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教育の道文化の橋――私の一考察 北京大学記念講演

1990.5.28 「平和提言」「記念講演」(池田大作全集第2巻)

前後
1  本日は、北京大学を訪問し、多くの教員や学生の皆さま方にお会いでき、大変うれしく思います。また、ここに、北京大学初の「教育貢献賞」を賜り、まことに光栄に存じます。
 工学珍校務委員会主任、呉樹青学長はじめ、ご列席の諸先生方、更には私の著作の刊行にご尽力くださった北京大学出版社の麻子英社長、またここにお集まりの学生の皆さまに、衷心より感謝申し上げます。大変にありがとうございました。    、
 なお、創価大学の教職員、学生一同も「くれぐれもよろしくお伝えください」と申しておりましたので、お伝えいたします。(拍手)
 ご存じのように、創価大学は、貴大学との間に学術交流を結んだ、日本で最初の大学であります。協定の調印以来、本年ではや十年の歳月を刻むに至りました。これもひとえに、貴国並びに貴大学の友誼の賜物にほかなりません。この席をお借りいたしまして、謹んで御礼を申し上げます。
2  既に私は、貴大学より名誉教授の称号のほか、日本研究センターでは顧間としての栄誉をいただいております。また、これまで六回にわたって、貴大学を訪問するたびに、皆さま方はいつも変わらぬ友誼の笑顔で温かく迎えてくださいました。
 いわば″北京大学の一員″として遇してくださる皆さまの心に包まれ、私も懐かしき我が″母校″に帰ってきたように胸を躍らせております。その″母校″の恩に報いるためにも、私は貴大学のより一層の発展のために今後、更に力を尽くしてまいる決心であります。
 さて、本日は「教育貢献賞」受賞の記念講演を、ということになっておりますが、大学での講演は、いつも、つくづく難しいものだと思っています。
 それは、話が長くなれば飽きられてしまいますし、短くては、学問的蓄積がないのではと笑われてしまう(笑い)。また、あまりにやさしすぎては最高学府の大学には、ふさわしくないと言われ、難解すぎると、あまり咀嚼しないで話をしているのではないかと非難される(笑い)。まことに大学での講演は難しい(爆笑)。
 しかし、本日は、講演者の宿命的ともいえるこの課題に挑戦しながら、少々、お時間をいただき、「教育の道 文化の橋――私の一考察」と題し、お話しさせていただきたいと思います。(拍手)
3  以前より私は、教育こそ″我が人生総仕上げの事業″と心に決めてまいりました。未来を開き、未来を育むといっても、その主体は「人間」にあるといってよい。「人間」をつくりあげる事業こそ、すなわち教育にほかなりません。「人間」の内なる無限の可能性を開き鍛え、そのエネルギーを価値の創造へと導くものこそ教育です。いわば教育は、社会を築き、時代を決する″根源の力″であります。
 とりわけ現代は、高度に細分化された「知識」が氾濫している。他方、それらを統合しうる人間の「知恵」の力、深き人格の力が求められる時代ともなってきた。また、史上かつて見ない「国際化」の時代を迎えていることから、教育は今後、一国のみならず、地球の未来を開く大業として、ますます重要度を増すでありましょう。
4  「人間の完成」が教育思想の伝統
 では、教育の未来を考えていくうえで、拠るべき″礎石″は何か――。それを思うとき、私の脳裏には、中国における教育思想の光輝に満ちた伝統が浮かんできてやみません。私はそこに、「人間」の完成へ向けられた滔々たる″情熱の大河″を見る思いがするからであります。
 人間教育に関する英知において、古代ギリシャ人と中国人は双璧をなしたといっても過言ではありません。事実、人間性の完成、人格の陶冶を目指す教育の「理念」、「カリキュラム」をめぐっては、両者とも、まことに精緻・深遠を尽くしたといえましょう。
 一例を挙げれば、古代ギリシャ人にとって教育の眼目の一つは、個性の開発にあった。すなわち、一方的に″教える″ことではなく、一人一人が秘めている可能性を″引き出す″点にありました。いわばこうした「学習者の自発能動性」の重視は、かのプラトンが自ら主宰するアカデメイア(学園)で、学習者相互の啓発と個性の発現をもたらす「対話」を重んじたことにも表れております。
5  同じく東洋においても、人間教育の思想がここ中国に芽吹き、大きく開花いたしました。例えば諸国を遊説し、政治に希望を失ってなお、後進の人材育成に心血を注いだ貴国の先達は、「教」つまり「教える」人ではなく、「育」、「育てる」人として述べております。「啓発」という言葉のもととなった「憤せざれば啓さず、せざれば発せず」(学び苦しむ熱情がなければ、何ごとも実らない)と。また「一隅を挙げて三隅を以て反さざれば、則ちふたたびせざるなり」(四角い物の一つの角を教えて、他の三つの角を悟らない者には、何を教えてもむだである)など、ほとばしらんばかりの学びの意欲と自律を厳しく求めた指導法。「学問」、すなわち学ぶことと問うことの双方に同じ比重を置いたうえでの対話の勧奨など、いずれも深き人間洞察から発する卓見であり、中国文明に宿る人間教育の″祖型″の光を、私はそこに強く感ぜざるを得ないのです。
6  近年、こうした東洋の教育思想の光源に世界の識者も改めて注目するようになってまいりました。
 その一人、アメリカ・コロンビア大学のウィリアム・T・ドバリー教授は『朱子学と自由の伝統』(山口久和訳、平凡社選書)と題する著書の中で、中国思想の底流にある″自由主義″の系譜をたどるとともに、例えば、互いが自論を交換しあう「講学」という教育の在り方を通して培われた、学問の場における相互扶助・相互啓発の精神を論じております。こうした古代ギリシャや中国の教育思想で、私が感嘆してやまないのは、第一に、常に人間が機軸に据えられていたことであります。
 ルソーが鋭く指摘したように、ギリシャ神話にあっては、神々のために人間が血を流し合ったのではなく、人間のために神々が戦ったのであったし、また、貴国においても先哲が「怪力乱神を語らず」と、超越的なものを拒否したことは、申すまでもありません。
7  第二に、人間の内面的陶冶が第一義とされているものの、そこにとどまらず、すぐさま経世済民の実践ヘと転じゆく、強い倫理性を帯びていたということであります。
 古代ギリシャにあっては、例えば、もっぱら魂の位階秩序を整えんとするかのようなプラトンの主著は、何よりも「国家」論として構想されたものでありますし、プラトン自身、晩年にいたるまで燃えるような政治的関心と情熱を抱き続けました。中国の伝統にあっても、有名な『大学』八条目のうちの前半部分――すなわち「格物」「致知」「誠意」「正心」は、後半部分の「修身」「斉家」「治国」「平天下」の条目に示されている、いわば″平和への王道″を歩むための、欠かすことのできない前提とされてきました。
 ここに留意すべきは、私があえて「古代ギリシャ」と言わざるを得ないように、プラトンやアリストテレスの思想は、ギリシャ社会の中での歴史的継承という点では明らかに断絶があり、主として文明的・知的遺産として受け継がれてきた。
8  それに比べて中国にあっては、あのような巨大な版図と巨大な人口を擁する一大文明圏のエートス(道徳的気風)として、しかも三千年の長きにわたって、断絶することなく生き続けているという事実であります。その人間教育への情熱は、単に儒教的なるものに限らず、広い意味での教育という人間的営為を通して、カオス(混沌)のなかからコスモス(秩序)を作り出そうとする、たゆまざる意志と言い換えることもできましょう。
 その大河のような流れの中には、文化の発展と社会の安定の基盤は「民衆」にこそ求められねばならぬとする王陽明の民衆教育論、あるいは明末清初の激動期に『明夷めいい待訪録たいほうろく』を著して学校における自治や実力本位の人材登用の必要を説いた黄宗義おうそうぎの学校論など、今なお刮目すべき所論が少なくありません。
9  もとよりそれが、常に全うに実現できたわけではない。教育の振興は、一面、試験地獄ともいうべき「科挙かきょ」の制度をも生み落とした。しかも、その儒教的教養は、もっぱら支配者層にのみ独占され、真に民衆のものにはならなかった。
 そうした点を考慮に入れつつも、人間の自己完成に即してコスモスを形成しゆかんとする中国の人々の秩序感覚、歴史感覚、更に言えば宇宙感覚は、例えば、マルクス主義導入にあたっての永久革命の思想に見られるように、今もなお脈打っていると思います。のみならず、それは、フランスの中国学の第一人者として知られるL・ヴァンデルメールシュ教授が「西欧文明に匹敵する一文明形態の出現が準備されつつある」(『アジア文化圏の時代』福鎌忠恕訳、大修館書店)とした「新漢字文化圏」形成のための地下水脈となっていくにちがいない。
 ある先哲は、中世的世界観を打ち砕いたコペルニクス革命のもたらしたものは、新たな世界像ではなく、世界像なき時代である、と述べております。そうした世界像なき時代が、ようやく黄昏時を迎えようとしている現代、教育思想に集約的に表れている中国の伝統精神は、普遍的ヒューマニズムを不可欠の機軸とするであろう新たなる世界像の形成に、多大な貢献をなしゆくであろうことを、私は信じてやみません。
10  永遠なる友好は民衆を結びゆく心に
 さて、時流は今、日中の交流に新たなる章節を求めております。それは同時に、中国に対する日本の姿勢を、根本から問い直すことにも通じましょう。
 申すまでもなく、日本は貴国より教育思想はじめ文化全般において大恩をこうむってまいりました。その恩に、どう報いていくべきなのか――。日中の交流においては、この一事が日本に問われていると思われてなりません。
 人はもとより国もまた、今日のグローバルな時代には、孤立して生きることはできない。この世界に生きるかぎり、無数の人々、国々から恩恵をこうむっていかねばならない。「恩」とは、いわば人間と社会の営みを相互に支え育んでいくべき精神性の発露であり、人間性の精髄と申せましょう。
11  草創期の北京大学に奉職した魯迅は、かつての日本留学時代における恩師の思い出を、名作『藤野先生』に綴っております。
 一度こうむった恩は、それがいかなるものであれ、終生消えはしない。恩とは本質的に、授ける側よりも受ける側の″心の問題″であります。文豪の心に宿った、師への恩愛の念――私はそこに、人間の高貴なる精神が奏でる内なる調べを聞かずにはおれません。恩を「感じ」、恩を「報ずる」ことは、まさしく人間の「正道」であります。それゆえ″文化の恩人″である中国の発展と幸福のために、誠心誠意、努力を傾けていくことが、日本人にいやまして求められている、と確信してやみません。
 特に日中両国は、地理的に近い。古来、「一衣帯水の国」とも呼びならわされてまいりました。こうした両国の深き絆を思えばこそ、ともに活力ある真の平和と安定へと力を合わせていくことが、両国のみならず、アジア、更に世界の平和実現にも大きく貢献していくことになる、と私は強く信じているものであります。
12  友情は、貫いてこそ″真実の友情″へと高められます。日中の友好も、貫いてこそ″真金の友好″となるでしょう。両国の間にいかなる紆余曲折が生じようと、私たちは断じて友好の続から手を離してはならない。今、私たちにとって何より大切なことは、日中友好の「金の橋」を将来にわたっていかに盤石にしていくか、永続ならしめていくか、という現実の課題であると思います。政治や経済における往来も重要であることは、論をまちません。
 しかし、より永遠なる友好交流を支えるのは、何より民衆と民衆を結ぶ″心の絆″でありましょう。民衆次元の信頼関係を欠いては、政治・経済上のいかなる結びつきも砂上の楼閣になってしまう恐れがあります。民衆という「大海」の上にこそ、政治・経済の「船」は浮かび、進むのです。
 民衆と民衆の心の絆は、目には見えない。しかし、見えないがゆえに強い。無形であるがゆえに、普遍的・恒久的な紐帯である。それを形成しゆくのは、人間の精神に″永遠″″普遍″への飛翔の翼を与えてくれる「文化」の光彩であります。
13  なかんずく「教育」は、人間のもつ無限の可能性を開き、人と人とのうちに″平等性″″共感″の絆を育む。そうした「文化」「教育」の交流こそが、日中の民衆の絆を永遠ならしめる根本の力となりましょう。その意味で、私はここで再び申し上げたい。より一層の「文化」「教育」の交流で、日中友好の「金の橋」に第二期の往来を――と。
 北京大学は、あと八年で創立百周年の佳節を迎えます。新たなる″第二世紀″へ向かって、東洋有数の伝統を誇る貴大学の世界へ果たす役割は、いやまして大きくなりましょう。貴大学のモットーに私どもの「創価」の理想とも相通ずる「創新」(新しきものの創造)の一項目があります。貴大学の「創新」の光り輝く壮大な未来を心に描きながら、私も更に力を尽くしてまいる所存であります。(拍手)
14  最後に、長時間にわたり、拙い講演にご静聴くださいました、北京大学の諸先生方、またご来賓の皆さま、新世紀を担って立ちゆく若き偉大なる指導者であられる学生の皆さま方に、栄光あれ、ご多幸あれとお祈り申し上げ、私の話とさせていただきます。
 (平成2年5月器日 北京大学)

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