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日蓮大聖人・池田大作

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人間らしい生き方〈2〉 十界論をめぐって 

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

前後
2  川田 そうしますと、豊かな社会、つまり物質文明が爛熟期に入ろうとしている世の中では、人界や天界の境涯を現出できる可能性も増大していると考えられますね。
 池田 戦後の一時期からすれば、消費どころか浪費をすすめられるのだから、天界を示す人々の「我」も、総体的には増えているだろう。各種の欲望の、かぎりない増大をひきおこす物質文明は、仏法の観点からすれば、天界を現出させることに、目標を定めていたということもできる。それが、たとえ無意識であっても、天界を一種の理想郷として描いていたことはたしかでしょう。
 北川 西洋物質文明がめざしているのは、科学技術や地球上のあらゆる資源を使っての「官殿」づくりですね。
 池田 未来論が、人類の行く末をバラ色に染めていたころには、そういった試みも成功をおさめるかに思われた。だが、戦後、四半世紀をかけてつくりあげようとした「宮殿」も、所詮は砂上の楼閣にすぎず、昭和四十五年あたりから、つまり、一九七〇年代への突入を境にして、その根底から崩壊の危機に瀕している。
 豊かな社会は、物質的欲望の充足とひきかえに、人の生命から、心の豊かさを奪い去っていった。また、核戦争の恐怖は去らず、公害が一挙にふきだし、地球という大自然も狂い始めている。自然も、社会も、文化も、そして人の心情までが、死の静寂をたたえて凍りつこうとしているようだ。
 たとえ、ある時期、天界の「宮殿」に遊んだ人も、いまでは、その廃墟に呆然とたたずまざるをえないのではないだろうか。天界の夢は幻のごとく消滅し、あとには、かつて脱け出たはずの地獄の苦悩や餓鬼の飢餓感が待ち受けている。人々の心は貧しく、争いの渦を巻き起こしていく。これが、現代の、また、少なくとも私たちが向かおうとしている未来の世相ではないだろうか。
 北川 そうしますと、欲望の充足を至上命令とした物質文明が、すべての生命の「我」を、三悪道や修羅界にひきずりこもうとしている根源というか理由を、どういったところに求めればいいでしょうか。つまり、文明に内在する悪ということですが……。
 池田 ここで、ふたたび、仏法に説く欲望論に目を向けてみよう。前章でもふれたことだが、もう一度、要約すると、仏法では、欲望の性質やその充足の段階に応じて、六つのカテゴリーに属する生命の境地を示している。地獄界から天界の欲望までです。
 ところで、仏法の欲望論の特色の一つは、欲界の頂上に、第六天の魔王が住む、と明記していることだと思う。魔王などというと、先入観念がわざわいして迷信めいて受け取られやすいが、現代的にいう「欲望の魔性」とでも呼びうるのではないだろうか。
 北川 権力に巣食う魔性を権力の魔性といいますし、資本そのもののもつ悪魔的性格を資本の魔性と呼んでいます。また、科学の魔性を指摘する人もいます。こういったことから考えますと、欲望そのものに内在する悪の性質をさして、「欲望の魔性」と定義できそうです。
3  川田 ところで、仏法で説く欲界の頂上とは、他化自在天のことですね。
 池田 そう、そこに、第六天の魔王が住んでいるというのです。″他の化作したものを自在に受けるという″ごとく、欲望の魔性は、他の生命的存在を支配し、所有し、自己の思うがままにあやつり、そのこと自体に喜びを感じるのです。
 川田 私たち自身の生命のなかにも、自然や他者を支配下におさめ、自由に動かし、悪魔的な喜びにひたろうとする欲望がうごめいていますね。
 池田 そういった意味では、すべての欲望が、魔性をおびがちであるとも考えられる。だが、もっとも顕著に、生命の魔性が姿をあらわすのは、支配欲であり、権力欲であるように思われる。
 川田 物質に向かう所有欲、人間関係では自己顕示欲とか名誉欲などにもひそんでいますね。
 北川 この点について、ニーチェが権力への欲望を、人間のあらゆる欲望の根本においたのは、高く評価されるのではないでしょうか。アドラーは、精神分析の立場から、権力への意志を追究していますが……。
 池田 仏法の見識に近いと思う。
 北川 フロイトも、一般には性欲中心説のように考えられており、また、たしかにそう受け取れる面もありますが、彼の晩年の学説では、生の本能とともに死の本能を見いだしています。死の本能とは、生命を破壊に導く本能です。
 池田 死の本能も、また、マルクーゼの提示する死の衝動なども、欲望の魔性の働きの一面だと思う。他者を奴隷のごとくあつかい、生命本源の力を奪いつづけるのが、他化自在天の本性だからです。
 川田 まるで、西洋の吸血鬼みたいですね。
 池田 仏法では魔性とは何かということについて、ずばり「奪命者」とある。生を破壊し、生きる力を抜き取っていく、そして、すべての生命的存在を地獄の苦悩におとしいれる、そういった働きを魔性と表現したのです。
 さて、仏法の欲望論は、権力、支配、所有などの欲望の、もう一歩深いところにまでおよんでいると推せられる。つまり、これらの欲望にその姿をあらわす第六天の魔王の正体は何か、ということを人間存在そのものの内奥に追究していったのです。
 日蓮大聖人の「治病大小権実違目」には、「元品の無明は第六天の魔王と顕われ」とあります。欲望のもつ悪魔的性格をもたらす本体は、「元品の無明」であるというのです。「元品」とは、生命存在の根本にあり、本然的にそなわっているという意味だと思う。「無明」とは「明らかなること無し」という意味で、生命の本質に昏いことをさしています。
 では、「元品の無明」とは具体的にはいかなるものかといえば、私は、生命の「我」自体に本来的に内在するエゴイズムの実体であるといえると思う。また、欲望の魔性との対比からすれば、それは、生命そのものの魔性であるともいえるでしょう。
 この生命の魔性が、欲望の魔性としての形をとり、それは同時に、人間の自我にくい入って、利己的で、排他的で、独善的な自我としての姿をとるのであろう。したがって、欲望も自我もともに、エゴイスティックな性質をあぎやかに示すにいたるのです。
4  川田 とすると、この生命の魔性が力を得れば、人界や天界における理性的、良心的な自我も、たちまちにして利己心や増上慢の心に「変身」してしまうのですね。
 池田 その「変身」のプロセスを、物質文明の進展を借りて、具体的に説明してみよう。
 いままで考察してきたように、現代科学と技術の駆使は、欲望充足のための環境づくりに邁進してきた。その結果、生存権を奪われたり、食べ物にも飢餓を感じる状況から、いちおう、人間的自我の営みをたすけるような豊かな社会をつくりあげてきたと思われた。
 だが、本能的欲望の充足を経て、各種の心情的な欲望から、権力、所有などの文化的、社会的な欲望のかぎりない充足に向かうにつれて、はからずも、人間生命のなかから、欲望の魔性をひきずりだしてしまったのです。
 北川 あらゆる欲望のいきつくところに、他化自在天の暗躍が待っていたのですね。
 池田 その魔性の暗躍が、あらゆる人々と大自然の生存の権利をさえ、無残にも奪い去ろうとしている。そして、その根源は、権力にあぐらをかき、支配欲に酔いしれ、名誉を求めて、狂ったように乱舞する、現代人の生命の内奥にあると考えられる。
 こうした人々の生命の「我」には、もはや人間的な色彩は消えうせてしまっているであろう。たとえ、理性の働きは残っていても、それは、魔性に魅いられた理性であり、人の生の創造をたすける英知としての輝きはない。したがって、他の生命体を破滅させるための悪知恵としてしか、その機能を示さないのです。
 こうして、人間生命の奥に巣食う魔性は、欲望とか、自我とか、理性さえも変質させつつ、また、それらをとおして、権力や資本や企業や科学技術の論理の中核に、安住の座を占めるにいたったのであり、公害や戦争や自然破壊を巻き起こすことに、喜びをさえ感じているのかもしれない。
5  北川 現代文明の悪に染められた人の生命は、ひとたまりもなく、地獄界や他の悪道へと転落していきますね。
 池田 まさしく、六道輪廻だよ。他化自在天の君臨するところ、その魔性による生命の破壊は地獄であり、少しばかりの欲求を満たさんと徘徊する「我」は餓鬼であり、本能的な生にのみ執着する心は畜生であり、勝他の念にかられる利己心は修羅界とはいえないだろうか。生命の本然のエゴのまえには、人間的自我も、あまりにも無力である、と断ぜざるをえないようです。
 川田 こうして考えてみますと、私たち自身のなかにひそむとはいえ、生命の魔性にひきずられて生きる六道の生命には、真の意味での自由も、主体性もありませんね。私は、人界とか天界になると、自由度も高く、主体的に生きられるのではないか、とも思っていたのですが……。
 池田 たしかに、人と天の世界は、三悪道や修羅界にくらべると、はるかに充実し、自由であるとはいえる。この事実を否定することはできないだろう。だが、その自由とか、主体性とかは、もっと深く考えると、大自然とか、人類の遺産とか、社会環境によって守られ、いわば、外から与えられたものだという事実にも、着目しなければなるまい。
 北川 ただ、人間的自我には理性の光とか、良心とか、意志とか、意欲とか、また判断力などもそなわっていますが……。
 池田 たしかに、人界の「我」は、自己の意志にもとづいて生きている。しかし、その人間界の「我」という生命自体は、宇宙と地球のみごとな働きによってはぐくまれ、また、それなくしては、この世に生を享けることすらできなかったであろう。とすれば、私たちが人間として、この地球上に生誕し、人間的自我を形成するにいたった過程には、宇宙生命のかぎりない慈しみの心が、関与しているにちがいあるまい。
 このような意味からすれば、人と天の境涯における自由や主体性は、自分だけの力によってもたらされたものではないといえよう。私たちの生命が、生誕時に、すでに、人間的自我への可能性をはらんでいるからには、それを可能にした宇宙生命の慈悲の働きにも、多大な感謝の念を忘れてはならないと思う。
 と同時に、こんどは、人間生命にもともとそなわっている理性的、良心的な自我にさらに磨きをかけ、真の意味での自由と主体性を確立すべきではなかろうか。そこにこそ、宇宙生命の慈悲心を受けとめ、それに応える人間としての生き方が見いだされるのだと主張したい。
 川田 生命の「我」の、決意をこめた主体的な錬磨が、欲望の魔性とか、利己心との真正面からの挑戦にもなるわけですね。
 池田 生命内奥の魔性、つまり、元品の無明との対決から、人と天の世界をも超えた新天地が開けてくる。それが、六道に対する四聖の境涯の開拓なのです。
 だからといって、六道の生活を離れてしまうわけではない。魔性の浸透した文明と社会の中にありながら、自己の胸中に開いた新しい境涯を輝かせつつ、六道の世界をリードし、貪欲と利己心を組み入れた生命内在の破壊力を打ち砕くのです。四聖への道は、人間変革と形成の方途であり、また、文明の悪を抜きとる営みにも通じていよう。
6  二乗の境涯について
 北川 四聖の境地とは、仏法では声聞、縁覚、菩薩、仏をさすとされていますが、このうち声聞と縁覚とをまとめて二乗といっています。そこで、二乗という境涯について、少しデイスカッションをしたいと思います。
 川田 「観心本尊抄」には「世間の無常は眼前に有りあに人界に二乗界無からんや」と記されています。二乗という生命の「我」の特色は、あらゆる存在物を無上であると実感することでしょうか。
 池田 少なくとも、六道からは一歩開いた境涯だと思う。それにしても、二乗の「我」は、どうして生命的存在の活動や世の中の動きを、有為転変するものであると見ぬくことができたのだろうか。
 北川 たとえば、私たちが、願望をようやく達成して、天界の喜びにひたりきっているとき、それが、権力でも、地位でも、名誉でも同じですが、やはり、手に入れたものに執着し、つい、永遠に失われないような錯覚におちいってしまいがちです。そして、名誉や地位が、するりと、自分の手から抜け落ちると、悲嘆にくれてしまう。
 川田 環境の動きのままに、また、願望のつきあげてくるままに、根なし草のようにただよう生き方ですね。
 池田 世の変化相に巻き込まれ、のめりこんでいく自我には、決して、無常感はわきおこってはこないでしょう。しかし、ひとたび、みずからの歩んできた道を振り返り、生き方そのものへ反省の目を向けさえすれば、あらゆる生命的存在の絶え間ない流転が、あざやかに認められるのではなかろうか。
 私は、このような意味から、二乗の「我」を「反省的自我」といっておきたい。また、その反省の目を、生命と宇宙の内奥へと差し向けるならば、反省はそのまま内省にも通じてくるであろう。
 北川 人界や天界の自我が、どちらかといえば、外の世界、つまり、依報に向かいあっていたのに対して、声聞と縁覚の「我」は、自己の生命と人生の奥深くへ侵入していくのですね。
 池田 そう考えてもよい。しかし、生命の内奥に英知の光をさしこむことは、その光の強さに応じて、外界の姿を照らしだすことにもなると思う。また、現在の一瞬の生を深く知れば、過去と未来も、同時に浮かび上がってくるものだ。「瞬間即永遠」の原理から考えてもね。このような事実を、わかりやすい例を借りて説明してみよう。
 私は、人界について述べたところで、人間的自我というのは、それを生みだした生命の大海原に支えられていると主張してきた。しかし、人界や天界においては、生命の「我」に、たとえ理性や良心や意志や愛情などの、精神的な欲望がそなわっていたとしても、その持てる力を、母なる生命の海の探索には向けていないようだ。大海の荒波を乗りきることに必死だからね。
 川田 でも、海の状態をよく知らないと、すぐひっくりかえります。
 池田 そこで、たとえていえば、生命の海の荒波にもまれつづけている自我が、その理性や直観知の光を、海の奥底をめざして差し向けようとしているのが、声聞や縁覚の境涯とは考えられないだろうか。反省的自我を、真っ暗な闇に覆われた底知れぬ大海の表面に、一筋の光を放つ光源であると考えてみよう。
 自我のもつ光とは、理性であり、良心であり、また、人間的な愛情や真理への探求欲である場合もある。各個人によって、その光源の強さも、色合いも千差万別であろう。だが、ともかく、反省的自我の光は、海の表面を洗うとともに、その深い層のありさまをも、ある程度は照らしだしもするであろう。すると、その光の届く範囲内では、海面下の様相をも手にとるように知ることができるというものです。
7  北川 天文学的なことでいいますと、学者たちの理性の光で、宇宙生命の表面をたどっていけば、現在、宇宙が膨脹しているとか、もっとも遠方の星は光速に近い速度で遠ざかっているであろう、といったような事実が判明するわけです。また、こんどは、人間のつくりあげた文化や社会の構造に焦点をあてれば、政治とか経済などに特有な論理をも、見いだせるでしょう。
 川田 もし、その光を、私たち自身の生命の奥にさしこめば、さまざまな欲望の葛藤や、感情の衝突や、心身のエネルギーの激流に遭遇するはずです。
 池田 反省的もしくは内省的自我の放つ明るみは、宇宙生命の営みを、その変転の姿を追いながら、あぎやかによみがえらせもしよう。すると、人は、絶え間なく流動する万物の無常の変化に身をまかせて、何の主体性もなく振り回されていたみずからの姿を見いだし、その愚かさに、あきれはてるのではないだろうか。
 北川 二乗にしてはじめて、真実の意味での主体性の確立へと向かうのですね。自己の人間としての生き方を求めて――。
 池田 生命の海、その海はとうぜん、宇宙生命の大海と一体であるが、その姿が少しずつわかってくるにつれて、海の動きと協調しながら、しかも主体性をたもちつづけられるような生き方への思索と実践が始まるのです。だが、問題なのは、自我そのものの性質だね。いかに内省し、内観しようと努力しても、生命の「我」が少しも輝かないのでは、まったくお手上げだからです。
 理性や英知の光は、光源を離れるにしたがって、加速度的に強さを減じていくであろう。また、光そのものの色彩も人それぞれだと思う。たとえば、子どもでも、数学の好きな頭脳をもっている子もいるし、論理的判断はからきし自信がないが、美的な直観とか、音楽への感応は抜群だという個性を示す子もいる。
 川田 かんばしくない例をあげますと、鋭い分析力をもってはいるが、良心とか愛情のまったく欠如している者もいます。慈悲心ともなれば、影も形もない……。
 池田 やはり人間として異常でしょうね。だのに、私の頭脳はすぐれているのだ、などと慢心を起こしている。まあ、こうなれば、二乗というより、三悪道の境地におちいってはいるがね。
 北川 ところで、生命の「我」を少しでも輝かすには、やはり、人生経験とか教育なども重要になってきますね。
 池田 教育も入るだろうが、人類の遺産なり、先人の教え、思想を謙虚な姿勢で学ぶことです。二乗のなかの声聞というのは、もともとの意味は、仏の声教を聞き、伝えるということだったのだからね。先哲が築きあげ、苦闘した哲理なり、学問なり、人生体験なりを真剣に吸収し、体得することによって、私たちの生命の「我」の放つ光の強度と質を補強することも可能になろう。
8  川田 そこで具体的に、声聞界というと、学生とか知識階級などが、すぐ浮かび上がってくるのですが……。
 池田 たしかに、学生やその道の専門家は、声聞の境涯にひたる機会にめぐまれているであろう。また、その素質も豊かだとはいえる。しかし、あらゆる人々の体験や知識を謙虚に理解し、自己のものにしようとする姿勢をたもっている人は、すべて声聞の境地をあらわせると考えるべきではないだろうか。
 たんに知識の豊かさを誇るなどというのは、声聞界とはいえない。仏法では食法餓鬼といって、餓鬼界に分類しています。そうではなくて、そこから自分自身というものに目を向け、みずからを精神的、人間的に豊かにしていこうというのが、声聞なのです。
 たとえば、自分の仕事をただノルマだけ果たせばよいなどという気持ちで取り組んでいる場合は、六道を出ないが、その仕事をとおして、みずからの人間的成長を期していこうという場合、その人の「我」は声聞界にあるといえよう。
 北川 つまり、″遅れず、休まず、働かず″で、給料ばかり気にしているような状態では、たとえ大学の研究室に通っているとか、新聞や雑誌の仕事にたずさわっていても、決して、二乗ではありませんね。たいていは、畜生界とか修羅界をめぐっていると考えられます。
 声聞の自我は、先人や他の人々の言語や、また思想、考え方を吸収し、それによって「我」を輝かすのですが、仏法の二乗には、声聞とともに縁覚という境涯が説かれています。縁覚も、自我を磨く方途を示した一つの境涯、と考えてよいのでしょうか。
 池田 縁覚は独覚といい、その言葉どおりの意味では、みずからの力で悟ることです。何らかのものを縁として独力で悟っていく。
 川田 何らかのものとは……。
 池田 あらゆる生命現象です。大宇宙のみごとな変転も、野に咲く一輪の花も、夜空にかかるおぼろ月も、新聞紙上の小さなニュースも、縁覚の「我」にとっては、すべてが悟りの縁となりうるでしょう。
 また、上空を覆うスモッグや、ある日、店頭にあらわれた奇形魚や、家の前を流れる川の悪臭なども、一つの縁です。それらの縁を手がかりにして、思索し、迷い、苦闘しつつ、はっと独自の悟りを得る……。
 川田 悟りといいますと、芸術家や科学者や名人ですね。彼らが、自然、宇宙、世界を手がかりにして一種のインスピレーションを受ける。まあ、こういったことを思いつくのですが……。
 池田 先覚者の道の多くが、縁覚の「我」によってもたらされることはたしかです。
 北川 池田先生の小説『人間革命第四巻』にも引かれていますが、有名なデカルトの「炉部屋の啓示」ですね。少し読みあげてみますと、「――ある秋の夕暮れ、ドナウ川の上流、ウルム市の近郊の、ある寒村に泊まった彼は、静かな宿舎で、誰にもわずらわされることなく、暖かい炉部屋で深い思索におちた。
 『一六一九年十一月十日、霊感にみたされて、驚くべき学問の基礎を見いだした』と、彼はその手記で言っている。この『炉部屋の思索』こそ、デカルトの生涯と哲学を決定づけた瞬間ともいえよう」とあります。この瞬間の生が「我考う、故に我あり」との明証へと発展していき、理性を中心とした西洋科学の、哲学的基盤を確立したのです。
 川田 実存主義の哲学者キルケゴールの経験もすばらしいですね。断るまでもありませんが、実存主義というのは、世の中の荒波に身をまかせて、ただ、受け身のままの生を送る人生からの、主体的な脱却をめざして、しだいに形成されてきた哲学の流れです。個性を失い、情熱も目標もない人々の群れを、ハイデッガーなどは「ひと」と呼んでいます。これは、いま考察している十界論をあてはめると、さしずめ畜生界とか他の三悪道あたりのような気がします。
 また、キルケゴールは、情熱の失われた時代を「水平化」と表現しています。だれの顔を見ても、新鮮な息吹が消えうせている。そしてただ、他の人々と同じように、欲望のおもむくままに生きている。そこには、個性をなくし、未来を失った家畜にも似た人間の群れが、あるにすぎない。そういう時代の到来を「水平化」といったのだと思います。しかし、人間の本来の姿は、「ひと」ではなく、もっと個性的、内面的な、そして力強い生き方を示すはずである、というので、その本来的な自己、人間のあるべき姿を求めて、思索していくのです。
 哲人の思索の高まりが、キルケゴールの「単独者」、ニーチェの「超人」の思想を生むのですが、キルケゴールの場合、一八三八年のある日、突如として、人生と世界についての見方が一変したといいます。そのような体験を、彼は、「そのとき大地震が起った。それは私を突如として一切のことがらに対し、新しい誤ることのない解釈を下すことを強制された恐るべき大変革だった」(大谷愛人『続キルケゴール青年時代の研究』勁草書房)と日記につづっています。人は、彼の生命に起きたこの変革を「精神の大地震」と呼んでいます。
 池田 一種の変革体験です。生き方も、価値観も、使命も目的も、そして、生きていくことの意味さえが、それらの根底からくつがえってしまう。そうすると、宇宙万物の営みにも、いままでとは違った独自の意味をはっきりとくみとれるのではなかろうか。
 いままで、不明瞭に、ただ眺めていた太陽の運行や恒星の瞬きにも、驚くほどの不思議さと、そして深い哲理の存在を見いだすかもしれない。ともかく、西洋では啓示という言葉を使うが、その瞬間、デカルトやキルケゴールの生命に、真の縁覚としての、新しい″眼″が開かれたのであろう。そして、暗黒の生命の世界に、かの哲人たちの自我が輝き、まったく独自の生命空間が広がっていったようだ。それにしても「精神の大地震」とはうまく表現したものだね。まったく実感が出ている。
 だが、忘れてならないのは、デカルトやキルケゴールが、一つの悟りともいうべき境涯を開くには、筆舌につくしがたい努力と汗の結晶が必要だったという事実です。縁覚は、みずからの力で、宇宙生命の営みにふれ、そこから、真理を見いだし、しかも、その真理を体現していく境地だと思う。いわば、宇宙と生命の、あらゆる生命的存在をはぐくみ、創造していく営みへの、独自の立場からの参画といえるでしょう。
9  北川 こういった生命状態から、縁覚界を考察してきますと、縁覚の悟りというのは、芸術家や哲人だけに限られるわけではないようですね。だれでも、その努力と研鑽によっては、みずからの「我」を磨きあげ、直観知をひらめかすことができそうです。
 池田 身近な例をあげれば、家庭の主婦が、物価高で家計がどうにも苦しくてやりきれない場合、どうすれば少しでも豊かにすることができるだろうか、と悩み思索していると、家計のやりくりにも、ふと、主婦らしいうまい知恵がわいてくることがある。
 また、おしゅうとさんとうまくいかない場合も、先輩の助言を聞いたりしながら、悩みを受けとめて思索しぬいていく。すると、あっ、こうすれば感情のこじれがほぐれるのだ、というヒラメキみたいなものがパッと浮かんでくる。また、どんな仕事でも同じだと思う。新しいものを開拓しようとする努力が積み重なって、ある瞬間、一筋の道が見えてくるものだ。これらはすべて、縁覚界の「我」の放つ知恵とはいえないだろうか。
 川田 公害についても、水俣でも、新潟でもそうでしたが、川や海で魚をとって生活していた漁師の人たちが、大学の教授などがいろいろ議論をしている間に、ちゃんと、水に含まれる毒がどこから流れてくるか、その元凶を正確にいいあてていました。
 イタイイタイ病の神通川の鉱毒にも、その流域の人々は何代にもわたって苦しめられていましたから、いやでも考えないと、生命にかかわりますからね。何十キロと離れた上流の鉱山のやり方を、直観的に見ぬいていました。どんなに理屈をこねまわしても、自己の生命をかけた人の洞察眼だけはごまかせないものだ、と思いました。
 池田 庶民の「我」の錬磨と研鑽が、家庭を和楽にし、社会の構造を変え、政治や経済のあり方にも、痛烈な一撃を与える力となりうるのです。
10  北川 ところで、二乗の生命感ですが、精神的な喜びといえましょうか。
 池田 天界のなかの無色界でも、生命の充実、自由の拡大、生の創造などによる喜びが味わえる。しかし、天界の場合は、おもに、良好な外界の種々の条件によってひきだされたものです。それに対して二乗界の喜びは、みずからの力で生命を充実させ、創造した場合の実感だね。したがって、とくに縁覚の境地になると、喜びというより歓喜に近いのではなかろうか。
 北川 三昧境などとも表現しますね。
 池田 先哲の教えを学ぶことによって得られる精神的な喜びは、声聞界の実感だね。私たちが、つね日ごろ、疑問に思っていたことを、本を読んだり、また他の人から聞いて「なるほど、そうか」と納得し、そこから自分なりの生き方を知ったときのような感覚です。
 縁覚界は、みずから発見し、あるいは創造したことによって得られるものだから、声聞界の感覚よりもいちだんと深いといえるでしょう。
 川田 こうした二乗の喜びの深さは、努力の大きさに比例するのでしょうか。
 池田 というより、自我の錬磨の程度によるのではないかと思う。結局、二乗が向いていくところは、自己自身だからね。
 川田 自我を磨いていきますと、その生命体のおよぼす影響範囲も、ぐんぐん広がっていくと思われますが……。
 池田 生命の「我」の発する光明の届くところ、すなわち、その人の生命空間といえそうです。二乗は、みずからの力で、暗黒の生命の大海に光をなげかけ、その明るみのなかで生を享受する。つまり、直観知に照らしだされた独自の世界をもつ。
 学者は学問の世界に、サラリーマンは仕事の世界に、そして主婦は家庭と近隣に、二乗としての生命空間を築きあげることができよう。個人によって、その生命空間の広がっていく分野とか、方向とか、深さなどは違うであろうが、少なくとも、六道の自我のもつ影響力よりは、ずっと大きい。
 その、速く、そして、強い生命の潮流を、二乗は悟りの瞬間、目もくらむばかりの閃光を放って噴出させる。そこに、自分でも思ってもみなかったような英知がひらめき、新たな真理が発見され、新しい前進への道が開かれてくる。そして、生の燃焼が、二乗の「我」をつきあげて、精神的な喜びの感情をもたらすのではなかろうか……。
11  北川 二乗という生命状態については、いままでのところでよくわかりました。たしかに、二乗は六道よりはすばらしい境涯です。にもかかわらず、仏法では、大乗教に入ると、二乗は厳しく弾呵されています。
 日蓮大聖人の「開目抄」などを拝すると、二乗は三悪道以下であるとか、六道よりも劣るなどといった文が出てきます。なぜ、二乗はこれほど、糾弾されなければならないのでしょうか。
 池田 端的にいえば、大別して二つの根拠があると思う。一つは、みずからの悟りに固執し、それに陶酔するあまり、つい、増上慢の心をひきおこしてしまうということです。もう一つは、利己的な性格を、どうしてもぬぐいきれないということです。この二つの根拠の正しさを、生命論の立場から少々、述べてみたい。
 二乗は、先哲の教えや宇宙生命の営みにふれて、自己の「我」を磨きあげていく。そこには強い意志や、また、燃えあがる意欲が、要求されることはいうまでもあるまい。強靭な意志の力は、理性とか、精神的な欲望とかの力を増すであろうし、また、一種の悟りをもたらすのも真実である。
 しかし、その悟りが無上のもの、つまり、宇宙と生命の本源にまで達したものであると思いこみ、つい、みずからの力の限界をも忘れてしまう。その瞬間に、生命の奥深くひそんでいた、かの生命の魔性の胎動を呼び起こすのです。それは、ちょうど、天界の「我」が、物質的欲望とか、権力欲などを充たしたその頂点で、欲望の魔性をひきずりだしていた事実にも似ている。
 川田 私たちも、研究生活などしておりまして、いままでだれも知らない事実を見いだしたとします。凡人の常かもしれませんが、やはり、自分が急に、同僚より偉くなったような気になったりします。
 そういうときは、同僚が小さく見えますし、また、愚かに思えることさえないとはいいきれません。自分のほうが、ずっと愚かなのに、それに気がつかない。そして、関係する学会に発表するまでは、だれにも教えないぞ、なんて頑張ってみたり、つい、有頂天になるものです。
 池田 声聞や縁覚の喜びが、その頂点において、増上慢の心や利己心を揺り動かし、生命そのものの魔性をさえゆさぶっているのでしょう。しかも、二乗の「我」は、するどい理性をもち、清らかな良心をはぐくもうと努めていたとしても、生命の底からわきおこってくる欲望の魔性や利己心の嘉きには、ほとんどなすすべもないのが常です。
 どうしてかというと、生命の魔性の本体である「元品の無明」は、私たちの生命において、理性やあらゆる欲望や良心や愛情などの、さらに深い層にひそんでいるからです。
 また、こうも考えられる。二乗の「我」といえども、生命の魔性を打ち破る方途を知らないがゆえに、その自我の発する光にも明暗がともない、限界をおびざるをえないのであると……。
 川田 つまり、二乗は、みずからの人格なり、生命そのものを、錬磨しようと努力している。また、それなりの効果もあがってはいる。しかし、声聞の思索や、縁覚の悟りでは、生命そのものの本源にまでくい入ることはできないというわけでしょうか。
 池田 宇宙と生命の奥底にまでは、とてもその力はおよばない。
12  北川 もう一つ疑問があるのですが、二乗は、三悪道や六道よりも劣っているといわれる理由は、どういうことでしょうか。
 池田 一つは、いまもずっと述べてきたように、増上慢になって、謙虚な心を失ってしまう、という危険性をはらんでいることだと思う。だから、たとえ、人生の真実の生き方とか、宇宙や生命に関するすばらしい哲理を示す人がいても、それを聞く耳をもたない。また、たとえ聞いたとしても、批判をすることにのみ心を砕いている。批判のための批判をして、自己満足しているという人もいるようです。それでは、自分も他者も、本当の幸福境涯への道をみずから閉ざしてしまうに等しい。
 つぎの理由は、二乗は、六道の「我」よりも、善きにせよ、悪しきにせよ、とにかく力を持っているという事実です。知識は豊かだし、理性も鋭い。直観力もある。だから、それらの力が、もし、生命の魔性に魅いられると、宇宙と生命への破壊力は六道の比ではないだろう。
 川田 たとえば、六道の「我」の力を、ピストルとか竹ヤリなどの暴力だとしますと、二乗のもつ力は、さしずめ原爆や水爆でしょう。核爆発の原理を発見し、そのエネルギーを解放したのは、とりもなおさず科学者の悟りですから――。日本刀だと、たとえ狂暴な人が持っていても、うまくゆけば刀傷だけですみますが、原爆や水爆を悪用すれば、人類全体を一瞬にして死滅させることは、まちがいなしですからね。
 池田 もう一つの理由をあげると、二乗の「我」は六道の生命よりも主体性が強いから、悪いほうへかたむきかけると、ひきもどすことがきわめてむずかしいということです。
 三悪道だと、もし環境を変えてやると、他の境涯にパッと移ることも可能でしょう。ところが、二乗は、頑として動かない。主体性があるといえば、そういえないこともないが、悪のほうに向かう頑迷さは、まったく手におえないだろう。「千万人といえども我行かん」などという意志力も、その方向が戦争への道だったら、これほどの悲劇はあるまい。
 川田 公害で、自分の主張なり、学説が、どんなに論破されても、平然としている専門家もいます。並の意志力では、とても耐えられないと思うこともありますが、それでもまだ、粘っている。歴史がかならず証明してくれるとか、なんとかいって……。
 池田 また、利己心によって、みずからおびきよせた地獄の苦悩にのたうっていても、まだ、おれは二乗だなんて、錯覚している人もいるね。
 川田 変な誇りですね。
 池田 生命の魔性を打ち破ってはじめて、二乗の「我」の輝きもさらに、新鮮な色合いを見せるのだと思う。それが、真実の二乗です。仏法は、さらに新しい主体性の確立を求めて、その方途を模索しつつ、生命の深みへと、その探索の歩を進めていくのです。
13  菩薩界と仏界
 北川 先日、湯川秀樹博士(理論物理学者)と同志社大学の市川亀久爾教授(創造工学、工学博士)、それから梅原猛氏(哲学者、作家)の『人間の再発見』(角川書店)という対談集を読みました。そのなかで、仏法の「慈悲」についての、興味深い体験が話題にのぼっていました。その対談を少しずつ引用しながら、おおまかなところを述べてみます。
 対談の順序とはちょっと前後しますが、湯川博士が、仏法の「慈悲」に「悲」が入っているところが″博愛″とか、孔子の″仁″、キリスト教の″隣人愛″などとどこか違う、と指摘されているのです。
 すると市川氏が「いっしょに悲しんであげるというのじゃないですか」と――。湯川博士が「いっしょに悲しむには、自分が悲しまなければだめだ」と受けています。梅原氏が「悲というのはやはり認識だと思いますけれども、それは生命の根本的な状況への同化みたいなものですね」と結論づけていました。
 そのあとに、市川氏が「それが現在では完全に欠けている」というのに対して、湯川博士の言葉がつづいています。
 「欠けているはずはないんですがね。あなたは雛で体験された。私は孫娘ができた。それまでは、孫ができたらどういう気持ちがするか全然知らなかった。ところが、できてみて、はじめて、人間というのは不思議な気持ちを持っているものだということがわかった。(中略)孫というものは無条件でかわいいものですよ。(中略)純粋無垢と言ったら嘘になるけれども、とにかく理屈以前の気持ちでしてね。孫ができてみると、それがパッと出るわけや。本来あるべきはずのものだけれども、知らずにいるわけやね。雛を見ておったから、パッとでる。もともとあったわけですね。だから、だれでもチャンスがあれば体験しているんじゃないでしょうかね」と―――。
 川田 そこに出てくる市川氏の雛の体験というのはどういったものですか。
 北川 娘さんが雛を買ってきて、死にそうになって、一家で看病するのですね。そうしているうちに、徐々に雛中心の生活が始まるのです。大学から「雛は生きてるか」と電話をかけたとか、姪にあたる娘さんが雛を抱いて寝る、といった話です。
 その雛は結局、死んでしまうのですが、市川氏は「ただ、体験者として言えますことは、雛の命に対する私たちの感情と、ちょうど一年前に癌の手術の失敗で三日間の間苦しみもがきながら死んでいった当時の母に対する心情のやるせなかった状態と、たいした区別はありませんでした」と述懐しています。
 池田 お孫さんのことにしても、雛のことにしても、いい話だ。しぜんに心が温まってくるようです。しかも、仏法に説く慈悲の本質を、ずばりとついているように思われます。
 川田 日蓮大聖人の「御義口伝」には、「大悲とは母の子を思う慈悲の如し今日蓮等の慈悲なり」と記されています。母親の愛情は、慈悲に通じるものを、おっているのですね。
 池田 母性愛は、まったく無条件だからです。これは、湯川博士が、お孫さんが無条件にかわいい、といわれている感情にも通じるようだ。母の真実の愛は子どもの成長と幸福のみを願って、自分の生活や生命すら犠牲にすることもいとわないものです。子どもが少しでも熱を出したり、元気がなかったりすると、自分の病気以上に苦しむ。悲しみも喜びも、苦しみも楽しみも、すべてが愛情につながれて、母と子は一体なのです。
14  北川 しかし、母性愛もともすれば、盲目の愛におちいることもあります。また、知らずしらずのうちに、母親の利己心が、子どもの生活を支配していたりします。
 池田 つまり、生命の魔性の影を背負った愛情といえよう。そのような愛の姿は、慈悲心に似てはいるが、まったく別のものにすりかわっている。また、母親の愛は、ともすればかたよることも少なくはない。自分の子どもがかわいいだけ、かえって他の子どもが憎らしくてしかたがない、といったようにね。
 このような、慈悲とは似ても似つかぬ面もあるにしても、母の愛情というものが、慈悲心に非常に近い内容をふくんでいることはたしかだと思う。「母の子を思う慈悲の如し」とあるとおりです。
 まあ、こういったような母の愛をも含めて、孫娘へのかわいさとか、雛を思う心とかが、湯川博士もいっているように、人間には本然的にそなわっていると考えるべきでしょう。ただ知らずにいるだけで、何らかのチャンスがあれば、すっと顕現してくるのです。
 日蓮大聖人は、「観心本尊抄」で「無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり」と仰せです。どのような悪人と思える者でも、妻や子どもへの慈愛を失っていない。つまり、菩薩界の一分を、もともとそなえている。
 北川 その菩薩の働きというのは、慈悲の行為をさすのでしょうか。
 池田 菩薩の境涯は、生命全体にみなぎる慈悲の力に支えられている。むろん、ここにいう慈悲の力とは、生の内奥からわきでる生命エネルギーそのものをさしているのだから、英知も、良心も、理性も、さまざまな精神的な欲望をも含むと考えねばなるまい。自然の総合的な知恵や、愛としての欲望や、強い意志と意欲や、障害に立ち向かう勇気などが、慈悲のエネルギーととけあって、利他の働きをなすとき、生命の「我」は菩薩の境地にあるといえよう。
 北川 仏法では慈悲を「抜苦与楽」と訳しています。慈悲の悲が「抜苦」で、慈が「与楽」にあたるわけですが、ともに利他の行為ですね。
 池田 利他でもあるし、また同時に、自己実現への道程でもある。他者への働きかけが、そのまま自己の人格を磨きあげることに通じるからです。つまり、「抜苦」とは、相手の生の苦悶を抜き去ることだが、そのためには、まず相手と一体になり「同苦」しなければなるまい。
 梅原氏の言葉を借りれば「生命の根本的な状況ヘの同化」といい得ると思う。そのうえで「抜苦」と「与楽」の実践があると考えられる。また、苦悩を抜き、楽を与える行動そのものが、自己の自我を磨きあげ、「同苦」を可能にしていくともいえよう。ともかく、庶民のまっただなかに飛び込んで、人々の悲しみと苦しみを一身にひきうけて戦う行為にこそ、菩薩界の特徴があるのではないだろうか。
15  川田 そこのところが、二乗の「我」と根本的に違うところですね。二乗界では、やはり思索とか洞察とかがポイントですから……。
 池田 菩薩界の「我」は、あくまで実践に重点をおく。思索もするし、洞察眼もきわめて鋭い。しかし、それらは、実践と一体なのです。
 日蓮大聖人の「十法界明因果抄」には「菩薩界とは六道の凡夫の中に於て自身を軽んじ他人を重んじ悪を以て己に向け善を以て他に与えんと念う者有り」と記されています。「六道の凡夫」つまり庶民の中で戦う。しかも「自身を軽んじ他人を重んじ」るのです。自身を重んじ他人を軽んじるのではありません。世の中には、そういう利己の人が多いものだが……。
 川田 たとえ、民衆の中に入っていっても、利己的な自我のままにふるまうのは、かえって害を流すだけです。生命の魔性の暗躍を許すだけです。そんなことなら、山林に一人ぽつんとたたずんでいてくれるほうが、他人に迷惑をかけないだけ、ましというものです。
 ところで、いまの言葉のあとに、「悪心を以て己に向け善を以て他に与えんと念う」とありますが、このなかで「善を以て他に与え」るというのは、すぐわかるのですが、「悪を以て己に向け」とは、いったい何を示そうとしているのでしょうか。
 池田 すべての悪の根源を一手にひきうけるだけの勇気が、必要だということです。たとえば、菩薩について、「仏地経論」には「是れ勇猛の義なり」(大正二十六巻300㌻)とある。自己と他者の生命に巣食う魔性に挑戦し、それを打ち破りつつ、人々に楽を与える勇猛心こそが、菩薩の心には脈打っていなければならない。
 私たちが、魔性に挑戦するべく勇気を奮い起こして、庶民を慈しみ、利他の実践に自己の全存在をかけるとき、その行為が、私たち自身の生命に巣食ったエゴイズムをぬぐい去り、抜きとるのであり、その結果、生命の「我」がしだいに磨かれていく。すると、その「我」の放つ英知の光明に照らされて、他の人々の心にうごめく魔性の暗躍をも、はっきりと見てとることができるのです。
 北川 利他の戦いをとおして勝ちとった知恵こそが、菩薩のもつ英知なのですね。
 池田 菩薩という言葉は、菩提薩埵の略とされている。菩提とは仏の知恵であり、薩埵とは有情と訳す。有情については、また何らかの機会にくわしく考察したいと思うので、ここではひとまず生物、とくに人間の生命としておこう。
 利他行を通じて磨きぬかれた菩薩の知恵こそは、仏の知恵のあらわれといえそうです。慈悲の力と英知の光、勇気あふれる決意をはらんだ意志、そして何よりも、利他の色彩をおびた自我を、菩薩の境涯にある生命は保持している。
16  川田 ここで、ちょっと論議が逆転するかもしれませんが、一つの疑問があります。
 それは、二乗との関係についてですが、二乗のうちで縁覚でさえも、自己中心性はぬぐいきれなかった。そして、生命の魔性の胎動をも許してしまった。ところが、どうやら菩薩は、先ほどからの話によりますと、欲望の魔性とかエゴなどもすでに乗り越えているらしい。とすると、なぜ乗り越えられたのでしょうか。
 池田 何度も繰り返すようだが、利他の実践にある。他者を救うことは、自分の利己心への真正面からの戦いなのだよ。私たちの身体ぜんぶをぶっつけて、慈悲の行為に邁進する。身も心も、生命のすべてが、慈悲という行動の塊りみたいになっている。
 日々の生活自体が、どの一瞬をとっても、慈悲でないものはない。こうなってくると、利己心が働こうとしても、少しのチャンスもないであろう。たとえ、魔性をはらんでいても、その力は、たえず打ち破られている。と同時に、私たちの生命の奥から、利他という行動に触発されて、あらゆる生をはぐくむ、生命本源の力が、慈悲や英知のエネルギーとなって、絶え間なくわきあがってくるのです。
 このような過程を経て、私たちの、ともすれば利己的になりやすい「我」も、しだいに利他の性格をおび、それにつれて、ますます理性、良心、愛、精神的な欲望などの発動力が強まってくると思われる。
 北川 経文には、文殊師利、観音、薬王、普賢、弥勒、妙音などの菩薩が活躍しています。これらは、利他の具体的な姿を示しているのですね。
 池田 文殊師利は知恵です。薬王は医術、普賢は学理、弥勒は慈悲、そして、妙音は音楽、まあ芸術一般が入るでしょう。観音は世相、つまり、政治や経済や世の中の動きを察知する働きです。
 人によって個性も独自だし、才能にも向きとか不向きがあるからね。でも、どんな行いをしようと、そのすべてが利他の実践であることに変わりはない。このようにして、迹化の菩薩たちは、みずからの人格を磨き、生命本源のエネルギーの流出を強化しよう、とつとめたのだと思う。
 北川 しかし、迹化の菩薩の行い、仏法的にいえば修行ですが、それによって、生命の「我」の状態をすっかり変えてしまうのは、じつに大変なことではないでしょうか。ちょっと油断すれば、すぐ、利己心が顔を出す。きわめてエゴイスティックな行動に、走りがちになります。また、自分の行いが無慈悲だとわかっていながら、やめられないこともあります。むしろ、どんなに意志の強い人でも、そのほうが多いかもしれません。自分ながら、始末におえないと思うこともたびたびです。
 そこで、仏法ではどういう修行をせよ、と説いているかといいますと、たとえば別教などでは菩薩の修行を、五十二位の段階に分けています。
 その修行が、根本的には、エゴとの戦い、魔性ヘの挑戦だということは理解できるのですが、その内容をみますと、私たちにはとてもやりとおせるような自信がありません。途中で、投げだしてしまいそうです。そんなに苦労するぐらいなら、少しぐらいの不幸のほうがましだなんて……。地獄の境涯におちれば、そうもいつていられないでしょうが……。
 池田 迹化の菩薩の修行はたしかに厳しいし、また、人間形成への本格的な修行であるからには、厳しさも必要だとは思う。だが、途中でくじけては、修行の意味をなさないからね。本当の幸福も、人間らしい生き方も、実存主義の言葉を借りれば「本来的自己」の確立も、見果てぬ夢に終わってしまうでしよう。
 では、どうすればよいかというと、利他の行動によって自我を錬磨しつつ、同時に、私たちの生命の内奥から、利他におもむかざるをえないような慈悲のエネルギーをわきいだす方途を、見つけだすことです。つまり、生命の外側から働きかける行動――いいかえれば利他行だけれども――とともに、それをみごとに実らせる生命本源のエネルギーを、生の奥底から噴出させる。その両者が相まって働けば、いかなる困難があってもたじろがないし、また着実にして、主体的で、充実しきった人生を送るための、生命的基盤をも築けるでしょう。
 釈尊の仏法における迹化の菩薩に対して、いま述べたような二つの側面からの実践、すなわち、生命の内と外からの魔性への挑戦を、現実社会のなかで行おうとしている人間群像を、日蓮大聖人の仏法では、地涌の菩薩と呼んでいる。また、経文には、地涌の菩薩の主導者というか、リーダーを四人あげて、上行、無辺行、浄行、安立行と名づけている。
 「御義口伝」のなかには、この地涌の菩薩の境涯が明確に説かれているところがある。「常楽我浄」という四つの徳に配しての記述だけれども「此の四大菩薩の事を釈する時、疏の九を受けて輔正記の九に云く「経に四導師有りとは今四徳を表す上行は我を表し無辺行は常を表し浄行は浄を表し安立行は楽を表す(後略)』」とあります。
 さて、上行菩薩とは、「我を表し」とあるように、確固とした生命の「我」の確立です。環境の激変にも耐え、あらゆる困難をさえ、かえってみずからの試練のチャンスとして活用するような、まったく主体的な自我のことです。
 無辺行菩薩とは、「常を表し」とあるから、永遠の生命を信じ、そのうえに立てた目標に向かって、どこまでも挑戦していく働きを意味しています。しかもその慈悲の働きは、隣人を変え、地域を変え、日本と世界の歴史をも動かしていこう、とするふるまいを示すのです。
 つぎに浄行菩薩というのは、「浄を表し」とあるように、清らかな生命の輝きを意味するのだけれども、清らかとは、醜い利己心やエゴをまったくぬぐい去っていることをさします。エゴや増上慢の心ではなく、利他に染められた生命は、本然的な英知と理性の光を放つと思われる。
 そして安立行菩薩は、「楽を表し」とあるように、充実し楽しみきった生命の大地、つまり基盤に立脚している事実をさします。
 「観心本尊抄」に「上行・無辺行・浄行・安立行等は我等が己心の菩薩なり」とあるように、このような菩薩の境涯を、私たち自身の生命に築きあげることができるのです。
 川田 地涌の菩薩の境涯に、私たちが十界論の初めに設定した客観的な基準を適用しますと、地涌の菩薩という境涯は、真実の力強い主体性をたもち、まったく自由自在にふるまい、しかも生命はかぎりなく充実している。生命エネルギーの発動力も、また能動性も、最高の高まりをみせています。
 こうしてみますと、人間らしい生き方を求めて開始した十界論の探索もようやく、その目的を達せられそうです。ずばりいって、人間が人間らしく生きる境涯――それは、地涌の菩薩の生き方であると結論してもよさそうに思われてきました。
 池田 私も賛成です。地涌の菩薩そのものについては、ごくかんたんにふれただけだが、しかし、その具体的な行動はことごとく、利他の実践に連なっている。そして、四徳で示されているように、この菩薩の生命には欲望の魔性とか利己心などには、もはや屈服しないだけの力と知恵を無限にはらんでいることは、認められそうです。
 川田 社会や文明などに入りこんだ魔性と戦うだけの能力も、そなえています。すべての人が、四菩薩の境地を現実に体得するにつれて、血なまぐさい硝煙の臭いも、この世の中から消えていくと思われます。つまり、人類の心の中に、平和の砦が一つずつ築かれていくのでしょう。
 そこで、不思議に思うのですが、地涌の菩薩を支えるかぎりなく豊かな生命のエネルギーは、どこからわきだしてきたのでしょうか。むろん、人間生命の深部からでしょうが、私たち自身の生命にも慈悲の力を満々とたたえた泉の本源が実在する、と考えてよいのでしょうか。
 池田 経文では、地涌の菩薩は、大地より涌出したと記されている。大地とは生命の内奥であり、宇宙生命としての妙法をさします。妙法そのものが、私たちの生命のなかに、実在している。仏法では、それを仏の生命といいます。この仏の生命が現実の活動面に偉大な力をあらわすがゆえに、地涌の菩薩の行動も可能になるのだといえましょう。
 北川 つまり、地涌の菩薩は、行動面からとらえると利他に徹する菩薩の働きですが、その本質というか、生命そのものは、すでに仏の生命、いいかえれば仏界なのですね。
 池田 地涌の菩薩という生命は、迹化の菩薩とは違って、すでに仏界を顕現していると考えてよい。逆にいえば、その仏の生命が、地涌の菩薩における四徳をもたらしたのです。
 北川 では、仏の生命自体を具体的に述べると、どういうことになるのでしょうか。
 池田 そこにくると、きわめてむずかしい設問になる。「観心本尊抄」にも「但仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ」とあるように、このような菩薩の境涯を、私たち自身の生命に築きあげることができるのです。
 つまり、仏界のすべてをあらわすことはきわめてむずかしいので、私たちの生命に九界の境涯がそなわっている事実から、仏界の実在をも信じてほしいとの意味です。だが、ひとまず、仏の生命を知るための一つの手がかりとして、仏法に記された「仏の十号」を取り上げてみよう。
 むろん、仏界の境地を推測することは、この生命論全体にかかわる重要なポイントとなることだが、説明不足になる個所も若干あるとは思う。それはあらかじめ了承してもらうとして、仏の十号とは、仏の生命にそなわった偉大な力とか英知とか、福徳とか慈悲力とか資格などをあらわしたものと考えていいでしょう。
 そこでまず、仏つまり仏陀とは、知者、覚者と訳す。その知恵は宇宙と生命の根本原理を悟りきわめている。つぎに、如来ともいうのだけれども、これは瞬間瞬間の仏の生命活動が、すべて宇宙生命と一体であり、融合していることをさす。つまり永遠の生命の体得ともとれる。
 北川 仏の別名のなかには、正徧知しょうへんち調御丈夫じょうごじょうぶ善逝ぜんぜい明行足みょうぎょうそくなどというのもあります。このうち正徧知というのは、等正覚ともいいますから、仏の智慧が、すべての衆生を照らすことですね。
 池田 平等ともとれるし、また、宇宙のすべてを覚知するだけの英知をそなえている、とも考えられる。
 北川 調御丈夫は原義からしますと、丈夫の力をもってすべての衆生、つまり生命的存在すべてを調伏制御する、という意味だそうですが……。
 池田 他の人々を幸福へと導くだけの力をもっている。そして利他の行為を実践するということだが、それと同時に、仏の生命は、自己の生命の変革をも成し遂げるのです。というより大丈夫の力、強烈な生命のエネルギーによって、自己の生命に食い入った魔性の働きを調伏するのだ、と表現したほうがよさそうだね。他の生命への利他の働きかけは、自己の生命変革と同時なのです。
 川田 そうしますと、次の善逝ですね。これは、もともとの意味は、煩悩を断じて仏の境涯に達することだそうですが、調御丈夫の解釈とも関連して考えますと、煩悩は断ずるのではなく、利他の方向というか、実践へと振り向けていく。つまり昇華させるとか、方向転換させていく――こういった意味あいになりますね。
 池田 煩悩の質を変える。いいかえれば昇華しつつ、利他に向ける。これが、コントロールという現代語の内容だろう。とすると、煩悩はコントロール、つまり制御ということがポイントになる。そして、明行足の明らかとは、永遠の生命を見とおす智慧だが、行足は実践です。
 北川 民衆の中に飛び込んでいって戦う、行いですね。その修行のなかで、英知も磨かれる――。
 池田 実践のまっただなかで光を増した英知は、生命についてはもちろんのこと、人生、社会、文化から政治や経済、学問、教育にいたるまで、すべてを見とおすことができる。物価がなぜこうも高くなるのだろうかとか、小学校での教育の問題点とか、また土地の価格とか、とにかくすべてにわたっての、鋭い洞察眼をもっている。だから、世間解というのです。
 川田 昔流にいいますと、下世話のこともぜんぶ知っているというのが、どうやら名君だったらしいですが、これと比較するのもどうかと思いますけれども、しかし、仏は宇宙や生命の偉大な哲理を知るとともに、世間のことにもなみなみならぬ関心をもち、しかも、だれよりも明快な答えを、用意しているのですね。また、それを、実践に移す力もある。
 池田 だから、天人師という名前もあるのです。
 川田 天人師のもとの意味からしますと、天界とか人界の衆生を指導するということですが、天とは指導者で、人とは庶民といったふうになります。
 むろん、指導者と庶民が分かれているという意味ではありません。だれでも、その境涯とか境地とかによって、指導者としての役割を果たすときもあれば、また庶民とか、大衆の一人として働くこともあります。だから、天人師というのは、すべての人をリードしていくということでしょうか。
 池田 この場合、指導するとか、師と仰がれるなどと表現していても、何も特別な状態をさしているのではないと思う。その人の人格や個性や能力が、しぜんのうちに、人々の心をとらえるという意味に解することはできないだろうか。
 北川 応供にも通じてきます。応供は応受供養と書きますが、人界と天界の衆生から供養を受ける資格がある、ということですね。
 池田 この供養を受けるとの表現も、その人の行為が、人々の賛同を集め、しぜんのうちに庶民の心に支えられるという意味でしょう。
 ゆえに、仏とは世尊なりとある。つまり、世の中でもっとも尊い人として慕われ、愛され、そして尊敬される。また、世雄ともいわれる。それは、人々を根底から慈しみ、救いきるだけの力をもっているからです。
 北川 たしかに、これだけの生命内容をそなえていれば、ただ、その人がごくふつうのふるまいをするだけで、人望を集め、社会を変え、時代をさえ動かしていくでしょう。
 池田 仏の生命を体現した人も、一見すれば、ごく平凡な常識人に見えるでしょう。誠実で、責任感が旺盛で、また、信念の人であり、友好的な態度を示し、思考が柔軟で、慈悲と英知と創造性に富んでいる。
 また、「観心本尊抄」に「堯舜等の聖人の如きは万民に於て偏頗無し人界の仏界の一分なり」と記されているように、すべての人々を平等に包容していくことも、必須条件の一つです。
 川田 ちょっと考えますと、人界の境涯に似ていますね。
 池田 もっとも人間らしい人間の姿だからです。だが、平凡な常識人として本当に生きぬこうとすれば、やさしいようで、きわめてむずかしい人生道です。たとえば、平等という一点だけでも、よほどの知恵と慈愛と主体性がなければ、決してつらぬけることではないでしょう。
 川田 ふつうの人なら、すぐに、えこひいきします。顔の形が気にいらないとか、趣味があわないとか、なんとなく好きになれないといった、ごく、つまらないことで……。
 池田 それは、心が硬直しきっている証拠です。肉体でたとえると、動脈硬化でしょうが、むろん年齢との関係はない。生命の動脈硬化を起こしてしまって、柔軟性にまったく欠けているようだね。
 川田 仏界の境涯にある人の生命を、表面から見ますと、しごく平凡でありながら、しかもその行動が、そのまま地涌の菩薩の働きになっているのですね。
 池田 地涌の菩薩としての利他の行いを、仏の生命が支えているのです。宇宙と生命の源流に達し、世の中の推移、メカニズムをも含めて、あらゆる生命活動の様相と、その根源の法理を悟った境涯だからです。
 すべてを悟り、宇宙をさえ動かす生命のエネルギ―を体得しているのだから、生命流はかぎりなく充実し、また生命のもつ自由も、宇宙全体にまでおよぶことも可能だと思う。
 北川 仏界を顕現した生命ですね。むろん行動面からすると、菩薩の働きですが、その人の生命感は、人天の境涯や二乗や迹化の菩薩とはくらべものにならないほど深い、生命全体の、いわば喜びみたいなもの……。
 池田 歓喜のなかの大歓喜です。生命の底の底から、地響きを立ててわきあがってくる、どうしようもない歓喜――とでも表現しておこうか。この世の中に生きていること、それ自体が歓びなのです。
 自然も大地も、草も木も、人の顔もその動きも、すべてが、歓びの色に染められている。そして、一つの呼吸、一挙手一投足が、歓びと感謝と生の尊厳感の源泉をなしている。生老病死が、そのまま歓びに化すといった境地ではないだろうか。
 この知恵の光は、宇宙をあまねく照らし、「元品の無明」つまり、生命の魔性の当体を打ち破っていく。仏の生命空間は、宇宙そのものと融合し、一体なのです。「宇宙即我」の体得だと思う。また、その生命流は、一瞬のうちに、無限の過去と未来へとおよんでいく。とまったく同時に、現在の瞬間の生に、永遠に流れゆく宇宙生命の潮流が、巨大な噴水と化してわきあがってくる。こうして、仏の生命は、現実に、瞬間を永遠に生きるのです。
 北川 たとえ、瞬間の生であっても、そのなかに宇宙大の生命力を秘めているということでしょうか。
 池田 「宇宙即我」の法理からいくと、大宇宙根源の力が、そのまま、仏の生命に凝縮しているといえよう。また、時間論からいくと、永遠の宇宙流転をもはらんでいる。したがって、仏の境涯にある生命は、瞬間に永遠を感じ、また、永遠も瞬間の生のように実感するのでしょう。
 これを、日常的に表現すると、歓喜に満ちた時間は、考えられないほど速く過ぎていく。物理的時間の経過を、ほとんど意識することもないのではなかろうか。それでいて、一瞬の生が、もう永遠に近いほど生きる歓びを享受した、という充実感と満足感にひたりきれるのではないかと思う。
17  北川 いままでのところで、仏の生命の様相が、ほぼわかりかけてきたような気がします。そして、時間的にも、空間的にも、宇宙生命と一体化し、融けあった仏の生命が、私自身の生命にも実在している、という事実も知りました。
 だが、それを現実の私たちの生命活動の源泉にしなければ、ただ実在するというだけでは、私たちは人間らしい人生を送ることはとうてい望みえません。迹化の菩薩などは、利他の行動をとおしての自我の錬磨によって、仏の生命のもつ偉大な力をひきだそうとしましたが、その修行はきわめて困難でもあり、また、現代の世相にも適応しない面もあります。
 このことは、先ほど話しあいましたが、仏の生命を外からではなく、直載に、生の内奥からわきいだす方途とは、いったいどのようなものでしょうか。つまり、仏界顕現の鍵ですが……。
 池田 鍵といっていいかどうかはわからないが、日蓮大聖人の仏法では、仏の生命の涌現を、「信ずる」という一点に定めている。何を信ずるかといえば、宇宙生命そのものとしての妙法だというほかはない。
 「御義口伝」には「地獄餓鬼の己己の当体其の外三千の諸法其の儘合掌向仏なり」とあります。つまり、私たち人間生命をも含めて、宇宙のすべての生命的存在は、それらが、いかなる境涯を現じていようと、そのまま仏に向かっている、との意義と解せられます。
 私たちの生命の内奥には、理性も愛も欲望も衝動もあった。権力欲や欲望の魔性なども渦巻いていました。だが、そのような生命の内容には、もう一つ、もっとも根源的なものとして、仏の生命に向かい、それを希求するという衝動を、加えねばならないのではなかろうか。いいかえれば、宇宙生命との融合を求め、生の根源に憩いたいとの衝動です。
 仏界を求めるという衝動は、生存欲のもういちだん深い層に実在すると思われます。ゆえに、たとえ、すべての人の生の深層にうずいてはいても、容易に自覚することもなく、また、ふだんは生命の魔性に覆われて、その姿をあらわにすることも、少ないのかもしれない。だが、私は、このような衝動を、あらゆる他の欲望――そのなかには、精神的欲望さえも含めるのだけれども――それらと区別する意味で、ずばり、「宗教的欲望」と呼んでみたいのです。
 川田 その宗教的欲望ですが、人間、万物におけるもっとも根底をなす欲望という意味で、本源的欲望といえないでしょうか。つまりこの欲望がなければ、生存欲さえもありえない。この欲望をはらむがゆえに、現在の私がある。まあ、こういった感じですが……。
 池田 宗教的欲望は、即、本源的なのです。だから、本源的欲望という言葉を使うならば、それでもいいが、とにかくこの欲望が、仏界への信をさしていることだけは忘れてはなるまい。そして、人間のみならず万物の生の深層に、仏界を希求する衝動を見いだし、その力を十二分に発現する道が、日蓮大聖人の仏法における実践法だといえないだろうか。
 川田 日蓮大聖人の仏法は、生命本源の欲求というか、生命のうずきみたいなもの、それにのっとっているのですね。
 池田 宗教のなかには、さまざまな欲求や良心や愛情などを発現させる方法を示しているものもある。いかなる生命内容をあらわすかで、宗教人としての境涯も規制されてくるであろうが、とにかく日蓮大聖人の仏法は、宗教的、そして本源的な欲望の追求と発現、つまり仏界涌現のうえに成立していることだけは、強調しておきたいと思う。
 さて、ここらで私たち自身のなかに仏界という生命が実在するということ、そして、人間らしい生き方とは、仏界を顕現した菩薩の道ではあるまいか、とする私たちの結論を示して、十界論を終えることにしよう。

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