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科学と宗教の新しい関係  

「人間革命と人間の条件」アンドレ・マルロー(池田大作全集第4巻)

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1  科学と宗教の新しい関係
 マルロー 十九世紀と比較して、われわれの世紀の発見は、科学がマイナスの面をもっているということです。十九世紀におけるもっとも賢明な人々のあいだでは、科学はマイナスにあらずと考える点では、まったく一致をみておりました。今世紀にあっては、こうした考えかたはほとんどありえないのです。十九世紀には、科学といえば、いわば病人を治してくれるものとの考えが一般だった。科学が人間を殺すといった考えはなかった。
 ところがわれわれにとって、原爆といった例は、まことに意味甚大な結果をもつにいたった。したがって十九世紀の人間のような考えを聞いたら、だれだってすぐに肩をすくめることでしょうよ。しかもわれわれとしては、こうしたマイナスの面をもっているのは、科学のみならずわれわれの文明全体であるということを、いまや、知っているのですからね。
 汚染の問題にしても、せいぜいここ三、四年まえからまじめに考えられはじめた現象です。だれでもいいから通りを行く人間をつかまえて訊けば、われわれの文明は物を製造してあたえてくれはするが、しかしなにものかを奪いとってもいく、そうした性質のものだ、という返事がはねかえってくることでしょう。
 池田 ご指摘のとおり、科学万能という信仰は完全に崩れ去っていますし、科学優位の考えかたも、日ごとに影をひそめていっています。このことは物質至上主義からの転換であり、私としては生命至上主義への変化の前兆とみます。つまり人間をもっと大事にしよう、人間生命の尊厳を守り抜いていこうという方向が、対科学という線から出てこざるをえない……。
 マルロー 同感です。科学のもたらした、ある種の発見が、人間と対抗するかたちをとるという考えは、まったく最近の概念そのものです。それというのも、これまで、重要な発明・発見にして人間に対抗するものとしては、戦争に関係のあるものしかありませんでしたから。ところが、こんにちでは事態は、さにあらず。
 つまり、われわれの時代以前には、人類という、この種の生命全体にたいするこれほどの脅威は、けっして投げかけられたことはなかったということです。なるほど昔も、中国全体がペストに脅かされたという事態はあるにはあったが、同時にエジプト全体がそれに脅かされるということはなかった。また、ヨーロッパ全体がペストに脅かされた時期に、中国がそっくり同じ脅威をうけたということもなかったのです。しかしいまでは、人類のみならず、地球そのものの破滅が問題にされるにいたったのです。
 池田 ええ。あらゆる問題が世界的規模で、グローバルなものとしてかかわってくる……。一地域、一国の問題が、もはやそこだけにとどまることはないわけです。しかも現代人はそのことを知っています。情報・通信手段の発達によりますが、一方ではそうした事態を知りつつ、無関心というか、自己とのかかわりでそれを把えようとはしない精神的風土もあります。
 たとえば今日も飢えに苦しむ地域がある。しかし自分たちの日常にはそうした問題はないというように……。結局は、これからは人間という存在が、他者の苦しみを本当に共有できるかどうかを問われていくと思います。二十一世紀の様相も、人間の心がどう変化していくかを、そのまま反映していくことになるでしょう。
 かつて、文明について語られた(『倒された樫の木』)ド・ゴール将軍との最後の会見記を興味深く読んだことがあります。そこでは、ローマ文明の退廃のあとに、予想されたストイシズムは姿を消し、かわってキリスト教が勃興した事実に思いをはせておいででした。テクノロジー時代のあとにつづく文明の性格について、鋭い直感をもって洞察されておられるようですが……。
 マルロー 現代は、科学の世界に、突然、動力ハンマーが上から落っこちてきたような時代です。今後の予測はひじょうにむずかしい。あなたもいま、指摘されたように、いまここでなにをいったところで、あたかもそれはローマ時代の哲学者たちが、自分たちの哲学の眼鏡をとおしてキリスト教の将来を予想できると信じたようなものになってしまうことでしょう。それと同様に私も、つぎの時代を予見するということはできません。
2  池田 人類にとっていまだ遭遇したことのない新しい現象なり、事態なりに直面している状況から、私は、これまで一般的には相対するとみられた科学と宗教の関係においても、新しい関係が生まれるのではないかと考えています。昨年お会いした時にもあなたが話題にされていたアインシュタイン博士は「宗教なき科学は不完全であり、科学なき宗教にも欠陥がある」といっていますが、このことばなど、科学と宗教の新たな関係の確立が間近なことを示唆したものと思うのですが。
 科学至上主義は、いまやさまざまな行き詰まりを露呈し、人間の科学にたいする指導性が要請されています。それを考えた場合、宗教の指導性を考えないわけにはいきません。すでに各方面からそのことの問題提起はされています。もちろん科学をリードする宗教は、科学性をその内に包含しつつ、人間事象を解明していくものでなければならないでしょうが。
 マルロー たしかに、科学と宗教の新しい関係は生まれつつありますが、これには二つの意味があると思います。
 第一は、こんにち科学は、とほうもなく大きな変貌をとげつつあるということです。十九世紀においては、ただいまのお話のとおり科学はほぼ全面肯定されていましたが、いまではそれは疑問視されている。第二に、宗教的要素についてですが、たしかにわれわれはそれが如実に再現されつつあるのを感じてはいます。ただ、どのような形をとるかということに関しては、まったくなにも知らないのです。それというのも、はたして既存の諸宗教の再生という形をとるか否かが、ぜんぜん明らかでないからなのです。
 ひょっとするとそれは、われわれが思いもおよばないような、なにものか、といった形になるかもしれません。とにかく測り知れない変化が起こるに相違ありますまい。さきに申しあげた精神革命としか呼びようのないような。
 池田 精神革命ですね。その考えは私たちの運動が目指す人間革命に通じると思うのです。
 マルロー 私もそう思います。たしかにこれまでの歴史のなかで、人類はいくつかの精神革命ともいえることを経験してきました。もっとも、十九世紀からこのかた、それは起こっていないようにみえますけれども、経験してきたということはたしかです。かつては、宗教の誕生のつど、ある種の精神革命がもたらされたものでした。仏教誕生の百年まえには、人々は、仏教の展開していく内容など思いもよらなかったことでしょう。仏教の誕生は、その意味でもまさに革命だったのです。
 こうした事態を考慮したならば、十九世紀にあっては現在のわれわれの時代がまったく想像もつかなかったのと同じように、いまから百年後に二十世紀文明と絶対的に異なる文明が起こりうるということが、当然、考えられてしかるべきでしょう。その場合、かつてヨーロッパにキリスト教がもたらした精神革命といったものが、ふたたび仏教によってもたらされないという保証はどこにもない、ということです。

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