Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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二十一世紀への提言 UCLA記念講演

1974.4.1 「平和提言」「記念講演」「論文」(池田大作全集第1巻)

前後
2  トインビー博士との対話の際、座右の銘をうかがったことがあります。博士は「ラボレムス」というラテン語を挙げられた。「さあ、仕事を続けよう」という意味であります。
 ローマ帝国のセウェルス皇帝が西暦二一一年、イングランド北部の厳冬の地で、遠征の途にある時、重病に倒れて死期が迫った。しかし、指揮者として、仕事を続けた皇帝は、まさに死なんとするその日「さあ、仕事を続けよう」と、全軍にモットーを与えたのだとうかがいました。
 私は、博士が老いてますます若々しく、精力的に仕事が続けられる秘密を知った思いがしました。そして生涯″思想の苦闘″を続ける人間の究極の美しさを、そこにみたのであります。
 文明論、生命論、学問・教育論、文学・芸術論、自然科学論から国際問題、社会問題、人生論、女性論など幅広く話し合いました。二十一世紀の未来を展望しつつ、対話は果てしなく続き、延べ四十時間を超えるものとなった。私が日本に帰ってからも、書簡による討論は、幾度となく繰り返されたのであります。私が博士にお会いして、対談のあいさつをした時「さあ、やりましょう! 二十一世紀の人類のために、語り継ぎましょう」と、一瞬、厳しい表情となり、決意を込めた強い語調で言われた。自らの死のかなたにある未来の世界に強い関心を寄せ、若き私どもに、知性のメッセージを贈ろうとされる博士の心にうたれながら、私は対話を続けたのであります。本日、私は、博士に決して劣ることのない決意と誠意をもって、皆さんに語り継ぎたい。(大拍手)
3  ″中道″こそ第三の生命の道
 トインビー博士との対話の締めくくりとして、二十一世紀の人類への提言は何か、と問うた時、博士は「二十世紀において、人類はテクノロジーの力に酔いしれてきた。しかし、それは環境を毒し、人類の自滅を招くものである。人類は自己を見つめ、制御する知恵を獲得しなければならない。そのためには、極端な放縦と極端な禁欲を戒め、中道を歩まねばならない。それが、二十一世紀の人類の進むべき道だと思う」という意味のことを述べておられた。
 私も全く同感であり、特に「中道」という言葉にひかれた。というのは″東洋の心″を流れる大乗仏法は、中道主義を貫徹しているからであります。この言葉はアウフヘーベン(止揚)に近い言葉と考えていただきたい。すなわち、物質主義と精神主義を止揚する第二の「生命の道」のあることを、私は確信しております。
 現代文明の蹉跌さてつを矯正する方途として、具体的な方法論も論じ合いました。しかし、技術的な方法論は、それのみにとどまっては、根本的な解決をもたらさない。ここで、どうしても「人間とは何か」「生きるとはどういうことか」等々、もう一度原点に踏み込む必要を、ともどもに痛感したのでした。いきおい博士との対談は、人間論、生命論といった、根本的なものに重点がおかれていったのであります。
4  特に印象的であったものの一つに、生命論に関する対話があります。これは、人間が人間を知るための基本的な論議であり、人間の生命活動こそ、文明を形成する根本の要因だからであります。
 トインビー博士は二度の世界大戦を体験され、戦争が妥協のあり得ない最も悪い制度であると叫んでおられる。また最愛の子息を亡くされ、言いようのない精神的苦痛を味わわれた。それらは、博士の関心の大きな部分を、人間の生死、ひいては生命の奥深くに向けさせているようでした。
 私自身、兄を戦争で亡くしている。戦争ほど悲惨で、残酷なものはないというのが、私の実感であります。それは生涯、変わることがないでありましょう。生命をこのうえなく尊厳とする思想を、全人類が等しく分かち持つことが急務であると、トインビー博士と私は、強い共感と祈りをもって、確認し合ったのであります。
 私はきたるべき二十一世紀は、結論して言うならば、生命というものの本源に、光が当てられる世紀であると思っております。否、そうあらねばならないと信じています。そうあってこそ、文明は真実の意味でテクノロジーの文明から、ヒューマニティーの文明へと発展するであろうからであります。
 トインビー博士との生命論に関する対話では、精神と肉体の関係についての問題、生命の永遠性についての問題、死刑論、安楽死の問題、エゴイズムの問題等々、多岐にわたるテーマが取り上げられたわけでありますが、本日、この講演の場においても、生命論を総括的に取り上げ、皆さんとともに、人類の行く末を見つめていきたいのであります。
5  普遍的真理を説く仏法
 ご存じの方も多いかと思いますが、仏法の第一歩においては、人生を苦の集積であると説いております。生まれ出る苦しみ、老いる苦しみ、病気の苦しみ、そして死ぬ苦しみに代表されますが、愛する者といつかは別れなければならない苦しみ、求めても得られぬ苦しみ等々、人生には苦しみが充満していると説くのであります。
 楽しい時間というものは早く去り、そして必ず壊れていく。それを失う悲しみが加わって、苦しみを感ずる時間は長い。社会に広がっている貧富の差、人種、風俗の差は、人に楽しみを与えるよりも、苦しみを実感させているように私には思える。
 ではなぜ、人は人生に苦しみを感ずるのか。それは「無常」ということを知らないからであると、仏法では教える。無常とは、あらゆる宇宙、人生の現象で、常住不変のものはないということであります。その原理を知らないところから、苦しみが起こるというわけであります。
6  若き者は必ず老い、形のある物は必ず滅ぶ。健やかであっても病むときが来、生あるもの必ず死す。ギリシャの哲人ヘラクレイトスは「万物は流転する」と言ったといわれておりますが、森羅万象すべて川の流れのごとく、一瞬としてとどまることなく変化しゆくものなのであります。この机やマイクや建物すべて、頑丈にできていることを疑うわけではありませんが、それすらも十分な時間さえあれば、いつかは破壊され、私は講演しなくてもすむようになる(笑い)。もっともそれまで待てるほど、私の体が丈夫だとは思っておりませんが……。(笑い)
 ところで、このような「無常」の原理を忘れ、それを常住だと思って執着するところに、魂の苦しみが生ずる原因があると、仏法は説くのであります。
 もし皆さんに、美しい恋人がおられるとして、最初からその恋人の三十年後、四十年後の姿を思い浮かベつつ、交際しておられる方は少ないと思います(爆笑)。やはり現在の美しさ、若さがいつまでも続くことを願うのが、人情というものであります。また、いかに膨大な富でも、死んだ後まで持っていけるものだと信じて、そのために一生懸命働こうという方も、あまりおられないはずです。
 ともかく、得た富を少しでも長く自身にとどめておこうとして働くのであります。これらは、決して誤った考えとはいえない。むしろ、自然な人間の感情である。しかし、この感情があるがゆえに、苦しみがあることも事実であります。恋人をいつまでも我が手にと思うがゆえに、種々の葛藤があり、愛する者と別れなければならない時、最も大きな魂の苦痛を感ずる。富を確保しようと思うあまり、その富に執着し、隣人と争い、富を失う苦しみも、味わわなければならないのであります。
7  「死」という問題も同じである。私達が今、こうして生きているのは事実であり、常に死ぬことを考えて生きているわけにはいかない。いつの間にか、自らの生が、いつまでも続くと無意識のうちに考え、その生を保とうとして様々な努力をする。
 しかし、その強い執着が、人間にあらゆる苦しみを与えていることも疑いない事実である。死ぬことを恐れるからこそ、老いにおびえ、病に苦しみ、生を貪ろうとして果てしなき煩悩の泥沼にもがいているのが、私達の人生であるともいえるでありましょう。
 仏法は、これら無常の変転を明らかに見つめよと説く。むしろ偉大なる勇気を持ってこの事実を受け入れなければならない、と主張しているのであります。事実から目をそむけ、変化する無常の現象を追い掛けるのではなく、冷静にその事実を受け止めるところから、真実の悟りへの道は開けるといえるのであります。
8  人生は無常であり、そのゆえに苦の集積であり、更にこの現実の肉体を持つ自己自身も、必ず死ななければならない。その死を恐れずに見つめ、その奥にあるものをとらえることを、仏法は教えております。
 先ほども申し上げたとおり、無常の現象にとらわれ、煩悩のとりこになるのは、決して、愚かな行為と片付けることはできない。というより、人間の生ある限り、生命の存在がある限り、生に執着し、愛を大切にし、利を求めるのは、自然な感情だからであります。従来、仏教は、煩悩を断ち、欲を離れることを教えるものとしてとらえられ、文明の発達の対極にあるもの、それを阻害するものとさえ考えられてきた。
 こうしたことは、無常を強調する一側面が浮き彫りにされたものであり、これだけが仏教のすべてであると考えるとしたら、仏教の一面的な評価にすぎないと言わざるを得ません。
9  常住不変の法と″大我″
 仏教の真髄は、煩悩を断ち、執着を離れることを説いたものでは決してない。無常を悟って、諦めを説いた消極的、虚無的なものでなく、煩悩や執着の生命の働きを生みだす究極的な生命の本体や、無常の現実の奥にあり、それらを統合、律動させている常住不変の法のあることを教えたのが、仏法の真髄なのであります。すなわち、無常の現象に目を奪われ、煩悩に責められているのは「小我」にとらわれているのであり、その奥にある普遍的真理を悟り、そのうえに立って無常の現象を包み込んでいく生き方こそ「大我」に生きるといえましょう。
 この「大我」とは、宇宙の根本的な原理であり、またそれは同時に、私達の生命の様々な動きを発現させていく、根本的な本体をとらえた「法」であります。
 トインビー博士は、この本体を哲学的用語で「宇宙の究極の精神的実在」と呼ばれておりましたが、それを人格的なものとしてとらえるより、仏教のごとく「法」としてとらえるのが正しいと思うと言っておられました。
10  この「小我」でなく「大我」に生きるということは、決して「小我」を捨てるということではない。むしろ「大我」があって「小我」が生かされるということなのであります。
 文明の発達というのは、人々に執着があり、煩悩があるからこそあるともいえます。もし富への執着がなければ経済の発達はないし、厳しい冬を克服していこうという意志がなければ、自然科学の発達もない。恋人を愛するという煩悩がなければ、文学の重要な部分は発達しなかったでありましょう。(笑い)
 仏教の一部では初期においても、煩悩をなくそうという考えはあり、そのために、肉体をも焼き尽くす試みさえ行われた。しかし、煩悩というものは、生命が本来もっている根源的な本体から発現してくるものであり、なくすことはできない。というより、行動の原動力でさえあります。ゆえに、この煩悩にとらわれた「小我」を正しく方向づけすることが、不可欠であります。
 真実の仏教は今、その根本の「大我」を発見した。「小我」をなくそうとするのではなく、逆に「小我」にとらわれるのでもない。「小我」をコントロールし、方向づける「大我」のうえに立ってこそ、文明は正しい発達を遂げると言いたいのであります。(大拍手)
11  したがって、仏教が無常を説き、死を見つめることを教えたのは、逆に常住不変の法の実在することを教えるためであったわけであります。つまり仏とは諦めを教える人ではなく、常住の法を悟った人をいうのであります。死を恐れずに見つめ、無常を明らかに悟ったのは、その奥に常住不変の法があり、我が生命もその法則のうえに立って運動する尊き存在であることを、知っていたからこそであるといえましょう。
 死は私達の肉体を、必ず包み込む。それは、避けることができない。しかし、それを超えて、永遠に生起し、展転しゆく不滅の生命に裏付けられていることを仏法は教えている。その絶対の確信のうえに立って、死を、無常を見つめることを指し示したのであります。
 仏法では「生死不二」と説きます。生も死も、永久不変に流れゆく生命の二つの顕れ方であって、どちらかに他方が従属するものではない。時間、空間の認識の枠を超えた「空」の次元でこそ、この生死をつかさどる永遠の究極的生命がとらえられるといってよい。トインビー博士と、その永遠性の問題は繰り返し論議いたしましたが、博士も「究極の精神的実在」は、仏法で説く「空」の状態でしかとらえられないと言っておられました。
 この「空」ということを、短い時間で説明し切ることは困難ですが、一般に考えられている「無」ということでは絶対にありません。「有」や「無」は時間、空間という私達の通常の認識尺度で判別しうるものでありますが、「空」はその奥にある本源の世界を問題にしているわけであります。
12  私達は、生まれて成人に達するまで、肉体的には大変化を行っている。幼い時の肉体とは、別人のごとくであるといってもよい。これからの人生の長い道程にあっても、数知れない変化を行っていくでありましょう。精神的にも大きな変化がみられるのは当然であります。しかし、その中に一貫して変わらぬ自分というものがある。それは単に記憶の問題にとどまらず、一個の生ある個体としての、本源的な「我」の問題であります。
 この本源的な「我」は、肉体や精神のうえに顕れてきているけれども、そのもの自体を認識することは困難であります。肉体や精神をつかさどり「有」や「無」の世界の奥にある本体であると言わざるを得ない。
 仏法はこの本源的な「我」が、宇宙大の生命に通じていると説くのであります。更に、この「我」は、永遠に不滅の働きをなし、ある時は「生」に、ある時は「死」の姿をとる。これが生死不二という考え方であります。私達は、その「大我」を、我が生命の内に持っている。そして宇宙生命とともに呼吸しながら、無常の世の中に生きていくのであります。
13  人間謳歌の文明に
 翻って、現代文明をみるとき、私達の文明はまさしくこの「小我」に翻弄され、それを最大限に暴れさせた文明であったことは悲しい。人間の欲の権化が環境を汚染し、石油資源を掘り尽くして、巨大な科学技術文明を作りだした。巨大なビル、高速の交通機関、様々な人工食料、そして最も忌まわしい兵器――それらのすべてが、人間の執着、煩悩の象徴であります。
 それらのなすがままにまかせ、人間を従属させていくならば、必ずや人類を自滅に陥れるに違いありません。
 世界的な思潮として、今、現代文明の暴走への反省から、「人間」に目を向けるようになってきたのは、ようやく人間が人間であろうとしている兆しでもあるといえましょう。
 欲望に支配され、無常の現象の世界ばかり追い回すのであれば、そこにいかに知性が発揮されているといっても、本源的には、本能に生きる動物と変わるところがない。現象の奥にある、目には見えぬ実在に目を向けてこそ、人間は人間たる価値を顕すのではないでしょうか。(拍手)
 トインビー博士は、自らのエゴにとらわれた欲望を「魔性の欲望」と認識され、それに対し「大我」に融合する欲望を「愛に向かう欲望」と名づけられました。そして「魔性の欲望」をコントロールするためには、人間一人一人が内なる自己を見つめ、制御することが必要不可欠であると、二十一世紀への警鐘として述べられたのであります。
 来たるべき二十一世紀の文明は「小我」に支配されてきた文明を打ち破り、「大我」を踏まえ、無常の奥にある常住の実在をつかんだうえに立っての円満な発達が要請されるべきであります。それでこそ、初めて人間は、自らが人間として自立し、文明は人間の文明になるのであります。そのような意味から、私は、二十一世紀を「生命の世紀」でなければならないと訴える次第であります。(大拍手)
14  私達の人生は、また宇宙のあらゆる現象は車輪が回るごとく、展転きわまりないものであります。しかし、煩悩、欲望の泥沼の上をあえぎながら走るか、確固とした「大我」を悟った生命の大地の上を走りゆくかによって、その回転は変わってくる。その時、初めて文明は確かな足どりをもって動き始めるといえましょう。
 二十一世紀が夢に見た人間謳歌の文明になるかどうかは、一にかかって、人間そのものに目を向け、常住不変、不動の力強い不変の生命を発見しうるかどうかにかかっている。そして今は、まさにその分岐点であることを、本日、私は皆さんに訴えたいのであります。
 二十世紀後期から二十一世紀にかけての現代は、まさしく人間が真に人間となるか否かの転換期であると、私は考える。これまでは、極論かもしれませんが、人間は知性を持った動物の域を出なかった。私の信奉する七百年前の日蓮大聖人の教典の中に「才能ある畜生」という表現がありますが、現代において、この言葉の持つ意味が極めて明確になりつつあります。人間は知性的に人間であるだけではなく、精神的、更に生命的にも、人間として跳躍を遂げなければならないと信ずるものであります。
 その課題は、今日の誰人にも課せられております。まず、自ら人間としての自立の道を模索すべきだと思います。私は仏法によって、その「生命の旅」を開始いたしました。皆さんも、一人一人が未曾有の転換期に立つ若き建設者、開拓者として、それぞれの「人間自立の道」を考えていただきたい。私は本日、そのための参考として仏法の英知の一端をお話しいたしました。この講演が、皆さん一人一人にとって何らかの指標となれば幸いであります。(大拍手)
 (昭和49年4月1日 カリフォルニア大学ロサンゼルス校)

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