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日蓮大聖人・池田大作

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宇宙と生命  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

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1  宇宙に生命は存在するか
 池田 私たちのこの対話も、永遠に繰り返される生死の輪廻、「本有の生死」という問題にまで立ちいたったわけだが、そうなると、とうぜんこれは、たんに地球という一個の天体の範囲では論究しつくせなくなってくる。
 地球はまだ数十億年の歴史しかもたない星だし、未来も永遠に存在することはありえない。爆発する太陽によって呑みつくされるか、内部から崩壊するか、あるいはまったく他の要因によるかは予測できないけれども、時間的に有限の存在であることは明らかだ。したがって、この地球上での生存にかぎった論究では、いくら生命は永遠につづいていくといっても本当の永遠論にはならない。
 そこで本章では少し話題を広げて、この広い宇宙空間に生命をもった存在がどれほどの範囲で認められるか、また実在は確認できないにしても、その可能性がどの程度あるのか、さらに、地球上において生命が発生したのはどういう推移によるのか――こういったことを考察しておこうと思う。そうでなければ「永遠の生命」といっても、裏づけも何もない抽象論になってしまうからです。
 北川 この広大な宇宙空間に、地球のほかにも生命が存在するのか、それとも地球だけにしかないのか。このことは古くから論争の焦点になってきました。
 自然科学の発達、とくに天文学の進歩によって、地球や、それが属している太陽系、太陽系の属する銀河系宇宙が、大宇宙のどこにでもあるようなふつうの天体であることがわかって、他の天体にも生物が存在しうるという議論がさかんに出てきました。
 生命を構成する有機物質――これは従来、無機物質からは生成されないと考えられていたのですが、それも実験室内でかんたんなものならつくりだせるようになった。そうなると、生命の誕生ということも、宇宙のどこででも起こりうるのではないかと考えられるわけです。
 一方、やはり、生命はそんなに広範囲には存在しない、じつは地球にしか存在しないのではないか、という考えも、有力に残っています。このことは後に論点となってきますが、ひとまず、他の天体に生物が存在する可能性があるのかどうか、またあるとすれば、どのような生物と考えられるか――この問題に入ってみたいと思います。
 川田 そのことで、非常に重要な報告が最近なされました。それは、化学者であるアメリカのポナンペルマ博士らが発表したものですが、核酸の構成要素の一つであるピリミジン類を隕石の中から発見したというのです。この核酸というのは遺伝をつかさどる働きをもっていて、生命を形づくる重要な部分品といってよいものです。もちろん隕石の中から発見したといっても、隕石が地球に落ちてから入りこんだものだとすれば意味がない。
 ところが発見されたピリミジン類は実験室内ではつくりにくいうえ、地球上の生物がもっている種類のピリミジン類に、これと同じものはまったく発見されなかったところから、これは地球以外のどこかに存在したことが、ほぼ決定的になったわけです。
 ところで、生命をつくりだす要素として、核酸ともう一つ、蛋白質があります。この二つがそろえば生命の発生する素地はできたといってもよいのですが、この蛋白質の主構成要素であるアミノ酸がまた、隕石の中からポナンペルマ博士らによって発見されています。四年前のことです。
 しかもこのアミノ酸も、光学的性質からいって、地球上の生物にはほとんどない種類のものであることから、これも隕石にもともとくっついていたものであると結論しています。核酸と蛋白質の原材料がそろったことによって、これで少なくとも生命を生みだす素地は、地球以外の天体にも現実にあるということがいえるわけです。
 池田 興味深い報告だね。もちろん、それをもってかんたんに生命が宇宙のどこにでもあると結論するのは早すぎる。
 たしかに、地球に飛び込んできた隕石の中から発見されたということは、かなり広範囲に生命の原材料のようなものがそろっていると考えることはできるでしょう。地球に飛び込んでくる隕石は、宇宙空間に存在する、そうした物体の数に比しても、きわめてかぎられているし、その中にさえすでに核酸やアミノ酸が発見されるのだから――と考えれば、そう解釈できる。
 しかし、それが太陽系にかぎったことなのか、それとも太陽系以外の世界にも見られるのかという問題もある。太陽系のなかではなにかの拍子で核酸やアミノ酸ができ、そのうち地球では都合よく生命体にまで育った。他の惑星などでは条件が悪くて地球のようにはいかなかった。その残骸が隕石で見られるものだ、と考えられないこともない。
 もしそうだとしたら、太陽系外ではやはり生命が合成されるのは困難であろうという推測も一概に否定できない。ただ、ポナンペルマ博士らが発見したものを根拠にしたかぎりでは、生命のもととなるような物質が生みだされたのは太陽系のみにおいてであると考える根拠は薄弱になってくる。
 私は、生命の素といえるようなものは、太陽系にかぎらず、もっと広範囲に存在すると推測するほうが適切なように思う。それから二番目に気をつけなければならないことは、核酸やアミノ酸が存在していても、それが生命存在にまで結晶するような条件の星が、どれほど存在するかということだね。
2  川田 その点を確かめることは、非常にむずかしいですね。ただ、どんな条件の星がいいかはあげることができます。
 まず、星といっても地球から観測されるような恒星は、太陽と同じ超高温の世界ですから、生命は生きられません。したがって惑星にかぎられます。しかもその惑星はいろんな点で安定した状態になければいけないわけです。軌道が不安定であれば温度も一定しないし、生命活動には適していません。
 そうしたところから、二重星や多重星の恒星のもとでは安定した惑星をもてないといえます。太陽系のように単一の恒星であることが必要です。しかもその惑星自体も、大気や水は生命体のために欠かせない条件ですから、それを逃さないためには、ある程度の大きさがなければなりません。生命発生のための条件はかなり厳しいといえます。
 北川 そのまえに、どれくらいの恒星が惑星をもっているかということですが、惑星はみずからの力では光りませんから、それ自体を観測することはできません。しかし、恒星の動きをきわめて精密に測定することによって、その星の周りをまわる隠れた星が推測できるわけです。
 もちろん、もっとも近い恒星でさえ五、六光年も離れているのですから、現在の観測技術で、恒星の微妙な動きをもれなく測定するのはむずかしいことです。したがって、ごく一部分しか明らかにされていませんが、たとえばバーナード星という星では、太陽系の木星ぐらいの惑星が存在するのではないかといわれていますし、他の恒星でも惑星をもっているのではないかと推測されているものがあります。
 また、数多くの恒星のなかで単一の恒星というのは決して珍しい存在ではなく、むしろこちらのほうがふつうであることが明らかにされていますし、単一の恒星でしかも惑星をもつものは、きわめて広い範囲で存在しうると考えられます。
 しかし、あとの条件というのは、もうほとんど観測不可能ですから、たくさんの星のなかでは、そうした条件の星も多く含まれているにちがいないと推測するしかありません。
 池田 したがって、数の算出の仕方も学者によってずいぶん違うね。たとえば、百万個の恒星に一個は、そうした条件をそなえた惑星をもつだろうと想像する学者もいる。そうすると、銀河系のなかだけでも約十万個になるわけだ。また学者によっては十億の星のうち一個の割合だろうとする学者もいる。そうすると銀河系のなかには約百個の生命の存在する星があることになる。
 なかにはこれらよりもっと多めに見積もる学者もいるし、逆に、そのような星はほとんどないと考える人もいる。条件が抽象的で、それを算定する基礎資料が不足しているのだから、決めようとすること自体、無理なのかもしれない。ただ、原理的には太陽系や地球は、決して特殊な星ではなく、広い宇宙にそれに似た星が少なからず存在しうると考えていいだろうね。
 ところで、混同してはならないことがもう一つある。というのは、条件が整うということと、生命が発生するということは、また別だということです。条件が整っていても、生命が発生するまでに、相当の時間がかかるという点も考えなければならない。
3  北川 これは確率という問題と関連してきます。たとえばサイコロの目は六つある。そのうち「1」が出る確率は六分の一です。だからといって、六回に一回はいつも正確に出るというのではなく、平均の問題にすぎません。まして何回目に出るかということは絶対にわからないわけです。一回目に出るかもしれないし、六回日、あるいは二十回目ぐらいにようやく出ることさえあります。
 ところで生命誕生の条件をサイコロの目になぞらえていうと、サイコロの目はいくつあるかということは、現在決定されていないわけです。ところが現実には「1」が出た。つまり生命が発生した。サイコロの目が少ないとわかっていれば、何回に一回かは「1」が出ることはわかりますから、なるほどと理解できる。しかし、ひょっとしたら何百億、何千億の目があるサイコロで――もちろん、そんなサイコロはないでしょうけれども(笑い)、そのサイコロから「1」が出たのかもしれない。そうすると「1」が出たということはきわめてまれなことであるわけです。
 川田 生命の発生に要する平均時間が、その星の誕生からたとえば十数億年とすると、地球においてはきわめて平均的な確率で生命が発生したといえるし、数億年ぐらいだとすると、地球においてはむしろ遅めに生命が発生したのだということになります。
 しかし、平均所要時間が数十億年だとすると、きわめてまれな確率の早さで出現したということになるわけですね。ちょうど、エイッと振ったサイコロが、一回で「1」と出たようなものです。(笑い)
 池田 とすると、そうした計算も、生命発生の条件と、現実の生命発生との関連を調べるためには重要な作業となるわけだ。それはともかく、こうしたさまざまな条件を慎重に考えていかなければ結論をくだすことはできない問題だが、宇宙空間のなかに、地球のように生命発生にはきわめて好都合な条件をそなえた惑星がおそらく何億とあるだろうということは、今日の天文学者の、かなり共通した見解となっている。
 これに関連する考え方として、仏法では、三世十方の仏土観を説いている。すなわち、時間的にも過去久遠から未来永劫にわたって、そして空間的にも十方、すなわち三次元的方向のあらゆる広がりのなかで、仏、衆生、国土が存在するという着想をもっている。
 日蓮大聖人の御書のなかでも「大夫志殿御返事」には「三千大千世界と申すは東西南北・一須弥山・六欲梵天を一四天下となづく、百億の須弥山・四州等を小千と云う、小千の千を中千と云う、中千の千を大千と申す」とある。この三千大千世界の考え方はすでに話しあったが、この壮大な宇宙観にせよ、三世十方の仏土観にせよ、現在われわれがいる世界だけが唯一の世界ではない、あらゆるところ、あらゆる時代に、人々の住む世界はあるし、またあったのだと説いている。
 しかも、その国土にそれぞれ仏がいて、その国土に住む衆生の苦しみを救い、生命の真実の尊さを教えていく法を厳然と説いていくことを教えている。仏法は決して閉鎖的なものではなく、世界に広がり、さらにいえば、全宇宙的広がりをもった教えであることを示しているともいえる。
 この仏法の思想からすれば、宇宙のあらゆるところに生命発生の契機が存在し、また生命が発生している星が数多くあるといっても、決して不思議ではないのです。
4  北川 ここで次に、では宇宙に生物が存在するとしても、どのような形で存在するかということを少し考えてみたいと思います。
 小説の分野のなかに空想科学小説、つまりSF小説というのがあり、そこではタコのような形をした人星人が地球を襲撃してきたり、怪獣がわがもの顔に星を支配している姿が描かれています。テレビでもさまざまな宇宙人が出てきますね。あのような宇宙人が現実に存在しうるのだろうかということなんですが……。
 池田 現実に地球以外の天体にいかなる生命が存在するかもまだ確認されていないのだし、将来もその接触の可能性は、星と星との距離からいってきわめて少ないと予想される。したがって想像の世界で話を進める以外にないけれども、一般的に描かれているものも一部の非科学的、荒唐無稽なものを除いては、ある程度、科学の成果を根拠にして描かれているようだ。
 火星人なども、現在では否定されているけれども、仮に宇宙のどこかに重力の関係などからいって、もし高度に発達をとげた生命が存在するとしたら、あのような形をしているという可能性はあるね。何でも人間の形に似ていなければならない必要はない。地球上でさえも、じつにさまざまな姿をした生物がいるし、歴史的にも存在していたのだから……。高等生物といえば地球人に似ているはずだと決めつけるのは、偏狭な発想といわなければならない。
 ただ、現在の人間の姿が、知的発達を遂げるうえで非常に都合のよい合理的なものであることはいえるね。まずやはり、高度に発達した頭脳をもつことが必要だし、その神経中枢は外部から厳重に守られなければならない。しかもそれは体の他の部分より負担を受けない場所になければならない。
 北川 とすると、頭蓋骨をもっていて、体の上部にくる……。
 池田 重力を考えるときわめて合理的なことだね。加えて活動や歩行のための腕、足は、それぞれ一対あるというのが、必要かつ十分な条件になってくる。
 感覚器官として、音、光、匂いなどを知る目や耳、鼻も必要にちがいない。それが一対あると立体的に把握できるわけだ。鼻は一対ないけれど……(笑い)。こう考えると、他の天体でも、高度に発達した生命のなかには人間と似た形をもつ生物が発見される可能性も高いのかもしれない。
 川田 こうした研究をしている生物学者にも、人間の姿が、生物学的にも、美的見地のうえからも、怪獣のようなものより、理想的であると主張している人がいます。
 ところで、たとえ地球人と同じような姿だとしても、さまざまなバラエティーに富んだ宇宙人が考えられます。たとえば重力が違うと、大きさが変わります。月の表面で宇宙飛行士がウサギのようにとびはねているのがテレビでも報道されましたが、あれは月の重力が地球の約六分の一という小さいものだからです。地球と条件がほとんど同じでも、重力が小さい星だったとすると、ひょろ長い生物が多いことが考えられますし、もし重力が大きいとすると、身体を支えるためにがっちりした骨格を必要とするでしょう。それに膚の色、感覚器官の形、大きさ等、それはもう千差万別だと思われます。
 宇宙は広大であり、ともに複雑きわまりないわけですから、どんな宇宙人がいてもおかしくない。真っ赤な膚をした宇宙人も考えられますし、手足の指の数や毛髪などまったく違うことがありえます。大気が少し薄いというだけで、肺の形状も変わり、それにつれて内蔵が変わってくることも十分に考えられるからです。
5  北川 それに、これはもっと異質の世界になりますが、地球型の生命とまったく違う生命も存在しうるということです。
 というのは、私たち人類、そしてあらゆる生物の身体は蛋自分子によってなっている。ところが生命を形成するのは、蛋白によらなくてはならないということはないのです。蛋自分子のかわりに、脂肪や油、すなわち脂質であってもよい。
 これも、生命活動を可能にするほどの発展性、いいかえれば不安定性をもっており、しかも宇宙に比較的広く存在しうる。ですから、巨大分子を形づくって高度に組織された生命体ができる可能性があるわけです。
 アメリカの生化学者アイザック・アシモフは、そのほか炭化弗素、弗化シリコンも可能であると述べています。いずれもそれらは巨大な分子をつくる性質をもっているからです。
 川田 蛋自分子は水の中でよく活動できるわけですが、水の中でしか活動できないかというと、そうではない。アンモニアが液体となっている場合でも活動します。そうなると零下七十度から五十度ぐらいでアンモニアは液体になるわけですから、そのような低温の世界でも、アンモニアの中であれば、蛋白分子が活動し、生命体をつくっていることが考えられます。
 さらに、脂質を中心にした生命では、水素を水としたり、メタンの中で生命を形成する可能性がある。炭化弗素の場合は硫黄が液体となる世界で巨大分子をつくる。弗化シリコンも同じく硫黄の世界で活動します。
 アシモフはこうして、(1)水素=脂質 (2)メタン=脂質 (3)アンモニア=蛋白 (4)水=蛋白 (5)硫黄=炭化弗素 (6)硫黄=弗化シリコン、の六種類が可能な生命のバリエーションだと推測しています。
 池田 そのうち「水=蛋白」型生命が地球における生命だということになるわけだね。
 ところでこの生命を考えてみると、水素はほとんど絶対零度に近い温度でようやく液体になるのだし、逆に硫黄は数百度という高温で液体になる。とすると、地球のような温度でなくても、極低温の世界や高温の星でも生命は形成される可能性があることになるね。
 どのような環境のもとでも、私たちからみれば八熱地獄や八寒地獄と思われるようなところでも、そこで生命が活動をし、喜怒哀楽さえ感じていることがありうるわけだ。
 いずれにせよ、宇宙の、生命を生みだす範囲の広さはかなりのものがあるといわねばならない。このような観点からすると、地球を標準にした先ほどの計算も考え直さなくてはならなくなる。といっても、蛋自分子は宇宙に存在する元素の割合からいっても、きわめて普遍的なものだから、それを標準にするのはあながちまちがいとはいえないのだけれども……。
 北川 弗化シリコンといいますと、原材料は珪素であって、いままでの炭素とはぜんぜん違ってきますね。岩石などはこの珪素が主成分ですけれども、これが生命のもとだと考えると、なんだか岩が動いているような生命を想像してしまうのですが、もちろんゴムのように柔軟な組織をもつ生命となるのでしょうね。岩石みたいな外見で、じつは生物だったということも考えられます。
 ところで、このように組織がまったく違う生物になりますと、もし地球人と将来、接触するようなことがあったとして、はたして相互に理解しあえるものでしょうか。
 感覚、ものの考え方はもちろん違うでしょうし、物理・化学的にいっても、一方の生物の大気が他方の生物にとっては猛毒となることだってある。そうすると、たとえ相まみえても離れざるをえなくなる。事実、SF小説のなかにはこうした遭遇を扱ったものもあります。
 なんでもかんでも他の星を侵略しようとするインベーダー(侵入者)のようなものもないとはいえない。そこまでいかなくても、たとえば、芸術や政治、文学など、理解するまでにはいたらないものがあると考えられるのですが……。
 池田 たしかに、いままで考えてきたように、宇宙にはさまざまな生物が存在すると考えられる。体の組織それ自体が違うのだから、考え方もおのずから違うだろう。私たちが美しいと思うものでも、他の生物にとっては奇妙至極かもしれない。そういった面で相互の交流はかんたんにはいかないでしょう。
 人間と同等の高度な精神機能をもった生物がいたとして、まず考えられるのは、自然科学系統における交流です。数学、物理学、化学などは、やはり共通のものがあるはずです。それらを媒介として第一歩の接触が行われるかもしれない。現実にオズマ計画というのは、数学の法則を送って反応をみようとしたものだ。しかし、そこから先はむずかしい。人文科学や社会科学の分野は、よほど似かよった生物でないと理解はできないと思う。
 川田 宇宙人との接触を考えれば、地球人同士というのははるかにたがいに理解のしやすい仲間といえます。この点からも人類は、もっともっと真剣に理解しあわなければならないと思います。
6  原始地球での出来事
 池田 このあたりで、話題を、私たちが現実に生を享受している、この地球に移してみよう。
 いままでのところで明らかになったように、この宇宙には、じつに多様な生命体が存在しうる可能性がある。少なくとも、宇宙には、生命を形づくる素材がいたるところにあることは、ある程度、断言してもよいでしょう。だが、いまのところ、私たちが知りうるかぎりでは、生物と名のつく生命体が生息し、生を営んでいる場所は、この緑の惑星といわれる″宇宙船地球号″をおいて他には見いだされていない。
 したがって、地球を舞台に繰り広げられた生命誕生と進化のドラマに、議論の焦点を移してみることにしたいと思う。
 さて、私たちが、地球における生物の発生と進化の様相を探るにあたって、だれ人たりとも否定できない一つの事実がある。それは私たちの周囲には、隣人あり、動物あり、草木あり、肉眼ではとらえることもできない微生物あり、ともかく多種多様な生命体が充満しているということです。これらの生物はどこから来たのか、どうして生まれでたのかということが大きい疑問として出てくる。
 川田 地球にどうやって生命が発生したかということをめぐって、考えられる原因は、次の二つのうち、いずれかになります。
 一つは、地球以外の他の天体から飛び込んできたということ、二番目には、この地球の歴史のある時点で、出現したという考え方です。もちろん、生命それ自体の起源となれば、第一のよそから来たという場合も、ではよその世界でどうやって発生したかが問題になりますが……。
 池田 いままで一般的に考えられてきたのは、いずれも二番目の場合だね。『旧約聖書』の「創世記」に述べられているように、最初に天地創造説がとられた。この『旧約聖書』の記述をもとにした神学者の計算によると、いまを去る六千年の昔、神の手によって宇宙万物が六日間でつくられたことになるという。
 『旧約聖書』にかぎらず、他の民族の神話伝説の多くも、神による天地の創造を説いている。古くは、それが一般に信じられていたのでしょう。しかし人間の知恵が進むにつれて、そうした神の実在そのものについて疑惑をいだく人が増えてきた。
 北川 あくまで二番目の考え方をとるとして、神がつくったのではないとしますと、地球という惑星から、自然に発生したと考えざるをえませんね。
 池田 自然発生説だね。
 北川 もっとも古いところでは、アリストテレスが自然発生説を唱えています。でも、いまから見直してみますと、ずいぶんナンセンスなところもあります。たとえば、ウナギは泥が熱せられると自然に発生する、などといっています。
 池田 そうした個々の生命体についての自然発生説は、ずっと根強くつづいたわけだが、それがパスツールの実験によって否定されるわけです。おもしろいことに、自然発生説は、現代では、新しい装いのもとによみがえったと考えることもできそうだね。
 少なくとも、二十五億年から三十数億年前に、それまで無生の世界であった地球の表面に、原始的な生命が誕生したと、現代の科学者たちは主張している。
 むろん、アリストテレスなどが、その当時信じていたように、泥から、ウナギとかエビとかタコなどがでてきたり(笑い)、また、草の露からミツバチやホタルが生まれたり、といった次元での話ではなく、科学的推論をふまえての生命の誕生だがね。
 川田 ところで、たとえば原始地球――科学者のほぼ一致した意見にしたがいまして、一応三十億年以前ぐらいの地球を想定しておきます――に、他の天体から、原始的な生命が飛び込んできて、それが、地球上に定着したということは考えられるでしょうか。この場合の、原始的な生命というのは、たとえば一個の独立した栄養細菌のようなものと考えられますが……。
 北川 原始的なウイルスという説もありますね。
7  川田 ええ。ただ、現在、私たちの周辺にいるようなウイルスではありません。種々の学説がありますので、将来、もう少ししばられてくるまでは、私たちのこの対話では″原始生命″という言葉を使う以外にありませんが……。
 北川 生命体が他の天体から来たのではないかということも、有機物質が隕石から発見されたということから考えても、まったく否定することはできないような気がしますが、少なくともこの地球における生命の起源に関して現代の科学者は、ほとんど問題にしていません。
 また先ほどもちょっと出ましたように、他の天体から来たにしても、いずれは始まりを考えなければならないわけで、ここでは、地球で自然に生命は発生したという前提で話を進めてはいかがでしょうか。
 ところで、ではどのようにして地球に生命は発生したかという疑問を解くためには、原始地球のようすがいったいどのようであったかが明らかにされなければなりません。現在、科学によって推測されているところでは、そのころの地球は、厚い雲に覆われていたようです。地表にはどろどろに溶けた岩石がひろがり、すさまじいまでの火山の大爆発が、ひっきりなしに起こっていた。
 池田 現在の地球からは、想像もできないほどの激動を繰り返していたのだね。
 北川 地表に顔をのぞかせた大小無数の火口から立ちのぼった噴煙は、その上空で水蒸気となり雲の層を形成し、またたくまに、雨となってシャワーのように降りそそいでいたでしょう。
 その雨がやがて原始の海をつくり、溶岩を冷やして地殻をつくっていく。そうした大気の激動のなかで、激しい雷がひっきりなしに起こっていた……。
 池田 原始大気には、酸素は存在しなかったと推定していいだろうね。
 北川 火山の爆発によって大気がつくられたのですから、その成分は、水蒸気、メタン、アンモニア、窒素、硫化水素、炭酸ガスなどであったと考えられています。酸素の存在はまずなかったといってさしつかえなさそうです。
 川田 酸素がありませんと、現在、地球を覆っているオゾン層もできませんね。
 北川 オゾン層は、太陽光線のなかの紫外線をふせぐ役割をするのですが、原始地球には、このオゾン層がありませんから、強烈な紫外線がストレートに地表にさしこんでいたことでしょう。
 池田 もし、仮に、このような状態の地球に、どこか他の天体から、地球型生命体の原型となるような原始生命とか、また、それに類似した生命体が飛び込んできたとしても、生きながらえることは、とうてい不可能だろう。
 宇宙空間を旅するとなれば、生物の胞子のようなものが推定されるが、一千度にもおよぶ高熱とか、強烈な紫外線とか、現在よりもずっと強い放射線の洗礼をあびては、たちまち死に絶えるにちがいあるまい。
 川田 雷の活動もきわめて旺盛ですから、宇宙からの生命の種子が来たとしても、空中放電につらぬかれてあえない最期を遂げてしまうでしょうね。
 池田 ともかく、宇宙空間からの原始生命飛来説については、ひとまずしりぞけておいてよいと思う。このように、灼熱地獄にも比すべき惑星の状態は、いかなる原始生命の存続をも許さなかった。だが、私たちにとっては、地獄を連想させるような環境こそが、地球上における生命発生のための不可欠の条件でもあったのです。
 川田 酸素がなく、高温で、紫外線が強烈に降りそそぐ環境は、私たちの知っている生物的生命にとっては、まさしく地獄以外の何ものでもありません。ところが、当の原始生命を形づくっている蛋白質とか、アミノ酸とか、核酸などは、灼熱に燃えたぎるところでしか合成されない。ですから、もし地球が高温でなかったとすれば、現在の私たちの生命もありえないことになりましょう。
 池田 生命発生の起源を、深く探索すればするほど、自然の妙味に感服せざるをえないようです。もう、古典に属するほど一般的になった、オパーリン(ロシアの生化学者)の学説では、生命発生までのステップを、大略、三つに分けている。T.ハーリン『生命の起原と生化学』江上不二夫編、岩波新書、参照)
 第一段階は、無機物から単純な有機物が合成され、第二のステップで、単純な有機物が反応して、より複雑なものになるという。
 北川 具体的には、原始の大気を構成していたメタンやアンモニアが、紫外線とか、空中放電――これは雷のことですが――の助けによって、生命に絶対不可欠な物質である核酸のもとになるアデニンとか、各種のアミノ酸へと合成されていった過程ですね。
 池田 オパーリンによると、原始大気のなかで生まれた、これらの有機物が、雨とともに原始の海に溶けこんで、栄養たっぶりのスープになった。その海のなかでも、さらに化学反応が進んで、オパーリンのいうコアセルベートが形成される。これが、第三段階だが、そこから、ついに、原始生命が完成したとするのが、彼の学説だね。
8  北川 原始生命が生まれでた場所という点について、バーナル(イギリスの生物物理学者。一九〇一年〜七一年)の説は少し違っています。原始の海に関係するところは共通しているのですが、彼は、湿った水際で生命が誕生したと主張します。それも、ただの湿った土ではなく、粘土の表面だといいます。
 池田 いまあげた二つの学説以外にも、いく人もの科学者や哲学者が種々の見解を出しているだろうが、こまかい部分での相違はあっても、次の二つの点に関しては、ほぼ一致しているといえるのではないだろうか。
 一つは、原始地球の表面においては、原始的な生命の発生をうながすに十分な、物質的条件がととのっていたということです。もう一つの事実は、いかなる経過をとったにせよ、ともかく、原始生命が姿をあらわしたということです。現在、地球上に存在する生命が、神の創造によるものでもなく、他の天体から飛来したのでもないとすれば、科学者たちが異口同音に主張するように、原始地球の表面に生まれでたと推量するほかないでしょう。とすれば、無機物から有機物、そして、原始生命への、大略の移行をも認めていいように思われる。
 川田 そこで、いま、科学者を中心にして、哲学者や仏教学者を巻きこんで、火花を散らしている一つの問題につきあたります。
 たしかに、原始地球では、地球型生物をつくるための、すべての材料と、それにふさわしい環境がととのっていました。そして、現実に、生命は発生したわけです。でも、それは、まったく偶然に、たまたま起きたことであって、前の確率の話とも関連することですが、一回かぎりの現象ではないかとの意見です。
 池田 重大な論点ですね。素材と環境的条件は昔通的であっても、そこに起こった事象がまったくの偶然によるとすれば、他の天体でも同じようなことが起こることは、きわめてむずかしくなる。あるいは、生命が実在するのは、私たちの地球だけであった、ということにもなりかねない。
 それに対して、生命誕生をひきおこす原因が、たんなる偶然だけではないとすると、良好な環境をそなえた惑星に、種々の生物が存在しうる可能性も、ぐんと高くなるでしょう。ところで、偶然説を力説するのは、主に、分子生物学を研究している人々ですね。
 北川 偶然説の根拠は、分子生物学の立場からの事実にもとづいています。種々あげられるのですが、そのうちで、もっともポピュラーな事実を一つだけ述べてみますと、たとえば、私たちの身体を構成している蛋白質は、アミノ酸からできています。そのアミノ酸には、L型とD型という二つの種類があるのですが、おもしろいことに、地球上の生物はすべて、L型のアミノ酸でできているのです。
 ところが、実験室などで、化学的に合成しますと、かならず、L型とD型のアミノ酸が半分ずつできてくるのです。そこで、考えられることは、原始地球で生まれた原始生命は、ただ一個であり、それはL型アミノ酸から誕生したものであったというわけです。
 池田 その主張に対して、原始地球ではL型とD型の両方の生物がいたが、何らかの事件がおきて、L型の生物が生き残ったとする反論もありますね。どちらをとるか、また、第二の新説がありうるか、となれば、さらに深い議論が必要だろうが、ここでは、そこまで立ち入らないことにして、分子生物学者の主張するように、原始の生命は、ただ一個発生したという仮説を認めたとしても、その現象は、偶然説以外に説明できないものかどうか。
9  川田 これは非常にこみいった問題になりますが、宇宙における生命誕生の可能性をある程度、類推するには、どうしても避けて通ることのできないところですので、かんたんな確率計算をしてみることにします。いろいろな計算方法があるのですが、もっともわかりやすいものとして、東京大学教授の野田春彦氏(現創価大学工学部生物工学科教授。理学博士)の説を引用することにします。(以下『生命の起源』日本放送出版協会、参照)
 繰り返しになりますが、地球上の生物はすべて蛋白質と核酸からつくられています。その蛋白質は、二十種類のアミノ酸によって生成されますが、原始地球に、この二十種のアミノ酸が全部そろっていたとすることは、かなり納得できます。つまり、ある種類に限定されるとすることのほうが、不自然だからです。
 池田 二十種のアミノ酸が鎖のようにつながっていて、一つの蛋白質が生まれるのだね。
 川田 先ほどの確率の話と関連してきますが、野田教授の示すところによりますと、いま、アミノ酸が百個つながってできている蛋白質を例題にとります。
 途中をはぶきますが、望みどおりの蛋白質が一個だけでもつくられるには、一のあとにゼロが百三十個つながるほどの数だけ、種々の蛋白質を試作してみる必要がある、というのです。いわば、蛋白質の試作品です。ひかえ目に計算しても、一のあとにゼロが百個つづくほどの試作品をつくってみて、やっと、私たちの生命を形成している、ただ一個の蛋白質が得られることになります。
 こうした計算では、実感がわかないかもしれませんので、重さで示してみますと、10 75トン(一のあとにゼロが七十五個つづく数)にもおよぶ試作品のなかで、一つだけ求めるものがある、というのです。この数字がどれほど莫大な量をあらわしているかといいますと、天文学的数字をもはるかに超えています。つまり、現在推測されている宇宙全体のすべての物質の重さが、なんと、10 49トン(一のあとにゼロが四十九個つづく数)にすぎないのです。
 池田 おもしろいね。たとえ、材料がすべてそろっていても、もし、でたらめにアミノ酸をつなげていったのでは、宇宙の物質が全部アミノ酸であったとしても、私たちの身体を形成している一個の蛋白質もつくることはおぼつかないことになるわけだね。
 川田 ありえないことですが、地球も太陽も、銀河系も、すべてがアミノ酸でできているとします。それでも、蛋白質が一つでも確実につくられるとはいえないのです。
 それから核酸ですが、もし、全宇宙が核酸の材料であったとしても、それが、十億年間反応しつづけて、ようやく、もっともかんたんな一個の核酸があらわれるかどうかさえもわからないという計算になるそうです。
 池田 原始生命となると、核酸とか、蛋白質とかが、さらに高次の結合を遂げないと出現してこない。だから、まったくの偶然説をとると、原始生命どころか、一個の蛋白質とか核酸が、この地球上でできることさえおぼつかない。むしろ不可能といったほうがいいかもしれない。
 北川 もちろん、そうしたきわめて稀なケースが幸運にも地球の場合は早く出てきたという考え方もできないわけではありません。しかし、そうした偶然論を押しとおすよりも、この地球そのものに、生命へと向かう傾向性がそなわっていたと考えるほうが自然に思えるわけです。いや、宇宙そのものが生命への方向をはらんでいたというべきかもしれない。
 川田 野田春彦教授も、あくまで科学者としての立場を堅持しながらも、「有り得べからざることが一度だけ、何の理由もなく起こったというならば、あとは何の議論もできない。それではどうしても気持が悪いとすると、自然界の物質には生命を作りたがるような傾向があると考えざるを得ない」(『生命の起源』日本放送出版協会)と述べています。
 池田 私は、野田教授の言葉のなかで、「自然界の物質には生命を作りたがるような傾向がある」との表現に着目したい。ふつう物質とか、物体とかいえば、生命的存在とは何の関連もないもののように考えがちです。しかし、その物質そのものに即して、生命的存在へと向かう傾向性を見いだしていられるところに、洞察の鋭さがある。
 自然が生命をつくりたがっているというのは、きわめて意味深い表現です。もう一歩進めて、その自然界に秘められた″生命を作りたがる傾向″の意味するところを熟慮すれば、かならず、宇宙存在自体に内包された生命へと向かう根源的な傾向性にいきあたるのではなかろうか。
 さらにいえば、大宇宙生命には、生命的存在を生みだし、はぐくみ、創造の道へと駆りたてる本源的な内在力がそなわっていたと推察できるように思う。こうした宇宙生命内在の根源的な力に導かれて、この地球においても、原始生命が産声をあげえたのではなかろうか。
10  北川 これと似た考え方をテイヤール・ド・シャルダン(フランスの古生物学者、哲学者。一八八一年〜一九五五年)も述べています。この人のユニークな進化論には、うなずけない部分もあるのですが、次の主張には、首肯できるものがあります。たとえば、「生命というものはもはや宇宙における皮相的な偶然とみなされるものではなく、宇宙の中のどんな小さな裂けめからでも噴出しようとする圧縮された蒸気のようなものである」(「自然における人間の位置」日高敏隆・高橋三義共訳、『テイヤール・ド・シャルダン著作集2』所収、みすず書房)というのです。
 池田 譬喩的な表現だが、参考になる思索の結晶が含まれている。
 私たちの地球についていえば、ほぼ五十億年前に形成されたときから、三十億年前に原始生命が生まれるまでの、二十億年の間、徐々にではあるが、地球そのものに内在する生命への傾向性が高まっていた。シャルダン流の表現をすれば、生命誕生をひきおこす内在力が、少しずつ充満し、地球の内部に高まっていたといえよう。
 北川 まったくの無生の世界であった原始地球は、地球型生命を生みだすために、二十億年もの年月をかけたのですね。
 池田 原始生命を生みだすまでの、この惑星の営みは、決して無為に過ごされたのではない。火山の爆発も、原始の海の形成も、また、大気のなかでの一つ一つの化学反応が、すべて、生命発生のための長い長いプロローグであったと思う。こうした原始地球自体の営みがなければ、オパーリンの主張する、無機物から有機物へ、さらには、原始生命への過程も、決して起こりえなかったのではなかろうか。
 北川 地球そのものが、あたかも生命ある実在のごとく、やがては、自己の体内から生みだす地球型生物の生きるべき、すべての条件をととのえていったともいえますね。
 池田 そう。ここは、非常に重大なところだと私は思う。シャルダンは、物質はわれわれの目には″死んだもの″に見えるが、ある一定の境界を超えると、生命の赤い輝きをおび始める、という意味のことを述べている。
 先ほどの野田教授の発言とも通じるものがあるが、表面的にみれば、無機物も有機物も、たしかに″死んだもの″と映る。だが、メタンやアンモニアなどから、アミノ酸とか、蛋白質とか、核酸などの複雑な有機物が合成されていくにつれて、物質自体が、死から生への輝きをおび始める。そして、原始生命にいたっては、赤々と燃える生命の火が、この地球上にあらわれるのです。
 このように論を進めてくれば、生命の発生以前の原始地球そのものが、地球型生命を生みだす母胎としての、巨大な生命的存在であると考えざるをえないのではなかろうか。
11  川田 地球もまた、たとえ表面的には、たんなる物質的存在と映っても、そのあまりにも巧妙な働きに焦点をあてれば、一個の生命体であるといわざるをえないというわけですね。
 池田 いま、科学者たちは、原始地球には、地球型生命を発生させるべき、あらゆる材料と条件がととのっていたと力説している。この事実を認めたうえで、私は、次のように主張したいのです。
 原始生命をその誕生に導いたものも宇宙内在の生命へと向かう傾向性であれば、地球型生命を発生させるに十分な条件をととのえたものも、同じ根源的な力であったのではなかろうか――と。
 原始地球に見いだされる生命発生への条件は、たんなる偶然によって、つくられていたのではない。それは、ととのっていたのではなく、原始地球の、二十億年にもおよぶ、営々とした活動が、ととのえたのである。
 さらにいえば、地球を、そして、物質を、生命的に染めあげた主体的存在は、当の原始地球であり、その内部に、はちきれんばかりに高まりつつあった生命への傾向性ではなかったであろうか。
 北川 これを宇宙的視野にまで広げると、地球型生命ばかりでなく、他の予想される生命的存在の素材が宇宙のあらゆる天体にありうるという事実は、宇宙そのものの働きによるととれますね。
 池田 少なくとも、生物形成の素材というか、原料があり、生命発生をうながすにたりる条件がそなわっているところでは、それは宇宙内在の生命への傾向力による、というふうにいうことはできるでしよう。
 しかし、だからといって、そうした環境を発見できるところに、かならず、予想しうる生命体が誕生しうるか、といえば、そうは断定できない。たとえば、高まりつつあった内在力が、種々の外的作用によって、どうしても、その壁を打ち破れず、やがて弱まってしまうこともあろう。そこに、偶然の働く余地が残されているし、具体的な生命発生の場所とか、時間などになれば、偶然に起きるさまざまな事件が大きく介入してくるにちがいあるまい。それにもかかわらず、宇宙生命の営みを、時間空間にわたって視野を広げて考察すると、偶然の介入を許しながらも、生命化への傾向性を断ちきられることは決してないであろう。
 ゆえに、宇宙生命の内在力が、あらゆる種類の生命体の誕生を準備している領域では、やはり、その環境に適合した生命的存在が生まれでる可能性は、決して低くはないのではないかと思う。いや、無限の空間領域に広がり、永遠の流転を織りなしていく宇宙の全体像に思いを馳せるときには、宇宙は、生命の素材にあふれているばかりではなく、各種の存在形態を示す生物にも満たされていると推定できるのではなかろうか。
 川田 そう考えますと、私たちの生命の生死流転は、宇宙を舞台に、永劫につづいていくといえそうですね。
 池田 「本有の生死」は永遠の時を刻む。もし知的生物を含めて、生命的存在の生きる場が、空間的には宇宙大に、時間的には永劫の未来にわたって保証されているとすれば、仏法の根源的な哲理である「本有の生死」が成立することになるのです。

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