といわれ、キリスト教の形骸化が、さかんに指摘されています。私など東洋の眼からみるならば、たしかにキリスト教は影響力を失ったとはいえ、まだまだ文化の根底に投影されているように思います。とくに無宗教の風土の強い日本からみると、キリスト教の人々の生活にあたえつづける影響というのは、まだまだ無視できないとみているのですが……。

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