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日蓮大聖人・池田大作

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第9回「SGIの日」記念提言 「世界不戦」への広大なる流れを

1985.1.26 「平和提言」「記念講演」「論文」(池田大作全集第1巻)

前後
2  翻って目を世界に転じると、現状はますます混迷の度を深め、新たな国際秩序への展望は全くといってよいほど開けておりません。むしろ一触即発の危機を孕んで、従来にもまして不安定な様相を呈しております。
 秩序どころか、今、地球は新たな″核の不安定″時代を迎えております。もとより核軍拡というものが、不安と恐怖に支えられている限り、本質的に″安定″などということはありえず、″不安定″は、事の必然的な帰結であります。しかし、それにしても欧州中距離核戦力(INF)制限交渉の中断、戦略兵器削減交渉(START)の無期限休会は、世界の人々の核戦争に対する不安を、否応なく高めております。
 本年、米ソ間で何らかの合意がなされることなく、ヨーロッパを舞台に中距離核ミサイルの新たな配備競争が続くならば、核兵器をめぐる緊張は、一挙に強まっていくことは必定であります。有名な米国の科学誌の掲載する「世界終末の時計」(核戦争勃発を午前零時とし、それへの接近度を表示するもの)が、「三分前」を指し、米ソ両国が水爆実験を終えたあとの一九五三年末の「二分前」以来、最悪の危機を示しているのも当然でありましょう。その意味でも今年は、米ソの出方次第で、軍縮への血路を切り開けるか、一段と軍拡路線が強められるかの、重大な岐路の年となると思われます。
3  核戦争の恐怖をテーマにした米国のテレビ映画「ザ・デイ・アフター(その翌日)」は、一億人の米国人の目をくぎ付けにし、我が国でも大きな反響を呼びました。その一部は、ソ連の国営テレビでも放映されております。また本年初頭、ソ連の科学者は、米ソ全面核戦争が発生した場合、世界で十一億人が即死し、生き残った人々も極度に悲惨な状況におかれ、種としての存続さえ困難になるという分析結果を発表しました。
 それは、米国の科学誌記者ジョナサン・シェルの『地球の運命』が描き出すところと、重なり合っております。誠に核戦争の脅威を前にしては、イデオロギーの相違も体制の壁もないのであります。
 にもかかわらず、愚かな核軍拡競争が、一向にやもうとしないのはなぜか。言うまでもなく、古色蒼然とした″核抑止力信仰″が、いまだに生き残っているからであります。
 かつて、バートランド・ラッセルは、核兵器を絶対悪と位置づけました。私もそう思います。それは、単に核兵器の破壊力、殺傷力が巨大であるからばかりではない。その破壊力、殺傷力をたてにとった″核抑止力信仰″が、徹頭徹尾、人間への不信感に根差し、増幅させる役割を持つからであります。″核兵器への信″と″人間への信″とは氷炭相いれず、両者は反比例の関係にあるといってよい。
 先に、核の安定、バランス(均衡)などということは、本質的にありえないと述べたのも、その意味からであります。仏法では、生命主体と環境世界とが不可分に繋がり合っているという「依正不二論」を説きますが、その法理に照らしてみても、核兵器による脅しをかけられ、不安に揺れ動く心から、平和がもたらされるわけはないのであります。
 私はこれまでも、そうした角度からの指摘を、何回か行ってまいりました。その根底に横たわっているものが、近代の効率主義ともいうべき思考、世界観であります。ある識者は、そうした効率主義のスローガンを「できるだけ有効に、効率よく、便利に」と、端的に要約しておりました。効率主義のもたらした科学的、物質的成果をすべて否定することはできませんが、見逃してならないのは、そうした思考や世界観が、人間を″物″に還元しゆく避けがたい性向を持っているということであります。
4  核抑止論が華やかなりしころ「確証破壊」や「損害限定」、「費用対効果比」といった用語が頻繁に使われました。人間を″物″に見立て、おびただしい人命の代償を要求している点、無残なまでにグロテスクな効率主義の言葉であります。こうした考え方は、最近の核先制攻撃や核軍備管理を取りざたする戦略論者の脳細胞の中で、決して死に絶えてはいない。それどころか、折に触れて形を変えて頭をもたげてくることを、忘れてはならないでありましょう。核文明、核体制のエリートともいうべき政治家や科学者ほど、そうした効率主義的な思考にとらわれやすいことも、私が常に訴えてやまないところであります。
 こうした近代の効率主義的な思考は、別名、要素還元主義とも呼ばれております。対象をできるだけ単純な要素へと分析、還元し、それを出発点として近代科学は飛躍的な発展を成し遂げてきました。その結果、多くの恩恵がもたらされたことは事実ですが、反面、要素という部分にとらわれるあまり、人間の精神世界をも含む全体観が、なおざりにされてきた感は否めません。こうした弊害は、従来の軍縮交渉の進め方にも、色濃く影を落としてきたのではないか、と私には思えてならないのであります。
5  発想の転換こそ急務
 戦略兵器削減交渉(START)や中距離核戦力(INF)制限交渉にしても、とりわけINFのごときは、まるで迷路に入り込んだように、解決の糸口を見いだしえていないようであります。その重要な一因として、私は部分観へのとらわれと全体観の喪失ということを挙げざるを得ない。
 核の安定、バランスを重視する人々にとって、核兵器の種類や性能を細かく分類し、その細分化した兵器ごとの交渉が必要だとするのは、常識かもしれません。たしかに、そのような詰めも必要でしょう。だが、その常識には、細分化すればするほど、細分にとらわれ全体を見失う、すなわち「木を見て森を見ず」の落とし穴があることに留意すべきであります。そうであっては、たとえ個々の兵器の優劣を論じ、幾つかの取り決めができたとしても、全体を見渡してみると、一向にはかばかしい進展をみない、といった事態を招いてしまう。私は、そこに現状の核軍縮交渉の盲点があると思うのであります。
6  加えて軍縮の対象とすべきは核兵器のみではありません。むしろ第二次世界大戦後の戦争がすべて通常兵器によって行われてきたこと、また最近の通常兵器の破壊力のすさまじいまでの強大化、更に現実の軍事力では核兵器と通常兵器とが分かちがたく結びついていることを考えると、通常兵器をも含めた軍縮が、もはや人類共通の課題となっていることは論をまちません。
 現に戦後の地域紛争は約三百にも達しており、今なお世界の各地で紛争が続いているという事実を決して見逃すことはできません。こうした紛争の原因は様々あり、特に民族的、宗教的な色彩を濃くもった紛争が長期化してきたことは周知のとおりであります。
 言うまでもなく近代戦争の主導権を握ってきたのは、あくまで国家であります。若干の例外はありますが、主権国家と主権国家とが、国益や威信をかけて争うのが、近代の戦争の主たる形態をなしております。
 この事実は依然として現在も変わっておりません。国家と国家との愚かしい戦争遂行によって、現にこの瞬間も世界のどこかで民衆が塗炭の苦しみにあえいでいる。私どもは改めてこの厳しい現実を直視せねばならないと思うのであります。
7  では、その解決策をどこに求めるか。二十一世紀への平和路線を模索するには、戦後の戦争の原因の分析、更にそれをどう防止し、世界平和を維持するかへの思索が不可欠であります。更に言えば、それを具体的にどう恒常的なものとしてシステム化するかという問題にもなりましょう。そこに今後の人類の知的営為を集中すべきことは言うまでもありません。
 もとよりこうした大作業は、限られた紙幅で可能なはずもなく、私一人の手に余ることでもあります。だが、米ソ間の緊張が激化し、それが世界各地の紛争の危機を一層かきたてている現状をみると、今こそ全地球的な視点からの思い切った発想の転換が必要であると思うのであります。そこで、平和を希求してやまない一仏法者としての立場から、今後の平和路線の進め方について、素朴な提言を試みる次第です。
8  不可欠な″世界共同体″の視点
 過日、私は、スカイラブ3号の船長であった、米国の元宇宙飛行士ジェラルド・P・カー博士と会談する機会を得ました。その際、博士は次のように自らの宗教観を語っていました。
 「キリスト教を信じている若き青年のころ、私は、神を父親的存在として見ていました。天から地球にいる我々を見守っている、時には、ちょっと糸を引き、ものごとを起こすようにして、我々を導いていく存在、と理解していた。けれども、宇宙を経験して、宇宙には厳然とした秩序があることを知りました。この秩序が我々のいう神なんだと気がついた。いろいろなことが宇宙では起きていますが、その運行は、秩序正しく行われています。その秩序こそ、人類が共通にもっている普遍性であるわけですから、世界自体が共同体であり、我々は、まさしく世界共同体の一員だとわかったのです」と。
 私は、その話をうけ「全宇宙を調和させ、秩序たらしめている一法こそ妙法であり、すべての本源力と把握している」と申し上げておきました。
9  ともあれ、カー博士の宗教観は、宇宙体験をとおして部分から全体へという発想の転換を、劇的なまでに見事に浮かび上がらせていると思うのであります。
 同時に私は、平和と軍縮という視点から広大な宇宙を眺めたとき、最近の宇宙を舞台にした軍拡競争にはとりわけ強い危惧を抱く一人であります。例えば、宇宙空間に対ミサイル防衛網を設置したり、宇宙空間で敵の軍事衛星を破壊する対衛星攻撃兵器の開発が取りざたされております。二十一世紀を視野に収めると、こうした米ソの宇宙空間における軍拡レースほど危険なものはなく、私はむしろ膨大な軍事費を人類共同で地球を守りゆくために使うべきだと思います。その意味で米ソが宇宙への兵器配備を禁上し、宇宙空間における武力行使並びに宇宙から地球へ向けての武力行使を禁止するための条約を締結することは、極めて急を要することとなっております。私は世界の人々がこの宇宙軍拡競争の実態を厳しく認識し、国際世論の力をもってこの点を米ソに強く要請していきたいと思うものであります。
10  来年一九八五年は「国際青年の年」、翌八六年は「国際平和の年」に当たります。更に一九八八年までに第三回国連軍縮特別総会を開催する旨の決定もされております。私はこうした平和への潮流を二十一世紀にまでつなげていくために、軍縮への努力と同時並行的に「世界不戦」という意志の流れを深く、大きくしていくことの重要性を強調しておきたいのであります。
 この「世界不戦」ということは、カー博士との会談の折も強調し、博士の全面的な賛同を得たものであります。ともかく戦争をこの世からなくさない限り、しょせん、兵器の廃棄など夢物語といってよい。これまで軍縮交渉とは名ばかりで、軍縮を話し合いながら、当事国は戦争に備えて軍備拡大に余念がありませんでした。これでは、握手をしながら互いに向こうずねを蹴り合っているようなもので、不信感は増大するばかりであり、実り多き成果など期待できるはずがありません。
 今、迫られていることは、軍縮の技術論に陥ることなく、全人類が「世界不戦」の意志を結集していくことであります。その流れが深まれば深まるほど、軍拡の無意味さが際立ち、核軍縮も進展していくでありましょう。一部の人々にはいかに非現実的に思われようとも、核時代は、こうした「世界不戦」ということを、喫緊の要請として登場させた、史上初めての時代であります。恐らく、核兵器の脅威が草の根レベルで広く世界に浸透し、戦争の無意味さがこれほど強く自覚された時代は、かつてなかったといってよい。
11  民衆を主役に平和路線の開拓
 かつて「世界人権宣言」が国際連合の第三回総会で全会一致のもとに成立しました。これは個人の基本的自由、更に経済的、社会的、文化的な面における基本的権利を細かく規定し、戦後、人権保障のモデルを世界に示したものとして大きな意義を持っております。
 その後、国連は「世界人権宣言」を法的拘束力を持つものとして条約化し、その実施を義務づけるために国際人権規約を起草し、総会決議をもとに各国が署名できるように開放したことは周知のとおりです。
 私はその先例にならい「世界不戦宣言」を国連決議として成立させたい。それは、恒久平和実現への貴重な突破口となると信ずるものであります。しかし、一挙にそこまで到達しようとすることは、非現実的との批判を免れ得ないでありましょう。そこで、まず第一段階として、NGO(非政府機関)レベルで、この「世界不戦宣言」採択実現へ、何らかの地ならし作業に取り組んでいってはどうかと提案するものであります。
 国家レベルの論議というものは、どうしても戦術、戦略論が先に立ち、民衆の素朴な反戦、不戦への心情をくみとりにくい。その点、NGOならば、性格上、民衆の意識をより的確に反映しゆくことが可能であると思うのであります。なぜなら、今なによりも必要なことは「世界不戦」への流れを世界の民衆が主体的に、できるところから作り上げていくことであるからであります。
 その潮流を広く大きくしつつ、「国連平和の年」につなげ、更に第三回国連軍縮特別総会の基調精神にもっていけば、多大の成果が期待し得るでありましょう。それはまた、民衆による全地球的な不戦の包囲網の形成といってもよい。
12  私はこうした「世界不戦」の流れを主体的に担い推進する者として、青年の力に大いなる希望を託す一人であります。来年は「国際青年の年」でもあり、平和と軍縮のため、なかんずく世界から戦争を絶滅するために、各国のNGOの青年達が力を合わせてほしいと願わざるを得ません。とりわけ我がSGIの青年メンバーが、「世界不戦」の誓いを固め合い、その先駆を切ることを心から期待したい。
 戦争は勝者も敗者も代償を払わねばならない――先日、お会いしたハーバード大学のジョン・モンゴメリー教授がこう語っていた言葉が忘れられません。第二次大戦の敗戦国である日本は、幸いにして戦後、平和憲法を制定し、驚異的な経済的繁栄を築き上げました。一方、勝者の米国は強大な軍事国家として朝鮮戦争、ベトナム戦争等にかかわり、膨大な人命を犠牲にしました。勝者としての代償もまた極めて大きかったと言わねばなりません。まさに「戦争ほど悲惨で残酷なものはない」との感慨を改めて深くするものであります。
 とりわけ核時代の人類生存の絶対的条件とは、あらゆる戦争の否定であります。たとえ核兵器を使用しない戦争であっても、それがいつ核戦争にエスカレートするか分からない以上、不戦こそ人類生き残りの不可欠の条件だと言わねばなりません。
 二十一世紀は確実に近づきつつあります。我々は「世界不戦」へ向けて粘り強く行動を続けるとともに、世界の心ある青年達に新しい時代の幕開けを託したいと思う。民衆が望む恒久平和への第一歩を、今こそ勇敢に印す時であります。
 (昭和59年1月26日「聖教新聞」掲載)

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