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日蓮大聖人・池田大作

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東西文化交流の新しい道 モスクワ大学記念講演

1975.5.27 「平和提言」「記念講演」「論文」(池田大作全集第1巻)

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1  昨年九月、金の秋の時期にモスクワを訪れて以来八カ月、近しい、そして忘れ得ぬ友人との再会を指折待つような思いで、この大地を踏みじめることができました。
 人と人との忌憚ない、率直な意見の交換というものは、交流の歳月のいかんを問わず、体制の壁をも超えて、旧知の友の情を呼び覚ますものであります。
 あたかも、凍てついたシベリアの大地にも、春の訪れとともに若草が芽吹くように、忍従を余儀なくされた長き圧制に耐えて、人間解放の歴史の一ページを開いた民衆の、あの不屈の意志と力こそ、私には、ロシアの風土が育んだ、誇り高き特質であるように思えてなりません。こうした国民性が、今日のソ連邦を形成する独自の伝統的な民衆文化を開花せしめたといってよい。それは、ロシア文化の精華ともいうべき文学の世界に、象徴的にあらわれていると思うのであります。
2  ロシア文学の特色
 私達にとって、ロシア文学の特色は、どのような点にみられるのでしょうか。モスクワ大学の学生である皆さん方を前にして、分かり切ったことを言うと思われるかもしれませんが、海外の友人の率直な感想として聞いていただきたい。――私は、ロシア文学の最大の特色は、すべての民衆の幸福、解放、平和という理想に対して、文学は一体、何をなしうるのか、ということが、常にその目標として高く掲げられたという点に求められるのではないかと考えるのであります。
 文学というものは、一部特権階級の専有物では決してない。圧制下の飢餓と貧困に苦しみ、度重なる戦乱の犠牲を強いられる圧倒的多数の民衆――、彼らを無視して文学はあり得ない。ともすれば芸術至上主義的な、特定のジャンルに限定されがちであったヨーロッパ諸国の文学に対し、ロシア文学に、ほとんどといってよいほどみられる社会問題に対する強い関心というものは、実にこの民衆と苦楽をともにし、運命共同体として生きようとする真摯な求道心の反映にほかなりません。この求道心こそ、ロシア文学にあらわれる人間群像に、限りない深さを与えているのではないでしょうか。
3  私は終戦直後、ゴーリキーの『どん底』を読んだ時の鮮烈な感動を忘れることはできません。彼は、文字通り退廃とどん底の渦中にある登場人物、サーチンをして、次のように言わしめております。「″チェロヴェーク(人間)″なんと誇らしく響くことだろう」と。
 当時私は、敗戦後の荒廃した国土に、十七、八歳の多感な青春時代を迎えておりました。あらゆる価値観が崩壊してしまった。空腹を抱えつつ、友達同士で、焼け残ったわずかの書物を持ち寄って、明日への光を求めてむさぼるように読書にふけっていた私の心を、『どん底』のこの一節は、閃光にも似た感動で貫き、いまだに脳裏に焼き付いております。実に苦悩と荒廃の底からほとばしり出るような、この″チェロヴェーク″という全人間的な叫びこそ、ロシア文学の特色ある人間観を凝縮した表現ではないかと思われてなりません。のみならず、後に、ロシア革命の偉大な指導者レーニンが、ゴーリキーと極めて親しい間柄であったことを知るにつけ、この波乱の革命家への親近感も、一段と深まっていったのであります。
 言語を絶するあの圧制下で、忍従と苦渋を強いられながらも、なお希望を失わず、深くロシアの伝統と未来を信じつつ黙々と生きる民衆――ロシアの文学者達は、絶えずその点に光を当てて歩みました。私ども創価学会の社会運動の原点も、民衆であります。民衆に始まり、民衆に帰る――つまり民衆の自発的意志の結集をもって、平和へのエネルギーとしていく運動であります。したがってロシア文学が追究した最大のテーマが民衆の不屈の意志であったことに、私は大きな共鳴を覚えるのであります。
4  「我々の政治的自由は、農奴の解放と不可分である」と宣言した国民詩人プーシキンをはじめ、ゴーゴリ、ネクラーソフ、ツルゲーネフ、トルストイ、チェーホフ等々、生涯、皆″人民の友″でありました。たとえいかにヨーロッパ的教養を身につけた知識人や貴族階級を描こうとも、そこには、そうした枠をはめることのできない、文字通り″ロシア的″という以外にない人間像が登場しております。プーシキンの『オネーギン』におけるタチアーナがそうであります。トルストイの『戦争と平和』における、プラトン・カラターエフがそうであります。
 それらの登場人物に託して、優れた文学者達が予感していたものは一体何か。それは、当時、爛熟期を迎えていたヨーロッパ文明に強く影響されつつも、その限界を乗り越え、はるかに我々の時代の人間解放をも遠望する、祈願にも似た人間性の全面開花ではなかったでしょうか。だからこそアンドレ・ジッドをはじめとするヨーロッパの文学者達は、ロシア文学に連なる人間山脈の数々に、一様に驚きの声を発していたのであります。
 こうした特色は、単に文学に限らず、民謡で名高いステンカ・ラージンの反乱やプガチョーフの乱、あるいは十九世紀に入ってのデカブリスト達の運動やナロードニキ運動などにも広く脈打っております。この人間的解放を願うエネルギーの蓄積なくしては、あのロシア革命における民衆勝利もあり得なかったでありましょう。この伝統は革命後のソ連においても、文化全般にわたる精神風土の中で、豊かに継承されているものと、私は信じもし、また期待もしているのであります。
5  話は若千、横道にそれますが、ロシア文学を愛好する若い友人と懇談していた時のことであります。談たまたま各国の国民性を象徴する言葉は何だろうという話題に及びました。例えば、フランスなら″エスプり″という言葉がある。イギリスの場合は″ユーモア″であろう。それではロシアは――ということになって、その友人が言うには、″パスレーダバチェリノスチ″だというのです。私はロシア語ができませんから、ちょっと舌をかみそうですが、日本語に訳すると″徹底性″を意味するのだそうです。物事を一定の段階まで究めて満足してしまうのではなく、とことんまで究め抜く、頑固なまでの徹底性をさすのだそうです。
 私は聞いていて、なるほどと思いました。たしかにロシアの民族、文化の底流には、そのような、既成の概念に当てはめることのできない何ものかがある。それが文学的造形を与えられた時、人種、民族、言語の壁を超えて、人々の心を、胸を揺さぶってやまない、あのゴーリキーの″チェロヴェーク″という叫びとなって噴出するものと思うのであります。
 もとよりこうした伝統は、一朝一夕にして形成されたものでは決してない。その歴史は古く、いわゆる口伝文学や歌謡の中に萌芽を見てとることができましょう。古来、ロシアほど豊かな民話、ことわぎなどを作り出した国民はないことは、よく知られておりますし、大半が民衆自身の創造になる口伝文学には、主人公が″悪″に挑み、打ち勝つという内容のものが少なくない。特に地主から苦しめられた農民が、やがて敢然と立ち上がり、勝利を収めるといった風刺的色彩の強い物語が数多く作られているということは、ロシアの文学的土壌を示すと同時に、かのツァーリ(皇帝)を打倒し、ナポレオン、ヒトラーの侵略をもはねのけた、力強い抵抗精神がうかがいしれるのであります。
 あるいは、ロシア全土にわたって、古くから人々に愛唱されている民謡にしても同様であります。このロシア民謡はまた、私ども日本人の多くが知るところでもありますが、カザークの歌、ボルガの舟曳唄など、そこに流れるものは、単なる絶望でもなければ、忍従の哀感でもない。むしろ苦悩の底にあって絶えず幸福への希望を失わず、いわれなき不幸に抗議する、人間生命の力強い告発の響きともいえる。あのボルガの舟曳唄の、地の底から湧き出てくるような荘重な魂の響きは、苦しみが深ければ深いほど、その試練をくぐりぬいた精神は、オストロフスキーの言う「鋼鉄」のごとき強さを持つものであるということを、雄大に物語っていると思うのであります。
 このように、歌を愛し、民話を寄り合って語り合い、文化、芸術にこよなく愛着を寄せる民衆という土壌のうえに初めて、十九世紀における絢爛たるロシア文学の開花もあり得たに違いありません。
 彼ら文学者が、常に民衆の苦悩を鋭く直視し、真実の文学の在り方を問い続けるという求道者的姿勢を貫いているのも、当然なことであります。このことは、私のロシア文学への共感を生み出すと同時に、私の心を揺さぶり、私をして生涯をとおして平和と文化創出の叙事詩を、書き綴りゆく決意を与える心のバネの一つとなっていると思うのであります。
6  かつてフランスのある高名な哲学者は「飢えた子供を前にして、文学は何ができるか」との問いを発したことがあります。人間の生存さえ脅かされかねない、多くの社会矛盾に関心を示さないような文学は、文学としての価値を持ち得るのかという疑問であります。たしかにこの指摘は、自己の閉ざされた生活空間の中にこもりがちなヨーロッパ先進諸国の文学に対しては、鋭くその欠陥をえぐっていると思われます。だが私は、ことロシアに関しては、こうした設問自体を、既に乗り越えていると思っております。民衆の幸福、解放、平和という万人共通の願いを、ともに呼吸し続けてきたロシアの文学や芸術にあっては、このような疑問が生ずる余地がないからであります。続いて、ロシア文学にみられる人間把握の深さというものは、国民性、民族性を形成する母体である民衆の土壌に、しっかと足を下ろしていた結果であると、私は信ずるのであります。しょせん、民衆を離れて何事もなしえない――これは私の信念でもあるからであります。
 文化や芸術の領域においては、独自性は、決して普遍性と対立するものではありません。独自の個性を持つがゆえに普遍的なのであります。あらゆる意味からいって、人類的連帯が急務とされている今日、深く人間性を掘り下げたロシアの文化の香気が広く人間を触発しつつ、今後二十一世紀にわたって人類文化の交流に貢献していくことは必然でありましょう。またそこに、皆さん方若き世代の使命と責任があるのではないかということを、僣越ながら訴えたいのであります。
7  文化の役割と交流
 次に私は、その意味で「東西文化交流の新しい道」というテーマで、私の所感を語っておきたい。
 文化交流というと、皆さん方は、かつて東西交流の懸け橋といわれた、あのシルクロードを想起されることと思います。アジアを横断するオアシス、ステップの二大陸路を中心に、幾筋もの支線からなるシルクロードは、物資交易の要路であったのみならず、東西文化交流のルートでもありました。
 イラン、スキタイの文化が、その後の世界文化に大きく寄与し、インドに興った仏教が、東アジアのほぼ全域に及び、あるいはキリスト教、イスラム教などシルクロード周辺に興った諸宗教が、美術、建築、音楽をはじめとして、世界の諸文化に甚大な影響をもたらしたのも、このシルクロードによってであります。
 また、ユーラシア大陸に興った様々な文化は、シルクロードを経て、何と最終的には、極東洋上に浮かぶ小島。日本にまで伝播されている。
 日本の古都として知られる奈良に、正倉院という建物があります。そこには、歴史研究の貴重な史料となる、千二、三百年ほど前の遺品が収められております。
8  その一つに、世界でも珍しい五つの絃を持つ琵琶があります。その表面には琥珀を花心にし、亀甲と光沢を持つ貝がらを細工した花弁で小花文が作られている。更に、熱帯樹に飛びかう鳥や岩石が、巧みにあしらわれてあります。相当の歳月を費やして製作したもののようであります。その五絃琵琶の、見るからに優雅な気品あふれる意匠は、観る者をして、製作者の優れた技術と美を愛でる真心を、感じさせるものがあります。
 同じ琵琶でも四絃の琵琶は、ベルシャ地方に起源を持つと言われています。これに対し、普通、五絃は、インドに起こり、中央アジアから北魏に入り、唐代に至って完成をみたとされています。しかし、この五絃琵琶の意匠は、ササン朝ベルシャの様式であります。したがって、はるかベルシャ、インドの文化が、シルクロードを通って中国で融合し、しかる後に、日本海を渡ってやってきたことが分かるのであります。シルクロードは文化の融合をもたらし、新しい文化を生み出す有機的な大動脈であったといってよい。
 このほか正倉院には、メソポタミアのハープ、エジプトの本画箱、東ローマのローマン・グラス等が保存されております。
 ただし、これらの文化遺産は、概して一部特権階級の専有物であり、ある意味で支配者のための文化であったといってよい。それゆえ多くの民衆は、その恩恵に浴すことは少なく、世界の民衆の心と心とをつなぎ得たとはいえません。が、一部支配階級に限られていたとはいえ、民族を超えて、文化の交流がなされていたことを示す、一つの実例であるといってよいでしょう。
9  では文化が、かくも広範に伝播、交流をなした要因は、どこにあったのでしょうか。
 交易、遠征による交わりが、文化交流の糸口になったことは当然でありますが、私は、より根本的には、文化それ自体の性格が交流を促進していったと考えるものであります。すなわち、本来、文化の骨髄は、最も普遍的な人間生命の躍動する息吹にほかなりません。それゆえ、人間歓喜の高鳴る調べが、あたかも人々の胸中に張られた絃に波動し、共鳴音を奏でるように、文化は人間本来の営みとして、あらゆる隔たりを超えて、誰人の心をもとらえるのであります。この人間と人間との共鳴にこそ、文化交流の原点があると、私は考えるのであります。
 したがって、人間性の共鳴を基調とする文化の性格というものは調和であり、まさに、武力とは対極点に立つものであります。軍事、武力が、外的な抑圧によって、人間を脅かし、支配しようとするのに対し、文化は、内面から人間自身を開花、解放させるものであります。
 また武力は、軍事的経済的強大国が弱小国を侵略するという、力の論理に貫かれているが、文化交流というものは、摂取という、受け入れ側の主体的な姿勢が前提となる。更に、武力の基底に宿るものが破壊であるのに対して、文化の基底に宿るものは創造であります。
 いわば、文化は、調和性、主体性、創造性を骨格とした、強靭な人間生命の産物であるといえましょう。そして、その開花こそが、武力、権力に抗しうる人間解放の道を開く唯一の方途であり、あのロシア文学の軌跡が、その確かなる示唆を与えていると、私は考える次第です。
10  さて、東西文化交流に大きくあずかり、また、中継地域としての中央アジアに文化的潤いを与えたシルクロードも、八世紀ごろから徐々にすたれはじめ、今では全く途絶えてしまいました。
 それというのも、サラセン帝国の興隆による東西交流の分断、更に時代は下りますが、モンゴル人によるオアシス都市の徹底的破壊が大きな要因をなしているといわれる。誠に文化に対する武力の破壊性は、すさまじいものがあると言わざるを得ない。たしかに武力衝突こそが、文化接触を引き起こし、それが結果的に文化交流をもたらしてきたとの説もある。ところが、武器の発達によってその破壊力が増すにつれ、武力の及ぼす影響性は文化に致命的な打撃を与えるものとなることは、現代に生きる皆さんは、既にご承知のとおりでありましょう。もはや現代においては、戦争は文化の破壊をもたらすどころか、文化を死滅させてしまうことでありましょう。
11  ところで、シルクロード使用が困難となったため、貿易商人は東西交流のルートを海路に求めることになった。特に、イスパニア、ポルトガルによる喜望峰航路の開拓以降、西欧諸国の航海術は、近代科学の振興も大きく手伝って、飛躍的に発展し、ここにヨーロッパと極東地域を結ぶ海上ルートが確立されるに至ったのであります。
 これにより、中央アジアを貫通する陸路は全く実用上の価値が失われてしまった。ともあれ、このような歴史の流れの中で、貴重な東西交流を果たしたシルクロードは消滅してしまったのであります。
12  精神のシルクロードの形成
 さて、二十世紀も四半世紀を残すばかりとなった今日、今や目覚ましい発達を遂げた交通網、通信網は、遠く離れた国々を短時間で結び、かなたで起きた事件もその日のうちに世界の隅々にまで行き渡らせることを可能とするまでに至っております。まさに、東西交流の量からいえば、今日のそれは、過去のシルクロードが担ったものの比ではないといえる。
 しかしながら、私にとって常に不思議に感じられてならないのは、世界が距離的には狭くなったにもかかわらず、人と人との心の間には、依然として茫漠たる空間が存在しているという事実なのであります。現代には、物と物、情報と情報の交換はたしかにある。だが、人間と人間との交流、なかんずく心と心との交流が、いかに希薄なことでありましょうか。
 世界の心ある識者は、それゆえ東西文化の全般的な交流によって、真にかけがえのない人間同士の心の紐帯を形成することこそ必要になってきていると、強調しております。私がこれまで語り合った多くの友人、また各国の指導者も皆、その早期実現を念願している。まさに、東西文化交流を求める声が世界の潮流になって来ていることは、疑いない事実であります。民族、体制、イデオロギーの壁を超えて、文化の全領域にわたる民衆という底流からの交わり、つまり人間と人間との心をつなぐ「精神のシルクロード」が、今ほど要請されている時代はないと、私は訴えたいのであります。(大拍手)
13  それというのも、民衆同士の自然的意思の高まりによる文化交流こそ、「不信」を「信頼」に変え、「反目」を「理解」に変え、この世界から戦争という名の怪物を駆逐し、真実の永続的な平和の達成を可能にすると思うからであります。
 民衆同士の連帯を欠いた単なる政府間協定が、一夜にして崩れ去り、武力衝突の悲劇へと逆転した歴史を、我々人類は何回となく経験してきたのであります。同じ過ちは断じて繰り返すべきではない。
 しかしながら、なかには、歴史のうえで長年培われてきた民族的敵意なるものに、懸念の表情を示す人がいるかもしれない。だが、私はかねてから、民族的敵意などというものは正体のない幻であると考えております。
 最近読んだ本の中に、ギリシャの国際女優のつづった半生記がありますが、そこで彼女は次のように告白しております。彼女は、ごく幼い時からトルコ人こそ敵だと教えられていた。ところが、映画のロケのため、キプロスのニコシアに赴いた時のことである。まさに、町はギリシャ領とトルコ領に分断され、検問所が設けられていた。しかし、境界を行き来する彼女に、ギリシャ人は、トルコ人の友人にあてた伝言や、ささやかなおみやげをたびたび託したというのである。これと同じことは、トルコ側でも起こった。彼女は言う。「彼らは友になりうるのだ。……敵意をかきたてておくほうが政治家にとってぐあいがいいということさえなければ、ギリシャ人とトルコ人はりっぱに平和に共存できるのだ」(藤枝澪子・海辺ゆき訳)と。
 いかに抜きがたい歴史的対立の背景が存しようとも、現在に生きる民衆が過去の憎悪を背負う義務は全くないのであります。相手の中に″人間″を発見した時こそ、お互いの間に立ちふさがる一切の障壁はまたたくうちに瓦解することでありましょう。実際、私は今、皆さんとともに話し合っています。交流しています。皆さんとは平和を共通の願いとする友と信じます。皆さんはいかがでしょうか。(拍手)
 解決しがたい難問にみえようとも、人間という次元から光を照射してみるならば、そこには必ず武力抗争によらない平和的解決手段が浮かび上がってくると、私は信じたい。人間と人間とを対立させ、流血の惨事へとあおりたてる権利は、いかなる地位の人間にも断じてありません。再度強調すれば、あのゴーリキーの″チェロヴェーク″という衷心からの叫びこそ、人類連帯の和声にまで昇華されていかなければならないと思うのであります。
 人間融和の世界、そして恒久平和の未来を構築するには、それゆえ、西と東の民衆同士の心をつなぐ「精神のシルクロード」が緊要な課題であると訴えておきたい。
14  さて、ここで更に申し述べておきたいことは、交流を推進する際の実際的問題についてであります。この地球上には、いわゆる先進国と呼ばれる国も存在すれば、また開発途上にある国々も極めて数が多い。様々な発展度を示す国々が現実にあります。
 それら、先進国と開発途上国の交渉に際しては、いかなる点が留意されなければならないか。″持てる北の諸国″と″持たざる南の諸国″との交流――つまり、これは文化交流における「南北問題」にほかなりません。この南北という観点は、いわゆる学者に一般的に使われている観点であることをご承知ください。それぞれの国が、それぞれの観点からとらえた認識であるのは当然です。
 これまで交流に関して述べきたったところは、言うなれば、その「東西問題」であったといえましょう。といっても、これはいわゆる社会主義諸国圏と資本主義諸国圏との交流を意味するものではなく、東洋文化圏と西洋文化圏との交流をさしているものと考えていただきたい。
 ところで、ここで更に、南北文化交流にあえて触れるのはほかでもない、この点を明確にしておかない限り、健全な交流が現実のものとならないばかりでなく、文化というものの根本義さえ見誤ることにもなりかねないという心配があるからなのであります。
 今さら言うまでもないことでありますが、「持てる北」「持たざる南」との色分けは″経済″発展度によるものであります。しかしながら、高い経済発展度がその国の文化領域全般の優越性を証明することには、もちろんならない。逆に、経済的には発展途上の国であっても、世界に誇りうる何らかの文化的財産(それは人類共有の財産でもありますが)を保有しているのであります。
 ちなみに、この世界に経済という光ではなく、別の角度からの光を当てて眺めていただきたい。例えば、音楽という光――それによって照らされる世界は、どのような光景を呈するでありましょうか。思うに、先の先進国と開発途上国という色分けとは全く様相を異にした情景が現前するに違いない。
 また、文学という光は世界をいかなる姿に浮かび上がらせるか。更に、芸術、宗教、伝統、生活様式、心理的性向等、様々の異なる光を当てたとき、我々人類四十億の棲息する青き地球は、千変万化の様相を繰り広げるものと思われる。そこには、もはや、いわゆる先進国と開発途上国の区別は全く消滅するに至るであろうことは想像に難くないのであります。
 しかし、現実において、南北双方の諸国における接触は、交流という名に値するものでありましょうか。その多くは、いわゆる経済レベルのものであり、また「北」から「南」への一方的、直線的な移動であります。それではまさに文化″直流″でしかない。時として経済侵略、文化侵略との非難が沸き起こるゆえんでもあります。
15  文化交流とは、人と人との心を結び、その琴線に共感のハーモニーを奏でるものにほかならない。それは、あくまでも相互性、対等性に貫かれていることが肝要です。一方的な文化移動は、かえって文化放出国民の心には傲慢というやっかいな種子を植え付け、逆に文化受容国民の心には卑屈、ときには憎悪の感情すらも芽生えさせる結果となる。誠に相互性、対等性、かつ全般性は、真の文化交流の生命線であるといってもよい。そこにこそ、異民族、異文化に対する尊敬と崇重の念も育まれてくると確信したいのであります。
 この時初めて、東西のみならず、南北をも包み込んだ「精神のシルクロード」が、世界を縦横に取り結ぶことになるでしょう。
 皆さんの前で、このような見解を率直に披涯したのも、実は、ソビエト連邦こそ西洋文化と東洋文化の橋渡しの役割を担い、かつ南北諸国間の健全な文化交流にも貴重な教訓を与えうるであろうと期待するからであります。(大拍手)
 なぜなら、先に述べたロシア文化に特有の人間把握の深さと普遍性ということに加えて、地理的にみてもヨーロッパとアジアにまたがるソ連は、自らが東西文化の″巨大な接点″であり、同時に、様々な経済発展度を呈する十五の共和国の連邦という在り方は、南北文化交流の″貴重な実験″をなしていると思えるからであります。
 ロシア人、ウクライナ人等から、人類学的には私と同じモンゴル人に至るまで、百二十六にものぼる多種多様な民族を抱えるソ連は、まさに文化交流の偉大なる″るつぼ″でありましょう。とにかくここでは、様々な異民族、異文化の見事な調和と独自性が指向されているのであります。
16  政策的な意図から民族間の不和があおりたてられていた帝政ロシア時代と比するならば、まさに隔世の感すらある。革命後、ソビエト政府が最初にとった措置の一つは、皮膚の色や経済的発展度にかかわりなく、連邦内に居住するあらゆる民族の完全な同権を宣言することであったとうかがっております。また、レーニンはソビエト国家の創設にあたり「われわれは諸民族の自由意思にもとづく同盟、つまり完全な信頼と、兄弟的統一の明白な自覚と、完全に自発的な同意にもとづく同盟を望む」と語っております。
 また、帝政ロシア時代のことではありましたが、東洋学研究も、当時にあって、最も進んだものであった。更に、インドの詩聖タゴールの全作品が、あの十月革命後、短期間のうちに翻訳されている事実を考えても、ロシア人の心のうちには東洋と西洋とを結ぶ共感の懸け橋が存在していると思われてならないのであります。かつてみられた西欧派とスラブ派の対立も、実にこの間の事情に由来しているとも考えられる。
 アジアの心も、ヨーロッパの心も、そして「北」の心も、「南」の心も、ソ連には理解できるに相違ない。だからこそ、東西文化交流に、そしてまた南北文化交流に、ソ連が寄与すべき任務は多々あると、私は信じたいのであります。(拍手)
 とともに、何よりも私は、ロシアの大地にたしかに息づいている平和への希求に、最大限の敬意を表したい。かつて十三世紀からほぼ二世紀にわたって、ロシアはかの有名な「タタールのくびき」に苦しめられた。また西からは、ドイツ騎士団、スウェーデン軍などに侵略され、そして、前世紀にはナポレオンの遠征、今世紀にはヒトラーの電撃的侵攻を被ったロシアの大地――そこに生きるロシアの民衆の胸中に培われたものは、ほかでもない、いかなる圧制にも強靭にひたすら生き抜く人間としての気概と、かけがえないものとして平和を願望する純粋な心情であったといってよい。今回のソ連再訪問によって、私はこのことを以前にもまして痛感している次第です。(拍手)
17  世界市民の心と心に燦然と輝く「精神のシルクロード」を確立するために、私はあすのソビエト連邦を担う皆さん方に期待します。皆さんは、きっと平和希求、人間原点という貴重なロシアの精神的遺産を遺憾なく発揮させつつ、ソビエト連邦のより一層の発展、そしてかけがえのない永続的な世界平和の実現を担っていくことでありましょう。私ども創価学会も、皆さんとともに、今後も文化交流を民衆レベルで推進していくことをお約束します。私はその交流のために生涯、先頭に立って、誠意を尽くして、世界を駆けるでありましょう。(大拍手)
 そうした人間交流の舞台で、いつの日かまた皆さんとお会いする日を脳裏に描きつつ、私の話を終わらせていただきます。ありがとうございました。
 (昭和50年5月27日 モスクフ大学。文化宮殿)

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