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日蓮大聖人・池田大作

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アジアの平和と発展のために 『創大アジア研究』特別寄稿

1980.3.0 「平和提言」「記念講演」「論文」(池田大作全集第1巻)

前後
1  アジアは今、激動の真っただ中にある。中東及び中央アジアまで含む広義のアジアの動向によって、今世紀最後の二十年の人類の運命が決定されるといっても、決して過言ではない。同じアジアの一員である日本は、今後ますますこの地域への関心を深めざるを得ないであろう。
 もとより私は、アジア研究については、全くの素人である。アジアの民の一人として、この地にひとかたならぬ関心を抱き続けていることは事実だが、学問的分野での専門的研究というには遠い。ただ、世界平和にとってアジア諸国の動向はキーポイントであるとの信念から、中国をはじめ、何回となく足を運んでいる。意図するところは、民間次元での教育、文化の交流の促進にあった。更には、アジア地域の平和と安定、発展を願って、民衆との対話を心掛けてきたつもりである。アジアの民衆の幸福のために、必要とあらば、各国の指導者とも忌憚なく話し合い、ともにアジアの将来を語り合ってきた。拙稿では、そうした諸経験をとおして痛感してきたアジア諸国の課題と思われるものの一端を、私なりに要約してみたい。
2  一口にアジアといっても、実に多様性に富んだ風土と国民性が、複雑に絡み合っている。ソ連がアジアに入るのかどうかという論議はおくとしても、東は朝鮮半島から日本、西はトルコやアラビア、南はインドネシアまで含む広大な領域である。明治以来の日本人が、ともすれば抱きがちであった「アジアは一つ」といった認識は、従来にもまして改められなければならない。
 私自身、これまで幾度かアジアの地を踏んでいるが、その人種も言語も宗教も、それこそ多種多様を極めている。その文化や生活も誠にバラエティーに富む。ある人は、ビルマとバングラデシュの国境に連なるアラカン山脈が、東洋的世界と非東洋的世界との分かれ目であると述べている。実際、アラカン以東と以西との風土の違いは大きい。ビルマから東には、マレー族を含め、主としてモンゴル系の黄色人種が多い。だが、アラカン以西には、インドのアッサム地方などを除くと皮膚の色こそ褐色だが、西欧的風貌のインド・アーリア系の人種が住みついているという。実際、私も昨年のインド訪問の際、ニューデリーからパトナ、カルカッタヘと足を延ばしたが、その風土と自然の移り変わりに、改めてインド亜大陸の広大さを思い知ったものである。アジアのもつ多様性に目を開かない限り、独断と錯誤は生んでも、真の理解は得られないであろう。
3  そのようなアジア諸地域の抱える課題を一括することは、これまた困難、かつ危険なことである。にもかかわらず、あえてそこに大枠を設けるとすれば、月並みな言い方になるが、やはり「伝統と近代化」の問題が、最大の課題になってくると思う。
 C・G・ユングに「近代精神治療学の諸問題」(一九二九年)と題する論文がある。津田元一郎氏の『アジアから視る』を読んでいて所在を教えられたものだが、手にとってみて、改めてユングの洞察の深さと視野の広々とした広がりに感銘を深くした。
 当時のヨーロッパといえば、シュペングラーの『西洋の没落』に象徴されるように、第一次大戦後の価値観の崩壊期にあった。ヨーロッパ文明を至上とする進歩の観念は、キリスト教国同士の殺戮という冷厳な事実によって足元を揺るがされていた。価値観の多元化、相対化の波である。特にフロイトの心理学は、ヨーロッパ文明のシンボルともいうべき理性のよって立つ土台を掘り崩した点において、決定的な影響力を及ぼした。「薔薇色の後光につつまれたものの本質をその影の部分から説きあかし、それによってそれらの事物を、ある程度まで、かなしむべき原初の汚穢おわいのなかにおし戻す」作業は、いやおうなく人々に、自らの価値観の相対化を迫る。
 しかしユングは、ともすればペシミズムに傾きがちな師・フロイトに踵を返して、時流を鋭く先取り、展望している。
 「……私は、フロイトの解明方法によって、われわれヨーロッパ人種がこれまでいだいてきた幻想や偏見が大打撃をうけたからといってそれをなげく気にはならない。むしろ私は、この打撃を、当然おこるべくしておこった、ほとんどはかり知れぬほどの意味をもつ歴史的な矯正として祝福したい。なぜなら、この矯正と時をおなじくして、哲学の領域には相対主義がおこったからであり、この相対主義は、われわれの同時代人であるアインシュタインによって、数学および物理学の分野においても開花したし、またその根本においては、いまのところまだ見当もつかぬぐらいの影響力を秘めている、ひとつの東洋的叡智なのである」(高橋義孝訳)
 極めてドラスチックな、我々にとってはややおもはゆいばかりの東洋への憧憬であり史的展望である。当時、ユングの目が「東洋的叡智」の名のもとに何を見ていたかは、私には定かではない。しかし、個人の意識の表層を突き破って心の奥をのぞくと、そこには、個人的な体験のみならず原始からの種属的体験が含まれているという、彼の「集団的無意識」説などを考えれば、彼の犀利さいりな観察が、東洋数千年の文明史を、大きく眺望していたと考えても、少しもおかしくあるまい。ヨーロッパが文明史の主役であったのは、たかだか近代の数百年にすぎず、人類史の巨大からみれば、あたかも集団的無意識のうえに浮かぶ個人的意識のようなものである、と。
4  言うまでもなく、アジアは太古より文明発祥の地である。西方世界において、古代ギリシャ人達が「アジア」と呼びならわした地域には、現在のアジアとアフリカの両方が含まれていたというが、人類の四大文明は、すべてこの地より生まれている。西からナイルの流域に、メソポタミアのチグリス・ユーフラテス両河地域に、インダスの河畔にと、そして黄河の流域にと、独自の文明世界が展開していった。いずれも河の流れと無関係でなかった点に注目しておきたい。
 さて「アジア」には、こうして今日の中東地域に古代オリエントの世界、インダスとガンジスの流域に古代インドの世界、更には黄河流域に発する古代中国の世界があった。それらは、西暦以後にも引き続いて全ユーラシアの周辺世界に重要な影響を及ぼし、近代から現代にかけての高度な文明の母体ともなっている。人類の文明史を五千年余りと見積もっても、その過半は、アジア地域がその主舞台となった歴史とみてよいであろう。
5  このように世界史の流れを巨視的にとらえるならば、アジアは決して遅れた地域ではなかったはずである。むしろ先進的でさえあった。なるほど、近代に至ってアジアはヨーロッパの植民地主義の軌の下におかれ、忍従の歴史を余儀なくされている。しかし、かつては、ヨーロッパに対してすら、アジアは政治的、経済的にも、また宗教的、文化的にも、優位の位置を保っていたのである。
 二、三の例を挙げれば、人間生活の知恵の発露である文物、土器や衣服の文様において東南アジアの古代人は、優れた芸術家であった。ガラスの製作に革命的な発明をなしたのも、古代エジプト人である。今や世界中に知れ渡った絹、紙の製法も、古代中国人のものであったし、その陶磁器の高度な芸術性は、現代にも伝えられている。音楽や絵画の世界でもその源流をさかのぼっていけば、インドや中央アジアの古代社会に行き着くだろう。その意味でアジアの文化は、古代においても、中世においても、各時代ごとに最高の水準に達していたことが知られるのである。
6  高度な文化が生み出される背景には、生き生きとした宗教の力があったことも、よく知られるところである。世界の三大宗教といわれる仏教、キリスト教、イスラム教は、いずれもインドから西の南西ユーラシアに生まれている。更にパレスチナの地に興ったユダヤ教、古代ベルシャのゾロアスター教、それからインドのヒンズー教、更に中国の儒教や道教まで含めるなら、人類史を彩った宗教のほとんどは、広義のアジアから勃興したものである。アジアの民衆の心を探るためには、したがってまず、宗教の果たした役割を知ることが不可欠であろう。
 なかでも仏教は、インドに発して中央アジアを通り、中国大陸から朝鮮半島を経由して極東の日本にまで伝えられた。いわゆる北伝仏教は、中国の北のモンゴリアにも伝えられているし、更に南伝仏教ともなると、今日のスリランカからタイ、ビルマ、カンボジア、インドネシア等にも広まり、文字通リアジアの大半を覆うものとなっている。もとより、各国において仏教は変遷し、幾多の消長を繰り返しているが、過去二千年以上にわたってアジアの民衆の心をとらえた宗教であることは、厳然たる事実である。
 一方、現時点をとってみれば、より注目を集めているのがイスラムである。西アジアから中東アラブ地域にかけては、イスラムの影響力が圧倒的である。かつてのシルクロードの主要舞台であった東西トルキスタンは、今ではイスラム教徒の地となっている。また現在、国際情勢の焦点であるイラン、アフガニスタン、パキスタンでも、その住民の大半はイスラム教徒であるという。八〇年代の世界が、石油もからんで、中東情勢を軸に転回していくものとすれば、十億にも達するというイスラム・パワーの動向によって左右されることは間違いあるまい。
7  思うにアジアの大地には、人間と文明にとって根源的なるものが潜んでいるようだ。ユングが、キリスト教の中でも、グノーシス主義のような異教的なもの、そして、特に仏教や道教、ヨーガなどの東洋の諸宗教に深い関心を示したように、外へ外へと拡大し続けてきた近代の科学技術文明下の人々の心に、ポッカリと口をあけた空洞を埋める何ものかが予感されているともいえる。
 正直いって私は、その東洋的なるものが、ユングの言った「いまのところまだ見当もつかぬぐらいの影響力を秘めている、ひとつの東洋的叡智」がある形をとり、文明の主役の座に腰を据えたとは思っていない。
 様々に伝えられる欧米諸国の″東洋ブーム″にしても、まだまだ対抗文化(カウンター・カルチャー)の域を出ていないようだし、東洋の国々にしても、ヨーロッパの近代文明に取って代わる歴史的範型を作り出すというには遠い。しかし、大きな歴史の転換点に立つ現在、豊潤な伝統を抱え、しかも近代化の諸要素の取捨選択に苦悩し続けるアジア、つまり「伝統と近代化」を模索し続けるアジアに、文明転換の発想軸を求めることの意義は、どんなに強調してもしすぎることはなかろう。
8  ところで、フロイトの精神分析学がもたらした巨大な影響力については、次のような別角度の受け止め方もある。E・H・カーの『新しい社会』(清水幾太郎訳)。読んだのは随分以前だが、その個所だけは、不思議なほど色濃く記憶に残っている。そして今日においても、ヨーロッパの知識人の良識的な部分を代表する意見のように思う。
 「フロイトの衝撃」と題して、カーは言う、「フロイトが証明したのは、行為や思想における人間の根本的態度は一般に意識のレベルより深いレベルで決定されるということ、それから、私たちが他人や自分に向って示すこれらの態度の合理的説明なるものは、私たちに理解出来ぬ過程の人工的で誤った『合理化』に過ぎないということです」。これは、マルクスが「上部構造」「下部構造」という方式で行ったイデオロギー暴露を、もっと徹底した形で行ったものであった。「実在の下部構造は無意識の中に隠れているのです。すなわち、表面に現われているものは、意識下で行なわれていることが真実を歪めるイデオロギーの鏡に映った影に過ぎません。以上から生まれる政治的結論――フロイト自身は、何一つ、これを導き出していませんが――は、こうです。つまり、普通の人間の理性に訴える試みはすべて時間の空費であるか、または、説得過程の本質を隠すカムフラージュとして役立つに過ぎない、ということなのです」
 フロイトの精神分析学が行った、理性と合理主義に対する、徹底した破壊作業を述べたものである。当然のことながらカーはこの点には否定的で、人間の知性の働きがどんなにひ弱であろうとも、あたう限りそれを駆使して「進歩と、その内容としての自由」を求め続けるところに、人間の人間たるゆえんがある。「進歩の仮説がなければ、歴史はありません。人間が歴史に現われるのは、過去があることに気づいた時であり、過去の業績を未来の業績の出発点として意識的に利用する時であります。非歴史的民族とは、理想のない民族であり、前方を見ないがゆえに過去を見ない民族なのです。未来への信仰こそ、過去への有意義な関心の一つの条件なのであります」と。
9  もとよリカーのこうした主張には、ヨーロッパの歴史主義、進歩主義の自負が勝ちすぎていると指摘することもできよう。私も彼が「現代の東洋では、ガンジーの糸車は一つの古臭い儀式に過ぎません。工業こそ進歩の象徴であります」などと述べる段になると、三十年近い歳月(『新しい社会』の刊行は一九五一年)を差し引いても、少なからず抵抗を覚える。しかし、近代的な知の在り方がどのように問い直されようとも、理性や合理主義の持つ効用をぎりぎりの点で捨てず、なおかつ「進歩」を言い切る彼の見識は尊いと思う。近代という動かし難い歴史の流れを断ち切るのではなく、近代の遺産の継承のうえに未来を臨む、すなわち、伝統と近代化をどうかみ合わせていくかという方向でしか、アジアの平和も発展も考えられないと思うからである。たとえこの課題が、アジア各地に深い爪痕を残した近代植民地主義の担い手である先進諸国により重く課せられているにしても、である。
 私が、アジア諸国の指導者や民衆と語り合いながら、最も痛感させられたのもこの点であった。アジアの各国は、それぞれに豊かな伝統と歴史的遺産を持っている。それと同時に、抜き差しならぬ現実的課題を背負っていることも事実である。飢餓線上ともいうべき貧困、病苦、人口、資源、エネルギー等々。いずれも、明日への生存にかかわる問題である。中国の人々などは、日々に「中国は貧しい国です」と、近代化ヘの意欲をのぞかせていたものだ。そして、近代合理主義の所産である科学や技術は、その次元では、まだまだ一定の効用を持ちうるのである。ちょうど、アインシュタインの相対性理論が現れても、科学技術の応用面では、ニュートンカ学が十分力を発揮しうるように。
10  だからといって私は、アジア諸国が競って近代化するのをよしというようなつもりは毛頭ない。八〇年代から二十一世紀へ至る歴史の流れが、近代の直線的な延長線上に描けないのと同様、重化学工業を軸とした画一主義的近代化をそのまま是とすることは、百害あって一利あるかどうかも疑わしい。アジアの指導的立場にある人々も、程度の差こそあれ、このことを自覚していると思う。だからこそ様々な模索がなされているのであり、イランのように、イスラム文化、イスラム経済へのドラマチックな転回をなした国においても、決して例外ではなかろう。イラン革命の推移については、まだ予断を許さないが、「資本主義でもマルクス主義でもない第三の経済」を目指しつつも、製鉄所や石油化学、発電所などの資源関係、社会基盤整備関係のプロジェクトは、旧体制時代から引き続き行われているという。また、イスラムに詳しい人の話では、コーランの教義は科学技術と対立しないし、必ずしも近代的な生活と矛盾しないという。要するに、一定の普遍的効用を持つ近代科学技術文明の所産を、イスラムの土壌の上でどう受け止め、取るべきは取り、捨てるべきは捨てるかという問題であろう。こうした土俗性と普遍性、伝統と近代化の融合の問題は、石油のような資源を持たない、より″貧しい″国にあっては、一層厳しい選択を指導者に課しているに違いない。それは、文字通り、背に腹は代えられぬ選択であるといってよい。
11  私が、そうした選択の厳しさを最も痛感させられたのは、昨年、二度目の訪印をした際、お会いした″インドの良心″と呼ばれた故J・P・ナラヤン氏の言説に触れた時のことである。彼の総体革命、全面革命(Total revolution)については、かつてある雑誌(「インドの大地――思索の旅 J・P・ナラヤン氏とガンジー思想」『朝日ジャーナル』54年3月16日号=拙著『悠久の大地に立って』所収)に、彼の『獄中日記』の抄訳をもとにして、概略触れておいた。その後、伊藤雄次氏の訳で『ナラヤン獄中記――インドを救う道』として出版されたので、改めて略述してみたい。
 ナラヤン氏は、その中で「全面革命の枠組み」として、八点を挙げている。(1)道義的・精神的骨組み (2)自然環境の骨組み (3)経済的骨組み (4)政治的骨組み (5)文化的骨組み (6)教育上の骨組み (7)社会的骨組み (8)変革と再建の力学――以上である。このうち、(1)(2)(3)については、比較的突っこんだ解説(といってもメモランダム的なもの)がなされているが、残りについては、内容的にはほとんど触れられていない。従って、体系的著述とはとうてい言い難いが、それでも、インドの伝統と近代化をどうするかと模索する姿が、文脈の節々から浮かび上がってくる。
12  例えば「道義的・精神的骨組み」の中の叙述には――
 「人間は物質的かつ精神的である。人間の生命は物質的要求と精神的要求が同時に充たされなくてはならない」
 そして、衣・食・住を中心にした物質的要求と適性水準について触れたあと――
 「他の物質的要求についても同様である。このことは消費の自発的な制限を意味し、それは道義的な考え方である。私は禁欲主義という考え方をしてはいない。禁欲主義は精神修養者の追求することである。一般の人、私たちすべてにとっては、精神的極致もしくは精神的目的として禁欲主義を受け入れる人たちを除けば、物質的満足が完全にえられることが精神生活そのものである。過剰な欲求、行き過ぎ、富を追求する不正な手段、これらすべては反精神的行為である」
 ナラヤンが、精神的な満足を得るために、適度の物質的充足が不可欠であると考えていることが、よく知れよう。
13  更に「自然環境の骨組み」のところで村と町と都市の配置の問題や、そこへの人口の地理的配分を論じたあと、「経済的骨組み」の項では、次のように述べる。
 「――インドでは、私たちは大規模で、近代技術、資本集約的産業を十分持っている。私たちは国防止必要なものを除き、それら産業の成長を計算ずくで停止するよう求めてもいいのではないか。人工衛星の開発のように資金がかかり、見えっぱりで役に立たない、いわゆる威信を追求し、他の真似をするような事業は放棄すべきだ。(中略)私は科学の遅れを求めているのではなく、科学の応用に当たっては、与えられたインドの条件と、国民の必要とするものからみて、その幸福と直接関係あることに限定すべきだと主張するものである。産業開発はしたがって、中小の産業と地方の産業の発展を図るという方針をとるべきである」と。
 ここでは、極めて荒削りながら、画一的で規模の効率のみを追い続けた従来の近代化とは違った形での、伝統と近代化との融合が志向されている。しかも、企業管理の個所で、「ユーゴスラビアの形態(同国の特徴である労働者の経営自由管理)から独裁体制を差し引いたものが、最も受け入れやすい姿になるだろう」と述べているように、すべてにわたって強権的な行き方を避け、″民主″を重んじているところなど、いかにもナラヤン氏らしい。彼の全面革命構想を濃く彩る″都市より地方″の重点移行が、イランのイスラム革命が目指している方向と軌を一にしている事実も、注目されてよいだろう。いずれも植民地主義的近代化の辛酸をなめつくした彼らが、何を志向しているかを物語っている。
14  断るまでもなくJ・P・ナラヤン氏は、いかなる意味でも近代主義者ではなく、むしろ土着そのものの人である。たしかに米国留学体験をもち、一時は共産主義思想にひかれたこともあったが、一九五一年、ガンジーの高弟で精神的後継者でもあるビノバ・バーベの始めたボーダン(土地寄進)運動に触れて以来、一貫してガンジー主義者をとおしている。その間二十年余り、政治と直接関係を持つことなく、精神的革新を支柱とする社会事業に全精力を傾けてきた。その彼が、最終的に掲げたスローガンが全面革命であったところに、私は、良い意味でも悪い意味でも、伝統と近代化の融合の成否が、インドのみならずアジア諸国の命運を担っているという事実が示されていると思うのである。多くの可能性をはらみながら、道はまだ暗中模索の途上にある。先に私が「東洋の国々にしても、ヨーロッパの近代文明に取って代わる歴史的範型を作り出すというには遠い」と述べたのも、その意味からである。
 もう一つ、私の直接的見聞を挙げさせていただく。それは故A・J・トインビー博士の中国を中心とする東アジアヘの期待である。博士は、私との対談『二十一世紀への対話』の中で、東アジアを全世界統合への地理的、文化的基軸にさせうるものとして、数多くの歴史的遺産を挙げていた。
15  第一に、文字通り全世界的な世界国家への地域的モデルとなる帝国を、過去三十一世紀間にわたって維持してきた中国民族の経験。第二には、この長い中国史の流れの中で、中国民族が身につけてきた世界精神。第三に、儒教的世界観にみられるヒューマニズム。第四には、儒教と仏教が持つ合理主義。第五には、東アジアの人々が、宇宙の神秘性に対する感受性を持ち、人間が宇宙を支配しようとすれば自己挫折を招くという認識を持っていること。第六に、人間の目的は、人間以外の自然を支配しようとするような大それたことではなく、人間以外の自然と調和を保って生きることでなければならないという信条があること。第七に、東アジアの諸国民は、これまで西洋人が得意としてきた、軍事・非軍事の両面で、科学を技術に応用するという近代の競技においても西欧諸国民を打ち負かしうるということが、日本人によって立証されたこと。第八に、日本人とベトナム人によって示された、西洋にあえて挑戦するという勇気である。ちなみに博士は、この勇気は今後とも持続されるものであろうが、人類史の次の段階においては、人類の当面する諸問題の平和的解決という建設的企てに捧げられることを期待する、としている。
16  膨大な問題が、極めて概括的に盛られているので、安易な分析、分類は危険である。それを承知であえていえば、第一から第六までは、歴史的遺産、伝統といえよう。第七と第八は、主として近代化への対応の問題に当たる。それらの諸要素が合体して、博士の東アジアヘの期待を高めさせているのだが、とりわけ博士が注目しているのは中国である。「未来において世界を統合するのは、西欧の国でも西欧化された国でもなく、おそらく中国である」と言い切るほどである。今「四つの近代化」に忙しい中国が、果たしてトインビー史観の予測通りの動きをするのかどうかは、今後の問題であり、私は口をはさむのを差し控えたい。
 しかし、東アジアといっても、日本の現状などをみると、事態は全く楽観を許さない。たしかに日本は、トインビー博士が第七点で指摘しているように、近代化、西欧化の優等生であった。そこには、第二、第四点に挙げられている仏教や儒教で培われた合理主義的精神があずかっているかもしれない。しかし、その近代化の結果は、公害先進国の汚名を招き寄せてしまっている。第六、第七に挙げられた東洋的宇宙観、自然観は、無残に引き裂かれてしまったのである。日本及び日本人の可能性を軽視するつもりは決してない。だが、我が国の現状は、インドなどの開発途上国とは逆の意味で、伝統と近代化を融合しゆくことの困難さを示しているといってよい。
17  ユングの「東洋的叡智」で始めながら、あまりに生々しい現実的課題にかかわりすぎてしまったかもしれない。ユングの精神分析学と仏教の存在論等との触れ合いについては、他のところ(例えば、拙著『生命を語る』)で、私なりの見解を述べておいた。ただ、私としては、アジアの平和や繁栄を考える場合、絶対に避けて通れぬ課題を確認しておきたかったまでである。また、ユング言うところの「東洋的叡智」も、人間の振る舞いや行動を通して事実のうえに顕現されてこなければ、現実的な力とはなりえないといえるだろう。その意味では彼が「いまのところまだ見当もつかぬぐらいの影響力」と述べて以来半世紀「東洋的叡智」は、そこここに光亡を放ちながらも、いまだカオスの状態にある。
18  そこで私が常々痛感していることは、アジアの重要性が口々に叫ばれながらも、軍事的、政治的、経済的アプローチのみが先行してしまっていて、その優れた精神的遺産、内面世界の掘り起こしが、あまりに不十分であるということである。J・P・ナラヤン氏は『獄中記』の中で、ビノバ・バーベと通ずる彼の考え方を「二つの革命、即ち人間革命を通ずる社会革命の思想」と規定している。この点は、私との語らいの中でも、深く共鳴し合った点であった。先に挙げた、氏の「全面革命の枠組み」八点は、優れて現実的な施策、対応を示唆したものだが、それらは、単に並列的に並べられたものではない。八点の展開を水平面での広がりとすれば、そこに垂直に交わる一つのベクトルを含んでいる。それが「人間革命を通じての社会革命」にほかならない。彼の革命思想は、そうした水平面と垂直面とが、鋭く交差した立体的構成を持っている。ナラヤン氏の簡潔な表白は、内面世界の開拓が、必然的に社会変革への行動をうながしゆく、真の意味での″精神の冒険″であるといってよい。
19  それはまた、晩年のK・ヤスパースがガンジーを讃した、次のような言葉が指し示すところでもある。
 「今日われわれは、核兵器大量虐殺をいかに避けるか、という問いに直面している。ガンディーは真の答えを与えてくれた。政治そのものを超える政治的価値のみが、われわれを救済できる」と。
 抵抗するな、屈服するな――ガンジーの非暴力主義を、政治的効果の点でのみ考える限り、海面上の氷山の一角を見ているにすぎない。水中には何十倍の氷塊が厳存するように、彼の巨大な魂は、ウルチマ・ラチオ(最後通牒)としての暴力行使を事とする政治の次元をはるかに超えていた。しかも(というよりも、それゆえに)なおかつ彼は、政治的現実という奔馬の手綱を、しかと握って離さなかった。「政治そのものを超えた政治的価値」。ガンジーの政治的行動が、あのような全世界的な衝撃を及ぼしえたゆえんは、一にも二
 にも人類愛に燃える内面世界の横浴があったからであろう。
 しかし、内面世界への旅は、まだ緒についたばかりである。哲学上の相対主義やアインシュタインの相対性理論の彼方に、ユングが望んでいた「東洋的叡智」とは、いったい何であったのか。多くの議論があろうが、私としては、東洋精神の真髄である大乗仏教の世界観に、今こそ焦点が当てられなければならないと思っている。
20  ヨーロッパの中世にあっては、神が「絶対」であった。その結果、神と人間、キリスト教徒と異教徒、人間と他の動物や自然との間に、越え難い障壁が設けられてしまった。近代のヨーロッパにあっては、人間が「絶対」となった。神の影こそ徐々に薄れたが、隔絶感、差別感だけはそのまま残った。人間同士の差別感は、植民地主義の温床となり、人間と自然との隔絶感は、地球を環境破壊の危機へと追いやった。中世、近代を通して、その基軸になってきたのが、ユダヤ・キリスト教的一神教であったことは言うまでもない。その世界観を揺るがしたフロイトの精神分析学を、ユングが「ほとんどはかり知れぬほどの意味をもつ歴史的矯正」と評価するのも、当然といえるであろう。
 津田元一郎氏によれば、キリスト教において、神と人間とを隔てていた障壁は、イスラムからインド、東アジアヘと東漸するにつれて、次第に取り払われていくという。イスラムは「一面、神と人間とのあいだを無限に隔てながら、神の正しい導きに従うかぎり、人間は神に著しく接近する」と考える点で「インドと西洋との中間に存在する二面的性格をもっている」
 また、インド思想にあっては「世界の本質への通路はわれわれ自身のうちにあり、自己の内奥に沈潜すれば、その道はおのずから自らの内に開かれる。神と人間とは隔絶したものではなく、人間自身、神の域に達しうる」。この指摘は、仏とは悟りを開いた人(覚者)の意であることにもうかがわれよう。
 そして津田氏は「神と人間との距離は、東アジアにおいていっそう、接近する」と言う。たしかにそのとおりであって、先述したようにトインビー博士の東アジアヘの期待感の中で、宇宙の神秘性に対する感受性や、人間と自然との調和を基調とする自然観が、重要なポイントを占めている理由もそこにある。
21  キリスト教的世界観を絶対主義であるとすれば、ユングが「東洋的叡智」の名のもとに予感していたものの輪郭が、そこから、おぼろげながら浮かび上がってくるのではあるまいか。私はここではその点については言及しないが、いうところの「相対主義」の極致とも考えられる仏教の″縁起論″などは、もっともっと掘り下げられねばならない論題であると思っている。ともかく、思想や宗教は、目に見えないようであっても、地下水脈のごとく流れ続け、文明の原型を形作っていくものだからである。トインビー博士は、従来、世界共同体創設のプロセスを、混乱期→世界帝国→世界宗教→世界共同体と考えていた。だが晩年に至って、乱世時代→世界宗教→世界共同体という順序に変えている。世界帝国を落とした理由は、単なる国際情勢の複雑化ばかりではあるまい。そこには、新たなる宗教的理念勃興への、熱い期待が感じられてならないのである。それはまた、伝統と近代化の融合という課題への、確かな土壌作りともなっていくであろう。
 (昭和55年3月 『創大アジア研究』創刊号)

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