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日蓮大聖人・池田大作

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第18回「SGIの日」記念提言 新世紀ヘヒューマニテイーの旗

1993.1.26 「平和提言」「記念講演」(池田大作全集第2巻)

前後
2  西側諸国においても、アメリカのロス暴動、ヨーロッパでのネオ・ナチの台頭など人種・民族問題の顕在化は著しく、日本も、決してそうした流れの外にいられるわけではありません。普遍性、均質性、画一性を求めて発展してきた近代文明が、ここに来てにわかに逆流を始めた感さえありますが、それだけに、その主流を成し「国際政治のエイズとなる危険性」(「エコノミスト」誌)をはらんだ民族問題からは、一刻も目を離すことはできないのであります。
 実際、世紀末の我々は、「民族浄化」(エスニック・クレンジング)などという、墓から蘇ったような、半世紀も前の忌まわしい″妖怪″に今も直面しているのであります。
 セルビア等から伝えられる、ナテスの大量殺象を思わせるようなおぞましい蛮行をもれ聞くとき、また、その背景を成している幾百年にもわたる民族間の角逐に目をやるとき、″進歩とは何か″という聞きなれた問いがしきりに去来し、人間という生き物の度し難さに、暗澹たる思いにかられるのは、私一人ではないと思います。
3  私は、ドストエフスキーが『罪と罰』の終章で描いている、黙示録的なエピソードを思い浮かべます。金貸しの老女殺しの罪で流刑地シベリアヘ送られた鋭敏な青年ラスコーリニコフの夢に登場する伝染病――「顕微鏡的存在である、人体に寄生する、一種の新しい旋毛虫」の出現によって発生した奇妙な伝染病が猛威を振るう。
 「――それにとりつかれた人たちは、たちまち悪魔に魅入られたようになって気が狂ってしまうのだった。しかしながら人間は、いまだかつて、あとにも先にも、それにとりつかれた人たちが考えたほど、自分を賢明で、真理の追求に揺るぎないものと考えたことはなかった。またいまだかつて自分たちの決定や、その科学上の結論や、道徳上の信念や信仰を、このときほど確固不動のものであると考えたことはなかった」(小沼文彦訳、『ドストエフスキー全集』6所収、筑摩書房)
 かくて人々は、確たる信念に基づいて敵を求め、味方同士は分裂を繰り返しながら果てしない殺し合いを始める。勢いのおもむくところ、この伝染病の災厄から免れることができたのは「人類の新しい種族と新しい生活を創造し、この地上を一新し浄化する使命をおびた、清浄無垢な、選ばれた人たち」(同前)数人であった。――これが、病床のラスコーリニコフにつきまとい、苦しめ続けた悪夢であります。
4  「民族浄化」などというスローガンに酔い、恥知らずな行為に血道をあげているような姿は、さしずめ、この「旋毛虫」にとりつかれた状態といってよいでしょう。それは、互いに殺し合いながら、人類という種の絶滅(新しい種族の創造!)に至るまで愚行をやめようとしない″死に至る病″であり、まさしくエゴの蟻地獄であります。
 警戒すべきは、人類が、このような伝染病に対する抗体を、まだまだ十分に備えていないという点であります。確かに、「民族浄化」などという時代錯誤の蛮行を是認するような人は、国連安全保障理事会の弾劾決議に見られるように、ほとんど皆無に近いでしょう。
 しかし、そのような国際的な非難の大合唱も、ドイツ、フランス、イタリアなどを中心とする極右勢力の瞳目すべき伸長をもたらしたのと同じ土壌から生まれたということを、忘れてはならないと思います。
 すなわち、「民族浄化」に眉をひそめる人が、同じように極右の台頭に眉をひそめるであろうか。たとえひそめたにしても、全部といわずそのうち何割かは彼らのエキセントリック(異常)な主張に暗黙のうちに何がしかの共感を示していはしないでしょうか。急増する難民の問題などをきっかけに外国人排撃を声高に叫ぶ勢力の台頭は、背後にそうした暗黙のうちの何がしかの支持・共感がなければ考えにくいからであります。
5  異民族との共存(侵略や支配ではなく)という点で、まだまだ本格的な試練を経ていない日本などにしても、国際化が急速に進むなか、いつ外国人排撃の風潮が起こってくるか、予測のかぎりではありません。
 明治以来、いつも″拝外″と″排外″との間を揺れ動いてきて、抗体も形成されないまま、例えば失業問題や治安の悪化などをきっかけに、現代風″攘夷論″が頭をもたげてくる懸念は、昨今の論調を見るまでもなく、十分すぎるほどあるのであります。
 経済摩擦の激化にともなう″日本異質論″の高まりに直面して、戸惑いとその場しのぎの後手後手の対策でお茶を濁してきた実情を見ると、懸念は、ますます強まるばかりであります。
 確かに、異文化との共存ということは、価値観同士の衝突をともなうわけですから、きれいごとではなく、抗体のあまりできていない日本社会の実情からいえば、国際化を急ぎすぎるのも考えものかもしれません。しかし、後戻りは許されず、試行錯誤を続けながら、着実に進めていくべきでありましょう。
6  「閉じた心」と分断作用
 一番大切なことは、そうした現象面だけではなく、その対応が「開いた心」でなされているかどうかという姿勢の問題であります。より具体的にいえば、民族問題への対応にあたって、軋礫が表面化したような場合、常に対話の窓が相手に向かって開かれているかどうかであります。
 そうではなく、自分のみを正しいとする独善的な「閉じた心」でかたくなな対応をしていると、問題はこじれるばかりであり、「旋毛虫」の格好の餌食になってしまうにちがいありません。そこでは、所詮、対話は不可能であり、文字どおり、″問答無用″の暴力の掟に訴えるしかなくなることは、数々の歴史の教訓であります。
 現今の民族問題が「民族浄化」に象徴されるような凶暴性を帯びてきている最大の理由は、いつにこの「閉じた心」にあるといってよい。つい最近までは、さしたる表立った問題もなく共存してきた異民族同士が、突如として怨念に突き動かされたように対立し、いさかい、血の抗争を繰り広げている――こうした現象は、単にイデオロギーや権力のタガが外されたからだという理由ばかりでは納得しにくい。
 経済的困窮ということも、確かに引き金にはなっているかもしれませんが、それなら殺し合いまでする必要はないでしょう。そこには、もっと深い「開いた心」「閉じた心」の次元にかかわる文明史的な病理が横たわっているように思えてなりません。
7  ところで、唐突なようですが、私は善の本質は「結合」にあり、悪の本質は「分断」にあると信じております。悪の働きは、あらゆるものを「分断」しようと、虎視眈々と狙っています。人間の心に亀裂を生じさせ、家族や同志、友人、知人などの絆を断ち切り、国と国、民族と民族とを離間させ、更には人間と自然、宇宙との一体感を破壊するなど、なべて「分断」作用のおもむくところ、人間は孤立し、不幸と悲哀を招き寄せてしまいます。
 そして「閉じた心」とは、自らを狭いカラに閉じこめて独りよしとし、″自″″他″の間を「分断」させていく点で、まさしく悪にそそのかされた人間の袋小路というか、悲しい通弊なのであります。そうした人類史の業ともいうべきものが、特異な現れ方をしているのが、二十世紀文明の置かれたある種の宿命的な位置であるといえましょう。
8  ドストエフスキーの黙示録的エピソードはその病理をえぐり出す見事な予言ですが、ややメタファー(隠喩法)的ですので、少し時代をくだって、今世紀に活躍したほぼ同時代人である三人の先人の警世の言を、思いつくままに紹介してみたいと思います。
 一人は、時代の喧騒を凝視しながら深く静かな思索を続けた、いかにも哲学者らしい哲学者であったG・マルセルであります。
 「プルードン(Proudhon)は『知識人らは軽薄だ』といったが、それは悲しいことに、おそろしく真実をうがった言葉である。そこには深い理由があるのであって、知識人は労働者や農夫のように抵抗のある現実と取組むかわりに言葉で働くのであり、紙はすべてを受けつけてくれるからである。哲学者はこの危険を絶えず意識しなければならない。プルードンは『人民はまじめだ』と附言した。これは不幸にして、今日ではもはや真実ではない。――新聞やラジオがほとんど不可避的に人々を頽廃せしめているからである」(『人間、この問われるもの』、『マルセル著作集』6所収、訳者代表小島威彦、春秋社)
9  「紙はすべてを受けつけてくれる」とは、言い得て妙であります。そこから生ずる軽薄さは、言葉に対する「軽信」を生みます。そして「軽信」は、信ということの内実の乏しさから、必然的に「狂信」的な響きを帯びてきます。かつては、低俗な知識人に特有な現象であったこうした軽薄さという精神の汚染が、ジャーナリズムの普及によって大衆一般にまで広がってきたのが、二十世紀であるというのであります。
 確かに、現在、跳梁跛眉している民族主義などという言葉は、まさに「軽信」「狂信」の対象というにふさわしい。なぜなら、言うところの民族などというものは相当部分が虚構であり、民族意識といってもある意味では、何かによって作り上げられた虚偽意識にほかならないからであります。
 極論のように聞こえるかもしれませんが、民族主義があまりにも凶暴化している現状では、そのくらいの思い切った意識の転換を図っていかなければならないと思います。
 民族意識といったところで、近代の民族国家が形成されていく過程で、国民を一つにまとめあげていくための手段、精神的紐帯として意識的、意図的に作られたもので、どれほどの純一性をもつかは、はなはだ怪しいものでしょう。
10  近代国家のお手本のようにいわれるフランスやイギリスでも、日本などに比べると非常に多くの民族・人種が混在していますし、少し歴史をさかのばれば、より小さい部族意識のようなものへと分解していくはずであります。
 日本においても、民族意識が高揚してくるのは、明治の近代国家成立ののち、しばらく経ってからであり、それ以前はもっぱら″藩″意識であります。更に古代にまで視線を転じてみれば、大陸、特に韓・朝鮮半島とのひんぱんな人的交流がなされていたことは、周知の事実であります。
 日本民族という実体以前に、まず日本民族という言葉がある――このことは、日本に限らず、民族問題を考えるうえで、重々、心しなければならない点であります。実体の吟味なしに言葉を信じてしまうことは「軽信」であり、「軽信」は容易に「狂信」へと転じていってしまうからであります。
11  マルセルは、こうした言葉への「軽信」を、「抵抗のある現実と取組む」労働者や農夫の営為と対置しておりますが、それに関係して、私はかつて、日露戦争の際の一人の日本人兵士の言動に論及したことがあります。
 ――あるとき、日本軍の連隊本部にロシアの将校一人と兵隊一人が捕らわれてきた。初めての捕虜ということもあって、中隊長の発案で、皆で見物にいこうということになった。すると一人の兵士が反対して言うには――
 「自分は在郷のときは職人であります、軍服を着たからは日本の武士であります、何処のどういう人か知りませぬが、敵ながら武士であるものが運拙く捕虜となって彼方此方と引廻され、見世物にされること、さだめて残念至極でありましょうと察せられ、気の毒で耐りませんから自分は見学にいって捕虜を辱しめたくありません」(長谷川伸『日本捕虜志』中公文庫)と。
 その結果、捕虜見学は中止になったという。あっばれ、「抵抗のある現実と取組」んでいる人にしてよく可能な、人倫感覚のにじみ出た言葉であります。彼には、昨今の、また日本でも当時以後、急速に強まってきた偏狭な民族意識など、皆無であったにちがいない。平和の種子というものは、抽象的な論議などではなく、一庶民の、こうした人間愛のなかに宿っていることを知らねばなりません。
12  そこで、言葉への「軽信」を「ステレオタイプ」(定型、固定観念)を通してのイメージやビジョン形成の問題として鋭く分析したのが、今世紀最大のジャーナリストといわれるW・リップマンであります。
 名著『世論』は、マルセルが「新聞やラジオがほとんど不可避的に人々を頽廃せしめている」と指摘した二十世紀文明の病理を、ジャーナリズムを生業とする人の自戒、自省の念を込めてえぐり出した、良心のやむにやまれぬ発露であったといってよい。
 「われわれはよほど注意していないと、自分たちがよく知っていると認めているものすべてを、すでに頭の中にあるイメージの助けを借りて映像化する傾向がある」(掛川トミ子訳、岩波文庫)として、リップマンは言います。
 「思慮深くどちらにも偏らないような状態を保っているときは別として、われわれは一人の人間を調査してから悪い人だと判断するわけではない。われわれはその人を見るときすでに悪人として見ているのである。露しげき朝、はにかむ乙女、聖なる僧、ユーモア感覚のないイギリス人、危険な赤分子、気楽なボヘミアン、怠惰なヒンズー教徒、狡猾な東洋人、夢想家のスラブ人、気まぐれなアイルランド人、貪欲なユダヤ人、百パーセントのアメリカ人という見方も同様である」(同前)と。
13  リップマンは、こうした様々な「ステレオタイプ」によって、世論は最初から「汚染されている」とします。確かに、現今の民族主義と同様に民意の反映とはいっても、「ステレオタイプ」によって汚染されたある種のスローガンが、平常では考えられないように人々を呪縛し、猛威を振るった例は枚挙に暇がありません。
 そうした傾向は、プラトンの″洞窟の比喩″が示すように、とりたてて現代的な現象とはいえないかもしれない。しかし、二十世紀の大衆社会での世論形成に特徴的なことは「ステレオタイプ」によって「信念が一つの神話として完結」するようになり、その性格上、ともすれば「反論」は「裏切り」と見なされ、一つの「解釈」が全的な「真実」の相貌を帯びてくる、とリップマンは言います。
 そこから不寛容へは半歩を余すのみであり、そのまま、私の申し上げている「閉じた心」と代置することのできる、現代風の心的傾向なのであります。
 例えば、共産主義イデオロギーなどは、こうした特異なキャラクター――半可通で不寛容な、独善的イデオローグを、おびただしく輩出してきました。「閉じた心」の彼とは、本質的に対話は成立しません。
 「神話」に閉じこもっているかぎり、いかに彼が饒舌であっても、否、饒舌であればあるほど、その言葉はダイアローグ(対話)ではなくモノローグ(独語)にすぎず、かつてパステルナークが、ドクトル・ジバゴをして「腕ずくで歓心は買えぬ」と弾呵せしめたように、その本質は暴力なのであり、対話は原理的に不可能なのであります。
 ゆえに、リップマンは『世論』の結尾で、理性の窓を開けよう、「証拠による吟味」を怠るなという、優れてソクラテス的課題を訴え続けてやまないのであります。
14  さて、二十世紀の大衆社会論といえば、その魁の栄誉を担う一人として、オルテガ・イ・ガセットの名を忘れるわけにはいきません。
 主著『大衆の反逆』は、一部で、ルソーの『社会契約論』が十八世紀に対して、マルクスの『資本論』が十九世紀に対して有していた意義を、二十世紀に対してもっているとされているようですが、精神の孤高の高みから、類まれな批判力を駆使してなされた、大衆の登場という二十世紀的現象の分析は、優に半世紀以上を経過した現在でも、随所に光るものを秘めています。
 彼もまた、対話ということを文化創造の枢軸として重視した人でした。
 「――思想を形成し、意見を持つということは、そうした(=思想や意見を調整する)審判に訴え、忠誠を誓い、その法廷の法典と判決を受け入れるということとまったく同じことであり、したがって、最良の共存形式は対話であり、対話を通してわれわれの思想の正当性を吟味することであると信ずることに他ならないのである」(神吉敬三訳、角川書店)
 一定のルールの支配なくして対話は成立せず、その共有するルールこそ文化の原理なのである。その文化の欠落するところ「そこにあるのは最も厳密な意味での野蛮(barbarie)である。そしてこの野蛮こそ――空しい期待を抱くのはやめよう――実は大衆の漸進的蜂起によって、ヨーロッパを支配し始めている状態なのである」(同前)と。
15  言うところの「大衆」とは、一定の階層を指すのではありません。彼が「現代のアダム」あるいは「慢心しきったお坊ちゃん」と呼ぶ大衆とは、自己満足と薄っぺらな勝利感に酔いしれた「自己閉塞性」と、いかなるルールや規範にも従おうとしない自分勝手な「不従順さ」を魂の基本構造とする新しい人間群のことであります。
 「自己閉塞性」と「不従順さ」とは「慢心しきったお坊ちゃん」特有の幼児性の両面を成しているのであり、それは、あたかも両刃の剣のように、成熟した人間同士の対話の絆を断ち切ってしまうのであります。
 のちに、大衆社会状況における「孤独」や「自閉症」とされるようになった病理への、それは鮮やかな先取りであり、警鐘でありました。
16  開放と共感の風を世界ヘ
 実際、大衆人の心理構造を分析した次のようなくだりに接すると、ドストエフスキーの描く伝染病患者と、まさに二重写しの感を深くいたします。
 「この(=自分の道徳的、知的資産への)自己満足の結果、彼は、外部からのいっさいの示唆に対して自己を閉ざしてしまい、他人の言葉に耳を貸さず、自分の見解になんら疑問を抱こうとせず、また自分以外の人の存在を考慮に入れようとはしなくなるのである。彼の内部にある支配感情が絶えず彼を刺激して、彼に支配力を行使せしめる。したがって、彼は、この世には彼と彼の同類しかいないかのように行動することとなろう」(同前)と。まさに、「閉じた心」の奴隷となっている姿であり、「軽信」「狂信」「不寛容」などの文明論的な病理は、そのまぎれもない属性であります。
 以上、 マルセル(一八八九年生まれ)、リップマン(一八八九年生まれ)、オルテガ(一八八三年生まれ)の三人の同時代人に触れながら、その警世の言を検出してきましたが、共通していることは「閉じた心」というものが、人間が人間であることの証ともいうべき生きた対話の場を奪い去り、それが深い文明の病理となっていることへの憂慮であります。
17  翻って、私どもの信奉する妙法の「妙」の一字には「開」「具」「蘇生」の三義が備わっております。その第一に「開」「開く」と仰せのように、SGIの進めている仏法運動は、文明の深部に巣くう病である「閉じた心」「閉じた魂」の扉をこじあけて、開放と共感の風を送り込み、東に西に、北に南に、縦横に、そしてまた存分に対話の回路をめぐらせていくという、優れて文明史的意義をはらんでいるということを、強く自覚していきたいと思うのであります。
 それは、時代の病理への対症療法ではなく、抜本療法の次元での労作業なのであります。頻発する民族紛争などにしても、火急の対症療法ももちろん欠かせませんが、同時に、今申し上げたような次元にまで目を向けていかないと、次から次へと対応に追われる″もぐらたたき″のような仕儀になりかねないでしょう。
18  思えば、恩師戸田城聖創価学会第二代会長は、戦後まもなく「地球民族主義」という理念を提唱しました。冷戦が激化するなか、当時の世間からはほとんど注目されず、せいぜい″現実離れ″とか″夢物語″と評されるだけでした。しかし、どうでしょう、最近の論調では「地球民族主義」の今様の表現である「トランスナショナル」(民族・国家主義を脱却)という言葉が国際政治を読み解き、展望するキー・ワードとして、にわかに脚光を浴びつつあるではありませんか。そうした時流を見るにつけ、恩師の思索のスケールの大きさと先見性を懐かしく、しのぶのであります。
 その恩師の着想の実現のためにも、私は現在、アメリカの地で、全力を挙げて入魂と触発の対話運動をダイナミックに繰り広げております。私どもは、SGIの躍進は人類の希望であるとのはるかな地平を望みながら、それぞれの地で、それぞれの立場で、自分らしく悔いなき戦いを展開してまいりたい。
19  国連中心に新秩序を
 さて、地球新時代へのシステム作りは、まだ緒についたとさえいえない段階ですが、それでも、新しい世界秩序を築くために国連を中心にしていくという点では、共通の認識が生まれているといってよいでしょう。
 「国際の平和と安全を維持し、正義と人権を確保し、憲章に述べられているように『一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上』を促進することができる国連を築く機会」(ガり国連事務総長)が到来しているといってよい。そうした好機を迎えて、現在の国連が変化の激しい世界の現実の状況にどう対応すべきか苦しい模索が続いております。その意味では国連は今、一つの大きな転換期にさしかかっております。
 それを如実に示したのが、昨年のソマリアヘの多国籍軍派遣であります。周知のように昨年、国連安全保障理事会は全会一致でソマリアヘの人道援助の物資輸送を確保するために、多国籍軍の派遣を決定しました。多国籍軍派遣の目的自体は内戦、略奪、飢餓に苦しむソマリアの人々を救うという極めて人道的なものであり、妥当といえましょう。このまま事態を放置すれば、人口八百万のうち四分の一の二百万人が死亡すると予想される状況は、同じ地球人として見過ごすことはできません。
 国連はこれまで加盟国の国内問題には介入しないことを原則にしてきております。しかし、国連のソマリアヘの介入は、人道援助確保の名のもとに、これまでは内政問題と見なされてきた領域に国連憲章が定めた強制措置を行使したものであります。これは、国家主権を侵さないことを原則としてきた国連が、新しい方向に大きく踏み出したことを意味するものといえましょう。
20  近年、国家間の関係に重要な変化が起きつつあります。その一つの象徴的な例が、欧州共同体(EC)による「主権の共有」化の方向であります。一方、様々な民族による自治・独立の主張に見られるような国家の分裂によっても、国家主権が問い直されております。この両面から、国家主権の考え方に大きな変化がもたらされつつあります。
 かつて、国家主権を制限しつつ、国連を改革して世界政府にしようとしたアインシュタイン等のアイデアが、主としてヨーロッパ諸国から、無視に等しい扱いをうけたころを考えれば、最近の国家主権の″揺らぎ″は、新しい時代を迎えつつあることの確かな胎動といえましょう。
 ガリ国連事務総長も言うように「絶対的かつ排他的な主権の時代は過ぎ去った」のであります。国連が時代の変化に対応し、国家主権を絶対視しない新たな国際秩序を模索しようとしていることに注目したい。
 その意味で、その成否が極めて注目されているのが、カンボジア再生のため苦闘している国連カンボジア暫定行政機構(UNTAC)であります。
21  カンボジア再建に注目
 いうまでもなくUNTACは、国連の平和維持活動(PKO)としてはかつてない大きな権限をもっております。人権、軍事、選挙、行政、警察、難民帰還、復興という文字どおり新しい国づくりの要の部門を受け持ち、国連が実質的にカンポジア再生のため統治を進めているわけであります。まさに国家の主権を超えて、新たな秩序作りの実験が始まっております。
 新しい挑戦であるだけに、その困難さは想像を絶しているといってよい。しかし、国連によるこの新しい実験的試みが成功すれば、冷戦後における国連中心の和平のモデルができあがることになります。国連の将来にとって極めて大きな意義をもっております。アジアの平和と安定を心から願う一人として、私はその成功を祈らずにはいられません。
 とりわけ今、カンボジア再建の最高責任者となっている明石康国連事務総長特別代表はかねてからの知己であり、またカンボジア最高国民評議会(SNC)議長のシアヌーク殿下とはかつて北京で親しくお会いした思い出をもっており、私はカンボジア情勢の行方には、人ごとではない関心を寄せております。特に本年はカンボジアで総選挙が行われることになっており、再建のための正念場の時を迎えます。
 国際情勢の激動の渦の中でカンボジアの民衆は長く塗炭の苦しみをなめてきました。何よりも今望まれるのは、カンボジアの大地に平和を確立し、人々に希望の日々を蘇らせることでありましょう。そのために各国とも可能なかぎり、国連への支援、協力を進めてほしいと願わざるを得ません。
22  昨年、ガリ国連事務総長が安保理に提出した「平和への課題」という報告書に出てくる「平和執行部隊」の構想が、大きな論議を呼びました。これは、国連憲章に基づく国連軍と、PKF(国連平和維持軍)との中間に位置する軍隊といわれております。
 すなわち、紛争当事者の合意がなくても、重装備の部隊を派遣して実力で停戦の実現にあたるというものであります。この構想が提起された背景には、冷戦終結後に多発している民族紛争などの争いごとに、国連が主体的に関わっていかなければならないという事情があるといわれます。
 最近の英国の軍事専門誌によると、全世界には紛争地域もしくは紛争の起こりそうな地域が合計七十三カ所もあります。なかでもこのところ国家内部における紛争が急激に増加しており、国連はこうした解決が極めて難しい紛争に否応なく対応を迫られていくことが予想されます。
 その意味で国連は今、改めて国連本来の使命を想起すべきであると思えてなりません。国連憲章によれば、国連の目的は平和と安全の維持、人権と基本的自由の保障などであり、それらの目的の達成のために「諸国の行動を調和するための中心となること」(第一条四項)が国連の使命であります。
23  従って、国連の役割は諸国の行動を調和するためのシステムとしてのものであります。そのシステムがよって立つところのルールは、すべての加盟国が紛争を平和的手段で解決することを目指すという国連憲章にも明らかなように、武力の行使とは対極にあるものであります。軍事力に代表されるものをハード・パワーとすれば、システム、ルールとしてのソフト・パワーこそ国連の本質といえましょう。
 私が一昨年、ハーバード大学で講演した際のコメンテーターの一人、ジョセフ・ナイ教授がいみじくも「ソフト・パワーとは競争力ではなく、協調力のことである」と語ったことは、その意味からも極めて示唆的であります。
 先に、私は、善の本質は「結合」にあり、悪の本質は「分断」にある、と申し上げましたが、まさしく「協調力」とは「結合」の力のことであり、「競争力」とは、勝他の思いに支配された「分断」の力として作用してくるでしょう。そして、国連の原点は「協調」「結合」をもたらすソフト・パワーにあることは絶対に失念されてはならないと思います。
24  今後も国連は、様々な事態に臨機応変に対応していかねばならず、国連憲章の定めにあるように一定の制裁措置をとらざるを得ない局面も出てくるでありましょう。しかし、それはあくまでも協調をもたらすためのやむを得ざる″必要悪″としてのものであります。
 冷戦終結後の新しい世界秩序の構築とは、とりもなおさず、その協調力を基盤に平和的なシステム、ルールを作り上げることであり、その中心の役割を国連が担うことであります。
 更にその協調をグローバルに進めていくためには、国連が安保理常任理事国を中心にした一部の先進国に主導されているという批判を真剣に受けとめ、改革の道をとることも必要でありましょう。
 この問題は、現在の安保理中心的な機構の是非を問うことにつながっており、もっといえば、国連による現行の国際統治の正統性を問うものであり、それはまた、だれが国際統治の主体なのかという国連の組織と運営の民主化を問う課題といえましょう。
25  では、その民主化をいかにして実現すればよいのか。
 現在の国連は、いうまでもなく国家の連合体組織であります。国連の各機関も加盟国の政府代表から構成されております。そこではいわゆる国家ではないアクター(行為主体)、すなわちNGO(非政府組織)等が十分力を発揮できるシステムになっておりません。
 民主主義は主権在民が基盤であり、国連改革が国連の民主化を大きな柱にするのであれば各国の民衆の意思をどう正確に反映するかがカギだといえましょう。総じて「国家の顔」よりも「人間の顔」を、国連の機構面と運営面で際立たせねばならないというのが、私の年来の主張であります。
 「人間の顔」を際立たせるには、具体的には「民衆の顔」と「人類の顔」という二つの側面からの、国連改革へのアプローチが必要であります。
26  まず「民衆の顔」をより強める方策の一つとしては、国際社会における行為主体として近年、活躍が著ししいNGOの力を国連強化のために生かすことであります。現在、国連とNGOとの関係は、国連憲章の定めにより経済社会理事会だけと協議を行うことができるとされております。
 しかし、国際社会におけるNGOの飛躍的な成長と活躍からして、また国連との協力関係の大きさからいっても、現状にとどまることは不自然だと思います。経済社会理事会のみならず安保理事会や総会にもNGOの意見を反映できるシステムを工夫すべきでありましょう。
 現在、国連改革の一つとして専門家の間で、安保理を四つほどに分割する案が出ているそうであります。
 「平和、軍縮」「人権、人道」「人口、資源、開発、環境」「技術、情報、コミュニケーション、教育」の四分野のそれぞれに理事会が必要だという意見であります。これら四つのどの領域においてもNGOの協力が不可欠な時代を迎えております。
27  例えば、創価学会は昨年、国連支援活動の一党として、青年部が中心となり、国連カンボジア暫定行政機構(UNTAC)に協力して「ポイス・エイド(ラジオ支援)」を行い、大きな反響を呼びました。既に十一万台にのぼる市民の真心のラジオが、現地の人々に届けられ、最終的には二十八万台を超える見込みであります。この種の課題に敏速に対応するには、足腰の軽い民間団体のほうがよほど適しているのであります。
 こうした諸領域において、参加のシステムさえ確立できれば十分、NGOの力が発揮でき、国連の総合力は一段とアップするにちがいありません。
28  また、このところ早期警報(アーリー・ウォーニング)ということが、国連の活動で重視されております。近年、国連システムは、環境破壊、天災、飢餓発生、人口移動、疾病の拡大、核事故の危険などの情報を集め早期警報を発するシステムを開発してきました。
 これは様々な問題が紛糾する以前に、当事者に警告を発し、解決に持ち込むためのもので、国連が目指す「予防外交」の柱になるものであります。この早期警報の活動のための情報収集の分野でもNGOの力が高く評価されており、国連との協力関係が進めば更に効果的でありましょう。
 今後の国連強化の一つのポイントは、安全保障理事会、総会、そして事務総長が事にあたって国連関連機関の資源を総動員し、国連機構の力を結集して解決にあたれるメカニズムを作り上げることであります。そうした横のつながりのある有機的なメカニズムが、現状では存在しないところに現在の国連の問題があるといわれます。
 更にそこに総合力として、NGOの力をどのように活用していくかがカギといえましょう。そこで、私は少なくとも当面、NGO代表と国連事務総長との何らかの定期協議の場を創設してはどうかと思います。
29  国連少数民族・先住民高等弁務官を創設
 ところで今、地球社会が認める共通の価値は「人権」であります。
 昨年、中米グアテマラ生まれの先住マヤ族の人権擁護活動家リゴベルタ・メンチュウさんがノーベル平和賞を受賞し注目されました。祖国グアテマラでは国民の半数以上を占める先住民の人々が社会の底辺におかれ、メンチュウさんは、その人権擁護運動の先頭に立って言葉や生活自決権の尊重などを唱えてきたのが評価されたわけであります。
 本年(一九九三年)は「国際先住民年」であり、六月にはウィーンで「世界人権会議」が開催される予定であります。まさに本年は人権の年といっても過言ではありません。
 そこで例えば、少数民族や先住民の問題を専門に扱う「国連少数民族・先住民高等弁務官」のシステムを作ってはどうか。既に昨年、全欧安保協力会議(CSCE)により「少数民族高等弁務官」の制度が創設されておりますが、これを更に国連のシステムとして世界化する必要がありましょう。
 もし国連に少数民族・先住民高等弁務官が誕生すれば、難民高等弁務官と協力しながら、少数民族の権利の国際的保護のための大きな力となるでありましょう。これは国連に「民衆の顔」をより強めるうえで画期的前進となると思います。
30  次に、「国家の顔」よりも「人類の顔」をより際立たせる方策の一つとして、ここでは国連総会の民主化を考えてみたい。
 このところ国連を改革し強化するために、安保理をどう改革するかに焦点が当たっております。それも重要ではありますが、やはり加盟国の総意という点から人類の意思を表明する場として総会の改革を重視したい。
 私は今、世界的な平和学者として知られているヨハン・ガルトゥング博士と対談集出版のため意見の交換を進めております。そこでも国連改革が一つの重要な論点になっております。博士はこの中で、現在の国連総会(UNGA)と並ぶ第二の議会として、国連民衆総会(UNPA)の創設を提案しております。
 その中身については熟考する必要がありますが、政府主導のグローバリズムが、どうしてもインタナショナル(国家単位の結合)になりがちなのに対し、トランスナショナル(民族。国家主義を脱却)な視座を獲得していくために、政府と民衆が協力し力を合わせてこそより良い世界が築けるとの博士の基本的考えに、私も賛成であります。
31  もとより言うは易く実行は極めて困難なことは、私もよく認識しております。こうした抜本的な改革を行うには、まず国連憲章の改定という大きな壁が存在するからであります。しかし、今、要請されている最大の課題は、現代の世界をより良く反映しつつ、二十一世紀の世界にも通用するグローバルな統治機構を人類の総意で作り上げることであります。
 先日、グローバル・ガバナンス委員会(地球統治に関する委員会)のP・ハンセン専務理事が創価学会本部を訪問し意見交換が行われましたが、委員会の最新リポートには次のように記されております。
 「過去半世紀の間に、世界の国々は幅広い国際協力のシステムを作り上げてきた。その中心は国連であり、国連憲章であり、それは多くの可能性を秘めている。更に特定の地域や領域では、数多くの重要な組織ができあがっている。しかしながら、これら世界統治の機構は新しい時代の要請に十分応えられるようになっていない」。私も同感する部分が多い。
32  私は先年、惜しくも亡くなったノーマン・カズンズ氏と対談集『世界市民の対話』(毎日新聞社。本全集14巻収録)を編みました。カズンズ氏は、世界連邦主義者世界協会の会長を務めるなど、国連強化のための運動を精力的に進めてきた人としてよく知られております。私との対談でカズンズ氏は、国連の将来を根本的に左右しかねない新たな事態が生じた場合、その事態を本格的に検討する全体会議を開催する必要性があることを強調していたことが忘れられません。
33  国連改革へ世界首脳会議を
 確かに国連憲章には、この憲章を再審議するための国連加盟国の全体会議の開催が記されてあります。それが今日まで開催されずにきたわけであり、開催の理由は十分成り立つと思います。
 特に一九九五年には国連創設五十周年という節目を迎えます。こうした全体会議を開くには絶好の時期といえましょう。
 グローバル・ガバナンス委員会は、国連創設五十周年の前年に新しい地球統治機構に関する報告書をまとめあげる予定だと聞いております。私はこうした英知の構想を数多く結集して、一九九五年には国連がイニシアチブをとって、国連改革のための世界首脳会議を開催してはどうかと提案したい。
 同時に、世界の市民の声を結集する「世界NGOサミット」の開催も検討に値しましょう。
 ところで各地で多発している紛争の背景には、紛争地域への武器輸出の問題があります。なかでも大国が多くの武器を売りつけ、それが紛争を更に悪化させてきました。こうした武器の取引を厳しく規制し、軍縮の流れを強めることが極めて重要な段階を迎えております。
 まして九〇年代の世界経済には今のところ明るい展望が出ておらず、冷戦構造が解体した今、思い切った軍縮に踏み出し世界経済を上向かせる必要があります。
34  昨年の秋、ガリ国連事務総長は、第一委員会(政治・軍事)に「冷戦後の軍縮」に関する報告書を提出しました。この中で軍縮活動を「平和創造、平和維持、紛争後の平和建設」のための国連活動の一環として位置づけ、特定国だけでなく加盟国すべてが地球規模の軍縮に取り組むべきだと述べていますが、確かに喫緊の課題といってよい。
 とりわけ米国とロシアがそれを率先して進めてほしいというのが私の強い願望です。本年冒頭、米国とロシアの首脳会談で第二次戦略兵器削減条約(START2)が調印されました。地上配備の複数弾頭の大陸間弾道ミサイル(ICBM)を全廃し、戦略核兵器の総数を両国が現在の約三分の一の三千から三千五百発にまで削減するというものであります。
 私はその歴史的意義を認めるのはやぶさかではありませんが、なぜそれほど多くの核兵器を残さねばならないのか理解に苦しむのであります。
35  削減でなく核兵器を全廃
 米国とロシアが敵対関係にない以上、かつて幅を利かした核抑止論は無意味といわざるをえません。従って、三千もの核兵器を保有する理由はありません。今、両国に要請されているのは、核兵器の全廃の決意であります。なぜそれが今、必要か。それは核兵器全廃が世界の軍縮にとって象徴的な意味をもつからであります。
 今まで不可能と思われていたことに米国とロシアが踏み出せば、世界全体の軍縮に大きなはずみを与えることは間違いありません。その他の核保有国を交えた核全廃のための国際会議の道も開けるのではないでしょうか。
 現在、核削減を進めるうえでネックになっているものの一つに、核弾頭の解体廃棄に大きなコストがかかるという点があります。経済事情の極めて悪いロシアには、それを負担する余裕がないといわれます。この問題はどこか特定の国がロシアを支援すれば、それで済むという問題ではありません。
 更に、核問題は米国とロシア間の問題にとどまらず、世界の核拡散をどう阻止するかという深刻な課題にも直面しております。私は複雑化する核問題に総合的に対処する何らかの新しい国際機関が必要ではないかと考えております。
36  私は、以上述べた国連の再生と強化を日本こそが積極的に進めるべきだと考えるものです。日本の国際的貢献とは、単に国連の安全保障の役割にどう関わっていくかだけではない。まして、安保理常任理事国になるかならぬかなどの面子を争っている段階でもありません。環境、貧困、飢餓、人権、人口など幅広い分野で総合的に国連に協力していくことが大事であります。
 本年も、私はこうした平和構想の実現を目指して、世界の心ある人々と対話を重ね努力していく所存であります。
 (平成5年1月26日「聖教新聞」掲載)

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