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日蓮大聖人・池田大作

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文学と仏教 創価大学第1回夏季大学講座

1973.8.25 「平和提言」「記念講演」「論文」(池田大作全集第1巻)

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2  日本文学思想史の流れ
 仏教は、広くインド、中国、日本と長い歴史を経てまいりましたが、今回は、局面を日本のみに限定して、話をさせていただきます。
 我が国の文学思想史をたどってみると、大まかに、次のように区分することができると思います。
 第一は上代。この時代は思想的には、純粋に土着思想の時代であり、外来思想との接触は皆無の時代であり、アニミズムとシャーマニズムの時代でありました。このアニミズムというのは、神と宇宙を同一化した宗教のことを言う。すなわち″神のうちに宇宙を、宇宙のうちに神を見る″という思想であります。これは、イギリスの有名な人類学者であるE・B・タイラーが唱えた、一つの言葉であります。
 いわゆる汎神教とシャーマニズムは、原始的宗教に属すると言われます。これらは、神と人間と自然、万物という三つの間に、徹底した区別を設けない考え方である。
3  時代的には、紀元前約六百年ごろから大和時代の統一国家の成立を経て、西暦七百年ごろの奈良朝までの時代であった。文学のうえからみるならば、口誦文学の全盛期であり、また文字による記載文学の発生期でもあった。
 この時代にあっては、文学的要素もすべて農業共同体としての地域や、氏族の全般や、国という全体的共同生活の中にのみ溶け込んでおり、個人的な意識の発露は、わずかに歌の中に見いだされるにすぎなかったのであります。
 すなわち、祝詞、宣命、更には『古事記』『日本書紀』『風土記』と、そのいずれをとってみても、共同体や国の維持、経営に関係していて、まだ純粋な芸術としての文学という段階まではきていないように思うのであります。『古事記』は、神代から推古天皇までの記事を収めた歴史、神話の書物である。『風土記』は、和銅六年に、日本の諸国の地名の由来とか地勢、産業等々を記して朝廷に差し出された、今でいえば地理書のようなものであります。
4  しかし、やがて次の時代に発生する文学は、この上代での生活文化の風潮の中から、次第に特色づけられて、生まれていったといってよい。
 従って、日本文学の基本的な特色を知ろうとするならば、この上代の文学的傾向を無視することはできないと考えるのであります。大和に成立した統一国家は、はるか海を隔てた中国及び朝鮮との接触によって、社会も文化も急速に変貌してまいります。
 まず、漢字という記載手段が入ってきた。更に、紙づくりの技法が伝わり、それと前後して、仏教という外来思想が入ってまいりました。これは、当時の日本社会としては″文化大革命″ともいうべき大事件であります。万葉仮名による『記紀』の編纂、『万葉集』の編纂等、口誦文学を記載文学として、定着させることができたのは、この漢字のおかげであり、やがて、その漢字をもとにして、仮名文字を作り出したことが、我が国に文学を興らしめる契機となったわけであります。
 この仮名文字の創案された平安時代は、また国策として政治的に極めて意欲的に、仏教の布教が図られた時代でもあります。したがって、この時代は上代の、神と人間と自然、万物が判然と区別されない素朴な汎神論思想とは全く異なって、統一的世界観と体系的人生観とを備えた仏教が、平安貴族の教養として、生活的にも、思想的にも、指導原理として浸透しはじめたのであります。
5  更に、知識階級や思想の指導者として、初めて僧侶という全く新しい集団が生まれたのであります。この社会的現実と本格的な文学の発生とは、時と所を全く同じにしておりますので、当時の日本文学は、そのすべての面で、深く仏教とかかわり合いをもっていたのであります。そして、この思想傾向は、その後も根深く定着して、今日に至っていると考えられます。
6  第三の時代は、中世であります。すなわち、鎌倉時代から足利、戦国の両時代を経て、織田、豊臣の時代に至るまでが中世であります。
 この時代の思想的な特色は、前代の平安時代が仏教による啓蒙期であったのに比べ、いわば仏教が貴族の教養であった状況を突き破って、仏教が日本化した時代でもあり、民衆化した時代でもありました。いわゆる「日本仏教」という特異な呼称を与えられて、中国からの伝来仏教と区別されるに至るのは、実に鎌倉時代からであります。
 この時代は、ご承知のように、政治権力が貴族社会から武家社会の手に移り、京都から鎌倉へと、政治中枢が移ったばかりでなく、文化のすべてが中国直輸入の生の形から、だんだんに消化されて、日本に適応するように変容されていった時代でもあります。
 仏教を例にとりましても、難解な輸入型の多くの各宗派が廃れ、つまり南都六宗や比叡山が仏教の実質的中心としての力を失って、教義の高低浅深はさておくとしても、極めて日本化された宗派が新興してきた。
 その″新仏教″が、武家と農民、漁民という民衆一般へ急速に伝播した時代であります。
7  鎌倉時代以降は、仏教は知識と教養と儀式としてではなく、民衆の生活そのものに肉化(インカネーション)されていくところに、その特色がみられるのであります。したがって、仏教は文学においても、最も根強く定着し、あらゆる点で陰に陽に、思想の血肉として、にじみ出るようになっていったとみるのであります。
 ところが、時代が下って江戸時代になりますと、様相は一変いたします。そして更に、明治以降になると更に変貌していくのであります。
 我が国に印刷術がもたらされたのは、遠く奈良時代にさかのぼりますが、その後、鎌倉、室町時代においても、木版印刷は行われてまいりました。だが、何といっても印刷が飛躍的に普及したのは、江戸時代に入ってからで、これが町人の間に文字の普及と文学の普及とをもたらしていったといってよい。
8  徳川三百年の太平期は、こうして町人文化の興隆時代でありましたが、一面、幕府は宗門人別帳制度を作って、仏教を民衆統制の手段にしてしまった。宗門人別帳制度が、徳川幕府の宗教統制政策の一つになったのであります。
 民衆の宗旨を、人別に全部記載するこの帳簿は、宗旨調査だけにとどまらずに、戸籍原簿ともなっている。つまり、転住することや逃亡、逃散を防止するために政策的に使われ、租税台帳の役割まで果たしていたのであります。
9  この制度は、明治六年にキリシタン禁制の令が解かれて、撤廃せざるを得なくなった政治上の制度であるが、徳川時代においては、以上のように、仏教を権力で抑えてしまった。それに対して、儒教、特に朱子学を、幕府の文教の指針と決めていったのであります。
 幕府は、この朱子学を一般上下に押し付けたため、それまでの思想傾向が逆転されてしまったのであります。それにともなって、文学の面でも儒教のいわゆる仁・義・礼・智・信という、五常思想に基づく義理とか人情が主題になり、仏教的な思想の深みが、失われてしまうようになったのであります。
 明治以降になると、西洋文明の流入とともに、文学の西洋化が起こり、そして今日、戦後の状況へと続いてきます。ここでもまた、仏教と文学とのかかわり合いは、少なくとも表面的には、ほとんどみられなくなってしまった。ゆえに、我が国の文学と仏教という両者の直接関係は、上代の奈良朝時代に出合い、本格的に作用し合ったのは、中古の平安朝時代と、その次の中世戦国末期までであったと言わざるを得ないのであります。
10  日本独自の文学的傾向
 しかしながら、ここで特記すべきことは、鎌倉時代に確立した日本仏教の思想的土壌は、その時代から早くも日本人の体質の中に深くしみついていったということであります。このことは、日本独自の文学的傾向ないしは文学形式として、現代においてさえ、その気品、性格、感覚等をとおして、あらわれ出ているのであります。
 また、文学の発想の段階においても、文学思想そのものとして、その特色を発揮していると、私は感じているのであります。
 例えば、伊藤正雄氏は『新補・日本文学史』の中で「日本文学の究極する所は、簡素の美にあるであろう。形式において簡潔が尚ばれると共に、その精神においても簡素が愛される。(中略)鴎外が晩年の諸作、志賀直哉の文章など、近代文学においても高級の作品ほど簡浄の極致に達したと見られるものが多い」と述べています。
 こうした見方は、昔からの日本人の生活態度――すなわち、貧しくて物質的に恵まれないならば、それなりに自然と調和して生き抜いていこうという態度、また仏教の思想的深みに生き抜いて、表面の豊かさよりも、精神的内容の深さを追い求めるという思想的傾向、更に、千言万語を連ねるよりも、一言一句をかみしめて味わおうという感覚、情緒、そうした諸要素が一体化して、簡浄の美を追う文学的特徴と化したのではないかと、思うのであります。
11  こういう特徴は、極めて日本的なものである。墨絵においても広い白紙ヘポツンとスズメの子二、三羽を描いて、無限の広がりの中における小さな有限者を配する。この配置の妙を現出させることにより、見る者の能力によって、いかようにも美をくみとれるふうにしつらえる技法と、同じものであるようにみえるのであります。
 ようするに、日本文学の場合、読者側の美的感覚や精神や教養を要求しているのであり、作者と読者の″一座同心″という調和のうえに文学美を築こうという発想が、潜んでいるように考えるのであります。
 むやみに西洋流の分析や多彩な表現を押し売りすることなく、読者に対して作者側は、心を深く、謙虚に、慎ましく控えて相対するという心的姿勢からの作風がうかがえる。そこには、お互いに心を清め合おうという無言の呼び掛けがある。
 こうした点は、極めて仏教徒的な意識の在り方であると、私は感ずるのであります。こういう態度は、文学作品を、作者一個人の完成作として追求するのではなく、作品を作者と読者の共同作品たらしめようという精神からくるといえるのであります。
12  音楽の場合、作曲者が作曲しただけでは、それは一面では完成品であるが、反面、未完成でもある。なぜならば、作品の風格は演奏者の上手下手で左右されるし、聴衆の聴き取る態度によっても左右されるからであります。
 我が国の文学者は、昔から伝統的に、そういう意味での心情訓練を受け継いでいるように思われる。音楽の場合と同じように、作者、作品、読者、この三者が一体のところに文学作品としての完成をみようという精神――これは平安朝時代の日記もの、そしてまた足利時代の随筆もの、戦記、歴史もの、更に歌道の中にと、それぞれジャンルは違っていても、共通の精神態度として、伝統的に介在すると思うのであります。
13  二、日本人の心の形成
 連歌の精神
 次に連歌の精神を考えてみたい。連歌は、主として、平安時代から室町時代にかけて、流行したものであります。和歌から発生して、五・七・五の句と、七・七の句を交互に読み集めたものを言います。連歌の特徴は、合作が原則である。
 つまり、作者が複数ですので、本来、個人的な所産である文芸を集団に開放したというところに特徴がある。
 足利時代は、生得の身分差が、厳然と存在した時代である。堂上人、殿上人とも言うが、その階層と、地下人という階層とが同座するということは、とうてい許されなかったし、考えられもしなかった時代でありました。
 この殿上人というのは、清涼殿に昇殿を許された階層のことを言います。それに対して、地下人と言うのは、昇殿を許されなかった官人のことを言う。
 しかし、この連歌という文学の席だけは、全く別であった。公家と武士はもちろんのこと、連歌を作り教える地下連歌師も対等に同座して、文学の趣味、喜びを、平等に分け合っていたのであります。それを「一座同心」と称しております。一つの座に、あらゆる階層の人が同じ心で、同座するからでしょう。
14  『連歌秘伝抄』という本に「連歌をもてあそぶ人、祈らずして仏神の内証に叶ひ、行せずして仏道に至る也。委しくは連歌の十徳に見えたり」という有名な言葉があります。
 この言葉は、明らかに文学を一つの厳たる人生修行ととらえ、規範の道、人倫の道と考えていたわけであります。その「連歌の十徳」とは次のようなものであります。
 第一には、行せずして仏位に至る。第二には、詣でずして神慮に叶う。三には、移らずして四時に亘る。四には、節せずして花月に遊ぶ。五には、行かずして名所を見る。六には、老いずして古今を慕う。七には、恋わずして愛別を思う。八には、捨てずして浮世を遁る。九には、親しまずして知音たり。十には、貴からずして高位に交わる。
 このように、文学の本源規範というものを十に立て分けて残している。この十徳は、第一と第二とを根幹精神として、そのうえに、三から十までの文学的構造を作ったものであります。
15  ともかく、極めて厳にして、高尚なる精神鍛錬を目指していることは、明らかなのであります。ここにおいては、耽美のための美の追求とか、近代西洋的な精神とは違った芸術精神がみられるような気がしてならないのであります。
 すなわち、芸術精神というよりは、芸道精神ともいうべき心構えであったとみるべきでありましょう。そして、この精神から導き出された″簡浄の極致″としての、美の世界――それが、世界でも有数の短い詩として特色づけられている和歌と俳句という形で、完成していったのであります。
 「一句万了の一言」などと言いますが、一句の短きをもって、無限なる世界の奥底に肉薄しようという文学精神は″簡浄の極致″であるとともに、精神活動としては、哲学的直観による強烈な精神活動であるとも感ずるのであります。
16  ″大和心″の形成
 そこで、我が国の文学においては、現存する最古の歌物語といわれる平安前期の『伊勢物語』の昔から、短編のほうに珠玉の名品として推奨すべきものが多いと言われておりますが、やはり、これも和歌、俳句の場合と同じ精神に立つからではないかと、私は考えるものであります。
 文学におけるこうした一連の精神は、江戸期に至ってから″大和心″と名づけられ、″漢意からごころ″に相対する我が国独自の文学精神として、強調されるようになるわけであります。ひいては戦前、戦時、不幸にも軍部によって歪曲されて、軍国主義の道具にされてしまったが、有りのままの″大和心″というものは、純粋に風流の道の″大和心″であったようである。それは、軍国主義や右翼思想とは、全く無縁であって、本来は、″みやびの心″であったということは間違いないようであります。
 では、この上品で優美で、しとやかに気高い″みやびの心″は、一体どこから、いつごろ生じたのかをたずねてみますと、平安朝初期の漢文学隆盛の時代が過ぎた十世紀ごろと、考えられるのであります。つまり、平安中期に入って、散文文学が大成した時期にさかのぼるわけであります。
 この時代には、大陸との交流が止まって制度、文化、文物すべてにわたって日本化が進んだ時代、否、日本化せざるを得なくなった時代であります。文化一般が、平安の都という小天地、そして、そこに閉じこもった貴族社会に包み込まれてしまった時代であるともいえましょう。そこから時の流れとして、日本文学が興ったわけであります。
 奈良時代までは、都も地方も、そう大きな較差がなかったようであります。自然のうちに都も地方も、全体的に大きな交流がなされていたので、地方の土着的な精神である″ひなび″(田舎の風を帯びる、田舎めく)の精神が、奈良の都でも幅をきかせていったようであります。
 『万葉集』をみても、そのことは明らかに感じられる。ところが、十世紀の平安貴族に至って、この″ひなびの心″に対して、今度は″みやびの心″が尊重され″万事、都風でいこう″という風潮になっていった。
17  当時の男子は実用の学問として、漢字を学んでおりましたが、国文学は女文字たる平仮名を使用した宮廷女流作家から始まったわけであります。したがって、我が国の″みやび″の精神は女性精神を源流としている。そして、時とともに徐々に男性化されていったといえるでしょう。
 端的に言いますと、この″みやびの心″に立脚して『源氏物語』を貫く″もののあはれ″を感ずる″情趣″と『枕草子』を貫く″をかし″という機知的興味、これが″みやびの心″の原型を構成していったとみられるのであります。
 そして機知的興味を追う″をかし″のほうは、どちらかといえば″漢意からごころ″が強い。それも後世にはだんだんにしりすぼみになっていったが、江戸時代の朱子学の影響下での、町人文学の中に復活していくわけであります。それでも、やはり″をかし″は、日本文学の潮流の中では、主流的なものにはならなかったようであります。
 それに比べれば″もののあはれ″のほうは″みやび心″の主柱として、思想化され、男性化されつつ、ついには万葉の″ひなび心″と融合して、足利時代以降″幽玄″あるいは″閑寂″の″大和心″として昇華していくのであります。
 そして、その昇華、融合のプロセス(過程)において、仏教思想が大きく働きかけていたことは当然であります。働きかけの一例が、先ほど申し上げた連歌の十徳であります。
 すなわち、直感的にとぎすまされた簡潔な精神、浮き世のすべてを澄んだ心の鏡の中に清めて写し取るという浄化の心――これが、仏教によって養われた日本人の心であるがゆえに、私は仏教と文学との深いかかわりあいを知るのであります。
18  ともあれ、上代までの日本人の意識構造には――当時は全く土着思想の時代であったから――個人的な自我意識はなかった。主体的自我の自覚がないので、中国や西欧のような個人的な罪の意識がなく、どちらかといえば、楽天的であったわけであります。
 従って、何か良いことに出会えば″晴れがましい″とし、具合が悪いことを引き起こせば″恥ずかしい″という″晴れ″と″恥ずかしい″の意識であった。ルース・ベネディクトが「日本の文化は″恥の文化″であり、西洋の文化は″罪の文化″である」と指摘しましたが、以上の源流をたどってみれば、日本人の精神構造の流れが明確になるわけであります。
 しかも、この″晴れがましい″とか″恥ずかしい″とかという意識は、常に対人関係のうえにおいて成立する意識でありますから、反省に基づく真の意味での個人の自覚された心とは言えません。
 では、個人の心としての″大和心″は、一体どのように養成されるに至ったか、という問題が出てまいります。″大和心″とは日本人の心と置き換えても差し支えありません。結論から言うと、それは、聖徳太子のころから、平安時代、更に鎌倉時代に至る七百年の長きにわたって、仏教が個人に対して、仏になるべき個人の自覚の道を営々として教訓し続けてきた努力のたまものであった、といっても過言ではないのであります。
19  この七世紀の間、比叡山天台宗を中軸として、各宗派がこぞって末法の危機意識を駆り立て、緊張感を抱きながら、貴族から民衆へと、仏教の浸透を図った指導者の努力の跡が、現在いろいろな古典を通じてくみとることができるようであります。
 すなわち、それら古典とは――奈良時代の仏教説話集や、弘仁年間に至る朝野の異聞、ことに因果応報の話などをまとめた『日本霊異記』、また鎌倉前期の説話集で、童話も含まれており、多少滑稽的要素を持った非常に仏教的な色彩の濃い『宇治拾遺物語』、そして平安朝後期に、天竺、震旦、本朝の二部に分けて千三百余編の説話を収めた、我が国最大の説話文学といわれる『今昔物語集』、更に鎌倉時代に、本地垂述説とか民間信仰、また世俗の説も含めて仮名まじりで書かれた仏教的説話集『沙石集』等がそれであります。
 これらは皆、鎮護国家の祈りを専らにした奈良朝を過ぎ去って、仏教が民衆個人を志向した化導の苦心をにじませた文集なのであります。
 仮名文字を用いて記載することは、これらの中から始まっており、因果応報の理や生死の一大事を、教理、説話、実例などを織り交ぜて一般民衆に説いたのであります。これにより、個人意識を自覚せしめ、それらをとおして、初めて、″大和心″すなわち日本人の心といえる個人精神が形成されてきたのであります。
20  三、息づく仏教の思想
 ″大和心″の民族的側面
 さて″漢意からごころ″といい″大和心″といっても、文学という局面から、もう一段掘り下げて、民族的な精神構造という点まで立ち至ってみると、また新しいものが見えてくるのであります。中国大陸の漢民族の精神といっても、これは一通りのものではありません。
 「南船北馬」と言うとおり、北の黄河流域と南の揚子江流域では、距離的に遠く隔たっているがゆえに、生産手段も、生活様式、思想構造も対照的に違っております。南は稲作農民の世界で″不老長寿の神仙の思想″とされている道教を信じている。南の民族は、主情的傾向の社会である。この点、日本と軌を一にしております。我が弥生時代の稲作農民の主流は、この大陸江南からの移住民だとさえ言われるゆえんでもあります。
21  これにひきかえ、華北の民族は麦作農民の世界であり、儒教を奉じた理知的傾向の社会であった。であればこそ、古代早くから、あの進歩した中国文化を築いていくことができたのであります。江戸時代に本居宣長等が指摘した″漢意″というのは、この華北の民の精神をさしている。その華北の民の精神は、頑として動じない理性的な合理精神である。規範が動じない限り、決して動ずることのない男性的な意志に彩られた精神であります。
 麦作や雑穀栽培の農業は、種を蒔くまでの土づくりが勝負であって、広い地域へ種を蒔いてしまえば、あとはだいたいほうっておく農業といってよい。これにひきかえ、稲作農業は、狭い地域から集中的に多くの収穫をあげるべき性質のものであって、収穫まで毎日手入れを要するといった農業であります。こういう暮らしの中からは、繊細な情緒、鋭敏な感覚、物事を整えていく行き方、つまり調和の精神が生まれこそすれ、反対に、広壮雄大な気風とか、深刻徹底した思想とか、合理をたてにとった執拗な懐疑、あくなき抵抗の精神などというものは生まれてこないわけであります。
22  総じて言えば、これら″漢意″に属する心理要素は、稲作農民たる日本人の生活に馴染まないものであります。これは、優劣、よしあしの問題ではなく生活構造の差異、習性の差異である。そして、繊細な情緒、鋭敏な感覚、調和の知識などが、″もののあはれ″を知る″まことの心″のほうへ発達してしまうのであり、そこにおいては、うれしきにつけ″あはれ″、悲しきにつけても″あはれ″――万事について静かに深い情趣を味わって、そこに美というものを究めるという審美感となっていくわけであります。したがって、これは、何がしかの哀感をもってはいるが、厭世観やニヒリズムとは違うものであって、一種独特の″感動の世界″といってよいのであります。
 ″大和心″の、この″もののあはれ″につきまとう、ほのかな哀感――その正体は何であるか。様々に説明されておりますが、簡潔明瞭に言うならば、それは貧乏からきたのであると思うのであります。この″あはれ″の心は、仏教が入って無常観を教えてから生じたものではない。のちには、仏教の無常観と結び付いていったとはいえ、もともとは古来からの農業社会そのものにあったと考えます。つまり″日本人の心″は、農業社会の中で、どうしようもなく集積されていった心であると言わざるを得ない。
23  今の東南アジアでもそうですが、もともと稲作農民の一つの特徴は、たとえ氏族や部族の全体としては富んでいる場合があっても、その共同体の成員である一人一人は、例外なくみな貧乏であるという点であります。財産の多くは氏族や家に属するものであって、個人に属するものではない。であるがゆえに、個人は無に等しく、すべてままにならない。こうした社会機構は、個人の心中深く、哀感を植え込んで″もののあはれ″の中に哀感をともなわせているというふうに考えざるを得ないのであります。
 日本文学の″わび″″さび″という精神も、もとをただせば疎屋あばらやに寝起きしている、さびしい、貧乏なわび住まいから生じた心であり、わびしい、さびしいという心であって、そのさびしい気分と取り組んでそれに圧倒されまい、負けまい、と決意したところから″わび″″さび″の心へと高めることができたのではないかと、考えられるのであります。
 風流とは、風声品流、または流風余韻の意味であるとされています。日本人の″大和心″は貧しさのゆえに、ものにとらわれない精神の中に、自由性を追求している。そして、仏教の解脱の導きを受け入れて、風流の自在性を築いていったと、私はみたいのであります。
24  風声品流といい、流風余韻といい、それは目前に見えている、ままならぬ憂き世の諸相を通じて、その奥の見えざる天地の流れを観ずる心でもあり、ままならぬ人の世の流風に身をまかせつつ″寂美じゃくびの響き″を味わおうという心でもあったといえるのであります。
 すなわち、こういう形でこの世を愛し、天地と和し、貧しいお互いが敬い合っていこうという心でもあるかと、私は感じます。このような″大和心″の実践の、最良の方法としてとられたのは、隠棲という形でありました。そこから遁世者文学を世に送り出すという仕方をとっていったのであります。
 優れた作品の多くは、歌人にせよ、文人にせよ、このような遁世者文人達の創作によって残されたものがほとんどであります。
25  遁世者の文学
 数多くの戦記物、鏡類の歴史物、あるいは随筆等の秀作が生まれ出た背景を見つめてみると、ここにもまた仏教の影が色濃くうかがえるのであります。彼らの隠遁生活は、江戸時代の楽隠居とは根本的に違っている。それは、まさしく仏者としての出家にも比すべきものであったのであります。事実、こうした文人達の大半は髪を剃り、衣をまとったのであります。ただ、本来の出家と違って、目的は文芸著作に徹せんがためであったわけであります。しかし、その決意、姿勢というものは、厳しい出家の精神と同じであり、仏教の作法にかなっていたとみざるを得ないのであります。
 平安時代にせよ、足利時代、戦国の時代にせよ、当時の知識人を束縛したものは、氏族、家族という制度であり、自由な創作活動に打ち込めない状況にあった。まして、源平の動乱以降は、世にあって官につき、一戸の長として家を構えていては、いつ動乱に追い立てられるかわからないという背景があります。つまり、彼らにとっては、隠遁生活こそが、生涯の仕事のために見いだしえた唯一の活路であったとみるのであります。
26  中世における『方丈記』の著者・鴨長明や『徒然草』の著者・吉田兼好らは、その代表的な人物であったわけであります。吉田兼好は『徒然草』の冒頭に「心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば……」とつづっていますが、心に映ったものを、良くとも悪くとも、感じたままに書いていこう、というふうに、いかにも空とぼけたような姿勢を示しておりますが、内容は決してそうではないのであります。天性の自由人の気概で筆を執り、英知の深み、内省の厳しさに徹していたことが、この文を深く読んでみると明瞭に分かるのであります。
27  例えば『徒然草』第九十二段″ただ今の一念″という段に「或人、弓を射る事を習ふに、諸矢をたばさみて的に向ふ。師の云はく、『初心の人、二つの矢を持つ事なかれ。後の矢を頼みて、始めの矢に等閑の心あり。毎度たゞ得失なく、この一矢に定むべしと思ヘ』」と書かれてあります。
 ――ある人が弓を射る練習をしていた。二本の矢を持ちながら一本一本射ようとしていた。その時、師匠が「初心の人は二つの矢を持つ事はいけない。まだ矢があると思えば一本の矢がなおざりになる。後は一つも矢がないと決め、一本で射る練習をしなさい」と教えた。
 また「師の前にて一つをおろかにせんと思はんや。懈怠の心、みづから知らずといへども、師これを知る」とあります。懈怠の心を自らは知らなくとも、師匠は知っている。
28  更に「このいましめ、万事にわたるべし。道を学する人、夕には朝あらん事を思ひ、朝には夕あらんことを思ひて、かさねてねんごろに修せんことを期す。況んや一刹那のうちにおいて、懈怠の心ある事を知らんや。何ぞ、たゞ今の一念において、直ちにする事の甚だ難き」というのが『徒然草』の″ただ今の一念″という段の文であります。
 この文は、事実の見聞をそのまま随筆にしたと、私はみたいのです。観念的に書いたものではないでしょう。勝手なフィクションとは考えられない。そして内容はそのまま仏者の思想そのものであると、私は感ずるのであります。教訓文学ではありますが、仏教と文学との関係の深さを、これほど鮮やかにみせているのは類がないほどであります。
29  「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとゞまりたるためしなし。世中よのなかにある人とすみかと、またかくのごとし」から始まるあの『方丈記』の作者は、兼好法師よりも単純直載に、仏教的人生観に終始したとみたい。己の生きた世相を、仏者の目をもって評論し、最後に、自分の厳しい草庵生活をもって「楽しむに足れるもの」と断じて筆をおくのであります。
 これが六十歳の老境にある鴨長明の心境であったと思われます。
30  『平家物語』にみる″業″の思想
 終わりに『平家物語』について述べておきたい。
 中世文学で特筆すべきものは、当時の大衆文学とされた軍記物と呼ばれるジャンルであります。その中でも代表的な軍記物は、鎌倉時代の『平家物語』と南北朝の『太平記』であると言われておりますが、私は特に『平家物語』のほうに興味を覚えるのであります。先にも引用させて頂いた『新補・日本文学史』では「この物語を貫ぬくものは、巻頭に道破された如き諸行無常の仏教観であって、平家一門の興亡を主題として、盛者必衰の世相を示すのが全体の精神である。(中略)篇中大小の人物、いずれも変転極まりなき運命の犠牲者ならざるはなく、全篇相寄って人生の一大哀詩を奏でて居るのがこの物語の生命であろう」とも述べている。たしかにそのとおりであります。
31  そして私は、それとともに、また違った感慨をも抱くのであります。それは先に少しく触れたところでありますが、西欧の精神においては、原罪意識が強烈に貫かれております。ところが、古代から上代までの日本人には罪の意識というものは、全くありませんでした。そのころの日本人が「罪」という言葉を使った場合は、その意味内容は不潔、不浄、つまり″けがれ″のことであったといえるのであります。傷も怪我も″けがれ″が原因で起こると考えられていた。″けがれ″を払って清めてしまえば、万事終わりということで、この点では、底抜けの楽天主義ともいえるのが、日本人の考え方であったといえるかも知れない。おはらいの霊力を信じたり、水へ入って沐浴したり、あらゆる″けがれ″を、文字通り水に流すのであった。
 よく″水に流す″と言いますが、これも古代、上代からくる延長上の思想であろう。悪といい、罪といっても″けがれ″そのものでしかないとする日本人には、罪意識がなかったといってよいのであります。しかしその後、社会の複雑化の過程において、当然のことながら、それではすまされなくなってまいりました。
 そして儒学と仏教が入って、儒学は″罪″を教え、仏教は″業″を教えました。奈良朝時代の日本人は政府の制度としては″罪″の考え方を採用しましたが、思想としては、罪意識をとらずに″業″の思想をとったのであります。
 平安時代を通じて定着した″業″の思想は、上古の″けがれ″という楽天思想を一変させる力を持っていたのであります。『平家物語』はリアル(現実的)な平家一間の興亡史を通じて、鋭く、人間の織りなす″業″を見つめていると読みたいのであります。
32  物語の材料は、現実に展開された事件であります。それを仏法の″業″の思想の眼をとおして、作者はすべての登場人物に、いたわりの心情を向けつつ、描き出しているのであります。
 賢者も愚者も、そして強者、弱者も、その別はあれども、善者、悪者の区別はなく、すべてみやびな″もののあはれ″の筆致で、描き出されつつ、最後「平家濯頂巻かんじょうのまき」に至って″わび″″さび″幽玄の趣さえもにじみ出してくるのであります。
 平家最後の人・建礼門院も亡くなり、付き従っていた女房達が寄る辺もなき身のまま、折々の仏事を営んで暮らし「遂に彼人々は、竜女が正覚の跡をおひ、葦提希いだいけ夫人の如に、みな往生の素懐そくわいをとげけるとぞ聞えし 沙門覚一」と結ばれております。すなわち、諸行無常の理の示すところ、最後の一人まで業のままに生き、業のままに無常に帰して、この物語は完結しているのであります。
 しかし、最後の一行に、ふくみが持たされているように思います。「竜女が正覚の跡をおひ」うんぬんがそれであります。これだけの長編物においてさえ、先にも述べましたように″簡浄の美″の手法が用いられていると、私は深く思うからであります。
33  諸行無常だけでは仏法になりません。作者も当時の知識人として「諸行無常 是生滅法」の下の句である「生滅滅己 寂滅為楽」は、当然知っていたと考えられる。この「寂滅為楽」の一句が「竜女が正覚の跡をおひ」うんぬんの一句に埋伏され、そこに″簡浄の精神″が込められたと、私は考えたい。ともあれ、私はこの一点において、文学者・覚一法師の思想的流風余韻を感じてやまない一人であります。
 仏教と深くなじみながら成長してきた日本文学は、どこまでも大和心を発達させながら″簡浄の美″という、一つの極点に到達したことは間違いない事実でありましょう。
 ″簡浄の美″の″簡″とは、ふくみ多きものとしての″簡″であり、簡単という意味の″簡″ではない。″浄″とは、上古の浄めの思想から発して、仏教の「常楽我浄」の″浄″に発達したものであり、されば″簡浄の美″を尊ぶわが文学の伝統は、日本人の独特なる仏教精神に培われた″大和心″の表れであると、私は考えたいのであります。
34  最後に、このように日本文学は、仏教を豊かな思想的土壌として展開されてきましたが、その仏教の思想は、大乗教の中でも権・実のうち権教のほうに属する、いまだ正覚を得ない段階の思想でありました。今後の激動の社会において、日蓮大聖人の偉大な仏法を根底として新しい人間復興の波が起き、人間変革、人間革命がなされていくでありましょう。こうした潮流の中で、偉大な仏法思想を源泉とした新しい世界文学というものが興ってくるのも、これまた必然でありましょう。
 きょうは一段階として私の話を終わります。また、次の機会に講演させていただければ幸甚です。(大拍手)
 (昭和48年8月25・26日 創価大学体育館)

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