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日蓮大聖人・池田大作

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第16回「SGIの日」記念提言 大いなる人間世紀の夜明け

1991.1.26 「平和提言」「記念講演」(池田大作全集第2巻)

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2  湾岸戦争の早期終結を望む
 私も、イラク軍の撤退期限切れを前に、作家のチンギス・アイトマートフ氏、物理学者のバーナード・ベンソン氏、ローマ・クラブのリカルド・デイエス=ホフライトネル会長、ユネスコのフェデリコ・マヨール事務局長、作家のウォレ・ショインカ氏(ノーベル文学賞受賞)とともに、イラクのフセイン大統領あてに緊急アピールを共同提案しました。その中で、イラクの勇気ある撤退による戦争回避、その後の中東問題解決のための国際会議の開催を訴えました。
 いつに、生命の尊厳を説く仏法を奉ずる者としての、やむにやまれぬ叫びでしたが、こうした破局を迎えて残念でなりません。戦火のやむ日の一日も早からんことを、祈るのみであります。
 そして一日も早い停戦とともに、国連のリーダーシップによる中東和平国際会議を開き、包括的な中東和平への展望を切り開くよう強く訴えるものであります。
 戦後世界の枠組みを形成したヤルタ体制は様々な矛盾を含んだものではありましたが、そこにはそれなりの危機管理的な仕組みが存在したといえましょう。しかし、その軌から解放された結果、かえって世界は混迷の度を増したことも否定できません。こうした一種混沌とした時代にあって、各国とも程度の差はあれ、国益維持に必死の状態といえましょう。
3  もとより東西の冷戦が終わったといっても、新しい世界秩序が自然のうちに出来上がってくるものではありません。ヨーロッパを中心に軍事力の意義が低下する一方で、地球上の一部地域では、依然として独裁体制による軍事力への依存が続いております。既に民族的、宗教的、経済的対立の激化から地域紛争の増える兆しが現れており、地球社会の全体としての平和的発展の展望が見えていないというのが現状であります。
 とりわけ湾岸戦争の勃発は、南北問題の解決なしには新たな世界秩序の構図が描けないことを改めて思い知らせたといえましょう。地域紛争の防止も含めて、国際社会は新しい世界平和の構想に衆知を集める必要に迫られております。深刻化の一途をたどる環境問題などと併せて、オンリー・ワン・アース(かけがえのない地球)ということが、これほど人類共通の課題として浮かび上がったことは、空前であろうと思います。
 そうした今、切実に要請されているのは、その新しい世界平和の構想力であり、何よりもその構想を実行しようとする人間の積極的な意思であります。
4  世紀末ということもあって、明暗とりまぜ、様々な憶測がとびかっていますが、ここ数年来の「民意の時代」「民主の流れ」という巨大な世界史のうねりを定着させるためにも、我々は、ここに、ケネディ大統領の古典的演説「人間の偉大さは、彼が望めばどんなにでも偉大になれることだ。人間に運命づけられたいかなる問題も、人間存在を超えたものではあり得ない」との一節を思い起こしたい。そして、平和を願う世界の民衆の団結した力で、カオスヘの逆流を押しとどめ、新しい世紀の扉を開かねばならないのであります。
 逆流といえば、アメリカの未来学者アルビン・トフラー氏は、昨年、日本でも翻訳出版され話題を呼んだ『パワー・シフト』(徳山一郎訳、フジテレビ出版)の中で、傾聴すべき指摘を行っております。
 周知のようにこの本は、「人に働きかけようとする力」としての「パワー」を、(1)力として質のよくない「暴力」(2)質としては中級の力である「富」(3)最も質の高い力である「知識」、の三つに分け、現代は「知識」の比重が著しく高まりつつある「権力移行」(パワー・シフト)時代の夜明けにあることを分析したものであります。
5  「聖なる狂信」がもつ問題点
 トフラー氏によれば、なぜ「知識」の質が高いかといえば、「暴力」や「富」が強い者と富める者に独占されがちであるのに対し、「知識」は、弱い者も貧しい者もともに手にすることのできる民主性をもつ。しかし、そうした趨勢も、手放しで楽観することはできない。トフラー氏は、その勢いを逆流させかねない要因として、(1)聖なる狂信(2)環境神権政治(3)新しい外国嫌い、の三つを挙げ、「民主主義グループは新たに同盟を結んだとしても、世界規模の十字軍へと急速に収斂する三つの巨大な勢力に直面し、我々は用心しないと新暗黒時代へと押し流されるであろう」(同前)と警告しております。
 「聖なる狂信」とは、イスラム教圏やキリスト教圏を中心に広く見られる、世俗化社会に敵意を抱く原理主義(ファンダメンタリズム)。「環境神権政治」とは、環境保護に名を借りた、人権の著しい制限。「新しい外国嫌い」とは、現代、世界的に噴出しつつある民族パワーの負の側面を指しています。
 これらは、単独の現象であったり、複合していたりして一様ではありませんが、私が仏法者として、とりわけ耳を傾けるべきだと思っているのは、第一の「聖なる狂信」であります。世俗化、大衆化社会にあって、バラバラな断片へと分断されようとする個人が、魂の癒し、魂の全体性の回復を求めて宗教を志向するのは、ある意味では当然ともいえましょう。しかし、その先に待ち受けているのが明るい光明ばかりでないことは、大きくは原理主義運動の復活、小さくは、簇生そうせいする″ちまたの小さな神々″(新宗教)が色濃く帯びている反合理、反知性の傾向に明らかであります。時代や社会の進歩に背を向ける宗教、あるいは背を向けようとする宗教固有の傾向性に対しては、我々は、厳重な警戒を怠ってはならない。
6  私は、昨年の夏、哲学者として著名なノートン教授(米デラウェア大学)、ベセル教授(米インターナショナル大学)と、親しく懇談する機会をもちましたが、期せずして意見の一致をみたのが、そのような宗教のもつ危険な側面であります。
 私は、教育と宗教との関係について、率直に述べました。「教育が開く『英知の世界』がなければ、『宗教』『信仰』も″盲信″になっていく危険性がある。反対に、『教育』による『英知』の光源をもてば、宗教による『精神性』も、より光を放つことでしょう」「人間にとって宗教は極めて大切です。その大前提のうえに、歴史上、宗教は、ともすれば独善となり、『人間』に対して抑圧的になってきました。いわゆる『宗教教育』も押しつけとなる可能性が常にあります」と。
 これに対し、ベセル教授は、満腟の賛意を示し、次のように記しております。
 「宗教と比較しながら、教育の重要性を述べた池田SGI会長の話には格別の関心をもった。ここには大いなる思想の糧がある。宗教は、とてつもなく重要である。しかし、宗教が制度化された場合、あまりにもしばしば、普遍的な視野を失ってしまう。教育と宗教の両方があってはじめて、人間は『永遠なるビジョン(展望)』この″目″をもてるのだ」と。
7  ここにいう教育とは、広く人間の知的、精神的営為全般に及ぶことはいうまでもありません。宗教は、そうした営為に背を向けるようなことがあってはならず、それと補完関係、むしろそれらを養い、育て、進歩を促進する土壌でなくてはならない。そうであってこそ、民衆一人一人の「知の力」の向上、強化を促し、「民意の時代」「民主の流れ」を加速させていけるのであります。
 とはいえ、楽観は禁物であります。この戦いは、トフラー氏が「前方に横たわるパワーシフト時代においては、根源的なイデオロギー闘争は、もはや資本主義体制の民主主義と、共産主義体制の全体主義の間ではなく、二十一世紀の民主主義と十一世紀の暗黒時代の間で行なわれることになるであろう」(同前)と、壮大な構図で描き出しているように、容易ならざる人類史的、文明史的実験だからであります。そして、国際政治の現状を見るならば、この装いも新たな民主主義への戦いは、必ずしも優勢に進んでいるとは言い難いのであります。
8  「聖なる狂信」「環境神権政治」「新しい外国嫌い」等に通底しているものは、かつてフランスの哲学者ベルクソンが「閉じた社会」と呼び、近くは、昨年亡くなったアメリカのノーマン・カズンズ氏が「部族意識」と難じていた、有史以来、人間社会を骨がらみにしてきた閉鎖的体質であります。閉鎖社会にあっては、仲間内だけで生活しているうちはまだしも、他の文化や社会に接触すると、かたくなに心を閉ざし、往々にして、人間が人間であることの証ともいうべき言論や対話を拒否して、力の行使に走りがちであります。異なる文化や生き方を許容できず、相互の摩擦が一定限度を超えると、文字どおり″問答無用″の衝突となってしまうわけであります。
9  「閉じた社会」から「開いた社会」ヘ
 ペルシャ湾岸危機や、ソ連における。ペレストロイカの難航は、そうした閉鎖的体質が、人類社会にいかに根強いかを見せつけてあまりあります。
 とりわけ、混迷を極めるペレストロイカは、その旗頭ともいうべきゴルバチョフ大統領が、欧米風のリベラルな合理主義者であり、グラスノスチ(情報公開、言論の自由)やデモクラチザーチヤ(民主化)の理念を濃密に体現していた人物だけに、その行方が憂慮され、心が痛みます。イデオロギーの一枚看板がすっかり権威を失い、連邦崩壊の危機にさらされているソ連では、人心は荒廃してアナーキー(無政府状態)となり、著名な作家B・ブイコフによると、「憎悪」が歪んだ宗教にも似た支配的心情になっていると伝えられます。そうした劣情が、複雑なモザイクのように入り組んだ民族事情、宗教事情と絡まって噴出している現実を前に、言論や対話に徹することがどれほど至難のことであるか――おそらく、我々の想像を絶するものがあるはずです。
10  私は、ゴルバチョフ大統領のバルト三国への対応(直接、間接どこまで関与していたかは不明な部分がありますが)など、一連の保守派への傾斜には、重大な憂慮の念を抱いております。しかし、私は、今なお大統領の本質は、力に頼る権力志向型の指導者ではないと思っております。複数のソ連要人から「彼(ゴルバチョフ)は、ペレストロイカなど踏み出さずに、ブレジネフのように権力の座に安住しようと思えばできた。にもかかわらず……」といった感想を聞いておりますし、何よりも、昨年、私との会見の席上、「暴力よりも対話を」「ペレストロイカの第一は『自由』を与えたことです。しかし、その自由をどう使うかは、これからの課題」と語っていたゴルバチョフ大統領から感じ取ったものは、権力主義者とは対極にある、苦悩する哲人政治家の資質でした。それだけに、ペレストロイカの過つことなき舵とりを、と私は祈るような心境で見守っております。
 また、そうした現実から我々が学び取らなければならないことは、「閉じた社会」や「部族意識」に支配されがちな人間の心情というものが、いかに根強く、人類の歴史を、昔も今も呪縛し続けているかという冷厳な事実であります。この文明史的、人類史的課題は、ようやく諸外国、諸民族との本格的交流を避けて通れぬ段階に立ちいたっている我が国にとっても、とうてい″対岸の人事″視しておられる問題ではありません。
11  ベルクソンは「閉じた社会」を、グローバルな「開いた社会」へと転じゆくには、国家や民族から人類ヘといった「対象の順次的拡大」に照応する「感情の累進的膨張」によるのでは不可能であるとしております。儒家で言うところの「修身」「斉家」「治国」「平天下」などは、おそらく、この「感情の累進的膨張」にあたるでしょう。
 そうではなく、「閉じた社会」から「開いた社会」への道程には、構成する人々の「閉じた魂」から「開いた魂」への、質的飛躍がなされなければならない。ここでは詳述しませんが、ベルクソンは、そのための不可欠の契機として「動的宗教」に言及します。私はベルクノンの宗教観、特にその仏教観については見解を異にしますが、時代が要求する世界市民の心は、常に外に向かって開かれていなければならず、それには、各人の心の奥底、アイデンティティーの部分にあって、魂の解放を促す何らかの宗教的契機――「聖なる狂信」ではなく世界宗教的な契機が要請されるのであろうことは、私の信念として訴え続けているところでもあります。
12  さて、湾岸戦争の勃発は、冷戦終結ムードに冷水を浴びせ「平和の配当」を期待する人々の声を空しくかき消してしまいました。本稿執筆時でも、戦争の帰趨は、全く余談を許さず、下手をすると第五次中東戦争への拡大さえ憂慮されております。
 しかし、K・ヤスパースも言うように「どんな状況も、絶対的に希望がないわけではない」(アルトゥール・カウフマン『正義と平和』竹下賢監訳、ミネルヴァ書房)のであります。重要なことは、世界が湾岸戦争からいかなる教訓を導き出すかであります。長い日で見るならば、それは国連の改革、強化であり、国連を中心にした安全保障、危機管理、世界秩序作りをどう進めるかという点に、集約できるのではないでしょうか。
13  第三期の国際機関への構想
 今回、国連はデクエヤル事務総長を中心に平和的解決を目指し必死の調停努力を続けました。結果的には、米国を中心とする多国籍軍による武力行使という形になってしまいましたが、それは国連にとって「悲しいこと」(デクエヤル事務総長)であっても、必ずしも不面目とはいえないと思います。国連といっても万能ではなく、緊迫した状況のなか、ともかく、紛争の解決機関として世界が最後のよりどころとしたのが国連でありました。
 国連のもつ力は、アメリカが武力を行使する際、国連の安保理決議という″錦の御旗″なくして不可能であったという事実からも、逆証明されております。国際世論といっても、国連という場に結実してこそ、あのような拘束力を発揮する――つまり、現代の国際社会にあって、国連はそれほど″重い″のであります。
14  いうまでもなく、現在の国連の活性化は、米ソが国連外交を重視し、米ソの協調体制がとられたことによってもたらされました。湾岸危機をめぐって、十を超える決議案が安全保障理事会で拒否権なしに通ったことが、それをよく示しております。
 しかし、今回の経過に見られるように、現状の国連では、まだまだ世界平和の維持に十分な力を発揮しえないことも、冷厳に直視せねばならない。その意味で、新たな世界秩序を築き上げるために、国連をいかにして改革、強化していくか――湾岸戦争という悲劇を乗り越えて、人類が本気で、それぞれが当事者意識に立って取り組んでいかなければならない第一の課題も、この一点にあるといってよい。
 今日の世界の状況は、国連創設の時代とは根本的に異なっております。多極化し、複雑化した変化の様相は、質的な深みをもっているといってよく、国際機関もこの変化に柔軟に対応していくことが必要であります。国連憲章が国際社会を律する優れた規範であることは疑いありませんが、何といっても半世紀近い歩みを刻んだ現在、時代にマッチした強化改革を検討すべき時を迎えていることも確かでありましょう。
15  昨年、私はノーマン・カズンズ氏と対談の形で、国連の強化改革をめぐり突っ込んだ意見の交換をしました。その際、カズンズ氏は「国連自体が名実共に力をもつようにすることが、国連改革の目的である」とし「その必要を国連憲章は予見している」(『世界市民の対話』毎日新聞社。本全集第14巻収録)と述べております。
 国際機関の歴史から考察すれば、国際連盟の時代は第一期、戦後期の国連は第二期という位置づけができましょう。そして、一九九五年の国連創設五十周年を目標に、第三期の国際機関を構想し、二十一世紀に備えるというのは、まことに時宜を得たものではないでしょうか。この機会に、国連創設の原点を踏まえつつ、長期的展望に立った国連改革の構想を練り上げる必要があるように思えてなりません。国連はいうまでもなく主権国家から成る世界組織ですが、第三期の国際機関を構想するには、まず主権国家連合のもつ限界を乗り越える方策を考えるべきであります。戦後、国連が多くの成果を上げてきたことは確かですが、同時に多くの挫折も経験してきました。その挫折の主な原因は、いうまでもなく、主権国家の連合体であるために、どうしても国益が表に出てしまい、人類的立場に立った意思決定ができなかったことにあります。
16  今日に至ってもなお、主権国家は我がもの顔にのし歩いているように見えますが、よく目を凝らして見ると、その枠では括りきれない現象が続出しております。核戦争や環境破壊などの″地球的問題群″は当然ですが、今回の湾岸戦争などにしても、二十一世紀を間近にしたこの時代、主権国家による主権国家への侵略が、なぜあのように露骨に行われ、なぜあのように解決に手間どっているのかということの背景には、主権国家の枠組み(主権国家連合としての国連も含めて)では処理しきれない、アラブ民族主義という″大義″が横たわっております。
 イラク側との相対論でいえば、多国籍軍側によるイラクヘの武力行使は、ある意味ではやむを得ない側面もあるかもしれませんが、なおかつ、心ある人々から、国連の名のもとに泥沼に足を踏み入れてしまうのではないか、との危惧が出されているのもそのためであります。また、イラクをクウェートから駆逐しても、事態の根本解決には繋がらないといわれるのも、安保理(常任理事国)を軸にした国連の紛争処理のあり方そのものが、主権国家の枠組みを含めて先進諸国の利益に沿ったものだという″南の論理″が、根強くアラブ民衆の心を捉えているからであります。
17  人類益に根差すNGOの力活用
 こうした現行の国連の限界を突き破るには、総じて″国家の顔″よりも″人間の顔″を、機構面や運営面で際立たせていかなければならない。これは、私の年来の信念でありますが、″人間の顔″ということを、より具体的に考えると″民衆の顔″と″人類の顔″という、二つの方向性が浮かび上がってくると思われます。
 まず″国家の顔″よりも″民衆の顔″を、という課題ですが、国連に限らず国際社会における行動主体として、民衆レベルの力を活性化し、組織化するということは、もはや時代の要請であります。最近の日本の海外旅行ブームを手放しで歓迎するわけにはいきませんが、それにしても、これだけ多くの民衆が何らかの理由で国境を越えるという現象は、かつてありませんでした。
 そもそも、国連はその出発の時点から、″政府″と″人民″という二つの側面をもっておりました。それは国連憲章の前文に「われら連合国の人民は」と「われらの各自の政府は」という二つの主語が使われていることにも明らかであります。
 にもかかわらず、国連が現実には政府間の機構であり、その意思決定はすべて政府が担ってきており、民衆はいつも舞台裏に追いやられてきました。
 私が国連に″民衆の顔″を強めてほしいと願う理由は、今日、民間レベルの力、端的にいって、例えばNGO(非政府組織)の役割が極めて重要になりつつあるからであります。とりわけ、主権国家に任せておいては解決が困難な諸問題を打開する有力な担い手としてNGOに対する期待が高まっております。
18  例えば、経済協力のあり方にしても、日本が世界一になったと誇っているODA(政府開発援助)など、開発途上国の利益よりも、日本企業のビジネス・チャンスの拡大を優先させてきた、との悪評が、まだまだ根強い。その点、NGOならば、その国の民衆の立場に立った、もっと細かい目配りが可能なはずです。
 現在、国連とNGOとの関係は、憲章第七一条でNGOは経済社会理事会だけと協議を行うとなっております。しかし、今日では、そうした規定の域をはるかに超えて協力関係が大きくなってきております。
 NGOの活動で、更に特筆すべきは、環境や軍縮などの国連における会議を通じ、地球的問題群へ活発な活動を展開することにより、国家間外交へも少なからざる影響を与えてきたことであります。こうした地球的諸問題の解決には、国家の枠を超え人類益に立ってアプローチするNGOの活動が不可欠であります。
 本来、政府の施策をチェックし、正しい方向に向かわせるのが民主的システムであります。今後、NGOの主張をより国連の議論に直接反映させていくシステムが、考えられてよい時期に来ております。私はこの点で″民衆の顔″をした国連システムの改革、強化にぜひ衆知を集めてほしいと願うものであります。
19  次に″人類の顔″という方向性ですが、国連が主権国家連合から脱皮するために、私は新たな統合化へのシステム作りの構想として「連邦制」について言及しておきたい。
 現在、多民族国家の典型であるソ連は新しい国家のあり方として「主権をもった共和国のゆるやかな連合体」を目指して苦悩を続けております。またECが「ヨーロッパ連邦」を志向するなど、国際社会に新たな秩序への模索が感じられます。
 とりわけヨーロッパで始まった新たな朝鮮は注目に値するものがあります。周知のように、昨年十一月、北大西洋条約機構(NATO)とワルシャワ条約機構に加盟する二十二カ国がパリで東西対立の終結をうたう「不戦宣言」に調印し、画期的な軍縮をもたらす欧州通常戦力(CFE)条約を締結しました。
 ここでうたわれた″不戦の誓い″は、東西冷戦の終焉を意味するのみならず、欧州の地から戦争の危険性を永久に追放しようとする成熟した意思を感じさせるものであります。
20  私たちは、そこに十七世紀以来の主権国家システムが今、大きな変容の波にさらされていることを実感せざるを得ません。事実、統一ドイツのワイツゼッカー大統領が、昨年十月三日のドイツ統一の日に行った演説は、注目すべき内容をもっております。
 同大統領は「民族国家は私たちの最終目標ではない」としつつ「地球的課題はどの国も自分だけでは解決することはできない。安全保障、エコロジー、エネルギー、経済、運輸、情報伝達、科学研究のどれをとってもそうである。今日、国家主権とは諸国の共同体のなかにおける協力を意味する」と語っております。
 ここには国家主権の絶対性とは逆の方向、すなわち「主権の共有」という重要な発想が示されているといえましょう。現にEC統合の動きは、経済と政治の両面を含んだ、より大きな枠組みの形成へと加速しつつあります。近い将来、経済・通貨両面での統合が実現し、これが更に安全保障や外交面にまで及んでいけば、各国の主権の主要な機能は実質的にはECに委譲される形になりましょう。
21  「連邦制」に豊かな示唆
 私はこうした新たなレベルの統合化の動きを評価し、歓迎しながらも、そこに一抹の不安感も隠せないのであります。というのも、地球的な統合化の動きは、常にブロック化の危険と表裏一体だからであります。
 地域の利益を最優先するあまり、ブロックのエゴに陥らない保証はどこにもない。こうした危険を打破するためには、地域的な統合化を進めつつ、同時にグローバルな連邦体制を構想する必要があります。これまで「世界連邦」という言葉には、どこか遠い未来の問題というイメージがつきまとい、非現実的というレッテルが張られてきました。
 しかし、私はいわゆるフェデレーション(連邦)という形態には、現行の国連の限界を打破する豊かな示唆が含まれていると考えております。
 私は、これまでしばしば、核兵器の登場により、国権の発動がそのまま人類絶滅に繋がりかねない状況下にあって、人類は否応なく国家の枠を超えて「国益」から「人類益」へ、「国家主権」から「人類主権」ヘと発想の転換を迫られていることを強調してまいりました。そこで私の念頭から離れない問題意識は「人類主権」の発想が支配的になるシステムヘ、どのように移行していくかという一点であります。
22  この点で、世界連邦主義者としても名高いカズンズ氏は大変示唆に富んだ発言をしております。すなわち、主権には「絶対主権」と「相対主権」がある、との指摘であります。「絶対主権」の中核は軍事主権からなり、一方、「相対主権」とは、「国家内における生活と活動の仕方に関する管轄権」を指します。
 氏は「世界を安全な状態にするためには、国家そのものの解体が必要ということではありません。必要なのは、国家主権を有意義なものにすること」(前掲『世界市民の対話』)であるとし、解消すべきは絶対主権のみであると述べております。
 連邦制といっても、現在の国民国家が一挙になくなると考えるとしたら夢想に近い。カズンズ氏も一元的な世界国家がすぐにつくれると考えているのではなく、むしろ絶対主権国家というシステムをなくし、連邦の管轄権と国家の管轄権を明確に分離する。すなわち連邦のなかで共有される主権と国民国家によって保持される主権とは明確に分離されるというのが、氏の構想なのであります。
 国家主権の負の側面を除去し、人類の不戦の共存体制を築き上げるうえで、この連邦システムから学ぶベき点は多くあり、今後、更に構想を積み上げていきたいと考えております。
23  以上、国連を軸に、新たな国際秩序への長期構想をめぐる若千のアイデアを申し上げましたが、それを踏まえて、国連の安全保障体制、平和維持活動を改めて見直してみる必要があると思います。
 現行の国連で国際社会の平和と安全の維持に大きな責務をもつのが、安保理であります。現在の世界は、特定の大国が世界を牛耳る覇権的リーダーシップの時代ではない。従って、米ソ英仏中のいわゆる戦勝五カ国が安保理の常任理事国として拒否権をもつシステムは、再検討の時期に来ているとはいえないでしょうか。この形に固執すれば、特定の国による国連の支配ないしは利用という悪弊が、いつ顔をのぞかせてくるか知れず、国連の真の活性化には繋がらないとの批判もあります。
 ともあれ平和の維持に重大な責任をもつ安保理は、その構成をいかに正当性をもつものにするかが重大であります。最近、日本や統一ドイツが常任理事国の候補と見なされることがありますし、英、仏、独を一グループにしたEC代表とする案もあります。先進国だけでなく、南側の主要国が地域を代表して入る案などとともに、検討に値するといえましょう。
24   環境安全保障理事会の新設を
 日本を安保理の常任理事国に、との声は、特に国内に多いようです。確かに、経済を中心にした総合的な国力、国連への分担金拠出額(アメリカに次いで第二位)の大きさなどから、国連の中枢である安保理へのそうした要求が起こるのも一理あります。しかし、やはり、私は無理があると思います。
 安保理を支えている思想の機軸は、いうまでもなく「集団安全保障」ですが、法務省法政局見解によると日本国憲法は、その「集団的自衛権」を禁じ、自衛隊の海外派兵を「違憲」としているからです。
 国連が武力制裁に踏み切ろうとするとき――今回の湾岸戦争のように″多国籍軍″という形であれ、あるいは、憲章にうたわれた″国連軍″という形であれ――常任理事国でありながら参加しないということでは、論理的に無理があり、通用しないといわれています。
 しかし、日本の国力がこれほど拡大し、国際的な相互依存が進行している現在、いわゆる一国平和主義の″虫のよさ″が、受け入れられない段階に来ている事実も否定できません。そうしたジレンマのなかから″世界に貢献″するための″憲法改正″論議なども一部では浮上していますが、私は賛成できない。平和志向の国家としての国是にかかわるからです。やはり、何人かの識者が提案しているように、自衛隊とは別個に、国連の平和維持活動(PKO)に参加するための組織を作るというのが正しい道であろうと思います。
 日本は、むしろ軍事的安全保障とは別の面での思い切った国際貢献を考えてはどうか。その一つのアイデアとしては、地球環境の保全への貢献があります。国連の改革、強化に即していえば、安保理事会を第一(平和担当)、第二(環境担当)に二分し、安全保障そのものの発想を大転換する必要があります。
25  私がこの着想を得たのは、昨年来日したスベレ・ルードガルド氏(オスロ国際平和研究所所長)との会談を通してであります。安全保障の考え方は軍事的側面からだけでは不十分であり「環境安全保障」という発想が必要だ、というのが氏の主張であります。
 確かに今日、人類の生存を脅かしているのは軍事的脅威だけでなく、地球環境の破壊であります。従って、国際政治の最優先課題の一つとしてこれに取り組む必要があり、私は軍事的次元の安全保障とは別に、環境レベルからの安全保障を考えるべきだ、との発想は、極めて今日的なものといえましょう。
 私は、かねてから全地球的な環境問題の重要性を考え「環境国連」の設立構想を提示してまいりました。
 その「環境国連」へ進む重要なステップとして、私は環境問題を担当する第二安全保障理事会の新設を提案するものであります。明年はブラジルで国連環境開発会議の開催が決まっており、環境問題の取り組みは、いよいよ正念場に差しかかっております。
 地球環境を守るためであれば、経済大国にふさわしい思い切った貢献策が可能なはずです。その意味で、日本は″環境安全保障理事会″の誕生に、積極的なリーダーシップを発揮し″エコノミック・アニマル″の悪評を一新させるような、大胆かつ勇気ある″一歩″を踏み出すよう切望してやみません。
26  「世界評議会」で英知を結集
 次に、先ほど触れた国際社会における″人間の顔″に関連して、かつてフランスの思想家ジャック・マリタンは戦後間もなく「世界政府」を構想する論述の中で、最高の学識者たちから成る、一種の「世界評議会」の必要性を提示しております。」(『人間と国家』久保正幡・稲垣良典訳、創文社を参昭)
 これは超民族的な至高の勧告機関であり、その構成員として選出された人々は、世界市民としていかなる政府からも独立し、かつ完全に自由に自らの精神的責務を果たすことができるようにする。マリタンは、これにより組織化された国際的世論が誕生する可能性に期待したのであります。
 国連創立五十周年へ向けて、国連の強化改革を目指すにあたり、私はこうしたいわば賢人による「世界評議会」を作り、改革案を練り上げる必要があると考えております。これまでも″賢人会議″のような形のものはありましたが、よリグローバルで、より自由な立場と世界市民的発想に立って、二十一世紀の新しい力ある国際機関の構想に衆知を集めてほしいのであります。
 のみならず、そうした具体的な課題と同時に、例えば「正義とは何か」といった倫理的課題に検討を加えるのも「世界評議会」の性格にふさわしいのではないでしょうか。
27  なぜ、このように申し上げるかといえば、今回の湾岸危機、湾岸戦争の背景に「アラブの大義」という問題が横たわっております。周知のように、イラクのフセイン大統領は、クウェートからの撤退とこの問題をリンケージ(連関)させ、イラクとクウェートの問題を、アラブ全体の問題にまで拡大しようとくわだてました。そして、このリンケージを認めようとしないアメリカと対立し、決定的破局を招いてしまったのであります。
 ここでは、この「アラブの大義」なるものの内実に立ち入るのではなく、一般に「大義」あるいは「正義」と呼ばれているものについて、若千の所感を提起しておきたい。これらは、確かに人々を魅了し、鼓舞する美しく力強い言葉ですが、「正義」はともかく「大義」などといわれると、残念ながら私の世代のように日本での軍国主義教育を受けた者には侵略戦争を正当化した「悠久の大義」といった言葉が想起され、何やら胡乱うろんな気持ちに襲われることも事実です。もとより、「アラブの大義」と、太平洋戦争中、軍部ファシズムの神がかり的なスローガンであった「悠久の大義」を同列に論ずることはできないでしょう。しかし、「アラブの大義」にしたところで、それを掲げる代償に、おびただしい人命が犠牲に供されているわけですから、よほど慎重に使わなければならない。
28  「大義」や「正義」について思いをめぐらすとき、私の脳裏には、オーストリアの法哲学者H・ケルゼンの、次のような警告が、いつも去来しております。
 「絶対的正義の理念は幻想であり、存在するのは利益・利益衝突・闘争や妥協によるその解決のみである。合理性の領域に存在するのは正義でなく平和である。しかしたんなる妥協・たんなる平和に尽きない正義ヘの希求・憧憬、高次の、至高の、絶対的な価値への信仰は、合理的思惟が動揺させうるにはあまりにも強力なものであり、それを覆すことがおよそ不可能であることは歴史の示すところである。この信仰が幻想であるとすれば、幻想は現実よりも強いのである。多くの人間、否、全人類にとって、問題解決とは問題の概念的・言語的理性的解決ではないからである。かくて人類はおそらく未来永劫ソフィストの解答に満足せず、プラトンの辿った道を、血と涙に濡れつつも、辿り続けるであろう。この道こそ宗教への道である」(H・ケルゼン『正義とは何か』宮崎繁樹他訳、木鐸社、趣意)と。
 いささか居直ったような感さえあるこの文言は「プラトンの正義論」と題する論文の結語を成すものですが、そこには、徹底した価値相対主義者として、全体主義の脅威から民主主義を擁護し続けたケルゼンの面目が横溢しております。「プラトンの辿った道」とは、いうまでもなく正義としての絶対的価値を押したてての争い(例えば″義戦論″)を指しております。ケルゼンのプラトン理解の偏向については、昨年の第十五回「SGIの日」記念提言でも触れましたので、再言を控えます。
29  私が、ケルゼンに寄せて申し上げたいことの第一は、彼が半ば居直った形で認めているように、正義への希求が良い意味でも悪い意味でも、いかに人間にとって本然的なものであるかということです。ある意味では、何を正義としているかで、その人の人格が決定づけられるとさえいえるのかもしれない。そして、日本人は伝統的にこの正義の観念が極めてあいまいなのであります。何事につけ、旗幟が鮮明でない。
 十数年来、とりわけここ数年、国際化時代が声高に言われるなかで、しばしば、日本人及び日本社会に「哲学」や「原理」が欠落しているとの指摘がなされるのも、その証左でありましょう。「正義」とは、まずもって、利害や優劣などの状況に左右されず筋を通そうという「哲学」や「原理」の形をとって表出されるからであります。早い話、昨年来の湾岸危機への対応を見ていても、「哲学」や「原理」など感じられません。多国籍軍への資金援助に象徴されるように、一貫して後手後手の、状況追随主義でしかない。そうかと思えば、何年間も論議を積み重ねる必要のあるような、重大な国策の変更をともなう「国連平和協力法案」のようなものを、急に提出してくる。しかも、その内容は、討議が進むほどに矛盾点が続出しております。
30  日本の防衛予算の巨大さもあって、これでは、中国をはじめアジア諸国が、かつての日本軍国主義の悪夢を思い浮かべてもやむを得ないでしょう。
 そうでなくても「いったい日本は、どんなイデオロギーを掲げているのだろうか。非常に豊かな工業先進国という以外に、日本は何なのだろうか」(インドネシア紙「コンパス」ヤコブ・ウタマ編集主幹)、「(日本のビジネスマンは)見た日は一般市民でも、その紛れもない厚顔さはかつての『憲兵隊』と少しも変わっていない」(比紙「フイリピン・スター」マックス・ソリベン社主兼論説委員会委員長)等の声は、ひきもきらぬからであります。
 「哲学」や「原理」がはっきりしなければ状況次第で何をやり出すかわからない不気味な存在として、とうてい信用を得ることはできません。だからこそ、文化外交が必要であるということは、私どもが一貫して訴えてきたところです。イデオロギーが終焉し、これからは″多神教の時代″であるなどといった安易なかけ声に踊らされていると、どんな落とし穴が待ち構えているかしれたものではないと思います。
31  「正義に適った平和」が急務
 とはいえ、ケルゼンが警鐘を鳴らしているように、「正義」と「正義」とが角突き合わせて、結句、人間が手段化され犠牲にされてしまう道――人類の歴史を、おびただしくまた血なまぐさく彩ってきた転倒した構図とは、きっぱりと決別しなければならないことも、事実であります。特にこれは、キリスト教などの一神教を土壌とする社会にあっては、ことのほか深刻な問題として提起されており、「正義の戦争」のための理論づけも、アウグステイヌスやトーマス・アクィナス等の名とともに古い。
 しかし、現代は核時代である。核といういわば黙示録的兵器が、ハルマゲドン(最後の大決戦、転じて全面核戦争)の脅威を我々に突きつけております。「一体地球が滅び去ったら、宗教はどうなるのであろうか? 滅びないとしても、遅しい動物のような人々だけが廃墟のなかから出てくるような時代に、教会は何をすればよいというのであろうか?」(「人間が機械になることは避けられないものであろうか?」、渡辺一夫評論選『狂気について』大江健三郎・清水徹編、岩波書店)といった老ヒューマニストの問いかけは、宗教者のみならず、イデオロギーという狂暴な正義の化身に散々に蹂躙された現代人はだれしも、避けて通れぬところでありましょう。
32  では、ケルゼンの言うように、正義と平和とは、徹頭徹尾、二者択一の課題なのであろうか。私は、そうとはかぎらないと思います。
 正義が、かくも人間の本然的な欲求であるならば、その正義に徹することによって、真の平和を獲得できる、いわば二者択一ではなく、止揚合一の道が、必ず開けてくるはずであります。要は、その正義の内容、内実を、慎重に検討していくことだと思います。
 その点、興味深いのは、ドイツ・ミュンヘン大学のアルトゥール・カウフマン教授が提起している「正義のための戦争」に代わる「正義に適った平和」の概念であります。教授は「正義に適った平和」を実現するための基本要件として、次の六つを挙げております。(以下、『正義と平和』竹下賢監訳、ミネルヴァ書房より)
 第一に「平等原理」。生命という根源的価値において、何人にも等しく保障される尊厳性であり、諸国民間でいえば、経済関係や文化関係でも、できるかぎり平等のチャンスと尊敬を勝ち得ていることです。
 第二に「黄金律」。通常、バイブルの「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」を指しますが、教授は宗教よりも道徳次元に敷衍し、それを積極的表現形式とすれば、消極的表現形式として「人にされたくないことは人にもするな」との訓言を挙げております。
 第三に「定言命令」。教授は、有名なカントの「あなたの意志の格率がどのようなときにも同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為しなさい」との言葉を挙げております。
 第四に「公平(フェアー)の原理」。スポーツにおける基本原則と同じように、諸国家においても、関係者はすべて、利益の点でも負担の点でも同じ程度に関与するよう行動せよ、と。
 第五に「責任の原理」。行為の結果が、人間生活とその環境の可能性を、今も将来も破壊したり、危険にさらしたり、あるいは低下させたりしないように行動せよ、と。
 第六に「寛容の原理」。いうまでもなく、あなたの隣人としての考え方が、あなたにとって都合が悪くても、それを尊重して承認せよ、ということであります。
33  一つ一つ検証する紙幅はありませんが、確かに、こうした条件を満たしうる正義であるならば、単なる戦争のない状態としての平和、ケルゼン流に言うならば、「利益・利益衝突・闘争や妥協によるその解決」としての平和ではなく、まさに「正義に適った平和」の構築も可能となるでありましょう。こうしたテーマこそ、まさに「世界評議会」の席上で討議されるにふさわしいものではないでしょうか。
 そのことをなおざりにして、宗教であれ、イデオロギーであれ、自らの絶対的正義のみを主張していけば、一体どうなるか。カウフマン教授は、世界的な動物学者コンラート・ローレンツ(ノーベル医学・生理学賞受賞)の言葉を引いております。
 「そこに自分達の最高の価値が詰まっている社会規範や儀式が侵されてはならないというまさにそのことが、あらゆる戦争の中でももっともぞっとするような戦争へと、宗教戦争へと導くことにもなるのである。そして、まさにその戦争が、今日、われわれを脅かしているものなのである!」((同前)と。
 ローレンツがこう述べたのは、わずか十年ほど前のことであります。私どもは、こうした点を、厳しく自らに問いつつ「平和のための宗教」「人間のための宗教」に徹していく日々でありたい。それが「正義に適った平和」という未聞の沃野を開きゆく王道であると信じてやまないのであります。
34  ところで世界秩序構想の一環として、国連改革と同時に、国連の平和維持機能を補充し強化するためには、地域的な平和のための枠組み作りに全力をあげる必要があります。
 昨年の年頭、私は米ソ冷戦体制に終止符が打たれた新しい時代を迎えて、人類が生き残るための「不戦共同体制」を構築すべきときであると強調いたしました。換言すれば、それは地球的規模で平和な共存のシステムを作り上げることを意味するものであります。
 前述したように、このところ、その前進への兆しがヨーロッパで見られることを歓迎したい。更にヨーロッパに次いで注目すべきは、アジア情勢であります。
35  韓国。北朝鮮の最高首脳会談開催を
 とりわけ昨年は、北東アジア情勢に画期的な展開が見られた一年でした。かつての敵対国であった大韓民国(韓国)とソ連は、九月三十日に国交樹立しました。ゴルバチョフ大統領と慮泰愚ノテウ大統領は、サンフランシスコ、更にモスクフで会見し、韓・朝鮮半島での冷戦終息と、平和定着のために、両国の協力関係を強化していくことをうたった共同宣言に調印しました。
 昨年九月には、私も初めてソウルを訪問しましたが、大きな時代の変化の波を強く実感いたしました。一方、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)も、日本との国交正常化へ向けての交渉を始めました。また、分断後、初めての南北の首相会談がソウル、平壌で開かれ、ソウルでは、慮泰愚大統領と北朝鮮の延亨黙ヨンヒョンムク首相が会い、平壌では金日成キムイルソン主席が韓国の姜英勲カンヨンフン首相と会見しました。
 こうしたことは、かつてなかったことであります。平壌での南北首相会談では、韓国が「南北間の和解と協力のための共同宣言案」を、北朝鮮が「不可侵宣言案」を提案しました。
 この南北の提案を読むと、双方の一致した主張があります。それは七二年の七・四共同声明に示された自主、平和統一、民族大団結の祖国統一の三大原則の順守。意見の対立、紛争を対話によって平和的に解決しようということ。侵略、侵害しないとの意思。軍備削減。偶発的な武力衝突とその拡大を防止するため軍事当局者間のホットライン(直通電話)の設置などです。これらは、南北の民衆のためだけでなく、アジア全体の平和のためにも、ぜひ実現してほしいことであります。
36  私は、一九八六年一月の第十一回「SGIの日」記念提言(本全集第1巻収録)の中で、重ねて南北の最高責任者による直接会談の必要性とともに「従来の南北の提言を吟味し、合意事項を点検するならば、まずなしうることは『相互不可侵・不戦』の誓約であります。北朝鮮も『南進はしない』と言い、韓国も北へ侵攻する意図を否定しています。最高責任者が、改めてその意図を明確にし内外に宣言することが、一切の出発点であろう」ということを強調いたしました。
 そして「『相互不可侵・不戦』の誓約こそ一切の前提であって、更にそれ以前の前提条件を求めるべきではないというのが、私の基本的な考えであります。更にその合意を関係各国、すなわち米国、ソ連、中国、日本が確認し、支持決定するならば南北間の緊張は大いに緩和するでありましょう」と述べました。
 慮泰愚大統領は、八八年十月の国連演説で「不可侵宣言」構想を提案しました。また、金日成主席は、平壌での南北首相会談の折、姜英勲首相ら韓国代表団に慮泰愚大統領との会見が実現することを待望していると語っております。現在は、南北間の首相会談も、足踏み状態で、出口がまだ見えないともいわれていますが『相互不可侵・不戦』の意思は、すでに双方の提案で示されていることであり、南北の最高責任者による直接対話の時期は、熟しつつあると思います。
 『相互不可侵・不戦』を、南北の最高責任者が明確に世界に宣言し、半世紀に及ぶ分断対立の歴史の大転換を成し遂げることができるならば、あの戦争に参戦した米国、中国を加えた平和条約締結への道も開かれるでしょう。
 更に周辺国であり、密接な関係のある日本、ソ連が、この南北融和を支持し、協調し、友好関係を発展させていくならば、北東アジアはこれまでの冷戦構造が最終的に崩壊するばかりでなく、アジア・太平洋時代のセンターとして、政治的にも、経済的にも重みを増し、これまで戦争の発火点として危惧された地域が、世界でも最も発展していく地域になることも予測されているのであります。
37  アジアの脱冷戦化を進めるうえで、本年もう一つ重要な動きは、四月に予定されているゴルバチョフ大統領の訪日であります。昨年七月、クレムリンでの私との会談で大統領が訪日に触れた経緯もあり、私はこの機会に日ソ友好関係が画期的に前進し、それがアジア・太平洋地域の平和に大きく貢献してほしいと念願しております。
 もとよリアジアは多様であります。カンボジア和平の方向やアフガニスタン情勢など、解決の展望がまだはっきりとは見えてこない地域紛争もあり、楽観は戒めねばなりません。しかし、いずれこうした地域でも戦いは終息するでありましょう。
 二十一世紀まであと十年、今、民衆の間に広がりつつある意識は、戦争への決別といってよいものであります。核時代の今日、もはや戦争には勝者も敗者もありません。民衆の間に戦争ほど不合理で割に合わないものはないとの意識が広く浸透しつつあります。
 世界に不戦の流れが徐々に拡大していくならば、二〇〇一年、すなわち二十一世紀のスタートにあたって、国連本部で「世界不戦会議」を開くことも可能となりましょう。NGOも参加するこの平和会議では、「世界不戦宣言」の調印を目指してほしいものです。
 そして本格的な軍縮で生じる「平和の配当」を南北間の格差を解消するのに使う方途を話し合ってほしいと思います。発展途上国のためになる地球規模の思い切った新ニューディール政策などが検討されるべきでありましょう。
38  「世界不戦宣言」をもとに、やがては「世界不戦規約」の作成に進むならば、これに現在の国際人権規約を加えて「世界憲法」の草案を考えることも夢ではありません。
 もとよりここに至るまでには、単に国際政治の変革にとどまらず、人間の思考、生き方そのものの根源的な変革が必要であります。世界の各国民の間に「世界市民」としての自覚が深まることが不可欠であり、人類的なコンセンサスが前提になります。そのためには、世界市民教育が強力に進められねばならないし、人類の不戦共同体制への前進が図られねばなりません。
 SGIのメンバーは、まさにその人類史的変革の時代をリードする使命を担っていることを自覚していきたい。本年も私は仏法を基調とした「人間主義」「文化主義」「平和主義」の永遠の指針を胸に、新しい平和構想の実現のために、世界の英知の人々との対話を一段と進めていぐ醜種であります。その平和のネットワークを広げるために、私は可能なかぎり行動していく決意を固めております。
 (平成3年1月%日「聖教新聞」掲載)

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