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日蓮大聖人・池田大作

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自己変革の道  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

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2  北川 魔法の力で、すべての生命活動を一時期、凍結させるといった架空の物語などはあります。まあ、現実にはありえないことです。でも、人間の思考で描きだすことはできますね。
 池田 もし仮に――ずいぶん、SFじみてくるが――このいまの瞬間、宇宙の時の流れが止まったとしてみよう。外観からすれば、道を歩いている人もいるし、ちょうど、午後三時のおやつ時で、大きな口を開け、食べものを運んでいる人もいる。原稿用紙に一つの文字を半分書いたところで、ストップがかかった人もいよう。体操をやっているスポーツマンだと、空中に跳びあがったまま、停止してしまっているかもしれない。
 外から見た客観的な姿は、それこそ千差万別で、一人として同じ様相を示すものはいないだろうが、それらの人々の生命の実感から分類してみると、十界という種類を出ていなかった――まあ、それが十界論だったね。
 たとえば、同じく道を歩いている人でも、苦悩にうちひしがれた地獄の境涯の人もいれば、足どりも軽く天界の「我」を満喫している人もいるだろう。また、歩道のかたすみに咲く雑草にさえも心をよせる、四聖の境地にひたっている人も、見いだせると思われる。眼前にあるヤキイモを欲するのは、餓鬼界だろうかね。文章をねり、思索を深めているのは、まず二乗界だし、空高く跳びあがった体操選手は、文字どおり、天界にいるかもしれない。いずれにしても、十界のうちのいずれかの境涯をあらわしているはずです。
 川田 生命の分解写真の、十界論による判定ですね。
 池田 さて、次の瞬間、宇宙の時の歩みにかけられた″魔法″がとけたとしよう。客観的に見ると、歩道で半分ほどおりかけていた右足が大地についたとか、食物がようやく口に入ったとか、一つの文字を書き終えたとか、さまざまな現象が繰り広げられよう。
 だが、これらの現象をかもしだす各人の生命感を調べてみると、地獄界の人もいれば、餓鬼界の人もいる。また、二乗界に住する生命もある。こうして、さらに次の瞬間にも、地獄界とか、人界とか、天界とか、そういった境涯を判別できるはずです。
 北川 一人の生命の「我」の実感をとってきて、その変動を追っていきますと、たとえば、地獄界から天界に変わり、また地獄界に帰ってくるとか、また、人界から天界、そして菩薩界とか、それこそ無限のバリエーション(変化)を示しているでしょうね。
 池田 だが、それぞれの生命の「我」が瞬間ごとに変転し、かぎりない変化相をつくりだしているにしても、その変化のなかに、何らかの法則性が見いだせないだろうか。
 たとえば、地獄界の次には餓鬼界がくるのだろうか、畜生界だろうか。また、人界とか天界だろうか、それとも、どんな境涯でもあらわれうるのだろうかといった疑問が生ずる。さらに、地獄界ではなく、天界の場合はどうだろうか、ということも問題になりうる。
 まあ、こういったことのなかに、一つの法則みたいなもの、いいかえれば方程式のようなものを発見したとする。そうすれば、その方程式にのっとって、生命の流動が織りなされる。つまり、生命に関する一つの原理ですね。その原理を仏法では「十界互具」と説く。では「十界互具」とはいかなる原理なのか、ということを考えてみたい。
3  川田 そこで、どういう体験を取り上げれば、わかりやすくて、しかも普遠的かを考えたのです。あまり、特殊な例でもいけませんし、そうかといって、いつまでたってもぜんぜん変化が見られないのもおもしろくありません。また、人権侵害ではありませんが、個人の明かしたくない秘密を守ることはとうぜんの義務でもあります。
 いろいろ模索しているうちに、ふと思い出したことがあります。それは、劇的な体験ではありませんが、いまだに、私の心に美しい光を投げかけている一人の医師の話です。その話を、もう一度たしかめようと、それが掲載されていたはずの新聞をひっくりかえしていたとき、ちょうど、そういつた体験が本にまとめられていることを知りました。ここにある二冊の本ですが、『生きる』と『新・生きる』(ともに聖教新聞社社会部編、聖教新聞社)という題がついています。
 この話は『新・生きる』のなかに収められていました。私の記憶に残っていたのは、約十年あまりも前にさかのぼりますが、医師会が一斉休診のストに入ったとき、一人の辺地の医師が、その指令――つまり、ストの指令ですね――を一蹴して、黙々と村人の生命を守りつづけたという事実が、鮮烈に私をとらえていたからだと思われます。
 池田 人間の生命を慈しむ医師としての使命感が、すべての事柄に優先したのでしょう。医師たちのストにもたしかにいいぶんはある。だが、医師が、きょうはストだから病人には関係ありませんとか、そういったことが起きた日には、日本の医療自体が、崩壊してしまいかねない。いや、もっといえば、人間失格の医師というべきではないだろうか。
 川田 私もまったく同感です。いま、便宜上、その医師をA氏としておきますと、A医師の行ったことは、医者としてとうぜんの義務というか、責任を果たしたまでのことのように思えるのですが、それが、その地方の新聞に美談として書きたてられたそうです。するとどういうわけか、A医師は、恥ずかしさで心がうずいたといいます。
 池田 ほう。実直な方ですね。ともすれば、人間の心というのは、他人から褒められると、ましてマスコミなどに書きたてられると、慢心を起こして、つい、得意になってしまうものだが……。
 川田 A医師は、自己のありのままの姿をごまかすことができなかったのだと思います。というのは、お父さんのあとを継いで医者になったものの、辺地の開業医には過酷な日々が連続します。″でも教師″という言葉がありますが、″でも医師″、つまり、金をもうけるためとか、いちおう、豊かな社会的な地位も割合に高いとされている医者にでもなっておこうか、というので医学部に入った人々ですね。そんな医者では、とうてい務まりません。
 夜中にたたき起こされたり、積雪三メートルの道を泳ぐようにして患者さんの家にたどりついたりで、よほどの信念というか、使命感がなければ務まらない職業でしょう。そういったとき、どうしても腰が重くなる。不満が頭をもたげてくることもある。遠い患者さんには、つい足が向かなくなってしまう。だから、新聞に紹介されると、人知れず苦しんだというのです。
 池田 しかし、自己の生命と真っ正面から対決したことから生じる、こういった性質の苦しみは、かならず、人間の心の深さを増し、同時に、医師としての成長の糧にもなるものだと思う。
 川田 医は仁術という古くからの格言がありますが、そして、この格言は、いかに時代が変わっても不動の真理でもありますが、その仁術を可能にする哲学を、A医師は探し求めました。そして、苦心の末に探りあてた哲学を体得するにつれて、先ほどの苦しみ――つまり、心の葛藤――を乗り越えました。体験談の最後のほうには「利害を忘れてそこに没頭できるようになった自分がうれしい」と語ったA医師の言葉が記されています。
 池田 実感が出ているね。人間的使命を遂行できるという、心の奥からの歓びがあふれた言葉です。みごとな人間革命の実証です。
4  北川 『新・生きる』の話が出ましたので、私も記憶にとどめている一つの体験を取り上げてみます。
 ヘルシンキ・オリンピックヘの出場をかけた、体操の最終予選でのことでした。一人の青年が、体操選手としては致命傷ともいうべきアキレス腱を切断します。それも、偶然の出来事で、自分の不注意からではありません。いままで体操にすべての目標と生きがいをおいていただけに、絶望の淵に沈みこんでしまいます。酒とケンカに明け暮れ、″インテリヤクザ″と呼ばれ、やがて睡眠薬中毒が昂じて、精神病院に入るといった経過をたどります。少しよくなると退院しますが、すぐまた病院入りです。
 池田 その繰り返しがつづくのだろう。青年の心情がわからぬわけではない。しかし、自暴自棄になろうとする自己との戦いに、なんとしても勝ってほしいものだ。それでこそ、青年のたくましさがつちかわれる。
 北川 感動的な場面があります。その青年――B青年としておきますが――が、ふとした機会に知った日蓮大聖人の仏法を支えとして、睡眠薬中毒の禁断症状と戦う場面です。
 薬をやめて、一日目の深夜には、経験したものでなければわからないような、強烈な苦しみが襲ってきます。動悸が激しくなり、呼吸が苦しくなる。だが、薬を買う金もない。まあ、こういったときには、お金がないほうが、かえって本人のためにはいいでしょう。それが、六日間もつづいて、極度に身体が消耗していきます。心の奥のほうから「薬を飲めば楽になるぞ」という悪魔のささやきが聞こえてきます。だが、ようやく、その誘いをもしりぞけて、七日目の朝、ふっと目がさめます。
 原文を読みますと「″おや″と思った。まばゆいばかりの朝日が窓からさしこんできて顔を照らしていた。″おれは寝たんだ″――力いっぱい窓をあける。さわやかな風がほおをうつ。深く息を吸いこむ。空気がおいしい。初夏の日ざしを浴びて、本々の若芽が、畑のキャベツが、どろんこ道を駆ける小犬が、生き生きとして目に映る。禁断症状にとうとう打ち勝ったのだ」とあります。
 生きることの歓びが、青年の全身を包みこんでいたのですね。そして、いまでは、後輩を育て、一流の選手として社会に送りだすことに、真の自己の使命を自覚しているとあります。
 池田 栄光の舞台におどり出るのも人生ならば、それを支える舞全晏にも人としての真実の生きがいがある。いや、むしろ、華やかな舞台を支え、青少年の夢を育てる、いわば陰の仕事にこそ、一生をかけて悔いない人の道が見いだせよう。
5  川田 医者の話、体操の教師とつづいたところで、もう一つだけ、どうしてもここで、取り上げておきたい人間革命の記録があります。こんどは『生きる』のなかに登場する、母と娘の愛情物語とでもいえばいいのでしょうか。
 この本では「嫁ぐその日、空は青かった」という題名がつけられています。先ほどの青年のような、ドラマチックな話ではありません。また、医師のように、比較的恵まれた境涯での自己変革をしたものでもありません。小児マヒという重荷を背負っての、長い長い苦闘の歴史です。しかし、その歴史は悲しみに満ちた哀歌ではなく、むしろ、あふれんばかりの母の愛と、それに応える娘とのけなげな努力が、みごとに花咲いた記録というべきでしょう。
 ここでは、C子さんとしておきますが、彼女が、数え年三歳のときと記されていますから、生後二年ぐらいたったころになりましょう。時代は終戦直前です。だから、彼女が大学病院で小児マヒの宣告を受けても、治療らしいものを受けることは、ほとんど不可能な状態だったのだと思われます。
 発病してから四年の間、ハリとかマッサージとか、温泉治療などをほどこしたそうですが、その効果も、あまりかんばしいものとはいえなかったようです。それでも小学校へあがるころには、やっと歩行が可能にはなっていました。だがその歩行は、左手で動かない左足を一歩ずつ持ちあげては進む状態だったようです。
 池田 ご両親は、どんなにか心を痛められたことだろうね。たとえ自分の寿命を縮めてでも、娘の苦しみを代われるものなら代わってやりたい、と思うのが親心だもの――。
 川田 娘さんの後ろ姿を見ていると、胸の中を針でメッタづきにされる思いだったと、お母さんの述懐にもあります。そして、母親がもっとも心配したことは、娘の性格に″ひがみ″が芽ばえはしないかということでした。
 ふつうならば、そういう″ひがみ″根性は、女性として成人していくにつれて、増大する性質をもっています。ところが、母親の懸念をも吹き飛ばすかのように、彼女は明るく快活な娘に育っていきました。
 こんなことがあったそうです。高校も卒業して、保育園の事務員の仕事を、彼女は自分で見つけてきました。ところが、それから二カ月も経ったころ、事務はできても使い走りがむずかしい、という理由で解雇されました。十分に理をつくしてのことだったのですが、それでも、ショックは大きかったでしよう。
 でも、彼女はそれをも乗り越え、次の仕事を見つけてきて、五年間あまり勤めています。しかも、結婚でやめるとき、上司の一人は「あの人の印象がよかったから、社長は身障者を大事にしようといいましてね」と語っています。彼女の勤めていたその会社では、多くの身体障害者の人が働くようになったそうです。
 池田 みごとな人間変革の記録ばかりです。いずれの体験にも、社会の荒波を乗り越えつつ激動の人生を生きて、そこに不動の自己を確立しようとする、強烈な願いがにじみでている。
 三者三様でありながら、その人なりの不変の幸福をつかもうとしていることだけはたしかです。しかも、その幸せは、他者から与えられたもの、つまり、たやすく崩れ去るといった性質のものではなく、人間革命の道筋にともなって期せずして訪れたものであることに、重大な意味があるように思う。信念とか自信とか、また使命感などに支えられた自我の形成をまって、その人の行く先に幸福の″女神″が、ほほえみ始めているような気もする。
 そこで、この方々の体験を使わせていただいて、さっそく、幸福への方程式を探ることにしよう。
6  十界互具の方程式
 川田 それでは、私が最初に紹介しましたA医師に再登場を願って、少々考察を加えてみたいと思います。まず、A医師が開業医になられて間もなくのころの、心理状況を取り上げてみます。
 たとえば、一日の診療をやっと終えて、ほっと一息ついたとき、急患の知らせがあった。それも、一時間あまりも雪のなかを歩いていかねばならない。こういう場面を設定しますと、はたしてA医師の生命感は、どういうふうに移り変わるのでしょうか。
 池田 少し詳細に分析してみよう。A医師が、日課を終えて、煙草でも一ぷく吸っているとしよう。まあ、煙草をたしなまれるかどうかはわからないが、煙草でも吸いたいような気分のときですね。A氏の生命は、おそらく人間らしい満ちたりた境涯をあらわしていたのではないだろうか――。
 北川 人界ですね。
 池田 人界の場合もあるでしょう。だが、その医師の胸奥に、ほんの少し前に、高熱を発して駆けこんできた赤ん坊と、不安そうな母親の顔が浮かんでいたとする。自分のほどこした処置で、赤ちゃんはすやすやと眠ってくれたろうか、母親の心も安らいだだろうか、といったようなことが走馬灯のように駆けめぐっていく。医師であることのありがたさが、しみじみと色心をうるおしていく。
 川田 天界の喜びともいえますね。
 池田 二乗や菩薩もあるだろうが、ここでは天界としておこう。ところが、ある瞬間に人間界や天界を顕現していたとしても、次の瞬間には、急病人の往診依頼を聞いて、いやだな、と思うこともある。
 北川 腹だたしい気分に襲われるかもしれません。よりによって、どうしてこんなときに病気になったりするのだろうか、などと患者さんを恨んでみたり、一瞬前とは正反対に、医者という職業が、つくづく嫌になったりして……。
 池田 自分でも無慈悲だとわかっていながら、どこにも吐け口のない怒りの感情がつきあげてきて、つい、奥さんにあたりちらすとか、こうなるとたちまちにして修羅界ですね。
 こんどは、嫌悪の心が内向して、ひとり悩むようだと、いたずらにエネルギーを使いはたして、地獄界の苦しみを味わうでしょう。また、ひと眠りしたいという欲求、これは睡眠欲だし、一杯のみたいという欲望などがせきとめられると、かえって飢えの感じをひきおこして、餓鬼界をあらわすことにもなる。
7  北川 こんな医者はいないでしょうし、いてくれては困るのですが、急患と聞いても平然としている。いまはただ、睡眠欲とか、食欲とかに忠実でありたい。いまごろ病気になるなんて、明日になればいさ知らず、この瞬間は本能の充足のみに専念しよう、というのは畜生界です。
 池田 その人の生命状態や個性や性格などによって、同じようなことが起きても、現出する境涯はさまざまだと思う。まあ、A氏の場合は、人情味豊かな方だけに、かえって、自分を責められて、地獄の苦悶を味わわれたのではなかろうか。
 川田 たとえば、一瞬前までは一息ついてゆっくり休めるという喜びにひたされていて、天界であったのが、次の瞬間には一転して、地獄界の苦悩にあえぐとします。すると、先ほど生命に満ちていた喜びは、まるで、魔法にでもかけられたように消えうせています。
 ところが、その次の瞬間に、急患の連絡が誤りだったとか、病人がどうやらもちなおしたので往診は明朝にお願いします、といった連絡があったとします。
 北川 その場合は、たちまちにして苦悩からの解放ですね。こんなに悩むことはなかったというわけで……。
 池田 苦悶の相はすっと消えて、ふたたび天界の安心感に満ちたほほえみがもどってくるでしょう。一瞬前とは別人のような姿をも、示すのではなかろうか。
 川田 そこで問題なのは、天界のゆくえですが、どこへ行ったかを探すとなると、まるで推理小説めいてくるのですが、とにかく、ある時期――といってもこの場合は一瞬間にすぎませんが――どこかへ姿を隠していて、ふたたびもどってきたと考えてみます。では、どこに隠れていたのかと問われると、非常に困るのです。
 池田 ちょうど、″かくれんぼ″している子どもたちが、大きな木や石の陰に身をひそめるように、天界も、消えている間、隣まで散歩していたとか、いまごろは交通が便利だから、外国に出かけていて留守でした、などといったものではない。(笑い)
 北川 神秘的に考えますと、一瞬間だけ、他の人に乗り移っていた、ということになるのですが、もちろん、そんなものではない。第一、乗り移るなんて、それでは、あまりいい気持ちはしないですね。天界だとまだいいですが、それが畜生界あたりだと、乗り移られる役目だけは、やっぱりごめんこうむりたい。(笑い)
 池田 どこかへ姿を隠す、といった表現が、誤解を招くのかもしれないようです。端的にいうと、どこへも行きはしない。天界はずっと、その人の生命に常住しているのですね。
 地獄界の苦しみに、生命全体がのたうつときも、飢餓感におびえるときも、憎悪と嫉妬に狂うときも、天界はつねに、その人の生命にあり、決して滅失したのでも、また、離れていったのでもない。ただ、私たちの感覚でとらえられないだけのことではないだろうか。
 川田 人間の通常の感覚といいますと、五感とか六感です。私たちの感覚器官で、認識しうるものです。このなかには、むろん、科学の方法も入ると思われますが、そういった方法でとらえられないような存在のあり方といいますと、少なくとも「有」の世界ではありません。
 北川 だからといって、消失してしまったわけではないのだから「無」でもない。とすると、これはどうしても、仏法概念の「空」……。
 池田 そうです。「空」の概念を使わないと、この問題は解けない。「空」ということがわかると、天界の動きも、手にとるように追っていくことができる。
8  北川 江戸川乱歩の小説で知られる明智小五郎の名推理みたいですね。姿を消しても、ちゃんとつきとめる。それも、灯台もと暗しで、どこかへ行ったようで、じつはどこにも行っていない。
 池田 ただ、存在のあり方というか、状態が変わっただけなのです。つまり天界という境涯が、「有」というあり方から、「空」というあり方に変わったのです。そうすると、もう、ごくわかりやすくいえば、目でも耳でも鼻でも口でも、また、さわってみても、とらえることができなくなってしまうでしょう。
 だから、気の早い人は、「無」に帰したのだろうと、早合点してしまう。しかし、仏法の「空」をもってくれば、なんのことはない。生まれてこのかた、いや、もっと前から、天界は、ただのひとときも、その人の生命から離れたことはなかったのです。
 川田 明智探偵の名推理のカギは「空」の概念を使うことにあったのですね。新米の探偵だと「有」と「無」だけで追いかけているから、姿を見失ってしまう。二十面相のように、変相の名人みたいだと、つい、ひっかかってしまう。
 池田 名探偵ではなくて迷探偵のほうだが、彼が、天界の姿を見失うのは「有」から「空」に移行するときですね。移行といっても、一秒とか二秒ぐらいかけて、ゆっくりと姿をくらますというのではない。よく瞬間的といった言葉を使うが、じつは、その瞬間をさえ必要としないのだ。いわば、まったく同時なのです。
 だから、時間を必要としないで、姿を消す。迷探偵があきれはててしまうのも、無理のないところだ。さて、この「有」から「空」への同時的移行を、仏法では「冥伏する」と表現している。そして「空」の状態で存在することを「冥伏」という。名探偵ならば、この「冥伏」という状態で存在する天界をも、見ぬくことができよう。こんどは、逆のプロセスを考えてみよう。
 北川 といいますと、「空」から「有」への方向ですね。
 池田 「空」としての存在から「有」の世界への移行というか、変化ですね。これを、仏法用語では「顕在化」という。そして「有」という状態での存在のあり方を、先ほどの「冥伏」に対して「顕在」といいあらわしている。
 たしか「空」の概念とか「冥伏」「顕在」といった言葉は、本巻の「生命をとらえる眼」の章で、一度話題として取り上げたが、ここでは、それらを具体的に使っていく立場で、さらに論を進めてみたいと思う。
 北川 さっそく「冥伏」と「顕在」という言葉を使いますが、具体的にA医師の場合、最初、天界が顕在であり、次の瞬間に冥伏し、その次の瞬間にはふたたび顕在化したと考えられます。そして、天界が冥伏しているとき、顕在化していた境涯は、たぶん力地獄界ではなかったか。もしくは餓鬼界、畜生界、修羅界あたりがあらわれていた、と推測することもできます。
 まあ、それはいずれでもかまわないのですが、こんどは逆に、天界が顕在しているとき、地獄界や他の境涯は冥伏していると考えていいのでしょうか。
 池田 論理的にいっても、そう結論せざるをえないのではなかろうか。だが、もう一歩、推理を進めると、天界があらわれているとき、生命内奥に冥伏している境涯は、いま、A医師の体験から割りだしたような三悪道とか、修羅界だけではないのです。人界も、二乗界も、仏界も、その人の生命そのものに冥伏していると考えられます。
 つまり、天界以外の九界は、すべて生命に内在している。いや、天界に、天という境涯をもそなえている。内容の異なる天界が連続してあらわれる場合も可能だからです。
9  川田 A医師の心理状態というか、生命の動きにこだわるようですが、私だと、やはり夜中などにたたき起こされると、どうしても、修羅界とか、また睡眠不足だというので、餓鬼界あたりがつきあげてきます。
 それで、本能的欲望に忠実になって、つい時間の経過を忘れてしまう。畜生の境涯ですが、あまりよい夢も見なくて、ある場合には、夢のなかで、往診に出かけているかもしれません。だが、現実は厳しいですから、窓の外にあざやかな早朝の太陽が姿を見せ始めて、しまった、と後悔すれば、地獄の苦しみです。そこまでいかなくても、瞬間的には四悪趣のうち、いずれかが顕現する。そこで、しまった、と思って痛烈に反省してから、やっと天界にまでたどりつける、といった調子でしょう。
 池田 三悪道を経て、それから反省する自我が二乗の境地で、その次に天界の顕在化というケースですね。
 だが私は思うのだが、真夜中に「急患です」という声を聞くと「ああ、かわいそうだ。一刻も早く行ってあげたい」という気持ちが、何の作為もなくすっと浮かび上がってくる。それが、どんなに疲れたときでも、いかなる用事がまちかまえていても、また、食事中であっても、いつも、同じような慈しみの心情にひたされてくる。こうなれば、菩薩界の生命の涌現、顕在化ですね。また、ある場合は、二乗の「我」にと変転するケースもあるでしょう。
 川田 「Hさんがぜんそくの発作です」といったような言葉が、A医師の耳をうつ。そうすると……。
 池田 どんな薬が必要だろうかとか、こんどの発作だと重いかもしれないから、いままでの処置だけでは効果がないこともあるなどと、医学の知識やすべての体験を総動員して考えてみる。
 「あっ、この処置が最善だろう」とインスピレーション(霊感)みたいなものが頭をかすめる。声聞界とか、縁覚界のあらわれですね。
 北川 これで十界のそれぞれの境涯が出ました。同じ「急患です」という一言でも、その受け方によって、どんな境涯にでもなりうる可能性があるのですね。
 池田 ということは、天界があらわれているその一瞬の生命にも、たしかに十界のすべてが「冥伏」していた事実を示している。だから、純理論的にいうと、次の瞬間、十界の境涯のうちで、どのような境地でもあらわすことができるということだ。この事実を、仏法では「天界所具の十界」というようにいいあらわしている。
 それだけではない。天界に十界がそなわっていると同じように、他の境涯、つまり、地獄界とか人界にも、十界のすべてが「冥伏」している。先ほどからの例を借りると、天界から地獄界に転落しても、次の瞬間には、二乗界にも、菩薩界にもなりうるということです。
 北川 つまり、地獄界の苦悩にさいなまれている生命にも、六道ばかりでなく、二乗界や菩薩の境涯もちゃんとそなわっているのですね。
 池田 それから地獄界にも、いまあげた各種の境涯のほかに、仏界さえも具している。まとめていうと、地獄界に具している十界というように考えられる。つまり、地獄界所具の十界です。
 こんどは逆に、たとえ仏界が顕現していても、次の瞬間には三悪道や修羅界に堕すこともある。また、人と天の世界や二乗や菩薩界に移行することもある。
 仏法では、十界という境涯を大きく二つに分けて、仏の生命と他の境涯を区別することがある。つまり、仏界と九界といった表現法がもちいられる。この表現を使うと、仏界にも、九界を具していることになる。
10  北川 日蓮大聖人は妙楽大師の言葉を引いて「阿鼻あびの依正は全く極聖の自心に処し、毘盧びるの身土は凡下の一念をえず」と述べられています。
 ここでは、九界の代表格として、阿鼻地獄があげられていますが、この文を、仏界と九界との関係から論じますと、仏界にも九界を具し、九界にも仏界を具していることを、明確に示しています。
 池田 この文にある「依正」とは、依報と正報のことです。それから、「身土」とは、生命主体とその環境を意味しているね。
 さて、全体の意味は、次のようになります。阿鼻叫喚の炎にむせぶ苦しみの生命も、極聖とされている仏界そのものにそなわっており、また、毘慮、つまり仏の生命も、じつは凡夫の一念心を超えるものではない、と。
 これは、仏界にそなわる九界と、九界に内在する仏の生命を明かしています。ゆえに、仏界と九界の関係性を仏法的に表現すると、仏界即九界であり、九界即仏界となり、この二つの原理を組み合わせると「十界互具」の原理をあらわすことになるわけです。
 北川 「観心本尊抄」には、「法華経」を引かれての「十界互具」論の解説があります。それは「法華経第一方便品に云く「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」等云云是は九界所具の仏界なり、寿量品に云く「是くの如く我成仏してより已来甚大に久遠なり寿命・無量阿僧祗劫・常住にして滅せず諸の善男子・我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命今猶未だ尽きず復上の数に倍せり」等云云此の経文は仏界所具の九界なり」とありまして、このあとずっと、地獄界から仏界にいたる各界所具の十界を説明しています。
 たとえば、餓鬼界所具の十界とか、畜生界所具の十界とか、また、菩薩界所具の十界といった表現がもちいられています。さて、「法華経」の方便品とか、寿量品から引かれた経文の解釈となりますと、ずいぶんむずかしくもなりますし、仏法用語に関わる部分も多くなり、「十界互具」論の解明という本筋からはずれる危険性もなきにしもあらずですので、ここではさっと素通りすることにしまして、「観心本尊抄」に記された十界互具というものの原理というか、意味を思索しますと、どうやら「十界が、そのそれぞれに十界をそなえている」と、かんたんに定義できそうな気がするのですが……。
 池田 「十界互具」を文字どおり解釈すると、たしかに、「十界という境涯が、互いに具足しあっている」となる。
 川田 そなわっているとか、互具しているといった表現は、理解できます。また「冥伏」ということもわかるような気がします。でも、それでは、と開きなおられて、いまこの瞬間に、君の生命において、十界はどのような状態でそなわっているのか、と質問されると、また困ってしまうのです。たとえば、その配列図を書け、などといわれると……。
 池田 十界が、地獄界から仏界まで、縦に並んでいた。そして、地獄界だけが、生命の表層に頭を出して、仏界はもっとも深部にあり、宇宙生命と連結していた、となると理解もしやすいでしょう。
 また、十界が、長い貨物列車のように、横につながっていて、右端が地獄界で、左の端が仏界であったりして、それが、少しずつ右から左へ動いていく。田舎の踏切で、貨物列車の通過を待つように、ああ、やっと畜生界が通っていった。こんどは修羅界で、その次に人界だ。仏界の通過まで待っていると、ずいぶんくたびれるでしょうね。
 ともかく、あらゆる生命において、十界のそれぞれは、縦に並んでいるのでもなければ、横につながっているのでもない。だからといって、手をつないで輪になっているのでもない。つまり、縦でもなく、横でもない。円でもなければ、方つまり四角でもない、としか表現の仕方がないようです。まあ、そういった既成概念をネグレクト(否定)して、超克したところに浮かび上がるのが「空」という存在状態なのです。時間と空間のワク組みを超えている、ととってもよい。
 だから、十界が横につながると、身体のほうまで太ってきて、これ以上はごめんこうむりたいとか、縦につながって、スマートになりすぎて困るといった心配はいらない(笑い)。「空」という状態は、空間の概念に東縛されることもないのだから、広いといえば広いし、狭いといえば、これほど狭いものもないのです。
11  川田 たしかに、現象の世界、つまり「空」に対する「仮」ですが、その「仮」の世界を織りなしている法則などとは、まったく違うものだというところまではわかります。でも、もう少し「空」そのものでなくても、近似的な意味でもいいですから、わかりやすい譬えはないでしょうか。
 池田 私も、こういった質問を受けて、縦でもない、横でも、斜めでもない、また、色でも形でもない、などと説明して、相手の人がほとほと困惑した顔つきを示すときには、次のような譬えを引くことにしている。あくまで「空」を理解するための手がかりとしてだが――。
 この空間には、種々の国の電波が飛びかっている。ソ連のもあるし、米国の発する電波もある。軍事用の電波も、残念ながら交信に使われているであろうし、また、漁船に台風情報などを伝えるような貴重な電波もある。にもかかわらず、私たちの目や耳ではとらえられない。
 北川 世界各国の放送などがぜんぶ聞こえるようですと、騒々しくてとても睡眠もとれませんし、また、それが、くっきりと目に映じたりすると、日常生活にもさしさわりがでてきます。
 川田 そのまえに、ノイローゼとか、精神錯乱になるのがオチですね。
 池田 私たちの五感とか六感でとらえられなくても、ほとんど無数の電波が飛びかっていることはたしかだ。その証拠に、受信機をセットすると、望みどおりの電波をキャッチできるのだからね。
 ところで、それらの電波だが、たしかに邪魔をしあうこともなければ、排斥することもない。あたかも、この空間に、溶けこんだように内在しつつ、しかも流れ動いている。まあ、ちょっと注意書きをつけておくと、電波の周波数が重なると混乱することもあるが、この場合の電波の存在状態というのは、あくまで「空」の説明に使っているのであり、電波は「空」そのものではない。だから、空間内での混乱が起きることもありうるのだが、「空」そのものにおいては、この空間という広がりさえも消失しているのです。
 ここが、電波の状態と「空」そのものとの根本的な違いだが、ここのところをわきまえてもらったうえで、私の説明から「空」の概念をつかんでもらいたいと思う。
 北川 無数の電波を入れたままで、その空間という広がりがパッと消える。これから類推しますと、十界という境涯をぜんぶ内包したそのままで、十界のそれぞれが、時間と空間を超えた領域で脈動している。それが、私たちの生命の世界であると……。
12  池田 いいところにきたようだね。「空」の状態で、十界のすべてが脈打っている。ともすれば、人は、「無」と「空」の違いはある程度わかっても、その「空」をきわめて静的にとらえがちなものだ。静的に考えると、どうしても縦とか横といった概念にとらわれてしまう。だが、生命の実相は、あくまで、ダイナミックな生の流れに満ちている。生のあらゆるエネルギーをたたえている。だが、生きていながら、しかも、生命の内奥に姿を隠している。
 ゆえに、「空」という存在状態にある十界のすべてが、死ではなく生の色彩をおびて、躍動し、渦巻いていると、表現できるのではなかろうか。このような生命のあり方というか、十界のあり方を、もっとも適切な言葉であらわすと、「渾然一体」となって「融和」しているともいえよう。さらに、十界という境涯に焦点をあてれば「十界互具」と表現できるのではないだろうか。
 北川 私も、どうやら「互具」というのを、静的にとらえていたようです。しかし、この「十界が互いに具す」ということを、動的、ダイナミックにとらえますと、私の生命そのものにも、十界の躍動が感じられてきました。
 池田 先ほどの定義が、たんなる言葉の解釈ではなく、私たちの生命そのものに生き返ったようだね。十界互具ということの定義だけさらっと読んでしまうと、あまりにも明瞭すぎて、かえって、その深さというか、定義にこめられた真実の意味を見落としてしまう。
 そこで、もう少し、考察を進めると、十界の各々が生の息吹をたたえ、動き、変化への力を秘めているからこそ、十界のすべてが融和し、一体となって、私たちの生命に内在しうるのです。
 いや、むしろ真実は、私たちの生命において、十界が互具したままで存在しうるがゆえに、十界のうちのいずれの境涯にも、顕在化しうる力というか、可能性をたもつことができる、という点にあるようです。少しむずかしくなるが、この互具という事実のなかに、生命の躍動するエネルギーがはらまれている。だから、この脈打つ生命の血潮を、かりに、人工的に凍結して眺めたりすると、たちまちにして、十界の融合は崩れ去り、私たちは、ただ、十界のバラバラになった姿を、見いだすにしかすぎないのではないだろうか。
 仏法でも「法華経」以外の経々においては、たとえ、地獄界とか、人界とか、仏界とかを説いているとしても、それらは融合したものではなく、別個の――つまリバラバラの――存在としてしか説かれてはいない。
 川田 ここのところですが、私、いつも不思議な気がするのですが、「法華経」以外の経文では、どうして、十界の融合が説きえなかったのでしょうか。仏界と九界の融合となると、これは、よほどの洞察力がなければ見いだせないでしょうが、たとえば、九界のなかでの融合は、もし「空」の概念さえわかれば、説きえたのではないかと思います。
13  池田 それは、生命をありのままに知見できなかったからだ、というほかはないようです。もっとわかりやすくいうと、生命の活動というか、営みを、その動きのままに、とらえることができなかったからでしょう。
 ダイナミックな生命の営みを知見しようとするとき、たとえ、その流れをまったく止めてしまうのではなくても、もし、少しでも傷つけたり、変形させるようなことがあれば、渾然一体となって融けあっている十界互具の姿は、たちまちにして空中分解してしまうにちがいあるまい。それほど、互具しあった十界の調和ある律動は、微妙でもあるし、そして、傷つき、こわれやすい。そこに、三諦論とか、色心不二とか、依正不二などといった仏法独自の認識の方法が、重要になってくる意味もあるのだが、ここでは、そのことには深入りしないことにしよう。
 さて、あたりまえのことだが、バラバラになった十界の姿は、私たちの生命に燃えあがる生きた実在ではない。「法華経」以外の経文においては、生命の真実相を会得するのに、その全体像をありのままとらえることができず、部分観であったり、また、ゆがんだ形でとらえたりする。だから、それらの経々のなかに人々が見いだしたものは、私が述べてきた意味においての、十界の死せる姿であったとは考えられないだろうか。
 したがって、その「なきがら」を、どのように集めてきても、生きた十界互具の血潮は、ふたたびよみがえるはずもない。ちょうど、私たちの身体において、肝臓や腎臓や脳細胞や、神経や血管をどのように連結してみても、そこから生の息吹を誕生させることはできない相談であることと、類似する面もあるようです。
 川田 バラバラになった手とか足とかの屍体を、医学でどんなにつなぎ合わせてみても、もとどおりの生きた人間はよみがえりません。
 池田 ゆえに、結論していうと、十界のそれぞれは、本来、分離し、バラバラになった存在で常住するのではなく、融和し、合一しつつ脈動するのが、真の姿なのだと思う。
 十界が互具しつつ、しかもそのなかに、生の血潮をたたえているからこそ、たとえば、ある瞬間に、十界のうちのどの境涯があらわれていたとしても、次の瞬間には、冥伏していた、いずれの境涯をもあらわしうる、という可能性をはらむことができるのです。
 つまり、脈動する生命体は、いかなる瞬間をとってみても、十界互具の当体としての生を享受しているのです。
 北川 この項を終えるにあたっての確認になりますが、十界互具という原理からしますと、たとえば、地獄界の次にはかならず餓鬼界がきて、その次には畜生界がくる。それから修羅界というように、十界を地獄から仏界に向けて、一つずつあらわしていく。こんな調子で生命が変転するということは、ちょっと考えられませんね。
 池田 そういったケースもある。だが、原理的にはあくまで、地獄界の次にも、人界の次にも、十界のすべての境涯がくる可能性がある、と考えねばなるまい。だが、現実には、どうやら、三悪道とか六道ばかりがあらわれて、菩薩界とか仏界などには、縁遠い人が多いようだね。
 ともかく、原理はあくまで原理として確立し、その原理をふまえたうえで、今度は現実の生命流転に眼を向けよう。
14  人間革命とは何か
 北川 私も、十界互具ということについて不明瞭であった部分が、ようやく霧が晴れたようにすっきりしてきました。そこで、この十界互具の原理を見つめながら、そこから、自己を変革し、幸福の″女神″を呼びよせる作業に移りたいと思います。
 先ほどはA医師の体験にもとづいての考察でしたので、こんどは、B青年とC子さんの記録を使わせていただくことにします。まずB青年の場合ですが、オリンピックの出場をかけた予選の前までは、人界とか天界をあらわしていたのでしょうね。
 池田 もし″体操界のホープ″などと騒がれて、有頂天になることがあれば、天界だと思う。だが、その天界が、一瞬の後には、地獄界の苦しみのなかに転落している。
 北川 ジャンプしたとたんに、バランスを崩して、マットに倒れたときですね。
 池田 つまり、天界の喜びというか、得意げな顔貌のなかにも、地獄界の悩みがひそんでいたことになる。この天界から地獄界への移行を、仏法的にいうと「天界所具の地獄界」というふうに表現できよう。これは、天界に具していた十界、すなわち「天界所具の十界」――のうち、現実には地獄界があらわれたということを意味している。
 北川 それからのB青年の生活は、まったく狂ってしまっています。絶望が全身を覆い、それをごまかすために、睡眠薬をあびるように飲み始めます。それと、酒、ケンカの連続……。
 池田 地獄界の連続でしょう。地獄界所具の地獄界という方程式が、かぎりなくつづいていくようです。そのなかで、ときどき、酒とケンカに気分をまぎらわすときは、修羅界だ。だが、その修羅のエネルギーをも使いはたすと、ふたたび空しい心をいだいて、不自由の極限をはいまわらねばなるまい。修羅界にも、地獄界がそなわっているからです。
 川田 睡眠薬で中毒症状を起こして、しだいに、悶えの底知れぬ深みにのめりこんでいくのが、目に見えるようです。
 池田 かつての、華やかな天界の住人から、いまは、地獄界を離れられない生命のあり方へ、と変転してきた。どんなにあがいても、また、どんなに焦っても、ちょうど、獄卒の手にした鉄の鎖によってひきずりこまれるように、どこにいても、かならず苦しみの極致へと帰っていく、牢獄こそが、その青年の生命にもっともふさわしい住み家であるかのように……。
15  川田 でも、考えようによっては、たとえ短い期間、辛苦のかぎりをなめても、強い意志力によって、立ちあがることもできたはずではないでしょうか。
 池田 原理的にいえば、みずからの努力によって、地獄界からの浮上は可能なはずです。地獄界にも、人と天の世界や四聖の境涯すら、はらんでいるからです。
 だが、現実には、B青年は、どんなに決意し、精神病院にまで入って治療を受けても――少し病状がよくなったころは、一時的には人界の安らかさを味わっただろうが、退院するとまたもや、薬物中毒の巷にのたうっている。どんなに決意を固め、また、薬物を与え――これはむろん、解毒剤のほうだが――医師と看護婦さんの手がさしのべられても、どうしても地獄界から抜けだしえない。それはなぜだろうか。
 北川 廃人同様の青年を知っている一人の友人は、B青年の性格のもろさをあげています。決意してもすぐ崩れて、つい、薬に手を出してしまう――と。
 川田 麻薬とか睡眠薬もそうですが、中毒症状を起こした人にとって、薬物の誘惑は強烈ですから、よほどの意志力というか、もっと深いところからの生命の力がないと、まず打ちかてないでしょう。
 池田 意志が弱い。なるほど、それもあるでしょう。また、別の面からB青年の性格を分析すると、気分が変わりやすいとか、持続性がないとか、神経質なところがあったとか、種々の要素が浮かび上がってくるにちがいない。よくいえば、快楽を求める欲望というか、衝動が強すぎた、といえないこともない。良い面も、悪い面も、ともに具備しているのが、私たちの生命です。
 しかし、これらの種々の特質なり、特色なりが、善悪を含めて、B青年自身に統合され、統一されて、瞬間ごとの生が営まれている。まあ、そういったなかで、B青年の場合は、性格がもろい、という特徴が顕著だったのだろうとは思う。
 北川 心理学用語を使うと、″パーソナリティー″といいますね。日本語ではいちおう、人格というふうに翻訳されています。この″パーソナリティー″自体が、地獄界をあらわしやすい種々の要素をもっていた、と考えることはできないでしょうか。
 池田 ″パーソナリテイー″を定義すると、一人の人間の全体的な特色、とでもいえばいいだろう。それを、行動面からすると、その人特有の行動の仕方、パターンだが、これは、ある程度予測することもできる。
 酒を飲むと、荒れてくる人がいる。すると、もうこれぐらいで、そろそろ騒がしくなるころだ、と推測できる。また、おとなしい女性だと、満員電車に乗るとき、どういう行動をとるかといったことも、だいたいはわかるものです。まあ、ときには予測できないこともあるがね。
 川田 「くせ」というのも入りますね。テレビで人気を博している木枯し紋次郎の口にくわえた長い揚子なんかは、愛嬌があっていいですが……。
 池田 悪い「くせ」は困るね。自分も悩むし、他の人たちや社会をも悩ましたり、迷惑をかけたりする。その「くせ」を直そうとしても、自分の意志では、どうにもならない場合も多い。
16  川田 それで思い出したのですが、あまりよくない「くせ」というか、むずかしくいいなおすと、異常な性格、性質ですね。これを心理学者のシュナイダーという人が、十の型に分類したのがあるのです。ざっとあげれば、文字どおりなのですが、発揚性の人――陽気でいいのですが、いつも酔っぱらっているような人です。抑うつ性の人――じめじめした暗い性格に悩みます。自己不確実の人――俺はいったいだれだろうと、ときどき疑念がわきおこるのです。
 これからあとは、説明の必要はないと思います。つまり、顕示性の人、気分易変の人、無力性の人、爆発性の人、情性の乏しい人、狂信性の人、意志の弱い人、と分けられています。(『精神病質人格』懸田克躬。鰭崎轍訳、みすず書房、参照)
 といっても、純粋に一つの型をもった人がいる、というわけではありませんが、私たちはだれでも、このなかのどれかが顕著だと、やはり認めざるをえません。
 池田 それでは、良い「くせ」のほうもあげてみると、愛情こまやかな人、思慮深い人、生命感情の豊かな人、意志の強い人、謙虚な人、信念の人、気分の持続する人、意欲に満ちた人、計画性のある人、――まあ、いくらでも分析できるが、これらのめぐまれた性格の強い、豊かな人でも、それらを、どのように発揮していくかによって、善と悪は変わってくる。
 意志が強いといっても、慢心と結びつけば手におえないほどの悪をなすこともある。また、思慮深くても計画ばかり立てて、実行しない人になりうる可能性もある。
 こういった各人各様の特質を含みつつ、その人の全体的な特色がかもしだされる。それが″パーソナリティー″だが、この人格的なものは、たしかに、十界のうち、どれかを顕現しやすい傾向性をもっているでしょう。そこまでは考えられる。
 たとえば、意志力の比較的強い人だと、地獄の苦悩からはいだす確率は高い。無力性の特色が強いと、環境の荒波にもまれつづけるだけでしょう。爆発性の性格をもっていると、何でもないことに怒りや、憎悪や、破壊欲や、攻撃欲を発動しがちです。愛情がこまやかな人だと、だれでも、温かな愛の衣ですっぽりと包んでしまうにちがいないし、生命感情が生まれつき豊かな人にとっては、自然の風物や、また他の人々の苦楽ともに、自己のものとすることができるようです。
 こうして、少しばかりだが、性格とか、人格などを見てくると、修羅界に結びつきやすい人もいれば、二乗の境涯に遊ぶことを好む人もいるようだ。慈悲心を発現して、菩薩の行為におもむかざるをえないような人もいると思われる。
17  北川 そうしますと、″パーソナリティー″と十界互具論は、密接に関係してきますね。
 池田 密接な関係性はある。B青年の人格も、やはり、地獄界とか、修羅界に結びつきやすい要素をもっていたことは事実です。だから、自分の努力だけでは、容易に地獄界の苦悩を克服できなかったのだ、ともいえよう。
 だが、私は、十界互具の原理にストレートに関係するのは、性格とか、人格も入るが、それらを含めた、その人個人の生命全体の傾向性ではないかと思う。「くせ」といってもいいが、それは個々のものではなく、生命全体の「くせ」です。
 その傾向性とか「くせ」を形づくるのは、性格的にいうと、人格も含めて、その背後にある広大な無意識の世界とか、また、肉体的な体質とか、気質といったようなものがあるような気がする。
 人間の生命が色心不二の当体である以上、身体的なエネルギーの強さとその質をも、十二分に考慮に入れるべきであると思う。たとえば、性格的な欠陥も、身体に力が充満しているときには、カバーされてしまうか、もしくは、その欠点と思われる性質さえも、いい面に生かされることもある。
 北川 B青年も、体操界の新鋭としてぐんぐん成長しているころには、少しぐらいの性格的なもろさがあったとしても、それはほとんど問題にはなっていません。いや、かえって、それが、気のやさしさになってあらわれていたかもしれません。
 池田 では、そのころの生命全体の傾向性はどうであったかといえば、人格的にたとえ弱い部分があったとしても、――だれでももっているものだが――十分にそれを乗り越えて、人界とか天界を顕現していたのではなかろうか。一時的に三悪道をめぐっても、すぐ人間らしい境地を取りもどすだけの、体力もあり、気力もあった。
 だから、十界互具論からいえば、つねに、人と天の世界に帰っていくような生命の「くせ」をもっていたことになる。ある場合は、体操の技術とか、新しい型などを見いだそうと努力して、二乗の境地にひたっていたとも考えられる。
 私は、このような生命全体の傾向性がさし示している十界のなかの境涯――この場合は人と天の世界とか二乗界だが――を、その生命にとっての基底部である、といいあらわしてみたいと思う。あるいは、別の言葉を使えば、オリンピックヘの希望の星であった一人の青年は、まことに人間らしい幸せをかみしめる境涯を基調にして、人生航路を歩んでいたとも表現できるでしょう。
18  川田 すると、私たちの生命は、瞬間ごとには、さまざまな境涯をあらわしていても、少し長い眼で見れば、かならず、生命活動の基調となり、基底部となる一つの境涯を発見できるというわけですね。そして、その基調となっている境涯が、その人の生命の傾向性というか、おもむくところを端的にさし示しているのだと……。
 池田 そう考えていいでしょう。ただ一つ、つけ加えておくと、基調となる境涯は、十界のうちの、一つの境地だけとはかぎらないのです。地獄界と餓鬼界と畜生界を、絵に描いたように順序正しくめぐっている者もいる。また、畜生界にとどまらず、修羅界、人界、天界とあがっていって、その次に地獄界へ、と一挙に転落する生命もある。
 北川 俗にいう″ひばりの人生″ですね。
 池田 それから、声聞界と縁覚界ばかりをちょうど半分ずつ、規則正しくあらわしている生命だって、現実には見られよう。
 川田 大学の研究室に、フトンと食事道具一切を持ち込んで、研究に没頭していますと、たしかに、二乗のみが基調になります。私もよく聞かされたのですが、象牙の塔に閉じこもっていて、日本とロシアの戦争――日露戦争のことですが――をまったく知らなかった学者が、現実にいたそうです。
 学者仲間では、伝説になっているのですが、象牙の塔の窓から見ると、多くの人々が、ちょうちん行列をしている。仙人のような学者は、弟子にたずねたそうです。「どうして、皆、うれしそうに騒いでいるのか」と。すると、弟子の一人が「戦争に勝ったのです」と答えると、学者は不思議そうに「日本は、どこかの国と戦っていたのか」と反問したといいます。
 この話は、善悪を別にすれば、学者の生命の傾向性は、たしかに、二乗のみを示していた、という実例です。ウソのようなホントの話です。
 池田 そこまでくると、特殊な人の境涯になってしまうが、とにかく、二乗とか、三悪道とか、六道のぜんぶを基調としているような生命の動きもあることだけは、確実です。
 さて、話をもとにもどして、B青年の場合だが、アキレス腱を切ることによって、基調となっていた境涯が、がらりと変わっている。物理的にいうと、肉体上の一つの傷害にしかすぎないが、その一つの出来事が、彼の人生の致命傷ともなりうる意味をもっていて、色心ともに、地獄界へつきおとしたといえよう。そこで、初めて、いままでカバーされていた種々の弱点が浮かび上がって、生命の傾向性は、地獄をさし示すようになった。
19  北川 人と天の世界から、地獄への、基底部そのものの移行ですね。
 池田 その基底部が、長い長い苦しみの連続の末に、もう一度、大変革を遂げる。それは、地獄界から、人天の境涯へのよみがえりであり、一つの宗教体験にもとづく、あまりにもあざやかな自己変革の道を、示しているようです。
 北川 禁断症状の克服の場面ですね。
 B青年の実例は、基底部の変革というか、移行が非常にはっきりしているのですが、その移行がいつとはなしに徐々に行われるケースも、多いのではないでしょうか。
 池田 生命の傾向性が、わずかずつ変革を遂げていくことのほうが、むしろ一般的でしょう。A医師の場合もそうだし、C子さんの青年期にいたるまでの歩みも、劇的な生命全体の変革は見当たらないようです。
 一つの例を出そう。大海のまっただなかを、一隻の船が航海しているとしよう。荒波にもまれ、激しい風雨にさらされたり、また、波静かな好天にめぐまれることもあろう。そういった場合、船は針路を百八十度転回することができることもあれば、徐々に旋回していって、同じ効果を得ることもある。
 このたとえから、人生という海原を進む個々の生命という船が、いかなる航路をたどるかを熟視してもらいたい。だからといつて、生命の傾向性が、地獄界から餓鬼界へと変わり、それから畜生界だ、などと単純に考えてもらっては困るがね。
 川田 そのあたりはわかります。C子さんの場合も、ご両親の生命状態をも含めてですが、小児マヒの宣告は、たしかに地獄界です。でも、その苦しみの境涯が、いつとはなしに薄れてきて、人界とか天界の喜びにもひたっていますし、また、菩薩界の所業をさえも立派になしとげています。
 池田 小さいころの基底部は、あるいは三悪道であったかもしれない。とくに、ご両親の生命は、心配と悲しみでいっぱいであったろうと察せられます。しかし、娘さんは、明るくて、愛らしい女性に育っていったとある。性格のゆがみ、つまり″ひがみ″の根性も、少しも芽ばえていないともいう。
 こういった娘さんの人格からも、私たちは、ご両親と娘さんの生命の傾向性が、地獄への針路を少しずつ変えて、幸せな結婚をするころには、四聖の境地とか、人間らしい境涯をさし示していたことが、理解できるのではなかろうか。少なくとも、学校を卒業して、社会に入るころには、すでに、三悪道とか修羅界を基調とするような生命状態ではなかったことだけは、断言できそうです。
20  川田 彼女の場合も、たしか小学生のころに一つの宗教を体得するというか、宗教的な修行を支えにしての、努力が積み重ねられています。
 池田 その宗教的な修行というのは、仏界という生命の顕現をめざしたものです。
 川田 あらゆる人の生命内奥からの仏界を、わきいだす行為です。
 池田 その行為のたゆまぬ連続が、ともすれば、苦悩の極限に向かおうとする生命の傾向性を、少しずつ変えていったのです。長い歳月だから、たとえ地獄界を抜けでても、修羅界を基調とするような時期があったかもしれない。また、自己に背負わされた運命の重みを、じっとかみしめる反省の時期をもったこともあったでしょう。
 しかし、その生命は、やがて、菩薩界とか仏界を基調にして脈動しはじめる。仏の生命に立脚した人生の胎動は、世のいかなる激風と荒波にも耐えて、微動だにしない自己変革の道を、まっしぐらに進みゆくはずです。たとえ、社会からもたらされる種々の働き、つまり、仏法用語では「縁」となるが、その「縁」がいかなるものであろうと、みずからの定めた人間革命のプロセスを、決して踏みはずすことはない。
 北川 たとえば、その「縁」が、地獄界へつきおとすような強烈な働きであっても、それを受けて立てるのでしょうか。
 池田 C子さんにも、そんな事件があったようですね。保育園の事務の仕事をつづけられなくなった――。理性的には納得いったとしても、仕事を解雇されることは、やはり、苦しみをもたらす。しかも、その理由として、自己の努力で克服したはずのものが、ふたたび他人によって拾いあげられてくる。ともすれば、運命をのろい、社会に背を向け、自暴自棄の心境になりがちなところを、彼女はみごとに乗り越えている。地獄の「縁」を受けて立つ気力と生命の力の源泉は、青春をかけて会得した、仏界という基調の境涯ではなかったでしょうか。
 だが、もう一歩、深めてみよう。仏界を基調とした生命は、たんに苦悶をもたらす「縁」を受けて立つだけではあるまい。常識的にいわれることだが、苦しみとか悲しみとかは、人の心の深さを増すものです。人の世の真実の苦悩を味わった者のみが、他者の不安や苦痛を、そのまま「同苦」できるようにも思う。
 つまり、苦しみは、その受け方によって、地獄の原因ともなれば、また逆に、その人の人間性を深める栄養分にもなりうるのです。もし、後者をとれば、苦悩は立派に利他に生き、「抜苦与楽」の行為に生きがいを見いだす菩薩界の、原動力と化すのです。
 北川 餓鬼界とか、畜生界とか、修羅界などにも、同じことがいえるのですか。
 池田 原理は同じです。飢餓感におびえた体験をもつ人は、食物をはじめとする地球生命からの恵みに、感謝の心をわきおこすこともできるのです。そこから、自己をはぐくんでくれる他の人々や社会や自然への、心の底からの慈しみの念も生じるというものでしょう。
 また、弱肉強食の原理や、憎悪、嫉妬、慢心の渦巻く人の世に体当たりで生きるときに、畜生や修羅の境涯に身をまかすことの愚かさを、骨の髄から知ることができるのではないでしょうか。もし、その愚かさを熟知すれば、増上慢の心や嫉妬の感情や、利害にのみ執着する自我と、真正面から対決する勇猛心へと、人々の生命自体を変転させることも可能だと思う。少なくとも、エゴイスティック(利己的)な生命をたたきふせるだけの勇気と意欲は、わきあがってくるはずです。
21  川田 いまの話を聞いて、A医師が、医は仁術なり、の不変の倫理を可能にする哲理を身につけたあとで、「利害にとらわれないようになった自分がうれしい」と語った、その心情がわかるような気がします。
 池田 仏界を基底部にした自我のみが、よく表現しうる言葉ではないかと思います。
 北川 仏の生命というのは、三悪道や修羅の心さえも、自己の成長と他者への感謝、慈悲の行為へと生かしていくのですね。
 池田 いま、四悪趣という境涯までを例にとって考えたが、他の九界についても少し思索してもらえばわかることなので、あえて、人界とか天界とか二乗については、ここでは詳述しないことにしよう。この章もずいぶん長くなったので、本筋だけを追っていくことにして、ただ一つ重要な点を指摘してみたい。
 それは、九界の境涯をもたらす種々の「縁」は、すべて、仏の生命のなかに取り入れられると、自己の人間変革の栄養分に化してしまうという点です。また、少し逆説的に聞こえるかもしれないが、九界という荒波の領域を離れて、私たちの生命は、仏界を基底部にすることはできないということです。これが、仏界即九界、九界即仏界の実践的な意味です。
 北川 むずかしいですね。
 池田 では、もっとわかりやすい例を引こう。私たちの身体には、食物を消化し、吸収する能力がそなわっている。これは、身体的エネルギーといってもいいでしょう。
 しかし、そういった力がそなわっているからといって、食物を口に入れなければ、私たちは生きていくこともできない。こんどは逆に、どのように栄養分たっぷりの食物をとっても、それを消化する能力が失われていれば、かえって、生命を傷つけるだけでしょう。
 北川 食物にあたるものが、九界の縁であり、私たち自身の能動性が、仏の生命であるといったようにたとえられますね。
 池田 だから身体が強靭で、はつらつとしていると、何でも消化してしまう。ところが、消化力が弱っていると、たとえ、力がつくとわかっていても、食べられないものがある。
 川田 極端な場合ですと、長い間、飢餓の世界をさまよった人に、いきなリビフテキを食べさせると、死を招くことにもなります。やはり、流動食あたりから少しずつ栄養をつけていかないとダメですね。
 池田 身体の例を借りてきたが、仏の生命が充満しているときは、三悪道であろうと、修羅界であろうと、すべてを自己の成長の糧としうる。その行為が、そのまま、仏の生命の働きを増幅し、仏界の強化にも役立っていく。
 北川 つまり、食物が吸収されて、それが心身のエネルギーに化していく、という過程ですね。
 池田 地獄の苦悩は、人々の心の深さを増し、情緒を豊かにし、悩める人との連帯を可能にする。飢餓感は、その克服をとおして、地球とか宇宙生命への感謝の心をはぐくんでいく。畜生界における愚かさの発見は、仏の英知に照らされて、その愚かさを排除するための実践的な知恵に転じていく。また、憎悪に狂う人は、自己の生命を変革しつつ、その憎しみを、社会と文明の悪にさしむける方途を学ぶにちがいない。
 人界や天界にひたる人は、その喜びを享受しつつも、天界の頂上に待ち受ける生命の魔性にとらわれることはない。さらに、二乗界の「我」は、自己のためではなく、他者の幸福への一助として、努力の結晶をささげるのではなかろうか。菩薩界の行為が、仏界の生命を強めるのはとうぜんだが、他の境涯での行いも、すべて、仏界に立脚しつつ、しかも、仏の生命を強化し、はぐくんでいくのです。
 こうして、九界の「縁」を取り入れ、栄養分と化し、他者を生かしながら、自己変革の道を歩む。これが、私たちの一生をかけて実践しようとしている人間革命の、十界互具論にもとづく生命流転の方程式です。
22  北川 最後に一つだけ確認というか、質問があります。人間革命とは、十界互具論からすれば、仏の生命を基調にしての、生命全体の変革であるととれますが、その、仏界を基底部におく作業の一つには、もっとも根本的なものとして、仏法の修行による、私たち自身の、生命の奥底からの仏界の顕現がありますね。
 池田 とうぜんのことです。その修行を、たゆまず実践しぬくところに、私たち自身の生命に、宇宙大の力がしだいに定着していくのです。わが内奥の仏界をはぐくむといってもいいでしょう。だが、仏の生命が現実に働くのは九界の世界です。たとえば、私たちの身体に、食物の消化力がそなわっているといっても、その力は食物を摂取して初めて、現実の働きをするのです。
 同様に、仏の生命には、宇宙大の慈悲と英知がある。その英知は、端的にいえば、あらゆる生命的存在に食い入り、暗躍する、生命の魔性を見ぬく知恵です。そして、慈悲のエネルギーとは、生命の魔性を打ち破る力であるといえましょう。したがって、仏の知恵と慈悲を発現させる場は、九界の巷です。
 九界の荒波のなかで、知恵を使い、慈悲力をあらわしてこそ、私たち自身の仏界もますます磨きがかけられるというものです。しかも、その働きによって取りこんだ九界の「縁」も、先ほど述べたように仏界の栄養分となり、これらの連鎖的な働きが、相互に強化しあって、仏の生命が堅忍不抜の存在となりうるのです。
 北川 先ほどからの例を借りますと、九界の「縁」が、仏界を育てる栄養力ですから、積極的に私たちのほうから働きかける必要がありますね。たとえば、地獄界をもたらすようなことがあっても、逃げるのではなく、かえってそれにチャレンジ(挑戦)していくとか……。
 池田 逃げていると、いつまでたっても食物をとれなくて、栄養失調になる。つまり、逃げれば九界の迷いだね。挑戦して、自己実現の栄養と化せば、それを仏界の悟りともいえよう。私は、仏界を基調とした生命は、望んで、九界の「縁」に体当たりするのではないかと思う。また、それが、信仰者の生き方でもある。
 たとえば、あえて地獄の苦を引き受ける生命を、仏界と称するのではなかろうか。地獄の縁を受けて立つという姿勢より、もう一歩進んで、あえて苦悩の世界を引き受け、修羅闘諍のまっただなかに飛び込んでいく。そこに、人間としての真実の主体性が確立されるのだとも思う。たとえ、その人が、生活とか地位とか、また学歴とか財産の関係で、保障された安穏な人生を送れることがわかっていても、あえて、それを振り捨ててでも、三悪道の巷に立ち向かっていく。また、自己の意志で、六道輪廻を繰り返す場合もあるでしょう。
 表面から見れば、安穏な生活は、人界や天界の生命活動をもたらし、三悪道の荒れ狂う世界での挑戦は、地獄の苦しみの連続と映るかもしれない。だが、その地獄界の苦闘の奥に、仏の生命が輝いているかぎり、その人は、人格を磨き、見識を高め、自己変革と自己実現の道を歩んでいるのです。そういった人に、真実の崩れない幸福の″女神″が訪れるのではないでしょうか。ゆえに、十界互具論をとじるにあたって、次のことだけは強調しておきたい。
 仏界を基調にして、あえて引き受けた苦悩は、望ましい苦しみであり、あえて関わった悲しみは、望ましい悲哀である。それは仏の生命をはぐくむ苦しみであり、悲しみであるからだ――と。

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