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日蓮大聖人・池田大作

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環境問題は全人類的な課題 創価学会創立48周年記念提言

1978.11.19 「平和提言」「記念講演」「論文」(池田大作全集第1巻)

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2  たしかに私もそう実感いたします。中央集権的な政治体制と密接に結び付き、その支えとなってきた近代産業は、空前ともいうべき富の増大をもたらした反面、我が国を消費文明一色に塗りつぶしたといっても過言ではありません。その結果、過密、過疎や環境破壊など、規模の効率のみを追う従来の経済観ではとらえることのできない深刻な問題を生み出してしまったのであります。また、それは「地方」や「地域」に息づいている伝統文化を、表面的、画一的な「中央」の文化のもとに従属せしむる過程であったとも言えましょう。その過程で人々の持つ個性的な生活様式やその地域に根差す文化の多様性は、徐々に切り崩されてしまったのであります。都会であると農村であるとを問わず、人々の生活感覚の荒廃が指摘されるのも当然のことであります。
 従って「地方の時代」が叫ばれる背景には、失われつつある生活の場、そこでのみ人々が伝統に根差し、伝統を触発しつつ、みずみずしい生活感覚を発揮していける場を取り戻そうとの願いが込められているといってよいでありましょう。庶民の日常感覚に即して進められる私どもの運動は、そうした願いをともに呼吸するなかで推進されていかなければならないと思うのであります。
3  実際、創価学会も草創期以来、どちらかといえば都市部を中心に発展の歩みを続けてきました。そのため、私どもの発想もともすれば都市型に偏りがちな傾向は否めません。
 九州大学教授の岡崎敬氏は「創価学会は、東京、大阪といった都会より出発しているだけに、土着的な泥くささが強い感じであらわれていない。今後安定期に向かうにあたり、幅広い吸収の原理は、日本社会の底流に、今なおある土着的な潜在意識を、どう捉えるかであると思う。農漁民の中の人間関係、発想等には都市にない原理がある。ここに一つのカギがあるのではないかと思う」と述べております。
 私は貴重な意見であると思うのであります。特に現在は広布大河の時代を迎えております。創価学会の社会的比重というものも、草創期とは比べものにならないほど大きくなっております。というよりも、創価学会それ自体が社会であるというぐらいの認識を持たなければならないと思う。ゆえに、私ども一人一人も地域に深く信頼の根を下ろし、人々の心のひだの奥にまで分け入り、苦楽をともにしあう決意がなくてはならない。そうした地道な精神の開拓作業の中にしか広布の伸展もないし、また、真実の地域の復興もあり得ないと私は訴えたいのであります。
4  またこうしたことは、私どもの組織内部においても言えることであります。今、学会員は、全国の津々浦々におります。こんなところにも、これだけ会員がいるのかと驚くほどの辺地に、喜々として広布の情熱に燃えて活躍する人々の姿が紹介されております。
 御書に「道のとをきに心ざしのあらわるるにや」とございます。誠にこうした地方に、求道心厚き信心あふれる人が数多くいることを、私どもは深く認識していかなければならないと思うのであります。
 一個の人間を大切にするといっても、具体的には、こうした恵まれない最も光の当たらない人々の中に率先して入り、対話していくことが、私ども幹部に課せられた、当面最大の課題と言えましょう。このことは即「地方の時代」の先駆けであり、人間救済の仏法の根本精神からいっても、当然の道なのであります。
5  なぜ環境問題を取り上げるのか
 先日、環境問題の権威者であられるボン大学オルショビー博士と二回目の対談をいたしました。その折、博士より私に環境問題についてぜひ発言してほしいとの要請がありました。そこで、きょうここで人類の未来のために、私は「環境問題」について一言申し上げておきたい。
 なぜ「環境問題」を特に取り上げるのか。それは一つには、一時騒がれたこの問題がオイルショックに端を発した経済的不況のために、このところ忘れかけられたような状態にあります。だが環境の破壊と汚染自体はその後も進行し続けているし、問題がなくなったわけではありません。それが限界状態にきつつあることはまぎれもない事実であり、これを私は心から憂えるからであります。
 私はまず根本的には、この問題を次のようにとらえております。すなわち、およそ人間が直面する問題は三つに分けられるでありましょう。
 一つは、自己の内面世界にどう対処するか。
 二つは、他の人々とどのような関係を結んでいくか。
 三つは、自然環境にどう対応し、これをどのように扱っていくか。
 この自分対自分、他人対自分、自然環境対自分の三つに一切の問題は収まるといってよいと考えます。
 環境問題が直接的に提起しているのは、言うまでもなく第三の人間と自然との問題であります。しかし、よく考えてみると、この三者は互いに密接に結び付いており、決して切り離して考えることはできません。自己の内面世界に調和とバランスのとれていない人は、対人関係や社会生活にあっても、常に不和と争いの種をまいていくものであります。また、彼は自然に対しても支配、征服、破壊といった態度で臨むに違いない。
6  さて環境破壊というと、まず近代の大規模産業が思い浮かべられます。それは当然のことなのですが、同時に私は、環境に最も大きな破壊効果をもたらしてきたものは、昔も今も戦争であるという事実を忘れてはならないと思うのであります。
 一九七二年に、ストックホルムで開かれた国連人間環境会議の席上、ベトナム戦争におけるアメリカのナパーム弾や枯葉剤の使用が、エコサイド(生態系の大規模な破壊)の名で糾弾されたのは、我々の記憶に新しいところであります。
 そして戦争が、本源的には人間の内面世界の破壊に端を発することは「戦争は人間の心の中に始まる」とのユネスコ憲章の言葉を引くまでもありません。すなわち私は「″外なる環境破壊″は、いつの時代にあっても、人間の″内なる環境破壊″と互いに原因となり結果となりつつ不可分につながっている」ことを強調しておきたいのであります。
7  さて環境破壊の問題が、このようにクローズアップされてきたのはごく最近、一九六〇年代に入ってからであります。近代における科学技術の進歩を曲線に表してみると、十八世紀の産業革命以降、徐々に上昇しはじめたカーブは、一九六〇年代になると、ほとんど垂直に近い急カーブを描いているそうであります。それほどこの短い期間に集中的な進歩がなされたわけであります。その結果、公害等のマイナス面も急速に表画化してきて、多くの人々の関心を引き付けたのでありましょう。
 しかし、そうした進歩、発展の淵源をたどれば、その基本的なパターンが敷かれたのは、やはりヨーロッパ近代であるといってよい。ヨーロッパ諸国を中心に発達してきた科学技術、それに主導された近代文明の在り方については″近代合理主義″の名のもとに、多くの人々によって論じられていますので、ここでは詳論しません。
8  それを一言にして言えば、自然への支配欲や征服欲、すなわち人間のエゴイズムの正当化であります。もとよりそうした姿勢は、反面、刻苦、節制、努力、挑戦などの能動的エネルギーに結晶したことは事実であります。また近代科学が、飢餓や疾病を克服するうえで果たしてきた貢献を否定しようとするものではありません。
 しかしその根源が、エゴという内面世界の不調和やアンバランス、換言すれば″内なる環境破壊″に発している限り、そのエネルギーも歪んだ方向へと向かわざるを得ません。対人関係においては植民地主義、対自然の関係においては、文字通りの自然破壊、環境破壊を引き起こしてしまったのであります。
 今やこうした人間中心主義は明らかに破綻をきたしております。私はそれは、どちらかといえば東洋の発想である自然中心の共和主義、調和主義によって取って代わられなければならない時期に来ていると思う。
 私が環境問題の抜本的解決のために、東洋の英知である仏法の教えるごとく、あらゆる存在にその固有の尊厳性を認める考え方を基盤におかなければならないと訴えるゆえんもここにあります。
9  人間と自然の調和、共存の原理
 なかんずく、五おん、衆生、国上の三世間から成る一念三千の法理が示すように、国土世間も含んで我が生命が成り立っているとの依正不二の原理こそ、時代の要請であると思うのであります。
 すなわち、この法理によれば外部環境(依報)即内部環境(正報)であり、一体不二なのであります。更に正報も依報によって作られているとの考え方も含んでおります。更に正報という″内なる一念″の変革が、必然的に依報である国土世間をも含む全自然環境へと連動し、そこに変革をもたらしていくという、優れて内外呼応した共和、調和の法理であるからであります。
 こうした考え方を根本にしてこそ、今まで支配、服従の一方通行であった人間と自然との回路は相互に音信を通じ、人間が自然からのメッセージに耳を傾けることも可能となるでありましょう。また人間と自然とが交流し合う、豊かな感受性をもった文化、精神を作り出すこともできるはずです。
10  この発想を根底にするならば、自然に対する侵略、征服の思想から、共存の思想、更には一体観の思想ヘの転換も可能であると信じております。その点、後年、日蓮大聖人の仏法を信奉した牧口初代会長の『人生地理学』を現在の多くの識者が再評価し、その中にちりばめられた自然に対する貴重な発想を、現代社会によみがえらせるべきであるとの主張がなされております。
 誠に『人生地理学』の中には、西洋の知識を縦横に駆使しつつ、一貫して東洋人の自然観が語られております。豊かな大自然に抱かれて人生を享受する人間の生き方が詳細に描かれております。識者の注目するところも、まさに、東洋的自然観、東洋人の発想にほかなりません。
 例えば人間は、植物と接触することによって美情を養うことができる。殺意をしずめ、豊潤な心情を培うものであると述べられております。また動物や山、川といった無生物との交渉を通じても、美に感動する心を養い、親愛や勇敢さという高尚な心を啓発していく存在であるとも記されております。
 更に人間は、大自然の妙なる営みに抱かれて、芸術的心情や真理への情熱を燃やすばかりではなく、大宇宙の律動へ″心の眼″を開き、宗教心を育てゆくものであるという根源的な領域にまで入っているのであります。
 また、かつて古代文明の栄えた遺跡を見ると、そこに幾十万もの人々が住んでいたとは思われないような広漠たる砂漠が広がっている。まさに草木も生えない状態になっております。その原因として、緑の木々や草を人間や動物が絶滅させたことに求める歴史家もおります。たしかに人類の文明にとって、いかに緑の平野が貴重であるかを示しているでありましょう。
11  先ほどのオルショビー博士との会見の際、いただいた最新の論文の中にも、ドイツにおいて環境保護のために植林がいかに重視されてきたかが強調されております。ドイツでは十八世紀から十九世紀初めにかけて「自然を庭園として残そう」との運動が起こった。これは英国から出発して欧州全域にまで広まったものですが、その後、近代工業化の中で一時忘れられたが、十九世紀末から再び自然保護の運動が広がって、今日に至っているとのことであります。
 私も旅行をするたびに、ヨーロッパの各都市では緑豊かな公園が広々ととってあり、田園の緑もまた実に美しいのに感心させられますが、そこには長い年月にゎたる住民のたゆみない努力があるのであります。
 ここで思い起こされるのは、東洋においても今から二千年以上も昔に、仏法を信奉したマウリヤ朝のアショーカ王が、その憲法ともいうべき十四章の法勅の中で、第二条にインドの全領土に街路樹を植えさせたことが記されております。私もかつてインドを訪問した際、どの街道筋にも亭々として幹の太い並木が、延々と植えられているのを目の当たりにしました。厳しい自然環境の中に生きるためには、人類は何千年も昔から緑を保護し、幾世代にもわたって木々を大切にしてきたものと思われます。
12  ここでは数例を挙げたにすぎませんが、『人生地理学』に詳細に論じられているように、大自然は、人類の生存にとって唯一無二の母体であり、基盤であります。それはただ肉体を維持するために必要であるというのみならず、人類の精神的基盤であり、文化、文明を興隆しゆく源泉でもあります。
 ゆえに自然の破壊、損傷は、そのまま人類の衰退、滅亡にも通じる危険性をはらんでいると言えましょう。逆に言えば、豊かな自然のリズムを維持し増進することこそ、永劫なる人類繁栄への最大のカギといっても過言ではありません。
 この際、単純なことながら改めて銘記しておきたいことは、自然環境や他の生物には本来、国境や領海などはないということではないでしょうか。それを作り出したのは人間であり、偏狭な人間の心であります。
 大気も海水も国境を超えて、地球的規模で運動しております。北洋を回沸している魚にとっては領海のラインなどは分かろうはずがありません。現実にヨーロッパではライン川上流のドイツで流出した毒物が、下流のオランダなどに被害を与えた例もあります。我が国の唱歌に「うみは ひろいな 大きいな……」というのがありますが、この子らの将来のためにも、広い海を広く保つのも狭くするのも、人間の心にかかっているという一点だけは忘れてはなりません。
13  先のオルショビー博士も「多くの民族の歴史は、一つの文化圏の繁栄と存続は、土壌が肥沃であり続けるか否かにかかっている。豊かな風土にのみ高文化ができる」と述べられ、数々の民族興亡の実例を挙げております。そのいずれの実例も、文化の興隆とそれを支える豊かな自然の関連を見事に立証するものでありました。そして一つの民族が自ら土壌を荒廃させた時、必ず民族の生命力が衰え、やがて世界の歴史の舞台から退いていったのであります。
 ところが、今や世界は一体化し、東洋も西洋もまた他の地域も科学技術文明を取り入れ、ともに人類文化を築き上げゆく段階に入っております。つまり自然の人類を支える力の消失は、一つの民族、国家の衰退にとどまらないのであります。まして地球的規模での自然破壊の現状を考えれば、人類の文化、人類の生存力そのものの衰亡に思いをいたさなければならないのであります。
14  「環境国連」の創設を
 そのため、国連の砂漠会議においても提案されたように、現に進行しつつある地球の砂漠化を食い止め、我が国を含めた先進諸国の経済力をもって砂漠地域の濯漑、植林を行うことも一つの方法であります。それによって開発途上国から″公害輸出国″との批判をうけかねない日本も、発想の転換を迫られていくことでしょう。更にまた、全地球的規模において人類が生き延びるための方策を、各国の英知を結集して研究し討議し、具体的な解決策を見いだしていくべきであると提案したい。
 したがって、これらの諸問題に対処するにあたっては、理想論とのそしりをうけるかもしれませんが、国境や民族を超越した視点と舞台に立っていくことが急務でありましょう。その方向への具体的な個々の努力、対話、協定の積み重ねのうえに、例えば、国連人間環境会議の際生まれたUNEP(国連環境計画)、一九七六年のハビタット(国連人間居住センター)等の成果を踏まえつつ、やがては全世界の話し合いと取り決めの共通の場としての「環境国連」ともいうべきものが生まれるであろうことを念願したい。それが従来の国連機構の中で、どのような位置を占めていくかは今後の課題であります。
15  しかし私は、こうした機構が国連内でより大きな比重を占めていくということは、国連の分節的機能を高め、平和と安定という意味からも好ましい方向であると考えます。そして、そこに初めて自然環境の問題に関して、人類は健全な国際的合意の基準を確立することができるであろうと、私は仏法者として期待しております。
 しかし、この「環境国連」を考える際、欠かすことのできない視点は、地球的規模にわたる調和、特に南北間のバランスの問題であります。国連人間環境会議が開かれた時、最大の焦点となったのも、この点でありました。
 たしかに環境問題はグローバルなものであり、核にも匹敵する人類的課題と言えましょう。またそれが、近代科学を駆使した「開発」によってもたらされたことも言うまでもありません。
 しかしそれは、近代文明の″マイナス″の部分であり、″プラス″の分野に属する富の増大、経済的繁栄を享受しているのは、あくまで先進諸国にすぎないのであります。多くの開発途上国は、その恩恵にすら浴さず、いまだに貧困と飢餓に、日常的に脅かされているのが実情と言えましょう。
16  いくら環境問題という″マイナス″の部分の影が、地球を覆うまでに広がりつつあるとはいえ、そうした既成事実を無視して″地球は一つ″と叫ぶことは、持てるもののエゴイズムと言われても仕方のない面があるのであります。国連人間環境会議の際「貧困こそ最大の環境汚染ではないのか」との声が開発途上国から発せられたのも、当然のこととも言えるのであります。
 従って「環境国連」のような場を創出していくにあたっては、人間と自然との調和という観点と同様、国と国、特に「南」と「北」との調和、共存共栄をどう図っていくかがカギになってくると思うのであります。そのためにも、今まで多かれ少なかれ開発途上国の犠牲のうえに繁栄を築いてきた国々は、自らのうえにとりわけ厳しい試練を課さねばなりません。私は我が国を含む先進諸国に強くこのことを訴えておきたいのであります。こうした国対国、「南」と「北」とのバランスと同時に重要なことは、特に先進国の国内における経済成長と環境保全とのバランスの問題であります。
17  たしかに人類が輝ける未来を築くためには、科学技術の導入による工業化と経済的繁栄を無視することはできません。これらは人類生存の物質的基盤を確保するための、極めて有力な手段であります。だが科学文明は、それのみを追い求めていくならば、大自然の律動を破壊し、自然の中に張りめぐらされた″生命の環″――すなわち生態系をズタズタに切り裂いていくという一種の宿命をはらんでおります。
 その際私は、二十一世紀の人々の生存の基盤を確保しておくためにも、先進諸国において国内の経済成長と自然破壊が拮抗した場合には、断固として自然保護、自然の回復を第一義とすべきであると思うのであります。
 幸いにして現代の生態学をはじめとする自然にかかわる学問の知見によって、自然の耐えうる限界――つまり、環境負担能力の限界――が次第に明瞭になりつつあると聞いております。
 これらの成果を取り入れて、大自然の営みを回復し、更に増進する道は開かれていくことでありましょう。そこで私は、今後の方向は科学的知見によって示される自然の復原力を上回らないような低成長の経済的発展であるように、常に指導者は心掛けるべきであると訴えたいのであります。
18  「心の財第一」の価値観を
 しかし、このことだけで環境問題が解決への軌道に乗ると考えるのは、楽観的にすぎるでありましょう。自然保護、環境増進の運動の土壌には幅広い民衆の支持、コンセンサスが必要不可欠であります。自然とともに生きる人生観を信念とした人々の大いなる共感と支持があってこそ、この運動は着実な歩みを進めることができるのであります。
 こうみてくると、「南」と「北」とのバランスにせよ、経済成長と環境保全とのバランスにせよ、当面する環境問題の大部分は、とりわけ先進工業国の人々に課せられた課題であることが明らかになるのであります。それらの国々は他国を顧みることなく、また自然の犠牲のうえに「開発」を続け、今日の大量消費文明を築き上げてきました。それは人間の欲望の、とめどもなき拡大の過程でもあります。
 課せられた課題、試練とは、そうした欲望を限定し抑制する戦いなのであります。たしかに人間性の常として、一度拡大されてしまったものを縮小することは至難であるかもしれない。だが私は、地球という一つの有限な物体の上で破局への行進をするよりも、断じて試練を選ぶであろう人間の英知を信じたい。そのためにも、そうした英知を開発する哲学、なかでも宗教の重要性を訴えたいのであります。
 ″もの″から″こころ″へ、物質至上主義から生命至上主義へ――すなわち、御書に仰せの「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」との価値観が、今ほど要請される時代はありません。
 この価値観が人々の心に定着していく時、人類の抱える大きな問題も、いかなる試練があろうと、もつれた糸をほぐすように解決の方向へ進むと私は確信しております。″内なる破壊″が″外なる破壊″と緊密につながっているとすれば″内なる調和″が″外なる調和″を呼んでいくことも、また必然であるからであります。
19  第二のルネサンスを待望
 翻って現代の世相は、数年前のバラ色の未来論が語られた時期から一変し、暗い不透明な未来と殺伐とした人心、希望と歓喜を失った化石化した人々の姿を映し出しております。
 家庭における夫婦、親子の関係の亀裂、老人問題、また社会の中での人間関係の分裂、犯罪の増加、それもますます凶悪化し、加えて中学生、小学生の自殺等を思うと、心を痛めるのは私一人ではないと思う。
 個人のみではない、社会自体が病んでいるのであります。世界的にも多くの国々が様々な苦悩を抱え、また核の問題、かつて申し上げた資源の問題、食糧の問題等々、人類的課題が山積しております。
 私は、これらの問題を通じて考えるとき、現代という時代は、生きる基準を失い、再び新しい生き方の基準を求めゆく歴史の転換点に立っていると信じている一人であります。
20  近年、新聞や雑誌等がしばしば「哲学は甦るか」というテーマや「文化」の問題等について特集しております。文化といっても、せんじつめれば人間の生き方の問題であり、哲学の復権の声もまた、新しい生きる道を模索する人々の心の反映であると考えられます。
 振り返って、西欧において十四、五世紀にルネサンスの運動が起こりました。それはヨーロッパ社会に限定されていました。たしかにそれは、一切に君臨していた絶対神を個人の内面の座へ下ろした画期的な時代の流れでありました。
 しかし、その後にきたものは個人の尊厳とは異なる外側の権威の絶対化でありました。進歩信仰、制度信仰、資本信仰、科学信仰、核信仰等、つい最近に至るまでそれが貫かれてきました。しかし数百年にわたって培われてきたそれらの価値観が急速に崩れ、人々の内面、生き方に空白ができてしまっていたことに気づき始めてきたというのが、現代の実情であります。
 私はこれからの理念は、人々の心の奥に根を下ろした宗教から発するものでなければならないと信じております。外なる権威の絶対化から一個の人間の内なる変革を第一義とすべき時代に入ってきている。それは地道ではあるが、第二次ルネサンスともいうべき時代の趨勢とならざるを得ないと考えるのであります。その主役は、一人一人の庶民であり、その戦いは自己自身の人生の転換から出発すべきであります。
 これを可能にする道は、日蓮大聖人の仏法にあることは間違いありません。なぜなら、例えば「一人を手本として一切衆生平等」との御文にみられるように、日蓮大聖人の仏法は、生命の根底まで掘り下げ、そこから一個の人間の真の尊厳を樹立し、一切衆生を平等に救い切る大法だからであります。
21  太平洋文明の時代
 今から八年前、すなわち昭和四十五年の秋、私はECの生みの親といわれる故クーデンホーフ・カレルギ―博士と、延べ十数時間にわたって対談したことがありました。
 その時、博士は「日本が第一に世界平和のためにベストを尽くすこと、そして第二に、明日の大平洋文明を築いていくことを期待します。現代はヨーロッパ・アメリカの大西洋文明から次第に新しい太平洋文明ヘ移行していく過渡期であって、そのなかでリーダーシップをとることが日本に課せられた重大な使命であると思います。日本は来るべき太平洋文明の主体者となるべきです」と力を入れて語っていたことが印象に残っております。
 しかも、更に語をついで「日本が世界に向けて輸出すべきものは、単なる物や技術だけではない」と述べ「もっと大事なことは偉大な思想を外国に向かって、世界に向けて紹介することです。私は、その時が既にきていると信じております。その偉大な思想とは、インドに起こり、中国を経て日本で大成した、平和的な生命尊重の仏教の思想です」と、きっぱりと言っていました。
22  故アーノルド・J・トインビー博士も、その鋭い歴史観から、大平洋文明の時代の到来を告げた歴史家でありましたが、この人も同様の趣旨を私に語ってくれました。果たせるかな、最近、多くの識者が二十一世紀は太平洋文明の世紀となるであろうと予想を述べ、『エコノミスト』誌でもこれを重視し、太平洋時代の到来は歴史的必然であると語る論調が掲載されています。
 そのなかで、米国通で知られるある識者が、本年の七月末、ワシントンで前国務長官のキッシンジャー博士に会った時に、同博士は「歴史の方向は、これからヨーロッパを去り、太平洋地域に移っていくだろう。その兆候が既に出はじめているのではないか」と述べたとのことであります。
 またその識者は、駐日米国大使マンスフィールド氏も太平洋重視の考えの持ち主であるとも述べております。これらの世界の指導的立場の方々は、皆、私がかつてお会いした人々であり、その心情については、私自身、肌で感じているつもりであります。
 私はこれらの方々とは別に深く内心期するところがあります。それは日蓮大聖人が絶対の確信をもって「日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し」と叫ばれ、「仏法必ず東土の日本より出づべきなり」と呼号あそばされたことが、いよいよその時を迎えつつある、との信念を抱いているからであります。
 私がこの信念から仏法を基調とした平和、文化に貢献することが大切であると申し上げ、またいよいよ大河の時代に入った、二十一世紀は大海の時代であり、世界がその舞台となると述べた理由の一端もここにあるわけであります。
 以上申し上げて、私の本日の提言とさせていただきます。
 (昭和53年11月19日 「聖教新聞」掲載)

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