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日蓮大聖人・池田大作

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後記 「池田大作全集」刊行委員会

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

前後
2  池田名誉会長の生命探究の旅は、経済発展、技術革新のみに目が向けられがちな時代のなかにも、わずかに芽生えつつあった人間の生命への洞察、人生の意義の模索を注視し、きたるべき「生命の世紀」を予感していた。それは、次の一九七二年十一月の講演からも、その一端がうかがえよう。
 「生命の問題に対して、もう一歩突っ込んで思索しようという動きが、二十世紀の終わりから二十一世紀にかけて、世界的に沸き起こってくることでありましょう。……そのときのために、どうしてもいま、生命論を始めておく必要がある」
 この言葉のままに、「生命論」をめぐる対話が、すでに二十年も以前に行われたことに、驚きを新たにせざるを得ない。それは、仏法の生命哲理を基調に、平和・文化・教育運動を推進する創価学会会長(当時)としての、人間が生命本来の輝きを顕現しゆく作業を歴史に記すという、社会に対する責務から発せられたものではなかったろうか。二十一世紀を前に、今、先進国の多くがかかえる生命倫理の課題は、名誉会長のこの先見性を裏づけるものとなってきているのである。
3  遠く二千数百年前、釈尊は人生の苦、すなわち生老病死と対決して自己の内奥の広大なる世界を開いていった。そして、その胸中の悟りを知らしめるために、当時のさまざまな学説や比喩を用いた。中国に出現した天台大師もまた法華経を根本として「生命」を内観し、そこに覚知したものを「一念三千」の法理として体系づけて説明した。
 七百年前、日本に出現した日蓮大聖人は、「生命」の本源の法を「南無妙法蓮華経」であると悟られ、これを説かんがために経をひき、天台大師らの学説を自在に駆使し、「御義口伝」をはじめ、諸御書に生命の法理を展開された。生命論はつねに仏法の根本であり、幾多の先哲の苦闘は、その精髄をいかに時代の人々に知らしめるか、という点にあった。創価学会はこれらを継承しているといえるだろう。
 実際、学会の歴史を概観すれば、その機軸に生命論があったことがうなずけるはずである。戸田城聖第二代会長は戦後の学会の再建にあたり、生命論から始めた。それは、日蓮大聖人の御書を生命哲学として読んだ獄中での悟達に発している。本書は、その系譜につながるものといえるが、二十一世紀を「生命の世紀」ととらえる名誉会長が、一貫してその実現へ向けての主張と行動を重ねてきたことは、よく知られるとおりである。
4  さて、この対談を始めるにあたり、名誉会長はその目的、方向性について、次のように語っている。「生命を探索する哲学と宗教の役割は、あらゆる生の底流にいたり、生命を生命として顕現させる各種の原理と、そこにある源泉を探りあて、それを、人々の生活に反映させ、生の歓喜と創造をもたらすこと」(「身体と心」の章)
 生命論は、たんなる机上の理論ではない。そこで探りあてられた原理は、そのまま内なる生命の転換を可能とし、苦悩に沈む人生も、希望の人生へと変革しゆく方途を指し示すものであろう。事実、名誉会長の視点は対談中、終始、実践に即しながら、論を進めることに向けられている。たとえば十界論をめぐっては、地獄界、餓鬼界、畜生界の三悪道、さらに修羅界をくわえた四悪趣を論じながらも、そこから戦争を起こし、公害に狂う「我」の生命状態を明らかにし、人間の生の尊厳を傷つけ、生存の権利を奪い去る、あらゆる悪の根源を断つ方途を模索する――といったように、仏法の眼が見つめる「生命」の様相を、実際に即した姿に一つ一つ照らし、そこから、さらに変革の道を見いだしていくという真剣な対話がつづけられる。
 また、物理学、心理学、医学、生態学等の研究、業績が各所に散りばめられる本書を通し、生命・宇宙の複雑微妙な諸相を明らかにしていく科学が、東洋的、とくに仏法的なものの見方に迫っていることに、読者は気づかされることだろう。「空」を一つ取り上げてみてもそうだ。物質の究極を探る素粒子論では、物質の状態・存在を規定する段階で、仏法における「空」に近い概念の導入が試みられ、深層心理学の最先端でも「空」につながる表現を使い、″心″をとらえなおすアプローチがなされている。この対談を通じて、現代科学の進展と、仏法の智慧との関連性についての理解が得られるであろう。
5  ところで、「生命論」におけるもっとも根本的な課題とは何であろうか。それは、生と死に関する生命の謎であろう。死後の生命はどうなるのであるか、生命は永遠か否かという問題である。
 死後の生命を否定する唯物論に対し、多くの宗教は死後も生命は存続すると考える。しかし、キリスト教等が生命の生死を神による創造、審判にゆだねるのに対し、東洋の宗教、とくに仏教は、生命の変転はその生命に内在する因果の法則にのっとって、生死を繰り返していくもの、としている。
 名誉会長は、この仏教の一個の生命をつらぬく因果の法則を見極めたうえで、永遠の生命観に立脚し、「方便現涅槃」「本有の生死」等を論じていく。またそれは、「死」の解決のために悟りを求めた釈尊以来の、仏法の英知を見いだすものであり、論議のための論ではない。″永遠なる生命″の自覚によって、現象世界における人生の意味を問い、さらにはその生を充実させ、自己実現へと向かわせていくという人生観への投影に光をあてており、たくまずして読む人に、人生に取り組む真摯な姿勢を教えている。
 名誉会長は、対談集をまとめるにあたり、はじがきで「人間が人間を取りもどす作業の第一歩を、印さねばならない」と記しているが、対談中に試みられた、多くの生命をとらえる視点が、新たな世紀を迎える現在に人間を見つめなおす意味で、今こそ大切な一歩一歩になっている。すでに本全集に収録されているが、時点的な面でいえば、この対談は、その後につづく『仏法と宇宙を語る』『生命と仏法を語る』等、科学と仏法の接近をより色濃く映しだす対談へと発展していく、その基礎を形成しているといってよい。
 現在の、最新の科学技術が生んだ生命倫理の問題の根底には、たんに医学・医療の面からの研究のみでは解明されえない、生命にとっての重要な問題が包含されている。そして現在も、この生命の問題をめぐって思想界も哲学界も試行錯誤を繰り返している。そうした時代であればこそ、本対談に展開された生命論は、生命に関する多くの示唆と、人類の進むべき指標を与えていくにちがいない。
          一九九五年六月六日

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