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人生と学問 創価大学第2回夏季大学講座

1974.8.22 「平和提言」「記念講演」「論文」(池田大作全集第1巻)

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1  きょうは皆さんの楽しい夏季大学講座、大変におめでとうございます。(大拍手)
 この席での私の論題は「人生と学問」ということになっておりますが、私は学問での専門家ではありませんので、何かまとまった理路整然とした研究内容を申し上げるわけにはまいりません。従って、普段考えている断片的な感想を、思い付くまま気軽に述べさせていただきます。どうか皆さんの方でも、そのつもりで楽な気分で聴いてください。
 こういう席での話でありますから、暑いし、また、時間の都合もありますし、推論の進め方が粗っぼくなる点はご寛容願います。
 世間の人々というものは、大まかにいって、どのような人でも、ある意味で相当な科学者であり、相当な哲学者であり、相当な経済学者ではないかと思うのであります。それぞれに程度の違いや自覚の差はあるにせよ、一応、私はそうだと思っています。この高度な文明社会の中で働いて、暮らしているのですから、仕事にせよ、生活にせよ、いろいろな科学知識を身につけて、科学の手続きをよく踏んでやらないとできないはずであり、実際に毎日、そうした仕事と生活を繰り返しているのですから、私は、誰でも相当な科学者ということがいえるのではないかと思うのであります。
 同じように、この過剰なくらいの情報社会の中で、毎日、自分が選びとった各種の情報をいろいろ考え合わせて、それを自分の人生観や思想や主義主張と練り合わせて処理している。これには相当な思想活動と概念操作の実力がいりますし、この点からみたならば、誰でも相当な学者であり、思想家であり、哲学者と言えるのではないかとしみじみ感ずるのであります。
2  してみれば、人間と学問の関係は、何も特別に学究生活をしている人でなくても、誰でも毎日、一生涯きってもきれない密接な関係で続いていると言わざるを得ません。人生、有益に身を処していくためには、いろいろな物事を正しく知らなければなりませんし、行動、実践、労働のためには、その場その場で、何をどのようにしなければならないかということについて、自分で考えて、自分で決めなければなりません。これが決まらないと、動けないわけであります。
 しかし、実際の生活上では、特に対人関係と社会関係とについては、毎日、多くのことを上手に処理していっているのでありますから、誰でも自分のなすべきことについて、自ら考えて自主決定をしているわけであります。
 いわゆる学問とは、自らが認識し、思索したところを言葉なり数式なりによって明確化し、万人の認識と思索、そして行動のための糧となす作業と言えるのではないでしょうか。
3  行学二道に励む中に真の人生
 このいま申し上げましたところの「物事を正しく知る」という知的な活動、これを哲学上では「ザイン(存在)」の問題と言っております。これは認識の分野であり、客観の領域であります。
 これに対して、一方の「われ、何をなすべきか」という決断を下す活動――この判断を内容とする意志的な活動、これを哲学上では「ゾルレン(当為)」の問題と言っております。これは自覚の分野であり、主観の領域であります。
 家庭の主婦が毎日、魚や野菜の買い出しに出掛ける。店はたくさんある。果たしてどの店が良い品を安く売っているか見比べて、正しく知ってから買わなければならない。この「正しく知る」作業は「ザイン」の分野、それに基づいて「よし、この店のこの品物を買おう」という決断は「ゾルレン」の領域であります。
 してみますと「ザイン」なき「ゾルレン」はあり得ないし、「ゾルレン」なき「ザイン」は無用の長物であると言えましょう。これは実生活に即した一例を申し上げましたが、実はこの「ザインとゾルレン」というのは、古来、人間の思考の中心問題なのでありまして、将来、永遠にわたって続いていくはずのものであります。
4  このように「ザイン」と「ゾルレン」とは人間にとって切り離せないものでありますが、あえて立て分けて言えば、「ザイン」すなわち認識の分野について秀でた人は、秀才、智者、論師、賢人であり、「ゾルレン」すなわち自覚の分野について優れた人は、人格者、有徳の人、救済者、人師、仏・菩薩等とみることもできます。
 当然、一個の人間として人生をよりよく生きて幸せにするためには、この両方を兼ね備えて充実、向上させていかなければならないことは、言うまでもありません。
 日蓮大聖人は「行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ」と述べておられますが、この「行と学」こそ、まさしく「ゾルレン」と「ザイン」に当たるのであります。
 仏法上ばかりか、一般的にいっても「行学」の絶えた人の人生というのは「灰色の人生」にならざるを得ないでしょう。「バラ色の人生」は「行学」を励んでこそ建設されるのであると、私は強調したいのであります。
 また経や御書に説かれる「若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり」とは、この脈絡のうえにおいて説かれた真理であると、私は了解しているものであります。
 ともかく「ザイン」と「ゾルレン」とは、人間に対して、その全人格へ相乗効果を及ぼすものでありますから、両方が平均に発達して、人格のなかで均衡がとられていること、すなわち、正しい「ザイン」のうえに、正しい「ゾルレン」の確立されていることが望ましいのでありますが、みんな凡人でありますから、なかなかうまくいかないようであります。
5  個人の生涯のうえでみますと、物心がつくころから「ザイン」のほうは、いやでもどんどん発達するが「ゾルレン」の伸びは、しつけなければ遅れてしまう。青年期を過ぎたころからは「ザイン」のほうは次第に伸びが弱まり「ゾルレン」の伸びが勢いよくなってくる。
 両方が平均する年齢は、どうも四十過ぎ、または四十代前半ではないかと思っております。
 私が年配者を大事にし、尊敬する理由も、その法則のうえからであります。ですから、私は人格内の「ザイン」と「ゾルレン」の健全さを保つために、こういう文明社会であればあるほど″生涯教育″が必要だと強調しているのでありますし、その点から、この夏季大学講座にも、大きな期待を寄せている次第であります。(拍手)
6  「知」と「不知」の区別明瞭に
 さて、今日のテーマは「学問」でありますから、話をそちらのほうへ絞ってまいりたいと思います。言うまでもなく「学問」は「物事を正しく知る」という客観的認識の分野を担うものであります。儒学では「知れるを知るとなし、知らざるを知らずとなす、これ知りたるなり」といって″正しく知る″とは、その出発点が「知」と「不知」との自覚的区別にあることを教えております。
 悟りもしないで悟ったかのように思い、知りもしないで知っているかのように思い込む、この慢心や錯覚が、認識の最大の敵だというのです。こうして、まず「知」と「不知」とを、きちんと区別して、それから「既知」の知識を武器として「未知」の領域へ切り込んでいく。それが「学問」であり、その行為を通じて不明であった物事を明瞭に分かった状態に変えていく。それが認識であります。
7  しかして、認識というものは、まず対象を観察することから出発します。観察によってみえたいろいろな事柄を手掛かりにして、次に思考活動に入ります。この思考活動が「言葉」を使ってする「論理」というものでありまして、論理学と数学とを合わせて形式科学といっているのは、皆さんご承知のとおりであります。
 さて、この言葉の使い方でありますが、学問でいう認識のための使い方は、日常の会話での使い方とは比較にならないくらい、厳密さが要求されます。
 意味内容を明確にし、所用の文章を作る際にも、その命題が指示する意味内容を厳密に絞り、それによって万人に同一に通じていくようにしなければならない。
 以上のようなわけで、認識については、厳密に定義された言葉と論理が一番大事な役割を担っております。
8  世界は「出来事」の集合体
 さて、次にこれと関連して、最近の世界観について一言申し上げてみたい。私どもの周囲には、私どもが知りたい、知らなければならないということは数多くあります。ありすぎて困るほどであります。だが、知らないと人間心理は不安に陥る。安心立命できない。人生とは、こうもやっかいなものなのであります。
 私どもはいろいろな「ものごと」に取り囲まれて生きていますので、知るべき対象はこの「ものごと」そのものであります。では「ものごと」とは一体何でありましょうか。それは文字通り「もの」と「こと」でありましょう。世界は「もの」でできていますから「『もの』の集まりこそ世界である」と主張すれば唯物論であります。それに反対して「いや、そう知ったのは意識の力による。『もの』より意識のほうが優位する」と主張すれば、唯心論であります。
9  それでは「『ものごと』の『こと』のほうこそ大切だ。世界は『こと』の集まりである」と主張したら、一体どうなるのでありましょうか。この問題について、実は二十世紀初頭以来の科学と最新の哲学とは「宇宙は『もの』の集まりではない。『こと』の集まり……むずかしくいえば『アフェアー(出来事)』の集合体である」と主張しているのであります。
 たしかに、世界は「もの」だけでできてはおりません。「もの」でない何かがある。エネルギーや、音や、光などは「もの」ではないし、社会や人類や数学の数も「もの」ではないし、恋愛も「もの」ではないと思いますけれども、若い諸君どうだろう。(笑い)
 また、ここ八王子は都心より西にある。この「より西にある」という位置関係や時間や空間や心理や法則も、いわゆる「もの」ではありません。こうした「もの」以外の存在は「もの」の在り方とは違って、存立している、つまり成立しているのであります。
10  「ものごと」のうち「もの」は存在しており「こと」は存立しているのであります。仏法では「本迹勝劣」ということを言いますが、「もの」と「こと」の本迹はいかに――となれば、仏法はもちろんのこと、科学と最近の哲学とは「『こと』が本、『もの』は述」という世界観に立っているようであります。時代は、そのように開かれつつあるように見えます。
 一例を挙げてみますと、私は今、原稿つまり紙というものを手にしておりますが、時間上、長期的視野に立って、この紙という「もの」をみると、地上の物質へ太陽のエネルギーが働きかけて木が育ち、人間がその本を切って加工して紙にして、用がすめば、焼いて灰にして捨て、分解して何かになっていくことでありましょう。
 こういう「アフェアー(出来事)」つまり「こと」の連続のプロセス(経過)の中において、ただ今という時点だけで言えば、紙という「もの」であるわけでありますが、しかし認識論的に言えば、存在は、長期的視野からみれば、すべて「こと」であり、「もの」とは時間を切断して短期的視野で対象をみた場合に生じた概念にすぎないのであります。
 つまり、「もの」という概念によっては、初歩的な範囲までは分かるが、その先は認識不可能になってしまいます。
11  仏法では「世界も衆生も色受想行識の五陰仮和合の法である」と教えており、「世界は『こと』つまりアフェアーの集合体だ」という最近の科学と哲学の主張は、非常に仏法の世界観へ接近してきていることを、最近、私はことに興味深く眺めている一人であります。
 以上、「人生と学問」について、断片的な、また分かりにくい内容であったかもしれませんが、私の思うところの一端を申し上げました。皆さん方の何らかの参考になれば幸いでございます。堅苦しい内容のものになってしまいましたけれども、熱心にご清聴くださいまして、心より御礼申し上げます。皆さん方のいよいよのご健勝をお祈りして、私の話を終わります。(大拍手)
 (昭和49年8月22日 創価大学体育館)

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