Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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宇宙の源流  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

前後
1  宇宙はどういう姿をしているか
 北川 前章では、過去、現在、未来という時間的な流れについて、少しく考察を加えてみたわけですが、こんどは、われわれを取り巻いている「空間」について取り上げてみたいと思います。
 空間は、とくにわれわれの住んでいる世界そのものであるところから、過去や未来といった茫漠としたものでなく、たしかな「手応え」といったものがある。いわば「触れる」ことができる対象と関連づけられやすい。そのため、空間の性質は幾何学等の発達に見られるように、比較的早くから探られてきたように思います。
 「宇宙」は、われわれを取り巻く「空間」の極大の像であるといえるでしょうが、これについても、人類は古くから手探りしながら、その真実相を見きわめようとしてきた。どんな民族でも、独自の宇宙像を描いており、それが、それぞれの民族の生き方、哲学の一部を形成してきました。
 人間が、地上からほんの十メートルさえ跳びあがることもできなかった時代から、宇宙という未知の世界に深い関心が寄せられ、天文学という一つの分野を築いてきました。とくに近代においては、望遠鏡やロケットの開発によって、宇宙のベールが少しずつはがされて、その姿が徐々にわかってきた。アポロによる月旅行は、その力強い第一歩であったともいえます。
 天動説と地動説の対立に見られるように、地球が宇宙の真ん中にすわっている、というような宇宙観も、長い間、支配的であったわけですが、途中でどんどん淘汰されていった。このようにして、現在では、二大宇宙論が残っています。
 池田 進化宇宙論と定常宇宙論だね。
 北川 そうです。もちろん、分け方によっては、進化宇宙論は、爆発説と振動説に分けられますが、本質的には宇宙を「進化」という観点でとらえるか、「定常」状態としてとらえるか、の二つの立場と考えてよいと思います。
 川田 宇宙論で、なんといっても、一番の大きな転換点は、地球が動いているということを発見したことですね。コペルニクス(ポーフンドの天文学者。一四七三年〜一五四三年)が地動説を打ち出し、ガリレオ(イタリアの物理学者、天文学者。一五六四年〜一六四二年)がそれを確定づけたわけですけれども、それまでは、地球が宇宙の中心的存在というか、不動のものであるとして、だれも疑わなかった。
 ところが、地球こそ太陽の周りをまわるものであり、その太陽も、中天に輝くたくさんの星々と、なんら変わることのない恒星の一つであること、さらに、太陽系自体が銀河系宇宙では、ごく端っこにあること、銀河系それ自体も、大宇宙に点在する多くの島宇宙の一つであること、などがわかってきたわけです。その知識への出発がコペルニクスであった。
 いまでは、なにか革命的な発見や転換が行われると、″コペルニクス的転回″と表現されるほど、この発見は画期的なものだったわけですが、それと匹敵する大きな発見が近代天文学史上で行われた。それが膨張宇宙論ですね。この発見が二大宇宙説の源流となっています。
 アインシュタインでさえも、ずっと、宇宙は静的なものとして考えてきた。ところが、ハップル(アメリカの天文学者。一八八九年〜一九五三年)がスペクトルの赤方偏移を発見して、宇宙像はまったく変わってしまったわけです。ハップルの発見したことを、かんたんにいいますと、星がぐんぐん遠ざかっているときは、その星から出る光の波長が長くなるのですね。ということは、色が赤くなる。そして、この波長のずれは、ちょうど、星が遠ざかっていく速度に比例している。ハップルの法則というのは、まあ、こういったことでしょうか。
 北川 そうですね。遠くの恒星ほど、その光が赤いほうへずれていることが観察されたわけです。つまり、波長が長くなっているわけですが、これは、たった一つの説明しか、現在ではできない。それはドップラー効果です。
 たとえば、電車と電車がすれ違うと、警笛が高い音から低音に変わっていく。これは両者が遠ざかるときには、音の波長が長くなって聞こえるからで、これと同じように「星がこの地球から見て遠ざかりつつある」と考えるしかない……。
 川田 静かで悠久なものだと思っていた宇宙だが、おたがいに恐ろしい速度で離れつつある、いいかえれば「膨張している」というわけです。そこで二つの考えが生まれた。
 一つは、それだけ離れつつあるというのは、それをさかのぼって考えれば、むかし、ある時期には、全宇宙は、ほとんど一点に集まっていて、そこから急に爆発したのだろうという説。そしてもう一つは、宇宙のあらゆる場所で一定の割合で、物質――つまり水素――が創造されていて、宇宙の膨張と相殺しており、宇宙は定常状態をたもっているという説です。
 池田 爆発説によると、宇宙は、だいたい三百億年ぐらい前に、急に爆発を始めたことになりますね。そうすると、どうしても、三百億年前という時点に特異点を認めなければならなくなる。そこで急に爆発を起こして、現在ある各種の元素など根本的なものは、最初の三十分ぐらいで、できてしまったということになる。
 では、その前は、となると、それはもう、物理学の手に負えないということになっていますね。非常に不思議なことだけれども、それを認めるしかないというのが、爆発説のようです。
2  北川 そこで、振動説という説明が出てくる……。
 池田 そう。現在ある膨張が、だんだん速度をゆるめて、端のほうで収縮を始め、やがて、ふたたび全宇宙は収縮する。そして、また膨張するというように、宇宙は一種の脈動を繰り返しているという説だね。これも現在、収縮が始まっている兆候が見られないという点が問題になる。
 川田 定常宇宙論では、物質が創造されるということが、いまの物理学の常識を超えたものとして受けいれられていませんね。
 池田 この定常宇宙論というのはおもしろい発想です。かぎりなき創造によって、泉のごとく、つねに波紋は外に広がっているが、全体として見れば、つねに同じ状態をたもっているという考えは、宇宙の無始無終への願望みたいなものを感じますね。
 しかし、この定常宇宙論をはじめ、進化宇宙論のいずれも、決め手となるものをもっていない。一時、定常宇宙論が誤りであるという観測事実が示されたこともあるが、それも決定的でないともいわれている。したがって、どれが正しく、どれが誤っているというのは、現在では決められない状況です。
 現在の観測手段では、まだまだ、遠い空間のことはわからない。また、わかったとしても、三百億光年ぐらいになると、星がほとんど光速で遠ぎかっているとなれば調べようがありません。
 したがって、物理学的宇宙というのは、直径二百億光年の球、時間的には三百億年前までのものをいうともいえるね。この数字は、途方もなく大きいにはちがいないが、あくまで有限です。いかなる宇宙論にせよ、この範疇を出ることはない。それ以上のことは、想像する以外にないわけです。
 たとえば、以前にもいったことがあるが、現在、膨張しつつある宇宙というのも、さらに大きな単位の宇宙の一つかもしれないわけです。そこでは、どんどん収縮しているかもしれない。また反物質ばかりでできている宇宙も別にあるかもしれない。ともあれ、境界というものは、どこまでいってもない、といわなければならないでしょう。
 北川 仏法では、そうした無限性を暗示していますね。
 池田 そうです。たとえば、三千大千世界という考え方がある。これを述べると長くなるが、日、月、四州、六欲梵天をもって、一世界、あるいは、一小世界とし、それが、千個あるいは一千万個集まって一小千世界、そのまた千個の集合体が中千世界、さらにこの中千世界が千個集まって大千世界(三千大千世界)となる。
 これを現代の宇宙についての常識で考えると、一世界は一つの恒星を中心とした世界と考えてよい。そうすると、小千世界は銀河系のような島宇宙、中千世界ともなれば、星雲団として考えなければならない。となれば、大千世界は現在知られている大宇宙全体の規模で考えることが必要となる。「法華経」の「寿量品」にいたっては、五百千万億那由佗阿僧祗の三千大千世界と説いている。これは宇宙の無限を、可能性として認めていることです。
 しかも、この三千大千世界の考え方というのは、宇宙が無秩序な空間であることを否定しているところに特色があるといえる。一つの世界は、さらに大きな世界の構成員となり、それはまた、より大きな世界を形づくっていくという、一種の「階層性」を示しているわけです。
 惑星が太陽系を構成し、恒星の集まりが島宇宙、そして星雲団、大宇宙へという現在の宇宙観と、仏法の発想は、まったく同じだといってよい。
 何千年も前に説かれた経典だから、科学的知識それ自体は古めかしいとしても、宇宙をとらえる直観的な洞察力は卓抜しているといえるのではないだろうか。
3  川田 それに、先ほど述べたように、かつては地球を宇宙の中心と考えていたけれども、それがどんどん打ち破られてきた。そして大宇宙という規模で考えれば、地球は、その片隅にあるちっぽけな星であることがわかってきたわけですが、仏法においては、十方の仏土観というものを説いているわけですね。仏土というのは、生命論からすると、私たちのような知的生物が存在する世界といえましょうか。むろん、形とか、物理的・化学的な構造などは、私たちと異なるかもしれませんが……。
 十方というのは、四方八方と上と下ですね。つまり、三次元的な全方向をさすわけですから、宇宙的規模において、仏土を考えていたことになる。「仁王経」という経文には「大王吾が今化する所の百億の須弥・百億の日月、一一の須弥に四天下有り」(大正八巻832㌻)とありますが、どの世界においても四天下を考えていたということになると、その宇宙観の雄大さには目をみはるものがあります。
 池田 そうですね。宇宙というものが、途方もなく広大な空間でありながら、微細な塵埃にいたるまで、みごとな秩序をもって構成されている。しかも、それぞれが、成住壊空、生住異滅の変転を繰り返しながら、全体としての大宇宙は、無限の広がりをもって脈動している。こうした実相を見とおした仏法の宇宙観には、現代人のわれわれも剖目すべきものがあるといえるのではないだろうか。
 北川 星というのは、だれでも虚空に浮かんで不滅の光を放つ存在だ、といちおうは考えます。しかし、一瞬一瞬、激しい変容を繰り返しながら、星が誕生し、成長し、安定し、そして老いて崩壊へとその一生をたどる。こうした成→住→壊→空の″法″を、どの存在もまぬかれることはできません。
 現在、地球は安定した″住″の期間、すなわち、壮年期にあることは、だれしも認めるところですが、将来、太陽がいまの安定した状態から崩壊期に移るとともに、それに呑みこまれて破滅するであろうことも、同じく疑いありません。星よりさらに大きな星雲にあっても、そうした変化を繰り返している。仏法は、こうしたさまざまな変化をあらわしている″法″を考え、それが大宇宙に厳然として常住していると考えるわけですね。
 池田 仏教が他の宗教といちじるしく違う点は、こうした覚めた法の眼で如実知見、つまり、ありのままに見ようとしたところにある。仏でさえも、その法を知った″覚者″としてとらえられている。その点、自身がそのまま法として君臨する″絶対神″の思想とは根本的に違うところだね。それがそのまま宇宙論にもあてはまるということでしょう。
 この成住壊空の考え方は、一見すると、日蓮大聖人の「観心本尊抄」の「三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり」という文と矛盾しているように見える。しかし、ここでいわれている意味は、「妙法」という法は、三災とか四劫というような現象の変化を超えて常住していくということでしよう。
 三災というのは、仏法では、水災、火災、風災といって、成住壊空の流転のなかで、壊劫という時代の終わりに起きるとされている。つまり、大地も、海も、大空も、すべてが壊れ、焼けただれ、破壊されてしまうことだね。
 また、四劫とは、成劫、住劫、壊劫、空劫の四つの劫をさす。つまり、成住壊空だね。一切の世界、どんな星も、この二災、四劫という変化をまぬかれることはありえない。われわれも地球に住んでいて、いつまでも繁栄しつづけるというわけにはいかない。″壊″の時代がくることはとうぜんです。
 しかし、「妙法」という法は、地球が、どう変化しようが、常住であり、それは宇宙のいたるところで輝きを放っているはずだ、と私は思うのです。
 川田 これは仮定の話ですけれども、もし、他の天体に高等生物がいたとして、われわれとどの部分が一致するか。数学や物理学、化学などの自然科学が共通し、政治、経済、芸術等の人文、社会科学は共通しえないのではないかというのが通論ですが、私は、生命の普遍的尊厳を中心とした哲学の分野に関しては、共通しうる面があるのではないかと考えているのですが……。
 池田 おもしろい意見だね。仏法が世界的、宇宙的普遍性をもった哲学であるというのはたしかです。また、そうでなければならないというのが、われわれの確信であり、だからこそ、この仏法の理念に生きる私たちは、地球上から低次元の抗争を止揚し、克服して、恒久平和の社会を築きあげねばならないのです。
4  生命空間について
 北川 パスカル(フランスの科学者、哲学者。一六二三年〜六二年)の『パンセ』といえば、だれでも、すぐにあげるのは「考える葦」の一句ですが、この名言の前後に記された内容については、案外、知られていないようです。この言葉は、『パンセ』の三四七と三四八に出ているわけですが、ちょっと、その前後を読みあげてみます。まず、三四七を取り上げますと――
 「人間は一茎の葦にすぎない。自然のうちでもっとも弱いものである。だが、それは考える葦である。かれをおしつぶすには、全宇宙が武装するにはおよばない。ひと吹きの蒸気、ひとしずくの水が、かれを殺すのに十分である。しかし、宇宙がかれをおしつぶしても、人間はかれを殺すものよりもいっそう高貴であろう(以下略)」
 また、三四八には次のようにあります。
 「考える葦。――わたしが自分の尊厳を求めるベきは、空間からではない。自分の思考を規制することからである。わたしたちはいくつの領土を所有しても、自分以上のものにはなりえないであろう。空間によって宇宙はわたしをつつみ、一点のようにわたしをのみこむ。思考によってわたしは宇宙をつつむ」(由木康訳『イデー選書 パスカル・パンセ』所収、白水社)
 たしかに、パスカルがいうように、自然の中での人間の身体は、きわめて脆い、弱い存在ですし、また、無限の宇宙からすれば、それこそ、一つの点にもおよばないと思われますね。
 川田 パスカルが″一滴の水″といっているのは、ちょっと、オーバーな表現のようですが、でも考えてみると、血清のかわりに、間違えて蒸留水を注射して死亡したなどという医療事故もあります。まして、青酸カリなどの劇薬を含んだ水ならば、文字どおり、一滴で、死にいたってしまうでしょう。
 池田 まあ、宇宙の中での人間の身体は、それほど微々たる存在だということだね。だが、このように、身体としては、弱くて微小な人間が、思考によっては宇宙をも包みこむと、パスカルは断言している。味わい深くて、しかも、重要な意味をこめたところだと思う。
 川田 その、人間身体の占める空間という点については、いわゆる皮膚で囲まれた領域が身体の占める空間になるわけですが、生命に焦点をあてる以上、考え直さなければならないのではないかと思うのです。
 つまり、生物が生きていくには、自分の体の周りに、ある程度の空間を必要とするのですね。人類学者エドワード・ホールの言葉を借りれば、「自己というものの境界は、体の外にまで広がっている」(『かくれた次元』日高敏隆・佐藤信行訳、みすず書房)と推測されます。
 池田 私も同意見だね。人と話をする場合でも、やはり、一定の距離をおいているし、物を見るときにも、あまり近づきすぎては目が疲れてしまう。また、物の全体を見ることもできない。目、耳、皮膚などの五官自体、ある距離をおくことを前提にしている。身体の必要とする空間を、生物学的にいうと、目、耳、鼻、皮膚などの五官の働く範囲といちおうは考えられるね。
5  川田 ホールは、これを視覚空間とか、聴覚空間と呼んでいます。視覚空間というのは、目でうまく見える範囲ですね。聴覚空間とは、いちおう、その人の耳で聞こえる広がりといえましょう。人間の場合は、他の感覚器官よりも、目の働きがずっとすぐれています。だから、私たちはほとんどといってよいほど、視覚空間に頼っているともいえますね。犬だと嗅覚空間が頼りですね。
 池田 むろん、各感覚器官によって、その広さは違うだろうね。
 川田 広さの順からいくと、人間では、視覚空間はもっとも広く、その次が聴覚です。皮膚や鼻などのおよぶ範囲はずっと狭くなります。
 北川 いまのは、五官にとらえられる空間ということですが、私たちが生活していくうえで、その生活していること自体に密着した空間というものがありますね。たとえば、家庭とかオフイスとか……。これらの空間については、どう考えればよいのでしょうか。
 池田 うん。五官と深い関係があるけれども、生活に直結した意味をもった空間だね。これは、生活空間というべきものだろう。
 川田 このように考えますと、私たちの生命の占める空間というのは、身体がたんに物理的に占める空間より、ずいぶん拡大されますね。
 池田 身体を、発動力も能動性もない、ただの物体と仮定すれば、皮膚に囲まれた部分が、身体空間となろうが、生命は躍動し、活動しているがゆえに、それはかならず広がりをもっている。
 北川 そうすると、たとえば、星や石などの無生物の占める空間は「物理空間」ですね。
 池田 そうだね。各生命的存在のあり方にしたがって、一口に空間といっても、分別して論理を進めていかなければならないのではないかと思う。
 無生物には、物理的にあらわされる境界がある。しかし、人間をはじめとする生物には、物理空間を包みつつも、その境界を超えた「生命空間」というものを、どうしても考えなければならない。
 とくに人間生命においては、身体に直接関係する空間だけでなく、それをはるかに凌駕した心の領域が存在する。つまり、人間精神の自由な躍動が生みだす世界であり、心の世界と呼んでもいいでしょう。これは、生命の広がりのなかに含まれる空間であり、これらの空間が、また生命を支え、その内容を豊かにしている。
 北川 そうすると、パスカルが、人間尊厳の根拠とした「考えること」も、そうした精神的な空間のなかに入りますね。
 池田 とうぜんですね。人は、それぞれの行動空間をもつとともに、千差万別の心の世界を築きあげている。
 思いつくままにあげてみても、仕事や学問や趣味などによって、つちかわれる世界もあれば、人と人とのふれあいが、かもしだす心の場もある。歓談やスポーツによって、かもしだされる友情の世界もあれば、自然美との間にはぐくまれる美の領域もある。また、哲学の思索や詩への情熱や宗教心の育てあげた信念の世界もあろう。
 川田 多くの人のなかには、権力への欲望や名誉心や嫉妬心の荒れ狂う、すさんだ空間をたもっている者がいますね。
 池田 人の顔が、十人十色の多様さを示すように、精神的な空間の内容や広さも、人それぞれだね。だが、注目しておきたいことは、各人の精神的な空間は、その人の自我を反映したものであるということだ。その意味で、これは、その人なりに統一された世界をつくっているわけだが、精神分裂症の人などの場合は、この統一性は失われてしまう。
 さて、この精神空間が自我を中心にしっかりと統合されている場合は、生命空間は、生命そのものの内容を充実させつつ、自由闊達に外部の世界へと働きかけていく。つまり、生命空間は、ぐんぐんと拡充され、行動力も思考力も増し、その人の個性も豊かになっていくにちがいない。
6  川田 そういう生命状態にあっては、生命流も速くなるというわけですね。
 池田 そう。そのとき、つまり、生命空間がぐんぐんと広がっていくときは、生命の「我」は、光に照らされた空間のなかで、存在の根底からわきあがる歓喜にうちふるえ、生存へのたしかな意味と充実感をかみしめながら、自己完成への道を、足どりも軽く飛ぶように歩んでいくものだ。
 生命空間は、未来へと開けた光明に満ち、その拡大の流れは、隣人の心をうるおし、家族の愛をもりたて、社会との融和をなしとげつつ、やがては、人類への愛となり、生物への慈しみの心となって、大宇宙までも包みこんでしまうであろう。
 北川 生命に力がみなぎるときというのは、たしかに、身も心も軽やかですね。だからといって、体重が軽くなっているわけではありませんが(笑い)。食欲が出すぎて、かえって重くなっているかもしれない。(笑い)
 池田 生命に力がみなぎっているときは、体のすみずみまでエネルギーがあふれ、身体の重みというものを感じさせないのだろう。色心不二なるがゆえに、心の中の変化は、身体のうえに微妙にあらわれるわけだ。苦しみと悲しみのどん底にあるときは、生命力も衰え、色心ともに、たいへんな重量感をもつものです。
7  「久遠」と「久遠即末法」の原理
 北川 ニュートンが、リンゴが落ちるのを見て、万有引力の法則を発見したという話は、真偽のほどは別として、小学校の高学年あたりになると、みな知っている話です。ところが、リンゴが落ちるのは、地球の周りの空間がゆがんでいるからである、という表現もできるんですね。科学者は概して、ふつうの人では思いつきもしないような発想をするものです。
 地球という大きな物体の周りの空間は、大きくゆがんでいる。そのゆがみから、リンゴを動かす力が生まれるというんです。どちらでもよさそうですが、じつは、リンゴの落下をどう考えるかによって、大宇宙の性質まで違ってくるのですから、これは科学の世界では大問題なんですね。
 川田 空間のゆがみを見つけたのは、アインシュタインでしたね。有名な一般相対性原理に説かれています。
 北川 そうです。アインシュタインは、地球の周りの空間はゆがんでいるという。また、地球より巨大な太陽の周りの空間は、さらに大きくゆがんでいるという。そのような「空間のゆがみ」を「重力場」というのですが、本当に空間がゆがんでいるかどうかは、実証を示さないと、人は信用しない。
 川田 それはそうでしょう。空間がゆがんでいるから、リンゴが落ちるなんて、常識人(?)には考えられないことです。いまでは、それが、科学の常識とされていますが……。
 北川 大きく分けて、二つの実証が示されました。そのうちの一つを述べてみます。これも、常識ある人――ちょっと古い常識ですが――は、否定するかもしれませんが、空間がゆがんでいるところでは、そのゆがみに沿って、光が曲がるのです。光は、どこでも、まっすぐ進む、なんていうのは十九世紀までの常識です。ところで、空間がゆがんでいると、光線も曲がる。とすると、光が太陽の周囲で、ちょうど野球のボールにカープをかけたように、ぐ―んと曲がることを証明すれば、太陽の周りの空間は、ゆがんでいることになります。
 一九一九年のこと、イギリスの天文学者アーサー・スタンレイ・エデイントン(一八八二年〜一九四四年)が、太陽の皆既食を利用して、遠い星からの光が、曲げられている事実を証明したのです。ごくかんたんにいうと、地球から見て、太陽の後ろに隠れて見えないはずの星が、ちゃんと見えるんですね。
 つまり、星の光が、太陽の周りの空間にゆがめられて、カーブをえがいて地球に到着したというわけです。
 池田 大宇宙には、数えきれないほどの星がきらめいているが、その周りの空間は種々にゆがんでいるとすると、宇宙空間はいたるところで、ゆがんだり、ひずんだりしていることになるね。しかも、星の動きにつれて、空間のゆがみも、絶え間なく変化していく。宇宙は、生物の体のように動き、変転していることになるね。
 川田 そうした空間のゆがみが、目で見えるとしたら、まるで、アメーバや原生動物みたいに映るでしょうね。
 北川 ところで、空間がゆがむと、物理的、自然的な時間の歩みまで変わってきます。たとえば、地球の周りの空間のゆがみよりも、太陽の周囲の空間のゆがみのほうが大きいから、地球上での時間の歩みよりも、太陽のうえでの時間の経過は遅くなるのです。具体的にいうと、太陽上の一秒間は、地球での一・○○○○〇二秒に相当します。太陽よりも、さらに大きな星や、密度の高い星では、時間の遅れもひどくなると考えられます。
 川田 最近、よく耳にするのですが、″ブラック・ホール″というのがあります。この″ブラック・ホール″では、その周囲の空間は、きわめて大きくゆがみ、そこを通る光は、すべて星のなかに落ちこんでしまって、出てこないんです。おそらく、時間も現実には、ほとんど経過しないと考えられます。
 北川 そうすると、たとえば、地球で千年ぐらいたったとすると、太陽上では、千年には達していない。そして″ブラック・ホール″では、一日ぐらいか、あるいはもっと少なくて、時間の経過は、ほとんど″0″に近いかもしれないわけですね。
 逆に、地球上での千年が、他の場所では、もう一億年ぐらい経過しているかもしれない。厳密にいうと、大宇宙での、場所によって、時間の経過もすべて違ってくるということになるわけですね。
 池田 アインシュタインの相対性原理によって、私たちの時間や空間に対する考え方が、根底からくつがえった、といっても過言ではなさそうだね。ともすれば、私たちは、かつて、ニュートンが「絶対空間」「絶対時間」という言葉で表現したように、この宇宙というのは、どこへいっても同じような宇宙空間が広がり、また同じような時間の歩みがつづいていると考えがちだが、アインシュタインの明かしたところによると、この大宇宙のなかで、空間は種々にゆがんでいるし、時間の歩みも場所によって、かぎりないほど多彩に変化していくということになる。
 つまり、星や物体の動きがあるから、空間がゆがみ、時間の歩みが生じる。物体があって、時間・空間があるともいえるし、物体と時間・空間は切りはなせないんだよ。
8  北川 これは、特殊相対性原理にくわしく説かれているものですが、先ほどからの例でいくと、空間のゆがみが、時間の経過を遅らせています。つまり、時間と空間は、たがいに影響しあい、融合しあっているといえましょう。それを物理学では″時空融合体″と表現しています。
 池田 その時空融合体と、星という一個の実体も、たがいに密接な関係にある。いや、時間と空間と、太陽、地球を含めた大宇宙の星とは、これらの三者が融合し、一体となって、宇宙の変転を織りなしているといったほうが、より正確かもしれない。
 北川 いま、想い出したのですが、李白の漢詩に「夫レ天地者、万物之逆旅ニシテ、光陰者、百代之過客ナリ」というのがありますね。どうして、漢詩が出てきたかと思われるかもしれませんが、この句が、湯川博士の″素領域″理論を生みだす重要な役割をしているからです。
 アインシュタインは、宇宙や星などの巨大な物体と時空との関係を証明したのですが、極微の世界での素粒子と時間・空間の関わりあいについては、論及していない。それを解明しようとしたのが、湯川博士ですが、その重要なヒントを漢詩に見いだしたところが、おもしろいですね。
 池田 哲人だね。
 北川 この句のどういうところがヒントになったかといいますと、逆旅は宿屋、現代的にいえば、ホテルのことです。その宿屋に入りかわり立ちかわり、旅人が泊まり、去っていく。宿屋があるから、旅人が泊まるともいえるし、旅人がいるから宿屋ができるともいえる。
 これを微粒子の世界でいえば、旅人は素粒子ですね。詩のなかでは万物です。宿屋は天地、つまり、空間です。空間というものは、素粒子という旅人が泊まる宿屋だと考えられます。そこを、光陰つまり時間が、過客として通り過ぎていく。湯川博士は″逆旅の思想″といっています。
 池田 科学者の英知と、詩人の洞察がまったく一致したのだろうね。物質の究極においても、素粒子という物質と時間・空間は融合しているというのだね。それにしても、旅人とホテルの話は、みごとな譬喩だと思う。
 川田 ここで、ちょっと確認しておきたいのですが、アインシュタインの追究した時間と空間は、私たちがいままで論じてきた概念からいうと、あくまで、物理的時間と、物理的空間を意味しているわけです。相対性原理は、物理的時間と物理的空間と星などの物体が、たがいに融けあい、統合されつつ、宇宙現象をかもしだしている原理を解明している、と結論できますね。極微の世界でも、同じことがいえます。
 池田 そのとおりだね。
 川田 ところで、私たちは、「物理的時空」にひたされ、それらと共鳴しながらも、「生命的時空」に生きている。私たちの生命が織りなしているのは生命的時間であり、私たちの生存する空間は生命空間です。しかも、生命的時間とは生命流が刻んでいるものであり、生命空間は、生命流が包含しているものです。
 池田 つまり、私たちの生命自体と、生命的時空は、決して切りはなして考えることはできないということだね。生命の活動があり、流れがあるゆえに生命的時空が生まれるのであり、こんどは、生命的時空が、生命体そのものに重大な影響を与えていく。ちょうど逆旅の思想と同じようにね。
9  北川 そこで、前に、私たちは、生命的時間の立ちあらわれる源を求めて、私たち自身の生命流を生の内奥へと追究していきました。そして、生命流の源は、大宇宙の変転をも包みこんでいる事実を知りました。空間においても、同じようなことがいえるのでしょうか。
 池田 時間と空間が一体となり、融合体を形成している以上、人間の生命流の根底においては、生命的空間と生命的時間も、たがいに融けあい、渦巻いていると考えるのが妥当だろう。もっと端的に表現すれば、私たちの占める生命空間は、生命流の根源に近づけば近づくほど、かぎりなく拡大し、人類全体を含み、あらゆる生き物をのみこみ、地球や星の占める物理空間をも包含し、無限の宇宙とさえ合一するのです。
 そこでは、もはや、人間生命とか、素粒子とか、動物体とか、植物とか、太陽とか、星といった形態的な区別は存在しない。すべての生命体が、無生の物体をも含んで、宇宙生命そのものとして渦巻いている、と考えることができるのではないか。
 それがまた、ひるがえってみれば大宇宙のすべての現象を織りなし、動かしている。この究極の体を「南無妙法蓮華経」といい、また「久遠」というのです。
 川田 日蓮大聖人は「一生成仏抄」において「一心法界の旨とは十界三千の依正色心・非情草木・虚空刹土いづれも除かず・ちりも残らず一念の心に収めて此の一念の心・法界に徧満へんまんするを指して万法とは云うなり」と述べられています。
 ずいぶんたくさん、仏教用語が出てきますが、だいたいの意味は、「一念の心」には、あらゆる宇宙森羅万象、つまり、大地も大空も、動物も草も木も、すべてが含まれている。そして、その「一念の心」が全宇宙へと広がっている。これをさして、万法、つまりすべての法を含んだ根本の法というのである、といったような意味だと思います。
 さて、ここにある「一念の心」とは、私たちの生命の根源であり、宇宙生命自体でもある「南無妙法蓮華経」といえます。また「法界」とは、時空融合体としてあらわれた大宇宙の営みをさすと考えられますね。
 池田 大宇宙のすべての法は、宇宙生命そのものに内在している。現代的な言葉を使えば、時間、空間としての法といいなおせよう。宇宙を顕現させる法も、星や生き物を形づくる本質的な法も、すべて、「久遠」に内在し、脈打っている。この「妙法」が、具体的な働きとしてあらわれるとき、私たちの生命を形づくる生命的時空ともなっていく。
 そして、宇宙に存在するあらゆる生命の″我″は、宇宙生命そのものに憩いつつ、その力をくみいだして、現象世界での活動をなしゆくのです。生命の″我″と、宇宙生命は、その根底において一体であり、融合している。つまり、「宇宙即我」の原理だね。
 北川 非常に高度な思索になってまいりましたので、このあたりで、私なりにまとめてみたいと思います。
 まず、私たちの生命の″我″は、宇宙生命自体と渾然一体となって息づいている。そして、宇宙全体を含めて、すべての″我″には、大宇宙のすべての現象を織りなす根源的な力が秘められている。その根源的な力が、生命流として現象の世界にあらわれるとき、生命の″我″は、星や生物や宇宙などの具体的な姿をあらわす。
 また、私たちの生命の″我″が、この地球上に顕現するとき、その″我″のもつ生命的エネルギーが生命流となって噴出するのであり、その生命流の動きに沿って生命的時空が形成される……。
 池田 もう一度だけ念を押しておきたいのだが、大事なことだからね。あらゆる生命の″我″と、その根源的な力の顕現が、時間と空間を生じさせるのであり、生命活動をはなれての、いかなる時空も存在しないということだね。もし、このことが理解できなければ、「瞬間即永遠」の原理も、「宇宙即我」の原理も、とうてい納得することはできない相談だからね。
 北川 無限の空間と時間、つまり、宇宙の広がりですね。それがまずあって、そこに星や天体や私たちが入れられているのではない。そうではなくして、宇宙という実在とあらゆる生命的存在の奥底に、根源的生命があり、その生命の本来的な働きが、かぎりない時空をつくりだすのですね。
 具体的に時間論からいえば、宇宙生命の″我″と、その力の噴出が、大宇宙の、成住壊空を織りなすのであり、人間生命の″我″からわきでる生命流が、少年期から青年、壮年の時代を経て老年期へと流れる生命的時間を刻むのだといえますね。
 池田 そうだね。そこで、結論していえば、宇宙と生命の本源には、根源的な力と時空への具象化の可能性とをそなえた、あらゆる生命の″我″が、たがいに融合し、渾然一体となって、宇宙生命自体に憩っている。これらの、すべての″我″に現象世界へと顕現する力と可能性を与えている究極の体を「久遠」というのです。そして「久遠」は、そのまま「南無妙法蓮華経」なのです。
10  川田 そうしますと、「南無妙法蓮華経」には、根源的生命を中心として、すべてが統合され、含まれていると考えてよいのでしょうか。
 池田 そう考えてもよい。だが、さらに厳密にいうと、根源的な生命の″我″、力、時空をさえも生みだす源泉としての、大宇宙生命の本源、それが「久遠」であり、「南無妙法蓮華経」なのだね。
 川田 そうしますと「久遠即末法」の原理とは、生命論からいえば、「久遠」としての大宇宙生命と、そこに息づく生命の″我″が、現象世界を繊りなしている姿をさしているのではないでしょうか。
 池田 そう。たとえば、宇宙生命の″我″は、成住壊空の脈動をたたえつつ、無限の時空へと広がっていく。しかし、それは、現在の一瞬の宇宙の本源に内在する「久遠」の働きであり、「南無妙法蓮華経」の宇宙大の根源的な力の噴出です。
 しかも、現実の世界を織りなす唯一の実在は、現在の一瞬であり、この一瞬にあらわれた宇宙の姿のみです。さらに、現在の瞬間に顕在化した大宇宙そのものを支える宇宙生命の″我″と、あらゆる存在者、たとえば、私たちの生命の″我″は、たがいに融合し、統合しあって、生の奥底に渦巻いている。
 つまり、現在「一瞬」の宇宙は「永遠」の流転を含み、しかも、そのなかに、あらゆる″生命″の″我″を内蔵している。また、宇宙生命に憩うおのおのの生命の″我″も、時空への具象化の可能性と力をたもっていることは、いままで、たびたび述べてきたとおりだ。このような宇宙生命に内在するすべての″我″を、具体的に、「永遠」と「宇宙」ヘと開いていく「南無妙法蓮華経」の本来的な働きを「久遠即末法」の原理と称するのです。
 しかし、いまもいったように、たしかに宇宙の働きそれ自体は「久遠即末法」といえるし、私たちの生命の″我″も、「永遠」と、「宇宙」へと広がる根源的な力を含んでいる。だが、現実の私たちの人生は、「永遠」を含むといっても、一年先の生をさえ先取りしてはいまい。「宇宙即我」といっても、私たちの生命的空間は、地球大にさえも広がってはいないように思う。
 そこで、生命論の議題も、ようやく、瞬間に永遠を生き、かぎりなく広がる物理空間を覆いつくす生命空間の顕現の方途を模索するところに入ってきたように思われる。

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