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自由・平等・博愛と日本の伝統文化  

「人間革命と人間の条件」アンドレ・マルロー(池田大作全集第4巻)

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1  自由・平等・博愛と日本の伝統文化
 池田 さて、きょうはこの初対面の機会に、マルロー先生と、現代人が直面する課題について話し合いができることを本当にうれしく思います。ぜひとも日本全体、さらに世界の人たちのためにお話をうけたまわりたい。
 最初に、あなたは一九三一年から、しばしば日本を訪れておられますが、第二次世界大戦前の日本と戦後のこんにちの日本と、どこが変わり、どの点が変わらないと思われますか? またもし、日本についていやな点がありましたら、それはどんなことですか? フランスについてはどうでしょうか?
 マルロー 私の日本との結びつきは、とくに芸術面にかぎられております。したがって比較は、あくまでも芸術的領域での比較になります。戦前と戦後の大きな違いについては、いわゆる日本の最近の近代化(現代化)モデルニザシオンという面が、もっとも私の関心をひく点です。
 日本についてきらいな点は、これといってありません。というのは、日本にくれば、かならず人々の友情にしか出会わないのですから、どうしてきらいになることがありましょう。非難すべき点はなにも思いあたりません。
 日本について果たして変わった面があるかということですが、驚異的に変化したものは雰囲気(外的環境)であって、日本人の精神そのものは、まったく変わっていないと思います。九十年前から、日本のことを語る人々はつねに雰囲気を語っていますが、私に興味があるのは雰囲気ではなく、日本人の気質のほうです。それが深く変わったとは思いませんし、これからも古い精神を受けついでいくことでしょう。とくに禅と武士道を立派に融合しうる唯一の民族と感じております。
 こんにちヨーロッパは日本をもっとよく知る好機にあると申せましょう。それにしてもヨーロッパの人々に日本人と中国人の違いをはっきり説明することが肝要です。日本は中国ではなく、つぎの三つの点で、絶対的に、本質的に異なっているのですから。すなわち、愛と、死と、音階とにおいて。
 池田 一般に日本人には、つねに人間関係というものを上下の、タテの系列でとらえる根強い思考があるといわれています。それは日常の礼儀作法やことばづかいにまで現れているほど根深いものです。
 そうした関係のなかで、上に位置づけられた人間の横暴と、下に位置づけられた人間の卑屈とを生み出してきたように思われます。私の考えでは、この思考法が、日本の伝統文化の特徴である謙虚さを生み出したとともに、反面、日本をファシズムに導いた一つの有力な原因にもなったように思えます。
 フランスでは、大革命以後、人間をタテの系列でとらえる考え方は、基本的人権の原理の確立によって、打ち破られてきたわけですが、日本におけるこうした思考法の変革は、どのようにして可能になると思われますか?
 マルロー タテの関係とヨコの関係とがあるわけですね。ヨコの関係とはどういう意味ですか?
 池田 つまり、すべての人間が平等の人権をもっており、個々人のあいだの差別は社会における役割の違いであるという考え方に立っているような人間関係、平等観に立っての、いわば水平的関係ということです。
 マルロー まず、人権宣言にたいするマルクス主義の批判をご存じのことと思います。どんなマルクス主義者でも、フランス革命が宣言した人間の権利などというものは、プロレタリアートを支配するためのブルジョア階級の仮面にすぎないということでしょう。
 私はマルクス主義者ではありませんが、しかしこの自由・平等・博愛という有名な名句について考えますと、第一に《平等》とは法に属する問題であって、法律的見地から水平面の関係をみるかぎり、この概念の意味はまったく明らかと思われるのです。
 しかし、ご留意いただきたいことは、フランス大革命当時にあっては、《博愛》の概念のほうはまだなかったということです。
 自由・平等・博愛は、かならずしも同時ではない。博愛の概念は、のちになって育ったものです。革命より二年後につけくわえられた概念なのですから。たとえば、ナポレオンの軍隊は革命後に活躍しましたけれども、イタリアではボナパルトの旗にはまだ博愛ということばを載せていなかったのです。
 私の考えでは、博愛とは絶対に法的な概念ではなく、極度に深く非合理的であり、ほとんど宗教的概念といっていい。すべての博愛は水平的であり、タテ関係の博愛といったものはありません。博愛とは社会的平等を含むとはかぎらないもので、博愛自体はこのタテ関係を越えております。

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