Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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永遠の生命〈1〉  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

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16  北川 私たちが生きているときでも、地獄の苦悶に責められていますと、他の人にとっては楽しい場所であっても、その楽しさを味わう余裕はないばかりか、すべてが苦悶を増す縁にさえなりかねません。
 池田 その人の生命状態に応じて、環境も十界の変化を示すものです。それでも、生きているときには、地獄界を基調としながらも、種々の縁に対応して、他の境涯をもあらわしうるだろうが、死は、その生命を基底部に縛りつけてしまうのです。
 たとえば、地獄界を基調とする生命も、生きているときには、少しは楽しいこともあったにちがいない。ところが、死の状態においては、宇宙全体が苦しみの暗雲に覆われたようになり、地獄の責めがとどめようもなく襲いかかってくるのです。いいかえれば、全宇宙が地獄と化し、個の生命を責めさいなむのです。ここまでくれば、自己の生命に地獄を実感するというよりも、宇宙生命の地獄界のなかに自己を感じると表現したほうが、真実に近いようです。つまり、私たちの生命自体が、宇宙の地獄界の分身となるのです。
 川田 他の境涯についても、同じように推理をすすめられますね。
 池田 日蓮大聖人の「曾谷入道殿御返事」にも、一つの例として「例せば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随つて別別なり」と明記されている。
 人界の生命が水と見、天の境涯では甘露と映る恒河の水を、餓鬼の生命は、自己を焼きつくす貪欲の火と感ずるのです。これは餓鬼、天、人を代表として述べられているが、この原理は、他の地獄、畜生、修羅また声聞以上の四聖についても、同じことがいえるわけです。
 川田 六道は外界からの縁によって感ずるものですから、能動性を失った死の生命においても感ずるということは理解できます。しかし、声聞以上の四聖はみずから能動的に開拓することによって得られるものですから、能動性を失っている死の生命においては、どのように考えたらよいのでしょうか。
 池田 実感し、体得するのです。二乗界の生命の「我」は、死とともに、宇宙に見いだされる法則そのものとなるからです。つまり宇宙をつらぬく無常という法則の分身が、二乗を基底とする死の生命なのです。さらに菩薩界にいたれば、みずからが融合した国土のすべてが、慈悲を行う実践の道場と化すのです。
 菩薩の生命は、宇宙生命の菩薩界と合一するはずです。宇宙の菩薩界の体内に入れば、国土にみなぎる抜苦与楽の慈悲力を会得するでありましょう。もし、ある生命が、仏界をはぐくみつつ死におもむけば、宇宙生命の源泉であり、万物を支える根源の当体に合流するでしょう。
 そのような生は宇宙の森羅万象の流転を、仏の所作と見ることができるのです。それは、自己の生命が寂光土としての国土自体になっているからです。
 仏界の生命は、死の状態のままで、灼熱の大地の底にも、極寒の氷山の奥にも、荒れ狂う大海の基底にも、さまざまな欲望とエゴが交錯して充満する人間社会の中にも、四季を織りなす自然の法のなかにも、宇宙生命のかぎりない英知と慈悲の発動性を会得するのです。

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