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日蓮大聖人・池田大作

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個性化の原理  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

前後
1  「五陰世間」について
 池田 本書の「人間らしい生き方」の章から始まった、仏法理念を中核にすえての生命探索も、ようやく、一つの締めくくりの段階を迎えたようだね。
 北川 「十界論」から始まって、「十界互具論」へとつづき、それから「十如是論」へと発展してきました。この三つの法則というか、原理みたいなものを組み合わせますと、人間生命を中心にしてですが、生命というものの全体像が、かなり鮮明に浮かび上がってくるようです。
 池田 そこで、本章では、少し、重複する個所が出てくるかもしれないが、これまでのことをまとめながら、また、それを基盤にして、仏法が解明している生命哲理をさらに深く探ってみることにしよう。
 さて、十界というのは、生命の「我」の実感を基準にして、その生命体のあらわす境涯を分類したものと考えられる。別の見方をすれば、生命の変化相ともいうことができる。私たちの生命も、一瞬をとらえれば、かならず十界のうち、いずれかの境涯をあらわしていて、その生命の内奥には「空」の状態として、他のすべての境涯を包含している。いいかえれば、十界のすべてに、他の十界をそなえているということであり、それを十界互具の方程式と名づけてきた。
 川田 十界互具のことを百界ともいいますが。
 池田 数量的に表現すれば、たしかに百界になる。十界のそれぞれに、十界をそなえているのだからね。だが、百界といった場合も、その意味は、十界が、一つの生命体において、融和し、一体となりながら律動しているという事実をさすことに変わりはないようです。
 北川 この百界に十如是を組み合わせて、仏法用語では、百界千如といいあらわしています。これは、百界のすべてに十如是がそなわっているから千如是になる、といったようなことでしょうか。
 池田 計算すればそのとおりだが、そういった数字が、いったい何をあらわそうとしているのかを、明らかにする必要がありそうだね。百界千如の意味するところを、一つの具体例をあげながら考えてみよう。
 たとえばよく知られるベトナム戦争の報道写真がある。戦火で、もはや息も絶えた幼児を、腕も折れんばかりに抱きしめている母親の姿が写されている。もし、仏法の十界論を知った人が、悲しみにうちひしがれた母親の姿を見れば、身も心も、いや、生命全体が地獄の苦悶にあえいでいると断言してはばからないにちがいないと思う。
 北川 つまり、如是相も、如是性も、そして、如是体そのものも、苦悩の極致を実感しているといえますね。
 池田 では、その女性が、この世のものとも思われぬ地獄の責めを味わわなければならないのは、どうしてだろうか。
 北川 それは、子どもを殺されたからです。
 池田 流れ弾に当たったか、大量殺戮のとばっちりをうけたか、そのあたりはさだかでないにしても、幼児の死が、母の嘆きを呼びおこしたことだけは明らかです。
 つまり、幼児の死が「縁」となって、一人の女性の生命の奥から苦悶の「因」が呼びさまされ、その生命のもっている「力」が「作」となって働き、そこに、生死流転の「果報」を生みだしていく。しかもそれらが、一瞬の生命に「本末究竟等」として組み込まれ、たがいに関連しあいつつも、融合して、苦しみの生を織りなしていく。少なくとも、一枚の写真から、これだけのことは読みとれるのではないでしょうか。
2  北川 地獄界を顕現した実例をあげられましたが、他の境涯についても同じように考察していけばよいわけですね。
 池田 もし、その写真の女性が、将来、ベトナムの大地に真実の平和が訪れて、まことに人間らしい生を享受することが可能になったとしよう。そのときには、仏界とか、菩薩界とか、人界などと、それにからみあった十如是の脈動を顕在化することも不可能ではないと思う。
 その女性ばかりではない。すべての人に、いや、すべての生命的存在に、十界が互具し、しかも、それに関わりあつた十如是が渾然一体となって組み込まれている。このような事実というか、実相をさして、百界千如と表現したのだ、といっておきたい。
 川田 そうしますと、百界千如というのは、どの生命体にも組み込まれ、また、いかなる瞬間にも見いだせる原理と考えられますね。
 池田 そういった意味では、普遍性をもった原理と称していいね。
 川田 ところが、現実の私たちの目前にある生命体は、どれ一つとして同じ機構をもったり、働きを示すものはありません。ぜんぶ、それぞれ独自の個性をもち、特質を示しています。たとえば、ベトナムの女性と同じように、ある瞬間、地獄界をあらわしている生命体を考えただけでも、ほとんど無限に近い差別の姿を示しています。
 職業柄、どうしても直面するのは疾病ですが、急激な胃痛とか、腹痛に襲われて、七転八倒している青年がいるとします。この青年の、この瞬間の境涯は、まぎれもなく地獄界で、それに関連した十如是のすべてが働いています。このあたりまでは、十界互具論と十如是論を組み合わせますと、明瞭に描きだすことができます。
 でも、たとえ、これだけのことが明らかになったとしても、子を失った母親と、疾病に責められる青年の具体的な相違点は、どこにも浮かび上がっていません。どちらの生命も、苦しみにあえぎ、地獄の「因果」がひきずりだされ、生命の力がほとんど失われてしまっている、などといった共通の面を説明できるだけです。にもかかわらず、この二人には、ちょっと考えただけでも、男と女の違いがある。苦しみの内容がまったく異なっている。まあ、こういった事実に気づくわけです。
 こうして考えてきますと、百界千如が生命の普遍的な原理であるにしても、ただ、それだけでは、生命の全体像をとらえきれていないのではないか、と思われてくるのです。少なくとも、個々の生命体の間に見いだされる相違点というか、差別の姿を解明するような一つの原理が不足している。
 池田 そこのところが本章のポイントになる。原理的にいうと、どの生命も百界千如をそなえているから無差別と考えられる。しかし、この宇宙にあらわれでた生命像は、たしかに、無限の差別相を見せています。
 ここで、少し注意しておきたいのは、私たちが、この生命論で使う「差別」という言葉ですが、これは、あくまで、個々の生命体にそなわった個性とか、特質にもとづくものであって、たとえば、社会的な差別観とか、人種差別などという場合の差別とは、言葉は同じであっても、その内容は異なっている。私たちが使う場合には、生命そのものに本然的にそなわった差別であり、個々の生命体の間の特質を示すような相違点とでもいったもののことです。
 さて、本筋にもどって、私たちの生命は、普遍的な原理を含みながらも、現実世界においては、それぞれの個性に立脚した差別の姿を示している。この事実に盲目であることは許されまい。
 とすると、現実世界で繰り広げられる、ありとあらゆる生命活動の間にある差別相は、どういうところから生ずるのか。つまり、原理的には、まったく無差別の実在である生命は、いかなる法則、いかなる方程式にのっとって、個性豊かな事実存在へとあらわれでるのであろうか。
 私は、百界千如という普遍の法則が、個々の生命体における差別相へと顕在化し、開かれていく様相を解きあかすための原理を「個性化の原理」と名づけたいと思う。
3  北川 つまり、個性化の原理にのっとって、あらゆる生命的存在における個性が顕現し、特質が開花し、種々の相違点が生まれるというわけですね。
 池田 そこで、この原理というか、法則を見いだすための手がかりとして、先ほどから話題にのぼっている二つの実例を、さらに考察してみよう。
 さて、こんどは、私のほうからの質問だが、死せるわが子を抱きしめた母親と、ベッドのうえで苦吟する若者とは、具体的な面で、どういう違いが目につくのだろうか。
 川田 生理学的には、男性と女性です。もっと一般化しますと、肉体自体が一人一人ちがいますから……。
 池田 仏法用語を使うと、色心不二という場合の「色」になるね。これは、人間の生命でも、草木でも、石ころでも、すべて違っています。いいかえれば、独自の特徴を描きだしている。
 北川 色心不二の「心」のほうも、その内容を探りますと、明瞭な差異があります。たとえば母親ですが、彼女の心は、幼児の死を痛いほど感じとっています。だからこそ、その女性のたとえようもない悲しみが訪れるのです。
 池田 その後の、母親の心を、もう少し描写してみよう。
 悲しみとともに、最愛の子どものすべてが、母の生命に焼きついていく。あどけない顔、かわいい小さな手、いまはすでに閉じられた目など、死せるわが子の姿は、そのまま母の心に受けいれられていると思われる。
 すると、ほんの一瞬前までのほほえみが浮かび上がり、父と子と母との楽しい過去の思い出がよみがえってくるであろう。そして、また、父を戦死させ、子を失っても生きなければならない未来の苦痛が、その女性の心にあふれているにちがいあるまい。
 だが、たとえ、わが子の息が絶えても、愛と力のつづくかぎり、ひとときでも長く、わが胸に抱きとっていたいと決意するのも、人間本来の母性愛ではなかろうか。
 北川 その決意が、永劫にわたって、この子をはなすまいとでもしているような、一枚の写真に結実しているのですね。
 池田 これで、母親の心を分析したわけだが、同じような観点から、病に倒れた若者の場合を考えてみることにしたい。
 川田 まず、青年は、胃とか、腹部が痛むという事実を了解しています。いや、痛みが襲ってくるのは、胃の上部であるとか、もう少し右のほうだとか、自分なりに分別し、考えているといったほうが適切でしょう。
 それから、青年の心は、その痛みをぜんぶ、そのまま受けいれます。この場合は、外界ではなく、若者の生命の「我」自体が、自己の肉体の変化を感じとっているのです。
 池田 そうすると、青年の心に、じつに多様な想いが去来するだろうね。呼びにいった医師はもう到着するころだろうとか、胃壁が大部ただれているかもしれないとか、もしかすると胃癌ではないかとか、そういったことが、とめどもなく若者の心を駆けめぐるであろう。
 その想いが、もう少しの辛抱だから、できるだけ痛みを少なくするために、身体を極度に曲げていようという意志をひきおこし、青年の筋肉を動かしていく。
 川田 激痛をやわらげるための七転八倒ですね。こうして、二つの実例を並べてみますと、その違いがはっきりするようです。同じ地獄の境涯を顕現しているといっても、その内容はずいぶん違うものですね。
 池田 だが、もう少し精密に、この二つの例を比較してみると、たしかに生命活動の内容はまったく異なっています。にもかかわらず、心の働きの種類というか、活動性の性質には、共通の要素が発見できるのではないでしょうか。
 具体的にいうと、母親にも、若者にも、まことに人間らしい分別の心がある。自分の直面する事柄とか、対象の意味するところを、判断し、思考する働きが見いだされます。
 それから、わが子の姿であれ、自己の肉体であれ、生命の「我」の対象とするものを受けいれる働きがある、と同時に、さまざまな想いを描き、その想いが、意志をとおして身体の行動につながっていく。
 こういった生命の活動性を、仏法用語で、きわめて端的に表現すると、最初が「識」、その次が「受」、それから「想」と「行」の働きがあり、肉体的行動が「色」ということになりましょう。この、五つの、私たちにとって主要な活動性を、仏法では「五陰」と称しているのです。
4  北川 ふつう五陰といいますと、色、受、想、行、識というように表現していますが……。
 池田 色心不二の原理を適用すると、五陰の色はとうぜん色法の世界をさし、受と想と行と識は心法の活動性と考えられる。この場合、色法の世界は、心法の働きと「不二」の関係にある。だから、色は、他の四陰の前提でもあり、しかも、行陰によってひきおこされる性質をもっていると考えられます。
 また、識陰についても、分別し判断する心は、受とか、想とか、行とかの起点ともなり、原動力であるとともに、これらの心の働きをまとめあげる働きをも有している。わかりやすくいうと、識陰を中心にして、他の心の活動が織りなされているのです。
 北川 原動力と考えると、識陰から、受、想、行と移り、その人の生命活動を生命の内奥から支え、まとめあげている役割に焦点をあてると、五陰のなかで、一番最後に記したほうがわかりやすい、ということですね。
 池田 このように、五陰にしても、ただ平面的に並んでいるのではなく、むしろ、立体的に組み合わされていると考えなければならないようです。少しむずかしくなってきたようだが、とりあえず、これだけのことを確認しあったうえで、仏法に説かれる五陰の、明確な定義を、日蓮大聖人の御書のなかから探りだしてみることにしよう。
 川田 「一念三千理事」には次のようにあります。読みあげてみますと、「五陰とは新訳には五蘊と云うなり陰とは聚集の義なり一に色陰・五色是なり・二に受陰・領納是なり・三に想陰・倶舎に云く想は像を取るを体と為すと文・四に行陰・造作是行なり・五に識陰・了別是れ識なり・止の五に婆沙を引いて云く識・先ず了別し・次に受は領納し・相は相貌そうみょうを取り・行は違従を起し・色は行に由つて感ず」ということになります。
 池田 この御文にはきわめて深い種々の内容がこめられているが、私たちの、いままでの考察を整理する意味合いから、天台の『摩訶止観』の文を中心にして、五陰のそれぞれを定義してみよう。
 川田 「止の五に婆沙を引いて云く」とあるところからですね。
 池田 生命活動の流れに即しての五陰の解明です。「識・先ず了別し」(大正四十六巻51㌻)とは、思慮し、分別し、判断する心をあらわしています。私たちは、識陰によって、対象とするものの″意味″をくみとることができる。むろん、この識には、無意識の層も含めて、宇宙生命の源流にまで達する広大な心の領域が組み込まれていると思われる。だから、識陰の胎動とともに、対象を受けいれるという心が活動を始めるのです。
 北川 受陰とは「領納」と記されています。
 池田 「受け納める」とか「受けいれる」ということです。対象を心にがっちりと受けとめる――。
5  北川 想陰については、「倶舎論」には「像を取るを体と為す」(大正二十九巻3㌻)とあり、止観には十住毘婆沙論をひいて「相貌を取り」(大正四十六巻52㌻)とあります。
 池田 想いを描くことだと思う。外界の事物や人間の姿などの、うつしとれた輪郭が描かれることもある。しかし、人の心の想像力は、対象を中心にしながらも、それにとどまらず、時間と空間を超えて、あらゆる領域に広がっていくでしょう。
 古い時代の回想もあれば、未来の理想像を描くこともある。たんなる空想に近いものまで、胸中を彩る場合もある。
 でも、どのような像をとるにしても、その想陰から、では、それに対してどう行動するかという意識、行動への発動性を生みだしていく。これが「行陰・造作是行なり」と記された意味です。
 川田 また「行は違従を起し」(同㌻)と述べていますが、どういう事実をさすのでしょうか。
 池田 対象に積極的に向かっていくこともあるし、また逆に、退いていくというか、逃げ腰になる場合もありえます。たとえば、母親が、わが子を抱きしめるのは前者であり、青年が激痛から逃れるために、身体をエビのように曲げるのは後者に相当すると考えられます。
 川田 同じく止観の言葉ですが「色は行に由って感ず」(同㌻)とあるのは、どのような働きを示しているのでしょうか。
 池田 身体と心の関連をとらえたおもしろい表現です。私たちの決意とか、意志は、身体のうえに表現される。また肉体的なものに対する感覚は、行陰つまり生命のもつ発動性がそこに反映されてこそ実感することができるのです。
 この事実を理解するために、まったく架空のことだが、逆の場合を考えてみてほしい。つまり、行動を起こそうという心の働きがなければ、肉体の働きとか、存在さえも感じることはできないでしょう。
6  川田 たとえば、わが子をなくしたくないという強い意志が、幼児を抱きしめる行為をひきおこすということですね。もし、母の心に、子どもを抱きたいとする決意がなければ、腕に力などこもりませんし、ふつうは、腕の存在さえ意識することもないと思われます。
 池田 身体のエネルギーの充満と、それを呼びおこす心の働きは、相互に関連しあいつつ、一つの生命現象を織りなしているのがありのままの真実だろうね。もっと正確に表現すると、私たちの生命自体として顕現する生命エネルギーの、心的な働きが行陰となり、身体的なエネルギーが色陰となる。
 北川 識陰とか、受陰とか、想陰もまた、心的エネルギーのあらわれですから、行陰を含めますと、このような心の働きは、それ自体が、色陰としての身体の力と「不二」の関係にあると結論できます。したがって、行陰そのものに、色陰を感じるという私たちの実感自体が、色心は「不二」であるとの明瞭な証拠となりうるのですね。
 池田 色心不二の、実感をとおしての証明と考えてよいでしょう。まあ、このあたりで、五陰の関連性と定義が終わったわけだけれども、この五陰という色心の働きのうえに、人それぞれによって差別が生じてくることを、仏法では「五陰世間」と称しています。この場合の「世間」とは「三重秘伝抄」に「世間とは即ち是れ差別の義なり」(六巻抄17㌻)とあるように、生命本然の差別という意味です。
 さて、たしかに、ベトナムの母親にも、ベッドのうえの青年にも、またすべての人々の生命にも、五陰という活動性はそなわっている。だが、その五陰を使って描きだす生命内容は千差万別であり、明らかな個性を認めることができます。しかも、その内容にその人独自の性格とか、特質などがにじみでているように思われる。
 川田 いいかえますと、私たちの個性とか特徴などは、五陰の働きとして顕在化し、生命内容に盛りこまれるのですね。
 池田 ゆえに、私たちは、五陰という観点から各人の独自性、個別性を判別することができるのです。つまり、五陰世間は、すべての生命的存在の相違点を見ぬき、判別していくための尺度であり、一つの″鏡″の役割を果たす原理だといえましょう。
 同時に、私たちの生命は、百界千如の普遍的な原理に立脚しつつも、事実存在としては、五陰のうえに差異を生じさせているのですから、五陰世間は、すべての人々を個別化し、個性化する一つの法則と考えられます。
 北川 私たちの生命は、五陰の差別をつくりだすという、五陰世間の法則、原理にのっとって、世界中で二つとない事実存在になりうるのですね。
7  衆生と国土
 川田 五陰世間という″鏡″に照らしますと、それこそ、千変万化の色心の活動が繰り広げられています。これらすべての五陰の働きをなす生命体を見ていきますと、そこには、地獄の苦悩に染められた五陰を働かす人々ばかりではありません。同じ色心の活動であっても、慈悲心のあふれる人もあり、知恵と勇気がみなぎっている生命もあります。
 こういった事実に眼を向けますと、なにか、そこには、五陰世間だけではとらえきれない差別相があるような気がするのです。
 池田 私たちが、自己の生命にそなわった五陰を、どのように働かすかによって、苦しみと悲しみをひきだすこともあれば、逆に、知恵と慈愛を発動させる場合もある、ということですね。
 たしかに、種々の場合が考えられるだろうが、たとえば、苦悩に打ちのめされつつも、五陰の働きがかえって苦しみを増すような生命、つまり地獄から地獄へとわたり歩くような存在――それを、仏法では、端的に″地獄の衆生″と表現しています。
 北川 十界互具論からいいますと、地獄を基底部とした人間生命ですね。
 池田 十界互具という普遍的な原理が、現実に、ある一人の生命においては、地獄界を基底部とする地獄の衆生として個別化され、具体化され、事実存在としての姿をあらわすと考えられます。もし、仏界を顕現させる方途を知り、それを実践化しているならば、仏の生命をはぐくみ、基底部として定着させることも不可能ではないでしょう。
 北川 「三重秘伝抄」には、五陰の「陰」について「五陰とは色・受・想・行・識なり。言う所の陰とは正しく九界に約し、善法を陰蓋おんがいするが故に陰と名づくるなり。是れは因に就いて名を得。又陰は是れ積聚しゃくじゅなり、生死重沓す、故に陰と名づく。是れは果に就いて名を得たり。若し仏界に約せば常楽重沓し、慈悲覆蓋するが故なり」(六巻抄17㌻)と明記されています。
 九界と仏界に大別しての論述ですが、この文を読みますと、陰を、陰蓋、つまり、おおいかくすという意味と、もう一つ、積聚、つまり、積みあつまるという意味との、二重に解釈していることがわかります。
 池田 また、陰の二重の意味を、原因と結果に立て分けていますね。私たちの九界の生活、とりわけ、三悪道とか六道の生命活動は、五陰を働かせつつも、かえって、宇宙生命より発する本然的な創造のエネルギーを弱め、また、その顕在化を阻害してしまいがちです。「善法を陰蓋する」とは、仏の生命をおおいかくし、生の発動性を奪い去っていくとの意味でしょう。
 川田 色心を動かせば動かすほど、三悪道の境涯のみを強めてしまう。自分で自分の首をしめているようなものですね。
 池田 私たちの色心が、地獄界とか餓鬼界などに染まっていくにつれて、慈悲と創造の力は姿を隠し、苦悩の境涯への転落は加速されるばかりです。ちょうど、どろ沼に足をとられたようなもので、もがけばもがくほど、底しれぬ暗黒にひきずりこまれていくのだと思う。
8  川田 そうしますと、五陰を働かすことによって、仏界の力を阻害することが「原因」となり、苦しみが深められるという事態をひきおこすのですね。
 池田 だから「生死重沓じゅうとうす」とあります。生死というのは、ここでは、苦悶の生命状態をさしていると解釈しておきましょう。その「生死」が重なるというのです。
 いいかえると「善法陰蓋」という「原因」が「生死重沓」という「結果」を生みつづけていくのです。こうして、その人の生命に内在する苦悶の境涯が、ますます強められ、容易に抜きとれないほど、巨大な根を張るにいたるでしょう。
 北川 不幸への悪循環ですね。
 池田 ここに、三悪道の衆生とか、修羅界などを基調として生死を営む人間の姿が浮かび上がるのです。また、六道をめぐる人々とか、二乗界、菩薩界を基調とする生命体までも含めると「九界の衆生」の誕生と表現することもできます。
 これに対して、仏の生命をはぐくむ五陰の実践は、たとえ、少しずつであっても、人々の生命の底流から慈悲のエネルギーをくみいだし、仏界を覆う″苦しみの煙幕″を払いのけるにちがいあるまい。その、絶え間ない実践が、しだいに、悪に汚染された人々の生命を浄め、不幸の人生から、幸福の太陽をいだいた、たくましい未来を切り開いていくのではないかと思われます。
 つまり「善法陰蓋」であった色心の機能を、「慈悲覆蓋ふがい」の五陰の活動にと変えるための実践が「原因」となり、「生死重沓」の生命流転が、そのまま「常楽重沓」という人生行路へと開かれていくのです。瞬間ごとに繰り返される五陰の働きを、慈悲とか、英知のエネルギーで覆うことによって、初めて、自他の苦しみを抜き、楽という歓びにひたりつづけられる生命状態を勝ちとることができるのではないでしょうか。
 北川 幸福への、まことに好ましい循環ですね。
 池田 そして「常楽重沓」の人生ともなれば、その人の生命には、仏界という境界が、何ものによっても破壊されないほどの基盤として、確固たる位置を占めるにいたっているでしょう。仏界を基調として五陰を働かせながらも、その活動が、さらに、慈愛を深めていくこのような人間生命を、″仏界の衆生″と呼ぶのです。
 「三重秘伝抄」に「衆生世間とは十界通じて衆生と名づくるなり。五陰仮に和合するを名づけて衆生と曰うなり。仏界は是れ尊極の衆生なり。故に大論に曰く『衆生の無上なるは仏是れなり』と。豈凡下に同じからんや云一ム」(六巻抄17㌻)とあるとおりです。
 川田 『大論』とあるのは、竜樹菩薩の『大智度論』のことだと思いますが、この文のなかに、「衆生」という言葉と「衆生世間」という言葉が出てきます。まず、「衆生」についてですが、「五陰仮に和合するを名づけて衆生と曰うなり」と記されています。この意味についておうかがいしたいと思います。
 池田 私たちの生命を分析的に考えれば、いちおう、五陰の和合体であり、統一体であると見ることができましょう。色法と心法という視点からとらえれば、五陰仮和合とは、色心不二ともいいなおすことができると思う。
 したがって、人間生命のいかなる変転を見ても、そこには、色心のみごとな営みがあり、五陰という活動性の発現がある。しかも、五陰の働きは、絶え間なく変化しつつも、全体としての調和が失われることはない。
 たとえば、私たちの身体が、物質的な循環作用を、外界との間になしとげながら、絶えず変化していることはいまさら強調するまでもないことでしょう。心のほうも、識陰による対象への働きかけと、それの判断、分別などに、もし、とどこおりがあっては、生命活動自体が停止してしまうでしょう。私たちの識陰は、絶え間なく、対象に働きかけ、その″意味″を識別しているし、受陰の受けいれにも何らのとどこおりもありません。
9  北川 私たちの頭脳に去来する想いも、自分ながら感心するほど、次から次へと浮かんでくるものですね。
 池田 その想いが、行為へとつながる。意識的に決意するときも、また、無意識的なこともあるだろうが、いずれにしても、行陰の働きが途絶えることはない。
 北川 私たちの生命において、五陰の働きは、つねに、変化し、更新しているのですね。だから、五陰が「仮に」和合している――と。
 池田 変転を繰り返しながらも、五陰の間に少しの乱れもない。識陰を中核として心の営みが織りなされ、それと色陰は一体不二の調和のリズムをかもしだしている。ゆえに、変化するということに焦点をあてれば、五陰の統一ある共同作業は一瞬一瞬が「仮」の和合体と映るかもしれない。いや、そう考えることも必要であり、真実の姿なのです。
 しかし、焦点の光を、五陰という活動性から、私たちの生命そのものにと移すとき、色心の働きを和合させ、統一する生命主体の存在に気づくはずです。たしかに、五陰の働きそのものは、瞬時にして消え、また、浮かび上がる生命活動の一要素かもしれません。
 だが、生命の活動性を支え、統合しダイナミックな律動を与える生命の主体的実在――それを、名づけて衆生というのだと思われる。そして、それぞれの衆生にそなわった生命全体の傾向性によって、仏法では、十界それぞれの衆生に分類しています。また、この事実を、「衆生世間」と呼んでいるのです。
 川田 「衆生世間とは十界通じて衆生と名づくるなり」の意味ですね。そうしますと、私たちの生命は、五陰の差別、つまり、五陰世間として個別化し、個性をあらわしていると同時に、生命全体としては衆生世間として区別されるわけですね。
 池田 あらゆる人間生命は、五陰世間と衆生世間という二種類の差別相をもって、現実世界に、その独自の姿をあらわしている。だが、私たちの生命の全体像を、くっきりと浮かび上がらせるには、この二つの原理だけでは、まだ、不十分ではないだろうか。
 北川 といいますと、その生命主体のおかれた環境が問題になるということでしょうか。
 池田 本書の「自然のなかの人間」の章で考察したように、私たちの生命は依正不二の当体です。人間生命を正報とたてれば、環境は依報となり、しかも、正報と依報は「不二」の関係にある。
 この原理からすると、私たちの生命が、普遍的な原理を内包しつつも、個性化の方程式にしたがって、しだいに個別的実在になるにつれて、それとまったく同時に、私という生命主体に固有な環境が形成されるのだと考えられよう。かんたんにいうと、正報と依報は、まったく同時に、その独自の姿を顕在化するということですね。
 したがって、ある人を取り巻く依報を見れば、その生命主体の全体的な傾向性とか、特徴などが明瞭になる。正報と依報は、密接不可分に関係し、関連しあっているのですから、もし、依報というものを無視してしまったら、衆生世間の実在自体が現実とはまったく離れた架空の産物になってしまうのではないでしょうか。
10  北川 衆生世間を中心に十界それぞれの衆生を分類することができます。この十界の衆生に相応して、やはり、十界の環境というか、依報が成り立っていると考えるべきでしょうか。
 池田 十界の衆生の住む所をさして、仏法では、国土世間と呼んでいます。「三重秘伝抄」には「国土世間とは則ち十界の所居なり」(六巻抄17㌻)とある。つまり、私たちの住む国土にも、私たちの生命との対応のなかから、十界の差別相があらわれるということです。
 川田 そこで、ちょっと確認しますと、私たちを取り巻く環境、いいかえれば国土ですが、その国土にも十界互具とか、十如是の原理が含まれているのですね。
 池田 仏法では、この地球という国土も、一個の生命的実在とみなすのですから、とうぜん、いかなる国土にも、百界千如の原理が内包されていると考えねばなるまい。だが本章では、衆生、といっても人間生命に限定しているが、私たちの生命状態と、それに関わりあう国土の状況にしばっていくことにしよう。
 北川 「三重秘伝抄」の、きわめて簡潔な文があります。「地獄は赤鉄に依って住し、餓鬼は閻浮の下、五百由旬に住し、畜生は水陸空に住し、修羅は海のほとり、海の底に住し、人は大地に依って住し、天は官殿に依って住し、二乗は方便土に依って住し、菩薩は実報土に依って住し、仏は寂光土に住したもうなり云云」(同㌻)と記されています。
 ここで、十界の国土を詳細に検討する時間的余裕もなさそうですので、核心だけを取り上げていきます。地獄界の住する国土が赤鉄であるとは、どういう意味でしょうか。
 池田 苦悶する衆生にとって、いかなる環境も「赤鉄」と化す。この「赤鉄」というのは、真っ赤にやけた鉄のことだが、赤鉄のなかにあり、激痛にのたうつ生命を地獄の衆生というのです。まあ、現実に、赤鉄の中で人間は生きられないだろうが、それほどの苦悶と苦痛にさいなまれるのだと考えれば、少しは実感がわくのではないでしょうか。
 たとえば、戦車が走り、ロケットが飛びかうベトナムの国土は、まさに赤鉄の様相を示しています。ビル火災で、煙と火炎に包まれた空間も、地獄の国土だし、原爆とか、水爆の炸裂する国土も、地獄以外の何物でもありません。それらの国土には、地獄の衆生しか存在しないでしょう。
 だが、ベッドの上の若者の場合を考えてみよう。他の人にとってベッドは、人界とか天界の国土にあたるかもしれない。ところが、苦痛にのたうつ若者にとっては、ベッドも、室も、いや、自己の肉体さえもが地獄の依報と化している。
11  川田 餓鬼界が「閻浮の下、五百由句」の国土をもつとあります。これは、餓鬼の衆生の生命状態をあらわしているのでしょうか。
 池田 むしろ、先ほどの地獄の国土にも関わってくるのだが、生命論として述べていくと、次のようにいえないだろうか。
 地獄の国土は、ただ生きること、つまり、生存の欲望とか、権利さえ奪い去っていく環境をさし、餓鬼界の住む国土は、本能的な欲望さえも十分にはかなえられない依報を意味している。
 たとえば、地下の深坑などでは、生き物が食糧や水分を確保するのもむずかしいでしょう。本能ばかりではなく、他の欲望においても、その激しさにもかかわらず、容易に手にすることができない。そうした環境が、餓鬼の国土ではないかと思う。
 北川 次の、畜生が水陸空に住むとあるのも、私たちのまわりの生物の住所を示しているということだけではないように思えるのですが……。
 池田 魚にとって水、獣にとって陸地、そして、鳥にとって空の存在は、いかなる役割を果たしているのだろうか。
 川田 欲望論からしますと、それぞれ、本能的欲望をかなえさせてくれる場所です。
 池田 人間の生命でも、畜生界の衆生となれば、その人にともなう依報は、本能充足の場と化すのです。家庭でも、職場でも、また社会や大自然においても、それらのところに畜生の衆生が見いだしうるものは、ただ、本能を満足させる対象でしかありえないと思う。
 川田 それでは、もし、修羅界の衆生でしたら、これらの環境は、みずからの勝他の念を発揚するところと映るのでしょうか。
 池田 「三重秘伝抄」には「修羅は海の畔、海の底に住し」(六巻抄17㌻)とあったね。修羅は、海の畔とか、大海の底に、天上界の宮殿にも似た住居をかまえて住むという。そして、つねに、帝釈などの諸天に勝ることを願って、天空高く登りゆくことを試みるが、「佐渡御書」にもあったように、帝釈にせめられると小身となってしまう。
 これらのことから、修羅が、海の畔とか、とくに、大海の底に築きあげた、彼らなりの″宮殿″の意味を考えてみるとしよう。修羅の巨大な″宮殿″は、まさしく、勝他の念のあらわれです。海の畔とか、とくに大海の底は、こうした″宮殿″をつくれるだけの自由をそなえた環境ともいえましょう。
12  北川 おそらく修羅というのは、歴史的には遠くインドの原住民の神で海に関係があったと思われますが、生命論から光をあててこれを用いられたと思います。高潮とか津波とか波浪の世界を、修羅という生命の世界にたとえたものですね。
 池田 修羅の身と、それがつくりあげた住居は、たえず、重苦しい重圧とか、怒濤の海水にさらされている。また、波静かな海辺であっても、その水に蓄えられたエネルギーは、あらゆる生命を脅かす力を内包していると考えねばなるまい。つまり、修羅界の国土とは、修羅の衆生の生命にとって、絶えず、重苦しい雰囲気に包まれたり、荒れ狂う波のように猛り、そして闘語の世界を示しているのではなかろうか。
 川田 その点、人界になりますと、平穏な生命状態をもたらす依報をともなっています。「人は大地によって住し」とありますが、人間にとって、大地は、まさに、生存の基盤ともいえますね。
 池田 大地というのは、いちおう、人間らしい安らぎを与えるような環境をさしていると思う。たとえば、同じ家庭という場であっても、修羅界の家庭だと、猜疑心とか、嫉妬とか、憎悪が荒れ狂っているでしょう。たとえ、表面は波一つ立たなくても、心の奥の戦いがやむことはあるまい。
 ところが、人界の国土としての家庭だと、家族が、疲れた心身を憩わせ、明日へのエネルギーを補充する場となっています。
 北川 天界の官殿は、あらゆる種類の欲望が、そのまま充足する場をさすのでしょうか。
 池田 欲望は、生命の内奥からつきあげてくる、生きる力です。その欲望が、すんなりと満足すれば、私たちは楽を感じるとともに、自由の境涯をかみしめるでしょう。そうした、あらゆる欲望――といっても、この場合は六道の範囲内のことだが――を満足させてくれる条件をもった世界を″官殿″と表現したのでしょう。
 これで、六道の国土が終わったわけだが、六道の衆生は、自己の欲望や衝動の働きかけに支配され、その喜びを環境的条件に依存しているのに対して、四聖においては、自己自身に対する生命主体の能動性が重要になる。このような意味をかみじめて、二乗が住む方便土を考えていくと、私たちの生活の場は、いずこであろうと二乗の国土にと変革することも可能だと思われる。
13  川田 日常的な場を考えますと、大学の研究室とか、アトリエとか、また、静寂なたたずまいを見せる大自然の懐にいだかれたところなどは、二乗の衆生の国土ですね。
 池田 声聞や縁覚の生命の特質は、反省的自我にありました。その自我の働きが、宇宙と人生に向けられると、そこに、無常の世界が展開する。とともに、その無常の世界の奥に、この世界を無常として織りなす大宇宙の法則の存在することを、二乗の我は、垣間見るのです。したがって、方便土とは、こうした自我のもつ知識や知恵に照らされて、宇宙とか、社会とか、生命そのものを律する法則が浮かび上がった国土と考えることができましょう。
 とくに、縁覚の生命は、直観的な知でもって、生生流転する世界をつらぬき、真理や、隠れた美や、善なるものを発見する。まあ、こうした知恵が働きやすい環境としては、学者、哲学者、芸術家などにまつわる国土があるでしょう。
 しかし、庶民の英知は、家庭のなかに愛を見いだし、政界に政治を支配する法を見いだし、産業界には経済の論理を発見しうるといえないであろうか。
 北川 それに関連して思索しますと、菩薩界の実報土というのは、利他の生命の活躍する場といってよいでしょうか。
 池田 菩薩界の衆生の特徴は、利他の実践にあり、利他的自我の発動にあったと思う。しかも、利他の行為は、あらゆる生命的存在に巣食った慢心とか、利己的な生命とか、魔性の胎動への、真正面からの挑戦であるといえましょう。
 ゆえに、菩薩の生命は、たとえ、いかなる状態の依報であろうと、それを変革し、利他の行為の発揚する場にと変えてしまうのです。菩薩の世界はもはや現実を離れた別世界に生きるのではない。実報とは真実の果報であり、菩薩の生きるところ現実的、積極的な意味をもった世界が展開する。そして、仏界の衆生の住む国土とされる常寂光土ともなれば、かの、仏の偉大な生命にそなわった英知と慈悲力が輝きわたる世界となるのです。
 常寂光土では、あらゆる存在物に巣食った生命の魔性の働きはつねに打ち破られ、歓喜の渦にひたされた人々の生命の流れが、大宇宙をも包みこむばかりの光明をはなって、とめどもなく噴出しつづけています。その顕現の場が、政界であれ、産業の領域であれ、職場であれ、また、日本という国土であれ、そこに、仏の生命は、無明の闇を吹きはらう英知を駆使して、宇宙と生命の根本的な「法」を見いだしていくのではなかろうか。
 同時に、たくましい慈悲の力は、英知によって見いだした″根本法″の体現を可能にすべく、すべての生命的存在への「抜苦与楽」の働きかけを一瞬もやめることがない。
 このように考えて、常寂光土を、衆生の働きとともにとらえれば、生きとし生けるものに、生きることの喜びと、その知恵と、そして慈悲力を与えつづける国土であると了解できよう。
 先に、地獄の国土を、生存の権利を奪い去っていく環境であるといいましたが、いま、この定義と相対して仏の国土を一言にしていえば、それは、生けるものに、その権利を保障し、しかもなお、新たな生を創造しゆく活力、蘇生の力を与えずにはおかない環境世界と推察しうるのではなかろうか。
14  「一念三千」の実践
 川田 「三重秘伝抄」に、次のような問答が記されています。問いのほうには、「止観の第五に云く『此の三千は一念の心に在り』等云云。一念微少みしょう何ぞ三千を具するや」とあり、それを受けて「答う、凡そ今経の意は具遍ぐへんを明かす。故に法界の全体は一念に具し、一念の全体は法界に遍し。譬えば一微塵に十方の分を具え、一滴の水の大海に遍きが如し云云」(六巻抄20㌻)とあります。この文のなかに、仏法哲理の精髄である「一念三千」論が、きわめて端的に説かれていると思うのですが。
 池田 仏法で「一念の心」というと、瞬間、瞬間の生命とも考えられるが、じつは生命それ自体ということなのです。つまり、私たちの生命の全体像といってもよい。瞬間の胎動として顕在化する人間生命を、ただ、その現象面のみを追って皮相的にとらえると、「三重秘伝抄」の問いにもあるように、「一念微少」との感をまぬかれないかもしれません。
 しかし、瞬間ごとの流転を織りなす生命の奥深く、探索の手をのばすにつれて、私たちの瞬時の生は、時空へと拡大し、ついには、宇宙生命そのものになってしまうのです。
 逆にいえば、あらゆる生命的存在を支え、生みだし、創造しゆく大宇宙本源の実在から、その具体的な個性化、個別化の道をたどった、一つの独自の生命体こそが、私たち自身であることに気づくはずです。
 こうした、宇宙生命自体と連動し、融合しつつも、事実存在としては、それぞれの個性を失わない独自の実在を、仏法では「一念」といい、また「一念の心」という。その「一念の心」に、十界を互具し、それに関わりあった十如是を含んでいる。ここまでが、百界千如と表現する、仏法用語の意味だったね。
 北川 一念三千の「三千」とは、私たちの生命に十界、十界互具、十如是、三世間などが、たがいに関連しあいつつも、渾然一体となって組み込まれている事実を、これらの原理を「乗ずる」ことによって表現したのですね。
 川田 「一念三千」の哲理というと、もしその意味を十分に理解できなければ、きわめて単純な数字計算にしか思えない人もいるでしょうね。
 池田 三千という数字にとらわれると、この哲理の深遠な意味を見失うこともあるでしょう。だが、あらゆる生命的存在の奥行き、厚み、時空への広がり、律動性、統一性、発動性などから、因果の理法にいたるまでの、完璧と称しても過言ではない立体的な全体像を、考えうるかぎりの観点というか、各種の異なった次元から分析し、さらに統合しようと試みた仏法的思索の結晶が「一念三千」論なのです。
 「一念三千」論の哲学的内容については、これまでのところで、ほぼ明らかになったと思うので、最後に、「一念三千」という哲理を、私たちが現実生活に生かしていくための具体的な方途に関して、少しばかリデイスカッションを重ねておこう。
15  北川 その点に関してですが、先ほどの「三重秘伝抄」の問答のうち、答えのほうに「今経の意は具遍を明かす」とあります。この場合の、今経とは「法華経」ですが、その意からすると「一念三千」の哲理は、「具」すなわち″そなわる″という側面と、もう一つ、「遍」――あまねくゆきわたる――という側面の、二つの視座から明かしうると解釈できます。そのあとに、みごとな譬えを引きつつ、法界の全体が一念に具し、また、一念の全体が法界に遍しと記されています。
 法界の全体と述べているのは、大宇宙生命そのものをさすと考えられます。そうしますと、私たち自身の「一念」に、宇宙全体をも創りだし、脈動させる根源的な力と、それから各種の法則が組み込まれている事実については、ある程度わかるような気がします。それは、私の「一念の心」も、宇宙の源流にまでいたる内奥においては、宇宙生命を支える根源力と一体となり連動していることを直視すれば、納得のいくところだからです。
 でも、それにもかかわらず、私の「一念」が、宇宙全体にあまねくゆきわたる、となると、考えこまざるをえません。
 池田 具体的に考えてみよう。たとえば、私たちの「一念」の所作を、隣人に向け、地域を覆い、さらには、日本という国土から人類へと広げていくためには、いかなる発動力というか、境涯を体得すればよいのだろうか。
 川田 宇宙大の発動性をともなった境涯ですから、十界論からしますと、ずばり、仏の生命をあらわすことです。十界互具論では、仏界を基調とした生命活動です。
 池田 仏の生命の涌現につれて、宇宙源泉の慈悲とか、英知に彩られた如是力が、その活動を開始し、仏界の「因果」を強化しつつ、私たち自身の生命が、仏界の衆生となる。仏界の衆生は、それぞれの生命にそなわった五陰を躍動させ、本然的な個性を最大限に輝かせながら、自己の身体をみごとなまでに統一し、崩れることのない幸福を獲得するとともに、他の生命体をも、仏の生命のなかに包みこんでいくのです。
 地獄の衆生も、六道輪廻の「因果」に染められた衆生も、二乗の慢心におもむきがちな生命も、私たち自身の生の奥底から流出する″蘇生の水″にひたされることによって、すべての人々の「一念」に内在する仏界への力が触発されるのではないでしょうか。仏界の触発が、絶え間なく、しかも、あらゆる方向から行われるにつれて、私たちの周囲の人々の境涯が徐々に変革し、やがては、菩薩界とか仏界とかを基調にした生命活動が、いたるところに現出するでしょう。
16  北川 まるで、核反応みたいなものですね。初めは、ほんの少しの核分裂が、起爆剤の役目を果たし、それが、ある一定の状態に達すると、こんどは、一挙に、すべての核が分裂し、あの驚異的なエネルギーの開放となります。核分裂の連鎖反応ですが、善悪を別とすれば――利用の仕方によって、善にも悪にもなりますので――一つの思索の参考にはなると思われます。
 池田 仏界を基調とした五陰の働きによって、他の生命体の仏界を触発することができるのです。仏界の触発は、宇宙にまで遍満しようとする仏の生命自体にそなわった特性に支えられて、かならず、仏界と仏界との連鎖反応をひきおこすと考えられる。
 最初は、仏界の衆生にも、起爆剤にも似た役割が課せられるかもしれない。だが、一人の生命から、とめどもなく流れ出る″蘇生の水″が、家庭という国土をうるおせば、家族を構成する人々の基底部にも、変革の波がわきおこるでしょう。
 一つの家庭が、慈悲と英知の力強い光明をおびてよみがえれば、その家庭からわきだした仏界の″水″は、あるときには職場へと広がり、また、あるときには隣人へとそそがれ、さらには、教育の場、政治の場、産業の場をもうるおしつづけるのです。その水のおよぶところ、枯死寸前の草木が水を得てよみがえるごとく、砂漠を旅するキャラバンの群れがオアシスのほとりで憩うごとく、すべての衆生とすべての国土が、生を謳歌し、生きることの歓喜を味わいつづけるのです。
 家族と家庭、隣人と地域、職業人と職場、医師と看護婦と患者と病院、教育者と子どもたちと学校、法律関係者と法廷、政治家たちと議会――それらのすべてに″慈愛の水″がそそがれれば、地域も、病院も、法廷も、議会も、また、その国土に生を営む衆生の集団も、それぞれの特質とか個性を示す生命体として、仏界を基調にしての脈動を開始するのではないかと思う。
 さらには、こうした衆生の集団と国土が、こんどは、新たな起爆点となって、日本の大地を揺るがし、ベトナムの国土を変え、一波が万波を呼びつつ、人類と地球をも、死と絶滅への道から救いうる方途を打ち立てうるのではなかろうか。
 ともあれ「一念三千」の実践には、無限の階層をなした衆生と国土を、その基底部から揺り動かし、仏界の国土としての常寂光土を築きあげていく五陰の行動を、いかなることがあってもやめまいとする、悲願と称するにはあまりにも光輝に満ちた理想と決意がこめられている。そして、仏法の、この哲理は、「一念三千」の当体としてありつづけようとする信仰者の生き方に、すべての生ある者の仏界を触発する起爆者としての役割を託しているのではないかとさえ、私には思われてならないのです。

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