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日蓮大聖人・池田大作

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人間らしい生き方〈1〉 十界論をめぐって 

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

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1  戦争と平和
 北川 二十数年にもおよぶ殺数と残虐のかぎりをつくしたベトナムの戦火も、ようやくおさまろうとしています。たしか昨四十七年(一九七二年)の暮れのことだったと記憶していますが、ユエを訪れた一人の記者が、「ベトナム人は平和を恐れている」と指摘したリポートを、私はいまでも忘れることができません。
 恐れているといっても、もちろん平和の到来を待ち望んでいないということではなくて、彼らほど本当の平和を希求している人々はいないというのは事実です。
 にもかかわらず、どうして彼らが平和を恐れるかというと、人々はただでさえ「戦争」のためにひどい目にあってきた、このうえに「平和」などという、いままで出合ったこともない代物がやってきたのでは、何が起きるかしれたものではない、というのです。――平和ムードになれきっている私たちには、ちょっと実感できそうもない悲しい逆説ですけれども、なにしろ、ほとんどの人々が平和を一度も体験したことがないというんです。
 池田 すさまじいまでの悲劇だね。戦乱の地獄絵図をくぐりぬけて、やっとの思いで和平へとこぎつけたのに、「平和とはいったいどういうものなのか」と、首をかしげざるをえない人々の苦悶が、私の胸に突き刺さってはなれない。
 二十数年といえば、生まれたばかりの赤ん坊も、立派な青年になる年月だ。その間、戦人に脅え、焼土を住み家としてきた青年の心に、たとえ少しでも人間らしい生き方への衝動がこみあげてきたとしても、次の瞬間には、絶望と不信の暗闇にすっぽりと包まれてしまったにちがいない。死以外には信じられなかった人生――それはまさに、現代の地獄というべきだろうね。
 川田 池田先生の小説『人間革命』の冒頭の一節は、強烈な戦争否定の言葉で始まっていますが、その意味の深さがわかるような気がしてきました。
 「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない。だが、その戦争はまだ、つづいていた」とありますが、平和を希求する人間本来の心情さえも、断ち切ってしまうところに、戦争のもたらす最大の悪がひそんでいそうですね。
 池田 だれ人たりとも、戦争を憎み、安らかな人生を求める心に変わりはあるまい。だが、そのような願いさえも、疑惑と不安で覆ってしまう所作のなかに、私は地獄の残酷さを見るような思いがする。
 北川 地獄といいますと、幼いころ「三途の河」や「獄卒」「閻魔」などにまつわる話をよく聞かされたもので、子ども心にも、恐いところだなと脅えたりもしました。
 現代っ子なら一笑に付してしまうでしょうし、怪獣のほうが閻魔や鬼よりずっと切実感があるでしょうが、まあ、それはともかく、これらの話に出てくる地獄の責めというのは、決して架空のものではなく、現実の人生に実在している。もっと正確にいえば、私たちの生命そのものの苦しみが地獄なのです。そして、この世の中で人間のつくりだす最大の地獄こそ、戦乱の巷であるといえないでしょうか。
 池田 地獄は苦悩の極限です。日蓮大聖人の「十字御書」に「そもそも地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば・或は地の下と申す経文もあり・或は西方等と申す経も候、しかれども委細にたづね候へば我等が五尺の身の内に候とみへて候」とあるとおりです。地獄といい、仏といっても「我等が五尺の身の内」にある。
 仏法は、生命自体が内より感じている境地を、あくまでも追究していく。生命感という言葉を使ってもいいでしょう。生命そのものの感じです。それは、決して、ごまかすことのできない感覚だと思う。たとえ他人の目をごまかすことはできても、自分自身を偽れない生命の実感です。
 苦しみとか悲しみとか、満足感とか怒りといったさまざまな感情に揺り動かされるのが、私たちの生命です。あるときは苦しみ、また、あるときは喜びの潮にひたる。もし私たちが苦しいときにつくり笑いしようとしても、顔の筋肉がこわばってうまくいかないものだね。たとえ、うまくつくり笑いをしたとしても、生命の「我」が苦しんでいることに変わりはない。また、そのような生命感を、もし客観的に表現しようとすれば、状態とか、境涯とか、変化相などということもできるでしょう。
 考えてみれば、私たちの周囲には、じつに多彩な変化相を示す生命的存在が、それぞれの生を営んでいる。人間の生命でも、顔形が異なるように、性格も個性も人間性も、ぜんぶ違っている。一卵性双生児でも、厳密にいえばずいぶん相違点を見いだせるだろうね。
 だが、いかなる人間生命であろうと、戦乱に巻きこまれれば苦悩を逃れることはできない。子どもの死、親の重病に直面して苦しまない生命の「我」もありえない。また、自分の願いがかなったときには、だれでもうれしいものだ。読書にひたる精神的な喜びも、万人共通の心情といえますね。このように見てくると、人間生命の「我」は、一見すれば千差万別でありながら、そこになにか共通の基盤があるように思えてくる。
2  北川 たしかに、男性でも女性でも、財産があろうとなかろうと、またいかなる職業であれ、愛している人、心の通い合った友人と別れるのはつらい。そうした人との別離は、悲哀をもたらす。ところが、心の通じ合った人との再会はじつに楽しい。何物にもかえがたい親愛の情にひたることができます。
 また、平凡な人生であっても、健全な家族と社会に守られての誠実な日々は、豊かな人間性をはぐくむものだと思います。生命の「我」は充実した楽しみを味わっている――。
 池田 三十七億の人類、これらすべての人間生命に共通の基盤は何かというと、それは生命の「我」の実感であり、その生命のあらわす境涯ではないかと思う。苦や楽の実感は、皮膚の色を超え、民族を超え、いわんや国家の枠組みなどを超えた、人間としての普遍の実在でしょう。
 仏法の眼は、あらゆる生命内奥の「我」を見とおし、その境涯に応じていくつかのグループに分類している。哲学用語を使えばカテゴリーといってもよい。
 川田 それが仏法で説く「十界論」ですね。具体的には、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界の十種類になります。でも、この十界論はずいぶん誤解されているところもありますね。
 地獄は先ほど出ましたが、餓鬼界というと、子どもを罵る言葉として使われています。少年まんがにも「みてろガキー」などと書かれていましたが、それでちゃんと意味が通じているのですね。
 畜生は他の生物、とくに牛や馬をさしますし、悪態をつくときに使われたりしている。天国は東洋式にいうと天人の住む国で西洋式にいうと神の国となり、この現実世界とは別の世界になっています。ひどいのは仏界についてで、死人は仏であるなどと思いこんで平然としています。
 池田 まさに仏法が死んでしまった悲しい姿です。だが、日蓮大聖人の御書には、十界論がまことに端的に、しかも明瞭に説かれている。十界のうちの六道(六界)だけを、ひとまず日蓮大聖人の「観心本尊抄」から引用すると「しばしば他面を見るに或時は喜び或時はいかり或時はたいらかに或時はむさぼりり現じ或時はおろか現じ或時は諂曲てんごくなり、瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・諂曲てんごくなるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり」とあります。
 大聖人の眼には、あらゆる人々の生命の「我」のありさまが生き生きと映しだされたのではないかと思われます。いかに外見を飾っていても、地獄の責めを受けている「我」もある。いかに悠然としているように見えても、そのじつ、飢餓感にさいなまれている「我」もあるだろう。本能的欲望に支配されている「我」、エゴのとりことなりはてた「我」、理性と良心にコントロールされた「我」、さまざまな種類の喜びに包まれた「我」などの、ありのままの姿が、仏眼にはくっきりと映っていたのだろうね。生命の本質の実相です。
 このように生命の「我」の実相をうつしとって、そこに内包された境涯とか実感を基準にして分けてみると十種類を出ていなかった、またそれ以下でもなかったということだろうね。
3  北川 必要にして、最小限度のカテゴリーの数が「十」というわけですね。ちょっと考えると、なにも十界でなくても、十二界でも、また八界あたりでもよさそうなものだと考えがちですけれども……。
 池田 階段を数えているようだね(笑い)。だが「十」という数字は、十進法に合うからだとか、八界ではもの足りないから、少し付け足そうというような考えからでてきたものではないと思う。十界論が何を説き、何を示しているかを見ぬくことが必要です。参考のために、具体例を少しあげてみよう。
 たとえば、苦しみという「我」の実感も、それを分けていけば、ほとんど無限の種類になってしまうでしょう。不治の病にさいなまれる苦しみもあれば、ご主人が酒飲みで生活苦にあえぐというのもある。不良の息子をもつ母の心情、娘に背かれた父親の心の中など、すべての苦悩の性質はまったく同じというわけではないはずだ。似ているところもあるし、ニュアンスの違いもある。だが、生命が苦悶するという事実自体においては、一つのグループにまとまってしまう。
 だから、たとえば、不治の病を必死の思いで克服した人などは、他の人の病苦をそのまま実感できるし、それと同時に、たとえ種類は違っても、母を失った子どもの心情とか、息子を戦場に送らねばならない親の悩みなども、自分の生命の痛みとして受けとめられるのです。すべての人々の苦は、そのあらわれる形からいえば「異の苦」ではあるけれども、苦しみという境涯、その奥底の生命の「我」にあっては「同一苦」であるともいえましょう。
 また、畜生界という境涯は、本能のままに行動する生命の「我」をあらわしているが、それも、本能の種類からさらに分けると、食欲や物質欲や睡眠欲などに細分されるでしょう。食べることだけが生きがいだというような人もいるだろうし、一日中、何もしないで眠ることが人生最大の楽しみであり、目標だという人もいるかもしれない。
 また、麻薬などに溺れて人生の歯車を狂わせていく生命もある。それぞれの行為はまったく違っているであろうし、人生の送り方も違っている。しかし、本能に動かされる愚かな生命であるという点からみれば、やはり畜生界というグループに入ってしまうであろう。まあ、他の境涯についても、順次思索していけば納得のいくことだと思う。
 こんどは、八界ぐらいにならないかというので、地獄界と餓鬼界をいっしょにして「地獄餓鬼界」とか「地鬼界」とか(笑い)――あまりよい名前ではないけれども、仮に命名してつくったとしよう。すると、そのような生命の「我」が感じるのは、苦悩なのか、それとも飢餓感なのか、いったいどう説明すればよいのか混乱してしまうにちがいない。
 地獄界というのは、どんな欲望もあらわせず、まったく自由を奪われたときの自我の「瞋り」であり、「うめき声」です。つまり、なに一つ自分の思いどおりにならなくて、悲鳴をあげている状態です。いや、本当は叫び声すらあげることもできないほどの苦しみでしょうね。ところが、餓鬼界では貪欲というあくなき欲望の発現がある。その欲望が「貪る」あまり、飢えの感じをひきおこすと考えられる。
4  川田 ちょっとわかりやすい例をあげますと、熱が四十度ぐらいも出てまったく食欲不振におちいるとか、歯がズキズキ痛んで食欲どころじゃないとか、最愛の子が急死して食事も満足にのどを通らないという場合はどうでしょうか。
 地獄界であることは間違いないけれども、餓鬼界であるとはとうていいいがたい。ところが、熱が少し下がって食欲が出てきた。なのに流動食をちょっぴりしか食べさせてくれないとか、歯の痛みは少しやわらいだが好物が堅いもので、それをかむこともできない――という状態は、地獄界を脱して餓鬼界にいる状態ですね。
 池田 だから、苦悩と飢餓感、瞋りと貪りは、生命の実感からいっても、生命の内容からしても、まったく質的に違った境涯です。質的にまったく異なる二つの生命状態を統合することはできないし、また現実にも存在しない。
 北川 よくわかりました。そこで、こういう説明の仕方はどうかと思うのですが……。十界を、色にたとえるわけです。ちょうどプリズムに太陽光線をあてると、七色に分かれていきますね。雨あがりに虹のかかった状態のようなものです。
 十界の場合は十色なんですが、生命の「我」が、それぞれの特質をもった十種類の色に染められると考えます。苦しみの色、喜びの色、怒りの色などです。具体的には、人によって思い浮かべる色は違うでしょうが、それでも、苦しみとか悲しみの色などというのがあるのではないでしょうか。人間共通の美的心情として、ある程度、想起する色も一致すると思います。たとえば、苦しみや悲しみは灰色がかっているというようにです。まあ、それはともかく、地獄は苦悩の色に染められ、天界は喜びの色、たとえばバラ色である、というふうに考えられないでしょうか。
 池田 思索の糸口としては、そういうことも考えられますね。たしかに生命の「我」は十種類の色に染められているでしょう。そう考えてもよい。だが、その色は、着物を染めるように、外から着色したものではない。生命の内奥からにじみでる色彩です。
 川田 その場合、その色を外から観察すると、生命の「我」の境涯が、ある程度わかりますね。バラ色を見て地獄の色だなんていう人もいないでしょうから……。
 池田 そこで、これから十界論を具体的に掘り下げていくにあたって、そのまえに提案しておきたいことがある。
 十界論は、生命感という、生命の「我」の主体的な実感を主として成立している。この点のみを見れば、主観的カテゴリーと考えられます。しかし、その生命感という主観的なものをとらえた基準は客観的なものです。このように、主観と客観のうえに展開されたものであるがゆえに、十界論は、いかなる人といえども、そのみごとさに心の底から納得せざるをえない生命哲理となっているのではないだろうか。
 そうした客観的な基準として、第一に生命の「我」に含まれる内容を分析してみたい。十界それぞれの生命を特徴づけるのは、欲望か、理性か、慈悲か、それともエゴイズムか、などといったことです。
 第二に、これもいままでに考察したことだけれども、「生命的時間」とか「生命空間」といった考え方も使っていきたいと思う。
 第三に、この生命がどれくらい充実しているのかとか、どれくらいの発動性と能動性があるのかとか、主体的に生きているのか、自由にふるまえるのかどうかなどといったことにも、少しおよんでみたい。
 細部にわたっては、これから論議していきたいと思うが、私の提案した主観と客観にわたる基準についてはどうだろうか。
5  川田 生命の「我」の状態とか、境涯とか、そういったことを明瞭に示せますね。
 池田 と同時に、さらに重要なことは、十界論を通じて人間らしい生き方を学び、戦争や公害や社会悪や、さらには一人の人間の生命自体がもつ宿命をも転換し、人間らしい文化と世界を築く、もっとも基礎的な哲理を示しうることだと思う。
 戦争を起こし、公害に狂う生命の「我」は、いかなる生命状態にあり、また逆に、平和と友好をかもしだす境涯とはどのようなものか、という事実を明らかにすることによって、私は、人間の生の尊厳を傷つけ、生存の権利を奪い去る、あらゆる悪の根源を断つ戦いへの、第一歩を踏みだしたいと思うのです。
 「平和とは、いったいどのようなものか」と苦悶する生を、その根底から変革し、たくましい人間道を歩みゆくための、生命本源の力をわきおこす方途を示唆できればとも願っている。
 十界論はあくまで実践の哲理です。苦悩し絶望の底にあえぐ生命の「我」に、人間らしい生きがいをもたらす理念です。
 この理念が十界互具論、一念三千論へと昇華、統合され、新しい人間文化を築きあげる生命の哲理ヘと発展するための、努力を惜しんではならない。「戦争とは、どういうものか」と首をかしげざるをえないような社会を現出させたいものですね。
6  三悪道と修羅界
 川田 地獄ということで私がいつも頭に思い浮かベるのは、一九四五年(昭和二十年)八月六日の、あの人類史上初めての原爆投下の様相です。広島原爆の被災者であった女性の体験をつづった書物が出版されています。その書き出しは次のように始まっています。
 「渾沌と悪夢にとじこめられているような日々が、明けては暮れる。
 よく晴れて澄みとおった秋の真昼にさえ、深い黄昏の底にでも沈んでいるような、混迷のもの憂さから、のがれることはできない。同じ身のうえの人々が、毎日まわりで死ぬのだ。(中略)
 死は私にもいつくるかも知れない。私は一日に幾度でも髪をひっぱって見、抜毛の数をかぞえる。いつふいにあらわれるかも知れぬ斑点に脅えて、何十度となく、眼をすがめて手足の皮膚をしらべたりす。(中略)
 意識ばかりははっきりしていて、どんなに残酷な症状があらわれても、痛みもしびれもないという、原子爆弾症の白痴のような傷害の異状さは、罹災者にとって、新しい地獄の発見である。了解することの出来ぬ死の誘いの怖ろしさと、戦争自体への(敗戦の意味ではなく)忿いかりりは、蛇のようにからみ合い、どんなにもの憂い日にも、高鳴っている」
 著者は、原爆文学作家の大田洋子さんという女性で、『しかばねの街』(潮文庫)という題名がついています。
 池田 原爆症にさいなまれる女性の心根が、手にとるように浮かび上がっている。いかなる言辞を弄しての説明よりも、生と死をかけた一つの体験のほうが、事実をなまなましく伝えるものだね。
 川田 ところで、この文章のなかで「渾沌と悪夢にとじこめられている」とありますが、これは、生命の自由をまったく奪われた境涯をあらわしているのでしょうか。「手も足も出ない」というような……。
 池田 環境に働きかける力もなく、未来を開く希望ももてず、傷ついた身と心を抱えて快悩する生命の「我」に、人間としての自由はまったくありえないといえるでしょう。
 私たちの生命には、もともと力強い生命的エネルギーがそなわっている。その力が生を支える衝動となり、本能的な欲望となり、また、人間らしい各種の心的内容となって噴出していく。親愛の情が芽ばえ、知識欲がわき、同情心をつちかっていく。また逆に、攻撃とか破壊とか嫉妬などの衝動となることもある。
 いずれにしても、そこにはさまざまな生命の動きがおき、人生模様を織りなしていくと考えられる。だが、地獄の境涯においては、そうした生命的なエネルギーの発動はほとんどおさえられ、そこに筆舌につくしがたい苦悩を感じていく。
 川田 原爆症では、いつ死が訪れるかわかりません。しかも、現代医学をもってしても、その死を食い止めるにはあまりにも無力です。また公害病の一つであるイタイイタイ病では、激痛のあまり寝食も満足にできず、絶叫を残して死にいたるほかはありません。
 池田 食欲とか睡眠欲といった本能的な欲望を、個体保持の欲求というのだけれども、それさえ満たすことができず、やがては生きる力も失ってしまうのです。このような、あらゆる生への力と、その涙ぐましい努力のすべてがむしり取られていく境涯は、最底の生命状態というほかないでしょう。
 北川 少なくとも志願してなるような境涯ではないですね(笑い)。地獄という言葉の意味ですけれども、地獄の「地」は最底を意味し「獄」とは拘束された不自由をさすといわれます。繋縛けいばく不自在が本質であるということです。
 池田 苦しみに押しつぶされて、身動きもできないということだね。そのような人生はいかに長くつづいても、少しも充実したものにはならないでしょう。
 北川 しかし、人間生命にそなわっている生命エネルギーは、どんなに圧迫されても、少しは残っているような気もするんですが……。
 池田 私たちの生命の力は、どのように抑圧され、また剥奪されても、決して枯れてしまうことはない。私たちは、死が目前に迫っても、一筋の希望をどこかに見いだそうと必死の努力を重ねるものです。たとえば、もし不治の病であることがわかっても、新しい薬や治療法が発見されないかとか、レントゲン写真の間違いではないかとか、自然に治ることもありうるとか、ひどいのになると医師が間違っていて、私は健康なのだとか、どこかに希望を見つける努力をするものでしょう。
7  川田 ソルジェニーツィン(ロシアの小説家。一九一八年――)の『ガン病棟』(小笠原豊樹訳、新潮社)のなかで、自然治癒の可能性ということが、人々の心理に投げかける影響について、みごとに描かれているところがあります。
 一人の患者が病理解剖の本のなかから、癌でもまれにではあるが、自然治癒の症例も見られると記された部分を見つけだして、「治療じゃないんだよ、自然治癒だ」と叫ぶんです。すると、他の人々もその言葉に飛びつくんです。「それはあたかも大判の教科書の開かれた頁から自然治癒という名の虹色の蝶が飛び立ち」とあるのですね。虹色の蝶というのは、癌に侵された人々の描きだした希望の結晶だと思います。たとえ、はかないものであるとわかっていても、なおいだきつづける期待です。
 池田 それをむなしい生存欲のあがきであると、冷笑する人がいるかもしれないけれども、では、そういう人に生への執着がないかといえば、決してそうではない。他人のことだから冷たい氷のような眼差しを向けられるのだろう。しかも、生の内奥からほとばしりでる生きることへの執念は、それを許さぬものへの激しい怒りと化し、耐えがたい情念の嵐を巻き起こすにちがいない。
 川田 大田洋子さんも「戦争自体への忿りは、蛇のようにからみ合い、どんなにもの憂い日にも、高鳴っている」と記しています。この原爆作家の心情が少しはわかるような気がします。
 池田 生存への必死の戦いです。その戦いの嵐が感情の奥を揺さぶり、生命の「我」を巻き込んで荒れに荒れ狂う。生命の「我」は情念の嵐にもまれて苦悩の「うめき声」を発しつづけるにちがいあるまい。だが、その嵐は、狂えば狂うほどかえって自己の生命力を浪費し、死への道へとひきずりこむ役目を果たす。そこに、地獄特有の悲惨さがある。日蓮大聖人が「瞋るは地獄」という文と矛盾しているように見える。しかし、ここでいわれている意味は、「妙法」という法は、三災とか四劫というような現象の変化を超えて常住していくということでしよう。
 北川 「瞋る」感情の嵐が、自我の苦悶と死自体をも呼び寄せるのですね。
 池田 その「瞋り」は、戦争や公害や不治の病や貧困、家庭不和などの苦悩をもたらすものへの怒りであり怨念であるとともに、この不幸をはねかえすことのできない、ひ弱で無力な自分自身への、いいしれぬ悲しみの心でもあるだろう。
 日蓮大聖人の「顕謗法抄」には、八大地獄のすさまじい様相が説かれているが、そのなかでも「大阿鼻地獄」が苦悩の極限だとされている。阿鼻叫喚とは、生命の「我」の筆舌につくしがたい「うめきの声」であり、その地にただよう酸鼻な臭みとは、まさに死の悪臭ではないかと思う。
 北川 阿鼻叫喚といえば、わめき、泣き叫ぶ声などを想像しがちですけれども……。
 池田 耐えがたい激痛に、声をあげて叫ぶ場合もあろう。だが本質的には生命の「我」の「苦しみのうめき」と考えたい。叫び声も出ないほどの心の中のうめきです。
8  北川 苦しみの「我」は、ちょうど大地の底にでも沈んでいくような重さを感じるでしょうね。
 池田 先ほどの原爆作家も「深い黄昏の底にでも沈んでいるような」という表現をしていたね。経文では地獄の住所を、地の下一千由旬(一由旬は大王一日の行程をいい、その距離には種々の説がある)などと説いています。それから地獄の空間と時間について一言しておくと、苦しみの状態にある生命の占める空間は、かぎりなく小さくなっているのではないだろうか。
 たとえば歯痛に悩まされるときなど、その人の占める生命空間はぜんぶ、歯のなかに入ってしまっている。外界で起こっていることに関与するいとまもない。
 また、明日食べる米にも不自由する人は、米櫃こめびつの中に、その人の生命はすっぽり入るのだろう。だから、こういう状態にある人にとって、いかにすきとおった秋空が広がっていても、そこに遊ぶだけの余裕はまったくない。粉雪がちらついたりすると、それが米や金にさえ見えるくらいだろうね。とにかく、この広い世界のなかで身を憩わせる場所はどこにもない。
 次に地獄の時間についても、本気で考えると気が遠くなるほどの寿命が種々の経文には説かれている。もちろん、これは生命的時間を使っての表現だけれども……。悩み、悲しみ、苦しんでいる生命にとって、時計の針がもどかしくてしかたがないことは、時間論のところで述べたけれども、生命力が弱りきって生命の流れがほとんど途絶えているのだから、生命的時間は少しも進まないわけです。
 そういう生命だから、いつまでたっても地獄から抜けだすこともできず、もがきぬかねばならない。無間地獄(地獄のなかで、もっとも極限の地獄である大阿鼻地獄のこと)においては、現実にその苦しみの長さを示すのに天文学的数字を必要とするにちがいない。こうして苦しみの「我」は、無限にうちつづく時間の責めを感じつづけるのです。
9  北川 地獄についてはずいぶんくわしく考えましたので、このあたりで餓鬼界と畜生界に入りたいと思います。
 まず餓鬼界についてですが、日蓮大聖人の「観心本尊抄」に「貪るは餓鬼」とありますように、この境涯にある「我」を特徴づけるのは貪欲とんよくですね。
 池田 とどまるところを知らぬ激しい欲望の火に、身も心も焼かれていく境涯だと思う。私たちの生の内奥には、じつにさまざまな欲望が渦巻いている。もっとも基本的な欲求は生きたいという欲望だが、個体と種族を保持するための本能的欲望を数えあげれば、じつに多い。
 北川 食欲とか集団欲とか性欲とか、また眠りたいといった欲望ですね。
 池田 さらには、物質欲や所有欲などの、物に向かう欲望もあれば、権力欲や支配欲、名誉欲、攻撃欲、自己顕示欲、自己主張欲、などといった、人間関係にまつわる欲望もあるだろう。
 川田 私自身の心の中にも、これらの欲望のすべてがあります。それが現実に出てくるかどうかは別として、やはり物への欲望もあれば、自分をよく見せたいという欲望もあります。他の人々を思うがままに動かしてみたいという心も認めざるをえません。どんな聖人君子のような顔をしていても、その心の中には、その顔とは似ても似つかぬ欲求がうごめいている場合もあるようです。
 池田 まあ、このぐらいが、餓鬼界、畜生界、修羅界などに関連する欲望だが、これらのほかにも、各種の精神的欲望が実在することも記憶にとどめておいてほしいね。
 ところで、このような欲望は、生命を維持するため、人間として生きるために必要なものであり、それなりに有益なものであるが、欲望の追求が目的になり、欲望に支配されたときは、みずからを不幸におとしいれ、他を傷つける害悪となる。餓鬼界の本質は、ここにあるといってよい。
10  北川 日蓮大聖人の「孟蘭盆御書」には、目連尊者(釈尊の弟子の一人。神通第一といわれた)の母の餓鬼道に落ちた姿が記されています。
 「天眼をひらいて、三千大千世界を明鏡のかげのごとく御らむありしかば、大地をみとお見透三悪道さんあくどうを見る事冰の下に候魚を朝日にむかいて我等がとをしみるがごとし、其の中に餓鬼道と申すところに我が母あり、む事なし食うことなし、皮はきんてう金鳥むしれるがごとく骨はまろき石をならべたるがごとし、頭はまりのごとく頸はいとのごとし腹は大海のごとし、口をはり手を合せて物をこへる形は・へたるひるの人のをかげるがごとし」と――。
 また目連尊者が、母にごはんを与えようとすると、そのごはんが火となって燃え上がったと説かれています。
 池田 まるで典型的な栄養失調の人の描写だね。
 川田 私は職業柄、癌の末期の人を見ることがありますが、癌患者特有の顔貌や姿を描いているようにも思われます。
 また、水俣病、とくに胎児性水俣病の子どもたちも、重症になれば、ベッドに横たわったままです。欲しいものも食べられない。いや、食べたいという欲求さえあらわせない場合もある。生命自体では欲しがっているのでしょうけれども、それを表現したり意識することさえできないんですね。ジャーナリストは「生ける屍」と呼び、学者によっては「植物状態の人間」と名づけています。
 池田 食物がありながら、それを摂取することもできない。本能的欲求さえもかなえられない生命の「我」は、その欲求の強さにつきあげられて激しい飢餓感にあえぐにちがいない。したがって餓鬼界の生命の実感は、心身を焼きつくすような飢えの感じです。
 北川 先ほど池田先生があげられた欲求のなかの、権力欲や所有欲にしても、それが得られないときの焦燥感というか、焦りというか、あれも一種の飢餓感でしょうか。
 池田 手に入りそうで、もう少しのところで自分のものにならないといった焦燥感だね。名誉や権勢を求め徘徊する生命は、焦りの炎に焦がされ、その内奥からは強烈な飢餓感がつきあげてくる。だが、考えてみると、所有欲や支配の欲求がかなえられた瞬間は、人界とか天界になるのだろうね。
11  川田 腹いっぱい好きなものを食べて満足した。あと横になればいうことはないという状態などは、どう考えても畜生界です。
 それから他の人の欲望と衝突すれば修羅界ですし、食物や水に毒が含まれていれば地獄界を現じることもあります。
 北川 『立正阿毘曇論』第六には、「この道は余道と往還し、善悪相通ずるがゆえに閉多と名づく」(大正三十二巻198㌻)とあります。「余道と往還」するということですね。
 池田 もう一つ、餓鬼界は「善悪相通ずる」のです。たしかに飢餓感に責められた欲求不満が、物質文明を築く原動力になっている。機械化による食糧の増産が、飢饉を救っているという事実もある。
 川田 正直なところ、私たちでも、おいしいものを食べたいとか、よい家に住みたいとか、またレジャーを楽しみたいという欲求があるから働くのだということも、一面の真理でしょう。欲しいものを買いたいから残業する人もいるでしょうし、妻子の病気を治したいために厳しい労働に耐える人もいます。社会全体のこととも関連しますが、とにかく欲望の激しいつきあげが、私たちを行動へと駆りたてていることは事実です。
 そしてある場合は、それによって豊かになるとか、病院に支払いができて病気もよくなることがあります。たしかに社会全体からみると、政治とか経済の問題になるでしょうが、貪欲が、幸福とか、よいことにつながることもあるでしょう。
 池田 だが、その反面、貪欲が戦争、公害などを生みだしているという現状も、正しく認識しなければならない。
 北川 そうしますと、餓鬼道は他の界へと通じ、善と悪の両面をつくりだすとはいっても、餓鬼道そのものは、やはり貪欲に支配される不幸な境涯といわざるをえない……。
 池田 餓鬼界が、三悪道の一つに数えあげられるゆえんです。
12  川田 ところで餓鬼界は、貪欲に支配されながら、それがかなえられない生命状態ですけれども、畜生界は、本能のままに動かされる境涯をいうのでしょうか。
 池田 人間の生命であっても動物の一種であることに変わりはない。動物と共通の本能的欲求ももっている。どんなに偉そうにふるまってみても、他の動物と同じように、適度の睡眠はとらなければならないだろうし、食事もしなければならない。十分な栄養がなければ体の調和も崩れてしまう。
 川田 これは人間らしい欲望の一つで、食欲とは違うのですけれども、女の人だと、やせたいという欲求があります。そのスマートになりたいという欲求が断食をつづけさせたという例があるのですが、アメリカはロサンゼルスの主婦で、百十七日の断食がいままでの世界最高だそうです。その主婦は念願を果たして、体重が百四十三キロから九十キロにまでなったそうですが、これ以上つづけると、やせたいという精神力はつづいたとしても、そのまえに死んでしまうというのです。
 また、睡眠欲というのも本能の一つですけれども、それを断つ実験をした人がいまして、百時間をちょっと超えたのが最高です。ふつう、眠らないと二日間ぐらいは正常な精神活動をしていますが、三日目ぐらいになると幻覚が出てきたり、幻聴が聞こえだしたりして、とにかく精神が異常になります。こうみると、本能を全面的に抑圧したり断とうとするのは無理ですね。
 池田 私たちも、学問的にいうと霊長目の一員だから、生物として生きていく以上は、本能的欲求は満たされなければならない。それを断ち切ることは不可能だし、してはならない。しかし、本能的衝動の命ずるままに行動するところには、決して人間としての生き方はないはずです。
 人間生命における心的内容には、これまであげたようなさまざまな欲望もあれば、理性もあり、良心もあり、愛もあり慈悲もある。本能は、これら他の心の要素にうまくコントロールされながら充足していくところに、人間らしい生命状態をあらわしていけるのです。
13  北川 日蓮大聖人が「癡は畜生」と定義されているのは、理性もなく、良心の働きも認められない境涯ということですね。まあ、動物も種類によっては、愛情もこまやかですし、ある程度の理性もないことではないでしょうが……。
 ところで、畜生の境涯は癡であるということは、ムード的にはわかるのですが、具体的な愚かさの内容というか、行動の原理はどのようなものと考えればよいでしょうか。
 池田 日蓮大聖人の「新池御書」には「畜生は残害とて互に殺しあふ」とあり、「佐渡御書」には「畜生の心は弱きをおどし強きをおそる」とあります。弱肉強食の生存競争を繰り広げるのが畜生界の「我」の行動原理です。
 川田 よく動物は嘘をつかないなどといいますが、むろん人間のようにずる賢い、巧妙な嘘は、つこうと思ってもつけないでしょうけれども、動物学者の説によれば、動物の世界でも、嘘やだますことが横行するとされています。
 同種の間では守りあうことはあったとしても、異種の動物間だと、できるかぎり弱い相手、病気の相手、老いた相手を狙う。そして、できるだけエネルギーを使わないようにして「だまし討ち」にする。
 それほど生存競争は厳しい、ともいえるわけです。わざわざずる賢くするのではなく、そうしなければ、みずからの生をたもてないということでしょうか。もちろん、人間の場合も、他の動物を殺したり捕獲するのに、相手にわざわざことわってからするというような、フェアプレーの精神はありませんけれども……。(笑い)
 池田 本能を充足させる、つまり生きぬくための戦いだね。
 北川 本能が満たされたとき、生命の「我」は何を感じているのでしょうか。たとえば、私たちが食事をたっぷりとったあとの充足感みたいな、それでいてけだるいような感じでしょうか。
 池田 むしろ快感といったほうがいいかもしれない。天界の喜びや、人間のさわやかな満足感とも少し違うようです。生理的な充足感、快感を、畜生界の「我」は感じていると思う。
 北川 ちょっとひねくれているかもしれませんが、もう一点確認したいのですが……。弱肉強食の原理はどうして愚かといえるか、という問題ですけれど……。
 池田 これは、エコノミック・アニマルといわれる日本人にとっては、切実な問題です。弱肉強食でもいいではないか、と居直る人もいる世相だからね。だが本能につき動かされる畜生界では、知恵とか、理性とか、意志などは、まったく働いていないといえるでしょう。
 本能は盲目である、といわれるとおりです。こういった本能によってたしかに、生き物は環境に適応していくことはできる。食物を探したり、眠る場所を確保したり、他の動物から身をかわすこともできる。しかし、環境が変わったり、ずる賢い連中にかかったりするとひとたまりもない。生存競争の原理からいくと、敗者になり生命を落としてしまう。だから、本能がいくらすぐれていても「飛んで火に入る夏の虫」ということにもなってしまう。
 日蓮大聖人は、「佐渡御書」にも「魚は命を惜む故に池にむに池の浅き事を歎きて池の底に穴をほりてすむしかれどもにばかされて釣をのむ鳥は木にすむ木のひきき事をおじて木の上枝にすむしかれどもゑにばかされて網にかかる」との例をあげられている。本能に支配されて生きることは、結局、自己の破滅につながっていく。しかも、そのような運命を自分ではどうすることもできないのです。
14  北川 本能のたどる運命ですね。それは個々の生物でもいえるし、またその生物集団についてもいえますね。たとえば、生態学でも、他の生物を滅ぼして繁殖しすぎた生物は、かならず絶滅していくといいます。
 ところで、地球上における大絶滅の一つは、いまから七千万年前ごろ、地質時代でいうと白亜紀の末ですが、恐竜とその仲間の身に起きています。当時は地上の王者だったわけで、わがもの顔にのし歩いていたんですね。いまの人類みたいなものです。
 ところが、突如として姿を消してしまうことになった。外からの原因も考えられていますが、内因も考えなくてはならない。環境の変化に適応することができなかったと、考えざるをえない。この例だけではなく、地球上では、生物が大量に滅亡していく例がときどき見られますが、一つの生物だけが他の生物を犠牲にして栄えることは、生命の糸、生命の輪をズタズタに切り裂いて、みずからの生きる基盤を崩していっているようなものです。人間も、いま弱肉強食の原理で他の生物を絶滅に追いこみ、その結果、集団自殺にみずからが進んでいる、と多くの学者が警告しています。
 池田 快感にひたりながら、みずからの死を招き寄せる生命の「我」は、どうみても愚かとしか表現のしようがないね。
 北川 仏法では、地獄、餓鬼、畜生は三悪道といわれていますが、それと、次の修羅界を入れて四悪趣というふうに表現しますが、やはり、三悪道と修羅界とは、ずいぶん、境涯というか、生命内容そのものが変わってきていますね。たとえば、三悪道の「我」に関係するのは、主に各種の欲望と感情の面からすると情念といったようなものです。しかし、修羅界では、自我意識が顔を出していますし、感情も少しは人間らしくなっていますね。
 池田 修羅界も、決して人間としてのあるべき姿ではないにしても、三悪道とは、やはり質的に異なるといえよう。たしかに、修羅界では、自我意識が芽ばえている。この点をつかまないと、修羅の境涯を理解することはできないでしょう。
 北川 「観心本尊抄」にも「諂曲てんごくなるは修羅」とあります。へつらい曲がった心ですね。
 池田 自己中心的な自我です。他の人々や生き物のことなどまったく眼中になく、ただみずからの利益や主張のみを追求するエゴイスティックな自我が、修羅界の「我」だと考えられる。
 北川 この自我の性質について、日蓮大聖人の「十法界明因果抄」には「止観の一に云く「若し其の心・念念に常に彼に勝らんことを欲し耐えざれば人を下し他を軽しめ己をたつとぶこととびの高く飛びて下視みおろすが如し而も外には仁・義・礼・智・信を掲げて下品の善心を起し阿修羅の道を行ずるなり」文」とあります。
 「止観」とあるのは、天台大師の『摩訶止観』のことです。この文のなかに、「下品の善心」とありますが、これは、善心を、その度合いによって、上品とか中品とか下品といったように、いちおう区分するのですね。そうしますと、修羅界の「我」は、善心といっても、あまり高等なものではない下品のほうの心を起こすというのです。それから、「阿修羅」は修羅と同じ意味ですね。
 池田 この文を読むと、エゴイストの姿がみごとに浮き上がっています。このなかの「其の心・念念に常に彼に勝らんことを欲し」というのは、勝他の念をさし、「人を下し他を軽じめ己を珍ぶ」と表現されているのは、増上慢の心を意味していると思う。
15  川田 ひところ騒がれた教育ママ、などという存在ですね。いまはあまり表面には出ないようですが、もうあたりまえになったのかもしれません。幼稚園に入るころからの母親の執念みたいなものを見せつけられたり、また、医学部入学にまつわる不正事件とか、入学金、寄付金の額などを見ていますと、親のエゴのために、かえって犠牲になるような子どもも多いのではないかという気さえしてきます。
 まあ、そういう親たちの自我は、勝他の念にかられ、自分の子どもの勉学に関心をもつのはいいのですが、子どもの人格とか性格とか、どういう方面に才能が向いているか、などといったことを考えようともしないものです。子どもの成績をあげるのは、みずからの利己心を満足させるためであったり、優越感にひたるためといっても過言ではない場合もあります。だから、他人の子どもが、ちょっと成績がいいと憎らしくてしかたがないのですね。子ども相手にヤキモチをやいたりしています。
 池田 そういった優越感も、また嫉妬も、自分の心の奥に巣食った劣等感の裏返しの場合が多いね。曲がりくねった自我に気がつかないで、虚勢をはっている。いいかえると、虚栄の幻を追っているのです。それが、増上慢の心だ。自己のぬぐいきれない欠点をカムフラージュするための、勝他の念といってもいいでしょう。
 川田 男性でも、ちょっとしたことで逆上する人がいますね。心理学者たちは「爆発性の人」と名づけて、異常性格の一つに数えています。心の中に、ダイナマイトをいだいているようなものです。いつ爆発するか、自分でもわからない(笑い)。まして、他人が予知することなど、とうてい不可能です。しかし、このような人でも、表面から見ると、まことに紳士然としています。教育ママだと淑女然というべきでしょうが――。
 池田 「仁義礼智信」をわきまえているように見えるのだね。ここが、欲望につき動かされる生命の「我」とは、ちょっと違うところだ。他の人々から尊敬の眼差しをあつめ、優越感にひたろうとする利己心のなせる業でしょう。むろん、無意識の行いだろうがね。だが、その生命の内面には、各種の欲望が頭をもたげ、感情の嵐が荒れ狂っているはずです。
 北川 その欲望についてですが、修羅界の欲望というのは、本能的欲求よりも、むしろもっと人間的なものですね。たとえば、自已顕示欲みたいな……。
 池田 生存欲や本能的欲望などは、いちおう満たされ、そのうえに、利己的ながらも自我意識の芽ばえもある。だから勝他の念にかられ、はかない虚栄を追い求める欲望には、攻撃欲とか、自己主張欲とか、自己顕示欲とか、破壊欲などの種類があると思う。また、荒れ狂う感情としては、怒りがあり、憎しみがあり、嫌悪があり、嫉妬の情動があるのではないだろうか。
16  川田 怒りの感情についてですが、地獄界では「瞋り」という言葉が出てきたのですが……。
 池田 修羅界での「怒り」は、利己心から発するものであり、攻撃や破壊の欲望をともなって他の人々や生物などの生を打ち砕いていく。
 地獄界でいう「瞋り」は、いわば情念みたいなもので、自我意識よりももっと深いところに渦巻いている。そして、他の生命に向かうよりも、むしろ、みずからの生命を破滅の嵐に巻きこんでしまう性質をもっている。また、地獄界には、他の生命に攻撃をしかけるだけの生命的エネルギーもなければ、自由もないと思われる。
 北川 つまり、三悪道よりは少しだけ生命力そのものが強いということですね。狂気の生命力にほかなりませんが……。
 ところで、おもしろいのは日寛上人の「三重秘伝抄」にある「修羅は身長八万四千由旬、四大海の水も膝に過ぎず」(六巻抄16㌻)という言葉ですね。
 四大海というのは、古代インドの世界観に出てくる海のことですが、いまでいうと、太平洋とか大西洋みたいな感じですね。その海の中に立っても、修羅の身長がものすごく大きくて、膝ぐらいしか水がこない。まあ、ずいぶん誇張した表現ととれないこともありませんが、これは、修羅界の生命空間をあらわしているのでしょうか。
 たとえば、私たちは、怒ったときとか、慢心しているときには、自分が偉くなったように感じたり、ずいぶん大きくなったように思うものですね。反対に相手は、相対的なことですが、小さくなってしまう。だから、修羅界の生命空間は、ものすごく大きいと……。
 池田 修羅界の生命は、外見だけはまことに立派そうに見えるものです。むろん、その容貌は醜いだろうが、身体だけはすこぶる大きそうだ。これを、生命空間ととれないこともないが、もう少し深く考えてみよう。外見ではなく、その中身を調べてみる必要がありそうだからね。
 そこで、「佐渡御書」には「おごれる者は必ず強敵に値ておそるる心出来するなり例せば修羅しゅらのおごり帝釈たいしゃくめられて無熱池の蓮の中に小身と成て隠れしが如し」と記されています。
 北川 この文のなかに「帝釈」と出ていますが、これは帝釈天のことで「法華経」では、仏法を守護する神として説かれています。いまでいえば、あらゆるものの真実を見ぬくだけの力ある人間、といえると思われます。また「無熱池」というのは、清涼池ともいわれていますが、すべての熱悩を治することのできる池という意味だそうです。
 さて、あれほど巨大に見えた修羅も、帝釈天にせめられると、池に咲いた蓮の中に「小身と成て隠れ」るとあります。すると、修羅の本当の姿は蓮の中に隠れてしまうほど小さいと考えられます。
 池田 結局、外から見た修羅の巨大な姿は幻想であり、幻覚だったのです。修羅界の「我」の真実の生命空間はそんなに大きくはない。だが、勝他を念ずる利己心は、自分の小さい生命空間にがまんがならず、幻想をいだいたのです。むろん、自分でも気がつかなくてね。自己暗示みたいなものでしょう。
 ともすれば、私たちも、その幻想にひっかかってしまう。一種の錯覚だね。また、修羅の生命自体も幻想を描いている事実に気がつかず、慢心を起こし、他者を傷つけ、みずからも不幸におちいっていくのでしょう。
 北川 そうしますと、三悪道と同じく、修羅界も不幸な生命状態といえますね。仏法で地獄から修羅界までを四悪趣という意味がよく理解できそうです。
17  人と天の世界
 川田 「朝は四本足で、昼は二本足で、そして夕方は三本足で歩く動物は何か」という設問は、前にも言葉だけは出てきましたが、有名な「スフインクスの謎」です。でも、この謎は、人間の一生にわたる姿の変化だけはあらわしていますが、人間とは何かという質問の答えにはなっていません。そこで、先人による人間の定義を探したのですが、どうも、ずばりと本質をついた名言は見あたりません。
 思いつくままにあげてみますと、「考える葦」とか、「理性をもった動物」とか、「道具を使う動物」「社会生活を享受する生き物」「遊ぶヒト」(ホモ・ルーデンス)というのもあります。
 それから、学問上の命名によりますと、リンネ(スウェーデンの生物学者。一七〇七年―七八年)という学者が名づけた「ホモ・サピエンス」というのがあります。この「ホモ・サピエンス」とは、日本語に訳しますと、「知恵のあるヒト」で、これは原人や旧人に対して現在の人類を区別して命名したものですね。
 ところが、現実の人間は、どう考えても、「ホモ・サピエンス」ではない、といって真正面から反対したのが、生物学者であり、歴史学者であったシャルル・リシェ(フランス。一八五〇年〜一九二五年)です。彼はノーベル賞の受賞者でもありますが、人間というのは、救いがたいほど愚かであるというので、「ホモ・ストゥルトゥス」すなわち「愚かなヒト」が適当である、と主張しています。たしかに、どれをとってみても、一面の真実をついているような気がしないでもないのですが……。
 北川 現実の人間を定義することは、種々の角度からできるでしょうが、仏法では、人間界、つまり、人間としてのふつうの境涯というか、ひとまず人間らしいといえるような境地を、人界としていますね。そして、その人界をさして、梵語では、「末奴沙」というとあります。「思考する者」という意味だそうです。
 『立正阿毘曇論』第六には、「聡明、勝、意微細、正覚、智慧増上、能別虚実、聖堂正器、聡慧業所生の八義がある故に、人道を説いて摩菟沙まぬしゃと名づく」(大正三十二巻198㌻)とあります。
 いちおう釈してみますと、「人の特性というのは聡明であり、微妙な意識があり、正しく物事を判断し、知慧がすぐれ、虚と実をよく判別し、仏道を成ずる正器であり、過去世からの福運にみちている」となりましょうが、このなかに理性とか、思考とか、知慧などもぜんぶ入っているといってよいでしょう。日蓮大聖人の「平かなるは人」という定義は、これらすべてを含んだうえでの名言と考えられますね。
 池田 「平か」という以上、やはり平静な生命状態をさすと考えられる。三悪道や四悪趣は闘争の世界だし、次に述べる天界も、歓喜の潮が高まっている生命状態で、ともに激しい生命ということができる。
 ところが一日を振り返ってみると、感情の起伏の激しい時間だけではなく、穏やかなひとときというものがある。つね日ごろ激しい環境の変化に振り回されている自己が、ひとときの安らぎを得ている状態がそうですね。
 「人間らしさを取りもどす」というけれども、会社から帰って、くつろいで新聞を広げているとき、家族と談笑しているときなどは、人界という表現がピッタリくるのではないだろうか。
 ところが、この人界という境涯は、環境の変化によって、たちまち三悪道や四悪趣へと引きずりこまれてしまう。平静に自己を省み、社会を見とおし、的確な判断を下していける自分を維持していくことが、必要なのです。逆に、この人界という境涯は、その本質を見ぬき、磨くことによって、昇華させることもできるのです。
 人界が十界のほぼ中央に位置しているというのも、十界のどれにでも変化しうるもっとも基本的な状態だ、と仏法は考えているからではないだろうか。そのように移ろいやすい人界を錬磨し、開発して、強い知恵の輝きをもつ生命へと昇華させるところに、仏法の実践があるといえるのだ、と私はいっておきたいのです。
18  北川 平静な心でもって、人生や社会を映しだし、正しく行動するということは、ある意味では非常にむずかしいことです。本能のおもむくままの生活や、感情の嵐にまかせて怒り狂うことは、ある意味では、容易な道ですね。その結果、苦しみは増大するでしょうが……。
 池田 平静な人間道をつらぬくには、強い理性の光や、深い知恵の洞察力や、善と悪を判断するためのまっすぐな良心とか、あらゆる困難をも乗り越えていく強い意志力、また、新しい生を切り開いていく意欲、人間らしい心情としての愛情などが必須条件でしょうね。
 川田 人間に生まれたのだから、努力しなくても人界をあらわせる、というわけにはいかないのですね。まあ、その素質はもっているのでしょうが。
 池田 その人の生まれとか、生活している環境にもよるだろうけれども、やはり、人間らしい自我を形成するための努力が必要でしょう。理性とか、良心などをそなえた人間的な自我が、本能的な欲求とその他の欲望や、憎悪、嫉妬などといった情動、情念を、聡明にコントロールし、誠実で、責任感にあふれた、包容力豊かな人間生命を現出させるのです。
 川田 たとえていえば、あばれ馬の手綱をとって、懸命にリードしているような状態でしょうか。少しでも力を抜くと、振り落とされてしまう。むろん、その場合、騎手が人間的な自我で、あばれ馬というのが、種々の欲望や感情などをはらんだ心の内奥をさしているのですが――人馬一体という境地には、なかなかいかないものですね。
 池田 また、こうも考えられる。夏になると、青い海にポートを走らせて、すいすいと水上スキーを楽しんでいる若者が多いね。うまい人になると、じつに、楽しそうに海面を走っているが、慣れない初心者だと、すぐにひっくりかえってしまう。若者は人間的自我にたとえられよう。そして、広い大海は、欲望や感情や衝動などの渦巻く生命の海といえると思う。
 川田 そうしますと、海上スキーが転覆して、手足をバタバタさせているのは、苦悩の境涯につきおとされたようなものですね。
 頭だけとびだしているのが、勝他の念にかられた利己心であったりして……。(笑い)
 池田 三悪道や修羅界に転落する危険性をつねにもっているのが、人間的自我だが、一方では、その自我を磨いていけば、ますます理性の光も冴え、判断力や洞察力なども強まり、愛情も深まるという可能性にもめぐまれている。
 仏法で、人間らしい境涯を「聖道正器」といっているのも、人間的自我を磨けば、幸福と平和を満喫できる境涯をあらわしうるという可能性を、見とおしていたからだと考えられる。
 三悪道と修羅界が、戦争や公害などに結びつく境地であるのに対して、人間界は、たしかに平和と繁栄をもたらす自我に立脚しているといえよう。また、その生命の「我」はかなりの自由をもち、主体的な生をも営みうると思われる。
19  北川 人界の住所についてですが、「三重秘伝抄」には「人は大地に依って住し」(六巻抄17㌻)とあります。この大地とは何を意味しているのでしょうか。
 池田 この文は人界の「我」に、さまざまな姿や形があるが、同じく大地という共通の場に住んでいるということを意味していると思う。
 では、肝心の大地とは何をさすのかというと、いうまでもなく、人間の生存の基盤はこの地球の大地である、ということ。これはごく常識的な解釈ですが、もう少し思想的に掘り下げていうと、大地とは人間的自我のよって立つ生存の基盤であると解釈しておきたい。
 このことをわかりやすく説明すると、たとえば、私たちが人間として生きていくには、いままで話しあってきたように、生存欲とか、本能とか、その他の欲望を満たすことも必要だが、それだけでは十分ではない。やはり、人間らしい生活というと、親子とか、夫婦の間の愛情とか、また隣人への信頼心も必要だし、自分なりの信じる対象ももっていないと安心しきれないだろう。
 さらに、社会の約束事というか、人間としての物の考え方、ルールといったものがある。それにもとづいて人生を送っているから、ある程度、欲望もコントロールしていけるのです。つまり、人間的な自我は、その社会に伝えられた一定の価値観に立って、生きる目標を定め、着実な人生道を歩もうとしているように思われる。そうすると、その人なりの生きがいだってもっているし、生きることへの意味とか、価値判断の基準とか、使命感なども定まっているだろう。
 まあ、こういった信念や価値観、さらにいえば、人生観や世界観などもひっくるめて、私は生存の基盤といっておきたい。その生存の基盤が、曲がりなりにも固まっているから、人は苦難に耐えて生きていけるのだし、安心感を味わうこともできるのだね。
 川田 大地に足をつけた人生ですね。
 池田 その生存の基盤に住してこそ、人界という境涯をたもっていける。こういった意味あいから、人は大地に住すといわれたのだと思う。むろん、個人によって人生観も世界観も、人生の目的も、また価値の基準だって大きな差を見せるにちがいない。価値の多様化が叫ばれている、このごろだからね。だが、人界の「我」が、このような生存の根拠というか、基盤をもっているという点においては共通です。
 したがって人間的な自我は、このような大地に立脚して、ひとまず安心した人生を送っているのだから、生命の流れもスムーズで、平静にして着実な生命的時間をも刻みうると考えられる。
20  川田 私たちの身体にしても、障害が、ある一定の水準にまで達しないと、意識を刺激することもありません。胃腸でも、他の臓器でもそうですが、痛みや重苦しい感じは危険信号と考えられます。体温だって、ふだんは意識しませんからね。
 また、精神面でも、衝動や欲求がある程度うっ積するまでは、気分をめいらせたり、感情の波をたたせることはありません。人界では、これらの生命的エネルギーのコントロールが、ある程度うまくいっているのですね。少しぐらいの不満や欲求のうっ積はあったとしても――。
 北川 ところが、次の天界ですね。この境涯になると、こんどは生命全体が、ぐんと軽くなったように感じられます。足どりも軽くとか、天にも昇るような気分などと表現されます。
 それは、意識ではなくて、意識のもっと奥の生の基底が、さわやかで、晴ればれとした気分に覆われてしまうような感じですね。
 感情からいうと、情動とか、情念とか、また心情などの、もう一つ底にある生命自体の実感、つまり生命感情とでもいわれるところが、揺り動かされるのではないかと思われます。
 池田 日蓮大聖人は、「観心本尊抄」で、「喜ぶは天」といわれていますが、この喜ぶという言葉には、さわやかさ、晴れ晴れとした感じ、浮き浮きとした感じ、満足感などが含まれていると思う。いわば生命の感情であるといってもいいでしょう。
 北川 「三重秘伝抄」には、天界を立て分けて、「天は即ち欲界の六天と色界の十八天と無色界の四天となり」(六巻抄16㌻)とあります。これは、人間的自我の感じる喜びという生命感情にも段階があるということでしょうか。
 池田 いうまでもなく、欲界とは欲望の世界です。色界とは物質、肉体の世界であり、無色界は精神の領域をさしていると考えられる。これらの世界のもたらす喜びには、とうぜん、質的にいっても、あきらかな差異が認められるでしょう。
 川田 欲界ということに関してですが、仏法では、地獄界から人界までと、天界の一部を欲界としていますね。これには、どのような意味があるのでしょうか。
 池田 欲界とは、欲望とか衝動を中心に繰り広げられる領域のことだね。これらの境涯を特徴づける生命感に密着するのは、すべて欲望のエネルギーだと思う。
 地獄、餓鬼、畜生、修羅などの境地にはすべて、生存欲とか本能的欲望、心情に関する欲求、社会的、物質的な欲求などが関係し、しかも、そのような境涯にある生命内容の中心をなしている。修羅界では、自我意識が顔を出し、人界では人間的自我が登場するが、しかし、生の基底には、なお、さまざまな欲望が渦巻いている。天界は、これら各種の欲望が満足された状態だと考えられる。
21  北川 そうしますと、天界のなかの欲界の喜びというのは、たとえば、おいしいものが食べられた場合などの感覚ですね。
 池田 それと、本能的欲望だけではなく、支配欲、名誉欲、所有欲などが満たされたときも、天界の喜びをもたらすといえよう。これらが、欲界での喜びだね。
 次に、色界の喜びだが、これは肉体活動に関する喜びだと思う。つまり、肉体の織りなす生のリズムがじつに快調で、生命の力がみなぎっているときの生命感だね。
 この喜びは、欲望が充足した場合の生命感情よりもいちだんと深いようです。健康で、生きいきした肉体の営みは、生の奥からわきあがる身体流が旺盛であることを示している。身体の流れは、環境とよく適合しながら、その流れをさえぎられることもなく、たくましい生命をたえず創造していく。その創造の働きが、人間的自我に深い喜びを与えるのでしよう。
 北川 すると、無色界の喜びというのは、精神流の営みにともなう実感でしょうか。
 池田 精神流といってもいいし、心的エネルギーの流れともいえます。無色界の喜びには、その深さとか質とかは別にして、いちおう生命充実の喜びとか自由拡大の喜びとか、自己実現と創造の喜びなどが入るのだろうね。
 川田 欲界や色界での喜びもそうですが、とくに無色界では、生命は非常に充実していますね。
 池田 四悪趣や人界などとくらべると、生命はたしかに充実している。その証拠に、経文では、天界の一日は、人界での何百年、また、それ以上にも相当すると説いている。また、天界の寿命は非常に長いと記されている。
 北川 たとえば、四天王は、人の五十歳を一昼夜として、五百歳の寿命をもち、忉利天は人の百歳を一昼夜として一千歳にもおよぶとあります。他化自在天あたりになるともっと長いですね。これを物理的時間だとすると、ちょっと常識では考えられません。
 池田 生命的時間を使っての表現だ、と考えるとよくわかる。天界での生命流の速度は速く、また、積極的に外界へと働きかけていくでしょう。そのとき、生命の「我」は、物理的時間が、飛ぶように過ぎ去っていくように感じるものだ。
 つまり、楽しいとき、生命が充実しているときには、同じ物理的時間であっても、そのなかに多くの生命的時間の単位を含んでいるからです。だから、天界の一日における生命の充実度は、人界での数百年にも相当するといえるのだと思う。
22  川田 生命が充実するから、寿命も延びるのですね。この寿命もとうぜん、生命的時間で測定したものだと考えられますが――。
 池田 たとえば、先ほども述べたように、人界では、生命の時間感覚は、物理的時間の速度に、ほぼ一致している。人界の平静な生命は、地球の一回転をほば、そのまま一日と感じることができる。それより、速くもなければ、遅くもない。ところが、天界の「我」は、物理的時間が瞬時に去っていくように感じるのだね。だがその間の出来事を思い返してみると、ずっと長い時間生きてきたように感じられる。
 これが、時間のもつパラドックス(逆説)とでもいえようが、どうしてこういうことが起きるかといえば、それは、生命の発動力と能動性が高まっているからです。そこで、具体的に考えると、天界での一日の生命体験には、人界における数百年にもあたる内容が含まれている。したがって、天界の「我」の寿命も、物理的時間では百歳ぐらいでも、生命的時間で測ると、千歳にも一万歳にもなりうると考えられる。
 川田 最後に、天界の住所についてですが、「三重秘伝抄」には「天は宮殿に依って住し」(六巻抄16㌻)とあります。天界が「官殿」に住するというのは、めぐまれた環境にあるということをあらわしているのでしょうか。
 池田 生命論からいうと、人間的自我の営みに、もっとも良好な環境を与えられている事実をさしているのではなかろうか。「依正不二」の原理からすると、生命流の流出をいささかもさまたげることのない環境、依報を「宮殿」という。そのなかで、人間の生は、あらゆる欲望を満足させ、理性と良心と愛情に満ちたりた営みを享受することができよう。
 しかし、依報としての天界の「官殿」は、たやすく崩れ去ってしまいがちである。同時に天界の「我」は、三悪道や修羅界へと転落していくでしょう。天界は「五衰をうく」といわれるとおりだと思う。
 こうして考えてくると、天界という境涯は、人間の生にとって、まことに望ましい境地のように思われるであろうが、天界の「我」を支える「宮殿」にしても永久の実在ではない。では、なぜ「宮殿」は夢のごとく消え去り、自我の苦しみが始まるのか、といった点の深い思索から、人と天の世界を超えた、新しい境涯の確立への道が開けるのだと思う。
 仏法では、そのような境涯を、天界までの世界、つまり六道と区別する意味で、四聖と定義しているのだが、今回は、このあたりでいちおう話を打ち切っておこう。

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