Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第8回「SGIの日」に寄せて 平和と軍縮への新たな提言

1983.1.25 「平和提言」「記念講演」「論文」(池田大作全集第1巻)

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2  今、日本を含めて世界各国は、極めて複雑かつ困難な時代に突入しております。世界同時不況と呼ばれる暗い状況が続くなか、人々の困窮をよそに、軍拡の波は、一向にとどまるところをしらない。経済情勢の悪化にともない、先進国であると開発途上国であるとを問わず、押しなべて保護主義的傾向を強め、一つカジ取りを間違えれば、世界は、破局へ向けて暴走を開始しかねない状況にあります。一九三〇年代――日本はもとより世界各国が、第二次世界大戦への坂道を転がり落ちていった、あの″三〇年代″の悪夢が、人々の脳裏に、しきりに蘇ってくるのも、当然と言えましょう。
 海図なき時代、先が読めない時代――様々な悲観的予測がなされておりますが、時代はまさに、巨大なカオス(混沌)に入ってきているといってよい。それだけに私どもは、仏法者として、そうしたカオスを鋭く、冷静に見つめ、二十一世紀への血路を切り開いていかなければなりません。私が「平和と軍縮」の側面から幾つかの提言を試みるのも、そのような仏法者としての社会的、人間的使命、やむにやまれぬ心情からにほかなりません。
3  民衆こそ時代の主役
 本年初頭、ワシントンの著名なシンクタンクが発表した報告書によりますと、ここ二、三年は今後長期にわたり東西の核兵器競争が激化するか軍縮に向かうかの岐路になる、ということです。核保有国が相次いで新型核戦略兵器の開発を急ぎ、核兵器強化策を八〇年代前半に決定しようとしているためであります。
 実際、米国製パーシング2、巡航ミサイルが本年十二月をめどに欧州に実戦配備される予定になっています。もしこの配備が予定どおり実施されれば、欧州を舞台に東西の緊張が一挙に激化するでありましょう。それはまた欧州のみの問題ではありません。例えば、最近、ソ連は中距離核ミサイルSS20の一部をシベリアに移す計画のあることを明らかにしております。これは極東に配備された米国の核戦力に対抗するものと考えられています。
 そして先日の日米首脳会談で、日本と米国の軍事的同盟関係の一層の強化が約束されたことが、アジアの緊張を一段と高めていることは否定できません。我が国の進路が、平和主義の方向にいくのか、軍事大国の方向にいくのか、国民は不安にかられております。現在の危機は、まさに人間の生存の権利を根こそぎ奪い去る全地球的な破滅への道につながりかねない。本年はグローバル(全地球的)な意味で、平和か緊張激化かの重大な分岐点にさしかかっていることは間違いありません。
4  更に留意すべき点は、こうした軍拡競争というものが、経済、政治、社会を網羅するシステムの中に、深く組み込まれているということであります。
 現在の軍事的破壊力の構造は、軍産複合体という形をとっていることは周知のとおりです。これに官僚集団、学界を加え軍産官学複合体とも呼ばれております。こうした軍事的な既得利益集団の連携強化が、最近いよいよ顕著になっています。その意味で自己の地位の維持、拡大のために軍事力をタテにする勢力は、かつてないほど強力に構造化しているといってよい。
 そうした状況をみるにつけ、軍縮への戦いというものは、長期的展望に立った、息の長い努力が要請されると思うのであります。
 私はかつて、核戦争の脅威というものは、ヨーロッパ主導型の近代文明総体が直面している、一つのカタストロフィー(破局)であると位置づけました。極めて概括的な位置づけですが、核をウルチマ・ラチオ(最後通牒)とする力による支配構造は、近代史を通じて徐々に進行してきた、機械や政治機構による人間支配の、ある意味での完結であると思うからであります。
 今日、すさまじい破壊力を秘めた軍事力に支えられた権力機構は、少数のエリートの政策決定者が支配しているかにみえます。しかし、それは、真実支配していると言えるでしょうか。支配しているようにみえて、実は、核兵器や権力機構のもたらす魔性に支配されているのではないでしょうか。そうした魔性を、仏法では「元品の無明」と説きますが、無明の闇の覆うところ、ついに″人間″は、社会のすべての分野で、主役の座から滑り落ちていくでありましょう。
5  事実、核抑止力論を超えて、限定核戦争の可能性などを喋々している人々の精神構造に、私は、何よりも″人間不在″をみるのであります。核の魔性に操られて、何十万、何百万単位の殺傷を算定するその精神には、苦悶のうちに死んでいく一人一人の人間の苦しみは介在する余地すらないでありましょう。そこにおける主役は核兵器であり、人間は、惨めな脇役でしかないのであります。
 もとより、こうした魔性は、核兵器に限ったことではありません。およそ、武器というものすべてにつきまとうものであります。しかし、核兵器の持つ恐ろしさは、この魔性のグロテスクさを局限にまで拡大してしまった点にあります。かつて戦争を「異なった手段による政治の延長」ととらえたクラウゼヴィッツには、まだしも、戦争を人間の手でコントロールできるという、それなりの見通しがあったのでありましょう。
 だが、核兵器の出現は、そのような楽観的な見通しを、根底から覆してしまった。その意味から私は、核兵器は、近代文明総体の一つの破局であり、その出現は、人類史にとって運命的な出来事であると思うのであります。核の力に支えられた権力機構が、一部のエリート集団に握られているという構図が示すものは、まさしく、自ら作り出した物に支配されゆく、人間の敗北宣言であり、人間の尊厳の死といっても過言ではない。
 ならば、この運命的な出来事は、我々に何を要請しているのか。それは、人類史の舞台における主役の座を人間の手に、なかんずく民衆の手に取り戻していかなければならないということであります。従って私は、ここで「創価学会は、永遠に民衆の側に立つ」という私どもの不磨ふまの指針を、もう一度確認しておきたいのであります。
6  文化人の″平和サミット″開催を
 一昨年来の反核、軍縮への世界的な運動の高揚は、その点で一つの歴史的な意義をはらむものと言えましょう。この反核運動の担い手はごく普通の一般市民であり、その国境を超えた広がりは、新しい民衆の時代の萌芽を感じさせるものであった。核兵器という人類共通の敵を目前にして、市民こそ平和を確保する主役であるとの自覚を生み出したことは、平和運動に新しい地平を開くものと評価されましょう。市民の運動が、政府や国際機構と並んで強力な組織体として登場したことは、歴史上かつてないことであります。
 私はこうした時代の到来を、ここ十数年心待ちしていた一人であります。微力ではありますが、私がこれまで民間人として四十カ国を訪問し、多くの指導的立場の人々と対話し、民衆同士の触れ合いをとおして恒久平和の潮を広げることに徹してきたのも、こうした時代の一日も早い到来を願ったからにほかなりません。
 とはいえこうした動きは、まだまだ緒についたばかりであり、国家と権力の壁は依然として強固であります。この巨大な壁をどう突きくずし、これからの恒久的人類平和への展望を民衆自身の手で開くかは、これからの課題であります。しかし、私は現在の状況に決してペシミスティック(悲観的)になる必要はないと思う。絶望や諦めからは未来への展望は開けないからであります。晩年のヤスパースが「どんな状況も、絶望的なものではない」と語っていたように、むしろ自信を持って二十一世紀のトビラを自らが押しあけるのだという希望と自信を持って進んでまいりたい。
7  先日、カリフォルニア大学のロバート・ベラー教授と懇談した際、氏もこの点を強調していました。ベラー教授は、単に核兵器や核戦争の悲惨さを強調し危機感をあおるだけでは、かえって人々に将来への希望を失わせ、若者を自己中心的な方向に走らせかねない、むしろこれからの平和運動は、人間社会を変革していくという前向きの希望を与えられるもの、また人類が心の奥底で熱望しているものを実現できるのだ、との期待を抱かせるものでなければならない、と語っていた。そうした現実的な運動として、教授は私どもの平和のための諸活動に大きな期待を寄せております。
 民衆の平和の意思を総結集するという点で、今後、非政府レベルの民間組織(NGO)の果たす役割は、いよいよ大きくなるに違いない。言うまでもなくNGOは、単なる国益という狭い次元からではなく、脱国家的な地点から人類の平和と福祉を実現することを目的としています。創価学会も国連広報局のNGO(注。昭和58年2月には、国連経済社会理事会のNGOとして承認された)として活発な活動を推進しております。
 こうしたNGOを中心とする市民の連帯、民衆の動きとともに、更にそれらを理論的に方向づけするための大学や研究機関、更には地方自治体などが平和を探究し創出するネットヮークを世界的規模で作り上げていくことが要請されております。平和創出のための多元的かつ国際的なネットワークづくりを真剣に考えるべき時がきております。
8  もとより、これは長い時間のかかる道と言えましょう。それは、単に核兵器の問題のみならず、人類の生存にとって緊急の地球的規模の諸問題の解決を図り、新しい平和のための秩序を作りだす運動だからであります。
 私は第二回国連軍縮特別総会に際しての「軍縮及び核兵器廃絶への提言」において、非核保有国が連帯し、米ソに対する全地球的な平和の包囲網を形成してほしいと訴えました。こうした方向を推し進めるためには重層的な手立てが必要であります。私は本年より創価大学とも連携を進めつつ、こうした平和創出の国際的ネットワークづくりの第一歩を、創価学会においても着実に踏み出していきたいと考えております。
 その一環として、今秋、創価大学と協力しつつ、著名な海外の学者、平和運動家、国連関係者等に参加を呼びかけ、文化人による″平和サミット″的な会議を開催したい。
 本年、関西で開催される第三回世界平和文化祭は、いわば世界の民衆の交流による平和への祈りと実践を示すフェスティバルであり、一方、文化人による「平和のためのフォーラム」は全地球的な人類の課題をどう乗り越えるかの英知の集いとしていけるでありましょう。
 こうした全地球的な視野に立って、本年も国連の支援を更に進めていきたい。その一つは、世界軍縮キャンペーンヘの協力であります。昨年、ニューヨークの国連本部で行った「現代世界―核の脅威」展は幸い多大な反響を呼び、世界の反核、軍縮世論の高揚に貢献することができました。デクエヤル国連事務総長が世界六十三カ所の国連広報センターをはじめ国連本部、ジュネーブ国連欧州本部、ウィーン国際センターなど合計六十八カ所に原爆資料や文書を常設展示したいと発言し、これが国連で正式に決定をみたのも「現代世界―核の脅威」展が一つの契機となったと言われております。
 私は第一回国連軍縮特別総会への提言の中で、戦争の悲惨、残酷さ、核兵器の破壊力、ヒロシマ、ナガサキの被爆の実態、現在の核兵器の状況などを示す文書、写真、映画等の資料を収集、展覧し、国連を訪れる人々に公開する、そしてそれらの資料が世界各地で活用されるよう推進するセンターとして「平和のための資料館」を国連に開設してほしい、と提案しました。国連がその方向へ前進していることを、私は評価し歓迎するものです。
9  世界の青年パワーに期待
 現在、広島、長崎に投下された原爆の百万倍以上の破壊力を持つ核弾頭が世界に存在しております。しかし、その破壊力が強大であればあるほど、その数字がケタはずれであればあるほど、人間にとって実感が薄れることも事実でありましょう。ヒロシマ、ナガサキを訴えることは、今日ますます大きな意義を持つ。その意味で、本年も「核の脅威」展の国際的な開催を検討し、反核、軍縮の世論形成への一助にしていければと考えております。
 私はこうした平和運動を担う青年達の成長が、最近特に著しいことを頼もしく思っております。恩師が遺言として核兵器の廃絶を若人の双肩に託して以来二十五年、青年部の平和運動は社会に深く定着しております。そこで私は今回、更に青年の運動をグローバルに拡大する意味も込めて、一九八五年に世界青年平和文化祭の開催を検討してはどうかと青年部に提案しておきたい。一九八五年は国連が「国際青年の年」と定めており、六五年に国連総会が「青少年の間に平和の理想、人民間の相互尊重と理解を助成する宣言」を採択して二十年にあたる意味もはらんでおります。二十一世紀へ向けて青年の熱と力をどう活かしていくかは、全世界的な課題となっております。恩師の遺訓を受け継ぎ平和を志向する世界の青年パワーを結集する意義は、極めて大きいと言えましょう。
10  昨年、ノーベル平和賞を受けたアルバ・ミュルダール女史は、受賞記念講演の悼尾で、ノーベルの遺書の一節――「平和会議の開催と奨励」――を引き、広く平和会議の開催を訴えておりました。私も、全く同感であります。
 その意味からも私は、年来の主張である平和のための首脳会談の開催を、改めて訴えたい。これは、エリートから民衆へという時代の趨勢と、決して矛盾するものではありません。かつて丸山真男氏が指摘していたように、国益に縛られて動きのとれない大使、公使レベルの接触に比べ、何といっても最高首脳同士の会談は、国益を踏まえつつもそれを超えた人類的課題が、共通の視野に入りやすいからであります。そこから、混迷を打ち破る大胆な発想と行動も、勇気ある決断も、当然生まれてくるでありましょう。
 もとよりその前提として、最高首脳が、核をはじめとする魔力の呪縛から解放されていなければならないかもしれません。しかし私は、たとえそうでなくても、動き、会い、語り合うことによって、閉塞状況に風穴を開けることは、必ずできると思うのであります。かの劇的な米中和解は、その一つの歴史的教訓とはいえないでしょうか。
 私は、核兵器の出現を、運命的な出来事と申しました。それは、核が人類絶滅の脅威という″負の重力″でもって、いやおうなく世界を一つの運命共同体と化したからであります。そうした″負の重力″を、どうすれば″正の重力″に転化できるか――最高責任者であればあるほど、そのことを痛感していると私は信じたい。最高首脳会談は、その巨大な課題を促進する、このうえない触媒作用を果たしていくに違いありません。
11  最高首脳の勇気ある決断を早く
 とりわけ、米ソの最高首脳会談の早期実現は、焦眉の課題であると思う。ソ連のアンドロポフ書記長は就任間もない立場でもあり、まず双方が互いに知り合い、いま何を考え、何を最も望んでいるか誠心誠意、腹を割って意見を交換し合うことの重要性は、いくら強調してもしすぎることはありません。
 仏法者の一人として私は、常日ごろ人と人との出会いというものを最も重視してまいりました。見知らぬ人間と人間が出会い、互いに心を開いて話し合い、触発し合う。それは無形のものの積み重ねではありますが、やがて有形の果実を生み出していく。ささやかな体験ではありますが、私の世界の人々との交流においても、その確かな手応えが至るところで感じられました。最高首脳同士の出会いもまた、同じ方程式が成り立つはずであります。
 私は重ねて訴えておきたい。ともかく、時代の開塞状況を打ち破るには、誰かが勇気をもって軍縮と緊張緩和の突破口を開く以外にありません。その力をもつ世界の最高首脳の責任は誠に重い。むしろ日本としても、こうした米ソ間の緊張緩和への動きにはずみをつけるため、どのような貢献ができるかを真剣に考えてよい時期にきていると言えましょう。
12  そこで、一市民の立場から切なる願望として、米ソ最高首脳の会談に、次のような期待を寄せたい。
 その第一点は、核兵器の現状凍結を最優先で合意すべきだということです。すなわち、米ソ間で核兵器の生産、実験、配備をストップさせることであります。これ以上の軍拡競争は停止させることに合意し、しかる後、核削減交渉に入ることを提案したい。
 この核凍結に関しては、米ソどちらを利するかという点で激しい論議がなされております。アメリカの指導者からは、現状凍結はバランスのうえで不利だという見解も出されています。もとより、私はアメリカ寄りでもソ連寄りでもない。私はそうした狭い次元で、この核凍結の意味を判断すべきではないと考えております。
 なぜこれまで核軍縮が進展しなかったのか。それは米ソが核兵器を削減する交渉を進めながら、双方が不信感から脱却できず、交渉の最中も核軍拡競争をやめようとしなかったからです。例えば双方がバランスをとって削減しようとしても、そのバランスをめぐって食い違いが生じ、論議が堂々めぐりする。これでは終わりの見えない交渉を続けているようなものです。
 昨年の第二回国連軍縮特別総会の際、ケネディ、ハットフイールド両米上院議員の書いた書物が私の手元に届きました。両氏は核凍結の決議案をまとめ、議会でその成立に情熱を燃やしているリーダーであります。この書には「将来いつか核凍結しなければならないとか、条件付きで凍結しようなどというのは、第一次核戦争(ヒロシマ)から学んだ教訓を裏切るものだ。その条件付きとは米ソ両国が更に核兵器を生産貯蔵し、そのうえで長い年月をかけて交渉しようというものであり、結局、何一つ協定を結ぶまでに至らないからである」と書かれてあります。私も同感です。
13  信頼関係が大幅削減への突破口
 私が核凍結を重視するのは、これがもたらす米ソ間の信頼感の醸成にあります。そして、その信頼関係が、次の大幅削減の合意への呼び水になることを期待したい。何よりもいま大事なことは、相互の不信感、恐怖が次々にエスカレートし、螺旋状に軍拡競争が続いていく悪循環を断ち切ることであるからです。
 私はこれまで米ソ両国を幾たびか訪ね、両国民が心から平和を熱望していることを肌身で感じております。事実、アメリカ国民の八割は米ソの核戦力が均衡しているとして新型核兵器の生産中止を求め、七〇%を超える人々が核兵器の生産のみならず貯蔵、使用の禁止を希望しているといわれます。第二次世界大戦で二千万人の犠牲者を出したソ連の民衆もまた同じ気持ちでありましょう。民衆は核兵器など必要とはしていない。かつて中国で核兵器の問題を話し合った際、中国側が「核兵器は食べることもできなければ、着ることもできない」と言い切ったことが忘れられません。
 ともあれアメリカで昨年、あれだけ核凍結の運動が高揚したのは、核戦争を防止し、国民の暮らしを守る最大の近道が、ここにあるという市民の直観からでありましょう。この庶民の優れた現実感覚というものを重視したい。
 私が何よりも核軍拡競争の停止を要請するのは、膨大な軍事費が市民の暮らしをいよいよ圧迫しているからであります。強大な力を誇ったアメリカ経済が衰弱化した大きな原因が、ベトナム戦争にあったことは衆目の一致するところです。アメリカの場合、連邦予算の赤字は現会計年度(82年10月〜83年9月)で二千億ドルにも上ると予想されており、多くの専門家はこれ以上アメリカ経済が巨額の軍事費に耐え切れないのではないかと考えています。膨大な軍事支出がソ連経済に与える負担の大きさも言うまでもありますまい。
 専門家によると、アメリカが核兵器に投入する支出は年間三百五十億ドルに上り、凍結によってその半分の額が節約できるという。そして凍結後に削減交渉が進めば、核兵器の操作と維持に要する支出は、更に大幅に節約できるといわれております。
14  「核戦争防止センター」の設置
 今や世界の軍事費は六千五百億ドル、百六十兆円に達しようとしており、人類はこの軍事費の浪費性に一日も早く決別せねばなりません。先進諸国ですら二千数百万人が失業で苦しみ、不況、インフレは各国の民衆を無気力にし、大きな社会不安を生み出しています。それが新たな装いをもったファシズムと戦争への道につながりかねないことを憂慮するものです。
 米ソ間で合意を期待したい第二のものは「核戦争防止センター」の設置であります。現在、最も憂うべきは、核戦略家達が核兵器を″使える兵器″として考えるに至っており、実際に核戦争が発生する危険性が高まっている点です。またコンピューターの誤警報など、事故による偶発戦争の危険が高まっていることもたびたび指摘されております。偶発的な核戦争を防止するために米ソ間にホットラインが存在しますが、これだけではいかにも心もとない。高度にテクノロジーが発達した現在、核戦争防止のためのシステムはいくら強固にしてもしすぎることはありません。そこで核戦争をあらゆる角度から防ぐため米ソの最高レベルの専門家からなるセンターを、新たに中立国に設置する必要に迫られていると考えます。
 このセンターには軍事、政治、経済などの最高レベルの専門家が常駐する。そして設置された最新のコンピューターや衛星通信網をとおし、様々な情報の収集、分析を行い、危機的状況を素早くキャッチし、それに対する措置を検討するセンターにする。
 核戦争防止センターは最初、核戦争を防ぐための専門機関としてスタートさせ、やがては第三世界などを含めた世界各国の専門家を結集し、世界の地域戦争を事前に防止する中心センターとしての機能も持たせたい。
15  軍事費凍結の国際会議を要請
 次に第三の提案として、米ソ間で核凍結が合意された時点で「軍事費を凍結するための国際会議」の開催を米ソが呼び掛けてほしいということであります。この国際会議では、各国が軍事費をこれ以上増大させない合意を取りまとめるものとする。
 問題は、単に核兵器を現状凍結すればすむものではない。通常兵器を含めた膨大な軍事費を、これ以上増やさないための国際的な合意がぜひとも必要なのであります。私はこうした会議の実現が決して不可能だとは思いません。現実に昨年の国連軍縮特別総会の演説で、レーガン米大統領は世界各国の軍事費を報告し検討する「国際会議」の開催を提唱しております。更に、先日の東側の「プラハ宣言」では、ワルシャワ条約機構と北大西洋条約機構加盟国間で、軍事支出を現行水準で抑え、更に相互削減に導くような協定づくりの交渉を開始しようとの呼び掛けがなされています。
16  現在、多くの先進国は発展途上国に向けて盛んに武器輸出を続けています。一方、途上国は今、六千億ドルもの巨額の累積赤字を抱えて苦しみ、破産しかねない状況にあります。こうした事態が更に悪化すれば、メキシコ、ポーランドなどをめぐる状況が示すように、世界的な信用恐慌を起こしかねません。途上国への武器輸出に何らかの規制が考えられねばならない時を迎えていると言えましょう。この国際会議で、この点の検討もぜひお願いしたいと思う。
 更にこの会議では、各国が軍事費の凍結に合意するのみでなく、軍縮を進めることによって浮かした軍事費を人類の福祉と向上のためにどのように使っていくかを討議していただきたい。例えばそうした資金をプールし、発展途上国の福祉と生活向上のための開発基金、また各国の平和教育推進のための教育基金の構想が練り上げられれば有意義です。
17  国際的環境を緊張緩和へ転換
 世界の軍事化が進行する中で、とりわけ私は日本の果たす責任の重さを痛感せざるを得ません。私どもは、これまで恒久平和主義を掲げた日本国憲法を一貫して守り抜く姿勢をとってまいりました。それは単に日本一国のためというより、平和憲法の精神と理想とを、あらゆる国々、あらゆる民族の心に植えつけ、戦争放棄の人間世界を広げることこそ、恒久的平和への確かな道と信じているからであります。私が日本国憲法の擁護運動を若き青年、学生に託したのは、憲法自体が国家という枠を超えて人類全体に対する信頼感に貫かれているからにほかなりません。第九条を憲法に盛り込むことによって、歴史の流れを先取りした英知と先見は、やがて歴史がはっきりと証明していくでありましょう。
 要は時代の趨勢を人類共同体的方向へ強力に向かわせることです。そのリーダーシップを日本こそがとらねばならない。したがって、我が国の進路は、平和憲法を基盤にした平和国家の道であります。
 日本が真の平和を保ちきるには、国際的な環境を着々と自主的に緊張緩和と軍縮の方向に変える以外ありません。私がかねてから我が国は地球上のあらゆる国々と平和と友好の絆を結ぶべきだと主張しているのは、そのためであります。特定の国と運命共同体的な関係を持ち、強大な軍事力を表にして自国の安全保障を図る行き方は、もはや時代錯誤と言わねばなりません。まして日本列島を″不沈空母″(注・中曽根首相〈当時〉発言)化するような発想は、極めて危険な考えであります。
 先日、青年部の反戦出版の英語版『平和への責務』を読んだアメリカのノーベル賞学者ジョージ・ウォールド博士から、その感想を記した手紙が寄せられました。博士は、このような優れた本が悲惨な戦争を体験した後にしか出てこないことを残念に思うとしつつ、我々の責任は青年をこうした悲惨な体験に陥らせないことだ、と述べています。
18  もはや二十一世紀は我々の眼前にあります。その輝かしい舞台で活躍する若い世代の前途を、戦火が焼き尽くすようなことがあっては断じてなりません。真に民衆が主役の時代を築くか否かは、すべて国民の手にかかっております。その賢明な進路の選択が、今ほど要請されている時はありません。
 私自身、本年も無名の庶民の中に生きる一個の人間として、民衆の側から平和という人類共通の課題に勇敢に挑戦してまいりたい。そして更に大きな民衆勝利の波動を作りあげていくことを念願して、今回の提案としたい。
 (昭和58年1月25日「聖教新聞」掲載)

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