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日蓮大聖人・池田大作

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生と死〈2〉  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

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1  不生不滅の法則
 川田 昭和四十六年(一九七一年)の夏、『人間は死んだらどうなるか』(共立出版)という本が出て、識者の間に反響を巻き起こしました。これは大阪大学名誉教授の岡部金次郎博士が長年の蘊蓄をかたむけ、心血をそそいで書きつづけたエッセー集で、いまもかなり広く読まれています。
 池田 どちらかといえば、学者らしくない明快な表題ですね(笑い)。人々が関心をいだかずにはいられないような単刀直入さがあるね。
 川田 「朝日新聞」(一九七一年九月二十一日付)の夕刊の一面に「今日の問題」というコラムがあります。そこでも、近年めずらしい、ユニークな書として紹介されていました。じつは私も、コラムの内容に啓発されて読んだ一人です。
 池田 うん。私も読んだが、すがすがしい文章で、しかも、いたるところに、ダイヤモンドの光沢にも比すべき独創豊かな発想がちりばめられていたのを、鮮明に心にとどめている。
 北川 昭和四十八年六月号の『大白蓮華』にも岡部博士の「人間にとっての生と死」という論文が載せられていましたね。この論文も、興味深く読んだのですが、その後半の部分に、仏教に説く「三世の生命」にふれたところがあります。驚いたことに――考えようによっては、あたりまえのことかもしれませんが――博士の生死観と仏教の所説には、非常に多くの共通点があるのです。
 池田 岡部博士は、科学者だから、とうぜん、思索の出発点には、現代科学の考え方をふまえておられる。
 たしか博士は、論文のなかで、推理科学という言葉を使われていたが、物理学の精髄から出発した、生死についての推理の歩みが、仏教とほとんど一致するまでに合流するにいたったのでしょうね。
 北川 非常に重要ないくつかの点で、博士の推理と仏法の哲理が、きわめて共通していると思われます。生と死に直接関連する問題では、まず、死によって生命は決して滅びないという主張があげられています。
 池田 生命が死を超えて存続するということは、ほとんどすべての宗教に共通する主張です。この同じ信念が、本来なら否定的と思われる物理学者の思索の結論となっているというところに、新鮮な意味を感ぜずにはいられない。
 北川 博士は、主張の根拠として、エネルギーの不生不滅の法則――これは物理学をはじめとする現代科学の、もっとも基本的な原理の一つですが――を提示しています。つまり、物理の世界では、電気のエネルギーが熱に変わったり、位置のエネルギーが運動エネルギーに交換したりすることは、つねにみられます。
 でも、無から突如としてエネルギーが生じることもありませんし、いま存在するエネルギーが忽然と消えることもありません。ただ、姿を変えるにすぎないわけです。これが、エネルギーの不生不滅の法則ですね。
2  川田 これは、いってみれば、″鉄則″でしょう。もし、この鉄則が破れると、おもしろい事件が起きることになります。たとえば、電熱器やテレビや電気洗濯機などを、どれだけ使用しても、電気代はいつもゼロということもありえます。なにもないところから電気のエネルギーが無尽蔵に発生するのですから、電力会社も料金の取り立てに困りはてるにちがいありません。(笑い)
 こういう珍事が起きてくれると、私たちもずいぶん助かるのですが、そういうことは絶対に起こりえない。
 そのかわり、魚の片面が焼けたところで電気やガスのエネルギーがストライキを起こして突然消え去ってしまうこともない。もちろん、そんなことが起こったら文句をいっていく相手がありません。なにしろ相手にすべきものは、電力会社もガス会社もままならぬ″無″なのですから。
 池田 ともかく、物質の世界において、無から有、有から無への転換がありえないのは、大宇宙に実在する厳然たる法則の一つとして、現代科学が立証ずみの真理だね。
 北川 物理的なエネルギーは、不生不滅です。とすれば、この法則が私たちの生命にもあてはまらないであろうか、と岡部博士は推理するのです。生命といえども一個の存在物である以上、これにも宇宙の法則の一つである不生不滅という原理を適用してみることは、無理がないどころか、むしろとうぜんのように思われるのです。
 池田 きわめて常識的で、しかも妥当な推理のはこび方だと思う。生命的存在も、それをエネルギーの脈動としてとらえれば、無生の物質に物理的エネルギーがみなぎるように、生命ある実在には生命エネルギーの″血潮″が流れていよう。
 そして、私たちの生命体が色心兼備の当体である以上、生命エネルギーを構成するのは、身体的エネルギーと心的エネルギーの二者であると考えられる。こうしたエネルギーの脈動にも不生不滅の鉄則が適用されるのではないか、というわけだね。
 北川 ここまでですと、私たちでも、少し思索すれば行き着けるのではないかという気がしないでもないのですが、その後の展開が非常に興味深いですね。博士は、魂の核という言葉を使っているのですが、これは、前章の「生と死〈1〉」とのところでも話題にのぼった田中美知太郎氏の″たましい″と同じような概念と考えられます。
 さて、博士によれば、私たちの生は魂の核が活性状態にあるときであり、死とはそれが非活性状態になったときであるにすぎないというのです。
 活性状態という言葉は、物理用語からの転用でしょうが、具体的な生命の働き――つまり、手や足を動かしたり、頭を働かせたり、おいしいものを食べたり、恋をしたりといった、生きていることの証のような活動ですが――それらを発現している状態をさします。
 こんどは、死とともに、こうした働きが潜伏してしまう。潜伏するだけですから、決してなくなったのではないわけです。表面から見ると無に帰したように思われても、生を営む能力はちゃんとそなわっている。この状態を非活性状態と名づけ、それが死であるというのです。
3  池田 私たちのいままで使ってきた表現だと、活性状態というのは、生命活動の顕現であり、顕在化である。そして、すべての生の働きの冥伏した状態は非活性ということになるだろう。さて、一度は潜伏した生命活動も、非活性状態になるだけで、なくなるのではないとすると、ふたたび、活性状態にもどると考えられそうだね。
 北川 ええ。魂の核が、条件に応じて活性状態になったり非活性状態になったりして、際限なく繰り返すというのです。
 池田 ここまでくると、仏法に明かされる生死輪廻の法に近いようです。博士が三世の生命に着目されるのも、深い思索のとうぜんの結果であるといえるのではなかろうか。
 生と死が連続することの一つの科学的な推理による仮説が出たところで、きわめてわかりやすい例を考えてみよう。
 これは譬喩的にとってもらいたいのだが、私たちはいま、窓の外をぬらす雨が地上に落ちて大地に吸いこまれ、あるいは地下水となり、あるいはせせらぎをつくって川に流れ込み、やがては海へとそそがれていくプロセスを、自分の目で確かめることができる。途中で見失うことがあるかもしれないが、ともかく、雨としての水も、小川の水も、すべて同じ液体であり、流れゆく姿を見ることができる。ところが、その水が蒸発して水蒸気になると、液体としての姿は失われる。
 現代の人々は、科学の知識があるから、気化して姿を変えても、水の本性に変わりはないことを理解している。だから海とか大地から蒸発して天空に雲となって浮かんでも、それは水の変化相の一つだと知っている。その雲が雨となりふたたび大地に帰ってくる。水の場合、液体としての水も、気化した水蒸気も、ともにその本性は化学式でいえばH2Oであり、二つの変化相であることを理解しえて初めて、空と海と大地を結ぶ、壮大な循環を納得することができるのです。
 この例からいって、液体としての水の姿を生の姿、水蒸気の相を死の相としてみよう。どちらもH2Oです。気化したからといって、H2Oが分離してHが二つとOとになってしまうようなことはほとんどない。水蒸気もH2Oです。それでありながら、液体と気体の区別はある。私たちの生命も、その本性をたもったままで、生と死の二つの相を示すのです。しかも、水の循環のように、生と死を繰り返しつづけるのだというふうに考えられないだろうか。
 川田 私たちにわかりやすい、それでありながら、生死の本質をあらわにした譬喩ですね。
 池田 ところで、岡部氏の思考にもどるが、博士は、その物理学の学識に、独創的な推理を加えて、過去、現在、未来にわたって有為転変をなしゆく生命の姿にまで、考察を加えている。
 一方、いまを去ること二千数百年、釈尊は、宇宙と生命を律するすべての法、あらゆる生命存在の生と死の実相を、推理ではなく宗教的な直観智で、ストレートに照らしだしたのです。その仏の英知が浮かび上がらせた生死流転の姿とは、いったいどのようなものであったか――この点に話題を進めていくことにしてはどうだろうか。
4  「方便現涅槃」とは
 北川 釈尊が悟りを求めて出家し、修行の道に入った動機というのは「四門遊観」として有名ですが、人生の生、老、病、死を見つめたところにあったようです。
 このエピソードは、釈尊が人生の根源的な苦悩に焦点をあて、それをどう解決するか――そこに出家の根本動機があったことをうかがわせますが、私はとくにそのなかでも、死の解決のために釈尊は悟りを求めたのではないかと思っています。
 池田 それは間違いないでしょう。「老」というのは、一生のうちの衰退期にあたる。老いることによって、顔形に張りを失って醜くなったり、肉体的にも衰えて苦痛を感じるようになる。しかし、それらは「老」の根本的な苦痛ではない。むしろ従属的なものです。人が「老」を恐れ、苦しむのは、それが死への過程として実感されるからではないだろうか。
 「病」も同じだと思う。病気には肉体的苦痛をともなう。それが苦であることにはちがいないが、より根本的には、しばしば病は死の直接原因となるからこそ、大きな悩みとして受け取られているのです。
 後に、人生の苦として「四苦」や「八苦」という概念が用いられるようになるが、「生」「老」「病」「死」の「四苦」は、最後の「死」の苦にすべて集約されるといえるね。もっとも、この「四苦」に「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五盛陰苦」が加わった「八苦」のほうは、日常生活におけるさまざまな不幸の実感が加わっていて、ニュアンスは異なるが、大なり小なり、その淵源として、人間、また森羅万象は無常なものであり、いつかは死ななければならないという死苦が関わっていることはたしかなようだ。
 川田 仏教には、なにか逃避的、厭世的な宗教として受け取られるようなムードがあるのも、そうしたところに遠因があるのかもしれませんね。
 釈尊の出発が、そもそも死への直視にあったのですから……。
 池田 そう考えることもできるね。しかし、このことは、じつはたいへんな勇気ある行為なのです。生あるものはすべて、本能的に死を恐れる。とくに意識の発達した人間は、自分が生という状態をやめるとき、そのかなたにいったいどんな世界があるのかと考えることに、いいようのない恐怖を感じる。そして、不死ということに強い憧憬の念をいだかずにいられない。
 古来、富と権力を手に入れた王侯が、最後に求めたのは不死の薬であり、庶民もまた、そうした薬を手に入れたり、あるいはそういった理想郷に行けることを夢みたりしたのも、このためです。
5  川田 現在、アメリカなどでは、不治の病で倒れた人が、みずからを冷凍にして長期間保存し、その病気の治療法と、冷凍人間を蘇生させる方法が発見されるまで待つなどという人もいるそうです。これなども、一種の不死への挑戦ともいえますね。
 池田 生への執着がいかに強いか――考えさせられる話ですね。ともかく、人間、いかに寿命を延ばしたといっても、それは借金の返済を延ばしているようなもので、いつかは精算しなければならないのは事実です。
 そのことが、いやおうなくわかったとき、人は次に、たとえ肉体は滅んでも魂は不滅ではないかとか、別の世界へ行くことができるのではないかという考えをいだこうとする。多くの宗教が来世の実在を説いているのも、人間のこの願望を反映した面もあるようだね。
 仏教のなかにも西方十万億土という、死後の別世界を設けているものがあるが、これはあくまでも人々を誘引するための経説であって、釈尊の真意は、これらすべての執着を打ち破り、死を直視し、その本質を見きわめるところにあった、と私はみたい。
 釈尊は、死にたくない、死を受けいれたくない、死を見つめたくないという、人間本来の本能のようなものを乗り越えて、偉大なる勇気をもって、人生の苦の相、真実相を受けいれた。そしてそのうえで、生と死の本質に対し、思索に思索を重ねたのだろう。
 仏法は永遠の生命を説くけれども、それは決して、安易に民衆の不死への願望を受けいれた理論ではない。諸行無常や、苦集滅道という教えは、人間が避けたがる人生の苦の相を、そのまま如実にさらけだして見せているのだと思う。空想的仮説で真実を糊塗するのではなく、冷徹な眼で真実を凝視した。生あるものはかならず死ぬ。この大前提をそのまま認めたのだね。
 では、なぜ死ぬのか。死と生とはまったくかけ離れた存在なのか。それとも密接な関係にあるのか。生命はどのような流れがあるのか。勇気と忍耐と冷静さをもって、釈尊はみずからの生命に光をあて、その真実相を悟ろうとした。そうして得た悟りが、永遠の生命だったのです。
6  北川 釈尊がいかなる悟りを得たかについて述べた言葉は、池田先生の『私の釈尊観』(本全集第12巻収録)にも引用されています。
 「かくしてわれは種々の過去の生涯を想い起した。すなわち『一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、百千の生涯を、幾多の宇宙成立期、幾多の宇宙破壊期、幾多の宇宙成立破壊期を。われはそこにおいて、これこれの名であり、これこれの姓であり、これこれの種姓であり、これこれの食をとり、これこれの苦楽を感受し、これこれの死にかたをした。そこで死んでから、かしこに生れた』と」(『仏典I』中村元編、筑摩書房)――この経文によると、釈尊が悟ったものは、明らかに、永遠に常住するこの生命の実相であったといえます。
 池田 生とか死とか、一方を絶対的なものと考えてそれに執着したり、一方を無視して避けようとしたりするのは誤った考えである。生と死を、人間生命は本然のうちにもっている。生と死を交互に繰り返しながら、人間生命は雄大なうねりをもって永遠に流れている――このことを、みずからの生命の奔流のなかに釈尊はみた。
 それはもはや、生に執着するがゆえに打ち立てられた霊魂不滅のごとき思想ではなく、厳然たる、一個の生命をつらぬく因果の法則を見きわめたうえでの永遠の生命観である。
 この永遠の生命観に立って、死というものを意義づけるならば、死はむしろ生のためのものであるということになる。あたかも、眠りが次の目覚めのための休息であるようなものです。
 川田 「法華経」に説かれる「方便現涅槃」の考え方ですね。
 池田 そうです。死は生のための方便である。生をより輝かせるためのものであり、生こそ生命の活動の本態であるという考え方ですね。だが、死を無視しようということでもないのです。
 ただ、生と死とは相対立したものではなく、死はむしろ、生のためのものとして位置づけられるというのが「方便現涅槃」ということになるでしょうね。
 川田 この「方便現涅槃」という原理のうえに立てば、人生に対する姿勢はかえって、徹底した「生の謳歌」になりますね。しかもそれは、死を避け、それに目をそむけながら生を貪ろうとするのではなく、死の本質を知り、しかもそのうえで、生をうたいあげていく。つまり「衆生所遊楽」――人々が人生を楽しんでいくようになる。
 池田 したがって、仏教の本質は、いたずらな悲観主義、厭世観でもなければ、根拠のない楽天主義でもない。人生の苦を直視し、そこから逃避するのでなく、むしろ徹底的に取り組んだ末に到達した、生の歓喜の思想だといってもよい。
 苦しみから逃避して、真実の喜びはない。人が目をそむけ、逃避しようとしている苦しみを如実に知見し、それに勇敢に挑戦し乗り越えてこそ初めて、金剛不壊の、つきることなき歓喜が込み上げてくるのです。
 このことはまた、虚偽、虚構のうえに立った喜びは永続するものではなく、苦しくとも、真実を直視するところから、悟りは生まれることも教えている。
 北川 ところで、この「方便現涅槃」という法理は、釈尊の悟達の内容に含まれますが、この人生の生き方を教えるうえから説いているような気がするのです。
 池田 そう。日蓮大聖人の生死のとらえ方は、この釈尊の説き方より一歩深く、生死不二と示されている。「御義口伝」には「生死を見て厭離するを迷と云い始覚と云うなりさて本有の生死と知見するを悟と云い本覚と云うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時本有の生死本有の退出と開覚するなり、又云く無も有も生も死も若退も若出も在世も滅後もことごとく皆本有常住の振舞なり」と――。
 死は、生のための方便でもなければ、仮のものでもない。生も死もともに、本来本有のものであり、「一心の妙用」なのです。いちおう釈尊の「方便現涅槃」の法理も、死は決して忌避の対象でもなければ、いたずらに恐怖におびえるべきものではないことを示した意義はある。しかし、日蓮大聖人のこの生死の把握の仕方こそ、生命の本来の流転の姿をより明確にあらわしているものなのです。私たちはようやく、この大聖人の仏法の生死観に入る段階へきたようだ。
7  「本有の生死」について
 川田 私、不思議に思うのですが、釈尊の仏法では、なぜ死を「方便」であり、仮のものとして説いているのでしょうか。
 池田 それには数々の理由があると思う。たとえば、釈尊は、自分の教え自体が、死の準備のためにあるのではなく、豊かにして充実した生を享受することに本意があると力説したかったのかもしれない。だが、ここでは、本筋にそって、生命探索の角度から述べてみよう。
 先ほども詳述したように、釈尊の悟達は、私たちの生命が繰り広げる生と死のドラマを、あたかも太陽の光のごとく照らしだしたと推測される。そこには、誕生後まもなく生の活動を断たれる生命体もあろうし、また、長寿を全うし、安らかな眠りに入っていく生命体もある。
 さらに、こんどは、死を中心にしてみると、ひとたび生から死にいたった生命的存在のなかには、瞬時にして、ふたたび生の胎動を始めるものもある。それに対して、永遠の眠りというわけではないが、かぎりない時が移っても、死の眠りから容易にさめようとしないものもあるでしょう。
 川田 その眠りが安らぎだといいのですが、ちょうど悪夢にうなされるような、地獄の責め苦の連続であったとすれば、これほど苦しい、いやなことはありませんね。
 池田 それでも、悠久の時の流れのうちには、いつかは生の状態に変わる時がくるものです。ともかく、個々の生命体の生死変転の姿のみに焦点を合わせるかぎりは、やはり、死は生のエネルギーをたくわえるための手段であり、いわばある意味での休息の時と映るのではないだろうか。
 こうした生と死の連続を示唆するための一つの譬喩として、覚醒と睡眠のリズムが引き合いに出される。この場合、覚醒は生で睡眠が死ということになるのは、いうまでもない。われわれは疲労を、数時間の眠りによって、色心ともに活力を生き生きとよみがえらせることができる。しかもここで大事なことは、眠りの数時間をはさんで、その前後の自己が、かならず同一人物であって変わることはないという点です。
 川田 熟睡しますと、意識は完全に中断します。にもかかわらず、眠るまえの自分と目覚めたときの自己とは同一である。これは、自明の理ですね。もし、意識が途切れている間に、他人の自我と入れかわっていたなどということが起きれば、安心して眠ることもできないでしょう。
 朝起きて、目をこすりながら、昨夜の自分といまの自分は、はたして同じだろうか、などと確かめてみなければならないとしたら、想像しただけでもゾッとしますね。
 池田 ところで私たちは、だれでも、ほぼ二十四時間の周期で、覚醒と睡眠のリズムを繰り返している。これと同じように生命も、生から死、そして死から生へとよみがえる、このリズムを繰り返しているということが、推し測れるでしょう。
 むろん、この場合も、死をはさんでの前後の生を享受するのは、同一の生命主体なのです。そして、死の役割を、目覚めに対する眠りの役目と同じように考えるとするならば、「死は生の方便」と説かざるをえないのではなかろうか。
8  川田 よくわかりました。ところで、最近の学説によりますと、たしかに、眠ることによって疲労もとれますし、バイタリティーも回復します。これは、まぎれもない事実ではあるが、しかし、眠りはただ覚醒のためだけにあるのではない。眠りには、もっと積極的な役割があるというのです。
 私たちは、眠っているとき、さまざまな夢を見ますが、精神分析の立場の人たちによると、その夢は、いままで満たされなかった欲求とか願望のあらわれだというのです。
 たとえば、よくいわれる例に、ある人に怒りとか恨みの感情をいだいていたとします。でも、現実社会では、この恨みを晴らすことができない。夢が代用品としての役割をして、夢のなかで、なんらかの方法で恨みを晴らしたとします。すると、目覚めがすこぶるさわやかになる。心のなかの″しこり″がすっととれて、恨みの心などきれいさっぱりと忘れてしまったような顔をして、当の相手とつきあっている。心が、夢を見ることによって浄化されるというのです。
 それから、目覚めの状態よりも、眠りの状態とか、意識がぼんやりしている状態のほうが、よい考えが浮かんできて、いままで精魂をかたむけても解けなかったような課題に、一種の直観がひらめくこともあります。このあたりの事情を、鳥取大学の大熊輝雄教授は、夢というものは、素直な自我のあらわれです。願望にしても、悩みごとにしても、普段は押えられている意識が、正直に出てくるわけです。ですから、ある場合には、覚醒時よりも能率のよい思考や創造ができることもあります、と説明しています。
 このような事例から考えますと、覚醒が「主」で、睡眠が「従」であるというのではなく、両者はともに、欠くことのできない生命の基本活動であるとさえいえるのではないでしょうか。
 池田 なるほど。だが、科学者たちは、どうして眠りと覚醒とがともに、生命活動のうえで同等の地位を占めていると気づいたのだろうか。
 川田 直接的には、逆説睡眠の研究からですが、最初は、眠りとか目覚めなどの表層的な現象にとらわれていたのが、こういった研究をとおして、それだけでは説明しきれないことが、次々と明かされるようになったわけです。前にも紹介した徳島大学の松本淳治教授の言葉を引用してみます。
 「こうした覚醒と睡眠は、意識の連続的な流れの変化としてとらえられます。この意識状態の変化のうえに、脳のさまざまな他の働きと結びついた人間としての精神活動、生命活動が成り立っているわけです」と――。この文章における意識の流れとは、とうぜん、無意識をも含んでいます。
 池田 要するに、眠りも、覚醒も、同じ一つの連続した生命の流れの、異なった二つの働きであり、様相であるといえるでしょう。
 さて、本筋にもどって、生と死の問題だが、個々の生命体の繰り広げる生死のドラマを凝視しつつも、さらに深く、宇宙生命の奥底まで悟達の光で照らしだした法理が、日蓮大聖人の仏法だったといえるのではないか。
 北川 つまり、釈尊の知恵は、生と死の様相を映しだすことに焦点をあてていた。
 池田 もちろん、釈尊も、その奥底にある実在を洞察し、それを覚知することが仏法の極説であることは教えている。根源の実在としての生命の流れは、潮のうねりのように、万物の奥底からわきおこり、生と死のリズムを奏でながら、無限の過去から悠久の未来をさして進んでいく。
 私たちの生命の「我」も、瞬間瞬間の変化をあらわしながらも、大自然の流れに竿さして、永久流動の旅をつづけていくのです。あるときは生きることの喜びをかみしめ、ある場合は死の安らぎに身を憩わせる。生の歓喜も死の休息も――といっても、生命主体によっては、生の悩みも死の苦しみもと表現せざるをえないこともあるが――ともかく、生死ともに、永劫の歴史を刻む生命流の、異なった二つの働きであり、様相であるということになるのです。
 しかも、すべての個々の生命の流れは、宇宙本源の実在に融合しており、あらゆる存在者をはぐくむ大潮流と、一体にして不二の関係にある。この万物の脈動を奏でる宇宙生命の潮流を仏法は「妙法」と説いたのです。そして、すべての存在者の奥底には妙法の慈悲の力が流れ込んでいるということができましょう。日蓮大聖人の仏法では、生と死とを、本有常住の生命の「我」が現出する変化相であり、「本有の生」であり、「本有の死」であると定義するのです。
9  北川 先ほどの「御義口伝」の文がそれを述べているわけですね。大聖人の仏法の生死観が、徐々に全体像をあらわしてきたようです。そこで日蓮大聖人の「総勘文抄」の次の御文から、さらに論議を進めていきたいと思います。
 「生と死と二つの理は生死の夢の理なり妄想なり顛倒なり本覚の寤を以て我が心性を糾せば生ず可き始めも無きが故に死す可き終りも無し既に生死を離れたる心法に非ずや、劫火にも焼けず水災にも朽ちず剣刀にも切られず弓箭にも射られず芥子けしの中に入るれども芥子も広からず心法も縮まらず虚空の中に満つれども虚空も広からず心法も狭からず」とあります。
 この御文も、さまざまな論点から考察することができますが、生と死という問題に角度を限定して考えてみたいと思います。
 ところで、ここに「心法」とあるのは、私たちの生命の本質をさしていわれている、ととってよいでしょうか。
 池田 「心法」とは、いわゆる非情の無生物や草木も含めて、すべての生き物の奥底にあってその存在を支える、宇宙根源の当体を意味しているのでしょう。したがって、生といい、死といっても、万物の確たる実在としての「妙法」の本然的な営みの二つの相にほかならないのです。
 川田 いまの説明で、本有とみる生死のあり方が明確にされたと思います。つまり「心法」としての宇宙生命が永遠不滅の実在であるがゆえに、それが流入し連動する私たちの生命自体もまた、生死ともに「本有」であり、「常住」であると……。
 池田 そのとおりだね、だが、「本有」と「常住」の意味を、もう少し分析しておこう。「本有」とは、もともと有るということで、決して、なにかによってつくられたものではないとの意味合いを含んでいる。
 川田 神による創造説などは、この観点からすると、完全に否定されますね。
 池田 地球上に生命と名のつくものが発生したのは、ほぼ三十億年ぐらい以前といわれ、人類の誕生は、百万年とも二百五十万年とも推定されている。だが、それらの時をもって、初めて生命が誕生したと考えるのも、また、人類の地球上への出現をもって、初めて人間生命の「我」が形成されたと考えるのも、現象界に焦点をあてた知見である。まあ、ここのところは、次章以後のディスカッションにゆだねるとしよう。
 次に、「常住」ということだが、すべての生命主体は、この宇宙のなかにあって、つねに本然的なリズムを奏でつつ、生と死の″生命劇″を演じているのであって、消えてなくなるのでもなければ、どこかへ行ってしまうということもない、との意味でしょう。
10  川田 そうしますと、生死の連鎖が途切れるということは、決してありえないわけですね。
 池田 生の終わりに死が訪れ、その死が新たなる生へと引き継がれていく。生死は輪廻し、生命の旅路に到着すべき終わりはない。
 このように、本有常住だから、人間の「我」においては、受精卵に即して一個の生命が発生し、死はその消滅であると考えるのも、死を永遠の眠りとして、その領域にいたった生命個体がふたたび生を得ることはないと想像するのも、あるいはまた、この宇宙の脈動の外に、「黄泉よみの国」を憶測するのも、すべては妄想であり夢のようなものであるといいうるのです。
 川田 具体的な問題になりますが、たとえば、私が生きることに疲れはてて、その悩みから抜けでるために、自殺という手段に訴えたとします。
 あるいは、殺伐たる世の中ですから、推理小説なみに″殺し屋″をやとって、自分自身を殺害したとします。そこまでいかなくても、安楽死を依頼することもできるかもしれません。こういった場合、死は苦しみからの救いにはなりえないのでしょうか。
 池田 「総勘文抄」にも「劫火にも焼けず水災にも朽ちず剣刀にも切られず弓箭にも射られず」と書かれています。ここのところは、″心法″の性質を解明された部分だが、私たちの生命そのものは、この世界を焼きつくす劫火をもってしても、日本列島を沈没させるに十分な濁流が押し寄せても、刀でナマスのように切り刻んでも、数百本の矢を射込んでも、断じて消滅させることはできない、と拝せるでしょう。いかなる物理的手段をもってしても、根源なるものを壊すことは望みえないのです。
 ありとあらゆる生命は、「本有」であるがゆえに″不生″であり、「常住」であるがゆえに″不滅″なのです。岡部博士の表現を借りるならば、物理的エネルギーとか、身体エネルギーとか、心的エネルギーなどの、すべての活動力の源泉をなす宇宙生命のエネルギーそのものが、不生不滅の鉄則につらぬかれているということです。
 このように人間生命の「我」と、そこにみなぎる生命エネルギーが、不生であり、不滅であり、不壊であるとすれば、その生命が受けなければならない苦は、死によって終わるものではないといわなければならない。かえって、死は、楽と喜びの扉ではなく、地獄の門を押し開くことにもなりかねない場合もあることを、記憶にとどめておく必要があるのです。
11  北川 そこで、もう一つだけ疑問を解いておきたいのですが、「総勘文抄」の引用した最後の部分に「芥子けしの中に入るれども芥子も広からず心法も縮まらず虚空の中に満つれども虚空も広からず心法も狭からず」とあります。
 つまり、生命は、芥子粒のごとき極小のものの中に入れても、芥子が広がったり心法が縮まったりするようなことはない。逆に、虚空に遍満させても、虚空が広すぎるということもなければ、心法が狭すぎるということもない――こういった解釈になりますが、とうぜん、こうした″心法″の特質、存在のあり方は″空″の概念をもって考えなければなりません。
 むろん″心法″は、空間的な概念だけではとらえきれないものであり、時空観をも超越した妙なる実在であるとの意味でしょうが、この文を拝しますと、その本質は時空を超えたものでありながら、時間、空間の現象世界の領域へと顕在化してくるのだという仰せのように思われます。
 ともすれば、私たちは、宇宙の源流といい、生命の内奥といい、それらを″空″としてとらえるとき、きわめて静寂な、深い海の底のような感覚で受けとめがちですが、そうではなくて″空″としての実在も、生命エネルギーの動きに満ちている――こういう実感をもつことが、真実に近いのではないかと思うのですが……。
 池田 人はよく死の静けさと表現するが、より正確には、その死もまた、生と同じく無限の変化に富んだものと考えるべきでしょう。なぜならば、私たちの生を支え、色心を維持し、はぐくみゆく根源なるものは、同時に死の営みをも支えているからです。
 川田 いま「死の営み」という言葉を使われましたが、そうしますと、死は休息であり、苦も楽もなにもない静けさそのものと考えるのは、錯覚であるということになりますね。
 池田 私たちの日常生活は、数奇な運命の糸がからみあっているものです。これを″生の営み″と表現すれば、死にも独自の営みがあり、もし譬喩的な表現を許してもらえば、死せるものとしての生活があるのではなかろうか。
 むろん、安らかな死をエンジョイしている主体も少なくはない。だが、ちょうど、夢にも快いさわやかな性質のものもあれば、悪夢にうなされつづけて、たっぷりと眠りの恐怖を味わわされることもあるのと同じです。恐怖、不安、悲惨、そして、魂の中心部まで凍りつくようなおののきが、これでもか、これでもかと、執念深く追いかけてくるような死の営みも、ありうると考えるべきです。
 私たちの周囲には、各種の電波が流れている。世界中の国々からの、千変万化の種々相を示す電波が、あたかも虚空にとけこんだように流れきて、流れ去る。それらの電波には、聞く人の心をなどませる名曲が託されていることもある。あるいはジャズを奏でるそれや、魂のふるさとへと人の心を誘う民謡のこともある。爆笑を巻き起こすコメディアンのジョークがのっている電波もあるし、陰々とした恨み声を響かせる波長も存在するであろう。
 だが、これらの電波は、たがいに排除することもなければ、重なりあうこともない。名曲の背中にジャズがのっかり、そのうえに恨み声がしがみついていたなどということはない。両腕に民謡とジョークをかかえているとなれば、まるで怪談だね。
12  北川 たしかに、さまざまな波長の電波が空間にとけいって、それを私たちの肉眼では見いだすことはできません。
 池田 しかし、受信機をセットしたり、テレビのチャンネルを回すと、あざやかな映像が映しだされ、言葉や音楽が聞く人の耳をうつ。受信装置をセットしなければ、それは目に見ることも、耳で聞くこともできないが、電波が実在していることはまちがいない。
 この実例を参考にしてもらえばわかりやすいと思うのだが、たとえ死の状態を示す生命といえども、苦や楽や悲しみ、喜びを感じつつ、そこに脈動していることは疑いない。つまり、悩み苦しむ「我」もあれば、歓喜のリズムのままに流動する「我」もある。この世だけではあきたらぬとみえて、死の領域に入ってまでも、貪欲の炎に焼きつくされるものもいるでしょう。
 こうした、万物の基底部をなす″心法″に支えられつつも、生とはまた異なったあり方での死の営みを、「本有の死」というのではなかろうか。
 繰り返すようだが、私たちの生命は、生と死のいずれの相をあらわす場合にも、宇宙生命にどっしりと根をおろしている。地獄の生の奥深く、仏界の生命が息づくように、地獄の死の底流にも「妙法」のエネルギーが渦巻いている。そしてまた、「妙法」に支えられながらも、三悪道を脱しきれない生の営みがあるように、宇宙源流の活力をくみとれず苦界に沈む死の主体も、厳として存在する。このような実相を、厳父の慈悲をたたえた仏の直観智は、あざやかに照らしだしているのです。それはまさしく、生きとし生けるものの生命淵源への仏の洞察智の照射であり、死せる営みへの覚者のさしのべる救済の手ではなかったろうか。
 生者には生けるものとしての営みがあり、死には死のあり方があると、私はいった。生に「本有の生」があれば、死にも「本有の死」があった。生者にさしのべられた仏の手は、そのまま死せる当体ヘの救いになりうるのであろうか。それとも、智者の心には、「本有の死」に特有な、苦悩を解脱する手段が用意されているのであろうか。
 私たちの生命論も、永劫に流動する生死の輪廻に立ちいたった以上は、「本有の生」と「本有の死」のあり方の相違と共通の分野を、さらに深く、そして詳細に考察してみなければならないようだ。

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