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日蓮大聖人・池田大作

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永遠の生命〈2〉  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

前後
1  転生の秘密を解く
 川田 前章からずっと気がかりな点なのですが、私たちの生命は、死の状態のままで限りなくつづいていくのでしょうか。それとも、一年後とか、百年後とかに、ふたたび生を享けることができるのでしょうか。
 古代ギリシャの悲劇詩人ソフォクレス(前四九七年〜前四〇五年頃)は、「生まれないのが、どう考えても勝ちだ。しかし生まれてからは、もと来たところへ、できるだけ早く去るのが上の次だ。」(『田中美知太郎全集 第十四巻』筑摩書房)と述べています。この言葉に賛同する人もいないとはいえませんね。
 池田 極端なペシミズム(厭世主義)ですね。しかし、そういう考え方は、なにも、ソフォクレスにかぎらず、仏教でも小乗教には、生死の輪廻を絶って涅槃に入るという思想に認められる。しかし、「法華経」の教えによれば、生死の繰り返しは生命の本然の理であり、しかも死が苦の終わりとはいえない。
 これまで話しあってきたように、もし、生きているときよりも、死後のほうが数千万倍も大きな苦を受けるかもしれないとなったら、ソフォクレスの願いもまったく逆転したと思われる。そのときは″死ななかったのが一番いい″といっても無理な相談だから″たとえ死を迎えたにしても、できるだけ早く生へとよみがえりたい″と願うにちがいあるまい。
 北川 菩薩界や仏界を基調にしての死ならば、百年でも、それ以上でも耐えられそうです。でも、地獄界や三悪道の苦悩がつづくような死だとすれば、一刻も早く抜けだしたいですね。
 池田 それは、すべての人の、いつわらざる心情でしょう。ところが、残念なことに、仏法の見ぬいた実相からすると、地獄の責めからは、容易に逃れられないとあります。
 たとえば、日蓮大聖人の「顕謗法抄」などには、苦しみの極限において死を迎えた生命は、千劫とか、一中劫とか、無量無数劫にわたって阿鼻の炎にむせぶ、と明記されている。
 北川 一劫といえば、いろんな説がありますが、短いので約八百万年、一説には千六百万年ともいわれます。その千倍となると、気が遠くなりそうな長さですね。
 川田 一中劫だと、二十小劫ですから、このほうがまだマシですね。それにしてもたいへんな年限です。ところで、この地獄の長さというか、寿命は、文字どおり、時間的長さを示しているのではなく、地獄の苦悩の大きさ、深さを量的にあらわしている、と考えることはできないでしょうか。
 池田 死における地獄の生命が、苦悩の極限を、千劫とか一中劫にもわたって体験したと感じとるのです。生の生命にとっても、苦しみの時はきわめて長いものです。
 まして、死せる生命においては、その基底部となっている境涯のみに縛りつけられ、生きているときのように、一時的にでもまぎらすことはできませんから、苦悶の感覚もさらに増大するでしょう。
 北川 一時間を、百年ぐらいに感じるかもしれません。
 池田 時間について話しあったところで、私たちの生命の「我」が実感する時間を、生命的時間と名づけました。死の領域に入った人間の「我」は、生命的時間での長短のみを感じとるのです。それは、苦悩の大きさにも比例するでしょう。
 具体的に考えると、たとえば、ある人が、人生七十年の間、地獄の底をはいずりまわるような生涯を送ったとしてみよう。この人が生涯を閉じて、生から死へと移っていった場合、一生の間経験した苦しみの一億倍も、また、それ以上もの地獄の炎にむせぶこともあるでしょう。
 まあ、このあたりから「千劫阿鼻地獄に於て大苦悩を受く」などと説く経文の意味を察知してほしいものです。
2  北川 仏法の十界論からしますと、地獄界とか三悪道と対照的な境涯は、やはり菩薩界、仏界になると思われます。
 菩薩界とか仏界を基底部として確立して死におもむいた生命は、どのようになるのでしょうか。もし、それが春風に吹かれるような幸福な状態ならば、あまり早くさめてほしくないという気持ちになるだろうと思うのですが……。
 池田 仏界を基調とした生命は、生から死へとしりぞいて、宇宙生命自体に冥伏した瞬間、ふたたび死から生へとよみがえるのです。なぜなら、仏界や菩薩界の生命は、みずからの幸福のためではなく、人々を救う利他の使命感に満たされた生命です。したがって、顕在から冥伏、そして顕在化へと、仏の生命は、その激烈なまでの脈動を一瞬もとどめることはないのです。
 日蓮大聖人の「総勘文抄」には「上上品の寂光の往生を遂げ須臾の間に九界生死の夢の中に還り来つて身を十方法界の国土に遍じ心を一切有情の身中に入れて内よりは勧発し外よりは引導し内外相応し因縁和合して自在神通の慈悲の力を施し広く衆生を利益すること滞り有る可からず」とあります。
 これは仏界の悟りを得て九界を利益することを示した文だが、三世の生命論の観点から読むと「上上品の寂光の往生」とは、仏界をみずからの生命の内奥に確立した人の死をさします。これらの人々は、たとえ死が訪れても「須臾の間」に「九界生死」の世界に還ってくるというのです。
 川田 そうしますと、仏の生命にとって、死は瞬間であるといってよいでしょうか。
 池田 少なくとも、仏界を基調とした生命の「我」は、瞬時にして生へとよみがえったと実感するはずです。つまり、死の状態における生命的時間は、ほとんどゼロに近いといえましょう。しかも、そうした瞬間の死のなかに、永遠の時の刻みを会得し、永劫の至福を味わいつくすことができるのではないだろうか。
 北川 それで、安心しました。さて、次の質問に移りますが、地獄界の生命の「我」は、無量無数劫にもわたるような苦悶の状態がつづきます。ところが、仏の生命は、瞬時にして生へと還ってくる。このような差異が生じるのは、いかなる理由にもとづくのでしょうか。
 池田 少々むずかしい話題に入ってきたようだが、重要なところだから、もう少し論理を進めてみよう。
 さて、いまの質問に答えるには、そのまえに、生と死の関連性とか、死から生へとよみがえるプロセスを解明しておかなくてはならないようです。蘇生の秘密というか――生死の本質を覚知した人にとっては秘密ではないのだが――詳細な法則を話しあったあとで、この質問をもう一度取り上げることにしたい。
 そこで、まず、日蓮大聖人の「御義口伝」の文から思索の糸口を探りだしていこうと思う。生と死の明確な定義が、「御義口伝」に「如去の二字は生死の二法なり」とあり、そのあとの部分に「法界を一心に縮むるは如の義なり法界に開くは去の義なり」と記されています。「去」すなわち死については、もはや説明は不要でしょう。
 北川 一心を宇宙生命と合体させ、空の状態になるのが「去」であり死であるとの意味ですね。
 池田 ここにいう「一心」とは、私たちの生命自体ととっていいでしょう。人間生命を宇宙全体に「開く」のが死です。こんどは、逆に「法界を一心に縮むる」働きを生といい、「如」と称するのです。いいかえれば、宇宙のあらゆる法を、私たち自身の「一心」に凝集し、一個の生命体として顕れでるのが生であると表現できましょう。
 こうした生と死の関連性をよく理解してもらうために、若干の例をあげてみたい。これは、まえにも譬喩としてあげたものだが、私たちの住む空間には、さまざまな波長の電波が流れている。スタジオで撮影され、録音された画像とか音が電波として、この空間に流される。ちょうど、私たちの生命の死にたとえられる。
 川田 空の状態ですね。
 池田 電波そのものを、人間の五感でとらえることはできません。しかし、性能のよい受像機があれば、放送局で電波にのせたときの画像や音を再生することが可能です。同じように、私たちの生命も、一定の条件がととのえば死から生へと変転することが可能です。
 もう一つ、戸田先生の引かれた、まことに巧みな譬喩をあげてみよう。
 碁盤に向かって二人の人間が対局している。二人とも名人ならば、一日中思索しても、半局面しか打ちきれない場合も多いでしょう。しかも、生命力の消耗も激しいでしょうから、とても、徹夜というわけにはいくまい。そこで、明日にしようということになって、碁石をバラバラにして、もとのように箱におさめてしまう。
 次の日、二人の対局者が、また碁盤をかこんで、昨日打ち終わったところまで、昨日と同じように白黒の碁石を並べる。
 北川 双方とも、その道の達人ですから、ごまかしは通用しませんね。
 池田 名人の脳裏には、対局の模様が、くっきりと刻みつけられているであろう。たとえ、碁盤や碁石がなくても、頭の中には、白と黒の碁石の配列があぎやかに刻みつけられているはずです。ともかく、並べ終わると、そこから、昨日のつづきで対局が開始される。
 川田 碁石を崩したときが死で、碁盤の上に並んでいるときが生ですね。
 池田 この譬喩からも類推できるように、私たちの生命は、死においては宇宙生命へと「開いて」いっても、ふたたび、宇宙の物質を凝集し有情の生命体として顕在化してくる。しかも、その生まれでた生命体は、過去の生存とか、死の状態をとおして連続してきた生命そのものであり、個体に刻みつけられた傾向性にしたがって宇宙の物質を集めていくのです。
 たとえば、地獄界を基底部にして死に突入した生命が、ふたたび生を享受するとすれば、その生は、やはり地獄界をその基底部としたものとなろう。餓鬼界の生命ならば、死のあとの再生においても、貪欲の炎に身を焼かれる境涯をまぬかれることはできまい。畜生の境涯が支配的な生命体は、その畜生界の生命活動をするのに合致した色心を、みずからつくりだすと思われる。
3  北川 修羅の慢心をいだいて死におもむいた人の場合は、来世もまた自我意識の強い、諮曲の生命につき動かされるでしょうね。
 池田 人界とか天界だと、理性や良心といった人間的自我に磨きがかけられ、平静な来世を約束されているようなものです。また、二乗界を基調とした生命は、それなりに得た不動の境地に立ち、菩薩界を基底部とした死の生命は、利他の心を深めながら、生へと顕現する時をつくりだしているにちがいあるまい。仏の生命には、生死とともに、慈愛とか英知とか勇気がみなぎり、「抜苦与楽」の行動をとどめることはない。
 ゆえに、瞬時にしてよみがえった仏の生命には、温かい血潮が脈打ち、正義感に燃えた色心がそなわり、あらゆる生命的存在を救うべき智慧の輝きが、生まれながらにして組み込まれていると考えられる。
 北川 外面的なことからいいますと、たとえば、今世において本能の充足のみを追い求めて、強者にヘつらい弱者をいためつける行動に終始した、いわゆる畜生界を基調とした人間の生命が、ふたたび生まれでる場合には、野獣とか蟻などになることもありうるのでしょうか。
 池田 いま、人間という身体を構成しているからといって、次の世にも人間として生まれてくるかといえば、かならずしもそうではない。畜生界が支配的である生命体は、その境涯をあらわすのにもっとも適切な姿をとるであろう。私たちが、現在、地球上でよく知っている生命形態からすれば、畜生界はやはり、本能に動かされて生を営んでいる各種の動物などに結びつきやすいのではなかろうか。
 だが、この大宇宙には、私たちの知らないさまざまな生き物の姿があるはずです。そのなかには、姿、形こそ変われ、動物的な生を営むものもいるでしょう。そうした、宇宙の涯の生き物に、ぴったりの境涯を築きあげて死に向かいつつある人間生命も絶無だとはいえないでしょう。
 川田 人間は万物の霊長だ、などといって安心はできませんね。そのおごりたかぶった慢心が、修羅の未来を招きよせるかもしれませんね。
 池田 私たちの、いまの知識からすれば、人間生命に具備した知性の光や、愛の心情や、慈悲のエネルギーは、来世もまた、人間的生を呼びおこす可能性を大いにはらんでいることはたしかでしょう。
 北川 宇宙のどこかに、私たちと同じような知的生物がいると仮定すれば、そこに転生するかもしれませんね。
 池田 ともかく、一つの生命体が現在の生においてつちかっていった境涯は、来世にもつらぬかれるでしよう。
 ある人の生命が、死をはさんで、どう持続しているか――つまり、ある人の過去世はだれか、などということは、肉体面の特質からは知りえないことです。だが、生命自体の本質に鋭い洞察の眼を向けるならば、生死を繰り返しつつ流転する個の生命の連続を、あぎやかに見てとれるのではなかろうか。
4  北川 いままでのところで、生から死、そして生ヘと流転する生命の連続性については、よくわかりました。そこで、死から生へとよみがえるところを、もう少し詳細にお聞きしたいのですが、私たちの生命が、冥伏の状態から顕在化するには、どのような条件がととのわなければならないのでしょうか。
 川田 私たちにとってもっとも関心の深いのは、なんといっても、次の世において、ふたたび人間として生まれてくる場合です。その宿業のいかんによっては、動物などに転生することもないとはいえませんが、非常にこみいってきますので、ここでは、人間としてふたたび生まれてくるというケースに限ることにします。
 としますと、発生学上からも、受精現象を取り上げざるをえないのですが……。
 池田 卵子と精子の結合ですね。受精という現象に即して、一個の生命が顕在化するのです。
 川田 受精については、くわしいメカニズムなどは省きますが、成熟した精子が、成熟卵子の表面の一部を裸出させて、そこから進入していきます。精子というのは、ちょうどオタマジャクシのように、頭があり、尾がついています。卵子のなかに突入するとき、尾を切り離して頭の部分だけが中央に進んでいきます。そして、卵子の核と結合して人間生命に固有な「精卵細胞」が生じるとされています。そのあと、受精した「精卵細胞」が分裂を開始するわけです。
 医学的に述べますと、概略以上のようですが、成熟した卵子と精子はともに、一個の生命体ですね。
 池田 卵子は卵子としての生命体です。同じように精子も、きわめて小さいながらも、それ自体で立派な生命的存在です。
 川田 そうしますと、仏法では、人間生命の誕生というか、顕現をどのようにとらえるのですか。
 池田 現代医学の知見を取り入れるなど、「精卵細胞」に即して、私たちの生命の「我」が顕在化するととらえてよいのではなかろうか。
 川田 受精した精卵細胞は、卵子と精子との結合したものでありながら、すでに別の生命体になっている、と考えてよいのでしょうか。
 池田 卵子も精子も、一個の細胞です。卵子には卵子の、精子には精子の特有な働きがあるでしょう。「精卵細胞」も、一個の細胞であることに変わりはありません。だが、外観的には、同じように、細胞的生命でありながら、受精した「精卵細胞」の機能は、卵子とも、精子とも異なっているはずです。
 一個の受精した「精卵細胞」には、すでに人間生命を形成する情報が含まれています。六十兆もの細胞体へと分裂し増殖することによって、肉体と精神の絶妙な働きをつくりだすための、基本的な情報もすべて含まれています。
5  川田 それでは、受精する以前の、卵子と精子としての生命はどうなったのでしょうか。精卵細胞という別の生命体に変化したと考えるべきでしょうか。
 池田 表面的な現象を追っていけば、そのようにとらえることもできましょう。
 しかし、仏法の知見によって、受精という現象をとらえなおすと、卵子の核と精子の頭部が融合したその瞬間に、卵子および精子としての生命は、この結合によって生じた「精卵細胞」のなかに冥伏してしまう、と考えられる。「精卵細胞」は、卵子と精子の機能を組み入れ、それらの働きに即しながらも、まったく新しい有情としての脈動を開始するのです。
 川田 でも、精子と卵子の結合という現象がなければ、死の状態で冥伏している生命の「我」は、再生する場を得ることはできないわけですね。
 池田 仏法用語を使うと、受精現象は、転生する生命体にとって、その働きを助ける″縁″になります。つまり、助縁です。受精現象を助縁としながら、一つの生命体が、死の状態から生へと移るのです。
 北川 先ほど出てきました「総勘文抄」の文についてですが、そのなかに「身を十方法界の国土に遍じ心を一切有情の身中に入れて」とありました。私たちの生命に具体的にあてはめてみますと、この部分は、死の生命の「我」が「精卵細胞」に即して顕現することをさしているのでしょうか。
 池田 「御義口伝」の「法界を一心に縮むる」という生の働きを、さらに具体的に説かれた文といえるでしょう。「身を十方法界の国土に遍じ」とは、私たちの生命体は、宇宙の物質によって構成され、環境世界と連続しているとの意味です。
 私たちの生命にあてはめてみると、「精卵細胞」を構成する物質――つまり、元素とか原子をさしているが――は、精子と卵子から引き継いだものです。精子や卵子は、両親の身体の一部であり、人間の肉体を形づくる物質と何ら変わったものではない。
 川田 医学的にいいますと、転生の場は、母親の胎内です。母親の生命は、一個の存在として、その環境とも連続しています。
 池田 「依正不二」の原理だね。
 川田 母の胎内に生じた「精卵細胞」も、母親の身体をとおして、自然界とも人間社会とも連続していると考えられます。
 池田 宇宙に実在する物質を凝集し、一個の細胞として顕れながらも、国土と連続し、一体です。転生の場は決して、この宇宙の外にあるのではない。いま、私たちが生を営んでいるこの国土にふたたび姿をあらわすのです。
 「心を一切有情の身中に入れて」と説かているとおりです。もっとも、いまここで話しあっているのは、人間生命としての有情だが、他の生物に転生するケースも含めれば、この文の意味がさらに明らかになるでしょう。
6  北川 「総勘文抄」には、この文のあとにひきつづいて、「内よりは勧発し外よりは引導し内外相応し因縁和合して自在神通の慈悲の力を施し広く衆生を利益すること滞り有る可からず」と書かれています。
 ここに説かれている「因縁和合」の「縁」については、人間生命への転生の場合は、受精現象がこれに相当すると思います。「内より勧発する因」とは、死の生命に内在する発動性をさすのでしょうか。
 池田 死の状態においては、生命の発動性は、冥伏して発現することはできません。だが、たとえ冥伏の状態にあるとはいえ、死の生命にも、さまざまな種類の力が渦巻いているでしょう。
 川田 確認の意味も含めてうかがいますが、たとえば、人界の境涯がもっとも強い生命体の場合、その生命が死からよみがえるとき、人界にともなった「如是力」が、主要な働きをなすのでしょうか。
 池田 理性や良心を支える、人間らしい欲望が、その生命の内から盛りあがってきて、人間生命として再生するための本源力となるのです。そのほかに、もし畜生界などが有力だと仮定すると、その本能的欲望の力が、再生する生命体の形態を決定するのです。
 さらに、二乗の洞察力とか、菩薩界の勇猛心などが加わる場合もありうるのです。こうして、一個の生命自体に渦巻く種々の境涯からの「如是力」がまざりあって、蘇生のための原動力をなすでしょう。つまり、一個の生命内奥から勧発する種々の力こそが、再生を呼びおこす本質的な「因」となるのです。
 北川 死せる生命体に渦巻く総合的な力――つまり「本因」――を、それに相応する「縁」がひきずりだすということでしょうか。たとえば、人間の受精現象が、人界を基底部とした死の生命を生の世界ヘと導きだすと……。
 池田 いや、そうではない。人間生命へと顕在化するための「本因」を宿した死の生命の「我」が、みずからの傾向性にもっとも適合した卵子と精子の結合をとらえるのです。そして、卵子と精子の結合という受精現象を「助縁」としながら、一個の生命体が、この世に出現するのです。
 この過程を、「総勘文抄」の文にあてはめてみると「内より勧発」するのは、死の生命体に宿る総合的な「如是力」であり、人間としての生命体を得るための「本因」です。「外より引導する」助縁となるのは、受精という現象です。
 内から発動する「本因」と、その顕在化を助ける「縁」が、たがいに相応し、そこに「精卵細胞」に即して人間生命が顕現するのです。
 北川 そうしますと、最初に出てきた問題にもどりますが、地獄界に色づけられた生命が、限りないほどの長期間にわたって死にとどまるのに対して、仏の生命は、死から生へとすみやかに転生していくその理由は何でしょうか。
 池田 地獄界の「如是力」には、蘇生への発動性が、非常に弱いといっていいでしょう。
 それとはまったく対照的に、仏界には、たとえ一瞬の死を迎えても、ふたたび生を取りもどす根源的な力がみなぎっている。「総勘文抄」には、仏界を強化しつつよみがえった生命の働きについて「自在神通の慈悲の力を施し広く衆生を利益すること滞り有る可からず」と記されている。
 この文の意味からすれば、あらゆる衆生を利益する慈悲の力こそが、死から生へと発動するもっとも強大な力であることが明瞭です。地獄の生命には、他に対して慈悲をおよぼすような余裕は、かけらほども認めることはできないでしょう。
7  北川 三悪道とか修羅界も、まだ、自己本位ですね。
 川田 私たちの生命が、どれくらい死にとどまるかは、もし転生した場合に、他の生命的存在に利益を与えうるか否かということを基準にすることによって、おおよその見当がつけられるということでしょうか。
 池田 前にもいったように、地獄の寿命が長いというのは、その生命に感ずる主観としての、いわゆる生命的時間の長さが中心であることを忘れないでほしい。しかし、それにしても、やはり客観的にいっても長くかかるのでしょう。
 戸田先生は「慈悲論」と題する論文で、「そもそも、この宇宙は、みな仏の実体であって、宇宙の万象ことごとく慈悲の行業である。されば、慈悲は宇宙の本然の姿というべきである」と述べられ、そのあとに「宇宙自体が慈悲である以上、われわれも日常の行業はもちろん、自然に慈悲の行業そのものではあるが、人たる特殊の生命を発動させている以上、人間は、一般動物、植物と同じ立場であってはならぬ。より高級な行業こそ真に仏に仕える者の態度である」(『戸田城聖全集第三巻』)と記されている。
 慈悲は、信仰者の本質であり、その行為は、生にあっては、宇宙の本然の姿と合一しつつ、万物の営みを守りぬき、死にあっては、新しい生への根源力となりうるのです。また、死の生命に脈打つ慈悲のエネルギーは、その発現にもっともふさわしい生命形態を獲得する力にもなりうるのです。こうした意味では、やはり、人間生命は、他の生物に比して、慈悲を行うにふさわしい色心をたもっているといえないだろうか。
 北川 私たちが、仏界を強化すればするほど、転生の力が増すのですね。
 池田 人界とか、二乗の境涯に内在する「如是力」も、とうぜん、転生の力、蘇生の力にはなりうるでしょう。本能的欲望なども、転生の力を秘めていないとはいえまい。だが、畜生界とか餓鬼界のみに執着しすぎると、再生した生命形態が、蟻であつたり、牛馬であったり、アメーバになることもありうる。
 動物も植物も、この地球上において、たしかに、宇宙の慈悲行を助けてはいる。しかし、知的生物としての人間の行為がなす慈悲行にはおよばないであろう。
 こうして検討してくると、やはり、仏界とか菩薩界が、もっとも強力な蘇生の力であり、しかも、その生命にとって崩れない幸福を築きあげる「本因」ともなることが判明するはずです。
8  川田 この項の最後に、もう一つ質問しておきたいことがあります。死にあって、地獄の苦悶のどん底にある生命体は、運命というか宿業にまかせるしか、仕方のないものでしょうか。
 池田 死の状態にある生命には、みずから自己を変革する力はありません。そのための手段としての機能の発動がないのです。
 川田 たとえばの話ですが、私自身に深い関係のあった人が、どうやら、あまりよい境涯とはいえない状態で死んでいったとします。どのように気をもんでも、もはやどうすることもできないのでしょうか。
 池田 仏法では、ただ一つ、死者の生命を変革する方途を確立しています。それは、死者がみずからの生命を変えるのでもなければ、死せる生命が、たがいにあわれみあうのでもない。生者の行為が、死者の生命に働きかけるのです。といっても、むろん、会話をかわしたり、食物を届けたりするのではありません。
 生きている者の、仏法定理にもとづいた行いが、死せる当体に、宇宙本源の力を吹きこむのです。つまり、仏界の「如是力」を、死の生命に与えるのです。仏法では、生ける者が、自己の生命の内奥から、慈悲と英知と勇気にみなぎった仏界をくみだす方途を確立している。このことは、十界論の仏界のところで話しあったとおりです。
 川田 私たちの仏法的行為が、宇宙森羅万象の本源に達し、そこから、仏の力を噴出させるのですね。
 池田 その宇宙本源の仏界を、こんどは、死者に向けるのです。
 生者の行為が、万物の源流から慈悲のエネルギーをくみだして、それを、死せる生命へと送りこむのです。こうした、生者から死者への働きかけを、仏教では″回向″とか″追善供養″と呼んでいる。
 北川 「優婆塞戒経」という経文には、「若し父喪し己りて、餓鬼中に堕るに、子為に追福すれば、当に知るべし即ち得」(大正二十四巻1059㌻)とあります。追福というのは、仏界の力を与えることですね。
 池田 そのあとに「即ち得」と書かれている。子どもの追善の行いが、父の生命に通じたとの意味でしょう。
9  川田 三悪道の苦にひたっている死者に、生者の側から、仏の慈悲力が与えつづけられた場合、どのような変化が起きるのでしょうか。
 池田 死せる生命には、自己変革の力がありませんから、みずからの行動を通じて、仏界をくみだすことはできない。
 しかし、生者の側から送りこまれた仏界が、その生命の基底部を揺り動かし、傾向性を変えていくことはできる。
 生きている私たちの周囲にも、みずから仏界を顕現させることによって、はつらつとした生命力を得て、みごとに地獄界や餓鬼界を脱出した人々の、変革の姿があふれています。
 同じように、死者の生命も、三悪道の苦を抜けて、人と天の境涯にいたるものもあるでしょう。そして、死の生命に力が満ちあふれてくるにつれて、転生の力、蘇生の力が増加し、自己に適合する再生の縁をとらえて、ふたたび生の生命を得るにいたるのです。
 北川 その場合、具体的には、人間的生を得ると考えられますか。
 池田 他の生命体に利益をおよぼすために、もっともふさわしい生命形態を獲得することはまちがいない。そのうえで、転生する生命体に固有な、二乗の智慧とか、菩薩界の勇猛心とか、人間的自我としての理性の光などが、万物を守りぬくための力として使われることになるのです。
 ともかく、仏教の″追善供養″は、不幸にして、苦悶の死におちいった生命体へとさしのべられた、覚者としての仏の救いであるといえましょう。だが、その救いの手は、あくまで生者の行為にゆだねられているのです。
10  人生観への反映
 北川 いままで「永遠の生命」をテーマとして、主として現世主義と対比しながら話を進めてきました。また、仏法の永遠の生命観と霊魂不滅説との違いについても論及してきたわけです。そして、かなり明瞭に仏法の永遠の生命観の根拠を確かめることができたと思います。
 そこで、この論議の結論として、どうしてもふれておかなければならないことがあります。それは、永遠の生命という考え方が、実際の人生の処し方にどのような影響を与えるか、ということです。いくら永遠の生命について私たちの主張を述べたところで、そうした生命観が現実の人生に反映してこないのであれば、いたずらに空理をもてあそんでいることにもなりかねないからです。
 池田 そう。この問題は本章の話しあいの冒頭にふれられるべきものでもあったといえるでしょう。ここではいままでの論議の内容をふまえたうえで、現世主義が人生行路にどのような指標を与えるか、また「永遠の生」という同じ考えに立ちながら、仏法の因果の法則と霊魂不滅の考え方では、いかなる人生軌跡の違いを生ずるかということを、対比しながら話を進めていってはどうだろうか。
 川田 それでは、まず現世主義のもたらす人生観ですが、もっとも普通的なものとしては、快楽主義と悲観主義があげられると思います。この二つは表裏をなしており、この人生を一回限りのものとして受け取るとき、もっとも容易に出てくる考え方といえそうです。
 池田 生が一回限りで、死によって一切が無になるならば、この生をどのように過ごそうと無意味であり、それならできるかぎり生を貪っておこうというのが快楽主義といえる。その反対に、この人生の快楽さえも儚いと嘆いて極端なペシミズムにおちいる場合がある。
 もちろん、それぞれ種々の複雑な発想がからまっていようが、一般的なものとしては、そう考える人が多いようだね。
 とくに現代人は、快楽主義と悲観主義の二つの発想をかなり濃厚な色彩でもっているようです。体制からの離脱という考え方も、体制そのものが具体的な抵抗の対象としてとらえられているのではなくて、現実社会のどうしようもない虚無感、それをもたらす象徴としての体制を、漠然と考えている場合が多いのではなかろうか。現世主義のもたらす弊害の側面が、深いところで渦巻いているように考えられるね。
 しかし、ひとくちに現世主義といっても、底の浅いものと深いものがある。この世の生を一回限りのものと考えても、そう認めたうえで、なおかつ貴重に生きる、というより、であるからこそ大切にし立派に生きようと努めている人もいる。
 みずからの仕事が子孫末代、ひいては人類全体に寄与する何ものかがあると信じて、全生命をなげうってでも自己の使命に直進していく人がいる。死を恐れるのは生あるものの本能的発想だが、それ以上の価値を自分の仕事に認めているのだね。
11  川田 哲学者、あるいは真理の探究に一生をささげた人々、また医学等をもって人々を救うことに真摯に生きぬいた人々のなかには、そのような境涯にまでいたった人もいます。
 たとえば岸本英夫氏(宗教学者。一九〇三年〜六四年)は、「世界を忘れ、人間を忘れ、時間を忘れたかのような境地に没入するとき、人間の心の底には、豊かな、深い特殊な体験がひらけて来る。永遠感とも、超越感とも、あるいはまた、絶対感ともいうべきものである。この輝かしい体験が心に遍満する時、時の一つ一つの刻みの中に永遠が感得される。現在の瞬間の中に、永遠が含まれている」(『死をみつめる心――ガンとたたかつた十年間』講談社)といっています。
 現在の一瞬を大事にすることにより、そこに永遠のものを見いだすことができ、みずから永遠のなかに生きていることを感得できる、と一つの境涯を吐露しているわけです。
 池田 明治の文豪、高山樗牛(評論家。一八七一年〜一九〇二年)も、ニュアンスは違うが、みずからの仕事のなかに、自分が生きつづけることができると信じ、それを全うすることに命を賭けたのだね。たしかに、その真摯な人生への態度は立派であるし敬服に値する。またその結果得た境涯も、一つの確たるものがあったことはうかがえる。
 しかし、恩師戸田先生もいわれていたことだが、それは人生への態度としてはすばらしいことかもしれないけれども、普遍的な人生観としては納得しがたいものがあるといわざるをえない。
 それぞれの境地に達した一握りの立場の人たちはそれで満足できても、庶民の感情としては、特殊な境涯と思われる。
 北川 大多数の人々にとっては、そのような崇高な考えをもとうと思うよりも、現実社会における種々の煩悩のおよぼす力に影響されるほうが先ですからね。
 池田 そう。一回限りの生ということを明確に認識するようになればなるほど、煩悩の火は強いものとならざるをえない。抑えようとすればするほど、ますます欲望は強くなり、理性や良心を吹き飛ばしてしまうものだ。
 結局、一回限りの生だから立派に生きるということは、貴重な尊い人生観であるにはちがいないが、一般の煩悩多き人間に、死を乗り越えさせるだけの力をもたらすことは、きわめてむずかしいことではなかろうか。
 北川 また、たとえそのように割り切っていたとしても、いざその場に直面すると、その執着が異常なほど高まっていくということも考えられますね。
 子どものとき、夏休みが終わり近くなり、もう夏休みは来年までこないのかと思うと、無性に寂しく感じたことがありますが、それとは比較にならないものがあるのでしょう。フランスのモンテーニュ(思想家。一五三三年〜九二年)は「庶民の持薬はそれ(編注・死)を考えないことである」(『メンテーニュ随想録 第一巻』関根秀雄訳、白水社)とさえいっています。
 川田 それから、そうした考えをもつ人の特徴として、死の恐怖を極端に強く考える場合と、逆に死の誘いに引きずりこまれやすい人もいるようです。みずからを抹消することに強い誘惑を感ずる。いわゆる「死の衝動」というものが、本来人間にそなわっているのですが、それは裏返していえば、じつは生命の魔性の一つではないかと思うのです。
 池田 文学者などでも、死の誘惑に引かれる人は多いようだね。
 利己、貪欲という生命の魔性は、第六天の魔王の働きだが、それは私たちの日常生活を振り返ってみると、あらゆるところに巣食って生命を破壊する働きを示している。その最たるものが、生命を殺傷することです。
12  北川 みずからの仕事の完成を、死をもって明瞭にするとか、老醜をさらすことを恥辱と考えて、みずからを死に誘うというのは、かえって自己の生の価値を狭め、また断ち切ってしまうことにもなりかねませんね。
 池田 仏法では、このような「一回限りの生」という考え方を「断見」といって、偏った考え方としてしりぞけ、「輪廻」の思想を打ち立てたのです。しかし、ひとくちに永遠の生命といっても、そこには千差万別があり、発想によっては、かえって生を粗末にすることさえある。
 川田 たとえば、死後に天国といったものを設定すると、それで現在の生が充実するかというと、逆の場合も起こりうる。生を充実させることよりも、死への傾斜が強くなってしまうわけです。
 念仏の極楽往生の考え方がよい例ですね。西方に人類の理想とする桃源郷を設定して、それを渇仰させることにより仏法への心を起こさせようとして、かえって現実世界を「穢土」と卑下せしめ、民衆をして死を希求させてしまいました。念仏がもっとも広まった時代に、自殺者が急増したという事実がそれを物語っています。
 北川 それから、先ほど話の出ました「断見」に対して「常見」という考えも、一種の偏見ですね。
 たとえば、未来世においても、人は人に生まれ、犬は犬に生まれる。したがって、いかなる善業を積んでも、来世に善処に生まれることはないという考えが「常見」には含まれていますが、もしそうならこの世で努力をしても同じことだという、一種のあきらめ、あるいは安易感が生みだされ、結局、現在の生を貴重なものとして開発していく作業への発条とはならないわけです。
 池田 それは、根本的には生命の輪廻を、平面的なものとして考えているのです。平面上に書いた円のように、その上をぐるぐる回るのが輪廻ならば、いつかはまったく同じ所にもどってくる。ということは、現在の自分と同じ姿、境涯の自分が再現されることになる。とすれば、努力も何も必要ないではないか――ということになりかねない。
 ニーチェの永劫回帰の思想では、そこのところをどう乗り越えるかに苦慮したわけだが、私は生命の輪廻というのは、そのような平面的なものとする考え方ではなく、もっと立体的なものであると考えたい。円のように回転はしながらも、上下に展開する「らせん」のようなものとでも表現すればよいだろうか。
 永遠の生にはぐくまれながらも、そこに発展性をおびているのです。その立体的、動的な永遠の生命観をもたらす軸となるのが、因果論ではないだろうか。
 つまり、輪廻という考えに立ちながらも、みずからの生命のなかに、因果の法則がつらぬかれていると説くことによって、現在の因が未来に果として顕在化することを知り、現在の生を大切にし、しかも前向きに生きていくことができるのです。
 現在の生と断絶したところに未来の生があるのでもなければ、まったく同じ平面に未来の生が再現されるのでもない。現在の生の処し方の一つ一つが重要な因となって未来の生を決定し、醸成していく。
 しかも全体として把握するならば、永遠の生という、雄大な輪環を形づくっているのではないかと思う。このような永遠の生命観に立てば、人生観はどのように開けてくるだろうか。
13  川田 まず第一に、死というものを「本有」の現象として引き受ける勇気がわきでることでしょう。それは決して死を忘れようとするのではなく、またいたずらに恐怖するのでもない。生死ともに本来そなわっている生命輪廻の一つの現象と悟ることによって、かえって従容として生にも死にも直面し対決することができると思います。
 第二に、そのゆえに、現在の生をより大事にし、また自己の責任のもとに生きることができる。現在の自分の行動が未来の生を決定づけつつあるわけですから、自分を磨き、充実させ、宿命を転換しようとする生き方となってあらわれてくる……。
 北川 また利他の実践に生きることが、みずからの生命の形成にも不可欠のものとして、切実になってくるともいえます。国土世間を変革し、寂光土に仕上げていくことが、そのまま未来の自己を守ることになるわけですから……。
 池田 それだけではない。第三に現在の作業の一つ一つがみずからの栄養分となって蓄積され、それが現在の生の終わりによって雲散霧消してしまうのでなく、そのまま蓄積されて自己を拡大させていくのだから、現在の生を最高に謳歌して生きていくことになる。
 さらに、煩悩との戦いだけれども、煩悩と真正面から対決し、さらに進んで、煩悩を自在に駆使し、菩提へと変革しつつ、生命の昇華に用いていくことも可能になってくる。快楽主義やペシミズムにおちいることを防いでくれるわけです。
 しかもこのような生命観をもつことは、決して一部の知識階級しかなしえないなどというものではなく、すべての人々が、確たる人生観に立脚し、現実のこの人生を謳歌しながら、なおかつ真摯に歩みを進めることができる。このようなところに、仏法の永遠の生命観の優れている所以があると思う。
 北川 仏教の永遠の生命観というと、非常に虚無的な色彩が濃く、死の準備のための思想という受け取り方も一部にあるようですが、そうではなく、この現実の人生をもっとも深い意味で楽しみきって生きていく道を教えた宗教である、ということを認識する必要がありますね。
 池田 そのとおりです。たとえば、浄土宗等においては、この世は穢土であり、人生は一切が無常であると説いて、西方十万億土の極楽往生を教えた。そうした現世をはかないものとする思想が、仏教を暗いものとして受け取らせた要因の一つとなっていたでしょう。
 しかし、「法華経」の「衆生所遊楽」の一句をみてもわかるように、この世界は、本来衆生が、悠々と生を楽しみ遊戯しきっていくべきところである、と教えている。
 それには永遠の生命観を、幾多の生老病死との対決を通して勝ちとった真実の生命観であると確信し、現実社会と取り組み、その無限の展望に立って、現在の利他の作業に汗していかねばならないと思う。
 その確たる人生基盤を構築したとき、一つ一つの苦難が底知れぬ生の歓喜をもたらす栄養源となり、自己の完成、社会の変革につくす汗の一滴が、そのまま不動の人生行路を切り開く水源となっていくのです。
 私たちは対話を終えるにあたって、この雄大な生命観をすべての人々の胸中に息づかせていくことこそが、病める現代文明を蘇生させ、来たるべき二十一世紀を、生命躍動、生命勝利の世紀としていくカギになると確信し、今後もその至高なる作業をつらぬいていくことを誓い合っておきたい。

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