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日蓮大聖人・池田大作

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全面軍縮へ世界的潮流を 第3回国連軍縮特別総会へ記念提言

1988.6.1 「平和提言」「記念講演」(池田大作全集第2巻)

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1  第三回国連軍縮特別総会(SSD3)の開催にあたり、軍縮問題に対する私の最近の所感の一端を述べておきたい。
 一九八二年の第二回特別総会(SSD2)から六年、今回の開催に至るまでの関係各位のご努力に、SGI(創価学会インタナショナル)を代表して満腟の敬意を表するものであります。
 第一回の特別総会(SSD1)の最終文書には「軍縮に安全保障を求める時が来た」とありますが、以来十年が経過し、国際政治の場でやっとその機が熟しつつあります。それだけに今回の総会は、暗夜を手探りで進んでいたような前二回の総会にもまして、重要な意義をはらんでいるように思われます。
 第二回特別総会当時、核兵器をめぐる米ソ対決は極めて厳しいものがありました。核兵器が″使える兵器″と見なされ、「限定核戦争」また「核先制攻撃」といった言葉とともに、核戦争の危機が切迫したものに感じられていたのであります。
 そうした世界的規模での危機意識の広がりが第二回特別総会を包み込み、民衆レベルでの運動の高揚に結びついたことは周知のとおりであります。軍縮問題の専門家でもない私が、第一回特別総会に続いて六年前、あえて第二回総会へ向けて「軍縮及び核兵器廃絶への提言」を申し述べたのも、人類滅亡の危機を深く憂慮する仏法者としてのやむにやまれぬ心情からであります。
2  「対話」と「共存」は人類史の要請
 そうした当時に比べれば、今や米ソ関係を軸とする軍縮をめぐる諸状況は大きく変わりつつあるといってよい。八五年にジュネーブで行われた米ソ首脳会談で、両首脳は核戦争には勝利がないとの点で意見が一致し、核戦争であれ、通常戦争であれ、米ソ間のいかなる戦争も戦ってはならず、軍事的優位を追求しない、との共同声明を発表しました。
 このような共通の認識のもとに、米ソ間で核軍縮をめぐる真剣な話し合いがもたれ、その一つの帰結として八七年末、画期的な中距離核戦力(INF)全廃条約の調印がなされました。
 更に米ソ関係の最大の焦点となっている戦略核兵器の五〇パーセント削減条約も、近い将来、最終合意に達することが期待されております。
 私どもはこうした米ソ関係の劇的な変化をもたらした背景にある新しい発想の芽生えに注目せざるを得ません。それは一九七〇年代後半から八〇年代初めにかけて顕著に見られた「力」には「力」をという対決路線からの転換であり、相互依存関係を重視する対話・交渉路線への移行であります。
 しかも、この流れには、「力の論理」の行き詰まりによる一時的な″デタント″といった次元での変化ではなく、より深く、人類史の転換にまで関わる次元――旧知のトインビー博士が「窮極において歴史を作る水底のゆるやかな動き」(『試練に立つ文明』深瀬基寛訳、社会思想社)と述べていたような深い次元での変動が感じられてならない。少なくとも、その予兆は、虚心に耳を傾けてみれば、だれにも聞き取れるはずであります。
3  私どもは、核兵器の出現ということが、人類の歴史上「運命的、黙示録的」出来事であることを、繰り返し繰り返し訴えてまいりました。それは、アインシュタインをはじめとする先覚と先見の人々が、警鐘を鳴らし、戸田城聖創価学会第二代会長が三十余年前、「原水爆禁止宣言」で鋭く剔扶ていけつしたところでもあります。
 イギリスの作家A・ケストラーは、遺言ともいうべき『ホロン革命』を、次のような言葉で書き起こしております。
 「有史、先史を通じ、人類にとってもっとも重大な日はいつかと問われれば、わたしは躊躇なく一九四五年八月六日と答える。理由は簡単だ。意識の夜明けからその日まで、人間は『個としての死』を予感しながら生きてきた。しかし、人類史上初の原子爆弾が広島上空で太陽をしのぐ閃光を放って以来、人類は『種としての絶滅』を予感しながら生きていかねばならなくなった」(田中三彦・吉岡佳子訳、工作舎)と。
 こうした危機意識を、我々の日常の生活感覚のなかに取り入れることは、確かに難事ではあります。にもかかわらず、そのアポリア(難問)を避けて通っていては、いつになっても人類は、核兵器の脅威と呪縛から解き放たれることはできません。為政者とりわけ核兵器の″引き金″に手をかけることのできる超大国の指導者ほど、その「運命的、黙示録的」な重みを感じなければならないはずであります。果たせるかな、次のようなソ連のゴルバチョフ書記長の言葉は、核時代・核状況というものが、何ものをも押しひしぐ有無を言わせぬ説得力をもって、人類史をかつてない試練の場に立たしめていることを、雄弁に語っております。
4  「われわれは、もう一つ重大な現実に目を向けなければならない。原子力が軍事目的に用いられるようになって核の時代がやって来たことだ。その結果人類はいつも絶滅の危機ととなり合わせで暮らさなければならなくなった。むろん過去にも悲惨な戦争はいくつもあった。何百万人もの命が失われ、都市や村は廃墟と化し、国家はもちろん文化までも破壊された。しかし人類の存続そのものが脅かされたことは一度もなかった。ところが今ではひとたび核戦争が起これば、地球のありとあらゆる生命が根だやしにされてしまう」(『ペレストロイカ』田中直毅訳、講談社)と。
 これは、いうなれば常識であります。ところが今までは、政治家や科学者などの″専門家″ほど、こうした常識から縁遠くなりがちであった。それだけに、私は、こうした発言を、同じく「国際社会にイデオロギー上の論争を持ちこむことは許されない」(同前)とする、いわば世界戦争を不可避とするイデオロギーとの決別宣言とあわせ、非常に尊いものと受けとめたい。
 我々に、のっぴきならぬ発想の転換を迫っている核時代、核状況への認識という点ではもう一方の超大国の指導者レーガン大統領にも共通のものがあると思われます。
 昨年末のワシントンでの米ソ首脳会談での歓迎式典では、次のような大統領あいさつがなされております。
 「ソ連のことわぎに『良いけんかよりも貧弱な平和の方がましだ』というのがある。しかし、現在ある貧弱な平和を努力を通じて良い平和にすることが我々の責任」と。
 これを、単なるレトリックと見てはならないと思う。核の脅威に覆われた世界にあっては、アメリカのように、両大戦においても、一度も本土が戦場になったことがない国でさえ「良いけんか」すなわち正義の戦争などあり得ないという、シビアな認識をせざるを得ないのであります。
5  問われる国際管理の制度化
 現実の核軍縮への流れも、そのような人類史的潮流の中に、的確に位置づけていく必要があります。確かに、米ソ関係の今後に一〇〇パーセントの楽観などできるはずもなく、新たな平和共存体制の確立のためには、ひと山もふた山も越えねばならないでしょう。
 しかし、大切なことは紆余曲折のたびに一喜一憂することなく、人類史の大きな流れを見定めたうえで、一歩でも二歩でも前進していくことであります。
 そのためにも、私どもは過不足のない、冷静な眼で米ノ間の軍事状況を分析してみる必要があります。たとえINFがすべて廃棄され、戦略核の半分が削減されたとしても、残された核兵器はなお膨大なものがあるばかりか、今後、兵器開発の質的な技術革新はいよいよ進み、その分野での競争はますます熾烈なものになると予想されているからであります。しかもグローバル(全地球的)なスケールで見た場合、世界の軍事費は年々増加の一途をたどっております。
 従って、軍縮と軍拡が混在しながら同時的に進んでいると見るのが残念ながら、いつわらざる現状といえましょう。
 地球的な軍縮を進めるうえで、世界の軍事力の大半を握っている米ソ間の軍縮交渉の進展が不可欠なことはいうまでもありません。しかし、それだけに眼を奪われていてはグローバルな軍縮の実現は不可能であります。今、必要な視点は世界的な規模における軍縮の制度化といえましょう。
 第一回特別総会の「最終文書」には「軍縮の過程における諸国家の努力の究極的な目標は、効果的な国際的管理の下における全面完全軍縮である」と述べられております。この究極的目標を達成するための新たな構想こそが、今問われるべきでありましょう。
6  「新軍縮大憲章」の採択を
 今回のSSD3では、そうした要請を受けてより具体的な世界軍縮への構想と、その実現への真剣な討論が期待されております。
 既に軍縮の分野で目指すべき最終的目標、原則、及び優先課題については、SSD1の「最終文書」にすべて網羅されているといってよい。それはSSDIに集った各国の討議によって、総合的な軍縮戦略が合意に達したものであります。
 問題は、ここで示された原則、目標をいかに現実に移すかにあります。
 そのためには、この「最終文書」の内容がより広く世界に啓発され、多くの人々の英知を集め、その実現へ向けた努力がなされねばならないでしょう。現実には世界でこの「最終文書」を読んでいる人はあまりに少なく、また既に忘却されているといっても過言ではありません。
 そこでSSD3で討議すべきことは、SSD1の「最終文書」で示された内容を更に現時点に合わせ修正し練り上げ、全世界に示すことであります。また、それを単に「最終文書」という形ではなく、全人類が二十一世紀へ向けて軍縮の分野で究極的に目指すべき「新軍縮大憲章」(New Great Charter of Disarmament)といった形で採択し、全世界に国連の決意を披瀝してほしい。
7  この「新軍縮大憲章」の一つの具体的な柱として、今回、私は新たに「国際軍縮機構」(IDO)の設置を提案したい。
 INF全廃条約は、現地査察を含む検証が実際に可能であり、軍縮は技術的にやればできることを実証した点で極めて大きな意義をもっております。従って差し当たり今必要なことは、国際的な管理のもとで全面完全軍縮を進展させる新たな機構を設置することであります。軍縮と軍拡が混在しながら同時的に進んでいる現状から、明確な形で世界を軍縮の方向へと力点を移動させるには、包括的なメルクマール(指標)と実現化へのシステム作りがぜひとも必要だと思われるからであります。
 その役割を「国際軍縮機構」が担うのであります。
 INF全廃条約の検証手続きは、レーガン米大統領の言を借りれば「史上、最も厳格なもの」であります。条約発効後、米ソはいうまでもなく、東西七カ国も含めて国内の基地への査察を受け入れる。十三年間にわたってそれらの国の基地に相手国の専門家が常駐し、監視し、チェックするという体制は、画期的なものといえましょう。
8  私はこうした検証体制を単に米ソニ国だけのものに終わらせてはならないと考える。こうした検証システムを日本、中国、カナダ、英国、フランス等の国々が加わった国際的なシステムに作り上げることを、当面「国際軍縮機構」の大きな目的にしてはどうか。
 こうした国際的な検証システムが確立できれば、現在、緊急の課題になっている化学兵器禁止条約や核実験全面禁止条約の実現も可能となりましょう。
 現在、国際的な軍縮討議の場としてジュネーブ軍縮会議(CD)が存在します。「国際軍縮機構」はそれを発展的に吸収し、CDのもつ討議機能に加えて、新たに検証機能を併せもった組織とし、この二つの機能を連動させ軍縮を推進するものとしてはどうか。
 IDOの大きな目的として、更に二つの点に触れておきたい。その第一は、核軍縮、生物・化学兵器の禁止を強力に推し進めるとともに通常兵器の軍縮を推進することであります。
 既に全欧安保再検討会議では、早ければ今年中に新たな通常兵器削減交渉を開始することで東西が基本的な合意に達しております。IDOでは、こうした東西間の通常兵器の軍縮のみならず、よリグローバルな規模で拡散している強大な性能を誇る通常兵器の軍縮をいかに進めるか真剣な検討をお願いしたい。とりわけ兵器の国際的移転に規制を設ける取り決めは、緊急に必要なものであります。
9  軍事技術を共同で管理
 第二には、軍事技術の革新が著しいなかで、軍事技術そのものをIDOによって共同管理する道を模索してほしいということであります。
 INFの全廃、勤囃核の削減という状況を踏まえて、今後の米ソの核兵器開発の競争は「数」から「技術力」に移るのは確実といわれております。更にレーザー兵器などのハイテク兵器の開発や先端技術を駆使した通常兵器の高精度化等が問題視されております。
 かつて一九四六年に米国が国連原子力委員会に提出したバルーク案は、原子力国際管理を意図したものでしたが、米ソの厳しい対立という現実によって挫折してしまった。それは軍事技術を国際機関を通じて共同管理することがいかに難しいかを示す一例といえましょう。
 しかしながら、将来の軍事技術の急速な発展に歯止めをかける何らかの手立てを考えずして、世界の真の軍縮は不可能な時代を迎えております。今回私があえてこの点を強く主張するのは、米ソが核軍縮交渉を進めている一方、宇宙の軍事化には何の歯止めもないという現状を深く憂慮するからであります。
 戦略核兵器の五〇パーセント削減条約が近い将来調印された場合、次の軍縮の目標は核実験全面禁上に焦点を当てるべきである。併せて″米ソ宇宙軍縮交渉″に比重を移行すべきだというのが、私どもの主張であります。
10  現在、宇宙での軍事的活動を規制するものとしては、一九六七年一月、米ソ英で調印式が行われた宇宙条約があります。この条約では「地球を回る軌道に核兵器及び他の大量破壊兵器を運ぶ物体を乗せてはならない」と定めております。しかし現状は宇宙の軍事利用は現実上野放し状態にあります。
 宇宙軍縮交渉を考えた場合、そこには様々な困難が横たわっております。例えば衛星攻撃兵器(ASAT)を禁止するには、検証が極めて困難なことが挙げられます。
 従って、こうした検証体制を単に米ソ間に任せるのではなく、主要先進工業国が技術を総動員する形で取り組んではどうか。「国際軍縮機構」は、そのために大きな力を発揮しうるでありましょう。
 多くの困難を承知のうえで、米ソ宇宙軍縮交渉の緊急なることを訴えるのは、このまま宇宙の軍事化を放置しておけば、今やっとできつつある米ソ平和共存体制が揺らぐことになりかねないからであります。時は今しかなく、もはや一刻も猶予は残されておりません。
 その意味から、かねてより私どもは、毎年一回、国連に対して各国が兵器・兵力及び軍事施設等の軍事状況を報告する義務を負わせるようにすべきである、と主張してまいりました。
11  今後十年を「平和と軍縮の十年」に
 もし「国際軍縮機構」がこうした報告制度を確立するとともに、監視衛星などによる監視システムを備えていくならば、お互いの国同士が相手国の軍拡に対してもつ疑惑と恐怖の悪循環を解消するのに大いに役立つ。そうした一つ一つの信頼醸成措置をいかにして積み上げていくかということも「国際軍縮機構」の主要な役割となるでありましょう。
 最終的には、この機構が中心となって各国の軍備削減計画を実施させ、専門の委員によってその状況を随時、査察し、全面的な完全軍縮の実現へ進むのが道筋として考えられます。
 私どもはこの第三回国連軍縮特別総会の場で「平和と軍縮の十年」の新たな設定を決めていくべきであると考えます。
 六九年に国連事務総長の提唱により、七〇年代を「軍縮の十年」とする決議が採択され、その後、引き続き八〇年代が「第二の軍縮の十年」と設定されました。しかし、この二十年間、軍縮の全体的な進み具合は、まことに遅々としたものであったと言わざるを得ません。
 状況が大きく変わり、米ソが軍縮のイニシアチブをとっているという現実を踏まえ、この流れを更にグロ―バルな潮流にするために、新たに国連が「平和と軍縮の十年」の設定に踏み出すことは極めて重要な意義をもつと思います。これからの十年はまさに二十一世紀を迎える準備期間にあたっており、各国が足並みをそろえ軍拡から軍縮へ政策転換を行えば、未来は大きく開けていくでありましょう。
12  いうまでもなく軍縮というテーマは、極めて困難な課題を数多く抱えております。従って、短期間で十分な成果を上げようとしてもなかなか難しい。勇気と、何よりも粘り強い努力が要請される課題であります。
 それだけに私は国連軍縮特別総会のもつ意義をここで改めて強調しておきたい。現実の国際政治の場で、しばしば″国連無力論″が口にされ、一部で″国連離れ″なる現象が見られることも確かであります。しかしながら、世界のほとんどの国を網羅した国連のような国際機構を他には求めるべくもなく、人類が一堂に会して討議を交わす場としての国連の重要性は、いくら強調してもしすぎることはありません。
 第一回の国連軍縮特別総会が開催されたのは非同盟諸国の提唱によるものであります。かねて非同盟諸国は、世界軍縮会議を開催することを提唱してきましたが、これでは主要国の一致した同意を得ることができず、軍縮をテーマにした国連の特別総会という形で開催することになったわけであります。
 こうした経緯を見るにつけ、改めて国連が軍縮にマトをしぼった特別総会を開くことの意義の大きさを思わないわけにはいきません。なかには今回限りで軍縮特別総会の使命が終わるというような論議すら聞こえる今、私どもは軍縮と平和を心から願う世界の世論の声として″軍縮特別総会の人を消すな″と叫びたい。
 NGO(非政府組織)としては結束して、むしろ四、五年ごとに定期的に軍縮特別総会を開催することを要望するべきだと思います。
 安全保障機能ということが、何といっても国連の機軸を成している以上、軍縮をテーマにした特別総会は、他の特別総会とは異なった意味と重みをもっていることを強調しておきたい。そして願わくは、この毎回の軍縮特別総会の行われる一年間を「国際軍縮年」と定め、グローバルな規模で真剣に軍縮に取り組む年にしてはどうか。
13  こうしたことは、単に政府のみに任せておいては実現は不可能かもしれません。世界の民衆レベルでどれだけ平和・軍縮の世論を高めていけるかが、軍縮の成否の一つのカギを握るものといえましょう。
 そこで具体的には、例えばSSD3後、世界軍縮キャンペーンの一環として国連がイニシアチプをとって、世界の軍縮研究機関やNGOの代表等による軍縮会議を広島で開催することも一考に値しましょう。これを定期的に開催し各国政府に対し具体的な軍縮を迫る場にしていけば、その意義は極めて大きいものとなりましょう。私どもがこれに何らかの貢献ができるようであれば、支援も検討したい。
 更にSSD3では「世界軍縮キャンペーン」の一層の充実を目指し実のある討議を期待したい。既にSGIは、このキャンペーンの一環として、国連と協力しつつ「核兵器――現代世界の脅威」展を世界十六カ国二十五都市で開催してまいりました。この展示は、多くの人々の注目を集め、反核・平和教育の生きた教材を提供するものとして高く評価されております。
 ″核の脅威展″は、六年間にわたり世界の核廃絶の世論を盛り上げるうえで大きな役割を果たしてまいりました。SSD3以後を展望するとき、より広範に戦争のもつ非人道性、更に化学兵器、生物兵器等を含めた現代兵器の非人道性を明らかにする作業が急務であります。私どももそうした活動を積極的に支援していきたい。
14  更にSSD1の最終文書にそって、八二年以来、国連に軍縮フェローシップ(研修)の制度がつくられ、加盟国、なかでも発展途上国における軍縮の専門家を養成するプログラムが進められております。毎年、これらのフェロー(研修生)を広島、長崎に招請し、研修を実施する仕組みができております。
 もとより軍縮の専門家を養成することも重要でありますが、更にもっと枠を広げ、世界の各地で軍縮・平和教育の第一線にたつことを希望する人材をつのり、国連が研修制度を設けてはどうか。各国でそうした教育を進めたいと願う若い教師を毎年、広島・長崎に招待し、生きた反核研修を実施し、その輪を広げていくことは、やがて大きい成果となってあらわれるにちがいない。ぜひSSD3で真剣な検討をお願いしたい一項目であります。
15  各国に「平和省」の設置も
 さて、私は最近、かねてから私の提言に注目してくださっているアメリカの一識者から、ある提案を受けました。それは、従来の陸軍省や海軍省、国防省といったものではなく、平和に専念できる省庁として「平和省」といったものを作る運動を、世界的に広げていってはどうか、というものであります。
 全く同感であります。それは、平和について私が常に抱いてきた考え方の基調とも、見事に符合するものであります。
 従来、平和という概念は、ともすれば″ネガ″の形でしか考えられない傾向があったことは、否めません。つまり、平和に積極的な概念の枠組みを与えるよりも、単なる″戦争のない状態″″戦争と戦争との幕間劇″といったネガティブな概念にとどまりがちであった。しかし、それは真実の平和というには遠く、もしそうした状態に手をこまねいているとすれば、平和とは、次の戦争への準備期間にすぎなくなってしまう。
 先にも触れたように、核という「運命的、黙示録的」兵器の出現は、戦争そのものを不可能にしてしまいました。こうした戦争観の転換は、平和という概念の捉え方の面でも″ネガ″から″ポジ″への転換を要請しているように思われます。
16  平和学での領域では、さすがにそのへんを、先んじて問題提起しているようであります。伝え聞くところによれば、普通、平和の反対は戦争と考えられがちだが、平和研究者の間では、そうした見方はとられていない。平和の反対概念は暴力だという。戦争を含む貧困、飢餓、環境破壊、人権抑圧等の暴カ――平和というものは、そうした様々な層の暴力と戦い、根絶していくなかに実現されるというのであります。
 確かに、そのような観点に立てば、平和という概念の″ネガ″から″ポジ″への転換も、よリスムーズになされるものと思います。そして、そうした大きな流れを補完し、補強する意味からも「平和省」とは、卓抜したアイデアであるといってよい。
 考古学の知見によれば、人類の進歩は、必ず技術の革新に現れる。そして技術革新は、より殺傷力、破壊力の大きい兵器の出現という形をとって表れる。これは、いつの世にも変わらぬ法則のようなものであり、第二次世界大戦のときの原子爆弾も、まぎれもないその証明であった。その法則に照らして、近い将来、人類は必ず滅亡する、というようなショッキングな話が、なかば本気で交わされているそうであります。
 そうした宿命を打ち破っていくためにも、政府省庁レベルでも、思い切って「平和省」を設置し、民間の様々な機関、運動と手を携えていくぐらいのイニシアチブが要請されていると思います。
 特に、この提案を平和憲法をもつ日本、軍隊を全廃したコスタリカ、南太平洋非核地帯条約を成立させた南太平洋の国々、スウェーデンなど軍縮に熱心な北欧諸国、かねてから結束して核廃絶と核実験全面禁止を訴えているインド、アルゼンチン、メキシコ等で真剣に検討していただければ幸いであります。
 各国の「平和省」が「国際軍縮機構」と連携を密にしながら世界的な軍縮の機運を盛り上げ、当面の大きな目標としてすべての核兵器の廃棄を定める国際条約の調印へ前進してほしい、というのが私の期待であります。
 今回の軍縮特別総会へ向けた以上の提案が、何らかの参考としてご検討いただければ望外の喜びであります。国連の活動を長く支援してきた一民間人として、同総会の実りある成果を心より期待するものであります。
 (昭和63年6月1日「聖教新聞」掲載)

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