Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

生と死〈2〉  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

前後
12  北川 たしかに、さまざまな波長の電波が空間にとけいって、それを私たちの肉眼では見いだすことはできません。
 池田 しかし、受信機をセットしたり、テレビのチャンネルを回すと、あざやかな映像が映しだされ、言葉や音楽が聞く人の耳をうつ。受信装置をセットしなければ、それは目に見ることも、耳で聞くこともできないが、電波が実在していることはまちがいない。
 この実例を参考にしてもらえばわかりやすいと思うのだが、たとえ死の状態を示す生命といえども、苦や楽や悲しみ、喜びを感じつつ、そこに脈動していることは疑いない。つまり、悩み苦しむ「我」もあれば、歓喜のリズムのままに流動する「我」もある。この世だけではあきたらぬとみえて、死の領域に入ってまでも、貪欲の炎に焼きつくされるものもいるでしょう。
 こうした、万物の基底部をなす″心法″に支えられつつも、生とはまた異なったあり方での死の営みを、「本有の死」というのではなかろうか。
 繰り返すようだが、私たちの生命は、生と死のいずれの相をあらわす場合にも、宇宙生命にどっしりと根をおろしている。地獄の生の奥深く、仏界の生命が息づくように、地獄の死の底流にも「妙法」のエネルギーが渦巻いている。そしてまた、「妙法」に支えられながらも、三悪道を脱しきれない生の営みがあるように、宇宙源流の活力をくみとれず苦界に沈む死の主体も、厳として存在する。このような実相を、厳父の慈悲をたたえた仏の直観智は、あざやかに照らしだしているのです。それはまさしく、生きとし生けるものの生命淵源への仏の洞察智の照射であり、死せる営みへの覚者のさしのべる救済の手ではなかったろうか。
 生者には生けるものとしての営みがあり、死には死のあり方があると、私はいった。生に「本有の生」があれば、死にも「本有の死」があった。生者にさしのべられた仏の手は、そのまま死せる当体ヘの救いになりうるのであろうか。それとも、智者の心には、「本有の死」に特有な、苦悩を解脱する手段が用意されているのであろうか。
 私たちの生命論も、永劫に流動する生死の輪廻に立ちいたった以上は、「本有の生」と「本有の死」のあり方の相違と共通の分野を、さらに深く、そして詳細に考察してみなければならないようだ。

1
12