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平和への王道――私の一考察 北京大学記念講演

1984.6.5 「平和提言」「記念講演」「論文」(池田大作全集第1巻)

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1  私はこの北京大学に、今日で六度目の訪問となりました。本日は四年前に続き、再び講演をさせていただく機会を与えてくださった尊敬する丁石孫学長先生、尊敬する諸先生方、親愛なる学生の皆さま、及びご列席の皆さまに敬意を表するとともに、深く感謝申し上げるものであります。
 今日という日は、永遠にありません。ゆえに私は、今日の記念すべき日を日中友好の一歩深い絆にしていく決意であります。前回は「新たな民衆像を求めて」と題して、中国民衆の原像を、私なりに考えてみましたが、今回は「平和への王道――私の一考察」ということをテーマに、日ごろから私が信じ実行している恒久平和建設への展望を、一民間人の立場から、少々述べさせていただきます。本日の私のつたない話が、日中両国の平和友好への一石にもなれば、と念願しております。
2  中国に脈打つ″尚文″の気風
 さて、個人同士の些細なケンカにおいても、国家間の戦争の場合でも、争いというものは自己抑制の力が働かなくなった時に生ずるといえましょう。とりわけ国家の次元においては、ひとたび戦争という方向に走り始めると、有名なプラトンやイギリスの哲学者ホッブズが、国家を人間離れした「怪獣」に例えているように、この自己抑制力を働かせることは、至難の業のようであります。
 「強大な軍備をもち、完全な守備体制をととのえ、しかも最後まで守備体制だけを堅持したという国家は、遺憾ながら、まだ見たためしがない」とのゲーテの嘆きは、その困難さを物語って余りあります。
 軍備を持たなければ一番よいのですが、一挙にそうしようとしても現実的ではない。事実、今日ほど平和が叫ばれている時代はありませんが、軍縮は、一向に進展する兆しが見えないようです。ゆえに、遠い道のりではあっても地道な平和への努力を積み上げていく以外にない。それには、文化や文明の″文″の力をもって、軍備つまり″武″をコントロールしていくことこそ急務でありましょう。それを私は「国家の自己抑制力」と申し上げたいのであります。
3  こうした観点からみる時、中国三千年の歴史は、極めて示唆するところが多いと思うのであります。なぜなら、中国史を巨視的に俯瞰してみると、″尚武″というより″尚文″の国であるという印象を強くするからであります。もとよりこれは比較相対上のことであって、純然たる″尚武″の国がないのと同様、純然たる″尚文″の国もありません。要は、どちらが主流をなしているかであって、中国においては、ごく例外的な時期を除いて″尚文″の気風が、歴史を動かす大きな力になってきたように私は思えてなりません。
4  武力を抑制しゆく伝統の力
 たしかに中国も、漢帝国の成立時や蒙古族の支配する元の時代は、武力を表に立てた膨張主義であったし、万里の長城に象徴されるように、辺境では絶えず攻防戦の歴史でありました。また国内では治乱興亡の歴史を繰り返し、戦火の規模も、日本のような島国からみれば文字通リケタ違いというほかありません。
 また、文を尊ぶ精神が″尚文″ならぬ″文弱″に堕し、時代精神の頽廃を招き、各王朝末期の争乱状態ヘと推移していった事実も私はよく承知しているつもりであります。そのうえであえて申し上げたいのですが、文明史に栄枯盛衰の姿を現じてきた数々の強大な帝国に比べ、中国史においては、武力のみに頼ったあからさまな武断主義というものは、どちらかといえば影が薄いように思われます。
 一時的に武断主義がまかり通ったとしても、やがて文化や文明の大海のような力の中に吸収されていってしまう。中国は「世界一の歴史の国」と言われていますが、そのおびただしい史書の幾つかをひもといてみても、そこには、常に強烈な倫理性、倫理感覚が満ちみちております。そこが″尚文″の国たるゆえんであり、力にまかせた武力侵略を抑制する力も、そこから生まれてくるものと思われます。
5  外征が道に反し、徳にもとるという考え方が中国に芽生えたのは、隋・唐のころだと言われております。世界に冠たる大文明が絢爛と花咲いた時代に、こうした考え方が生まれたということは、文化や文明の力をはかるうえでこれは大変に示唆的であります。
 たしかに、隋の煬帝ようだいの高句麗遠征が、民衆に苛酷な犠牲を強いていたころには「――遼東に向いてみだりに死ぬなかれ」という反戦歌が大流行しております。また玄宗晩年の無益な国境経営に、莫大な国費と人命が費やされているころの、杜甫の有名な詩「兵車行」などからは、単なる、厭戦というよりも、外征そのものを不徳とする響きさえ聞こえてきます。
6   衣をき足を頓し道をさえぎりてこく
  哭声は直ぐに上りて雲霄うんしょうおか
  道旁どうぼうに過ぐる者の行人こうじんに問えば
  行人は但だ云う「点行てんこうしきりなり」と
  或は十五より北のかた河に防ぎ
  便すなわち四十に至るも西のかた田を営む
  きし時には里正りせいために頭をつつみくれしに
  帰り来たりて頭白きにお辺をまも
  辺庭の流血は海水を成せど
  武皇 辺を開く 意は未だ己まず
  君聞かずや 漢家山東の二百州
  千村万落 荊杞けいきを生ずるを……
            (黒川洋一注)
7  出征兵士に代わって、無益な侵略戦争を告発した名詩であります。こうした機運の中から、外征を非道、不徳とする考え方、時代精神が培われていったに違いありません。ちなみに、遣隋使、遣唐使など、日本と中国との直接的な外交関係が開始されたのも、この時期であります。
 こうした考え方は中国の外交姿勢にも表れており、とりわけ朝貢外交、朝貢貿易に端的に示されていると思われます。
 言うまでもなく中国は、一部を除いて、従属国に宗主権を求めるだけで、あえて征服しようとはしませんでした。朝貢とは、中国を宗主国と認める国が、臣下の礼をとる証として、貢ぎ物を携えて来朝する。それに対し、中国皇帝は、返礼として中国の文化的な工芸品等を下賜するという外交、貿易のあり方であります。
 この朝貢貿易の前提となったものは、文明、文化によって周辺国を心服せしめゆくという考え方ととらえられる。すなわち″尚文″の思想と誇りが根底にあったといえましょう。注目すべきは、この朝貢貿易が、必ずしも宗主国である中国の利益にならなかったということであります。使者や随行員の滞在費などの費用は、宗主国側の負担であった。しかも、皇帝からの下賜品は、常に貢ぎ物の額を上回っており、一度入貢すると、臣下の礼をとることを代償に、従属国は五倍から六倍の利益をあげていたそうであります。明の太祖・洪武帝の海禁政策の背景には、中国側がこうした負担に耐え切れなくなった、という事情も挙げられております。
8  大帝国の余裕といえばそれまでですが、誠におおらかな秩序感覚であります。ここ数年、私は東欧諸国を何回か旅して、そこに残されたオスマン帝国の残忍なまでの搾取の爪跡に、戦慄を禁じ得ませんでした。それだけに、朝貢貿易にみられるような中国の対外姿勢のおおらかさと、″尚文″の姿が、際立って強く印象に残るのであります。
 のみならず、そうした秩序感覚は、近代ヨーロッパのナショナリズムと、それが生み出した支配、被支配の意識構造とも、著しく様相を異にしていたと思うのであります。
9  「人間」を一切の座標軸に
 かの″五・四運動″の沸騰するような雰囲気の中、北京大学を訪れたバートランド・ラッセルは、中国の印象を「『誇りを抱くから戦う気にならない』国があるとすれば、その国はまさに中国である。ごく自然な中国人の態度は、寛容と友好の態度であって、相手に礼節を示し相手からも礼節をもって遇せられたい、と願う態度である」と述べております。
 ご存じのように、このラッセルの中国評価は、封建遺制のマイナス面に目を向けていないとして、魯迅などの激しい反発を招きましたが、異なる文明の眼をもってこそ発見することのできる、中国文明の美質が描き出されていることも事実であります。
 そこに私は、人間あるいは国家の、むき出しの本能や獣性をコントロールしゆく文明の″力″――すなわち自制力、抑制力を見いだすのであります。こうした力を豊かに蓄えていく以外に、軍備をコントロールし、やがて廃絶へと導きゆく平和への道は、考えられないと申し上げたいのであります。
10  今から十六年前、まだまだ我が国で中国の脅威が盛んに言われていたころ、私が、日中国交正常化への提言を行い、その中で、中国が「直接に武力を持って侵略戦争を始めることはとうてい考えられない」と訴えたのも、一に、こうした歴史と伝統を踏まえてのことでありました。その後、日中両国の国交は回復され、国連に復帰した貴国は、「大国主義にはならない」と、しばしば明言しております。私は、多少なりとも貴国の歴史を知るがゆえに、その主張が、戦略的な駆け引きなどとは無縁の発言であることを信じてやみません。
 さて、中国においてそうした自制力や抑制力が生み出される背景を、もう少し掘り下げてみると、物の見方、考え方の原点に、常に「人間」が据えられていることに私は気づくのであります。
11  中国思想に詳しい、我が国の気鋭の学者は述べております。「中国の哲学はひたすら人生の目的を追求してきた。哲学者たちの思索は、ついに人間という関心領域をはずれることがなかった。自然に関する思索といえども、人間に関する思索の自然主義的立場からの基礎づけとして展開された。いいかえれば、哲学はなによりもまず人間学だったのである」と。
 「人間という関心領域をはずれることがなかった」ということは、人間が原点であったということであります。哲学に限らず、私は、宗教、科学、政治等、人間的営為のあらゆる面で、基調としてそう言えるのではないかと思っております。人間のための哲学、人間のための宗教、人間のための科学、そして人間のための政治ということであります。禍福の織りなす大河のごとき中国の歴史において、人間という座標軸はついに揺らいだことはなかったのではないでしょうか。
12  当たり前のようですが、このことは、口で言うほど簡単ではありません。キリスト教やイスラム教のような一神教の世界、特にヨーロッパの中世社会などにあっては、座標軸は常に「神」によって占められておりました。人間は神のしもべであり、哲学は神学のはしためでしかありませんでした。人間的営為のようにみえても、その実、神のための哲学であり、神のための宗教、科学、政治であったわけであります。
 こうした思考の在り方は、神のきが落ちた近代以降においても、たやすく改まるものではありません。神に代わって座標軸の中心となったのは″進歩″の観念であり、科学技術への信仰でありました。この点については、既に多くのことが言われていますが、近代科学の在り方一つ取り上げてみても、それが「人間という関心領域」を逸脱したがゆえに、知性の自己運動、自己完結の所産となる傾向は否めないのであります。もとより私は、科学技術文明の成果、恩恵を毛頭、否定するつもりはありません。しかし「人間」という機軸が欠落した科学の行く先には、大きな落とし穴が待ち構えていることを、決して忘れてはならないと思います。
13  とりわけ、平和という観点から留意すべきは、近代の国家間の戦争の主たる元凶ともいうべき植民地主義の背景にも、「人間」という機軸を欠落させた思考形態があったという事実であります。すなわち、西欧近代を唯一の基準にして、人間社会を「文明」と「未開」に二分していく思い上がった思考形態こそ、誤った選民意識を生み、植民地主義を陰で支えていたものなのであります。その意味では、ヨーロッパ近代文明は、多くの物質的、精神的所産を残しながらも、全体の傾向性からみれば、人間の野蛮な情熱に対する自制作用、抑制作用というより、その野蛮な情熱をカムフラージュする働きをしてきたともいえるのではないでしょうか。
14  平和行動主義こそ突破口
 さて、キリスト教における「神」に当たるものを、強いて中国文明に探すと、「天」がそれといえましょう。この言葉は、宗教や哲学、道徳、科学などの面で、実にしばしば出てまいります。しかし、ごく初期を除いて、キリスト教の神のような超越的な実在ととらえられたことは、絶えてありませんでした。「天」は、ア・プリオリ(先験的)な実在として人間に臨み、語りかけてくるのではなく、ア・ポステリオリ(経験的)に人間に即して、人間の側から問われていったのであります。
 現代の中国で、この「天」という言葉が、どのような語感を持つのか、私にはつまびらかではありません。おそらく、様々な害毒をもたらした封建道徳の遺物として受け止められている面もあるでありましょう。
15  しかし、私が注目するのは「天」そのものよりも、その問われ方であります。「天」が常に、人間に即して内在的に、内発的に問われていったということであります。これは、前回の講演でも申しました「個別を通して普遍を見る」行き方ではないかと思うのであります。そこにおいては、人間の側から現実をとおして「天」を問いかけ、そして現実を再構成しようとする不断の努力と実践に重きがおかれます。言わば″静″よりも″動″のイメージが、クローズアップされてくるのであります。
 それとは逆に、ある一定の固定的観念を基準にして価値判断していく在り方は、それに固執するあまり、観念といえども生々流転してやまぬ人間の営みが生み出したものにすぎないという視点が欠落しがちであります。その結果、「理論信仰」「制度信仰」「効率信仰」をもたらし、生きた人間は、その呪縛の下におかれてしまいます。例えば「核抑止力信仰」などは、人間の側からの問いかけが欠落している点で、近代の誤った信仰の最たるものと信じております。なぜなら、その信仰が人間同士の不信と憎悪と恐怖のうえに成り立つものであり、それらを除去することなくして、核の廃絶などありえないからであります。
16  この″動″のイメージに関して、魯迅の作品『非攻』に言及させていただきます。ご存じのようにこの作品は、戦国時代の行動する平和主義者として有名な墨子を扱ったもので、日本のある訳者は「戦争をやめさせる話」と翻訳しております。
 魯の人・墨子は、ある時、大国である楚の国が小国である宋の国を攻め滅ぼそうとしているのを耳にする。しかも、そのきっかけは墨子の同郷人である公輸般こうしゅはんという人が、雲梯うんていという城攻めの武器を作って楚王に献じたため、王がその気になったのだという。
 そこで墨子は、戦争をやめさせるために、とるものもとりあえず急ぎ楚の国へ向かった。道々、眺めてみると、宋の国はあまりに貧しく、楚の国は豊かだ。何のために攻めるのか……。まず墨子は公輸般に会って戦争の愚を説く。だが、もう既に楚王に説いてしまったあとだからだめだ、と。そこで墨子は、公輸般をとおして楚王に面会する。墨子の述べる道理に楚王も納得するが、それでもなお、公輸般が自分のために雲梯を作ってくれた、攻めんわけにはいかん、と楚王は言う。そこで墨子は、楚王の前で、公輸般と図上戦術を行い、ことごとく打ち破った。ついに公輸般は墨子の殺害をほのめかすが、墨子は更に知恵をめぐらし、楚王に言う。″自分の助言で宋城は鉄壁の守りを固めている。たとえ自分を殺しても三百人の弟子達が待ち構えている″――と。ついに楚王は、攻撃を思いとどまった、という。
17  要約して言えば、このような筋です。魯迅は、数ある諸子百家の中で墨子を最も尊敬していたといわれますが、たしかに、ほのぼのとしたなかにも風刺のきいた、印象深い作品であります。特に楚王が、″自分のために雲梯を作ってくれた、攻めんわけにはいかん″というくだりは、現代の軍拡論者のひな型を見るようであります。
 私が、なぜ『非攻』に言及したかといえば、墨子のこの平和行動主義こそ、今もなお、平和への突破口を切り開くカギであると思うからであります。ともかく平和のために動き、語る――そうした″動″の触発作業は、たとえ遠回りのようにみえたとしても、不信と憎悪と恐怖を、信頼と愛と友情に変えゆく「平和への王道」であり、ここから必ずや心と心を開きゆく回路を見いだしていけることを、私は信じてやまないからであります。
18  果敢な行動と勇気の対話を
 先月、東京で開かれた国際ペン大会に、中国ペンセンター会長の巴金ぱきん氏が参加され、私も、それに先立ってお会いしました。巴金氏はそのあいさつを「文を以て友を会す」という、誠に″尚文″の国の人らしい言葉をもって始められ、次のように訴えられました。
 「水滴は石をも穿つと申しますが、文学作品も長い歳月にわたる伝播によって、人々の心に根を下ろすことができます。ペンを武器にして、真理を堅持し、邪悪を糾弾し、暗黒勢力に打撃を与え、正義の力を結集することができるのです。平和を愛し、正義を主張する世界諸国の人たちが、しっかりと手をとり、自分の運命をその手に握っていきさえすれば、世界大戦も核戦争も、かならず避けることができるでしょう」と。
 私も、そう思います。一人一人の努力が、たとえ水滴のように微力に思えても、やがて石をも穿つ、否、岩をも押し流す大河となっていくでありましょう。それには、果敢なる行動と勇気ある対話を積み重ねていく以外にありません。
 微力ながら私もそうしていくつもりでありますし、中国の未来を双肩に担っておられる皆さま方もともどもに、その平和への大道を歩みゆかれんことを念願し、私の話とさせていただきます。
 (昭和59年6月5日 北京大学)

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