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新しい騎士道を創り出すのはだれか?  

「人間革命と人間の条件」アンドレ・マルロー(池田大作全集第4巻)

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1  新しい騎士道を創り出すのはだれか?
 池田 ひじょうに鋭いご意見ですが、西欧でも、人間革命、宗教革命という意義と必要性がやはりありましょうね。
 そこでつぎに、哲学の問題をうかがっておきたい。「行動と思考」「存在ザイン当為ゾルレン」について──。
 人生観、世界観の問題というものは、洋の東西を問わず、有史以来、人類の大問題であった。特にこの問題が大きくクローズアップされるようになってきていることについて注目しています。
 ご承知のごとく、今世紀はじめは学問上にあって一大変革が起こった時代です。物理、論理、心理学、その他各ジャンルにわたって、古典時代から訣別して一大転換が行われた。それが応用化、技術化されて、こんにちの工業社会、情報社会が築かれているわけですが、この新しい学理に裏づけられた「存在ザインの客観認識」は異様なほどに長足の進歩をとげたものの、《存在ザイン》と対をなすべき、《当為ゾルレン》への自覚のほうは、はなはだおくれをとったと私は思っています。
 とくに先進諸国においては、当為の問題を意識的に回避したところに、二度の世界大戦、およびその後のベトナム戦争や中東紛争のような現実がまかりとおり、あるいは経済侵略めいた現象が発生し、あるいは人間疎外の進行が現れたと思っている。それが原因のすべてではないかもしれないけれども、当為の問題の放棄が大きい誘因の一つになっていると私は考えています。
 したがって、行動の人であるマルロー先生が、こういう点について、世界的視野の上からどのようにお考えなのかをおうかがいしたいと思います。
 マルロー 《義務》の概念は、技術に結びついているのではなく、私が先ほど申しあげた人間形成に結びついております。したがって、科学に対応するものは、義務ではなく、道徳教育であるといわねばなりますまい。
 《実存》の概念は深く形而上学的なものであります。実在にたいしてはそれはなんらの影響をもあたえないのです。実存に関して、あなたは、まさにマイスター・エクハルトのごとく考えておられます。形而上学そのものには(現実への)契機モメント(訳註1)がないのです。したがって、二つの正確な回答があたえられましょう。すなわち、義務の問題は教育の問題であり、実存の問題は形而上学の問題であると。
 池田会長が持っておられる大きな力について、どうしてジャーナリストたちは、それが新しいなにものかの創造であるといわないのでしょうか?
 ある種の新しい騎士道を創り出す以外に、この問題を解くカギはありません。
 池田 あなたのいう騎士道と武士道は、どう違いますか?
 マルロー 昔のままにあるというようなことはユートピック(理想的なことで、そんなことはまったく問題になりません。まず、可能なことから始めなければなりますまい。これは良識の問題です。
 池田会長にしたところで、一億人の日本人に歴史的武士道の精神をそのままに再現させるということはできないでしょう。まず熟慮より始めて、可能なことから実践することです。その可能なことが歴史的武士道であるとは思われないのであって、なぜならそれは時代によって形成されるべきものだからです。
 したがって未来の日本は、ある意味で、そうした不滅の精神的なもののよみがえり、あるいはフェニックス(不死鳥)というふうにいえると思います。
 池田 よくわかります。仏法では「浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり」と表現しております。より以上の深き哲学の道をいかなる非難中傷があっても勇んで進んでいくのが、新しい“騎士道”、“丈夫の心”といったものでしょう。ですから、その新しい光をよみがえらせる原点は、私は仏法にあると思っています。または、ひろくいえば本質的な意味での哲学ということになると思いますが、どうでしょうか?
 マルロー まさしく、そのとおりです。万人は自分自身の神をとおして真の神にいたる、ということであろうと思われます。(訳註2)
2  池田 われわれの人生は限られております。空間的に往き来できる範囲、行動の種類と内容、そして時間的には寿命のうえで限られております。だが私は、この有限の身でありながら、無限のものを求めたい……本能的ともいえる衝動を心のなかに持っております。
 幸いに長い信仰生活のおかげで、そうした衝動のうち、利己的な面でのそれはコントロールできるようになりましたが、反面、世界や社会の現状をみるにつけ、人類の百年後のためには、いま、私はなにをなすべきか、いかなるクサビをどのように打っておくべきか、可能なるそれはなにがもっとも適切か、そしてその手段は……と、日夜考えるようになって、この点における「無限の欲求衝動」を強く感じているしだいです。
 もちろん、それについて私は自分なりにビジョンを描き、実行にも励んでいるつもりですが、私たちのこの「百年後の人類のためには……」という未来にたいして、あなたのご意見もうかがっておきたいと思っています。
 マルロー 私がよくわかっているかどうか確かではありませんが、「人間の権利」というものを教えることが、やはり、この場合いちばん大事なことでしょう。しかしそれは、けっきょく、「他者たちの権利」を教えるということだと思いますが……。しかし、そのためには百年かかるでしょう。
 もし池田会長がこのような真理を説かれるならば、世界中の国の人々が、こぞって、あなたの創られた大学にやってくることはまちがいありません。かつてガンジーの真理が世界の人々を招いたのと同じことです。
 なぜなら、世界の人々をおおっている、いちばん深い諸問題というものは、じつは簡単な形をとって現れうるものであって、もっとも深いものはもっとも簡単な形で現れうるのであるという事実を、忘れてはなりません。
 池田 ひじょうに蘊蓄のあることばですね。
 ところで、最近は、世界的に学問・知識の複雑化と専門化にともなって、知識人はますます一般大衆から遊離した存在になりつつあります。この知識人の、大衆と現実のいとなみからの遊離が、この世界を野蛮な力の横行のなかにおとしいれる動因の一つになっているように思われるのです。あなたは果敢に行動する知識人として、世界にもまれなほどの生涯をつらぬいてこられましたが、現在ならびに今後の世界において、知識人はどうあるべきだとお考えになりますか?
 マルロー 第一に、芸術と知識とのあいだに溝はあるけれども、人間と、いわゆる宗教現象のあいだにはそうした溝は存在しないということを申しあげたいと思います。
 私がアインシュタインと会ったときにいわれたことですが、原子力の原理について人はよく自分に説明をもとめるけれども、自分があらゆる人に説明をするという立場ではない、といっておりました。このことが、ひじょうに私の胸にひっかかっている。そうかといってジャーナリストたちに直接に話をしてしまったのでは、どのように勝手につくられるかわからない。その中間にやはり学者が介在しなければならない──と、こういうのですね。
 これは科学についてアインシュタインが私にいったことですが、同じことを精神的領域についてもいうことができます。つまり精神的領域の真理なるものがあるけれども、これは、だれか、やはりそれを把握している人物というものがある。これを万人に伝えなければならない。けれども、まさか宗教的真理をジャーナリストたちに、いっぺんにいうわけにもいかないでしょう。その間にはいってくるタイプの人たちとはだれか?
 池田 なるほど……。しかし、まさにその点において知識人が物事を真正に判断し、さらにこれを公平に大衆に還元すべきではないでしょうか?
 マルロー アインシュタインは、あるジャーナリストが彼について本を出したとき、全体を見なおして、これはかくかくのジャーナリストが書いたものだけれども、自分はこれを読んだ、これでよろしい──とサインをしているのですね。こういうふうな形をとることによって、ジャーナリスト側が作業をすすめることが可能になったわけです。

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