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日蓮大聖人・池田大作

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永遠の生命〈2〉  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

前後
13  川田 まず第一に、死というものを「本有」の現象として引き受ける勇気がわきでることでしょう。それは決して死を忘れようとするのではなく、またいたずらに恐怖するのでもない。生死ともに本来そなわっている生命輪廻の一つの現象と悟ることによって、かえって従容として生にも死にも直面し対決することができると思います。
 第二に、そのゆえに、現在の生をより大事にし、また自己の責任のもとに生きることができる。現在の自分の行動が未来の生を決定づけつつあるわけですから、自分を磨き、充実させ、宿命を転換しようとする生き方となってあらわれてくる……。
 北川 また利他の実践に生きることが、みずからの生命の形成にも不可欠のものとして、切実になってくるともいえます。国土世間を変革し、寂光土に仕上げていくことが、そのまま未来の自己を守ることになるわけですから……。
 池田 それだけではない。第三に現在の作業の一つ一つがみずからの栄養分となって蓄積され、それが現在の生の終わりによって雲散霧消してしまうのでなく、そのまま蓄積されて自己を拡大させていくのだから、現在の生を最高に謳歌して生きていくことになる。
 さらに、煩悩との戦いだけれども、煩悩と真正面から対決し、さらに進んで、煩悩を自在に駆使し、菩提へと変革しつつ、生命の昇華に用いていくことも可能になってくる。快楽主義やペシミズムにおちいることを防いでくれるわけです。
 しかもこのような生命観をもつことは、決して一部の知識階級しかなしえないなどというものではなく、すべての人々が、確たる人生観に立脚し、現実のこの人生を謳歌しながら、なおかつ真摯に歩みを進めることができる。このようなところに、仏法の永遠の生命観の優れている所以があると思う。
 北川 仏教の永遠の生命観というと、非常に虚無的な色彩が濃く、死の準備のための思想という受け取り方も一部にあるようですが、そうではなく、この現実の人生をもっとも深い意味で楽しみきって生きていく道を教えた宗教である、ということを認識する必要がありますね。
 池田 そのとおりです。たとえば、浄土宗等においては、この世は穢土であり、人生は一切が無常であると説いて、西方十万億土の極楽往生を教えた。そうした現世をはかないものとする思想が、仏教を暗いものとして受け取らせた要因の一つとなっていたでしょう。
 しかし、「法華経」の「衆生所遊楽」の一句をみてもわかるように、この世界は、本来衆生が、悠々と生を楽しみ遊戯しきっていくべきところである、と教えている。
 それには永遠の生命観を、幾多の生老病死との対決を通して勝ちとった真実の生命観であると確信し、現実社会と取り組み、その無限の展望に立って、現在の利他の作業に汗していかねばならないと思う。
 その確たる人生基盤を構築したとき、一つ一つの苦難が底知れぬ生の歓喜をもたらす栄養源となり、自己の完成、社会の変革につくす汗の一滴が、そのまま不動の人生行路を切り開く水源となっていくのです。
 私たちは対話を終えるにあたって、この雄大な生命観をすべての人々の胸中に息づかせていくことこそが、病める現代文明を蘇生させ、来たるべき二十一世紀を、生命躍動、生命勝利の世紀としていくカギになると確信し、今後もその至高なる作業をつらぬいていくことを誓い合っておきたい。

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