Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

永遠の生命〈1〉  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

前後
1  「有情」から「非情」ヘ
 川田 いまも記憶に新しいことですが、一九六七年(昭和四十二年)の暮れも押しつまったころ、南アフリカの病院で、世界最初の心臓移植手術が行われました。執刀者は、クリスチャン・バーナード博士(南アフリカ共和国の心臓外科医)です。
 角膜とか、血管とか、腎臓などの移植はそれまでにも数多くなされていたわけですが、心臓移植には、他の移植手術とは違った意味での課題が含まれており、そのため、この手術は非常に大きな関心を集めたのです。
 池田 心臓移植ともなれば、人間の生と死という根本的な問題がからんでくるということだね。
 川田 ええ。腎臓の場合ですと、私たちの身体には二個ありますから、一個を取り出しても、それで、生を断たれるわけではありません。
 ところが、心臓の移植は、一人の人間の死を前提にして初めて成立します。心臓を提供したほうの人は、ふたたび、生を営むわけにはいかないからです。そのかわり、新しい心臓を受けいれた生命体は、途絶えかけていた生の鼓動をよみがえらせることができます。ここに、心臓移植のねらいがあるのですが……。
 池田 死んで間もない人の心臓によって、心臓を病んでいる人を死から救おうという医学者たちの目標とするところはよく理解できます。
 しかし、注意しなければならないのは、もし仮に、その死の判定が誤っていて、死を迎える以前の生命体から心臓を取り出すことが起きたとしたら、これは大変なことだ。しかも、この死の判定ということは、じつはきわめてむずかしい。
 北川 合法的な殺人行為にもなりかねません。
 池田 そのとおりです。一方で提供者の死の判定を誤り、そのうえ手術が失敗に終わったという最悪のケースを想定すると、その手術は、提供者と受容者の、二つの死を招いたということになってしまう。移植される心臓が、まだ十分に機能を果たせる新鮮なものであることが要求される心臓移植は、まず第一に、人間の死とはいったい、どこで判定されるベきかという問題をあらためて提起しているわけです。
 そこで、まず、医学では死をどのようにとらえているのだろうか。
2  川田 私自身、医学を学んでいますが、じつは、そこのところが、私も疑問なのです。医者が死を知らないというと、不思議に思う人もいるでしょうが、どの医学書をひもといてみても、死を定義した個所はないのです。それどころが、どういう現象が起きれば死と考えるか、ということすら明確ではありません。ただ習慣的に心臓の停止、呼吸の停止、それから瞳孔反射が消失すること、これらが死の判定のための条件とされているだけです。
 したがって、一般の医者は、聴診器で心臓の鼓動を聞き、脈博をはかり、そして、懐中電灯を点灯させて瞳孔反射を調べます。すべてが消失していると、死の宣告をします。
 北川 バーナード博士は、脳波をとって、その消失をもって死と考えたのですね。いわゆる心臓死説に対して脳死説と呼ばれています。
 川田 皮肉な見方をしますと、心臓が止まってしまったのでは、心臓移植は不可能です。できるだけ新鮮な心臓を得なければならない。そこで人間が死んで、なお、心臓が動いている状態となりますと、脳死説をとらざるをえないのです。
 池田 大脳皮質の脳波がいったん消えたとしても、ふたたび正常な生命活動にもどるというケースもありうるでしょうね。
 川田 脳の専門家が、脳死説に反対するのは、ほとんどの人たちが、脳波がフラットになって以後、立派に生きかえった実例を体験しているからです。一つだけ実例をあげますと、東京・虎ノ門病院でのデータがあります。脳波がフラットになった患者、十五人のうち、そのまま死亡したのは十人で、あとの五人は、脳波がふたたび復活したというのです。そのなかの二人は、いまも元気で働いているとのことです。
 池田 たとえ百人に一人でも、蘇生した実例があったとすれば、その復活の可能性の道を閉ざすべきではない。私は、そう考えるのが正しいと思う。まして十五人中五人、三分の一という虎ノ門病院でのデータを考えるなら、脳波が消失した時点をもって、人間の死と定めるのは、あまりにも早計すぎるといわざるをえません。私には、現在の段階における″脳死説″は、もっと厳密な基準が示されないかぎり、人間の死についての十分な理解にもとづいているとは、とうてい考えられないね。
3  北川 ところで、いま話しあってきたことは大脳という部分的細胞の死のことですが、ひろく身体全体をみた場合、個々の細胞は絶えず生死を繰り返しているわけです。そうした個々の細胞の生死と、私たち自身の生死とは明らかに異なっていますね。
 池田 皮膚の細胞などは、毎日入れかわっているでしよう。
 川田 それから、胃腸とか呼吸器の粘膜細胞も激しい新陳代謝を行っています。肉体の全部をとりますと、毎日、何千万という細胞が死に、新しいものが生まれている計算になるそうです。もし、六十兆にもおよぶ全身細胞とともに、人間生命が生死を繰り返すとすれば、忙しくて目がまわりそうです。
 池田 根本的にいうと、私たちの身体を形づくっている個々の細胞が生死を繰り返すからこそ、人間生命は生をたもちうるのです。莫大な数の細胞の死が、私たちの生を支えているとも表現できましょう。
 北川 極端な場合には、胃潰瘍とか、癌などは、外科的に除くことによって、かえって、全体の生命を守る……。
 川田 手足でも、肉腫などの悪性のものができますと、その付け根から切り落としてしまう場合があります。残忍なようですが、そうしなければ、私たちの生をたもつことができないからです。
 池田 あくまで、人間生命の生と死は、生命全体の問題であって、個々の部分の生死とは別のものである。――この点をまずはっきり認識しなければならない。
 したがって、私たちが「生きている」とは、身体を形づくっている細胞とか臓器などの生死を包含しながら、それらの営みを統合し、秩序だてて、全体としての生を創造している事実をさしていると考えられる。いいかえれば、身体を統一する生命自体の働きが、活力に満ちて全身におよんでいる姿こそ、生きていることの証なのです。
 北川 そうした統一体としての生命体は、その生を維持するため、外界にも積極的に働きかけていきますね。
 池田 生命のもつ能動性です。この統一性と能動性は、紙の表と裏のような関係にあり、統一のとれた生命的存在ほど、能動的な営みを持続することができます。
 北川 とくに人間の生命は、精神作用も活発ですね。喜怒哀楽の感情を織りなし、種々の欲望とか衝動のエネルギーが渦巻いています。さらにそのうえに知性とか理性が発達をとげ、知識や思想を受けいれたり、外界の様相を認識したり、また、自己の生き方を反省したりします。
 睡眠時は、覚めている状態とは違いますが、それでも、夢を見たり、寝ごとをいったり、新しい発想がはっと浮かび上がることもあります。意識の部分は眠っていても、その底にある無意識の心が、かえって生き生きと働いている場合があります。
 池田 人間の生命における「生」の証は、色心両面にわたるものです。しかも、身体と心は、相互に精妙な関連をたもちながら、内的な統一性と外界への能動性を高め、創造的な調和をかもしだしている。こうした「生」の現象を、仏法に説く「三身論」に照らしてみると、細胞を形成し、その生死や物質の新陳代謝を織りこみつつ、全体としての身体を統合し構成していく、その働きをさして、「応身」と呼ぶことができるでしょう。
4  川田 そうしますと、「応身」とは肉体である、ということはかならずしも適当ではないわけですね。
 池田 そう。肉体そのものというより、生命の物質的側面――つまり肉体を形成し、営んでいる働き自体を「応身」とするのです。細胞、臓器などは、それ自体が一個の生命体です。だから、生と死を繰り返すのですが、人間生命は「応身」によって、これらの生命体を統合して、人間の身体となすのです。
 川田 すると、「報身」とは、知識とか思想とか、記憶そのものをさすのではなくて、知識を吸収し、記憶をとどめ、感情とか衝動をつき動かす心の働きを意味すると考えられますね。
 池田 そうです。そして、こうした「応身」、「報身」となってあらわれる生命内在の発動性の中核を、「法身」と名づけるのです。「法身」を現代用語で表現すれば、生命の「我」、もしくは、生命の「核」といえましょう。
 天台大師の『摩訶止観』には「境につくを法身となし、智につくを報身となし、用を起こすを応身となす」(大正四十六巻85㌻)と記されている。この文からすれば、生命を客観視して、本体をとらえた場合は「法身」です。つまり、肉体と精神の働きを起こす発動性の「核」を「法身」とするのです。
 「報身」は、心法にそなわった智慧であり、「応身」は、色法の織りなす身体活動といえましょう。私たちの生命には、「法身」、「報身」、「応身」の「三身」が、渾然一体となって常住し、ありとあらゆる活動を織りなしているのです。
 川田 「三身論」に照らした場合の「生」の姿はよくわかりました。
 次に、いままでの考察を基盤にして、具体的な実例に即して、死の問題を考えていきたいと思います。たとえば、″植物状態″のように、大脳皮質は重篤な障害を受けながら、身体各部の細胞や器官は活動しているという場合、この人は、生きているのでしょうか。それとも「死」と考えるべきでしょうか。
5  池田 そのまえに、よく話題になる「脳死」と「植物状態」の違いを明確にしておく必要があります。脳死は全脳機能の不可逆的停止といわれるように、脳全体がその機能を消失しており、しかも回復することはない。対して、植物状態では、脳幹や大脳辺縁系といわれる部分の脳の働きはまだ残っているわけです。
 したがって、植物状態にもその障害の程度の差はありますが、少なくとも心臓や呼吸機能が調節されていたり、外部からの刺激に対し多少なりとも反応を示すわけです。
 ですから、とうぜん、植物状態は「死」とはいえないでしょう。重篤な場合であっても、高度な精神作用などは死に直面しているといえるかもしれませんが、身体全体としては、まだ「生」の領域にある――ということでしょうね。
 生と死は、ある時点で、一瞬のうちに入れかわるものではありません。私たちの生命は、生から死ヘと、徐々に移行していく。もっと正確には、生を営む生命主体の内部から死の影が浮かび上がってくる、ともいいあらわせましよう。そうしたメカニズムを理解するための類推のヒントは、自然界の営みのなかにもいくらでも見いだせるのではないだろうか。
 たとえば、砂漠のなかにオアシスがあったとする。オアシスの中心部には、豊かな水源があり清浄な水が周辺をうるおしている。それによって、緑の木々が生え、草花が咲きみだれ、小さな動物たちが生を謳歌しているであろう。オアシスの「生」の姿です。
 ところが、泉からの水の流出が途絶え、ひからびてしまったとする。時が経つにつれて、草木が枯れ、小動物も死に絶え、オアシスはあとかたもなく消え去ってしまう。かつて、オアシスの存在したところには、砂漠の熱風が吹き荒れるばかりである。
 いま、オアシスを一つの生命体ととらえよう。水源からの水に支えられて、草木は季節の推移をあらわし、小動物は親から子へと代々入れかわりつづいていく。つまり、オアシスという全体の生のなかに、個々の生の営みがたもたれていく。
 北川 人間生命との類似点を考えますと、動植物は、細胞とか、器官に相当するわけですね。
 池田 水源は、生命の「核」であり、「法身」にあたります。そこから流出する清水は、色心にわたる統合力であり、その機能をつかさどる能動的な働きを意味しています。つまり、「応身」と「報身」です。
 そうすると、人間生命の死とは、オアシスをうるおし、支える水源からの清水が衰え、やがて途絶えてしまうという現象に比することもできるのではないだろうか。まあ、これも、一つの譬喩にすぎないが、生死を思索する参考にはなるでしょう。
 さて、本筋にもどって、植物状態の人間における「三身」について検討してみることにしたい。
 川田 植物状態では、主として大脳皮質の活動を反映するといわれる脳波が、流域に近い場合が多いようです。そこから考えられることは、私たちの知性とか感覚とか、また運動の司令センターという大脳皮質の働きは非常に低下しているということです。
6  北川 しかし、個々の脳細胞まで死んだわけではないでしょう。
 川田 一つ一つの脳細胞はまだ生きています。ですから、ふたたび人間としての精神活動をよみがえらせる可能性もあるのです。ただ、そうした何十億という脳細胞を統一し、連合させる力は、とくに大脳皮質では、ほとんど失われているといってよいかもしれません。
 池田 大脳皮質自体についての「応身」の力が弱まっている。また、生命自体で考えても、大脳皮質という部分で失調が生じているのであるから、「応身」の力は低下しているといえます。元気な生命活動を営んでいるときには、とうぜん「応身」の統一性は、前頭葉をはじめとする大脳皮質全域に浸透している。ところが、植物状態では、「応身」の統一カというか、発動性が弱まって、大脳皮質への影響力がおよばなくなっている状態でしょう。
 北川 オアシスの例で説明しますと、源泉の噴出力が衰えて、生命をうるおす水が途絶えかけている。泉から少しはなれたところにいる生物にまでは届かない状況のようですね。
 池田 生命の「我」は、それこそ渾身の力をふりしぼって、色心への発動力を高めようとしている。しかし、色心の統一性は、大脳辺縁系や脳幹ぐらいまでにはいきわたっているものの、それ以外の脳の部分へは、その現実の影響力を与えることができない。いわば、植物状態の人間の「我」は、かろうじて脳幹でふみとどまって生きようとしているのです。必死になって「生」の力を回復しようとしているのだと私は思う。
 ゆえに、植物状態の生命は、死に追いこまれつつも、生へ向かおうとしているのではなかろうか。
 川田 私も同意見です。外面的には、死の様相を示しはじめていても、身体内部での「生」への志向を無視してしまうことは許されない気がします。
 池田 「応身」は「死」と戦っている。同じように、「報身」も、迫りくる死の影に立ち向かっているはずです。
 北川 植物状態の場合、意識的な働きはほとんど途絶えているといえるでしょうが、その場合の「報身」とはどのように考えたらよいのでしょうか。
 池田 すでに議論したように、「報身」とは、知識を吸収し、それを記憶としてとどめたり、感情や衝動をつき動かす心の働きということです。いわば、外界を意識し認識するという統合力と、言葉や運動を通して外界へ働きかけるという能動性を意味している。
 その中心的な働きは「意識」といえるでしょう。医学的に意識を考える場合、それは脳幹によって支えられ、大脳皮質を基盤としてあらわれるといわれている。植物状態では、「応身」の力は、大脳辺縁系や脳幹あたりまでしかおよんでいないのだから、「報身」の力もそれ相応のものとなることが考えられます。ちょうど植物の生と同じように、いかなる感情も、色心にあらわすすべを知らないかもしれない。いや、喜んだり、悲しんだり、怒ったりする心の波立ち自体が、意識の領域から消滅し、意識から無意識の底へとしりぞいたりしているのかもしれません。
 また、逆に、そうした喜怒哀楽をふだんはなるベく抑制している大脳皮質の働きが弱まっていることを考慮すると、表現こそされないものの、むしろ鋭敏になっている可能性も否定できないでしょう。
7  川田 しかし、意識の世界への波立ちは消えても、無意識界には、意識からしりぞいてきた欲望とか、衝動とか、情念とか、知性の働きなどが、一つの心的なエネルギーとなって渦巻いているというふうに考えられます。
 池田 そうです。たしかに、欲望とかを、感情として意識することはない。植物的な生にまでしりぞいたとはいえ、さまざまな心的内容を含んで、「報身」の働きは、生命の内奥での脈動を放棄することはないのです。さらにいうならば、「報身」の働きが、すべて宇宙へ融けこんだあとでも、その生命の奥底には「生」を志向する衝動がみなぎっているであろう。生存への衝動は、生命それ自体の本質的力としてつきまとっているものだからです。
 ある生命体は、思いもしなかった「生」への衝動に身を焼かれる実感を味わっているかもしれない。また、他の生命は、死におもむく自己の身体を凝視して、無念の「思い」にかられているかもしれない。あるいは、生命飢餓感におびえ、見知らぬ世界へと旅立つ不安におののいている生命の「我」もあるでしょう。こんどは逆に、あらゆる感情や衝動の嵐がしずまったあとで、充実した自己に満足している生命主体もあれば、生死の恐怖を乗り越えて、不動の信念に立脚しているものもありうる。
 このような感覚は、肉体的な痛みとも、精神的な悩みとも、悲しいとか憎いなどの感情とも異なっている。それは、すべての意識作用が無意識層に沈着したあとでわきおこるものであり、生から死へと移りつつある「応身」と「報身」を引き受けて、生命の奥の「我」が、何ものに左右されることもなく、みずからいだかざるをえない実感なのです。「法身」のいだく生命感、とでも表現できよう。
 北川 少し、話がさかのぼりますが、いま、ふっと思い出したことがあります。松田道雄氏(小児科医)の編集・解説された書物のなかで『死――私のアンソロジー7』(筑摩書房)と題する論文集があります。そこに、作家の小林勝氏の文章が載っているのですが、「死の幻影」とタイトルがうたれています。死の影を見、それを具体的に感じた体験の記録です。作家だけあって、読みやすく、しかも、じつになまなましく再現しています。(以下、同書を参照)
 内容は、手術台にのぼり、苦痛の果てに現出する情景なのですが、身体がこなごなに割れて、すっと飛び始めるのを感じた。そして、果てしない空間をとてつもない速さで飛んでいく。暖かい地球を離れて冷たい無限の宇宙空間を飛びつづけていく。前方に広がる宇宙空間は、うす青い色から濃青に変わり、黒々とした色につづき、そのきわみに死があると思った――というのです。
 池田 この体験は、小林勝氏が宇宙の構造についての天文学的知識をもっていたからこのように感じたのだとも考えられる。これがすべてに共通するものだとはいえないでしょう。
 昔からいわれる三途の川とか、地下の黄泉にくだっていくという話も、おそらく、なんらかの体験的なものが反映されていると思われる。しかし小林氏の体験はそれらを思索するうえで重要な例と考えられるし、現代人にはむしろこのほうが感覚的には合っているようだ。
8  川田 この体験にも関連しますが、「生と死」のところで、池田先生のあげられたイギリスのゲッデス卿の実感では、肉体にともなう意識が分裂していくとありましたね。
 池田 それを感じている意識がある。この後者のほうの意識は、意識といっても表面的なものではなく、生命内奥の「我」のいだく実感と考えたほうがよい。「法身」のいだく実感というか、一種の「思い」が、肉体に即した意識の分裂をつかみとったのでしょう。
 まず、大脳にともなう意識が分かれ、それから、心臓とか腎臓とか胃腸などが分かれていくのを感じている。「応身」の統一性が失われていくプロセスを、生命の「我」が見つめているわけだ。
 北川 小林氏は、それを身体がこなごなに割れる、と表現したのでしょうね。
 川田 ゲッデス卿は、より大きな生命の流れに合一していくと述べていました。
 池田 人間生命の「応身」の力が衰えることによって細胞や臓器にともなう意識を切り離しながら、地球と宇宙そのもののなかに流れ込んでいくのです。ちようど、オアシスをうるおしていた泉の清水が、その噴出力の衰えとともに、砂漠の地底を流れる地下流へとしりぞいていくことにもたとえられましょう。「応身」ばかりではなく、「報身」も、「法身」を中心に渾然一体となりながら、そのまま、宇宙生命に合流するのです。
 北川 そうしますと、小林氏がいだいた、無限の宇宙空間を飛んでいくとの実感は、宇宙生命に融けいる自己の様相をあらわしたものと考えられますか。
 池田 そう考えられます。生命は、死によって無に帰するのではなく、個体から、さらに広大な地球、宇宙へと合流していくと考えるべきでしょう。その様相は、次のようなたとえから思索すれば、やや明瞭になるのではないかと思う。
 本書の「身体と心」の章で、私は、人間生命の状態を、大海に浮かぶ氷山にたとえました。氷山の海面から出ている分野が、意識的な精神作用とそれにともなう身体の働きを示しています。海面下には、無意識の層が広がっています。
 さて、死とは、この氷山が溶けていくようなものではないだろうか。生命の海に、すっかり溶けこんだ状態を、死と想定できましょう。もはや、氷山は、海面上に出ていた部分も、水の中に隠れていた領域も、すべて消失している。だが、無に帰したのではなく、生命の大海と一体となっているのです。
9  川田 ところで、小林氏は、そのときの実感を、自分も、地球も、宇宙空間も冷たいと述べています。冷えていくという感覚は何を意味するのですか。
 池田 仏法では、あらゆる生命的存在を大別して、「有情」と「非情」とに、分類しています。
 「有情」とは、文字どおり、情のある存在であり、情熱、情念、感情を有し、意識的精神作用を営む生命体です。人間生命は、この「有情」としての働きをもっとも鮮明にそなえているといえる。これに対し、「非情」とは、意識とか感情などが生命の奥に潜在化した生命体です。植物などは総じて「非情」界ですし、無生物は「非情」そのものです。
 おそらく、小林氏の生命状態は、「有情」から「非情」へと、移っていったのです。こうした推移を生命の「我」は、冷たくなると実感したのではないだろうか。
 ともあれ、私たちの色心は、みずからが「非情」と化すとともに、「非情」としての宇宙――つまり、物理的な宇宙――に合流していくのです。
 冷たい地球、冷たい宇宙空間とは、まさに、物質としての星とか、空間を意味していましょう。植物的生を経て、物質にまで還元されていく人間生命は、「非情」そのものとして、「非情」の宇宙に合一するのです。
 北川 もう一度、先ほどあげました小林氏の体験にもどりますと、そのつづきがあるのです。
 冷たくなっていく自己には、どのような人間的感情も存在しなかった。寂しいとか辛いとか、悲しいといった感情は一切消滅していた。だが、ただ一つ残っていた「思い」がある。それは、何ともいえない無念さであった――というのです。
 池田 ほう、すべての情が消滅したあとで、かえって鮮明に浮かび上がる「法身」のいだく生命感ですね。
 北川 まさに生を終えんとするそのどたん場で、初めて愕然として、言いしれぬ無念な思いをいだいて死に突入するほど、凝縮された絶望はほかにはあるまいと思えるのである、とも記されています。
 池田 痛いほどよくわかります。辛さとか悲しみなどがなかったということは、それなりに正しい人生を生きたゆえだと考えられる。しかし、そうした無念さとは、いったいどこから出たものだろうか。
 北川 どうやら、氏は、あの宇宙の涯にいたれば、個としての生命は永久に消滅してしまう。生は一回きりだと信じておられたのが、この無念さの根源のようです。
 池田 なるほど。どれほど立派に生きた人でも、これで一切が終わりだと信じていれば、後悔の念、無念な思いにとらわれざるをえないということでしょうね。まして、人生を中途半端に生きてきた人にとっては、「有情」から「非情」への道は、それこそ、断腸の思いにかきむしられるのではないかと思う。
 小林氏が、もし生命が永遠であることを信じていれば、無念さというものはなく、かえって、充実感とか、安らぎの心に満たされたものになっていたこともありうるでしょうね。
 川田 たとえば、私たちはいま、永遠の生命について話しあっています。また、他の場所で、生命が輪廻することを学んだとします。こういったことは、現実に、死に直面した場合、無念さを振り払う力となりうるのでしょうか。
 池田 たんなる知識としてではなく、自己の生命に刻みつけた思想、哲学は、死の恐怖と対決し、絶望と戦う力となりうる。しかし、真に血肉化した哲理でなければ、「有情」から「非情」への道程でこなごなに砕け去り、何の力にもなりえないだろう。
 北川 たびたび、小林氏の体験を出すようですが、氏も、自分が獲得し、自分を支えていると思いこんでいた思想が、もし血肉化されたものでなければ、想像を絶する肉体の破壊の威力のまえにそのような借り物はいっさい粉砕されつくす、といっております。
 池田 そのとおりでしょう。自分自身の確たる信念と化した体験、思想、哲理のみが、生から死への試練のなかで生き残るのです。もし、私たちが永遠の生命を、自己の骨髄に打ち込むことに成功すれば、死と対決するための、これほど有力な武器もないでしょう。
 私たちの永遠の生命への思索が、学問的な遊びでも、知識を増やすだけでもないことを、心から願っていきたいものです。
10  死と生命の「我」
 川田 日蓮大聖人の「総勘文抄」には「此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好そうこうと為す」と記されています。
 この文の「三如是の本覚の如来」とは、大聖人の教えによれば、私たち自身の「三身」の生命であり、「十方法界」は、全宇宙を意味します。したがって、この文は、私たちの「三身」は、全宇宙生命と一体であるとの意味になります。
 しかも、この「総勘文抄」に述べられているように、生死不二ですから死の生命の観点から考えることもできるわけです。「生」の立場ですと「有情」の「三身」ですが、「死」の生命では、「非情」と化した「三身」も宇宙と一体であるとの意味になりますね。
 池田 「法身」も「報身」も「応身」も、宇宙生命そのものなのです。
 川田 具体的に「応身」からいきますと、「非情」としての「応身」は、物理的宇宙に合一していますね。
 池田 宇宙自体を「相好」となすのですから、人間生命の「応身」の側面は宇宙の色法と一体になっている。「報身」も宇宙の「心法」となり、生命の「我」としての「法身」も、宇宙生命の「身体」つまり宇宙生命自体と融合している。しかも、宇宙生命は色心不二の当体です。
 川田 ということは、「三身」ともに宇宙生命自体となり、宇宙の流転とともに常住であると……。
 池田 だから、「本有の死」と表現するのです。
 川田 その「本有の死」に関して質問があるのですが、たとえば、宇宙にしりぞいて「非情」と化した「応身」の働きを、私たちは認めることができるのでしょうか。
 池田 個々の「応身」の働きとして認めることはできないでしょう。たとえば、「応身」には、肉体のさまざまな機能を統合する働きが含まれているからです。
 北川 それから「報身」としては、無意識のなかに渦巻いている情念とか、感情とか欲望などを考えることができます。しかし、これらの心的エネルギーは、死の生命にあっては、個々に区別することもできないのではないでしょうか。
 池田 できません。すべてが「空」の状態として融けあっているのです。
11  北川 それでは、私たちの個性自体でもある、生命の「我」に関してはどうでしょうか。ある人の生命の「我」は、火星あたりにあって寒さにふるえているとか、他の「法身」は、金星に定着して暖かすぎて困るとか……。
 池田 そういうこともありません。霊魂説では、生命の「我」が、宇宙のどこかを、まるで夢遊病者のように飛んでいるとか、どこかの星に根をおろしたなどというような、またはそれに近い考え方をするようだが、そのような説は、仏法では否定されています。あくまで、人間生命の「三身」は、宇宙生命の当体そのものなのです。
 川田 トインビー博士は『死について』(筑摩書房)という本のなかで、ワーズワース(イギリスの詩人。一七七〇年〜一八五〇年)の詩に出てくる「不死の海」という言葉を引きながら、次のように述べています。
 「われわれは人間を″不死の海″の表面でもり上ってくだける波か、ふくらんでくだける泡だと考えることもできよう。波や泡のように、人間もそれ自体ははかないものである。(中略)この地球上に精神と肉体をもつ有機体として生きそして死ぬ人間は、永遠な精神的実在のあらわれなのかもしれない」(橋口稔訳)とあります。
 池田 そのとおりでしょう。博士によると、究極的な精神的実在とは、宇宙の背後にあり、しかも宇宙それ自体を満たしているものだ、とのことですから、私たちの言葉でいえば、宇宙生命とおきかえることができる。
 そう考えれば、人間生命を永遠な精神的実在即宇宙生命の「不死の海」から盛りあがっては消えていく波頭にたとえることもできるでしょう。
 川田 池田先生が先ほどあげられた氷山の譬えとも軌を一にしているようです。
 池田 生命の大海から生じる波とか泡――氷山でもいいのだが――を、個別的な生命体とすれば、波がぬけ、泡が消え、氷山が溶けることは、普通的な宇宙生命のなかに融合することだと考えていいのです。
 北川 「不死の海」に没入した波には、もう波としての個性はありません。つまり、死は、個別的生命が普遍的なものと合一することと考えられます。しかし、私たちの生命が宇宙生命と合一するとして、それは、この波の場合と同じように、個の生命の消滅を意味するのでしょうか。
 池田 そこが、私たちのもっとも知りたいところだね。
12  川田 ふたたびトインビー博士の言葉を引きますが、『回想緑I』(山口光朔・増田英夫訳、社会思想社)のなかでは、「人間の中で、われわれが精神とか霊魂とか称している一面は、人間の生時にははかない個別的な人格であったが、その人間が死ぬとそれは個別的な人格ではなくなる。しかし、究極的な精神的実在として存在し続ける」と論述されています。
 この文章からしますと、どうも、博士は、個としての生命は消滅するという考え方のように思われます。
 池田 たしかに、私たちの生命が、宇宙生命に合一するという側面だけをみれば、死は、個別的生命の消滅と映るでしょう。いいかえれば、死によって、人間生命の「三身」は「無」に帰するように思われるのです。死における人間生命は、有か無か、と問われれば、「無」であると答えるほかはありません。
 しかし、仏法では、宇宙生命のなかで「無」に帰したようにみえる人間生命の「三身」を、無ではなく「空」としてとらえるのです。ここまでくれば、いかなる譬喩も「空」としての生命の「我」を、ありのままに説明することは不可能でしょう。
 日蓮大聖人の「御義口伝」には、「空は無の義なり但し此の無は断無の無に非ず相即の上の空なる処を無と云い空と云うなり」と記されている。
 この文を、私たちの「三身」の立場から読んでいきますと、一見、無と同じように思われる死後の「三身」は「空」の状態にあり、しかもその生命には、仮諦としての「応身」、空諦としての「報身」、中諦としての「法身」をそなえているということになります。
 人間生命は、宇宙と一体でありながら、それでいて決して消滅したのではない。「三身」をそなえた個の生命は、個としての独立性をもちながら、しかも宇宙と一体なのです。こうした個と宇宙とのあり方を「空」の状態における存在と表現するのです。
 川田 個としての生命の「我」は、死とともに普遍のなかに合一するが、それによって独自性を失うものではない。それが「空」としての存在であることは、おぼろげながら理解できるのですが、もう少し明快に理解できるための手がかりはないのでしょうか。個としての独自性をもつという以上、どうしても、ある空間的に限定された存在を考えてしまうのですが……。
 池田 「空」としての生命を、空間的にとらえることはとうぜんできません。だが、私には、人間生命の「三身」が「有情」から「非情」へと移っていく過程に、きわめて重大な一つの手がかりがあると思われる。
 北川 「応身」の力がしりぞき、「報身」の内容をなす感情とか欲望の嵐がおさまるにつれて、しだいに浮かび上がってきた生命内奥の「我」の実感、つまり生命感のことでしょうか。
 池田 そうです。「死」の直前に、くっきりと浮かび上がる「法身」の実感こそ、死の状態を示す個々の生命のあり方を知るための、有力な手がかりとなるでしょう。少なくとも、仏法では、生命の「我」の実感を直視して、そこから死者の生命状態を説きあかそうとするのです。
13  川田 生命の「我」の実感といいますと、私たちが生きているときは、地獄の苦悶を味わったり、飢餓感に苦しんだり、また、天界の喜びにひたったりします。慈悲をなしえた心の奥からの歓喜が色心を満たすこともあります。
 ところが、死の状態における生命感というのは、まだ、体験した記憶がありませんので、どうもよくわからないのです。私の生命も生死を繰り返してきたとすれば、何回も経験したはずなのですが、どうも想い出せないのです。
 池田 生きている現在の生命状態を観察することによって、ある程度まで類推することはできます。
 すでに「人間らしい生き方」〈1〉〈2〉の章で、詳細に考察したように、仏法では私たち自身のいだく生命感を分類して、十の生命状態に組み立て、十界論を展開している。さらに、十界論にもとづいて、十界互具論も吟味した。
 北川 「自己変革の原理」としてですが、基底部をなすという考え方も明らかになりました。
 池田 その基底部という考え方が、死後の生命においても、きわめて重要になるのです。「基調」という言葉を使ってもいいが、私たちの生命は瞬間ごとに十界のうちで、いずれかの生命感をいだいている。しかし、少し長い眼で見れば、人それぞれによって、かならず基調となる境涯を発見できるはずです。
 川田 そうした基底部は、その人の生命全体の傾向性をあらわすものでもあるわけですね。
 池田 個々の生命には、十界のすべてがそなわっている。だから、私たちは、縁によって瞬間瞬間、十界のいずれの生命感をもいだき、どのような境涯をもあらわしうる可能性をもっている。
 にもかかわらず、現実には、地獄界を基調とする生命体もあれば、餓鬼界を基調として、絶えずそこにもどっていく個体もある。それを生命の傾向性と呼んだのだが、地獄を主たる傾向性とする生命は、ときには苦しみをもたらす縁を選択してでも、みずからを極限の苦悩へとおとしいれがちです。
 さて、私が、この基底部という概念が、死の生命を理解するのに、非常に重要だと述べたのは、私たちの生命が「有情」から「非情」へと移っていくにつれて、基底部を形成する境涯以外の生命状態を呼びおこす機縁が減少していくからです。
 川田 それは、外界からの縁に反応する力が失われていくからでしょうか。
 池田 そうです。瞬間瞬間に移りかわる喜怒哀楽の感情とか、種々の欲望は、外界の縁によって呼びおこされるものが大部分でしょう。だからこそ、たとえば、病苦にのたうっていても、特効薬を与えれば、地獄の苦はすっと消えていく。愛情に飢えていても、心ある人の慈悲に包まれれば、愛への飢餓感もいやされるし、知識を学ぶことによって、二乗の境涯を呼びさますこともできる。
 だが、死の濃影に覆われていく生命主体は、愛を受けようとしても、愛する人の姿さえ見ることはできない。金銭や権力、地位があっても、もはやそれを受けとめる感情とか欲望さえも、生命の内奥に沈んでいく。そして、死の苦痛のまえには、借りものの思想や哲学もすべて粉砕されてしまうのです。
 要約すれば、「有情」としての「三身」の力がしりぞいていくにつれて、私たちの生命は、外界へと働きかける能動性を失っていく。縁に対応する力ばかりではなく、種々の縁を選択する力も消失していくのです。
14  北川 つまり、外界の縁に左右されることがほとんどなくなるわけですね。
 池田 そうなると、みずからの生命に刻みつけられた境涯が、そのまま生命全体をひたすようになる。
 地獄界への傾向性を示す生命体は、死の訪れとともにますます苦悶へとおちこんでいく。餓鬼界を基調としていた生命体ならば、飢餓感はいっそう激しく生命をさいなむことになる。畜生界を基底部として生を終われば、生命の「我」は、絶えず恐怖心にさいなまれる暗澹たる生命の境涯を味わわねばならないだろう。
 川田 修羅界の生命の人は、どのような状態でしょうか。修羅は「闘諍」とも「勝他」ともいわれていますが、死後の生命の状態は、おそらく孤独でしょうから、相手を必要とする「勝他」とか「闘諍」とかは、ちょっと理解しがたいのですが……。
 池田 おそらく、負けたときの屈辱感や、われとわが身を傷つけるような苦しみ――そうした生命感だと考えられる。もし、人界とか天界などの境涯をまっとうした個の生命ならば、死に臨んだときの肉体的な苦痛が薄れゆきさえすれば、「法身」は平静さを取りもどし、欲望をかなえられたときのような充足感が「三身」を覆っていくと思われる。
 二乗の境涯がもっとも強い生命の場合には、精神的な満足感とか、三昧境にも似た状態を持続できましょう。菩薩界を基底とする生命にとっては、死によっても尽きることのない慈悲の心に満たされているにちがいありません。勇気をもって死と対決し、死さえも克服しうる勇猛心の根拠を、生死の境で身をもって示しきるかもしれません。
 北川 いかなる極限の苦痛によっても砕かれることのない不動の信念と勇気を生みだす哲理とか宗教を、自己の死を足がかりとして説きあらわそうとするのでしょうか。
 池田 死におもむく者が、みずからの生命を賭けて、生者を動かすのです。他の人々の苦しみを除きたいとする慈悲心の横溢した生命の「我」にとっては、死は生と同じく、宇宙生命から授けられた試練の場であり、抜苦与楽の実践の場なのです。
 このような人は、かならず、みずから迎えようとする死を、宇宙生命のもたらす慈悲の行為であると実感するはずです。
 川田 だが、みずからの死を、宇宙生命の恩恵であると受け取るところまで、慈悲心を深めるには、よほどの生命力が要請されますね。
 池田 慈悲と勇気と生命内奥からの智慧の源泉が仏界です。仏界をはぐくみ、強め、基底部として定着させることに成功した人のみが、よく自己の死を見すえて、それを克服し、さらに生者の救済にと向かいうるのです。
 たとえ、生前、いかなる慈しみの心をもち、勇気ある実践を行っているように見えても、もし、それらが、自己を飾る道具にすぎず、人々の尊敬とか名誉とか権力を得るための手段にすぎないならば、死は、いつわりの慈悲と勇気を惜しげもなく奪い去ってしまうでしょう。
 死は、あらゆる人の本性を暴露してやまないのです。装いの思想、哲学、宗教をたたき割り、いつわりの感情と欲望と慢心を砕きさって、生命の奥のありのままの境涯をあらわにするのです。死にさいして、一生隠しとおしてきた醜い本性を、万人にさらす愚だけはさけたいものだね。逆に、死があらわにした本性が、生者を感動させるようでありたいね。
 川田 私も、そういう生涯をまっとうしたいと思います。死に瀕したときには、他の人々に助けを求めようとしても、また、生涯の行動を悔いても、もはや手遅れでしょうから、生きている間が大事ですね。
 池田 死せる者に、自己変革の力はありません。「三身」の発動性はすべてしりぞき、冥伏してしまっているのだから、自分で自分の生命を変えることは不可能です。
15  北川 仏界とか菩薩界ですと、変革する必要もありませんが、三悪道の苦悶が洪水のように自己をひたしはじめると、どのような人でも、救いを求めてうめき声をあげざるをえないでしょう。そのときになって、どのように後悔しても、苦悶の洪水はさらに強まるのでしょうか。
 池田 みずからが基底部としてつちかってきた境涯は、「有情」から「非情」へと入っていくにつれて、一段と強化されるのです。
 川田 ちょうど、雪だるまが坂道をころがりおちる姿に似ていますね。
 北川 それは、基調となる境涯が自己運動を始めて、雪だるま式にどこまでも強まっていくということでしょうか。
 池田 個々の生命自体の自己運動も大きな要素です。外界から他の境涯を引き出すような縁の働きかけも減少し、生命はみずからが築いた境涯のままに、生から死へと移っていくのです。
 しかし、死における基底部の強化は、生命自体の繊りなす流転にもとづくばかりでなく、宇宙全体との関連においても生じると考えられる。
 いうまでもなく、個々の生命体と同じく、宇宙生命もまた十界互具の当体です。宇宙には十界のすべてがそなわっている。このことについては「三世間」のところでくわしく論じあったから、ここではかんたんにするが、「有情」を、ひとまず私たちの生命体ととれば、私たちを取り巻く「非情」の環境は国土世間になる。
 たとえば、人間生命にとって、地獄の国土とは、「有情」の生存権を奪い去ろうとする環境であり、具体的には、人炎に覆われた大地とか、水爆の炸裂する国土とか、氷点下六十度にもおよぶような極寒の地などがそれにあたるでしょう。しかし、死後の生命は、空間的には限定された状態をとるわけではない。
 とすると、地獄界を基底部として死を迎えた生命体は、どのような姿で、どのように国土世間を感じているかというと、宇宙生命に融けこんではいるのだが、この宇宙自体がどこへも逃れようのない赤鉄の世界であるかのように感じていくのです。
 川田 そうしますと、日寛上人の「三重秘伝抄」の「地獄は赤鉄に依って住す」(六巻抄17㌻)等というのも、固定された赤鉄をその「依報」、「国土」としていくということではなく、この宇宙、世界を赤鉄と感じていく、と解釈するのでしょうか。
 池田 そう考えるべきです。たとえ、人界とか天界などの様相を示している国土であっても、その国土には、他の十界もすべてそなわっているはずです。ただ、冥伏しているにすぎないのです。同じ、その国土を天界と感ずるか、地獄と感ずるかは生命主体の生命状態によって、みんな異なる。
16  北川 私たちが生きているときでも、地獄の苦悶に責められていますと、他の人にとっては楽しい場所であっても、その楽しさを味わう余裕はないばかりか、すべてが苦悶を増す縁にさえなりかねません。
 池田 その人の生命状態に応じて、環境も十界の変化を示すものです。それでも、生きているときには、地獄界を基調としながらも、種々の縁に対応して、他の境涯をもあらわしうるだろうが、死は、その生命を基底部に縛りつけてしまうのです。
 たとえば、地獄界を基調とする生命も、生きているときには、少しは楽しいこともあったにちがいない。ところが、死の状態においては、宇宙全体が苦しみの暗雲に覆われたようになり、地獄の責めがとどめようもなく襲いかかってくるのです。いいかえれば、全宇宙が地獄と化し、個の生命を責めさいなむのです。ここまでくれば、自己の生命に地獄を実感するというよりも、宇宙生命の地獄界のなかに自己を感じると表現したほうが、真実に近いようです。つまり、私たちの生命自体が、宇宙の地獄界の分身となるのです。
 川田 他の境涯についても、同じように推理をすすめられますね。
 池田 日蓮大聖人の「曾谷入道殿御返事」にも、一つの例として「例せば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随つて別別なり」と明記されている。
 人界の生命が水と見、天の境涯では甘露と映る恒河の水を、餓鬼の生命は、自己を焼きつくす貪欲の火と感ずるのです。これは餓鬼、天、人を代表として述べられているが、この原理は、他の地獄、畜生、修羅また声聞以上の四聖についても、同じことがいえるわけです。
 川田 六道は外界からの縁によって感ずるものですから、能動性を失った死の生命においても感ずるということは理解できます。しかし、声聞以上の四聖はみずから能動的に開拓することによって得られるものですから、能動性を失っている死の生命においては、どのように考えたらよいのでしょうか。
 池田 実感し、体得するのです。二乗界の生命の「我」は、死とともに、宇宙に見いだされる法則そのものとなるからです。つまり宇宙をつらぬく無常という法則の分身が、二乗を基底とする死の生命なのです。さらに菩薩界にいたれば、みずからが融合した国土のすべてが、慈悲を行う実践の道場と化すのです。
 菩薩の生命は、宇宙生命の菩薩界と合一するはずです。宇宙の菩薩界の体内に入れば、国土にみなぎる抜苦与楽の慈悲力を会得するでありましょう。もし、ある生命が、仏界をはぐくみつつ死におもむけば、宇宙生命の源泉であり、万物を支える根源の当体に合流するでしょう。
 そのような生は宇宙の森羅万象の流転を、仏の所作と見ることができるのです。それは、自己の生命が寂光土としての国土自体になっているからです。
 仏界の生命は、死の状態のままで、灼熱の大地の底にも、極寒の氷山の奥にも、荒れ狂う大海の基底にも、さまざまな欲望とエゴが交錯して充満する人間社会の中にも、四季を織りなす自然の法のなかにも、宇宙生命のかぎりない英知と慈悲の発動性を会得するのです。

1
1