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日蓮大聖人・池田大作

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人間――大いなるコスモス モスクワ大学記念講演

1994.5.17 「平和提言」「記念講演」(池田大作全集第2巻)

前後
2  貴大学の偉大なる創立者ロモノーソフは、逝去の直前に、高らかに謳い上げております。
  麗しき広大なる わが大地に
  悲運が襲う その時代にこそ
  私の歩み残した この道に続きゆく
  英知の青年を 息子たちを ロシアは生むだろう (斎藤えく子訳)
3  建学以来、二百四十星霜――。貴大学は、この創立者の魂の叫びに、厳然と応えておられます。なんと崇高なる、教育のロマンでありましょうか。
 「未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」とは仏典に説かれた一節であります。皆さま方、青年こそ、貴国、そして世界の「無限の希望」であることを、私は、深く強く、確信してやみません。
 さて、思えば一九七四年、貴大学から招聘いただき、初めて貴国への旅につこうとしたとき、私は、日本の多くの人から、詰問されました。「仏法者のあなたが、宗教敵視のイデオロギーの国へ、なぜ行くのか」と。この声に、私は一言、「我々と同じ人間がいるから行くのです」と答えました。
 以来二十年の歳月が流れ、ポスト・イデオロギーの社会にあって、いやまして、スポット・ライトを浴びているのは、「人間」及び「人間の生き方」ではないでしょうか。
4  例えば、現代ロシアの文豪ソルジェニーツィン氏の次のような提言は、その一つの証左でありましょう。
 「人間が立派であれば、どんな国家体制も良いものになるだろうし、人間が悪意にみちて互いに裏切るような間柄であれば、最も進歩した民主主義体制でも耐えられないものになってしまう。もし人間そのものに正義と誠実が欠けていれば、どんな国家体制になっても、必ずやそれが表面化するだろう」(『甦れ、わがロシアよ――私なりの改革への提言』木村浩訳、日本放送出版協会)と。
 すべては「人間」に始まり、「人間」に帰着するのであります。とはいえ、トルストイが、「不可解なもの、それは人間である」(『人生の知恵――トルストイの言葉』小沼文彦訳編、彌生書房)と慨嘆したごとく、古来、「人間」について、おびただしい考察がなされてきました。にもかかわらず、その謎が解明されたとは、とうてい、言えません。なかんずく、「心」という問題、また「幸福」に関しては、科学や経済の尺度だけでは、決して計り知れない課題であります。
5  更に、多くの精神的遺産があっても、現実社会で生かされているかというと、世紀末の暗雲の垂れこめている昨今、はなはだ、心もとないのであります。そうしたなかで、なおかつ「人間」に焦点を当てるとなれば、よほど鮮烈な光源をもって臨まねばならないでありましょう。
 私なりに、その問題意識を踏まえ、「人間――大いなるコスモス」と題して、若干の考察を試みさせていただきたいと思います。(拍手)
 「自らの命に生きよ!」――私の恩師である、戸田城聖創価学会第二代会長は、青年に、こう呼びかけました。あの第二次大戦中、二年に及ぶ投獄にも屈することなく、平和への信念を貫いた恩師は、あらゆる価値観が崩壊し、転倒した戦後の荒野にあって、「生命」という原点に立ち返り、汝自身の「人間革命」から出発していくことを訴えたのであります。それはまた、釈尊が残した、「自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る」(『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳、岩波文庫)というメッセージの再生でもありました。
6  いささか飛躍いたしますが、私は、貴国の文学者メレシコフスキーが掲げる「人間は自らの主たれ」という命題を想起するのであります。これは、彼の手になる『ピョートル大帝伝』の冒頭、三たび繰り返される有名な言葉であります。
 大帝の強引な改革を、どう評価するかは、西欧派とスラブ派との、間断なき競合の経緯に見られるように、ロシア近代史を揺さぶり続けた、最大の難問であることは、申すまでもありません。一部の人々にとって、大帝が、「反キリスト」を思わせる姿を見せていることもまた、周知の事実であります。
 私は、貴国の精神史の壮大な水脈を一貫して流れ続けているのが、「人間はいかにして、自らの主たりうるか」という永遠の問いかけではなかったか、と思う一人であります。これこそ、近代ロシアで、人類史上かつてなかったほど、熱烈に人々の心を占拠し、焼き尽くした主題であったとは、いえないでしょうか。一面からいえば、ピョートル大帝自身が、その問いに、生涯をかけて、答えを出そうと模索した巨人であったと思います。
7  プーシキンが、「おお 運命の威力ある支配者よ!」(『オネ―ギン・物語詩2』木村彰一訳、『プーンキン全集』2所収、河出書房新社)と呼び、ゲルツェンが、「ロシヤにおける最初の解放されたる個性」(『ロシアにおけ革命思想の発達について』金子幸彦訳、岩波文庫)と評したように、彼は、単なる改革者ではなかった。自らの運命と、ロシアの運命とを、あたかもアトラス(ギリシャ神話の「天を支える巨人」)のごとく、双肩に担い続けたのであります。それはロシアに限りません。西欧の近代文明の、有無を言わせぬ攻勢にどう対処するかは、他の文明にも、共通の課題でありました。
 それは、さしあたっては軍事技術や経済面での改革が優先されつつ、やがて文化面へと及び、自らの文明の主体性が脅がされ、自我の浮遊化をもたらしてしまうのであります。
 日本においても、近代の代表的文学者である夏目漱石は、若き日の自分を「ふくろの中に詰められて出る事の出来ない人」(『夏目漱石全集』10、筑摩書房)に譬えておりました。
 それから一世紀を経て、日本は、当時と比較にならない変化を遂げてまいりました。しかし、今の青年たちが、幸福かどうか、はたして現状に満足しているかどうかは、疑問と言わざるを得ないのであります。
8  「人間」が創造・建設の方向へ
 社会的な問題がない状態が、はたして幸せかといえば、それも幻想であります。そうした幸せは、流動的なものだからであります。現代日本の多くの青年は、いわゆる国家的目標はもたず、集団などに対する帰属意識も、希薄なようであります。
 確かに、かつてない自由がありますが、その一方で、明確な目標もなく、なにかモヤモヤした心のカオスを抱えている青年は、決して少なくないのであります。常に煩悶の連続であるのが、人間の業といえるかもしれません。また、刹那主義や享楽主義の青年もおります。
 最近の高校生の国際的な比較調査でも、将来に希望をもてず、「今さえ楽しければ、それでよい」とする傾向が、日本では特に強いという結果が出ておりました。
 一時的な経済の繁栄とは裏腹に、精神文化が著しく停滞してしまったことは、否めないのが現実であります。
 それとは反対に、新しい世界の平和秩序を志向しながら、自分なりの使命感、国家観をもとうとしている青年もおります。
 また、「人生いかに生くべきか」という問題に、真っ正面から取り組んでいる青年もおります。
 その意味で、「善の方向」「建設の方向」「創造の方向」を見いだすべく、「哲学」また「宗教」への新たな希求が始まっていると私は見たいのであります。
9  こうした歴史の趨勢のなかで、人間はいかにして「汝自身の主」たりうるか――。
 このテーマヘの確かな解答を探求するとき、私が思い起こすのは、貴大学で教鞭をとつた大哲学者ベルジャーエフの名著『わが生涯』での、誠実なる回想であります。
 いわく、「私は私の人格の孤絶化を、自己内部に閉じ籠もることを、自己主張を、求めたのではなかった。私は宇宙のなかに開きでることを、宇宙の内実に充満されることを、一切との交わりをもつことを、求めたのである。私は小宇宙(ミクロ・コスモス)たらんと欲した」(『わが生涯哲学的自叙伝の試み』志波一富・重原淳郎訳、『ベルジャーエフ著作集』8所収、白水社)と。
 ここには、人間が自らの「主」となることによって、手にできる生の充足感、また、宇宙を呼吸しゆく生命空間の無限の拡大感など、いうなれば、大いなるコスモス感覚が、まぎれもなく、浮き彫りにされております。
 その輝きは、世紀末の闇を照射しゆく光源として、大乗仏教とも深い次元で通じ合っているように、私には思えてならないのであります。
 大乗仏教の知見では、信仰による生命変革、人間形成の特徴が、「開く」「具足・円満」「蘇生」という三つの角度から論じております。ここでは、こうした仏教的観点を「規範性」「普遍性」「内発性」の三項目に敷衍しながら、ロシアの力強き人間主義の脈動に注目してみたいと思うのであります。
10  第一に「開く」とは、依って生きるところの根本規範を、人間自身の内面から開いていく、という意味であります。仏教では、すべての人々に、「仏性」という仏の性分、すなわち、理想的人間形成の種子、可能性が平等に具っている、と洞察しております。
 この「仏性」は、金剛にして不壊、清浄にして無垢なる本質を有し、開示された「仏性」は、まさに「自らの主」として、人生の幸福を決定づける機軸となっていくのであります。
 しかし、日常的には、「仏性」は、様々な邪見、偏見、謬見びゅうけん(あやまつた見方)などの、煩悩の奥深くに埋没してしまつております。ゆえに、幾層ものが分厚い外皮を破って、潜在している「仏性」への突破口を開き、全面的に開花させていかねばなりません。
 「開く」とは規範の開示であります。仏とは、どこか遠くの神秘的な存在であると捉え、我が生命に「仏性」があることを信じられない人々のために、『法華経』では、数々の譬喩が用いられております。
11  その一つには――ある貧しい人が、裕福な友人の家へ遊びに行った。歓談しているうちに、彼は寝込んでしまう。友人は彼のためを思い、着衣の裏に高価な宝珠を、そっと縫い込んであげた。翌朝、それを知らずして友人宅を去った彼は、自分が宝珠を持っていることに、少しも気づかず、貧乏暮らしの苦労を続ける。何年かのち、友人は、相変わらず、みすぼらしい彼を見て驚き、縫い込まれた宝珠の所在を教えてあげると、貧人は大いに歓喜した――とあります。この宝珠とは、知ると知らざるとにかかわらず、すべての人が平等に有している「仏性」のことであります。
 このように、仏性とは、生きるうえでの根本規範であり、かつて古代ギリシャの数学者アルキメデスが「私に立つ場所を与えるなら、地球をも動かしてみせる」と語った、堅固な足場、つまり″アルキメデスの支点″にあたるのであります。こうした根本規範に目覚めた人間ほど、強いものはないでありましょう。
12  ここで、私の大好きなトルストイの大作『アンナ・カレーニナ』を連想すれば、作者の自画像といわれるレーヴインが、「われとは何か、なんのために生きているのか」(中村白葉訳、『トルストイ全集』8所収、河出書房新社)等々、いわば「規範」への求道を続けるなかで、一農夫の言葉から新境地を開いていく、有名なシーン(場面)があります。
 「ある人間は、ただ自分の欲だけで暮らしていて、ミチュハーなんざその口で、ただうぬが腹をこやすことばかりしてるですが、フォカーヌイチときたら、正直まっとうな年よりですからな。あのひとは、魂のために生きてるです。神さまをおぼえていますだよ」(同前)と。
 この無名の農夫の言葉は、電撃のように、彼の心を貫きます。
 魂と魂との触発という点では、世界の文学史上でも屈指の、既舞鰭やかなシーンであります。まさしく、「魂のために」と形容される規範を獲得することによって、眼前に、思いもかけぬ生命世界が、みずみずしくも絢爛と、開示されていくのであります。こうした″暗″から″明″、″闇″から″光″への回心のドラマは、トルストイの世界に、しばしば登場いたします。それは、初期の『コサック』などに、荒々しい原初の姿を帯びて描かれ、『戦争と平和』のピエールや、このレーヴインの思索へと連動しております。その、苦悩と試練の果てに、忽然と開けゆく人間的な大感情は、むしろ未完成なるがゆえに、かえって重厚な余韻を漂わせつつ、青年の琴線に響くのではないでしょうか。
13  仏教に対するトルストイの造詣は、よく知られておりますが、彼の天才がつむぎ出す「生のダイナミズム」は、なかんずく法華経で説かれている躍動感あふれる生命観と、強く共鳴し合っております。
 それはまた、生命の本然的な凱歌にほかならないと、私は申し上げておきたいのであります。
 いずれにせよ、「人間は考える葦」(パスカル)であります。
 自分自身の確固たる人生観、社会観、宇宙観を築き上げるところに、人間としての証があるといってよいでありましょう。
 自分で目的を創り、自らよしとして、悔いなき人生を生ききった人こそ、幸福なのであります。
14  第二に「具足・円満」とは、開示された規範は、決して部分観や差別観であってはならない。つまり、人間同士はもとより、自然や宇宙をも平等に余すところなく具足する、全体観、包括的世界観でなければならない、ということであります。
 従って「具足・円満」とは、生命が、世界から宇宙へと「普遍性」を獲得し、拡大しゆく姿であるといってよいでありましょう。
 これは、科学や理性でいう普遍性とは、次元を異にしております。なぜなら、そこでいう普遍性は、現実と切り離された抽象的次元で、自己完結しており、いわば、非人称的で画一的な世界だからであります。
 その次元では、確かに強力な力を発揮し、事実、科学技術文明は、加速度的に、世界を席巻してまいりました。しかし、かつてない大量死(メガ・デス)の悲劇を経験してきた今世紀の人類は、科学や理性の働きを手放しで楽観できるわけでは決してありません。
15  万物と「共に生きる」生命感覚
 私の申し上げたい「普遍性」とは、人間・自然・宇宙が共存し、小宇宙(ミクロ・コスモス)と大宇宙(マクロ・コスモス)が、一個の生命体として融合しゆく「共生」の秩序感覚、コスモス感覚であります。
 「共生」を、仏教では「縁起」といいます。「縁りて起こる」とあるように、人間界であれ、自然界であれ、単独で生起する現象は、何もない。万物は互いに関係し合い、依存し合いながら、一つのコスモスを形成し、流転していく、と観ずるのであります。
 ゆえに、そこでは、万物一体の生命感覚の広大な広がりのなかに、理性をどう正しく位置づけていくかが 、大きな課題となってまいります。
 その点から見ても、トルストイが描写する、レーヴィンの感受性は、まことにユニークであります。夏の暑い日、森の中の草の上に、仰向けに寝ころんで、一片の雲もない大空を眺めながら、彼は一人考えます。
 「無限の空間についての知識はりっぱにもちながら、はっきりした青い円天井まるてんじょうを目にすることも、疑いなく正しいのだ」(中村白葉訳、前掲書)と。
 宇宙を「無限の空間」と認識する知性の眼とともに、「青い円天井」と見る感性のほうも、また正しいとするこの独自は、古色蒼然たる″天動説″への逆行などでは、全くありません。それは、研ぎすまされた、鋭敏な精神によって可能な、先見的な近代批判の結晶であります。しかも、以来百数十年を経た、現代科学の知見は、必ずしも、宇宙を「無限の空間」とする見方に、軍配を上げるとはかぎらないのであります。レーヴインのこうした「普遍性」の感触は、従って、合理主義の壟断する、荒涼たる世界ではない。喜びや癒し、愛や献身、憐れみや共感など、人間性の温もりを伝えながら、生々躍動している、宇宙生命の鼓動そのものであると思うのであります。
16  民族問題を超える和合のヒューマニズムを
 特筆すべきは、トルストイの放射する「普遍性」が、当時も今も国際紛争の一凶である、民族問題の閉鎖性に、実に的確な問い直しを、促していることであります。
 セルビア戦争への参加を義挙として燃え上がった自己犠牲への民族的熱狂に水をさすように、レーヴィンは言います。
 「しかし、単に犠牲になるだけでなく、トルコ人を殺すんじゃありませんか」
 「民衆が犠牲になり、また犠牲になるのをいとわない気持でいるのは、ただ自分の魂のためであって、殺人のためではありませんからね」(同前)と。
 こうした生き生きとした「普遍性」の光彩なくして、ヒューマニズムやグローバリズムの地平には、いつまでたっても到達できないでありましょう。
 とともに、人生の生き方にあっても、崩れざる絶対的幸福とは、他者のために尽くしながら、「小我」から「大我」へ、自我を拡大しゆくなかにこそ築かれるものであると、私は思う一人であります。
17  第三に「蘇生」とは、物事を固定化せず、「今日より明日へ」と蘇りゆく創造的生命のダイナミズムを保ち続けることであります。
 ギリシャの哲人ヘラクレイトスいわく、「万物は流転する」と。
 仏教でも、物事は、一時として同じ状態にとどまらず、いかに堅牢に見える鉱石も、いつかは摩滅し、損壊していく運命を免れないと説きます。まして人間社会は、すべてが、変化変化の連続であります。
 ゆえに、現状に安住しようとする惰性の殻を打ち破り、その内なる変化の律動を、敏感に聞き取っていくことこそが、万物を蘇生させゆく要諦となります。
 私どもの信奉する仏法では「自身法性の大地を生死生死とぐり行くなり」と説いております。永遠の生命を貫く本源的な蘇生の力が、人間自身に内在することを、明快に示しているのであります。
 まさしく、「蘇生」とは、「内発性」の異名であります。
 この「内発性」ということは、ともすればドグマ(教条主義)に呪縛されがちな宗教にとって、何にもまして心せねばならない肝要中の肝要といってよいでありましょう。
18  この点、トルストイの分身たるレーヴィンは、「神性の現れ」を、自分のうちに感じながら、こう自問しております。″ほかのユダヤ教徒や、マホメット教徒や、儒教の徒や、仏教徒――彼らは、この最善の幸福を奪われているのだろうか?″と。
 レーヴインが実感している「善の法則」は、まぎれもなく、内発的な啓示であります。その幸福は、キリスト教徒に限られているのか、異教徒はどうなるのか? 彼は、こうした懐疑を「危険」な問いかけであるという。
 しかし、宗教がドグマや狂信に陥らないために、絶対に避けて通れぬ問いかけであります。
 なぜなら、レーヴイン的懐疑こそ、内面を見つめ直し、日々新たな自分を作り上げていこうとする内発的な力であるからであります。
 それは古来、人格的な価値の枢軸を成す「謙虚さ」、そして「寛容さ」を生み出す母体でありました。
 また、その「内発性」をおろそかにしたがゆえに、宗教史には、独善や傲慢が横行し、「宗教のため」に人間が傷つけ合うという転倒が繰り返されてきたのであります。
19  先ほど申し上げた「規範性」には、依って立つ足場に対する確信が、当然、ともなうでありましょう。しかし、レーヴインのように、その「規範」の正しさを常に問いかける内省の眼があってこそ、「規範」は化石化せず、生き生きと創造の営みを続けられるのであります。
 逆に言えば、謙虚さや寛容さといった内発的な人格的価値に結実しない「規範性」は、どこか虚偽やごまかしがあると、言わざるを得ません。
 「規範性」と「内発性」は、両々相まってこそ、優れて人格的な力となっていくわけであります。
 ゆえに強い人ほど謙虚であり、確信の人ほど寛容なのであります。
 そうした人格形成を支え、「自らの主たれ」と励ましていくのが、真実の宗教の使命ではないでしょうか。だからこそ、仏典では、「心こそ大切なれ」という簡潔な言葉で、「内発性」を勧めております。
 また、釈尊の生涯の最大の目的を「人の振る舞い」として、人格の錬磨、完成こそ、修行の眼目と位置づけているのであります。
20  改めて論ずるまでもありませんが、「地球的連帯の世紀」へ向け、宗教、民族、国家などの壁を越えた「平和への対話」と「文化・教育の交流」が、ますます要請されております。
 とともに、無原則な離合集散ではなく、それぞれが、こうした人格形成の競い合い、いうなれば「世界市民」輩出の競争をしゆくことが、より創造的であろうと、私は思うのであります。いずれの社会にあっても、よい意味での競い合いこそが、進歩の法則だからであります。
 「創価教育」の原点である牧口常三郎初代会長は、日本の軍国主義と戦い、七十三歳で獄死いたしましたが、既に今世紀の初頭、″人類は、もはや「軍事的競争」でもなく、「政治的競争」でも、「経済的競争」でもなく、「人道的競争」の時代を志向すべきである″と提唱しておりました。その人道的競争にあって、我が敬愛するモスクフ大学の学生の皆さまが、二十一世紀のトップ・ランナーとして、さっそうと躍り出るであろうことを、私は期待してやまないのであります。(大拍手)
21  以上、仏教の知見をベースに、トルストイの名作に言及しながら、人間が「自らの主」となり、「大いなるコスモス」へと人格形成していくための私なりのアプローチを「規範性」「普遍性」「内発性」の三つの角度から申し述べさせていただきました。
 ともあれ、未来世紀を指呼の間に望み、カオスをコスモスに転じゆく主役、機軸となるのが、「人間」であります。
 宗教も哲学も、文化や政治、経済も、その一点へと、収斂されていかねばならない時代であります。
 私もまた、皆さま方と手を携え、この人間復興の大道を、力のかぎり走り抜いていく決心であります。
 終わりに、「詩心の国」ロシアの美しき詩の一節を、皆さまに棒げたいと思います。
22   大空にあって 大胆たれ!
  歓喜のなかに 己が使命に目覚めよ!
  ……… ………… …………
  見よ! 陽光が
  時に 空を金色に染め
  時に 薄雲に見え隠れする
  銀の月は 漂い
  田園には 春の美しさが萌え出でて
  薔薇のつぼみふくらむ
  草の下には 清流が流れ
  岡の上では 葡萄の枝が輝き
  静寂しじまの中に そよ風の吐息が洩れる
  すべてが 君のものだ
  歓びをもって 人生の華を勝ちとり給え
23   天の恵みを 安らかに受けよ
  この世は 悪しき快楽と不幸の谷間には非ず
  君よ! 幸福なれ
  迷うことなかれ
  なべての恵みの源を忘れまい
  『真実』と『法』を尊び
  世の人々に 善をなし給え
  その時 君は なんの畏怖もなく 無常を去り
  そして 闇にあって 暁を信ずることだろう  (斎藤えく子訳)
24  プーシキンが謳ったとされる、この詩のごとく、闇が深ければ深いほど、暁は近い。希望あるかぎり、幸福は輝くのであります。
 新たなる人類文明の希望の暁――その時代を、諸先生方とともに、皆さまとともに確信しながら、私の講演とさせていただきます。
 ご清聴、ありがとうございました。スパシーバー(ありがとうございました)
 (平成6年5月17日 モスクワ大学・文化宮殿)

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