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日蓮大聖人・池田大作

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時間の謎  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

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1  万物は時を刻む
 北川 時の流れというのは不思議なもので、同じ一年が数十年以上も経過してしまったように思われることもあれば、逆に一瞬のうちに過ぎ去ったように感じられることもあります。そのように「時」というものは、とらえどころのないほど奇妙というか、おもしろい存在ですね。存在といっていいかどうか、わかりませんが……。
 川田 時の多様さということで思い出す、ある学者の次のような言葉があります。「この世の中にあるものすべてのうちで、もっとも長く、もっとも短いもの、もっとも速くてもっとも遅いもの、もっともこまかく分けられながら、しかも、もっとも長くのばされるもの、それが時間である」。
 スフインクスの謎みたいな言葉ですが、よく味わってみると、時間のもつ性質を、みごとにあらわしていると思います。ちょっと″ナゾナゾ遊び″みたいですが……。
 池田 おもしろい表現だね。時の本質をずばりといいあてている。
 たしかに、楽しみの時は一瞬に過ぎ去り、苦悩にあえぐ時間は、なかなか進まない。恋人とのデートの時間などは、この世の中で、もっとも速く過ぎていく類ではないかね(笑い)。逆に、病の苦痛にさいなまれる時間は、無限につづくかと思われるほど長い。時計の針の、のろのろした動きがうらめしく思われるにちがいない。
 北川 時計の示す時間は同じでも、それを感ずる長さは、私たちの生命状態によって、さまざまに変化するわけですね。
 池田 長くもなれば、短くもなる。速くもなれば、遅くもなる。同じ時間でありながら、なぜこのように千変万化に感じられるのか。ここに時間を生命論のうえから考えるポイントがあるといえるね。
 川田 ギリシャの哲学者アリストテレス(前三八四年〜前三二二年)は「時間とは、万物の運動をはかる基準である」と定義しています。
 たとえば、新幹線ひかり号が、時速二百キロぐらいのスピードで走っている。そうすると、一秒前と一秒後とでは、ひかり号の位置が違いますね。つまり、ひかり号は運動したわけです。どれぐらい位置を変えたか、つまり、運動したかを、時間単位で知るわけですね。そこで秒速いくらとか、時速いくらといった表現ができる。
 また、カントによれば、私たちが、こういう認識ができるのは、人間には時間と空間のワクをとおして、万物を見る力がそなわっているからだということになります。つまり、時間とか、空間もそうですが、人間の意識に、もともとそなわった心の能力であると……。
 池田 そのような人間の能力が、時間の感覚をもたらし、また、時計のあらわす″時刻″をつくりだしたといえよう。このような″時刻″は、天体の運行、あるいは振り子などといった規則的な運動体によって、人間がつくりだした、いわば時間の「ものさし」であるわけだ。
 むろん″時刻″は、社会生活を営むにあたっては、きわめて便利で貴重な代物だと思う。その実用価値は、はかりしれないほど大きい。しかし、時間のすべてを考察しようという場合には、″時刻″としてあらわされる時間の奥に、私たち自身の生命が感じている、時間のさまざまな姿を見ることが要求されるでしょう。
 北川 それと、時間の考察にあたっては、とうぜん、空間のことも念頭におかねばなりませんね。
 池田 そう。私たちは、時間とか空間などを、実在するものとして考えがちだが、実在しているのは、運動し変化している宇宙、物体、生命である。その宇宙の運動、物体の変化、生命の生生流転を認識する枠組みが時間であり、空間なのです。
 つまり、この両方のからみあいによって運動や変化を知るのですから、もともと、時間と空間は、ともにからみあい、融合していると考えられる。空間を排除した時間も、時間のない空間も観念のうえではありえても、実在の世界ではありえないと思われる。
2  北川 さて、ものの順序として、まず、時計の成り立ちから考えてみたいと思います。時計が示すのは「時刻」ですが、この「時刻」は、どのようにしてつくりだされたかということですね。
 現在まで、時計の原型であり、基準としての役割を果たしてきたのは、いうまでもなく、天体の運行です。私たちの使っている一年という単位は、地球が太陽をめぐる公転を意味していますし、一日は、地球の自転を単位にしています。その一日を、二十四時間のリズムに区分し、細分して、時間、分、秒の単位をつくりだしましたが、これらの「時刻」は、すべて、天体の周期的な運動から割りだされたものです。
 ところが、一九五〇年(昭和二十五年)ごろからは、量子論という学問に基礎をおく原子時計が脚光をあびています。おもに、秒以下の時間の測定に使われるのですが、高精度の原子時計が発明されています。セシウムという原子の固有振動、つまり、規則正しい運動を利用して、一秒間をきわめて正確に決めることができるようになったとされています。
 川田 すると、地球の自転を基準として割りだした「一秒」と、原子時計の刻む「一秒」との間に、食い違いはないのですか。
 北川 ごくわずかですが、ギャップが生じています。いままでは、地球の自転を単位にした一日を、八万六千四百分の一に区切って、それを「一秒」と決めていたのですが、原子時計での「一秒」とくらべると、ほんの少しだけ長くなっているのです。
 その原因は、地球の自転速度が遅れてきたことにあります。具体的な数字をあげれば、一九五八年(昭和三十三年)から七一年(昭和四十六年)末までの十四年間で十秒、一年に直すと〇・七秒だけ、地球の自転が遅れてきているのです。
 川田 最近は、原子時計が基準ですね。そうすると、一年間に〇・七秒だけ足さないと地球の運動で測った「一年」にはならない……。
 北川 ええ、そういうわけです。そこでこの二つの「時刻」を調整するために考えだされたのが、「うるう秒」で、一九七二年から二回ほど実施されています。
 一回目は一九七二年の七月一日で、午前八時五十九分五十九秒のつぎに、五十九分六十秒がくるのです。そのつぎに六十分、つまり、午前九時〇分〇秒となるのです。「一秒」だけ、人工的に加えて、原子時計の「時刻」と、天体の運動を基準にした「時刻」を調整するというわけです。「うるう秒」が加わると、なんだか、「一秒」だけ得をしたような、といっても、変わりがないような……。(笑い)
 池田 ずいぶん、精密な話だね。原子時計の開発によって、こんごもますます、天体をはじめとする万物の運動が、正確に測られるようになるだろうね。
 川田 ところで、私たちが、時刻を具体的に知るのは時計です。その時計は、振り子や原子の周期的な振動を基準にしてつくられていることになりますが、時計というのは、文字盤の上を、長短各種の針が動いているだけですね。
 物理的に考えると、四角や丸の空間を、長針と短針が、それぞれの運動を繰り返しているのが時計です。一定空間を一定速度で動いているというこの運動の規則性から、時間の経過を規則的に知ることができるようにしているわけです。
 このようにつきつめてみると、時計の示す「時刻」と、時間そのものとは、まったく別のもののように思えてきます。
 池田 「時刻」というのは、物理的、客観的な時間をさし示すものといいなおしてもよいでしょう。その「時刻」を具体的に示す道具が時計だが、時計の生い立ちからもわかるように、時間とか、分とか、秒といった物理的な時間の単位は、天体や原子の規則正しい運動を観察して、そこから、人間の英知が考えだしたものだね。
 では、どのようにして、人間の頭脳が、太陽や地球や原子の運動から、人工的な「時刻」を考えだしたかというと、一口でいうと、だれにでも見える自然現象のなかで、もっとも規則正しく時を刻む天体の動きを、振り子と歯車による空間運動に移しかえたのだね。
3  北川 そうですね。たとえば、いまでも、よく公園や学校の校庭などに日時計があります。中央に一本の棒を立てておくと、その影が、西から東へと動いていく。影の動きによって「時刻」を知ることができるわけです。
 この、日時計と地球の自転の関係は、日時計の棒の影の動きは、地球の自転速度をそのまま反映しているわけで、つまり、地球がその回転によって示している時の歩みを、一本の棒の影の動きという運動に移しとったのが、日時計の原理と考えられます。
 現在、私たちの使っている時計も、原理的には同じことなわけです。原子の運動を、腕時計や柱時計などの、秒針や長短の針の動きで示し、一定空間内の運動としてあらわしているのですから。
 池田 だから、時計を穴のあくほど見つめても、そこには時間そのものは存在しない。ただ、時計の文字盤というのは、空間を固定化することによって、そこに運動する針の位置が、一目瞭然に時間の経過を示すようにしたものといえるでしょう。
 北川 しかし、このように天体などの物質の規則的運動によってとらえた時間は、客観的な「ものさし」にはなりうるにしても、決して、それが時間の本質をとらえたものではないと思えるのですが。
 池田 物理的な時間は、天体や原子などの無生の存在が織りなす機械的運動の規則性によってとらえたものだ。したがって、天体の運動を基準にしようと、原子のリズムを基準にしようと、そこにとらえられる時間体系は、そのまま空間化して認識することができる。
 こうした太陽や地球や原子、素粒子などの運動によってとらえられた時間は、ふつう″物理的時間″と呼ばれるが、それは、客観化された時間概念といえます。
 つまり、これらの天体運動の規則性は、少なくとも地球上に生存しているあらゆる人々にとって、等しく観察されうるものであり、また原子や素粒子の運動の規則性は、どこで観察しても同じ結果を示すがゆえに、時間の経過を見るための客観的な「ものさし」になりうるのです。
 こういった客観的な運動と違って、生命体の内には、それ自体の独自の変化が絶え間なく行われている。肉体上の生理的変化は、外界の影響に左右されやすいから、生命の生成以来、繰り返されてきた四季の変化に対応し、それと同じリズムで変化を繰り返している面がある。
 私たちの生命も、太陽系の一員である地球の上に生息している以上、その生命活動の大きな部分が、大自然の律動にのっとって営まれていることは、とうぜんです。人間生命は、宇宙万物の動きに適応し、そのリズムを取り入れているのだからね。
 ちょうど、大海に生きる魚が、塩水をはなれて生きられず、体液の成分に種々の塩類を取りこんでいるようなものだ。だが、魚の体液は、海の水とまったく同じではない。各種の塩類を吸収しつつも、それを自分なりにつくりかえて、その魚独自の体液を形成している。
 これと同じように、人間生命も、自然のリズムにひたり、その荒波にもまれながらも、生命独自の流れを築いているのです。
 川田 そうしますと、生命の刻む変化のリズム性には、客観的時間と対応するところもあるのですね。
4  生命的時間について
 川田 大自然のリズムに適応した生命の流れを、学者たちは、バイオリズムと名づけています。また、時計という言葉を使うと、体内時計ということになります。
 私たちの生命を含めて、この大宇宙には、じつにさまざまなリズムが脈打っています。小さなリズムですと、動物の心臓の打つ博動ですね。大きなリズムでは、地球の自転と公転なども、地球という一つの生命体のリズムですね。四季の変化が、これによってもたらされるのですが、その季節の移り変わりに相応して、動物が冬眠し、渡り鳥が移動したりします。
 人間にも、一日とか、一カ月とか、また、季節ごとのリズムが、ちゃんとそなわっています。たとえば、睡眠と覚醒のリズムは、二十四時間単位ですね。これは地球の自転に適応した身体の律動と考えられます。
 北川 しかし、生まれてすぐの赤ちゃんの睡眠には、昼と夜の区別などがありませんね。お乳を飲んでは眠っている。よく「寝る子は育つ」といいますけれども……。(笑い)
 川田 生まれたばかりの赤ん坊は、一日に七回ぐらい眠ったり、目覚めたりするといわれています。生後四カ月ぐらいになって、耳も聞こえるようになり、明と暗を感じるようになると、ようやく、少しの昼寝と、一回の夜間睡眠の型になります。そして、成人と同じ睡眠のパターンは、十歳を過ぎてから確立するとされていますね。まあ、一般的には、太陽の輝きとともに目覚め、淡い月光に照らされて憩うというのが、古来、理想とされてきた人間の一日のリズムですね。
 また、ミュンヘン大学のテオドル・ヘルブルゲ博士の報告によると、赤ん坊の心臓のリズム、つまり、博動数の変化も、母親の心博数の変化とは違うようです。母親の心博数は、昼間多くなり、夜には少なくなりますが、赤ん坊の心臓は、二十四時間中、ずっと同じリズムで博動しています。ところが、三カ月ぐらいたつと、赤ん坊の心臓のリズムも、昼と夜の区別ができてきます。昼に多く、夜には少ないというリズムですね。
 このほかに、体温の変化、腎臓の機能、ホルモンの分泌なども、成人では、地球の自転に合わせて、昼は活動的になり、夜間は低調になりますが、このような変動があらわれてくるのも、ほぼ一歳から四、五歳にかけてであるとリポートされています。
 北川 バイオリズムには、季節によって変化する律動もあると聞いていますが……。
 川田 地球の公転、四季の変化に対応した年周期性のリズムですね。おおまかにいえば、心博数、体温、血圧、ホルモンの分泌などは、ほとんど、二十四時間の変動を示すとともに、季節によっても変化していくと思われます。
 具体例をあげれば、心臓の博動も、夏には最大の腱疑数を示し、冬には最低になるという律動をもっています。体温なども同じですが、おもしろいのは、毛髪の伸び方にもリズムがあるという事実ですね。ヒゲの伸び方を研究した学者によると、冬の一月には一日で〇・三〇五ミリしか伸びないが、夏の八月には一日で〇・五三八ミリも成長すると報告されています。しかも、これらの季節的変化も、日周期性の変動と同じく、赤ん坊には存在せず、しだいに体得されていくもののようです。
 池田 人間の身体は、じつに巧妙に、自然界のリズムに対応し、その流れを取り入れているものだね。生命は、自然界の海にひたり、宇宙の変転とともに律動している。
 しかし、私たちの身体には、大自然との関係だけでは追跡しきれない動きも少なくない。卑近な例をあげれば、頭髪が自くなっていくとか、皮膚の光沢が失われていくとか、体液の成分が変わっていくとか、また、動脈壁が硬化するといった類の変化には、天体との対応はまず見られない。
 川田 医学的にも、夏には白髪であったのが、冬には黒変するとか、春風が吹きだすと、禿頭に自然に髪が生えてくる、なんてことはありませんからね。″養毛剤″でもつければ、別でしょうが(笑い)、それも一時的な効果にすぎないでしょう。また、バイオリズムとして取り上げた時間変化も、長い眼で見れば、やはり、少しずつ微妙に移り変わっているようです。
 血圧なども、昼と夜、季節ごとのリズムを繰り返しながらも、青年期から老年期に向かうにつれて上昇していきます。心臓の博動数と呼吸の数は、子どもは比較的速く、大人はゆったりしてきます。また、体温は、子どもは高く、大人は少し低下するのがふつうです。こうして見てきますと、人間の身体は、外界のリズムを取り入れつつも、独自の変化を見せているように思われます。
 池田 身体には、外界のリズムに対応するものだけではない、それ自体に特有の流れがあり、運動があると考えざるをえないね。
 つまり、心臓の博動などのバイオリズムから、血管壁や皮膚や体液などの変化を含めて、まことに、多彩な臓器や細胞に脈打つエネルギーの流れが重なりあい、統合し、一体となって、一人の人間身体の潮流を形成しているわけだ。
 このような身体各部分の多様な運動を、融合させ、統一し、一個の生命体に集結させる、人間身体独自の流れというものは、認めざるをえない。これを身体流と呼ぶことにすると、人間の肉体は、細かく見れば、外界のリズムに応じたバイオリズムを奏でながら、大きく見ると、この身体流の動きにつれて、変化し、変転していくわけです。
 むろん、一人の人間が、この世に生を享けてから、成長し、活動し、やがて、老境にいたるまでの身体的変化の速度は、一様ではないでしょう。また、それは各人によっても異なってくると思われる。しかし、おおまかにいうと、身体流の速度は、少年期には非常に速く、青年期には少しゆるやかになり、壮年期から老年期にかけては、いっそうゆるいテンポで流れていく、ということはいえるでしょう。
5  川田 生理学者たちは、身体流の速度を「生理的時間」という単位で測定しようとしています。たとえば、アレキシス・カレルは、私たちの身体の変化を知るための時間を「生理的時間」と名づけ、ある程度、具体的な提案をしています。生理的時間というのは、人間の身体の全体的な変化を、うまくキャッチできればよいのですが、それを体液に求めています。人間の体液は、つねに新陳代謝して入れかわっていますが、それでも、しだいに、その成分に老化の兆しがあらわれてきます。その兆しをうまくとらえるというのです。
 もう一つは、これはみな経験があると思うのですが、手や足をすりむいたり、切ったりしますと、そのあとで、しだいに肉が盛りあがってきますね。肉芽というのですが、その盛りあがり方、そして疫痕ができて治っていく速度が、子どもほど早い。老人になると、容易に治らない。この治り方が、身体流の速度の変化を、だいたい、あらわしているようですね。
 北川 そうしますと、ちょっと、もとにもどりまして、たとえば、少年時代の「一年」は、身体のリズムでいえば、成人の「十年」にも相当するといえるわけですね。
 川田 身体細胞の分裂速度とか新陳代謝も、幼年期や少年期では、おどろくほど活発ですからね。老年になると、身体の活力はずいぶん衰えてくる。
 池田 もう一歩、この生命的時間という問題について深く考えてみよう。人間生命は、肉体的存在であるとともに、精神的・心理的存在でもある。つまり、色心不二の当体です。
 たとえば、一口でいえば、精神的に充実した生を送っている人の生命は、同じ一年でも、その一年を内容豊かなものとして感じるだろうし、逆に、心が空虚な人の体験する時間は、たとえ、若者であっても、非常に短い、内容のほとんど存在しないものになると考えられる。
 そこで、私は、客観的な「物理的時間」や、身体のリズムを知るための「生理的時間」とは別に、「精神的時間」もしくは「心理的時間」の概念を考える必要があると思う。つまり、人間の生命は、生理的時間と精神的時間とに生きるのであり、私はこれらを総合して「生命的時間」と呼ぶことができると思うのです。
 もちろん、この精神的時間は、アレキシス・カレルがやった、体液や肉芽の盛りあがりなどというような客観的に測定する手がかりはないから、あくまでも、当人の内省による分析以外にないわけだ。しかし、人間存在にとっては、肉体上の問題より、はるかに重要なのが、精神的な充実度だと思う。
6  北川 ドイツの文豪ゲーテ(詩人、作家。一七四九年〜一八三二年)の日記に、興味深い文章があります。
 ――私はもっと注意して、私自身の体内におこる好い日と悪い日を区別しなければならないと思います。情操も愛情も、欲望や礼節、創造力、行動力、真実さや、楽しさ、スタミナや疲れ、がん固さや柔和さなど、どれもみんな、ぐるぐると軌道を描いてまわっているようです。(『ゲーテ全集第三十巻』山本三生編、改造社、参照)。
 池田 私たちの心の脈動である人間精神の潮流の動きを、みごとに見ぬいているようだね。ゲーテがいうように、外界の変化とは別に、生命の力がみなぎるような日もあれば、心の疲れに悩まされるときもある。″ただ、なんとなく調子が悪い、気分が晴れない″といった体験は、だれでももっているものだ。スランプにおちいるのもこういう時だろうね。
 ところが、何日かすると、深い霧が晴れたようにさわやかな感情がこみあげてくる。人によって、その周期は違っても、やはり、生命自体の織りなす脈動は、決して否定できないように思うね。
 川田 身体流の大きなうねりについては、先ほど人間の一生を例にあげて、説明がありましたが、身体流の小さな脈動に関しても、一つの説が確立されつつあります。それは、身体の働きをも含めて、心の脈動についての学説で、PSIリズムといわれています。Pは、フィジカルの頭文字で、肉体です。Sは、センシテイブのSで、感受性、Iはインテレクチュアルを示し、知性です。
 人間生命には、この三つのうねりがそなわっている。肉体のうねりは、身体に力が充満してくるリズムですが、約二十三日ごとに繰り返される。感受性というのは、感情の高まりとか、外界への反応が敏感になることですね。その周期は二十八日。知性、つまり、記憶力とか推理力ですが、それは三十三日ごとに、鋭くなる。まあ、こういった説です。まだ一般には認められていないようですし、周期を繰り返す日数も、これほどはっきりとは決められません。だが、心身ともに、ある程度の波のようなうねりがあるということは、示されているのではないかと思います。
 池田 身体流の流れの速いときは、うねりの頂点だね。また、精神のリズム的な力強さ、つまり、精神流といいかえられるが、その流れの強弱によって、感情や知性まで影響されるのだね。むろん、これらが身体流や精神流のすべてではないだろうが、生命の脈動の一端を示すものといえる。だが、注意しなければならないのは、私たちの心の奥からわきあがる生命の流れは、瞬時もとどまらず、外界との接触のなかで、多様な体験を織りなすという点だと思う。
 たとえば、どのように気分が高揚していても、悲しい出来事に出合えば、感情もしぼんでしまうかもしれない。逆に、楽しい体験は、生命の流れを速める効果があるでしょう。このように考えれば、私たちの生命流は、その潮流の強さとともに、いかなる体験をするかによって、大きく影響を受けるにちがいない。また、私たちの体験が、すべて生の内奥ヘと沈潜し、生命流そのものとなって、わきあがってくるとも考えられる。
 したがって、いかなる体験をし、それを自己の体内に吸収していくかによって、生命の流れの速度は、かぎりなく変化していくでしょう。生命の内容を充実させる体験もあれば、逆に、生命の力を奪い去っていくものもある。
7  川田 この点に関してですが、心理学では、いちおう法則みたいなものが浮かび上がっています。かんたんにいうと、希望をもち、活発に楽しく過ごした時間、心をすっかりかたむけてしまえるような出来事でつまった時間は充実している。つまり、能動的、主体的に外界に働きかけ、創造的に過ごした時間ですね。
 逆に、単調で退屈な時間や、絶望と不安にさいなまれる時間、苦痛や苦悩から逃れるすべもない時間は、まったく空虚であるというのです。いいかえれば、環境からの圧迫におしつぶされそうになって、そこから、逃れたいと念じたり、ただ消極的に過ごす時間には、生きていることへの満足感などは少しも生じてこない。
 北川 たしかに、私自身も感じることですが、仕事に打ち込んだときなどは、たとえ疲労感はあったとしても、それは快いもので、生命の充実感がふつふつとわきおこってきますね。ところが、無為に過ごした時間のあとでは、どうしようもない嫌悪の念に襲われてしまいます。
 しかし、ちょっと気にかかるのですが、楽しく活発に過ごしている、その瞬間は飛ぶように去っていきます。逆に、退屈な時間は、ものすごく長い。時計の針の動きばかりが、気になってしかたがない。とすると、楽しいときの精神的時間は短く、苦しみの精神的時間は長い、といえるように思いますが……。
 池田 いや、少し違うようだね。ここが、時間の複雑怪奇な謎をとくポイントだから、具体的に考えてみよう。
 いま、仕事の話が出たから、それを実例にしてみると、よく人は「仕事がおもしろいので、時間の経つのを忘れていた」という。そのときの生命状態を考えると、ただ、ぼんやり過ごす場合の、何十倍にも相当する生命活動をし、生命のエネルギーを噴出させている。わかりやすくいうと、仕事をしている「一時間」も、無為に過ごしている「一時間」も、物理的時間で測ると、同じ一時間の経過しか示さない。仕事に熱中していると、時計の針が十時間も進んでいたなどということはありえない。ところが、この同じ「一時間」を、その充実度を加味した精神的時間で測ると、前者では「数十時間」にもなろうし、後者では、ただの「数分」かもしれない。
 さて、このように充実した生命流は、能動的、積極的に外界へと働きかけるために、同じ一時間という物理的時間であっても、生命に感じる長さは、相対的に短縮されるでしょう。逆に、精神活動のほとんど営まれていない状態では、生命は空虚であり、消極的、受動的であるがゆえに、相対的に物理的時間に対する感じ方は長くなると考えられる。
 私たちの心が、楽しい時間は、瞬時に過ぎていくように感じ、苦悩の時間は長く感ずるのは、以上のような生命流の働きにもとづいている。したがって、もし楽しいことであっても、それをただ待つだけという受動的な姿勢にあると、かえって、物理的時間は長く感じられるし、苦しいことに直面していても、それをただ受けてくるのでなく、こちらから主体的に挑戦していく強い意志のある場合は、物理的時間は短く感じられると考えられる。つまり、能動、受動ということが精神的時間の大きな要素であることを示しているわけです。
 川田 苦しみの極限においては、現実に、物理的にはほんのわずかな時間が「数十年」にも、それ以上にも、引き延ばされて感じられることがあるのですね。生の能動性がまったく失われ、生命の流れがとどこおると、そこに感ずる物理的時間は、かぎりなく延びていくように思われます。
 絶望の極限にいたると、時間は停止してしまったような感じをいだくとの報告が、多くの医師から出されています。
 抑うつ症のある患者が、医師が五分間だけ診療を待たすと、「六カ月も待たされた」と確信していたというのです。長く感じたというより、彼自身は、現実に「六カ月」も待ったと信じているのですね。だれがなんといおうと、五分間ではなく「六カ月」だと……。
 また、他の患者は「私の母は、苦悩と拷間のうちに二千年生きねばならない」と宣言したとのリポートもあります。これも、譬喩的にいったのではありません。
 さらに、麻薬は、人間の身体のみならず人格のすべてを破壊しさるものですが、麻薬を飲んだメスカリンという人の体験によると、「時計を見ると、秒針はその動きが眼に見えないほどの、カタツムリのような速度ではっている」「一夜が、いかなる人間の体験の限界をも、はるかにこえる長さであった」と記しています。
 池田 まさに「地獄」だね。生命内奥の力が失われ、生命流がとどこおることは、地獄の責め苦以外のなにものでもないようだね。
 現実の人生を見ると、物理的年齢では老境に入っていても、本源的な生命流の旺盛な人は、心身ともに若々しいね。身体もはつらつとし、精神的に測った寿命も延びているだろうね。逆に青年であっても、生理的、精神的な時間が、ともに短縮している人も多い。私はいいたいのだが、人間の年齢を物理的時間で知ることも大事だし有用だが、こうした内容の充実度から測る視点にも眼を開くべきでしょうね。
8  瞬間と永遠
 北川 これまでのところで、私たちの生命にとって、もっている時間の不思議な性質が、だいぶわかりかけてきたようです。だが、もう一点、時間の謎のうちでも、もっとも根本的な課題、つまり、過去、現在、未来ということについて、おうかがいしたいと思います。
 古来、多くの哲人は、万物が時の経過とともに転変していく様を、川の流れにたとえています。西洋では、ギリシャの哲学者ヘラクレイトス(前五一三年頃〜前四七五年頃)が「万物は流転する」との名言を残していますし、東洋仏法でいう「輪廻(サムサーラ)」という言葉も、川の流れを表現したものだとされています。
 池田 うん。よく「時が流れる」というけれども、いまのヘラクレイトスの言葉が意味しているのは、流転するのは″万物″ということです。″輪廻″という場合も同じです。
 最初に話しあったように、実在するのは、宇宙、物体、生命です。その一切が運動し、変化し、流転している。この運動、変化、流転を認識する枠組みが時間、空間です。だから″流れて″いるのは、万物なのだけれども、視点を変えると、時間が流れていくように思えるわけです。
 北川 ところで、こうした万物の流転によって感ずる時間の経過から、過去、現在、未来という概念がでてくるわけですが、これを、川の流れにたとえますと、未来は絶え間なく現在に流れ込み、その現在は瞬時にして過去になっていきます。しかし、過去は「かつてあった」のであり、未来は「未だない」ものであって、実在するのは「現在」の一瞬しかないということですね。
 池田 そう。私たちの生命の実在は、この瞬間にしかない。私たちは、まぎれもなく、現在の瞬間に、苦と楽を実感し、幸、不幸とを感じつつ生を営むわけです。
 北川 「現在」という一瞬は、幾何学でいう「点」みたいなものとして考えられていますが……。
 池田 幾何学の「点」は、位置だけあって、その内容がないという事実をあらわしているのだね。
 北川 そうです。大きさ、重さ等は認めていません。
 池田 「現在」という瞬間をそのように考えることは大きな錯覚です。そこには、じつに豊かな内容が含まれている。私たちの生命のこの現在の一瞬の実在を考えてみても、そこにじつは、過去のすべての記憶が包含されているのです。肉体的な記憶もあれば、精神的なものも、しっかりと刻みつけられているにちがいない。
 また、未来への希望、期待、欲望、活動性なども、現在の瞬間の生命にそなわっているね。さらに、私たちの身体自身のもつ各種の生物学的な情報も、未来を先取りした肉体の知恵といえるでしょう。
 川田 生物学的な情報というと、DNAに含まれているのでしょうが、たとえば、鼻の形をどのようにしようとか、皮膚の色が白いか黒いかといったことですね。鼻の高さなども、個人によって多少の差はあります。まあ、こういったことが、DNAに含まれています。
 ところで、「現在」ということに返りますが、哲学者の波多野精一氏は、『時と永遠』という著書のなかで、「現在は、けっして単純なる点に等しきものではなく、一定の延長を有し又一定の内部的構造を具えている」(『波多野精一全集第四巻』所収、岩波書店)といっていますが……。
 池田 まさしく、一瞬には「内部的構造」がそなわっていると考えていいでしょう。
9  川田 そこで、まず、現在に包含された過去の内容ですが、一言でいうと、私たちの体験はすべて、どのようにささいな出来事でも、記憶としてとどめられているといいます。
 身体の経験は、それぞれの細胞や臓器に刻印されていますが、興味深いのは、精神的な体験ですね。
 私たちが、すっかり忘れてしまっているようなこと、たとえば、赤ん坊のころ、オネショをして叱られたとか、となりの子どもをいじめたとか、もっと古いのになると、産湯をつかったことまで、ちゃんととどめられているといわれます。その場所を大脳生理学的にいうと、側頭葉と古い皮質の海馬という領域になります。
 側頭葉には、言葉や、学校で学んだ知識や、考えたことなどがとどめられ、海馬領域には、喜びとか、恐怖とか、悲しみとかいった情動的な体験がすべて記憶されています。それはちょうど、吸い取り紙にインクがべっとりとしみこんだようで、この吸い取り紙を「記憶の貯蔵庫」と呼んでいます。
 北川 よく聞くことですが、人間が死を迎えるときには、過去の記憶が、ちょうど走馬灯のように、すべてよみがえってくるといいます。しかも、それが、一瞬にですね。
 池田 死に直面して「記憶の貯蔵庫」のカギが、一度に開いたわけだ。現在の一瞬に含まれる過去の内容が、すべて、意識の表面に浮かび上がったのでしょうね。
 川田 「身体と心」の章でも、少しふれましたが、私たちの個人的な体験の、もう一段奥には、人類としての数百万年にもわたる体験が刻まれています。原始人類が、猛獣と戦ったこととか、火を発見した喜びといった体験が、現実に、私たちのいまの生命に息づいています。さらに、その奥には、哺乳類としての経験とか、アメーバとしての経験など、私たちの生命体としての全体験の内容が占められているかもしれません。
 哺乳類としての経験などは、ある程度、想像できます。しかし、アメーバとしての経験というと、ちょっと、私たちの思考を超えているようですが、考えられないこともありません。たとえば、アメーバは、栄養分が流れてきたり、浮かんでいたりすると、それを感じて、すうっと寄っていきます。そして、とりこんでしまう。食欲の原型みたいなものですね。私たちも、家に入ったとたん、よいにおいをかぐと、たちまち空腹を感じる。そして、つまみ食いしたくなることもある。(笑い)
 池田 ゆかいな実例だね。さて、そうすると、現在の瞬間には、少なくとも、地球の歴史をすべて包んでいることになるね。瞬間の生を、深く思索すればするほど、その内容は豊かになり、過去へとかぎりなく延びていくと考えられよう。
 川田 こんどは、未来についてですが、これは「空」のところでも話に出ましたが、身体的なところからいっても、私たちの身体には、生物学的にいって、五十億もの情報が内容として詰まっています。
 つまり、私たちの身体には、無限といっても過言でないほどの、未来への可能性をそなえているといえるわけです。
 池田 瞬時の生命に、無限の未来をはらんでいるということだね。
 川田 そうです。その未来を、現在の生が切り開いていくと考えられます。
 そこで、有名な話ですが「パスツールの奇跡」というのがあります。彼の偉業は世界中に知れわたっていますが、その大部分が、脳卒中のあとでつくられたものであるという事実は、意外と知られていません。
 彼が脳卒中で倒れたのは四十六歳の時です。フランス政府は、彼のために研究所を建設中だったのですが、もう絶望的だというので、それを中止しました。その報告を聞くと、パスツールの症状は、さらに悪化したのです。ところが、彼の友人が、政府に働きかけて工事を再開させると、その症状はしだいによくなり、その後、二十七年間、新しい研究所で人類のために尽くしました。この間の業績は、彼の生涯のうちでも、もっとも輝かしいものだったそうです。
 池田 興味ある話だね。奇跡と呼ぶにふさわしい生命の力だね。それにしても、将来にかけた希望や、人類から苦悩を取り除きたいという目標への情熱が、まさしく、医学的な不可能をも可能にした一つの例でしょうね。
 川田 そうしますと、希望、期待、未来への情熱などは、人間生命に含まれる未来を引き寄せる力と考えられますね。
 池田 希望の精神の躍動、未来を信じ行動する情熱などは、人間生命にとって、未来への原動力といえます。だからこそ、希望と目標を失い、絶望の底に沈む人は、みずからの生を閉ざすことにも等しいのではなかろうか――。
10  北川 ウィーン大学の神経科の教授でもあり、ユダヤ人としてアウシュビッツ収容所に入れられ、死線を超えてきた、フランクル博士(精神分析学者)は、その体験を託して有名な『夜と霧』という本を書いています。そのなかに、次のように記されています。
 「彼自身の未来を信ずることができなかった人間は収容所で滅亡して行った。未来を失うと共に、彼はそのよりどころを失い、内的に崩壊し身体的にも心理的にも転落したのであった」(霜山徳爾訳、『フランクル著作集1』所収、みすず書房)とあります。
 池田 博士が生き延びることができたのも、未来にかけた信念の賜物だろうね。希望、夢、使命、信念などは、未来を開く力であり、内的な主柱であり、力強い生命流の内容だと思う。
 私たちの生命流は、現在の瞬間に生きながら、過去のすべての体験を含み、それを基盤としながらも、無限の可能性をはらんだ未来を切り開いていく。
 具体的にいえば、過去のあらゆる記憶を再現し、回想させつつ、未来への希望あふれる目標に向かって出立していくのが、現在の瞬間の生というわけだ。
 したがって、過去の生も、そのすべてが現在の内容となり、未来のかぎりなく開かれた人生の基盤もまた、いまのこの一瞬に集約されている。つまり、過去、未来と切り離された現在は、現実には存在しないし、現在の生に包含されない過去もなければ、未来もありえない。
 日蓮大聖人の「御義口伝」には「已とは過去なり来とは未来なり已来の言の中に現在は有るなり」とある。現在の生と、過去、未来の生の本源的なあり方を考えさせてくれる至言です。
 北川 過去といい、未来というも、その本源をたずねれば、現在と一体である。しかも、その現在の生に含まれる過去と未来は、私たちの生命を、その内奥まで深くたどればたどるほど、かぎりなく広がっていくのですね。
 池田 生命は、生の表層から内奥にと深まるにつれて、その水かさを増し、内容を豊かにし、巨大な潮流となっていく。
 私たちの生の瞬間に噴出する生命流の源は、人類の生を含み、地球の歴史をのみこむ、大宇宙の悠久たる変転をも包みこんで、宇宙生命の本流に流れ込んでいるといえます。この宇宙生命の本流が噴出し、個別化したのが、われわれの生命であると考えられます。
 「妙法」とは、この宇宙生命を説ききわめ、あらわしたものであるわけです。
 したがって「妙法」は、過去永劫の生と、未来永遠の生をはらんでいる。そこでは、もはや、現在、過去、未来などという現象的時間における立て分けは通用しない。過去も、未来も、現在の瞬間と融合し、一体となる。一瞬といえば、瞬間の生とも表現できる。だが、永劫といえば、永遠常住の潮流とも考えられる。つまり、瞬間でもあり、同時に永遠でもある。
 川田 日蓮大聖人は「三世諸仏総勘文教相廃立」(以下、「総勘文抄」と記す)に「過去と未来と現在とは三なりと雖も一念の心中の理なれば無分別なり」と記されている。
 このなかの「一念の心中」というのは、私たちの生命の奥底であり、同時に、宇宙生命そのものとしての「妙法」と解してよいでしょうか。
 池田 「妙法」それ自体である、生命の本源の実在を説いた文です。宇宙生命においては、現在、過去、未来といえども、一体となって、まったく無分別である。分別することができない。それでいて、「一念の心中の理」とあるように、その永遠即瞬間の生命が、差別となって具体的な活動を営んでいく。
 つまり、本質的には無分別でありながら、過去、現在、未来へと分かれていく差別相をもはらんでいるのだといえよう。
11  川田 ベルクソン(フランスの哲学者。一八五九年〜一九四一年)の時間論では、過去、現在、未来の三態は、意識の発達をまって分化していくのだと説いていますが……。
 池田 ベルクノンの時間に対する考え方は、非常に独創的だね。そして、きわめて仏法的だともいえるね。
 彼は、意識の本質は流れであり、「流れる時間」と表現している。この「流れる時間」というのは、私たちが物理的、客観的時間としてとらえてきた時間を「流れた時間」であるとし、それに対して、あくまで、意識というか、むしろ、生命の流れ自体をあらわしたものだね。
 だから、過去とか現在とか未来という区分は、もともとあるのではなく、流れる意識がつくりだすものだということです。つまり、無差別から差別が生じるのだね。
 したがって、大自然を含む宇宙万物は、宇宙生命流の織りなす生命的存在といえるわけです。だから、私たちの生命流が強ければ、大自然へと積極的に働きかけ、自然の営みを十二分に織りこんでの生命活動ができるわけだ。いいかえれば、おのおのの生命に特有のリズムに生きながらも、自然の歩みとも調和していける。
 人間のみならず、あらゆる生き物は、すべてそれぞれ各自の時間をもっていよう。しかし、人間生命ほど、生まれながらにして、豊かな生命流にめぐまれている存在はないと思う。それは、人間生命のみが、自然の律動と調和しつつ、それを超え、身体の流れと融合しつつも、そこから、意識、精神の多様な潮流を生みだしている事実を見れば、容易に納得のいくことだろうと思う。
 北川 ところが、人間は、通常、そのめぐまれた生命流を十分には発揮できないでいる。いや、むしろ、生命の流れをみずからの行為によって弱めたり、速度をゆるめたりしていると思われます。力強く、速い生命的時間を感じ、そこに生きる可能性をたっぷりと秘めながら、あえて、苦しんでいるようなところもある。まったく、皮肉な現象ですね。
 池田 そのとおりだね。
 北川 そうしますと、私たちの実際生活にとって大切なことは、現在の瞬間をどう生きるか、という生命の姿勢ですね。
 池田 現在という一瞬を充実させ、生命流の力を強めるか、それとも「妙法」としての宇宙生命からわきだす生命の流れの速度を遅くしてしまうか、ということだね。
 瞬間の生に内包された″無限の宝″をうまく利用できれば、人生はかぎりなく豊かなものになろう。そのためには、まず、現在に含まれる過去の「記憶の貯蔵庫」を開くことだ。
 そのカギを握っているのは、仏法の実践行為だと、私は確信している。信仰という、仏法の実践によって、人は、瞬間の生命の内奥に貯蔵された無限の過去をよみがえらせることができよう。その過去は、自己の体験流を乗り越えて、万物の始源にまで延びていくはずです。
 ただ、こうしてよみがえった、″無限の宝″を、生の創造と充実に活用していくのは、個々の人間生命であることを忘れてはなるまい。過去を未来に生かす――その行為のなかにこそ、人間の存在意義があるのではなかろうか。
 私たちが、いままで話しあってきたように、未来もまた、無限の可能性をはらんでいる。ところが、皮肉なことに、人は通常、未来のはらむ可能性をできるだけ貧しいものにしようとしているかの感を受けざるをえない。
 絶望と断念と悲哀は、自己の前に開かれた未来を閉ざしてしまうであろうし、逆に、希望と決意と歓喜は、過去のもたらす″宝物″を受けいれつつ、かぎりなく豊かな未来を切り開いていくにちがいないと思う。
 しかも、過去と現在によって開かれた未来は、瞬時にして、現在の生をはぐくみつつ、過去へと去っていく。だが、過去へと過ぎ去った未来は、決して永久に消えうせたのではなく、ただ過去のなかに退いたにすぎないのです。現在の一瞬の生によって、ふたたび、未来を生む原動力としてよみがえってくる。
 こうして、未来に想いを馳せ、決意し、希望にあふれた人間の行為が、過去と未来を融合させ、現在の瞬間を充実させつつ、生命の潮流の速度を加速するのでしょう。
 北川 つまり、豊かな過去は、豊かな現在と未来を保証し、充実した現在と未来は、みずからを生みだす過去を、さらに豊かなものにしていく、というサイクルですね。
 池田 だが、そのサイクルの始点は、あくまで現在、一瞬の生にある。一瞬の生を有意義に生きれば、そのなかに、無限の過去と未来が、ほとばしる生命流の潮となって、現実の、私たちの生命をうるおしていく。
 そのとき、一瞬の生命に、永劫の過去と未来を内包した宇宙生命としての「妙法」が姿をあらわし、「瞬間」はそのまま「永遠」となる。
 つまり、「瞬間」のなかに「永遠」が立ちあらわれてくるということだね。そして、私たちの生命流は、宇宙生命のもつ大潮流と合体する。
 北川 仏法で説く「瞬間即永遠」の意義ですね。
 池田 瞬間の生に、永遠の実在をあらわすような現在を生きたいものだね。過去の″貯蔵庫″を開きつつ、希望と期待に胸をふくらませて未来を決意する。その決意も、空間的にいえば、宇宙大に広がり、時間からすれば、未来永劫にわたるものでなければなるまい。
 しかも、万物を生みだし、育て、創造する宇宙生命の本源的な働きに沿う決意こそが、人間としての本来的な決意ではなかろうか――。
 さらに、具体的にいえば、人類と万物の、永劫の平和と繁栄をめざした決意であり、すべての生き物の苦悩を断ち切るところに目標を定めた決意であり、そこに、人間としての生きがいを見いだす使命感にめざめた決意が、過去を開き、未来を開くのです。
 つまり、私たちの生き方は、過去に根ざしながらも、過去に生きるのではない。未来に想いを馳せるあまり、現在の瞬間をおろそかにするのでもない。未来に偉大な目標を定め、それに向かって決意し、未来を先取りしながら、使命感にめざめた現在の歓喜に生きたいものだと思うね。

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