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日蓮大聖人・池田大作

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平和への決断と行動  

「人間革命と人間の条件」アンドレ・マルロー(池田大作全集第4巻)

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2  池田 その歴史的政治ということについて、もう少し具体的にうかがわせていただけませんか。
 マルロー およそ三、四千年にもわたって、歴史的政治なるものはあったのです。人間も共同体も“決断をともなう方向”に従ってきたといえるのであって、これらの人間が、結局のところ世界の運命を変えてきたのです。
 フランスの例でいえば、リシュリューの時代まで、フランスは二流、三流の国家にすぎなかった。しかしその棺を覆うときは、フランスは世界一流の国家となっていたのです。この間に意志の行使があったのです。セソストリス(Sesostris,紀元前二〇〇〇年から紀元前一八五〇年までにあらわれた三人の古代エジプト王に与えられた名前、セソストリス一世、二世、三世と称せられる)からナポレオンまで、つまり農耕文明における大帝国の期間にあっては、こういった面で人類になにほどの変化もありませんでした。
 多くの事象に変化をきたしたのは一八七〇年ごろになってからのことです。それは、ドイツのヨーロッパ支配への野望が跳梁した時代であり、大英帝国の創建の時期にあたっていた。その後、アメリカとソ連の歴史的世界への登場となる。精神領域でいえば『資本論』『イエスの生涯』、ニーチェの初期の著述、さらにダーウィン、といったところでしょう。そうかと思うと、他方、ダイナマイトの発明もあった。一つの世界が終末に近づくや、なにものか別世界の事象が登場してくるものなのです。
 一九一四年(第一次大戦勃発の年)の時点においては、人はまだ歴史的政治なるものが存在していると思っていた。「思っていた」というわけは、じっさいには、すでにそれは明白ではなかったからです。ロシアに向かってドイツ人が「あなたがたにも自分たち同様に開戦への責任がある」といっているのは、あながち間違いともいえないでしょう。
 ところで、こんにちではどうか? 大国といえば、とりもなおさずアメリカを意味するが、ヨーロッパ的ないしローマ的意味での、アメリカの歴史的政治なるものは、けっして存在しなかったんですからね。モンロー主義などの歴史的決断はあったが、歴史的政治はなかった。
 では要するにアメリカにはなにがあるかといえば、なによりもまず、千差万別の権力があるといえます。個人的、集団的権力、また、政治家、国会議員の権力といったもので、これらの相矛盾する権力が歴史的意志に達するということは、まず、めったにありません。アメリカの意志なるものが、もしかりにも存在すれば、それは当然、世界の征服ということになるでしょうが、しかし現実にはそういうことはありえないのです。アメリカという国は、まじめにそれを模索することなしに当代における最強国となったわけで、この意味で、いささか奇妙な状態のうちにあるといっていいでしょう。
 ローマの考えていたことは、地中海の征覇ということでした。ナポレオンにしても、敗れさえしなかったらヨーロッパの征覇を考えたにちがいありますまい。この論理からして、もしも、アメリカの考えていることがあるとすれば、当然それは世界征服ということになる道理ですが、ところがそうはならない。ウィルソン大統領のごときは、持てるものは意思ではなく、モラルだった。
 こうして、英国にもはや大英帝国がないのと同様、現在では世界に歴史的政治はないということです。
3  池田 私はこうみています。つまり創造力と牽引力をもった文明が生まれていないということが、現代の歴史的政治の空白を招いている、と。それは、価値の多様化、多元化の反映ということの、一面では証明だと思います。
 ただ、人類の未来を考えた場合、どうしても各体制、各民族の相互理解が求められてきます。相互理解には当然、相互努力がその前提としてなければならない。対立や孤立主義ではなく、理解と協調の精神を時代精神にまで高めていく必要があるでしょう。
 大局的に考えて、崩れることのない相互理解と友好の精神基盤は、民衆レベルの人間対人間の交流においてしか培いえないと思うし、“平和への決断と行動”も、そうしたベースをつくらずしては観念の域を出ないでしょう。政治体制や民族のちがいや、いわゆる文明の進歩の遅速など、世界の状況は一つ一つをみると異なっていますが、人類がかつてない危機に直面していることはだれも否定できません。それを思えば、人間はまずみずからの人間としての尊貴さを自覚する必要があります。
 一民間人にすぎない私が、世界を駆けめぐっているのも、この尊貴さの自覚とそれへの共感にたがいに立つためです。この人間の尊貴さを守り抜くという決断こそ、いま要請される行動のもっとも底流を形成していかなければならないと考えます。
 つまり本当の意味での平和へ向かう人間の力を引き出すためには、人間にたいする徹底した洞察に立たなければ不可能ですし、人間の、さらにいえば生命の尊厳を守るという視座を確立することが必要です。国家や体制という枠組みのなかで、それらの権益の擁護や、利害・面子(メンツ)などが先行するのではなく、もっと人間そのものが前面に出て、人間としての共感が平和行動の軸となってくることを望みたいのです。
 行動のなかで人間の善性を信じ、可能なかぎり触発しあっていきたい──というのが、私の率直な心境です。さいわい米・中・ソ三国を訪問して、未来への危機感をバックに、たがいの善性を信じあい、「反目」を「信頼」に変えゆこうとの感触を、かすかでもうることができました。ソ連では、「中国の孤立化は考えていない」という発言を聞きましたし、訪中にさいしては、けっして侵略主義をとらないとの言を耳にし、また事実そうであろうと、その印象を強くしました。これは私の実感です。

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