Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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自己変革の道  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

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22  北川 最後に一つだけ確認というか、質問があります。人間革命とは、十界互具論からすれば、仏の生命を基調にしての、生命全体の変革であるととれますが、その、仏界を基底部におく作業の一つには、もっとも根本的なものとして、仏法の修行による、私たち自身の、生命の奥底からの仏界の顕現がありますね。
 池田 とうぜんのことです。その修行を、たゆまず実践しぬくところに、私たち自身の生命に、宇宙大の力がしだいに定着していくのです。わが内奥の仏界をはぐくむといってもいいでしょう。だが、仏の生命が現実に働くのは九界の世界です。たとえば、私たちの身体に、食物の消化力がそなわっているといっても、その力は食物を摂取して初めて、現実の働きをするのです。
 同様に、仏の生命には、宇宙大の慈悲と英知がある。その英知は、端的にいえば、あらゆる生命的存在に食い入り、暗躍する、生命の魔性を見ぬく知恵です。そして、慈悲のエネルギーとは、生命の魔性を打ち破る力であるといえましょう。したがって、仏の知恵と慈悲を発現させる場は、九界の巷です。
 九界の荒波のなかで、知恵を使い、慈悲力をあらわしてこそ、私たち自身の仏界もますます磨きがかけられるというものです。しかも、その働きによって取りこんだ九界の「縁」も、先ほど述べたように仏界の栄養分となり、これらの連鎖的な働きが、相互に強化しあって、仏の生命が堅忍不抜の存在となりうるのです。
 北川 先ほどからの例を借りますと、九界の「縁」が、仏界を育てる栄養力ですから、積極的に私たちのほうから働きかける必要がありますね。たとえば、地獄界をもたらすようなことがあっても、逃げるのではなく、かえってそれにチャレンジ(挑戦)していくとか……。
 池田 逃げていると、いつまでたっても食物をとれなくて、栄養失調になる。つまり、逃げれば九界の迷いだね。挑戦して、自己実現の栄養と化せば、それを仏界の悟りともいえよう。私は、仏界を基調とした生命は、望んで、九界の「縁」に体当たりするのではないかと思う。また、それが、信仰者の生き方でもある。
 たとえば、あえて地獄の苦を引き受ける生命を、仏界と称するのではなかろうか。地獄の縁を受けて立つという姿勢より、もう一歩進んで、あえて苦悩の世界を引き受け、修羅闘諍のまっただなかに飛び込んでいく。そこに、人間としての真実の主体性が確立されるのだとも思う。たとえ、その人が、生活とか地位とか、また学歴とか財産の関係で、保障された安穏な人生を送れることがわかっていても、あえて、それを振り捨ててでも、三悪道の巷に立ち向かっていく。また、自己の意志で、六道輪廻を繰り返す場合もあるでしょう。
 表面から見れば、安穏な生活は、人界や天界の生命活動をもたらし、三悪道の荒れ狂う世界での挑戦は、地獄の苦しみの連続と映るかもしれない。だが、その地獄界の苦闘の奥に、仏の生命が輝いているかぎり、その人は、人格を磨き、見識を高め、自己変革と自己実現の道を歩んでいるのです。そういった人に、真実の崩れない幸福の″女神″が訪れるのではないでしょうか。ゆえに、十界互具論をとじるにあたって、次のことだけは強調しておきたい。
 仏界を基調にして、あえて引き受けた苦悩は、望ましい苦しみであり、あえて関わった悲しみは、望ましい悲哀である。それは仏の生命をはぐくむ苦しみであり、悲しみであるからだ――と。

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