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日蓮大聖人・池田大作

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生命はいかに運動するか  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

前後
2  川田 この話に関連して思い出したのですが、これは、夢を見ているときの状況と少し似ていますね。夢というのは、身体の各器官の反応が低下し、あるいは外界からの刺激がほとんど遮断されている状態で、精神だけが活動している状態、これを逆説睡眠というのですが――といっても、起きているときの精神活動とは違っていますが――そういったときに起こる現象と考えられますが、この青年の場合も、それに近い。
 青年にはいろいろな妄想、思い出が、夢のように次々とあらわれています。そして、最初のうちは、外界からの刺激も、それを受動的に受けとめているだけだから、体をネズミに食い破られる、という妄想をもってしまうわけです。
 もっとも、のちには外界の刺激を理性的に分析するので、そういうことも少なくなるのですが……。たとえ夢を見ていなくても、外界の刺激を遮断してしまうと、夢を見ている状態に近くなることは、実験でも示されています。
 被験者を水槽の中に入れ、人工的に無重力状態にし、また一切の光、音波もなくしてしまう。被験者が自分の体をさわったり、動かしたりすることも、不可能にする。すると、まるで夢を見たように、さまざまな想念が映像化されて、目に映るというんです。
 ですから、負傷した青年が、自己をたもとうとし、外界との接触を大事にし、分析、推理する能力がなかったら、夢を見つづけるといったような状態で、日々を過ごさなければならなかったかもしれません。
 北川 ところが、青年は、看護婦が、自分の体の上に書いてくれた文字を、理解するようになる。最初は看護婦の手さえ、ネズミの襲撃と思いこんでいたのですが、「メリー・クリスマス」と書かれた文字の意味を理解し、激しく頭を枕にぶつけて、それを訴えようとするのですね。そしてモールス信号で、意志を伝えようとする。それがやがて相手に伝わり、意志の交流が生まれる。
 なんといっても、この場面が圧巻だと思います。青年は、ギリギリの状況で、みずからを激しく燃焼させたわけですね。
 池田 人間、右手がなくとも左手があり、両手を失ってもまだ足がある。その両足を奪われても、目や耳があり、口がある。そしてそのすべてを剥ぎとられても、広大な心の世界を含んだ生命自体、という絶対の価値がある。そしてそれこそ、生命を根底から揺り動かす広大な潮流です。
 その青年は、身体のほとんどすべての機能を失いながら、その極限において、生命の深層にある生命のエネルギーを、激しく噴出させたのでしょう。いったん地獄のただなかに落ちこんだ生命が、そこからはいあがり、みずからの状態を鋭く見きわめ、その環境のなかで、自己を変革しようとした、まさに生命勝利のドラマだ、といってもいいでしょうね。
 しかし、考えてみれば、これは、現代社会への痛烈な警鐘にもなっています。巨大な管理社会、大衆社会の状況は、一個の人間を、機械の部品のごとく扱ってしまう。みずからの自由意志で動いているように思っていても、いつのまにか情報洪水に乗せられて、行動してしまっている場合も多い。一人の人間の力が、途方もなく小さく感じられ、自己表現のすべも見いだせない。脱社会、脱体制、あるいは脱サラリーマンなどといってみても、それ自体が流行で、はたして主体性ある行動かどうかは、疑わしい状況です。
 そういった大きな単位のなかで人間をみれば、まさに、両手両足を奪われ、日、耳、鼻、口なども失った青年の状態と、変わるところがない。五体満足なようでいて、時流に流されている不自在の境涯を認識できないことは、ある意味では、この青年よりももっと悲惨である、といえるかもしれない。みずからの状況を把握することさえ知らず、主体性を失ったまま人生を過ごすことほど、人間としての価値を失った人生はない、ともいえるからです。
 こういう社会状況にあってこそ、人間の、みずからの内にある財宝の発掘が、もっとも大切なことであるといわざるをえない。内なる変革は、外から見えないようでいて、かならず、とどめようもない力強さで外界にあらわれてくる。そして、やがては、環境を大きく変革してしまうものです。
 外界とふれあう生命が、いかに能動的に動き、また環境を積極的に取り入れ、そしてさらに自己運動を繰り返していくか、その点の解明が必要になってきます。
 「十界論」「十界互具論」について考察してきた私たちは、次に、この十界が、いかなる事実相として顕現し、またいかなる運動法則にもとづいているのか、といった分析を、仏法の「十如是論」を手がかりにして行っていきたいと思う。
3  生命の本体――相・性・体
 北川 「十如是」は、有名な「法華経」方便品にその名目が明かされています。「唯、仏と仏とのみ、いまし能く諸法の実相を究尽くじんしたまえり。所謂諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等なり」(妙法蓮華経並開結154㌻)とあります。このなかから、「十如是」だけを取り上げて論議していきたいと思います。
 池田 この文のなかにある「如是」というのは、「是くの如し」ということで、中道実相という意味をもちます。真実の姿、生命本然の姿ととらえられるでしょう。
 私たちの生命は、先に話しあったように、一瞬一瞬、十界それぞれの姿を現じている。地獄界なら地獄界が、生命のすべてを覆っている。菩薩界が生命を支配しているときもある。慈悲以外に生きようがない、生命それ自体も、行動も、そしてその結果も、慈悲という言葉でしか表現できないようであれば、その生命は、仏界に住しているのだといってよいでしょう。
 さて、その十界それぞれを現じている一瞬の生命の「本然の姿」「ありのままの姿」をとらえたのが、十如是という原理です。私たちの生命には、十界のすべてがもともとそなわっている。それがどのようにして、あるときは地獄界、あるときは天界としてあらわれるのか。一瞬前には冥伏していた地獄界の生命が、その次の瞬間には顕在化してくる。そしてまた天界なら天界という生命が、冥伏から顕在へと変化すると、地獄界の生命は、冥伏へともどっていこうした変化には、どのような要素がからみあっているのか。それを明らかにしたのが「十如是」であるともいえるね。
 川田 この「十如是」のうち、最初の三如是、すなわち如是相、如是性、如是体と、あとの七如是は、少し内容が違います。
 といいますのは、最初の三如是は、運動する生命それ自体をさしています。それに対し、あとの七如是は、どちらかといえば、その生命にそなわっている機能的な側面を説いたものと考えられるからです。生命の、いわば運動法則といっていいと思います。
 もちろん、あとの七如是のなかでは、如是本末究竟等は少し様相を異にしており、全体的、統合的な原理になると考えられます。
 北川 そこで、まず最初の三如是のうちの「如是相」ですが、日蓮大聖人の「十如是事」の文は、本でも引用しましたが、そのなかに「如是相とは我が身の色形に顕れたる相を云うなり」とありました。また「一念三千理事」には「如是相は身なり玄二に云く相以て外に拠る覧て別つ可し」とあります。このなかに「玄」とあるのは、天台大師の『法華玄義』ですね。
 さて、如是相とは、人間生命においては、その外面、現象面にあらわれた姿をさすわけですから、肉体すなわち心身のうちでは「身」の立場になるのですね。
 池田 この如是相と次の如是性、如是体の三つについては、すでに「三諦論」のところで、少し論じてきたところです。すなわち、生命の如是相を見ていくのが「仮観」であり、如是性を見ていくのが「空観」、如是体を見ていくのが「中観」ということになります。この相、性、体の三つを総合的に見きわめてこそ、生命の全体像が正しく把握できるのであり、三観三諦の円融が説かれるゆえんです。
 「十如是事」の「我が身の色形に顕れたる相を云うなり」という表現のなかに、この考え方がすでに含まれている。生命というものは、色形、すなわち現象面、物質面でとらえることのできる範囲がすべてだというのではない。その内奥に、それを顕現させている広大な生命の実在がある、ということです。
4  川田 「一念三千理事」の「て別つ可し」という表現にも、深い意味があります。これは「分析できる」ということですね。すなわち、私たちの生命のうちの「覧て別つ」ことのできる部分、分析できる部分が如是相ということになる。私たちの肉体については、どのようにして成り立っているのか、医学の、長い歴史的発展が、それを徐々に分析してきたわけです。
 最初は、人間の内臓についても定かではなかった。それがいまでは、内臓、筋肉組織、神経組織、毛細血管にいたる各組織はもちろん、その基本をなす細胞も克明に分析されています。人間生命の「色形に顕れたる」部分の情報はもちろん、性格的なものの情報もすべて、この細胞の中にある遺伝子がもっており、それがどういう仕組みになっているか、ということも、いまではかなり明確になってきているわけです。
 DNA(デオキシリポ核酸)、RNA(リボ核酸)を見いだした科学は、人間生命の研究に飛躍的な発展をもたらし、いまや「分子」の単位で生命を探究しようとしています。この「覧て別つ」という見方は、生命の表相部分であるというのが、如是相の考え方になるわけですね。
 池田 そうです。したがって精神的な部分にみえるものでも、分析され、色形に顕れたものは、如是相といわざるをえない。たとえば、脳波の波形などはやはり如是相となる。その奥にある精神とか心そのものは、色形ではないけれども……。この如是相に対し、内面の性質、精神、知恵、性分等を包含した内容のものが「如是性」です。
 北川 「十如是事」には「如是性とは我が心性を云うなり」とあり、「一念三千理事」には「如是性は心なり玄二に云く性以て内に拠る自分改めず」とあります。
 この「自分改めず」ということですが、次のように考えられると思います。精神とか心の動きは、刻々と変化していきますが、その変化の仕方を見ていきますと、人によってそれぞれ違う一定のパターンといったものがあるのではないでしょうか。では、その型とかパターンをつくりだしているのは何か、というと、その人自身のもつ性分といってもいいし、また個性、個別性も入りますが、こういったものになると思います。
 性分、特質、個性、個別性自体は変わることがないし、また変わったとすれば、その人ではなくなるということにもなってしまう。人間の根性がなかなか改まらないというのも、このことと通じるような気もします。
 池田 まとめてみると、この「自分改めず」というのは、如是性全体としての傾向性をさす、と考えてよいのではないだろうか。
 それから「自分改めず」というのは、根性や性格が改まらないということとは、すこし違うのではないでしょうか。根性や性格だって、ずいぶんと変わるものです。子どもの心と成人してからとでは違うし、何かの事件に遭遇したことを境に、性格、思考のパターンまで、コロッと変わってしまうことだってある。しかし、それは性格がまったく変わったというのではなく、その奥にある本然のものの、違ったあらわれ方であるということです。それを、「自分改めず」と表現したのではないだろうか。
 生命の内奥に秘められた根本的な性分というものは、その人自身が本然的にもっているものであり、それは変わることがない。もちろん、この本然的な如是性といっても、本質我そのものではないと思う。あえていえば、本質我にそなわった性分とか、個性とか、知恵の光などをさすのだろうね。
 川田 このような如是相と如是性の奥にある生命の統一的主体が「如是体」ということになりますね。生命の本体といってもよい、と思います。
5  北川 同じく「十如是事」と「一念三千理事」の文を引用しますと「如是体とは我が此の身体なり」「如是体は身と心となり玄二に云く主質を名けて体となす」とあります。
 川田 ここで「我が此の身体なり」とあるのは、肉体ではなく生命それ自体をさすことは、三諦論のところでもふれたとおりですが、この「身体」という表現は、じつに示唆に富んでいると思うのです。
 身体の「体」とは、主質という意味です。自身の主質こそ、如是体なのですね。「身体」という表現のなかに、肉体だけでは何か含みきれないものをあらわそうとしていたのではないでしょうか。身体それ自体が、目に見える肉体だけでは終わらない、もっと深みと広さのあるものだという感覚でしょう。天台大師の『法華玄義』の「主質」という説明が、それを裏づけているようです。
 池田 「身体」の「体」ということは、たしかに本体という意味だと思うね。この本体というものが、自分自身を離れてあるのではない、生命のなかに厳然と実在しているものだ、と示したことが、「身体」の意味だろうか。
 「如是体は身と心となり」とあるのも、身と心というのは、如是体という生命の統一的主体から、現実に一個の形ある生命と顕在したときに、身と心というものになるということで、身と心の二つを合わせて、つまり如是相と如是性を足し算したものが如是体、ということではないのです。
 この生命の統一的主体は、このように身と心の奥にある存在でありながら、しかも身と心の二に即している。つまり、それを離れては見いだせない。ただ、身と心とが、それぞれ独立し、バラバラに無統一に存在するのではなく、如是体という原点から出発しているのだ、ということを発見したところに、仏法の見識があるということでしょう。
6  生命の機能――力・作・因・縁・果・報・本末究竟等
 北川 いままでの如是相、如是性、如是体は、どちらかというと、すでにふれてきた問題ですが、以下の力、作、因、縁、果、報となると、生命が一瞬一瞬躍動し、変容をとげていくさまを、生き生きと映しだした原理として、生命を動的にとらえるおもしろさがあります。
 ところで、「一念三千理事」の「如是力は身と心となり止に云く力は堪忍を用となす」という説明は、如是体と少し似かよっているような気がしますが……。ここで「止」とは、天台大師の『摩訶止観』のことですね、以後も同様の使い方をしていますが……。
 池田 「如是力」とは、生命に内在する力の発動をいう。もちろん、ここでいう力とは、生命にそなわった総合的な力であり、相・性・体をそなえた生命のもつ力の発動性をいいます。したがって、いわゆる力もちという意味の力には限定されないでしょう。色心両面にわたって作用するものであり、そこから「身と心となり」という表現になったのでしょう。
 同じように「堪忍を用となす」とは、堪忍という言葉が、内から支えてたもつ意味を含んでいるから、生命の内から外に向けて放たれていく力用といってよい。生命の力の発動性が、如是力と考えられるね。
 川田 そうしますと、日寛上人の「三重秘伝抄」にある「如是力とは十界各々の作すべき所の功能なり」(六巻抄17㌻)とあるのも、生命の行為能力として如是力をとらえているわけですね。
 物理の力学でいきますと、力というのは他から与えられるものも含まれるのですが、生命論においては、外界からの力は、如是力としてとらえるよりも、むしろ縁として把握し、如是力はあくまでも、その人の生命の内部にたもたれたエネルギーとして説明されているわけですね。
 北川 身体的エネルギー、いいかえれば、これは物理・化学的なエネルギーとしても把握できるわけですが、このエネルギーと、心的エネルギーが如是力の内容であるといえるわけですが、これを拡大して考えるならば、たとえば社会を一つの生命体としてとらえれば、そこに働く経済的な力とか、権力なども如是力の範囲に含まれてきますね。
 池田 それは、生命という概念を、社会という次元にまで拡大して考えてもいえるのだけれども、そのような経済力、政治力、また学問の力を生みだすのは、個々の生命にひそむ能動的エネルギーであることも、疑いない。
 ひとくちに心的エネルギーといっても、その内容は千差万別であり、生きる力、真理を見とおす力、人を救っていく慈悲の力、愛する力などがあるが、そうした各種の力は、内在する生命の発動性の進化発展と考えられる。
 たとえば、如是力と十界との関係を述べると、地獄界においては、発動性はほとんど消失している。もしそこに如是力を認めるとすれば、生を支え創造する方向へではなく、逆に生を破壊する力、死への衝動ということになるでしょう。餓鬼界や畜生界になれば、本能的欲望として顕現する生理的なエネルギーが、おもに関係しているだろう。
7  北川 修羅界の場合は、利己的な自我に使われる本能的欲望とか、権力欲などが如是力としてあらわれる……。
 池田 それが人界や天界になると、良心とか理性ヘと向く精神的なエネルギーが満ちてくる。二乗ではその力はますます増大して、論理的な判断力や直観力などとしてあらわれてくると考えられます。菩薩界や仏界へいたると、慈悲の力が前面にあらわれてくるのです。
 このように、如是力を、十界という生命状態で考えてみるならば、地獄界から仏界へ向かう過程において、発動性は量的に増大し、質的にも変化していくことがわかる。物理的もしくは肉体的なエネルギーだけに支配されていた状態から、社会的な力、精神的・心的エネルギーヘと高まっていくのです。
 したがって、如是力の内容といっても多種多様であり、本能的、生理的な如是力から、いかにして慈悲の如是カヘと昇華させていくかが、最大の課題となってくる。
 川田 逆にいえば、発動性、能動性のもっとも昇華され、増大された如是力は、慈悲であるともいえますね。むろん、その慈悲には、前提として英知が含まれています。
 また、慈悲というのは、心的なエネルギーだけを意味するのではなく、九界において見いだされるすべての如是力を含み、これらを「抜苦与楽」という方向にみごとに使っていく。人々の苦を抜き楽を与えるという作業は、量的にも質的にも高度な如是力の顕現を必要とするし、最高の発動性であり、人間としての価値の最たるものを顕現していくことになりますね。
 北川 この如是力に含まれているエネルギーが、ただちに外界にあらわれてくるのが「如是作」になりますね。「三重秘伝抄」には「三業を運動し善悪の所作を行うなり」(六巻抄18㌻)とあり、「一念三千理事」には「如是作は身と心となり止に云く建立を作と名く」とあります。三業とは身業、口業、意業であり、身口意を動かして善悪の作用をしていくのが、如是作であるということですね。
 池田 如是力が発動性であるのに対して、如是作は、それの影響性をいうと考えられます。したがって如是力と如是作はたがいに密着している。
 でも、比例したものであるとは、かならずしもいえないでしょう。力が大きくても作用が微々たるものでしかない場合もあれば、逆に小さい力のようにみえても、大きな作用をもたらすことがある。それは、力のもっていた性質が、外界との対応のなかで変化してしまい、大きな作用になったり、小さな作用になったりするからでしよう。
8  川田 如是作も如是力と同じように、身と心の両面にわたるというのは、よく理解できます。万物の現象世界にのみ影響を与えるのではなく、人間生命の内奥にまで影響を与えていくわけですね。
 池田 天台大師の『摩訶止観』に「建立を作と名く」(大正四十六巻53㌻)とあるのも、如是作が作用であり、影響性である以上、そこに、なんらかの価値を生みだしていくからです。もっとも価値といっても、そこには正価値も反価値も含むわけだから、如是作が起こっては困る反価値の場合もあるけれども……。
 さらに、如是力と如是作とを比較してみると、如是力は顕在する生命の起爆力となっているエネルギーで、いわば冥伏の状態と考えてよい。如是力は、つねに具体的に発現する前の段階である、と考えられる。それが具体的にあらわれるのが、如是作です。先ほど十界それぞれにわたって如是力を考えたが、それぞれの具体的なあらわれを考えれば、如是作になる。
 川田 如是作の「作」という言葉は、物理学では作用にあたりますが、作用には正反二つの側面があります。外界からの作用に対して内から起こるのは反作用ですし、こちらから働きかければ、かならず他からの反作用を受ける。
 この作用、反作用の関連でいっさいの運動が起こっているのを説明する立場に立てば、私たちの如是作は、外界の縁に対して反作用としての仕事をすることとしてとらえられますね。
 池田 先に、如是力として、いかにその内容を昇華させることが必要かを述べたけれども、如是作という観点に立てば、その昇華した如是力を、こんどはいかに効率よく、また増幅して、顕現していくか、そこのところがポイントになるようだ。
 北川 そこで、いよいよ因・縁・果・報に入っていくわけですが、如是力と如是作が生命のもつ「力」の側面、いわば空間的な要素を含んでいるとすれば、この因・縁・果・報は時間的な側面を含んでいるわけです。もちろんここで述べる因果は、科学的な因果とは趣を異にしますが……。
 まず「如是因」については「如是因は心なり止に云く因とは果を招くを因と為す亦名けて業となす」、「後に起こす所の善悪の念は前の善悪の念に由る、故に前念は習因即ち如是因なり。後念は習果即ち如是果なり」(六巻抄18㌻)とあります。
 池田 この因と、のちにあげる「如是果」は、現象界にみられる空間的、あるいは延長的なものとしての因果ではないね。生命に内在する因果となる。人間の内奥に、空の状態で存在するものだといってもいいでしょう。
 川田 医学においても、原因と結果ということはよく使われます。ある人が病気になったとすると、それは、ノイローゼであるとか、肺結核であるというように表現するわけです。ところがこういう診断をつけても、さて原因はとなると、さまざまな要素が入りまじってくる。
 たとえば、ロイマテス(リウマチ)の原因は、ざっと三十種類にもなるといいます。また、ある感染症を起こしたとします。つまり、細菌などの感染によることが、明瞭であるとします。では原因はその細菌であるかというと、そうかんたんには決められない。同じように細菌が侵入してきても、病気にならない人もいる。極端にいえば、一つの疾患にも、生命内外の考えうるすべての要素が関連しているともいえるわけです。
 北川 物理になりますと、人体とは違いますから、比較的かんたんです。物の運動を観察すれば、いかなる原因によりいかなる結果が出るかは、容易に推測がつきます。古典物理学においては、一定の原因は一定の結果をもたらすことが、前提となっていたくらいです。
 川田 それが、素粒子の段階になると違うのですね。というのは、素粒子の運動は一対一対応のやり方では測定できず、ドイツの理論物理学者であるハイゼンベルク以来、統計的、確率的にしか測定できないことになったからです。いわば「これらの素粒子は、だいたいこういう動き方をするであろう」と推計するしかない。
 池田 そのほか、心理学においても、因果論が説かれているね。ある一つの心理状態を生みだすには、さまざまな心的原因が集まって、結果を形成していると考えられます。それを無意識の世界、フロイトの場合はおおざっぱにいえば、性の衝動というか、性的エネルギーが、大きな要素を占めると主張したわけだが、それを導入することによって、心理の世界に、因果関係のレールを敷いたわけです。
 もっともこの場合でも、一つの原因が一つの結果を生むということは、かんたんには結論できないけれども……。
9  川田 フロイトが、心理というやっかいな代物に因果の糸を見つけだしたのは、たしかに偉大なことだと思います。しかし、心的な因果関係においても、原因と結果の関係はかんたんに決まるのではなく、種々の条件がからみあっているのはたしかです。
 J・ヤコービは『ユング心理学』という著書のなかで、「同一の原因でも、総体的な関連の如何によって、そのつど違った意味をもつ」(池田絋一・石田行仁。中谷朝之・百渓二郎共訳、日本教文社)と述べています。それに、もちろん人間には自由意思というものがそなわっていますから、心理学的な因果のレールはあっても、人間心理の自由度はかなり高い、といわねばならないようです。
 池田 これらの因果に対して、仏法の因果は生命に内在する因果だから、一個の生命体のなかに、因と果を見つけだしていくことになる。「心地観経」の「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」(大正五十四巻129㌻)という言葉は有名だけれども、この因果ももちろん、一人の生命のなかにひそむ因果です。
 過去に、一個の生命に植えつけられた因が、現在の果となってあらわれてくる。と同じように、その現在の一瞬の生命が、そのまま未来の生命内在の果を形成しているというのです。
 しかも、この因というのは、現在と切り離された因ではない。現在の一瞬に因と果が含まれるのです。表面にあらわれた事象を見れば、なるほど因と果の間には時間的空白というか、隔たりが横たわっている。
 しかし、生命に内在する因果を見つめた場合には、過去のすべての因と考えられるものが一瞬に凝縮して、しかもそれが途絶えることなく、連続してたもたれていくのです。その状態は空の状態であり「如是因は心なり」とあるのはそのことなのです。
 しかも、この因果の考え方を導入することによって、一個の生命における因果の一貫性を説いたところに、仏法の独自の着想がある。生命のなかに一貫した因果を考えることは、現在みずからの生命が受けている果を、自己の生命自体が築いた因によるものであることを認識することを教えるとともに、未来の果を変革するためには、現在の自己自身を的確に見つめ、その変革を行っていくことが直道であることをも教えている。仏法が人間革命の宗教であるというのは、じつにこの因果の考え方があるからだ、ともいえるのではないだろうか。
10  北川 科学の世界における因果は、いかにすればこうなるのかという「経路」とか「過程」を追っているのに対し、仏法の因果には「理由」とか「意味」も含まれてくる。つまり、How(どのように)とともに、Why(なぜ)をも究明している――と。
 池田 しかも、この両者の因果は、次元を異にしていながら、まったく無関係なのではない。色法の世界は、科学的な因果律によって解明されていきます。しかし、その奥にある心法の領域に、その現象を起こす因果を探りあてたのが仏法なのです。
 先ほど少しあげた心理学においても、精神とか、心の領域を探求している。
 しかし、科学的方法論によって探求していくかぎり、精神、心の現象の探求といえましょう。仏法は、精神と肉体の基盤にある生命そのもののなかに因果を洞察していくのです。
 北川 さて、つぎの「如是縁」ですが、これは読んで字のごとく外界の助縁ですね。生命活動を行わしめる潤滑油のような存在だ、と考えられます。外界といっても、生命自体と切り離された存在ではなく、両者は密接不可分の関係にあるわけですが……。
 川田 この「縁」ということですが、二面性をもっていると思うのです。すなわち外界から働きかける助縁であるとともに、その縁を生命がどう取り入れていくか、そうした側面もあるのではないでしょうか。
 生命自体がその内部に、外界を縁とするという働きをもっている。もし、外界の助縁を積極的、主体的に取り入れるという働きがなかったならば、外界と主体の生命との間は、まったく隔絶したものになってしまう。外界の助縁を、みずからの生命と密接不可分なものとして、その内奥に組み込んでいく働きがあってこそ、如是縁が、生命のなかに含まれた存在である、ということができるのではないでしょうか。
 池田 縁し方の違いが、一見、ある生命とは独立した運動法則にしたがって影響してくるように見える助縁の意味を、まったく違ったものとして変えてしまうことにもなるのです。ある意味では、たしかに外界の助縁は、生命主体とは独立したかたちで影響を与えてくる。地獄の縁もあれば、天界の縁もある。声聞界の縁もあろう。しかし縁する仕方が違っているから、人それぞれ内奥に刻みこまれる境涯は違ったものになるのです。
 たとえば不治の病、それは癌でもいいのだが、あくまで仮定の話ですが、その宣告を医師から受けたとしよう。癌の宣告の是非はとうぜん別の話です。さて、その宣告は、あらゆる生命体にとっては、たしかに地獄の縁になりうるのです。それによってたいていの人は、地獄の境涯におちいる。
 しかし、自已の内奥の生命が錬磨され、昇華されている人にとっては、そうした助縁への「縁する仕方」が違ったものになってくる。それを克服しよう、みずからの変革の試練として受けとめようとする。そうするならば、生に蓄積される因も変わってくるのです。したがって、果も変わる。人間変革の方程式が、そこで顕現されることになる。
 私たちの生命は、このようにあらゆる縁に囲まれ、それと接触しつつ、その関わりのなかから、独自の因果を築いていくといってもよいでしょう。
11  北川 そこで次の「如是果」ですが、これは如是因と一対になっていて、先に少しふれたわけですが、この因と果が一瞬の生命に含まれているとしますと、どのような差があるのでしょうか。
 池田 「三重秘伝抄」に「前念・後念」あるいは「習因・習果」と立て分けてあるけれども、これは時間的な隔たりをさすものではない。一つの生命の活動をひきおこす方向性を見つめれば因であり、一瞬の生命がのちのちの生の傾向性を示しているととらえれば、果といってよい。
 いずれにしても、生命の内奥に空の状態でそなわっているのだから、両者に時間的な差異はなく、その意味で因果倶時となる。もちろん、現象面にあらわれてくるものを考えれば、それは異時とならざるをえないが、表面的な結果としての現象をもたらす内面的な果は、すでに一瞬の生命のなかに、因と同時に存在しているものです。
 たとえば、人を軽蔑したとする。その因は、その念を起こした瞬間に、果となって刻印されているのです。その表面的な業果は、どういう形であらわれるかわからない。しかしどういう形式にせよ、いつかは表面にあらわれざるをえないものとして、生命の内奥に刻みこまれているのは、疑いないのです。
 北川 その表面にあらわれる現象というのが「如是報」なんですね。「三重秘伝抄」に「習因習果等の業因に酬いて、正しく善悪の報を受くるは是れ如是報なり」(六巻抄18㌻)とありますが、この報を果としてみるならば、先の因果は通じて因となるわけですね。
 生命の内奥に刻まれた因果が因となって、色法の世界にあらわれてくる。これが如是報であり、したがって、報はただ色法にあらわれるわけです。
 川田 この報の場合は、現象世界ですから、物理的あるいは科学的な因果の法則にしたがうと思われます。したがって、時間的、空間的な要素を含んでいるわけです。ですから、因果異時といいますか、報というのは、瞬時にあらわれるとはかぎらない。
 しかし、ものの変化というのは不連続のようにみえても、マクロの世界では、よく観察すれば、連続的なものです。素粒子などの世界ではそうはいきませんが……。
 したがって因果異時といっても連続的な変化なのだから、その瞬間に、報としての変化もあらわれているのではないか、と思えるのですが……。
 池田 如是報も一瞬の生命に含まれる以上、そう考えるのが正しいだろうね。ただ観察の仕方によって、それが精密に把握できないだけだろう。人間の身長が、子どもから大人になるにしたがって伸びるのも、毎日毎日を比較していてもわからないが、一年たち、二年たち、そして数年たつとまったく比較にならないほど違ってしまう。しかし、それは、大げさにいえば、一秒一秒ごとの連続的な変化の積み重ねだから、如是報というのは、瞬間瞬間の蓄積のうえに、時間的経過を経てあらわれてくるものと考えられる。
 総括していえば、「因果」は心法で「報」は色法だが、色心不二であるがゆえに、「因果」は即「報」になる。つまり「因果」のあるところかならず「報」がある。「報」は「因果」の結果としてあらわれるのです。
12  北川 そこで、冒頭にあげた例を考えてみますと、戦争で負傷した青年の如是相は、ほとんど用をなさないほど傷つけられているわけです。そして如是性も、最初は活動していないのと同じほど鈍かったと考えられます。如是体はその青年自身の生命であり、外見は変わっても主質そのものは変わらない。こうした相性体の青年のもつ如是力は、どうだったのでしょうか。
 池田 肉体的な部分に関するかぎりは、いわば極限状態におかれていたと考えられる。能動性・主動性をたもつことが困難だったからね。しかし、みずからの生の証を得たいという激しい衝動は、かえって常人よりも強かったのではないだろうか。
 したがって、わが身が受けいれることができるわずかな如是縁も、最大限の増幅をして受けとめ、その反作用としての如是作があらわれていったのでしょう。そこに働く因果は激しい変革の渦を巻き起こし、地獄・餓鬼の底辺の生命から、最後は六道を出るところまでいったのではないだろうか。
 人間生命のこうした激しい変容をとらえるには、たんに静的に生命を見つめるだけではなく、外界からの刺激、それへの反応の仕方、その生命独自の因果等を見きわめないと、把握しきれないものです。そういった意味で、十如是はきわめて合理的な生命観だね。
 北川 ちょっと話がずれるかもしれませんが、高校のときに習った数学で、曲線の傾斜を求めるときには、微分という方法を用いました。これは、ある点を通る曲線の近傍を調べ、いかなる傾きで入り、いかなる傾きで出ていくかを知ることによって、曲線自体の傾きを知ろうとしたものですが、一つの生命自体が、どのような全体像をもっているかを知るには、一瞬の生命の実体を、くわしく分析する必要があるのだと思います。
 これになぞらえるならば、相・性・体は点であり、力・作・因・縁・果・報はこの一瞬の生命の多角的な分析になる。それを兼ねそなえて、初めて生命がどのような傾きをもって運動していくかを、知ることができるのですね。
 川田 物理においても、物体の運動を知るには、物の重さと、速度を知らなければなりません。それによって運動を分析できる。同じ原理だと思います。
 池田 相・性・体、それに力・作・因・縁・果・報は、そうした脈動する生命を的確にとらえているのだが、これらの如是を統一した原理がある。それが第十番目の「如是本末究竟等」です。「初めの相を本と為し、後の報を末と為し、此の本末の其の体究って中道実相なるを本末究竟等と云うなり」(六巻抄18㌻)とあるとおりです。
 一瞬の生命に九つの如是がことごとく具備し、しかも一貫している。地獄界にも修羅界にも、二乗にも菩薩・仏にも、一貫した九つの如是をそなえている。どれ一つが欠けても、生命の真実の姿とはいえない。初めの相から最後の報にいたるまで、一貫した統一的な姿を示す――この原理を本末究竟等というのです。これが中道実相、すなわち生命の本然の姿である。
 しかも、一瞬の生命がそなえている九如是が、そのまま次の如是へと移っていく。如是報が次の如是相・性・体となり、さらに、力・作・因・縁・果・報が形づくられていく。こうした連鎖の運動の真実の姿を、十如是論は見とおしているのです。だからこの「如是本末究竟等」がなければ、十如是は完結しないともいえるのです。
 九如是というのは瞬間瞬間、十界のそれぞれを顕現しつつ、動いている生命を分析的に把握したものです。しかし仏法は、物を分析的に見つつも、つねに全体観として統一体としてとらえなおしている。十如是を、いったんはパラバラに説いたようにみえながら、じつはそうではなく、みごとな連関性、統一性をもった主体であることを、明らかにしたのです。十界論においても、十界がバラバラに説かれているようでありながら、それを、十界互具として統一しなおしている。仏法の偉大さは、つねに分析と統一を繰り返しながら、生命を全体的に把握している点にあるといいたい。
 最後に、この「如是本末究竟等」の原理を敷衍するならば、初めの相を本とし、終わりの報を末として、それが究竟して等しいのだから、相――すなわち現実にあらわれた姿をとおして、それがもたらす報まで知ることができるということです。日蓮大聖人の「聖人知三世事」に「近きを以て遠きを推し現を以て当を知る如是相乃至本末究竟等是なり」とあるのがそれです。このなかで、「現」とは現在一瞬の生命であり、「当」とは未来における生命状態をさします。
 この原理をもって三世を見とおしていくのが、仏法の原理を会得した悟達者・仏なのです。
 これは一個の生命にかぎらず、社会・国土という単位でもあてはまるのではないだろうか。社会という生命体が、いかなる運動法則にしたがい、いかなる報を顕現するか。それは、生命の全体像としての相・性・体を的確に把握することによって、知ることができるのだと思う。仏法の十如是論は、そこまで説いた卓越した原理だということを示唆しておきたい。

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