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日蓮大聖人・池田大作

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生と死〈1〉  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

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1  さまざまな死生観――ある対話を終えて
 北川 英国の世界的な歴史学者であり哲学者でもあるアーノルド・J・トインビー博士(一八八九年〜一九七五年)と池田先生との対談は、昨年(一九七二年)と今年(一九七三年)との二回分を合わせますと、延々数十時間にもおよんだと聞いていますが、やはり、歴史観とか文明論などが、おもな内容だったのでしょうか。
 池田 博士は、生涯を賭けたまったくユニークな文明論によって、人類の足跡と歴史の流転に新しい光を投げ入れた当代最高峰の碩学です。政治、経済、文学、哲学、宗教から、性の問題やレジャーの問題にいたるまでのあらゆる分野に、鋭い洞察眼をもっておられる。二十一世紀への道を探り、人類の未来を照らすため、こうした広範な事柄について、心ゆくまで話しあうことができたと思う。
 川田 生命に関しても、種々議論されましたでしょうか。
 池田 生命論は、きわめて重要な論題の一つでした。全魂をかたむけてデイスカッションしました。精神と身体との関係とか、意識と深層心理の関連とか、運命や宿命についての本質的な掘り下げ、それから、愛、良心、慈悲、欲望、エゴイズムなどが話題にのぼった。
 また、博士の提唱されている高等宗教の必要性や、宇宙の背後に存在する「究極の精神的実在」についての思索とか、他の天体にも生物が存在するかどうかなどについても、意見を交わしました。
 北川 池田先生と大森実氏(国際ジャーナリスト)との「直撃インタビュー」のタイトルが『革命と生と死』(講談社)ですが、そのなかで、たしか次のような意味のことが、先生の発言にありました。
 それは、昨年の博士と池田先生との対談――ちょうど一年前の五月でしたが――についての感想を、博士が通訳に漏らした言葉を引いたところです。つまり「こんなに共通点があるのであれば、これは対話ではない。お互いの一致点に向かう論議になった」と。
 池田 私も同じ感慨をいだくことができました。しかも、今年の対話で、その思いはさらに強まったようです。
 川田 生命論のなかでも、根本的な論題はやはり、死後の生命がどうなるかとか、生命は永遠か否かといったことだと思います。死は、この瞬間にも私の生命に襲ってくるかもしれません。どんなに財力があり名声を得ても、死だけは逃れるすべはないわけです。たとえ、私が死を忘れようと努めても、また一時期忘れ去ったとしても、死のほうは決して私を忘れようとはしないからです。
 何が執念深いといっても、死ほど粘り強くつきまとうものはありません。なにしろ、どんな場合にでも打率十割ですから……。
 池田 日蓮大聖人の御書にも「先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」とある。生と死は、人間にとってもっとも古い、しかも根源的な謎であり、古今東西のあらゆる哲学と宗教の中心課題です。ゆえに、生と死を解明しない生命の探索は、画竜点睛を欠くことだけはたしかでしょう。
 私たちは、ともすれば、他人の死を眼前にしても、自分だけは例外であるような錯覚にとらわれがちです。しかし、だれ人たりとも、死だけは避けられない。実存主義者ハイデッガーは、人間は死への存在であるとし、また「人間が生まれでるやいなや、人間はすでに死ぬべき年齢に達している」(『存在と時間(下)』、『ハイデッガー選集17』所収、細谷貞雄・亀井裕・船橋弘訳、理想社)と述べている。逃れられない生死の運命を真正面から見すえ、死への思索をとおして、より人間らしい生活を送ろうとする一人の哲人の苦闘がうかがわれる言葉です。
2  川田 死を自覚するところに、人間としての所以があり、さらには特権があるとも考えられますね。
 池田 人間の自我のみが、死を自覚し、それを見すえての生を享受しうるのです。他の生物は、私たちと同じように死すべき存在でありながらも、そのあまりにも厳粛な事実を自覚することもなく生涯を開じる。
 このような意味からすれば、死の自覚は、たしかに人間の特権といってもよい。だが、人は特権を与えられるとともに、それと引き換えに死への恐怖も引き受けなければならないようだね。死ぬことの覚知は、そのまま死の恐怖を呼びおこすからです。
 川田 私自身の生命の内奥にも、意識するとしないにかかわらず、死への恐れが、絶えずうずいています。
 池田 その恐れから目をそらすのではなく、念々に死と対決し、それを乗り越える努力を断じてやめないとする勇気と決意が、ひるがえって私たちの生を彩り、実り豊かなものにするのだと思う。事実、人間の歴史を飾った哲学も、各種の宗教も、そして科学さえもが、その発生の基底部に、生を思索し死を克服しようとする幾多の先哲の、血と汗の結晶を組み込んでいると考えられないだろうか。
 北川 死との対決が哲学の始まりだとされていますし、医学をはじめ科学のほとんどの分野は、生をできるだけ引き延ばす学問であるといっても過言ではありません。ですから、科学の発達をうながす原動力の中核には、私たちの心にうずく死への恐怖が流れているといえないこともありません。
 池田 運命との対決から科学が生まれ、医術の進展がもたらされる。その結晶が人々の生を守り日々の生活を彩るわけだね。
 川田 でも、医術でどれほど生を延ばしても、人間が一個の生命体であるかぎり、無限に死を遠ざけることは不可能です。医学的常識からしますと、私たちの身体の細胞は古くなるど再生されますが、脳細胞だけは交代がきかないとされています。
 したがって脳細胞の寿命が、純粋に生物学的にみた人間の寿命の限界ということになるのですが、それによると百歳からせいぜい百二十五歳までといわれます。そのころになると、どのように拒否してみても死を迎え入れなければならないわけです。もちろんこの数字は現代の医学水準におけるものですが……。
 池田 科学や医術は、生を守り、ある程度は死を引き延ばしえても、死そのものの解決にはなりえないということだね。
 川田 死の解明は、あくまで宗教や哲学の課題だと思われます。
 池田 これは数力月前の新聞にも報道されたことだが、アメリカの著名な人類学者R・S・ソレッキー教授が、中近東のイラクでネアンデルタール人の遺跡を発掘したときのリポートがあった(『シャニダール洞窟の謎』香原志勢・松井倫子共訳、蒼樹書房、参照)。ネアンデルタール人は、学者たちの間では、現在の私たちの直接の祖先であるか否かについては意見が分かれているそうだが、ともかく、十数万年前の人類の一員であったことにまちがいはない。
 その遺跡を発掘していたとき、ソレッキー教授は、墓の周りに大昔の花粉が置かれているのに気づいたというのだね。それもどうやら、当時の人々が、仲間の死に膨んで墓を造り、その周囲を、菊とかスミレの花などで飾ったらしい。
 北川 温かい心情がにじみでていますね。ところで、死者を花で取り巻くことに、どのような意味がこめられていたのでしょうか。
 池田 教授は「花をめでた人びと」と呼んでいたが、このネアンデルタール人に、すでに永生の信仰といったものが定着していたという。つまり、人間生命は死とともに消滅してしまうのではない。ソレッキー教授の表現を借りれば「天」という実在に帰ると信じていたわけだ。もちろん、具体的にどのような概念をもっていたのか知るよしもないことだが、ともかくネアンデルタール人は、生命の永存ヘの何らかの観念、信念をもっていたのでしょう。
 もし、私見を許してもらえば、十数万年も以前に地球上に生息していた人々の胸奥にも、宇宙と大自然に脈動する根源的な実在の姿が映しだされていたのではないだろうか。まあ、この問題は、人類の誕生をうながす進化の歩みを追跡するところで、もう一度、くわしく考えてみたいと思う。
3  川田 それにしても、人類は、そうした遥かな遠い昔から、生命の永存を信じ、彼らなりの信仰をいだいていたという事実は、まことに興味深い発見ですね。
 池田 野に咲く花の供養は死者への愛情であり、契りであり、また祝福の表現でしょう。そしてその優雅なふるまいの基盤には、永生の信念が深い根をおろしていたのです。
 北川 時代がずっとくだりまして、私たちがふつうに原始人と呼んでいる人々のころになりますと――この原始人は生物学的には私たちとまったく同じホモ・サピエンスですが――世界中のいたるところに「マナ」という力を信じる死生観が見受けられます。
 「マナ」というのは、原始時代の人類が、自然と万物のなかに見いだしたものであり、一種の生命力とでもいいあらわせそうな力を意味しています。当時の人々は、生と死の現象を、「マナ」が増進し、強まるのが生であり、逆に弱くなっていくのが死であると理解していたようです。
 池田 四季が移り、天体の運行が繰り返される。万物の力強い律動に合わせて、人の生命も、死によって大地に帰り、生とともにふたたび地上に現れでる。生から死、そしてふたたび生へのよみがえりを、原始の人々は、ごくあたりまえの出来事として信じていたのだね。「マナ」は、すべての生き物が、生死を流転する内在的な活力をさし示していると考えられる。
 このような生と死の理解は、たしかに単純であり、素朴な概念にすぎないかもしれない。しかし、素朴さのなかに光る真実のきらめきに盲目であることは許されないでしょう。ここでも、人類の英知は、森羅万象にみなぎる″血潮″を、そのまま自己のものとして感じとっていたのではないだろうか。
 川田 「マナ」信仰よりもう少し後期になりますと、学者たちが「アニミズム」と呼んでいる死生観が一般化してきます。人間をはじめとする自然の事物は、すべて個々の「たましい」をもっていて、生とはそれが宿っている場合であり、死を迎えると「たましい」が離れていくというのです。
 池田 私たちの身体を例にとると、生きているときには、肉体と精神が結合しているが、死が訪れると、この二つが分離すると考えるのだね。このあたりから「霊魂不滅」説も生じてくるのだろう。死によって、肉体から離れた「たましい」は、肉体の処分にかかわらず、独立に存在しつづけるとする死生観です。
 川田 キリスト教でも、霊魂の不滅をいいますね。
 池田 この宗教における「霊魂不滅」説は、神による創造説と結びついている。私たちの「たましい」を創ったのは神であり、私たちが死を迎えると、神による審判を受けなければならない。その結果、神を信じる者は天国に昇って永遠の生を得ることができる。
 それに対して、神を信じない「たましい」は、地獄の底につきおとされると説かれている。また煉獄は、悔い改めることによって救済の途が残された霊魂の至るところであるともいうね。
 川田 「最後の審判」という思想もありますね。
 池田 キリスト教でいうこの世の最後の時がくると、死せる霊魂はすべて復活し、生きている人間の「たましい」も含めて「最後の審判」が行われるとしています。つまり、キリスト教も、生命は死んでのち生まれ変わるとするが、それは、ただ、このときの一回に限られるのです。そして、再生した生命は永遠に存続すると説かれている。
 イスラム教にも同じパターンの信仰がみられるね。最後の日には、すべての死者が三つの組に分けられる。選ばれた霊魂は神の玉座近くに召されて特別の栄誉にあずかれる。その次のグループは、天国のようなところにいたり、最後の組は灼熱の地獄におちる、というわけです。
4  北川 ゾロアスター教にも、死の直後に受ける「たましい」の裁きと、もう一つ、すべての人々を裁く最終的な審判が説かれています。
 池田 いま挙げた三つの宗教、つまり、キリスト教、イスラム教、ゾロアスター教は、すべて、東アジアは別にして、今日の世界に大きな影響を与えてきた宗教です。これに、キリスト教、イスラム教の母体であるユダヤ教を加えて、これらの宗教を並べてみると、非常に類似した点が目につく。
 一つには、私たちの生命は母の胎内に宿る瞬間に、神によって創られるということです。二番目には、死とともに肉体が崩れ去っても、「たましい」は永遠に生きつづける。第二の共通項は、この世の終わりに、一回だけ、すべての生命が生き返り、それぞれの神による裁きを受ける――ほぼ、こういった主張点ですね。
 川田 私、池田先生とクーデンホーフ=カレルギー伯(パン・ヨーロッパ運動家、哲学博士。一八九四年〜一九七二年)の『文明・西と東』(サンケイ新聞)の対談を読みましたが、そのなかで、次のようなク伯の言葉が鮮明に残っています。それは、東洋人と西洋の人々の死生観を絶妙な譬喩を用いて説明されていた個所です。「東洋では、生と死は、いわば本の中の一ページです。そのページをめくれば、つぎのページがでてくる、つまり新たな生と死がくりかえされる。(中略)ところがヨーロッパでは、人生とは一冊の本のようなもので、初めと終わりがあると考えられています」と発言されています。
 キリスト教にしても、他の西洋の宗教にしても、この一回かぎりの人生をどのように生きたかによって、死後の行き先がすべて決定され、その状態が未来永遠につづくと説くのですから、西洋人にとって、人生はやはり一冊の本でしょう。
 池田 唯物論者たちの考えも、一冊の本にたとえられそうだね。だが、西洋の宗教では、死後も生命は存続すると主張しているのに対して、唯物論者は、死後の生命を完全に否定する。死にさいして、生命は存続するのか、それともうたかたのごとく消え去ってしまうのか――ここに、宗教を信じる者と、唯物論的思考に走る人々との根本的な相違点があるといえよう。
 この生命の消滅論についてはあとまわしにすることにして、東洋の宗教に少しばかり耳をかたむけてみよう。さて、東洋の宗教というと、代表的なものは仏教であり、そしてヒンズー教だね。このなかで、とくに仏教については、あとでじっくり検討することにして、ここでは、ヒンズー教も含めて東洋的死生観の特徴をあげてみてはどうだろうか。
5  北川 先ほどまとめられた西洋の宗教の共通点を参考にしながら、それと対比していきますと、やはりもっとも顕著な特徴は「輪廻」説ですね。
 池田 私たちの生命は、死を境に無に帰してしまうのではなく、生と死を繰り返しつつ、かぎりなくつづいていくとする考え方です。人間生命は、神の創造するものでも、この世に姿を現した時点で初めて形成されるものでもない。永劫の昔から生死流転を繰り返し、無限の未来へと連続していくのが、生命の実相であるということになりましょう。
 クーデンホーフ=カレルギー伯のたとえにもあるように、現在の生というものは、ちょうど、本の一ページに相当します。しかも、生命の書物には、初めもなければ終わりもありません。いくらページをめくっても、多種多様な人生模様が永遠に繰り広げられていくのであって、生と死に終着駅はないのです。いいかえるならば、生死の道程は、永劫の長きにわたって連続していくのです。
 北川 それから、東洋の思想には、「業」つまり「カルマ」という発想があるのも特徴的ですね。
 池田 「業」の考え方をもたらすのは、生命内在の因果律です。西洋の宗教が、現在の運命を神の意志によるとし、死後の運命を神の裁きにゆだねるのに対して、東洋の死生観では、人間生命における幸とか不幸などを、その人の生命の変転のなかに起きた因果の法則としてとらえるのです。
 とくに仏教においては、現世に遭遇する苦と楽の本質的な原因を、この人生の始まった時をつきぬけて、無限の過去に探り、さらには、現在の行為のおよぼす影響性を、かぎりない未来にまで追跡していく。こうした仏教の基本理念を、天台大師は『法華玄義』のなかで、明快に「今我が疾苦は皆過去に由る。今生の修福しゅふくは報将来に在り」(大正三十三巻748㌻)と記しています。
 川田 たとえば、私がいま、この世の地獄ともいうべき苦悩を味わっているとします。それも、産声をあげてからずっと、苦しみの底をはいまわるような人生だったとします。
 西洋の宗教からしますと、私は神によってつくられたのですから、こんな私の人生をもたらした神なるものを恨むほかはないわけです。神とはなんと冷酷なものだろうか、と――。
 池田 しかし、地獄をひきおこす根本的な原因が、とりもなおさず、自己の生命そのものに内在している事実に眼を開くと、この苦しみの因をみずからの責任として引き受け、それを打ち破りつつ、不動の幸福境涯をつかみとろうとする勇気がわきおこってくる。未来に託する希望の星が、無明の闇をつらぬいて輝き始めるのではないだろうか。
 少なくとも現代の私たちにとって、神に自己をゆだねる生き方よりは東洋の思想のほうが、納得のいく考え方だと思えます。トインビー博士も、東洋の宗教のほうが合理的でもあるし、人間本来の宿命、運命を十三分に説明しうるといわれていた。
6  川田 キリスト教、イスラム教、仏教などは、博士の分類では高等宗教に入りますね。
 池田 そのとおりです。博士は、大宇宙に生と死のリズムを奏でる不滅の実在――それを、宇宙の背後に存在する「究極の精神的実在」と名づけているが――その実在に迫り、なんらかの形でふれようとする宗教をさして、高等宗教と呼んでいます。高等宗教は、すべて、宇宙と生命との本源に肉薄しようとする姿勢をたもっているからこそ、説き方は違っても、一つの合意点に達することができたのでしょう。そこには、細部では違いがあっても、生命の永存性への共通の観念があります。
 いや、高等宗教のみならず、ネアンデルタール人の大古から、「マナ」信仰とか「アニミズム」をも含めて、宗教の基底部には、生命の永存性への信念が深く根を張っている。宗教のなかには、迷信に近いものもあるし、呪術と化したものもある。また、高等宗教といえども、真実とは似ても似つかぬ空想とか、幻想の世界を描きだしている部分もある。だが、それらの変形や歪曲にあっても、なおかつ、生命の″永遠性″だけは、百万年とも、三百五十万年を超すともいわれる人類の心の奥を流れつづけてきた不変の信念といえるのではあるまいか。
 博士は、高等宗教のなかに、究極の実在へと肉薄する先哲の英知を見ぬいておられる。その究極の実在を、私たちの言葉で「宇宙生命」とおきかえれば、宗教の眼は宇宙本源の生命へと開かれていったのではないかと、私は主張したいのです。つまり、人類の英知は、死との対決を通じて、宇宙生命の根源に迫り、万物の光輝あるリズムを織りなす宇宙本源の実在にともなう永遠性をつかみとったものだと思うのです。
 北川 しかし、それが、宗教によって、死後の運命についての種々の異説を生じたのは、どうしてでしょうか。
 池田 その疑問もとうぜんですね。この点に関して、博士は重大な発言をされました。それは、高等宗教はすべて、仏法用語での「空」につきあたっている、との意味でした。また、博士の提唱される「究極の精神的実在」も、「空」の次元にあると考えられているようです。
 北川 「空」としての人間生命と宇宙そのものとのあり方を、どのようにとらえるかによって、各宗教の説き方も違ってくるのですね。
 池田 すべての宗教は「空」の状態においてダイナミックに律動する不滅の実在にと迫っていった。そこから、あらゆる生命的存在の永遠性だけはつかみとることができたのです。だが、具体的に、いかなる状態で永存するのかとなると、千差万別の食い違いをみせている。とすると、私たちがこれから解明していかなければならない問題の焦点もはっきりしてくるのではないだろうか。
 川田 「空」における生命を直視することです。「空」の概念こそが、生と死の実相を正しく解明するための鍵だと思われます。
7  死後の運命――永存か消滅か
 北川 京都大学の田中美知太郎名誉教授の著書の一つに『人生論風に』(新潮社。以下、同書より引用)と題した論文があります。論文というより、軽妙なタッチで書かれた随筆集と呼んだほうが適当かもしれませんが、そのなかに「輪廻」説についての氏の意見が記されています。
 田中名誉教授は、あらためて紹介するまでもなく、ギリシャ哲学の第一人者ですが、私が非常におもしろく読んだのは、ギリシャのピュタゴラス派の説く輪廻転生の話です。そこに、一つの寓話が出てきます。
 あるとき、ピュタゴラス(宗教家、哲学者、数学者。前五七〇年頃〜?)が道を歩いていると、小犬がいじめられていました。すると、彼は次のように叫んだというのです。「やめろ、なぐってはいけない。これはきっとわたしの友人のたましいにちがいない。なき声をきいていると、わたしにはそれがわかるのだ」と――。
 川田 本当にわかるのですかね。
 北川 まあ、それはともかくとして、田中氏のあげられる、もう一つの説話をあげてみますと、それはギリシャの喜劇作品の一つですが、借金を返さない男が法廷に呼びだされました。裁判官の鋭い追及に対して、その男は胸を張って答えたというのです。「かつて金を借りた者は、現在の自分とは全く別人であるから、いま借金を払う理由はない」と自己弁護したのです。
 池田 なるほど。一面の真理をついているね。よく、赤ん坊のころの写真を見せられて、これが同一人かと驚くことがある。こんなに愛らしい顔をしていても、大人になるとずいぶん変わってしまうものだと――。(笑い)
 川田 親しい友人でも、小学生のころの写真を出されて、どこにいるかを探すとなると、困惑することもあります。
 池田 性格なども、小さいころの面影を残している部分はあったとしても、やはり、違ってくる。とくに、生死におよぶ経験をくぐりぬけると、人の性分などが、同一人物とは思えないほど一変してしまう場合も少なくはないでしょう。
 こうした側面からいえば、借金を返そうとしない男の理屈は、筋がとおっているようでもある。借金をした自己はすでになく、返済の義務を負うのは借金をした自己である。現在の自分は別人だから、裁判にかけられるのは見当違いだ、と居直ったのだね。
 北川 でも、私たちは、姿、形こそ変化しても、過去の自分と現在の自己が、同一の人間であることを自覚し、また信じています。本気で、一瞬前の自分と、この瞬間の私が、まったく別の人間であると信じている人はいないでしょう。
 そうしますと、過去と現在の自分の間の数々の相違と変化にもかかわらず、そこに持続し、変化しなかったものがなければならない。いいかえると、自己同一性を保証するものがなければならない。そこから、田中氏は、一種の「たましい」の不滅を考えなければ、生命の同一性は理解しがたいと結論されるのです。
 池田 田中氏のいわれる「たましい」とは、仏法でいう「如是相」と「如是性」に対する「如是体」という考え方と軌を一にするようです。つまり、変化相にとらわれず、変化に即してあらわれる生命の主体的実在ということで、それを見ぬかれている点は、注目に値しますね。
8  北川 さて、ここに、最初にあげました輪廻説との関わりあいが出てくるわけです。少し長いのですが、田中氏の考えを忠実にあらわすために、引用してみることにします。
 「輪廻転生説では、『たましい』の同一性と持続性が考えられているわけであって、ただ犬から人間に生れかわるときに、『レーテー』(忘却)の水をのまされるので、記憶の上では何のつながりもないように思われるだけだと説明される。赤ん坊のわたしと現在のわたしの間だって、記憶の連続性があるとは言えない。その間の連続性と同一性を保証するものは何なのか。霊魂不滅の説というと現在のわれわれは、これまた真面目に取り上げることを恥とするかも知れない。しかし赤ん坊と現在の自分とをつなぐ何ものかを信ずることは、むかしの人が『たましい』の不滅を信じた事情と、どれだけの違いがあるのか疑問である」と述べられています。
 ここに出てくる「たましい」という言葉を、生命の「我」とおきかえると、私たちの主張ともほぼ一致するのではないでしょうか。
 池田 みごとな論法です。人間は誕生以前の記憶をもちあわせていないから、現代の人々は、私たちの生命は母の胎内で初めて生じたものであると考えがちでしょう。しかし、田中氏の論法を借りると、それは赤ん坊のころと現在の自分の同一性を否定するにも等しいといえる。
 少なくとも、小さいころの自分と今の自分が、同じ生命主体であると信ずるならば、自己の生命が、生と死を繰り返しつつ連続していくのだという説は軽々しく否定したり、また、嘲笑することはできないわけです。
 川田 しかし唯物論者たちは、生命の永続などまったくのナンセンスだと笑うにちがいありません。また、知識人にも、たとえ死後の生命を否定しないまでも、みずからはそれを信じようとしない人がいるでしょう。信じたくないのかもしれません。
 最近、中野好夫氏の随想を読んだのですが、そこには「私自身の願いといえば、できることなら肉体をもった私の、この世での生命が終るとき、霊魂もいっしょに消滅してくれるなら、どんなにうれしいことか、心からそれを願っている」(『人間の死にかた』新潮社)とありました。
 池田 自己の消滅を願う人もいれば、逆に、死に臨んでも死にきれない怨念をかかえて生きざるをえない庶民も決して少なくはない。しかし、個人の願望はそれとして、私たちの生命が朝日に照らされた露のごとく消えていくということには、いかなる根拠があるのだろうか。
9  川田 そのあとに「といって、むろん私には、死後の生存を否定する絶対の証拠があるわけではない。多分は私の考える通りに、肉体細胞の死の瞬間に、私の霊魂もまたいっさい無に帰し、ひどくサバサバした話になるのだろうと、ひそかに高をくくっているが、さればとて、私の願いがそのまま実現するともかぎらない」(同前)と記されているのです。
 池田 中野氏ばかりではなく、死後の生命の存続を否定する根拠などというものは、ほとんど見いだしえないのではないかとさえ思われる。現代人は、死とともに生命が消滅することを、自明の理のように思いがちだが、これほど大きな錯覚もないでしょう。
 この私たちの生命が、無に帰することを前提にして、死の恐怖におびえる人もいるし、また、現世の苦から逃れるために一挙に死を選ぼうとする人もいる。ところが、少し精密に考えると、前提そのものがまったくの幻想だったりする。
 さて、生命の消滅を主張する人々からは、なるほど、各種の理由というか、証拠に似たものが示されています。じつにさまざまな主張がなされているが、私なりにまとめてみると、ほば、次のようになるのではないかと思う。
 一つは、各種の体験にもとづくものです。体験といっても、死そのものを経験するわけではない。死の近くまでいって、死の影を見たと信じている人々の話とか、手術室で麻酔をかけられたときの状況から、死を類推しようとするのだね。
 二番目には、肉体が崩壊し、かんたんな化合物とか、元素にまで分解してしまうことから、私たちの生命が断絶したと考えるのです。
 第三番目の論拠は、唯物論者が金科玉条の武器として振りまわす理論だが、彼らも、人間生命は、精神と肉体との統合体であると考える。だが、精神の働きといえども、物質の運動、つまり、肉体の活動から生じるのだから――これは、唯物論者の主張だが――、肉体の崩壊は同時に、精神の消滅をひきおこすというのです。
 このほかにも、いろいろとあげることもできるだろうが、ここでは、これら主要な論拠を検討してみるにとどめたい。
10  川田 死の影を垣間見たと称するのは、絶望の淵をさまよい、九死に一生を得た人とか、海や山で遭難して、ようやく生き返ったような人など、大手術を苦闘の末に乗り越えた人たちです。
 これらの人々の体験は、各人各様ですが、一つだけ実例をあげてみますと、『ビルマの竪琴』の著者でもある竹山道雄氏の「死の意味(二)」という論題で書かれたものがあります。小学校六年生のとき、大怪我をして失神し、そのあと、クロロホルムの全身麻酔をかけての大手術が行われます。
 「鼻と口にマスクをして、その上にクロロホルムを一滴ずつたらしてゆくのだが、つき刺すような嘔吐をもよおすような強い匂いがしみこむ。(中略)命ぜられるままに『一つ――、二つ――』と声をだして唱えていると、頭蓋骨の中が一面に波たって、その中にきしむような音と打つ音とがきこえる。それがたかまって、ついにもう頭の中がやぶれるかと思うときに、急に弱くなって、『ああ、いま自分は眠ってゆくな』と感じる。そして混沌たる渦の中にひきこまれて、ついに知覚が消えてしまう」(「自由」昭和三十七年一月号、自由社)との描写がなされています。こうした意識の喪失をもって、竹山氏は死そのものと判断するのです。
 池田 眠りにおちいっていくような実感は、たしかに死の影を見たと同じようなことといいうるかもしれない。しかし、それを「死」と同じだと結論するのは、いささか早計にすぎないだろうか。私たちの「我」は、意識へとあらわれつつも、それを含んで広大な無意識の領域をつかさどる生命の主体的実在だからです。生から死へ近づいていったとする体験が出たところで、私も、一つの実例をあげてみることにしよう。
 トインビー博士の編纂による『死について』(筑摩書房)と題した論文集がある。イギリスの一流の学者が名を連ねる、きわめて意欲的な論文集だが、そのなかに、超心理学者ロザリンド・ヘイウッド氏の「死に対する態度――夢その他の『肉体離脱』体験にかんがみて」(戸田基訳)という文章が載せられている。そのなかで一つの体験として、医師であり解剖学の教授でもあったゲッデス卿(政治家。一八七九年〜一九五四年)の講演を取り上げて論じられている。
 その体験というのは、ゲッデス教授が重病にかかって、脈博も呼吸もまったく数えられなくなったときのことです。彼は、どのような場合にも意識が朦朧としたことはなかったと念を押してから話を進めているが、病の極限で、突如、意識が分かれていくのに気づいたという。
 ちょうど、私たちが、種々の夢を見ていて、その夢を見ている自分を、「ああ、私はいま夢を見ているな」と実感しているもう一人の自己を意識することがある。こわい夢だと、早くさめてほしいと願うのだが、こんな場合にかぎって悪夢は延々とつづいていく。夢を見ていることを熟知しながら、喜んだり、苦しんだり、悲しんだりする自分――それが自己意識といえよう。学問的には、自我の分裂とか、分離などといっているが、このような状態を思い出しながら、聞いてもらうとわかりやすいでしょう。
 教授は、話の都合上、意識を二つの種類に分けている。一つの意識は、肉体にともなう意識で、もう一つの意識は、それを察知し、実感している自己意識です。私たちが、健全な生を営んでいるときには、この二つの意識は融合し、一体となって躍動している。
11  川田 実際、胃痛などが襲ってきますと、痛みにともなう意識と、「ああ、私はいま、胃が痛いのだ」と感じている心が分かれることがありますね。
 池田 それでも、一般には、この二つの心が、まったく分離してしまうことはないでしょう。ところが、教授の体験によると、肉体にともなう意識が分裂しはじめるのだね。心臓とか、肝臓とか、大脳といった各種の臓器や組織そのものに密着した意識が、バラバラになっていくのに気づいたという。この気づくほうの心は、肉体に即した意識の崩壊に気づきながら、そのまま、より大きな生命の流れのなかに融けこんでいくようであった、と教授は述懐している。
 こうした体験を「肉体離脱」体験というのだが、それらをふまえて、ヘイウッド氏は、「この体験がひょっとして死は消滅に通ずるのではなく、より広い生命に通ずるのだということを示している可能性があるだろうか」(前掲書)といっているのです。謙虚な表現の仕方だが、この学者は、″より大きな生命″への流入というか、融合を心の底から信じていたようだね。
 川田 そうしたゲッデス教授の話を聞きますと、麻酔とか、頭を打って失神した、といった意識喪失の経験からのみ、死の事実を想像しては、大きな誤りを犯しかねないことがわかりますね。
 池田 ちょうど、ぐっすり眠りこんでいる場合と同様に、意識が、一時的に消失したように思えるときにも、その意識――つまり、私たちの心――のすべてが無に帰したのではないのです。むしろ、意識が生命の奥へと沈んでいって、宇宙の源流と融けあっていくのだと考えるほうが自然ではないだろうか。
 川田 「肉体離脱」体験からしても、先ほど、池田先生の示された、生命が断絶するとする二番目の根拠も、絶対のものとはいえないことがわかります。
 池田 肉体は、終局的には元素にまで崩れ去ってしまうだろう。だが、それをもって、私たちの生命的主体そのものが消滅し、生が断絶するときめつけることはできないでしょう。田中氏が、輪廻説とか、一種の「たましい」の不滅などをもちだされているのも、このあたりの深い思索にもとづくものであろうと、私には推測されるのです。
12  北川 唯物論者たちの最後の論拠には、生命に対する理解の仕方に独特なものがあるようです。つまり、物質の運動――特殊な形での運動かもしれませんが――が、意識を発生させ、精神作用を生むということです。
 池田 物質の運動といっても、具体的に精神活動に関わるのは、大脳皮質をはじめとする脳細胞だが、もし、脳細胞が意識を生みだすとすれば、唯物論を信奉する人々の主張も、ある程度、うなずけるというものでしょう。肉体的な基盤を失うと同時に、意識もまた消失してしまうと考えられないこともありません。
 仏法の色心不二の考え方によれば、脳細胞と精神作用や意識の働きは、密接不可分の関係にあるのだが、それは決して、脳細胞の働きが意識を生むというのではないのです。たしかに、脳細胞の精密無比な活動なくして、意識の微妙な営みをあらわすことはできない。しかし、それは、脳から意識が発生するからではなくして、意識とか、心の働きが顕在化する肉体の場が脳細胞であると考えたいのです。
 川田 いま、脳と意識の関連性においても、ふたたびベルクソンが見直されてきていると聞きますが……。
 池田 真理に肉薄した人の学説は、いかなる反発があっても、また、一時的に人々の心から離れることがあっても、かならず、時代を超え、民族を超えて、よみがえってくるものです。周知のように、ベルクソンも、唯物論者の主張を理路整然と打ち破っているが、「心と身体」と題する講演からのみごとなたとえを取り上げることにしたい。(「心と身体」飯田照明訳、『世界の名著53ベルクソン』所収、中央公論社、参照)
 この生の哲学者は、脳と意識の関係を、洋服かけと洋服の例を引いて説明している。洋服かけといっても、彼が引き合いに出すのは、洋服をかける釘だが、それでは現代感覚に合わないかもしれないので、ハンガーといいかえて述べていくことにしよう。
 さて、洋服がハンガーにかかっているとしよう。ハンガーが落ちれば、洋服も落ちる。ハンガーが動くと服も揺れる。だが、あたりまえのことだが、ハンガーと洋服は同じものだとはいえないね。だから、ハンガーをどのようにくわしく調べても、洋服そのものを知ることはできないでしょう。洋服の大きさとか、生地の種類とか、どんな形をしているかを知ろうとすれば、ハンガーではなく、洋服そのものを調査する必要があるだろうね。
 脳細胞と意識の関係もこれと同じで、ハンガーを脳細胞とし、洋服を意識とすると、意識はたしかに脳にかかっている。しかし、脳細胞だけをどのように調べても、意識の内容まではわからない。また、ハンガーから洋服が生まれたのではないように、脳細胞から意識が発生したのでもないのです。
 川田 でも、ハンガーに釘でも出ていると、洋服に穴があきますね。
 池田 だから、細胞が傷つけられると、種々の精神障害を起こしたり、異常をきたすのです。さらには、死によって、脳細胞が分解してしまうと、意識は、その発現の場を失うわけです。
 しかし、それでも意識と無意識層まで含んだ生命の全体が消滅してしまうのではない。あくまで、顕在化の場がなくなっただけであって、さまざまな心の働きは、生命そのものの内奥に宇宙生命との妙なる共鳴を奏でつつ、脈動していると考えざるをえないわけです。
 北川 以上で、死とともに生命は消失するとする三つの根拠をくつがえしたことになりそうです。しかも、唯物論者がかかげる論点に即して、かえって生命の存続とか、連続性までも指向できたと思います。
 池田 ベルクソンも、「心と身体」の講演で、前述したような脳と意識の関係を詳述したのち、心は脳の働きへとあらわれつつも、そこからあふれているのだから「心が、死後も生き残るということは、ありうることとなり、肯定する人ではなくて、今度は否定する人がそれを証明する義務を負うことになります」(前掲書)と結論しているね。
 さて、それはともかく、生命がどのような状態で存続するかとなれば、あらゆる高等宗教がいきついたところの「空」を探らなければならないわけですが、少なくとも、本章での話しあいからでも、死後の生命の謎を解く鍵は宗教に秘められているという事実だけは、すべての現代人に、声を大にして主張しなければなるまい。
 たとえ、どのように頑迷な唯物論者に対しても、一歩もひるんだり、惑ったりする必要はない。何故ならば、これだけの生命連続の論拠をかかげた以上は、こんどは私たちではなく、唯物論者のほうが生の断絶を立証する義務を負っているのだから――。

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