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日蓮大聖人・池田大作

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第17回「SGIの日」記念提言 希望と共生のルネサンスを

1992.1.26 「平和提言」「記念講演」(池田大作全集第2巻)

前後
1  騒然たる湾岸危機をもって明け、ソ連邦の消滅と独立国家共同体の発足のなかに暮れた一九九一年は、確かに、史上稀にみる激動、激変の一年でありました。そこからは、「民主」の時代の足音を、確実に聞き取ることができます。しかし、そればかりではない。新時代の訪れを告げる心躍る音色もあると同時に、あらゆる秩序を破壊してしまいかねない、耳をつんざかんばかりの轟音も混じっております。激化する民族対立・紛争に象徴されるように、昨一年の″余震″は、どの程度の規模でどの程度続くのか予測もつかず、まかり間違うと、ここ数年の世界史の地殻変動さえ、一つの″初期微動″と化しかねない、途方もないカタストロフィー(破局)の″主要動″さえ懸念されている現状であります。
 世紀末のカオス(混沌)のなかから、来るべき世紀へ向け、どうコスモス(秩序)を創り出していくのか――そこに、現代を生きる私どもが、だれ一人として避けて通ることのできない、人類史的課題が横たわっているのであります。
2  啓蒙的合理主義に警鐘乱打
 さて、湾岸危機・戦争は、国連というものの存在を、その限界も含めてクローズアップさせましたが(J・K・ガルブレイス氏などは、湾岸戦争の主役は米国ではなく、国連であったと言っております)、何といっても突出していたのは、国際社会の横紙破りを平気でやってのける、一独裁者の野望でした。その意味では、歴史の構造的要因というよりも″一過性″の性格を帯びていたといってよいと思います。
 それに比べて、ソ連邦の消滅は、文字どおり世界史的現象以外の何ものでもなく、優に数世紀をやくする恒常的で、普遍的な意義をはらんでおります。それは、ヨーロッパ主導型の近代文明を特徴ずけてきたある種の傾向性に、はっきりとピリオドを打った事件であったからであります。その傾向性の骨格を成しているのは、一言にして言えば、十八世紀以来の啓蒙的合理主義と呼ばれるものであり、それは、ある法則にのっとった歴史の進歩・発展の理論を奉ずる歴史主義や理想主義、あるいは、歴史の駆動力としての革命、しばしば暴力をともなう革命を必然とする政治的急進主義といった形をとっていました。ソ連邦の消滅(ロシア革命の終焉)は、そうした合理的で、進歩的で、楽観的なものの考え方に″弔鐘″(マルクスが資本主義の必然的敗北を指したこの言葉は、皮肉にも、ブーメランのようにマルクス主義の上にはね返ってきました)とまではいかないまでも、重大な″警鐘″を乱打しているのであります。
3  昨年八月の旧ソ連における保守派のクーデター失敗の直後、フランスの気鋭の歴史学者フランソフ・フューレ氏の語った″ロシア人が、フランス革命を終わらせた″との言葉は、その経緯を象徴的に示しております。すなわち、フランス革命をブルジョア革命、ロシア革命をプロレタリア革命と位置づけ、フランス革命の継承・発展としてのロシア革命という今まで支配的であった歴史観――マルクス・レーニン主義にのっとった階級闘争史観に立つならば、共産党の解散によるソ連邦の消滅は、その未完の母型であるフランス革命の意義の否定、より丁寧にいえば、階級闘争理論に基づくフランス革命観そのものの否定にまで通じていかざるを得ないでしょう。なぜなら、フランス革命からロシア革命への流れを″進歩″の一色で塗り上げ、そうした歴史の生々発展こそ「歴史的必然」と強弁されてきたのですから。F・フューレ氏は言います。「彼ら(=ロシア人)は一七八九年のフランス革命をやり直したいのです。(中略)彼らは、フランス革命の実例をたどるのではなく、その原則から再出発しようとしているので、ある意味でフランス革命を終了させたといえるのです」(「口シア人たちがフランス革命を終わらせた」、「朝日ジャーナル」’91・9・20号)と。「原則」とは、いうまでもなく「自由」「平等」「博愛」等の理念や「人権」概念などを指し、その「原則」はフランス革命からロシア革命を経ての「実例」の中で、何ら検証されていない、というわけです。
4  確かに、従来、特にロシア革命後にあって支配的であったのは、何といっても、左翼の階級史観を色濃く反映したフランス革命史観でした。レーニン、トロツキーなどロシア革命の指導者の多くは、少数のエリート集団の前衛理論にしても、彼らによる権力の代行論にしても、あるいは暴力やテロに支えられた独裁論にしても、例外なくフランス革命時におけるロベスピエールらジャコバン派の足跡と、イメージをダブらせておりました。
 加えて、資本主義の矛盾の拡大は、その反作用として、そうした階級史観を魅力あるものにさせていたことは否定できません。こうして、ジャコビニズムの延長上にボルシェヴィズムを位置づけ、そこに歴史の「必然」的な進歩や発展を見る考え方はソ連は当然のこと、特にフランス本国や日本において盛んだったようであります。
 伝えられるところでは、そのような階級闘争的アプローチは、ここ二十年ほどの間に、徐々に威光を減じつつあったという。その背景には、社会主義陣営の相対的な地盤沈下(ちなみに″チェコ事件″は、今から二十四年前です)があったことは、疑いを入れないでしょう。
 そして、ペレストロイカの嵐の中で迎えたフランス革命二百年をめぐる論議のなかで、だれの目にも明らかになったことは、マルクス主義の階級闘争的アプローチが、歴史解釈の主役の座からすべり落ちてしまったという事実であります。それから三年、ソ連邦のあっという間の消滅は、社会主義七十年の歴史に終止符を打つことにより″進歩″の幻想を吹き飛ばし、そうした趨勢を決定づけるとどめの一撃であったといってよい。
5  ゴルバチョフ改革への評価
 それにしても、成立時といい、その後の過程といい、暴力やテロを母斑のように刻印されているボルシェヴィズムが、大量の流血の惨を見ることなく終末を迎えたということは、振り返ってみると、ほとんど奇跡的といってもよいと思います。フューレ氏なども「予想に反し、まったくもって非常な驚き」(同前)と述べていますが、そうした奇跡的事態をもたらした大きな要因として、やはリミハイル・ゴルバチョフという人物の存在、ペレストロイカにかけた彼の不退転の信念を挙げることに、だれも異論はないのではないでしょうか。
 ソ連邦という枠を崩さずに改革の実を上げようとしたペレストロイカは、ある意味では挫折といえなくもない。また、党官僚への長年の怨念を抱え、かつ、経済的困窮など国内事情の急激な悪化に悩まされる人々の間から、権力の座を去った今、ゴルバチョフ氏を惜しむ声がほとんど聞かれないというのも、おそらく悲しい事実でしょう。
 しかし、多少なりとも冷静で長期的な展望の持ち主であるならば、多くの試行錯誤を重ねつつも、ペレストロイカ七年の歩みが、東西ドイツの統一をはじめ、練達のソ連ウオッチャー数多あまたいるなか、だれ一人予測することのできなかったほどの劇的なテンポで展開したことを、決して看過することはできないでしょう。
 時に自分を追い越してしまう時流に翻弄され、半ば途方に暮れながらも、世直しにかける初一念だけは、断じて手放そうとしなかったゴルバチョフ氏を石もて追う資格を、だれが有しているか。
6  後世の史家は、例えばチェコのV・ハベル大統領の「ゴルバチョフは典型的な党官僚としてそのポストに就いたが、真の民主主義者としてそのポストを去った」との評言の正しさを、立証するであろうと、私は信じております。
 ところで、私は、ハベル大統領の短文を、さすが希代の文人政治家にふさわしく、これまた希代の哲人政治家ゴルバチョフ氏の足跡を、曇りなき温かい眼で振り返った感動的な、レクイエム(鎮魂歌)として読みましたが、その中に、こんなくだりがあります。
 「共産主義の失敗の根因は、恐らくこの最も野心的なイデオロギーの本質的性格、すなわちあらゆるものを説明できるという主張、したがってあらゆるものを管理しにかかるその姿勢にある。共産主義はこうして事実上不可能な、矛盾がないと同時に完璧な思想体系になろうと努めた。そこから共産主義の最も顕著な特徴、すなわち全体主義的性格が生まれる」(バツラフ・ハヴェル「地球を読む」、「読売新聞」’92・1・6付)と。
 こうした主張は、他の論者からもなされており、特に珍しいものではない。また、随所に英知のきらめきが光る大統領の行文にあって、際立って鮮やかな印象を残すくだりではないかもしれませんが、同時に、その含意するところは、どんなに繰り返し強調しても、しすぎることはないでありましょう。それは、すべてを自分の意のままにしようとする、また意のままにできるという、人間の傲りという、古くて新しいテーマへと繋がっているからです。
 その傲りや思い上がりが、近代にあっては、「理性信仰」という新たな装いを凝らしていたことは、周知の事実であります。人間の理性の神格化、理性によって導かれ、描き出されたユートピアと、それへ向かって進歩しゆく歴史というものへの無邪気なまでの楽観――近代の啓蒙的合理主義は、ハベル氏の言う「完壁な思想体系」を目指しながら、その実、招来したものは、ソ連共産党の七十年の歴史が無残に物語っているように、ユートピアとは似ても似つかぬ「理性信仰」のグロテスクな肥大化でしかありませんでした。
7  善を欲して悪をなす、こうした逆接的事情は、ボルシェヴィズムのみならずジャコビニズムにも濃厚に体現されていたことは、当初はフランス革命を支持していながら、ギロチンの血塗られた刃に戦慄し、断固たる王党派に転じていった文豪シャトーブリアンのジャコビニズム告発の言葉――「あの名だたる完全主義システム」(先に挙げた「完璧な思想体系」という言葉とウリニつです)――に、はっきりうかがい知ることができます。
 そうした理性の倨傲きょごうを、人間の「抽象化の精神」がもたらす災厄であるとして、それとの「休みなき執拗な闘い」に生涯をかけた人に、フランスの哲学者G・マルセルがおります。彼は、かなり若いころから「自由」「平等」「博愛」などの抽象的スローガンの背後に潜んでいる平等主義的ファナティズムと、テロリズムとが、表裏一体の関係にあることを直感していた、という。
 従って、どんな美しいスローガンで装われていようとも、血なまぐさい革命劇に共感をおぼえたことは一度もなく、恐怖政治のもたらす罪悪に比べれば、むしろアンシャン・レジーム(旧体制)のそれのほうがまだまし、と断言してはばかりません。
 確かに、マルセルのようなスタンスは、ある意味では極論であるかもしれない。「人権宣言」が高らかに謳い上げた人間的諸権利は、内実はともかく、建前上はようやく人類共有の財産として、市民権を得つつあります。そうした点へのフランス革命の貢献を疑うことはできませんが、同時に忘れてならないのは、そうした時流は革命後三百年を経ようとするごくごく最近のことであり、しかも四半世紀前ごろまでは、口シア革命をフランス革命の衣鉢を継ぐ嫡子であるとする左翼イデオロギーは、まだ、猖獗しょうけつを極めていました。ファシズムなども含めて、二十世紀に猛威を振るったイデオロギーの悪酔いから醒めて、我々はまだ間もないのであります。
 それだけに、マルセルのような志操一難したイデオロギ‐批判は注視されてよい。「抽象化の精神――戦争の要因たるもの」として彼は言います。「私が、これらの存在者(=敵)を絶滅する用意をせねばならなくなるその瞬間から、まったく必然的に私は、亡ぼさねばならないかもしれないその存在者の個人的実在についての意識を失ってしまう。かかる人格的存在を蜉蝣かげろうのごとき姿に変えるためには、是非ともその存在を抽象概念に変換してしまうことが必要である。すなわちコミュニストだとか、反ファシストだとか、フアシストだとか‥…」(『人間、この問われるもの』、『マルセル著作集』6所収、訳者代表小島威彦、春秋社)
8  人情の「自然」切断し狂信ヘ
 確かに、道理でしょう。戦争に限らず人間は、相手の具体的な人格を感じていれば、ましてそれが親しい隣人であったとすれば、簡単に暴力行為に訴えられるはずがない。私はかつて、ルーマニアのブカレスト大学で講演した際に、普段は隣同士の付き合いをしていたブルガリア人と、心ならずも戦わなければならなくなったルーマニアの一農夫の言葉を、名作『はだしのダリエ』から引用いたしました。
 「おれたちゃ、ブルガリア人にどんなうらみがあるんだい? 友達だったじゃねえか。イヴアンも、ストイヤンも死んでよかったなあ。生きてりゃ、あいつらと戦場で顔を合わせるところだったぜ。こんな恥ずかしいことがあるもんか」(ザハリア・スタンク『はだしのダリエ』直野敦訳、恒文社)と。
 人間だれしも共有する、素朴な人情の自然のしからしむるところであり、古来、それが人間同士の絆を形成してきました。マルセルの言う「抽象化の精神」とは、何よりもこの人情の自然な流れを強引に切断(宗教的な超越ではなく)し、人情の「自然」に代わるに、憎悪、怨恨、嫉妬などの歪められた「情念」をもって、人々を狂信的行動へとあおり、駆り立ててしまうのであります。ちなみに、フランス革命と同時代人であるイギリスの思想家E・バ―クが、保守主義のパイブルといわれる『フランス革命の省察』(半澤孝麿訳、みすず書房)で、しばしばキー・ワードとして用いているのは、この「自然」であり、バークにとってフランス革命の急進的なあり方は、「自然」にもとるがゆえに、反人間的なものへと堕さざるを得なかったわけであります。バークの漸進主義的な、優れてイギリス的な物の考え方、発想も、保守、革新といった旧態依然たるイデオロギーに捉われぬ、曇りなき眼で、改めてスポットを当てられるべきだと思います。
9  抽象的思考というものは、確かに人間に固有の能力であり、それなくして我々は、一日たりとも生きていけません。しかし、抽象されたものは、絶えず現実という具象を通して検証され続けなければならない。そのことを怠って、抽象概念が独り歩きし、あまつさえ暴走してしまえば、人間と社会のうえに、取り返しのつかない傷跡を残してしまいます。不幸にしてフランス革命にしてもロシア革命にしても、華やかに喧伝され続けてきた栄光の足跡の反面、そうした「抽象化の精神」のもたらした暗く痛ましい側面を合わせ有していることを、苦い教訓とともに自覚せねばならない時を迎えているようです。ジャコビニズムやボルシェヴィズムの恐怖政治を、階級闘争の先鋭化された形態と位置づけ、おびただしい人柱の慟哭をば、抽象概念をもって等し並に覆い隠そうなどとするイデオロギー優先、人間蔑視の歴史観は、クレムリン官殿の塔の先から引き降ろされた旧ソ連邦の赤旗と同じく、早晩、過去の遺物として消え去りゆくことは必定であります。
10  さて、ここで、以上述べてきたことを確認し、人間の業――善を欲して悪をなし、支配するつもりで常に何ものかに支配されゆく業ともいうべきものを、更に検証する意味からも、猛威を振るう「抽象化の精神」に人間が翻弄されゆく様を、迫真力をもって描き出した二つの文学作品に、簡単に触れておきたい。一つは、アナトール・フランスの『神々は渇く』であり、もう一つは、ポリス・パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』であります。私の限られた読書経験に照らして、この二冊は、それぞれフランス革命とロシア革命の暗黒面、負の側面を容赦なくえぐり出した出色のものといってよい。彼らの訴えに耳をそばだてずして、両革命の遺産(何をもって遺産とするのか、論議が分かれるでしょうが)を正しく継承していくことはできないと、私は確信しております。
 『神々は渇く』は、革命の理想に燃えたエヴアリスト・ガムランという一青年が、革命裁判所の陪審員となり、私情をはさまぬ峻厳な裁きで多数の敵をギロチンヘ送るが、因果はめぐり、最後は自らも師ロベスピエールとともに、断頭台の露と消えていくというのが粗筋であります。
11  多くの革命家と同様、ガムランも生まれながらの冷血漢ではない。それどころか、飢えた母子を見るにしのびず、乏しいなか、自らのパンを分かち与え、平然と空腹に耐えていくことのできる心優しい青年であった。純粋な彼は、献身的で自己犠牲をも少しも惜しまなかった。恐ろしいことは、こうした純粋で理想主義的な若者ほど「抽象化の精神」の魔力のとりこになりがちなことです。ロベスピユールの演説に聴き入るガムランの心事を、作者はこう描き出しております。
 「賢者ロベスピユールの演説を聞いて、彼はより高くより純粋な真理の数々を発見した。いい加減な偶発事の次元よりはずっと高く、感覚の誤謬に陥ることのない、絶対的に確実な領域へとおのが精神を引き上げてくれるところの、革命的形而上学を彼は納得することができた」「ガムランは救いの言葉と破滅の言葉とを知った信者のような深い喜びを味わった。今後は、革命裁判所は、かつての宗教裁判所のように、絶対的な犯罪を、言葉の上の犯罪までをも、追及することになるであろう。そう考えると、エヴァリストは宗教的精神を持っていたので、これらの啓示を暗い熱狂をもって迎えた。今後は、有罪と無実とを見分けるための、一つのシンボルを自分は所有しているのだと思うと、彼の心は昂揚し、喜びにあふれた」(大塚幸男訳、岩波文庫)と。
12  人間が人間を裁く思い上がり
 絵にかいたような狂信の誕生・増幅であり、抽象的な観念にとりつかれた平等主義的ファナティシズムが、テロリズムと一体化しゆく委曲が、不気味に活写されております。これは、かのドストエフスキーが″ネチャーエフ事件″(帝政ロシア時代、若者の革命家集団内で起きたリンチ殺人事件)に触発されて著した『悪霊』のテーマと深く通じており、ガムランに限らず、またフランス革命に限らず、学生運動や青年運動の高揚にしばしば見られる逆説であり悲劇であることは、申すまでもありません。
 人間が、いとも簡単に人間を裁こうとする思い上がりを、その背景にある理性の傲り(ジャコバン派は、文字どおりの″理性の祭典″をノートルダム寺院で催しております)を含めて、アナトール・フランスは、作者の分身と見られる登場人物の口を借りて、痛罵しております。「われわれを教化しようと狂奔している君たちジャコバン派」「われわれを有徳・賢明ならしめるために、そして『至高の存在』をわれわれに崇拝させるために、われわれをギロチンにかけようといきり立っているあのへぼ法律家たち――」(同前)と。
 アンシヤン・レジームの過去と決別するために、制度や法律を作り直すことは、ある意味では容易かもしれない。しかし、人間を作り直すとなると、そうはいきません。人間にまつわる事柄は、下世話な言い方になりますが、急いで事を運ぼうとすれば、必ず無理が生ずるし、無理を押し通そうとすれば、暴力や脅しに訴える以外にない。政治的急進主義に、必ずといってよいほど、暴力の暗い影がつきまとっているゆえんです。
13  『ドクトル・ジバゴ』の主人公も、そうした急進主義に対するあからさまな嫌悪を隠そうとしません。ちょうどガムランによく似た若く純粋で、客気にあふれたボルシェヴィキのイデオローグの能弁に対し、ジバゴは、吐き捨てるように言います。「――あなた方なんぞ糞くらえだ。あなた方の精神的指導者は諺がお好きなようだけれど、肝心なやつを一つ忘れていますね。腕ずくで歓心は買えぬ、というやつです。それに、別に頼まれもしないのに人を解放しては、恩恵を押しつける癖がどうにも抜けないようですね」(江川卓訳、新潮文庫)と。
 医師であり、類まれな繊細な精神をもった詩人でもあるジバゴにとって、画一的なイデオロギー教育なとしはど、鼻もちならぬ独善というしかなく、まして、年端もいかない若者がそれをしたり顔で説き及ぶなど、笑止以外の何ものでもなかったのでしょう。慇懃無礼な傲慢さというか、一方的に無機質な論理を押しつけてくるだけで、一向に対話の成立しない相手の人情不感症へのジバゴのいらだちが、この名作の随所に読み取れます。確かに、彼らの善意を疑うことはできないでしょう。事実、初期ボルシェヴィキの教育理論の中心者であったクルプスカヤ(レーニン夫人)なども、ルソーの『エミール』流の自然教育を奉ずる、極めて善意の楽観主義者であった。
14  善意の底にあるエゴイズム
 しかし、人間の素朴な善意などというものは、自らの内なるエゴイズムとの徹底した対決がないかぎり、いつ支配欲に――それも、むき出しのそれではなく、イデオロギー的粉飾をほどこされたもっともらしい支配欲に転じていくか、しれたものではありません。D・H・ローレンスが「聖徒」(『アポカリプス論』)でレーニンの善意の底にかぎとっていた権力欲の臭気が、まさにそれであります。そこに「抽象化の精神」の魔性が潜んでおり、ジバゴをいらだたせます。
 「人生の改造ですって! そんなことを平気で論議できるのはですね、なるほど経験だけはいろいろと積んできたかもしれないが、一度として人生のなんたるかを知ったことのない連中、人生の息づかい、人生の魂を感じたことのない連中だけですよ。そういう連中は、存在というものを、まだ自分たちが手をかけてよりよきものに仕上げていない原材料のかたまり、これから加工すべき素材のように考えているんです。ところが人生は、かつて一度として材料であったり、物であったりしたためしはない。人生というものはですね、それ自体がたえずみずからを更新していくもの、永遠に自己改造をつづけていく根源なんですよ。それはたえずみずからの手で自分を改造し、更新していく、それは、ぼくらの愚鈍な理論などをはるかに超越したものなんです」(同前)と。
15  私は、本稿とは別に、この個所に言及したことがありますが、ジバゴのイデオロギー批判のなかでも、白眉のところであると思っております。しかし、善意のボルシェヴィキは、いっかな耳を傾けようとせず、入門書風のドグマを開陳し続けて飽くことを知らない。その鉄面皮から、分からずやには力をもって――の強制に至るまでは、おそらく一歩を余すのみであります。
 その意味では、クルプスカヤのころからほどなく、スターリン時代のソ連で、人間不信のうえに立ったマカーレンコ流の管理教育、人間による人間支配のための教育理論への逆流が興ったことは、なにやら示唆的です。その「あらゆるものを管理しにかかるその姿勢」(ハベル)が、ノーメンクラツーラと呼ばれる傲慢な人間群を、おびただしく生み出してきたことは改めて指摘するまでもありません。
16  永遠に自己改造しゆく根源
 以上『神々は激く』『ドクトル・ジバゴ』を瞥見しながら「抽象化の精神」のもたらす悪について、若干のアプローチを試みてきましたが、その悪たる最大のゆえんは、「抽象化の精神」が、人間精神に外から、外発的に、しばしば外圧的に働きかけてくることを通性にしているからだと思われます。
 ジバゴが、人生について「それ自体がたえずみずからを更新していくもの、永遠に自己改造をつづけていく根源」(同前)と精妙に語っているように、人間に関する事柄の進歩や改革は、内発的な促しや内発的な力によって自らが成しゆく以外に、本当の意味では不可能なはずです。外からの働きかけは、あくまで、そうした内発的なるものを喚起していくための副次的要因にすぎない。にもかかわらず「抽象化の精神」につかれた人々は、内発的要因を観念論として徹底して軽視し、すべてをあらかじめ設定された外発的なイデオロギーの基準枠にはめこもうと、無理に無理を重ねてきました。ここ数年の社会主義社会の地滑り的崩壊は、そうした長年にわたる無理のツケが、一挙に回ってきた結果であります。
 そして、ひとたびイデオロギーの粉飾がはぎとられたあとの精神面での荒廃は、「抽象化の精神」がいかに無残に人々の心を切り苛んでしまうかを示して余すところなく、慄然たらざるを得ません。
17  従って、今最も求められていることは、人間性の勲章であり証でもある内発的なるもの、内発的な精神性を、人間と社会にどう蘇らせていくかの一点にかかっているとはいえないでしょうか。
 私は、昨年九月、アメリカの名門ハーバード大学に招かれ「ソフト・パワーの時代と哲学」と題して講演を行いましたが、私が一貫して訴えたのも、その一点でありました。
 幸い、講演には多くの方々からの共感と賛同の声が寄せられました。なかでも、アメリカの宗教研究の第一人者であるハーバード大学のハービー・コックス教授は、内発的な精神性が欠落しているのは、旧社会主義圏に限ったことではなく、ほかならぬアメリカにも、その現象は顕著である。ゆえに、私が講演で力説したアメリカ・ルネサンスのころに横溢していた内発性を、どう蘇らせていくかということこそ、喫緊の課題である――と力説しておりました。
18  体制のいかんを問わず、今や文明論的課題となりつつある内発的なるもののルネサンスに、私どもも全力で取り組んでまいりたい。創価のルネサンスとは、内発的なるもののルネサンスの異名であるからです。なぜなら、宗教が単なる教義や形式にとどまっていたとすれば、それは、ハード・パワーでしかない。そうではなく、宗教が、人間の精神を陶冶することによって内発的なる精神性を薫発させていったとき、初めて、ソフト・パワーとして花開くのであります。そこにこそ、私どもの標榜する「人間のための宗教」の真髄が輝き、また、そこにこそ、日蓮大聖人の仏法の世界宗教たるゆえんもあることを確信していきたいと思います。
19  精神の大国としてのインド
 それに関連して、インドについて一言しておきたいと思います。私はまもなく、十三年ぶりに、この「精神の大国」を訪問いたします。日印国交回復四十周年にもあたり、今後の日印関係、アジア情勢など多角的な対話を交わしてくるつもりですが、私の最大の関心事は、先に述べた「抽象化の精神」の対極にある内発的精神性を、最も豊かにたたえている国こそインドではないかという点にあります。
 インドといえば、すぐガンジー、ネルー等の巨人が頭に浮かびますが、例えば、両者の政治路線一つとってみても、大きく異なります。ガンジーの場合が、ヒンズーイズムの伝統を色濃く帯びた土着思想であるのに対して、ネルーは、社会主義に親近する近代主義者でした。
 しかし、ジャコビニズムやボルシェヴィズムを特徴づける政治的急進主義を排するという一点では、両者は一致していたようです。私は、そこに「精神の大国」に脈々と受け継がれている内発的なる精神の働きかけをみたいのであります。
 ガンジーの有名な言葉に、こうあります。
 「社会主義は水晶のように純粋である。したがって、社会主義達成のためには水晶のような手段が必要となる。不純な手段は目的を不浄にして終わることになる。(中略)したがって、インドにおいても世界においても、社会主義的社会を築くことができるのは、純粋な心の持主で、誠実にして非暴力的な社会主義者のみである」(K・クリバラーニー編『抵抗するな・屈服するな―ガンジー語録』古賀勝郎訳、朝日新聞社)と。
20  社会主義というものの本質を直撃する、まことに透徹した洞察であるといってよい。社会主義の理論は、確かに抽象化された整合性をもつ、美しい理想である。それゆえ、人々は、ともすれば急いで、せっついてそれを実現しようとする。良いものとわかっていれば、早ければ早いほど良いに決まっているからです。
 その結果は、制度の改変を急ぐあまり、それを推進する肝心の人間への目配りが、おろそかになりがちです。それゆえ、社会主義の致命的欠陥は、美しい理想を担うに足る「純粋な心の持主で、誠実にして非暴力」の人間を養成できなかった、というよりも養成しようとしなかった点にあるのであります。ガンジーはもとより、ネルーのような近代主義者であっても、インドの良き伝統に照らされて、「抽象化の精神」が引き起こす急進主義の悪というものを、はっきりと見抜いていたようです。私は、それはインドのみならず、人類の尊い遺産であると信じております。
 ガンジーも言うように、あらゆる変革、改革は、それにふさわしい人間を要請します。私どもの掲げる「人間主義」にあっても同様であります。それはまた、イデオロギーの悪夢からようやく醒めようとしている現代への、かけがえのない指標でもありましょう。ゆえに、本年もともどもに、「人間革命」を機軸にした「人間主義」の大道を、勇んで邁進していきたいと念じております。
21  ともあれ、戦後長く続いた世界を東西に三分して争う対立の時代に終止符が打たれました。今、必要なことは、世界地図の大きな変化に即した新しい地球社会の秩序の青写真を明確に描き出し、そこに到達するのに英知を結集することであります。
 私はかつてローマ・クラブ創始者のアウレリオ・ペッチェイ博士と環境問題を包括的に討論し、対談集を編みました(『二十一世紀への警鐘』読売新聞社。英語版タイトル″Before It Is Too Late″〈手遅れにならないうちに〉)。ペッチェイ博士亡きあとローマ・クラブは昨秋、久々に「初の地球規模の革命」との新しい報告を発表しましたが、そこでは、二十一世紀への生存のために人類の英知を可能なかぎり速やかに発動しなければならない、としております。手遅れにならないために、私もそう思います。
22  東西の厳しい対立が解けた現在、貧困、人口爆発、環境破壊など年来の地球的規模の諸問題に今こそ真剣に取り組まねばなりません。とりわけ本年はグローバルな環境問題の解決のために、極めて重大な分岐点の年になると思われます。六月に世界各国の首脳と関係NGO(非政府組織)がブラジルのリオデジャネイロに集まり「環境と開発に関する国連会議」(UNCED)、いわゆる「地球サミット」が開かれることになっており、私もその成果に期待を寄せている一人ですが、見通しは楽観を許さないようであります。
 周知のようにこの国連会議は、一九七二年にストックホルムで開催された人間環境会議から二十周年を画して行われるものであります。二十年前のストックホルム会議では多くの行動計画を採択し、その後、各種の国際条約が採択され、新しい機構もできたにもかかわらず、事態は好転するどころか、むしろ環境破壊の危機が深刻化し、南北の対立も激化しております。
 理由は明らかであります。この二十年間、先進諸国は何よりも生活の豊かさを追い求め、経済成長至上主義の道を突き進んできました。自国の繁栄が第一であり、地球環境への配慮は二の次にすぎませんでした。
 発展途上国への開発援助は続けてきましたが、それが途上国の人々の暮らしを向上させることに直結せず、貧困とそれにともなう人口爆発は放置されたままでした。これが結果的に途上国内部での環境破壊に繋がっております。これらの行動が複合化し、地球的な環境破壊を招くに至りました。
23  途上国の女性に教育機会を
 環境問題と並び早急に何らかの手を打たねばならないとされるのが、人口の急増の問題であります。現在の世界人口は五十四億人に達しており、ストックホルム会議以降でも、十六億もの人口増加となっております。
 このままいくと世界人口は、二〇五〇年には地球の収容能力をはるかに超えて百億人に達するといわれます。しかも、その増加人口のほとんどが途上国の人々であります。俗に″貧しい人の子だくさん″といわれるような現実が途上国の社会にも見られます。現在の途上国の乳幼児の死亡率の高さは、なるべくたくさん子どもを産んでおこうという母親たちの心理にも結びついております。
 その結果、人口の増加率は貧困の度合いが最も激しい地域で最高値を示しております。まさに貧困の解決なくして人口問題の解決もないといえましょう。
24  と同時に、貧困と人口増加に苦しむ途上国の人々が、無理な焼き畑農業や無計画な薪取りなどで、自然環境に打撃を与えてきたという側面もあります。
 地球環境の悪化と、人口の増加、貧困とはこのように密接に関係しあっており、人類は三つの大問題を同時に総合的に解決しなければならないという極めて困難な事態に直面しております。
 貧困から脱出するには、先進国からの有効な援助が必要なことはいうまでもありませんが、究極的には途上国自身の内発的な開発努力が必要であります。そのカギを握るのが教育であります。
 人口の抑制には産児制限教育の推進という課題がありますが、大事なことは総体的に途上国の人々の教育の機会をいかに増やすかにあります。特に女性に教育の機会が与えられれば、社会的進出が増え、出産する子どもの数が減ることが統計上も明らかになっております。
25  このような地球に見られる南と北の発展の不均一をどう是正していくかが、今、人類の直面しているアポリア(難問)といえましょう。こうした認識に立って、国連支援活動の一尉として創価学会婦人部の婦人平和委員会が中心になり、これまで「WHAT'RE 子どもの人権展」(ユニセフ協賛)と「世界の子どもとユニセフ展」を日本各地で開催し、多大の反響を呼んできました。
 今、世界には約一億五千万人もの幼児が飢餓状態に置かれているという。また戦争や劣悪な医療事情や自然災害などで一日に四万もの幼い命が失われております。これらの展示はこうした世界の危機的状況にどう想像力を働かせ、認識を深めていくかという目的意識のもとに推進されてきました。先進国と途上国の人々とが地球市民としての心の連帯を、日常の場からどう築き上げていくかという、極めて困難な課題に挑戦するユニークな試みとして、私も陰ながら応援を惜しみません。
 ともかく九〇年代のうちに、貧困と飢餓と人口問題に有効な手を打たないと手遅れになりかねないことを重ねて強調しておきたい。
26  九〇年代の地球的課題は、更に千七百万人といわれる難民の問題にも顕著に見られます。戦火を逃れ、周辺の国々へ流出する通常の難民に加え、貧困から脱出しようとして先進国に殺到する人々や民族紛争で国内をさまよう人々なども激増し、国際的な大問題になりつつあります。私どもSGI(創価学会インタナショナル)が国連のNGOとして難民救援活動に熱心に取り組んでいるのも、現状を極めて深刻に認識しているからであります。
 まさに一つ一つの事態への対節が急を要しており、九〇年代は人類の生存をかけた選択が迫られている時代といえましょう。
 本来なら、こうしたグローバルな課題に、南も北も差別なく、一致協力して取り組まねばならない。しかし現実には、六月の地球サミットを前に、先進国と途上国との対立があらわになっているのは、まことに憂慮にたえません。
27  ブラジルの国連会議の最大の目標は、環境と開発を統合する理念である「持続可能な開発」の具体化といわれております。ここでは環境を破壊し資源を浪費する従来型の開発ではなく、環境保護を視野に入れたバランスのとれた開発が模索されております。未来を直視し、将来の世代の利益を守りつつ、現在の世代の基本的欲求を満足させるような開発が目標にされております。しかし、持続可能な開発を具体的にどう進めるかをめぐって、南北の対立は容易に解けそうにない。
 特に途上国が先進国の責任を聞う声は一段と厳しくなっているようです。環境問題をこれほど悪化させたのは、先進国の大量消費文明に第一の責任がある――と。加えて、これまでの北側の開発政策そのものへの批判が強まっています。南の民衆の生活向上に結びつかず、環境破壊を未然に防止できなかったからであります。
28  確かに先進国主導の開発の仕組みが、途上国の貧困の解消どころか、膨大な累積債務を生み出しており、途上国の人々が環境保全に目を向ける余裕を失わせていることは否定できません。
 これまでの援助が有効な使われ方をしてこなかったことも、改めて見直されねばならないでしょう。途上国の年間の軍事費は二千億ドルに及ぶといわれております。援助された資金の多くが武器の購入に充てられている現実を早急に変える必要があります。内政不干渉との兼ね合いもありますが、援助する国または国際機関が、被援助国の軍事費の支出度、武器購入の実態などを総合的に判断し、援助の是非を決定するようなシステムが確立できれば、途上国の軍事費の増大に歯止めとなりましょう。
29  南と北が鋭く対立する一方、先進国同士でも対策に足並みがそろわず、地球サミットの前途に暗雲が垂れこめております。
 例えば地球サミット最大の課題といわれる温暖化防止枠組み条約の採択をめぐって、西欧諸国と米国との対立が目立っております。地球の温暖化をもたらす二酸化炭素(CO2)の排出量削減に西欧諸国は積極的ですが、温暖化のメカニズムに疑問をもち、経済への打撃を心配する米国は消極的であります。
 南北の対立と、北側の内部の対立という極めて複雑かつ困難な事情を抱え、国連会議の成功すら危ぶむ声も聞かれます。
 いうまでもなく環境問題は、自然生態系の中でいかにして共存のシステムを構築していくかという問題であります。従って、政治、経済、科学技術の領域を超えて、人間の生き方を根本的に問うものであり、価値観から未来社会の文化の在り方までの全領域を含む複合的問題であります。
30  それだけに問題は単に国内の政治、経済のレベルの対応にとどまらず、全地球的な人々の意識の変革を進めねばなりません。そのためにも、内発的な精神性の要請は、急を告げております。先に「抽象化の精神」に言及したとき、私の念頭には、常に環境問題がありました。体制のいかんを問わず「抽象化の精神」は、人間に対してと同様、自然に対しても凶暴な刃を振るい続けてきました。特に、旧社会主義諸国の、我々の想像を超える環境破壊のすさまじさは、記憶に新しいところでしょう。地球市民として、危機意識を共有する内発的な意識変革こそ、まさに人類史的課題といってよい。
31  それと並行して、地球の難局に対処する国際的体制、システムを新たに創出せねばならないという緊急の課題にも直面しております。
 東西の冷戦が終結し、米ソの対立がなくなったことにより、国連が活性化され、″国連ルネサンス″という言葉さえ聞かれます。確かにかつてのように安保理事会で拒否権が乱発され、国連が機能マヒに陥るような事態はなくなりました。
 しかし、その一方で現状の国連が環境危機に代表されるような地球的問題群にうまく対応できているかというと、決してそうではありません。
 国連が誕生して四十数年が経過し、地球を取り巻く状況は国連創設時と大きく変わっております。国連を創設した人々の発想のなかには、現在のような地球的危機への問題意識は薄く、環境問題は当然、主要課題とはいえませんでした。
32  地球的問題群に柔軟に対応
 従って、私はもうそろそろ本格的かつ抜本的な国連の改革、すなわち地球的問題群に対応しうる新時代の国際機関の創出に乗り出すべき時を迎えていると思うのであります。東西対立の重しが消えた今こそ、そのスタートを切るのが可能なときといえましょう。
 私が、今から十三年ほど前に「環境国連」の設置構想を呈示したとき、発想の根底には近い将来、必ずそれが要請されるとの確信が込められておりました。
 その延長線上に、昨年、私は国連の安全保障理事会を三分し、新たに「環境安全保障理事会」を新設してはどうか、との提案をいたしました。その提案に対しては、日本国内のみならず、世界的に心ある人々から賛意が寄せられたのは心強いかぎりであります。
 機は徐々に熟しつつある、と私は見ております。もはや特定の五大国が安保理事会を独占し、世界を牛耳る時代ではない。識者の間でも国連の安保理事会を複数のものにして、環境問題や食糧問題を取り扱ってはどうかとの案が出されているようです。国連当局も、新しい時代に即応した柔軟な発想で対応していただきたいと願うものです。
33  何度か日本で親しくお会いし、意見の交換を重ねている北欧の代表的な平和学者のヨハン・ガルトゥング博士が興味深い国連改革案を提示していたのを思い起こします。それは国連を上院、下院の二院制にして、上院は現在のように一国一票制、下院は人口比にしてはどうかというものです。
 私が興味深いと思ったのは「二院制」という思い切った発想の転換です。二院制が妥当かどうかはともかく、そのような思い切った改革が今要請されていることは間違いありません。つまり、地球的問題群に効果的な対応をするには、現状の経済社会理事会とそれに連なる貿易開発会議、環境計画、人口基金、開発計画などの諸機関の体制では十分とはいえない。むしろ平和維持機能を担う国連と、環境、経済、開発、人口、食糧、人権問題など地球的問題群を担当する国連を二つの独立した機関として構想し、抜本的強化を図ってはどうかと思うのです。
34  前者を「安全保障国連」と呼び、後者を「環境・開発国連」と名付けてはいかがでしょうか。これによりバラバラで横の連携が悪いとか、活動が重複してムダだというような国連組織への批判をなくすことができるはずです。国連機関の総予算、人員の七割が発展途上国への開発援助や人道的活動に振り向けられている現状からすれば、「環境・開発国連」の新設は、むしろ時代の要請といってよいと思います。ここには「安全保障国連」の安保理事会に相当するものとして「環境・開発安全保障理事会」を新たに設置するものとします。
 既存の経済社会理事会の再編強化ではなく、発展的に新しい機構の創設を提案する理由は「環境・開発国連」を国際的な意思決定を下せる強力な国際機構にしなければならないからであります。ここを単なる国際的協議機関にとどめてはならないと思います。
35  指摘するまでもなく現在の国連の限界は、主権国家の集合体という組織形態からきております。加盟国の国益が表に出てしまい、「地球益」「人類益」の立場からの自主的な決定を下すのが難しいのであります。
 「環境・開発国連」はこの限界を乗り越えるある程度の強制力を備えたものを構想しております。
 「環境・開発安全保障理事会」の常任理事国、非常任理事国はGNP(国民総生産)や、人口の大きさなどを勘案しつつ選び、世界の各地域代表も加えて構成し、南北の考え方がバランスよく反映する形をつくる必要がありましょう。
 もとよりこの構想の実現のためには、越えなければならないハードルが幾つもあることはよく承知しております。例えば今でも国連の財政は逼迫しており、それが現在の国連を基盤にするものであっても、新たな機構を創設することは無理ではないか、との疑問が出されるかもしれません。
36  しかし、地球が直面している危機の深刻さを思うと、その解決を担う国際機関への財政支援の強化は、一国の利害からでなく、地球的視座から考えねばならないと思います。現在の国連の年間予算は約二十二億ドルといわれます。年間一兆ドルといわれる膨大な世界の軍事費に比べると、また国連の今日的重要性から見れば、とうてい不十分であります。
 特に国連が環境保全を十分意識した持続可能な開発を推進する体制は財政的にも整っていない、といわれる。例えば重要な使命をもっているはずの国連環境計画(UNEP)の年間予算はわずか四千万ドルで、これは米国の有力民間環境保全団体の予算の半分にしかならないそうであります。
37  国際機関への財政的支援を
 確かに先進国のなかでも、日本を除いて欧米各国は不況と高い失業率に悩んでおります。「独立国家共同体」諸国も経済危機に直面しており、国際的な経済支援を受ける側に回ってしまいました。従って国際機関を財政的に支援する余裕がある国は少ないといわれるかもしれません。だからこそ、私は、東西の冷戦が終結した今、思い切って発想を転換し、膨大な軍事費を削減し、それをもって国連を財政的に支援する分担金、拠出金の増額を考える以外ないと言いたい。もはや軍備に膨大な資金を投入する理由も余裕もないはずです。
 まして地球的規模で温暖化防止、生物種の多様性確保など様々な環境保全に本格的に取り組むには、莫大な経費がかかります。最近、六月に行われる国連会議の準備にあたっている事務局が必要な資金額を算出したところ、年間一千二百五十億ドル(約十五兆六千億円)になるそうであります。これは一九九二年から二〇〇〇年までの八年間を対象に、環境保全に必要な経費を算出したものです。毎年、これだけの額が必要だとすれば、これをどこから捻出するのか。
 それには年間、一兆ドルに近いと推定される世界の軍事費を劇的に削減する以外、道はないのではあるまいか。一つの具体的な案としては、各国が軍事費を削減し、その一部を地球環境保全のための「国連軍縮基金」として拠出することが考えられましょう。
38  こうした環境保全のための資金は、政府、自治体などの公的機関だけに任せておくのではなく、意識啓発の意味も含めて各国の関係NGOも何らかの協力をすべきでありましょう。募金活動も含め国連を財政的に支援する知恵を出し合ってはどうでしょうか。
 六月の国連会議には世界各国から多数のNGOが集合します。NGOの参加がこれほど期待されている国連会議はかつてないといわれており、この場でこうした現実的課題がよく話し合われねばなりません。経済社会理事会のNGOとして国連支援を続けているSGIも、地球サミットに積極的な貢献を考えていきたい。具体的には、今回の国連会議の事務局とブラジル・リオデジャネイロの環境局の協力を得て、展示――「環境と開発展」を中心にして環境保全の啓発運動を進めていくことが計画されております。
39  ところで、私が構想する「環境・開発国連」の成否は、各国が国益より「地球益」、すなわち人類の生存と地球の存続を最優先する姿勢に立てるかどうかにかかっているといっても過言ではありません。各国がこれまでの国家主権至上主義の発想に固執するのではなく、主権の一部は委譲するぐらいの決意が必要とされます。
 その点で、欧州共同体(EC)の成果を参考にすべきでありましょう。ECは近い将来、各国通貨を廃止し、共通の単一通貨に切り替える経済・通貨同盟を決定済みであります。
 更に外交・安全保障などの面でも共通の政策を目指す政治同盟を結ぶといわれております。これらは国家主権の大幅な制限、ないしは委譲を意味するものです。この脱国家主権という流れを、今後、どう国際機関に反映させていくかが大きな課題だといえましょう。
 例えば今「国際課税」の考え方が注目されております。既に六月の国連会議の事務局から、地球環境保全に必要な資金を得るために、海洋や大気など国際公共財を開発、利用する際に利用料を徴収する案が出されております。
 もし各国政府がこれを徴収して国連に入れる形が実現すれば、地球環境保全資金になるだけでなく、国家主権を絶対視する発想を払拭するうえでも意義があります。ECの動きに象徴的に見られるように、主権国家の在り方が根本的に問い直されている現在、実現の方向性が積極的に検討されるべきではないでしょうか。
40  主権国家の集合体としての国際機関の限界を乗り越えるには、これまで環境保全、人権擁護、開発協力などに力を発揮してきたNGOの建設的なエネルギーを、どのように取り入れていくかが大きな課題となりましょう。
 政府だけではなく、市民レベルの声を結集できるNGOをはじめ、主要な国際行動主体のすべてが参加できる形をどう新しく作り上げていくか――その意味で「環境・開発国連」の新設にともない作られる「環境・開発国連憲章」はグローバルな民主主義を基盤にした、二十一世紀の人類の進むべき道を示すものとなりましょう。
 国連は一九九五年に創設五十周年を迎えます。この五十周年へ向けて、国連の抜本的改革への世界的な世論を巻き起こしていきたいものです。
41  世界平和の基盤強化の意義
 次に、アジアの新しい情勢に関して言及しておきたい。
 私は一昨年一月、第十五回「SGIの日」に寄せた記念提言で、東欧で始まった自由と民主化を要求する波は、やがてアジアにも影響を及ぼすであろうと予馴し、分断状況が固定化されてきた大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との関係改善に強い期待を寄せましたが、昨年一年の変化の大きさは、まさに私の期待どおりの展開を見せました。
 南北の平和と統一に関する昨年の動きで画期的な出来事としては、(1)南北の国連同時加盟(2)「南北間の和解と不可侵および交流・協力に関する合意書」の採択(3)南北の「非核化共同宣言」の合意がありました。
 それぞれ両国にとって、分断以来、最重要な歴史的出来事であったばかりでなく、北東アジアの緊張関係はもとより、世界平和の基盤を強固なものにするためにも重大な意義をもつことはいうまでもありません。なかでも両国の国連加盟は、対立構造を突き崩す重みをもつ出来事でした。民族を代表する単一議席での参加という願望は将来の課題となりましたが、この国連加盟は「共存の時代」を象徴するものとなりました。
42  更に昨年十二月中旬の第五回南北首相会談では「南北間の和解と不可侵および交流・協力に関する合意書」が採択されました。
 私は一九八五年のSGI発足十周年記念提言の中で、アジアに対話の機運が盛り上がりつつあることを評価し、特に韓国と北朝鮮の最高首脳による首脳会談の重要性を強調しました。引き続きその翌年の提言でも、南北の最高責任者が直接会い「相互不可侵・不戦」の誓約をしてほしい、と願いました。
 今回の合意書には、私が提言した「相互不可侵・不戦」の誓約が、明確に記されております。また第十一回「SGIの日」記念提言で触れた「非武装地帯を平和と文化の拠点に」という主張も、合意書には「非武装地帯の平和的な利用問題について」南北で今後、検討していくことが述べられています。(両提言は本全集第1巻収録)
43  更に南北の「非核化共同宣言」の合意は、アジアのみならず世界の核軍縮の流れに一段とはずみをつけるものとして歓迎したい。
 既に平和への設計図が示されたといってもよい段階を迎えました。あとは、この設計図に従って、どう進め、現実化していくかということです。「南北間の和解と不可侵および交流・協力に関する合意書」「非核化共同宣言」の合意が、それぞれ、誠実に実行され、具体化していくことを、強く念願してやみません。
 今年の慮泰愚大統領、金日成主席の新年の辞でも、それぞれ平和と統一への強い意欲が表明されました。今後のステップとしては、政府レベルでの合意に基づいて、両最高首脳の直接会談の早期実現を強く期待するものです。年頭の慮泰愚大統領の記者会見でも、金日成主席との直接会談への意欲が示され、「遠くない時期に実現する」との見通しが示されましたが、政府間の合意を強化し、その合意内容を現実化していくためにも、両首脳が直接会談することは、重要な意義があります。
44  こうした昨年から本年にかけての南北の緊張緩和と平和への歴史的うねりを見るとき、世界の国々のなかで、戦争と国家抗争により最も大きな犠牲を払ってきたこの地域の宿命ともいうべき対立の構造が、大きく変わる時を迎えていることを痛感するものです。
 この好機を逃すことなく、今世紀の大半を戦火と外国の侵略、支配、民族の分断に苦しみ抜いてきた両国の民衆がい真実の平和を享受し、繁栄のなかに晴れやかに新世紀を迎えることこそ、二十世紀をともに生きた私たちの心からの願望であります。
45  更にカンボジア情勢にも触れておきたい。私は四年前の「SGIの日」記念提言の中で、人道的見地からカンボジアの情勢に言及し、長期化しているカンポジア内戦の一日も早い解決を要望いたしました。幸いなことに昨年、十三年に及ぶ内戦に終止符が打たれ、平和の足音が聞こえ始めたことは喜ばしいかぎりであります。紛争当事者四派間の相互不信はなお完全に消えておらず、政治的安定と経済再建の道は困難が予想されますが、ともあれ国民的和解へ向けて前進しはじめたことを歓迎したい。
 このたび、国連カンポジア暫定行政機構(UNTAC)の国連事務総長特別代表に就任し、カンポジア再建の最高責任者となった明石康氏はかねてからの知己であり、同じ日本人の一人として、またアジアの平和を念願する仏法者として、国連史上でも前例のないといわれる難事の成功を心から祈るものであります。
 UNTACはカンボジアの明年の新政権誕生まですべての統治業務を請け負うそうです。国連がこれだけ本格的に一国の再建に携わった例はないといわれるなか、貴重な平和維持活動の体験であり、それだけ国連の役割が高く評価され、国連自体への信頼が増していることの証左といえましょう。
 また、カンボジアの国民的和解のシンボルと見なされている最高国民評議会(SNC)議長のシアメーク殿下には、一九七五年四月に北京で個人的にお会いした思い出があり、私自身、カンボジア情勢に一方ならぬ関心を抱いております。
 何よりも最優先されるべきは、カンボジア国民の幸せであります。国連が全面的に支援する形で、また日本をはじめ各国ができるかぎり協力し、新生カンポジアの再建の道がスムーズに進むことを期待したい。
46  地球の共生のシステム創造
 このところ日本の国際貢献策はどうあるべきかをめぐって、様々な論議が続いております。要は国連のPKO(平和維持活動)への参加という狭い範囲に限定するのではなく、地球全体の総合的な平和秩序の構築に、日本がいかにして貢献していくかを考え抜くことであります。
 核戦争の脅威が遠のいた今、環境危機が人類の脅威として大きくのしかかっております。途上国の「開発の権利」を尊重しつつ、先進国の経済発展も併せて保証しうる新しいグローバルな共生システムを生み出すために貢献することこそ、日本のあるべき国際貢献策といえましょう。
 そこで当面の目標として、今急速な経済発展とともに世界最大の環境汚染地域となりつつあるアジアの環境保全のために、日本の最新技術と関連資金の提供を考えるべきではないでしょうか。日本の環境保全技術は世界の最高水準にあって省エネ技術も進んでおり、各国からの期待も大きい。
 こうしたイニシアチブを日本がとるには、まず日本が率先して防衛費を削減し、軍縮の姿勢を打ち出し、アジア諸国の日本に対する根強い警戒心を解くことが必要となりましょう。「アジアと共に繁栄する日本」のビジョンを、今こそ明確にすべきであります。
47  現代は二十世紀を総括し、新しい世紀へ足を踏み入れようとする大いなる過渡期であります。一時的な逆流はあったとしても、世界が国家の枠を超えて地球的規模の課題に力を合わせて解決していく共生の時代に移っていることは間違いありません。かねてから私が主張している″不戦共同体制″へ向けて、時代は確かな歩みを開始しております。
 私自身、この一年も平和・文化・教育のレベルから、できるかぎり世界に足を延ばし″不戦の時代″構築のために貢献しゆく所存であります。
 (平成4年1月26日「聖教新聞」掲載)

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