Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

生命をとらえる眼  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

前後
1  夢の話
 川田 少し前の話になりますが、夏目漱石の小説『夢十夜』に出てくる夢の話、あれは本当の夢のことを書いているのか、それとも創作なのかで話題になっていたわけですが、それが大脳生理学で「本当の夢を書いたものらしい」ということになって、注目されたことがあります。
 徳島大学の松本淳治教授が研究した結果なんですが、「真白な頬」「大きな赤い日」「闇だのに赤い字」など文中にあらわれている色をはじめ、視覚、聴覚、嗅覚などの頻度も、通常の夢と同じ分布をしていることなどから結論したそうです。(『眠りとはなにか――眠りと夢の世界をさぐる』講談社、参照)
 文学の世界にまで大脳生理学が乗りだして分析するとなると、いくぶん詩的興趣が失われて、芥川龍之介の『侏儒の言葉』(岩波文庫)のなかにあるように「地球は何度何分回転し」といったふうになってしまうような感じがしますが、それとは別に、作家の思わぬ心の内面がうかがえることもあって、また違ったおもしろさが出てくる可能性もあります。
 そういったこともあって、『夢十夜』をもう一度読み返してみたんですが、そのとき「夢」というものは、まったくおもしろいものだ、とつくづく感じました。
 非常に現実から離れた展開を示しますし、飛躍ばかりする。『夢十夜』の場合は小説ですから、ある程度の脚色はあるようですが、現実の夢に一貫性を見いだすことはむずかしいですね。それでいて、妙に心の奥底まで見透かされているというか、内面に隠れている、あるいは隠しておきたい部分があらわれているようです。といって、覚めてしまえば、現実生活とは、ほとんど関係がない……。と、まあ、こういってしまえば、フロイトの『夢判断』に書かれたことなどをあげて、反対する人もいるかもしれませんが……。
 池田 眠っているときにも、外からの刺激には反応しているのだろうね。
 川田 はい。たとえば、フロイトのあげていることですが、鼻の先を筆や羽毛でくすぐると、拷問の夢を見たとか、ハサミでピンセットをたたくと、夢のなかで鐘の音が聞こえたりするそうです。(フロイト著作集2』所収、高橋義孝訳、人文書院、参照)
 こういった関係は、いちおう成り立つそうです。でも、現実に起こっていることと夢の内容は、まったく違いますね。また、ときには、心の中で、無意識にですが、ずっと執念深く(笑い)想っていたことが、ちょっびり夢のなかに顔を出すこともあります。まあ、それでも、事実そのものではない。その想いが、まさしく現実になることはあるでしょうが……。
 北川 私は、あまり夢を見たことはないんです。といっても、脳波を検査すると夢を見ていないのではなく、夢は、だれでも見ているのだけれども、それを記憶していないだけらしいのですが、夢というのは、とにかく奇想天外ですね。
 ただ「うつつ」と比較されて、現実味のない典型とされる「夢」が、じつはその「寤」ともっとも縁の深いものであることを、フロイトが明らかにしだしてからは、夢が、心の深層部分を垣間見させてくれる格好の材料だとわかったわけです。
 しかし、覚めてしまえば、現実生活とはほとんど関係がない。生命のもっとも深い部分と密接していながら、日常には、ほとんどあらわれてこない。いったい、夢というのは、どういうものなのか、きわめて不思議な事柄のような気がします。
 池田 今回は夢談義だね(笑い)。たしかに、夢というのは、ちょっと常識では理解できないことが多いが、これも夢に限ったことではないと思う。
 たとえば、人間の意識とか心というもの自体、とらえどころがない。「身体と心」の章でもふれたが、人間の精神作用は、肉体をその発現の「座」にしていることは疑いない。
 では、そのなかのどこにあるのか。「心の内」とか「腹黒い」とかいっても、心臓や胃にあるわけではもちろんない。では脳細胞にあるのか。脳細胞そのものが、意識とか心であるとはいえない。脳細胞はそれらの発現の「座」であり、場であるにすぎない。意識、心そのものは、身体のどこを探しても、どこにも存在しないでしょう。しかし、身体を離れては一瞬も形成されない。
 川田 身体を座としていながら、そのもの自体を明確につかむことができないという意味では、夢における心とか精神の働きも、寤におけるそれらも同じだということですね。
 池田 寝ていて身動きしない自分が本当なのか――といっても、夢を見ているときには、眼球なんかはぐるぐる動いているそうだが――夢のなかで自由に動き回っている自分が本当なのか。夢は睡眠中の精神活動だから、幻のようなもので、関係がないといってしまえば、それまでだが、そうばかりとはいいきれない。
 また夢のなかでの自己は、苦しんだり、喜んだりしている。外見はどうあろうと、生命の起伏は厳然としている。
 仏法には空という概念があります。有か無かを超えた考え方ですね。夢という現象は、この空という概念を理解するための糸口になると考えていいでしょうね。
 川田 夢が、通常の概念でとらえきれないということは、いいかえれば、時間・空間の物差しでは、とらえられないということにもなりますね。常識的に考えても、夢には、時間とか空間という枠組みはないわけです。といっていいすぎならば、少なくとも崩れている。時空概念に秩序だてられる以前の混沌の状態ともいえます。
 では、そういう状態を、どう把握すればいいのか。夢という象徴的な事柄から話が始まりましたが、生命現象の一切を解明するのに、仏法の知恵は、どのような物差しを考えているのか、ここでは、こういったことを中心に話しあっていきたいと思います。
2  変転きわまりなき世界=仮=
 川田 空という概念が仏教独自のものですので、その空とか、また、その他の仏法の認識方法を述べた日蓮大聖人の著作から、参考になる個所を選んでみました。
 そこでまず「十如是事」には「我が身が三身即一の本覚の如来にてありける事を今経に説いて云く如是相(中略)如是本末究竟等文、初めに如是相とは我が身の色形に顕れたる相を云うなり是を応身如来とも又は解脱とも又は仮諦とも云うなり、次に如是性とは我が心性を云うなり是を報身如来とも又は般若とも又は空諦とも云うなり、三に如是体とは我が此の身体なり是を法身如来とも又は中道とも法性とも寂滅とも云うなり」とあります。
 だいぶ、仏教用語が入っていますが、このなかで「仮諦」と「空諦」と「中道」という言葉に着目して考えていきたいと思います。「中道」は「中諦」ともいいますから、この二つを合わせて「三諦」というのですが、ここにあらわされている空仮中の三諦が仏法の認識論の根本的なものですね。
 池田 「諦」というのは「審諦しんたい」ということで、″あきらか″という意味です。空・仮・中の三つの立場からものを見るとき、生命の本質、さらに広くいえば、宇宙の森羅万象の実相がことごとく明らかになるということでしょうね。これはおもに天台が確立した真理観だけれども、仏法がものを見るのに、固定した視点からすべての現象を判断しようとするのでなく、柔軟な姿勢でものを把握しようとしたことがうかがえるね。また、そうでなければ、生命のような、不思議なものの本質を見きわめることはできないということです。
 北川 少し余談になるかもしれませんが、数学においても、いまいわれたようなことがいえます。たとえば、ユークリッド幾何学の有名な「直線外の一点を通って、その直線に平行な直線は一つあって一つに限る」という第五公準は、長い間、人々に絶対の真理と考えられてきたわけですが、それも空間の一つの見方、立場であったわけです。平行線は無数にあると考えても、一つの幾何学ができあがるし、また、逆に一つもないと考えてもよい。
 たとえば、球の表面を平面と考え、球の大円――つまり球と球の中心を通る半円とが交わってできる円――を直線と考えた場合は、直線外の一点を通る平行線は一本もない。逆に、馬の鞍のような平面を考えると、平行線は無数にあることになります。非ユークリッド幾何学がそうしてできあがっているわけですが、それが立派にアインシュタイン(アメリカ〈ドイツ生まれ〉の理論物理学者。一八七九年〜一九五五年)の一般相対性原理の証明などに役立っているわけですね。現代数学、物理学などは、非ユークリッド幾何学なしには考えられなくなっています。
 というより、現実の宇宙空間自体が、非ユークリッド空間ではないかとさえ考えられている。たとえば、アインシュタインは「有限ではあるが限りがない」という奇抜な四次元空間が、この宇宙の実像だといっています。まっすぐ上へ上がりつづけると、宇宙の「縁」をまわって、もとへもどってくるというのですね。
 川田 私、よく、やさしく書かれた物理学の書物を見るのですが、そこに、この有限ではあるが、しかも限りがない、ということを説明するための図が描かれてあります。それを見て、宇宙というのもこんなものかな、と少し実感がわいたのですが、その図では四次元より一つ次元をおとしまして、三次元で説明してあります。四次元だとちょっと図に示すことがむずかしいんでしょうね。
 それは、ちょうど、風船玉がありまして、そのうえを一匹のアリがはっていく。アリは、その風船玉の表面を一生懸命に歩いていく。とうぜん、ひとまわりすれば、もとのところへもどっているのですが、それでもまだ歩いていく。いくらでも前へ進めるのですね。だから、限りがない。しかし、もとにもどって何回も同じところを回っていますから、有限なんですね。アリには、それがわからない、といったようなことです。
 北川 そういう図がよく示されていますね。まあ、一つの参考にはなるでしょう。ところで、数学とは少し違うかもしれませんが、とくに生命、宇宙といった本質的なものを的確につかもうとすれば、固定的な見方ではとらえきれないものがあるのではないでしょうか。
 川田 たとえば、緑色のかかったサングラスをかけている人には、世界全体が緑がかって見える。もちろん、そんなことはないでしょうが、もし生まれ落ちたときからサングラスをかけられていたら(笑い)、その子は、世界はそういうものだと思いこむはずです。それでも立派に一つの世界観が構成されていくわけですが、それでは世界を通常の色彩でとらえてはいない。
 同じように、ある一面の見方だけで宇宙や生命について、一つの概念を構成したとしても、それが宇宙と生命の全体的な把握といえるかどうかは疑問ですね。精神とは脳神経細胞の様態であると考えたり、森羅万象をすべて分子、原子の状態に分割して考えたりしても、それはそれで一つの世界像は構成されるとしても、あくまでも一面の真理であって、総合的な把握とはいえないと思うのです。
 池田 これから空・仮・中のそれぞれの見方を話しあっていきたいと思うけれども、仏法のこうした柔軟な見方が、これまでは、逆に「あいまい」であるとして、軽んじられたり、非科学的だとして、排されてきた傾向があるね。とくに、仏教経典では、神秘的、詩的、抽象的、譬喩的な表現が多く用いられているため、そうした本質がよく理解されなかった面があるのではないだろうか。
 その点、西欧哲学や科学の、イエス・ノーのはっきりしている厳密な論述の仕方は、あいまいさがなく、明快なところから、より強く受けいれられてきたともいえるような気がする。しかし、こうした特質をふまえたうえで、仏法の柔軟な、多面的なものの見方というものが、そろそろ見直されていかなければならないのではないかと思う。科学の発達が、生命・宇宙のますます複雑微妙な諸相を明らかにしていきつつある現状は、東洋的とくに仏法的なものの見方、知恵を強く要請していることを、私は痛切に感ずるのです。
3  川田 それでまず「仮」ということですが、先ほどの「十如是事」には「我が身の色形に顕れたる相」とありますね。「色形」とは、私たちが現実世界に「延長」としてとらえることができるもの、いわば空間的な広がりとして把握できる側面をいうと考えられます。
 北川 もちろん、色形といっても視覚に限られるのではなく、科学の「眼」でとらえられるもの、たとえば、電子顕微鏡では、原子の単位まで観測しうるようになっていますが、それらも含まれているわけですね。
 川田 いや、それだけではないですね。音波としてとらえられるものなども、色形と考えてよいのではないでしょうか。
 池田 それらを含んで「量」として測定できるものすべてを「色形」と考えていいでしょうね。それを「仮」と見るのが、仏法の考え方なのです。つまり「変化」という見方ですね。あらゆる現象が変化してやまない、仏法的な表現をすれば、″因縁によって仮に和合している″のだ、という認識の仕方です。
 北川 「仮」と見るのが、おもしろいですね。
 池田 そう。現実相を見るのが仮だけれども、その奥に真実があるという発想が、この「仮」という表現にあらわれているね。
 しかし、たしかに宇宙、森羅万象の現象は、ことごとく移ろいゆくものであることは疑いない。これは、人間生命とても同じです。成住壊空、生住異滅、生老病死、それぞれ一瞬もとどまることのない世界・生命の諸相を分析している。なのに、それが変わらないものだと思いこみ、執着するところに不幸の原因がある、というのが仏法の思想です。そこで一切は転変つね無きものだとしても、この無常の世界にどう対処するかが問題です。
 それをどう乗り越えていくか。逃避するのか、挑戦するのか。以前、書いたことがあるのだけれども、諸行無常というのは、人生のはかなさ、栄枯盛衰を示す諦観主義だと、現在では受け取られているが、本来は、変化してやまない森羅万象の動きの本質を見つめるところに、真実の幸福への鍵があると説いた卓見なのです。
 北川 そういえば、諦という字も、「あきらめる」すなわち、明らかに見るという意味であるにもかかわらず、放棄するとか逃避するというように考えられていますね。明らかに見た結果、自分が無力であることがわかって逃避したのでしょうか。(笑い)
 池田 それはともかく、仏法においては、そのように、宇宙の森羅万象を「仮」であると見ながら、しかもそれが「和合」していると認識している。衆生というのは、五陰が仮に和合した姿だというのですね。
 川田 「身体と心」の章で、放射性物質を使ってのデータをあげたことがありますが、人間の身体は、一瞬一瞬、新陳代謝を繰り返していることは事実ですし、たえず外界と接触し、外界のものを受けいれ、こんどは外界へ働きかけていく。
 したがって一つ一つの細胞、つまり、原形質と核とからなっている総和が一個の人間を形成していると考えると、一瞬一瞬、人間は変わっていくと考えざるをえない。仏法では、これを五陰仮和合というのですけれども、この五陰とは、色および受・想・行・識という外界からの受容、それに対する発動という精神面の働きも含めて、それらが和合して衆生をつくる。つまり人間とか生物なんかをつくるという、一歩思索を深めた考え方です。
 ですからAならAという人間があれば、それは五陰、すなわち色受想行識が、仮に和合している姿だというのですね。しかし、その五陰そのものについては、この鼎談のなかで、また、くわしく取り上げたいと思いますので、ここではさらっとふれておきます。
 この五陰という考え方は、衆生、つまり、人間生命をはじめとして、一切の生物体をつくりあげている要因になるものだと思いますが、その和合体がAという一個の独立した生命をつくっている。しかし、それは「仮」に和合したものですから、つねに変化しているわけですね。
 池田 宇宙そのものさえも、刻々と変化しゆくものであることは、現代の天文学が明らかにしていることです。だいたい、現在の宇宙は、三百億年ぐらい前から膨張を始めたというのが、定説になっているね。G・ガモフ(アメリカ〈ロシア生まれ〉の物理学者。一九〇四年〜六八年)などは、そうした爆発説をとっている。そのほか振動説もあるが、それとても現在の宇宙が膨張しているということは否定のしようがない。
 一時、話題を呼んだ定常宇宙説は、こうした爆発や振動を否定し、絶え間ない物質の創造によって、宇宙は定常状態をたもつと主張したけれども、難点も多いし、この宇宙論でも、大宇宙が固定した、まったく動かない存在だということはいっていない。絶えず流動し、膨張しつつも、大局的に見れば、大宇宙は変化しないと説くだけだからね。
4  北川 私たちが、いま見ている夜空の星座も、天文学でいった場合の宇宙の創成期、といって悪ければ二百億年前の、全宇宙が集まった超過密状態の時には、まったくなかったわけですし、どんどん変化して現在のようになった。これも何億年とたてば、まったく変わってしまうことはたしかです。北斗七星の「ヒシャク」もひしゃげてしまうでしょうし、オリオンの三つ星も内部分裂を起こしてしまうかもしれない。(笑い)
 川田 星雲自体も、非常に長い期間をかけて、生住異滅のコースをたどっているのでしょうね。大爆発を起こしているカニ星雲などは、現在、地球にいる私たちにとって、爆発していると観測されているのであって、地球から四千二百光年も離れたところにありますから、四千三百年前の出来事で、現在あそこへ行ってみれば、といっても行けませんけれども(笑い)、どうなっているのかわからない。
 逆に、現在私たちにはまだ観測できませんけれども、宇宙のそこかしこで、どんどん新しい星雲が形成されているであろうことも、十分考えられるわけですね。数千万年とか百億年というような長大な時間をかけて、姿を変えていっています。
 池田 それが一つ一つの星という単位になると、もっと忙しくなるね(笑い)。それでも地球でさえ、すでに五十億年を過ぎている。現在は安定した壮年期の星だが、やがては、太陽に呑みこまれたりして死を迎えるのは明らかです。宇宙空間にただよっている星間ガスが集まって恒星や惑星をつくり、それが、やがては安定期を過ぎて爆発したりして一生を終えることは常識とさえなっている。その星の最後の状態を超新星と表現しているのは、輪廻りんねの思想を暗示していておもしろい。
 北川 こうした星にくらべて、人間の寿命などは問題ではありません。人類そのものの歴史も、地球上に生まれた生命の歴史から見ると、つい最近のことです。いわば新参者というわけで、生物の歴史のなかの最後の一瞬、もっとも現在を最後としてですが、そこにあらわれでたのが、人類ということになります。
 地球の歴史を一日二十四時間とすると、人類が出現してからは、まだ四十秒程度しかたっていませんし、生物誕生の瞬間からを一日と考えても、せいぜい五十秒という短さなんですね。そう考えると、この現実の世界が″仮和合″だというのは、強い実感をもって迫ってきます。
 川田 物質を構成している基本単位の原子、分子、素粒子となると、われわれの想像を超えていますね。素粒子、これは物質を構成する根本、究極の粒子だろうということで名づけられたわけですが、素粒子の一生は、一秒の数千万分の一ぐらいの単位になっています。
 一瞬の人生といいますが、素粒子の寿命は、私たちが一回瞬きする間もないわけで、じつに短い一生です。高速で走っている素粒子は相対性原理のおかげで、寿命が三倍も長くなったりするというようなことがありますが、長くなるといっても、数千万分の一秒の三倍ですから……。(笑い)
 池田 たしかに「色形」を追究していくと、そこには変転かぎりない様相が浮かび上がってくる。仏教経典には、女性に心を動かされる修行者に対して、その女性が白骨になった姿を想像して、執着を断てと教えたところがあるけれども、それは小乗的な発想でありながら、動き、生滅し、発展しゆく色法の世界の根本をとらえているね。
 そうでありながら、みごとな和合の姿をとっているのが、生命のすばらしさだと思う。原子や分子の単位で考えるなら、それぞれはまったく無機の物質であり、素粒子にまでいたると個性さえもないことになる。それらが、単純なものから複雑なものへと構成され、連鎖していって、複合体をつくっていく。人間という複雑きわまりない生命体になると、膨大な量の情報によってつくりあげられているわけだ。
 川田 五十億ともいわれます。
 池田 その五十億もの情報によって、われわれの身体は精密微妙に構築されて、意識をもち、喜怒哀楽を感じることができるわけだね。仏法の「五陰仮和合」という表現は卓見としかいいようがない。さらに、地球も一個の「超生物」と考えられるし、大宇宙が一定のリズムをもって運動している姿、生命をいたるところではぐくんでいる姿も、和合というか、調和への方向性をもった大生命と考えることができるのではないか、と私は思うのだが……。
5  北川 物理・化学においては、「エントロピー増大の法則」というのがありまして、わかりやすくいえば、秩序から無秩序へと世界は移行すると説明しています。エントロピーを一言で表現するのは、むずかしいのですが、不規則性とでもいったようなものです。
 つまり、あらゆる現象を見ると、長い時間では規則的なものが、徐々に不規則になっていくというのが、エントロピー増大の法則なのです。
 たとえば、大きな箱の片隅にビリヤードの球を、たくさん置いておき、その箱をゆすると、長い時間には、その箱に一様に散らばってしまう。また、熱いものと冷たいものが、だんだん差がなくなって同じ温度のものになってしまう。
 運動エネルギーは、どんどん熱エネルギーに変わって、それがすべて運動エネルギーにもどることはない。こういう不可逆の世界にいるというわけなんです。
 大宇宙の単位で考えますと、爆発説では、エントロピー増大、振動説によると、現在はエントロピー増大の時にあたるわけですが、収縮すると、エントロピー減少になります。定常宇宙説では、エントロピー不変となりますけれども、局部世界では、つねにエントロピー増大の法則はたもたれているようです。
 ところが、生命を形づくるというのは、いわば、エントロピー減少ともいえる作業なんですね。無秩序から秩序へ、拡散から収縮へという動きです。先ほどもいわれましたように、宇宙空間に散らばっている星間物質が、どうして集まって星をつくっていくのか。その契機は何なのか。そういったところまでは、現在の天文学でも探りきってはいないようです。こうした生命を生成する動きは、まさに「和合」だという感じがします。
 池田 宇宙森羅万象の「色形」は「仮」であるから、一刻もとどまることがなく、それに目を奪われているだけでは、その実相はわからない。したがって「仮」を追っているだけでは、偏ったものの見方になる。
 そこで、こんどは「空」という考え方に入ってくる。というより「色形」を「仮」たらしめる発想は、じつは「空」にこそあるのではないだろうか。
 「空」の概念は仏教独特の発想であるわけだけれども、仏法の深さはここにあると思う。
6  時空の枠組みを超える=空=
 川田 一般に、「空」は「有」と「無」の見方を超えたもの、すなわち「有」といえば「無」であり、「無」といえば「有」である状態といわれています。禅問答じみていますが、では「空」とは何か。日蓮大聖人の「十如是事」には「如是性とは我が心性を云うなり是を報身如来とも又は般若とも又は空諦とも云うなり」とありますが、私たちの性分とか精神とか心理などをさしているようですね。
 池田 逆にいえば、あらゆるものの性質、性分は「空」だということです。この「空」という概念は、非常に誤ってもちいられ、あるいは解釈されている。微妙な概念だから、表現も単純ではなく、西欧の人々からみると、仏教が、いったい何をいっているのかわからない、と首をかしげざるをえない代表的な言葉とされているようだね。日本人でさえ、この「空」を正しく理解している人は皆無と考えていいのではないかな。
 現代人は「有」と「無」の二つの物差しで、すべて説明されなければならないと考えがちなのだからね。ところが、冒頭の夢の話にもあったように「有」と「無」という単純なカテゴリー(範疇)だけでは包含できない存在があることもたしかだ。
 川田 「有」と「無」という判断基準は、いわば、私たちが日常もちいている時間・空間の概念と同じですね。カントが「人間は時間と空間のワクを通して外界を認識する」といっているとおりです。
 私たちは、物を認識し、測定し、計算するのに、時間と空間という物差しをもちいています。空間にはタテ、ヨコ、高さの三次元がありますから、それと時間とをあわせて、四つの物差しさえあれば、仮の世界は容易に追跡できるわけですね。
 ところが「我が心性」となると、こうした時間・空間の枠組みを超えています。したがって「有」と「無」の範疇には入らないわけです。
 池田 そうだね。「我が心性」というものは、たしかに、その存在を否定することはできないが、あると思って追究してみても、心性自体は、色も質もないものです。
 しかし、「無」かと思うと、心は千変万化の姿をして「色」の表面にあらわれでる。したがって、「有」と決定するわけにもいかないし、「無」と決定するわけにもいかない。「有」か「無」かという概念からは説明できないわけです。
 北川 この「空」というのは、「有」に対する第二の概念というより、「仮」の世界を説明するのと同じ発想であり、「有」と「無」で一つの概念と考えられますね。
 「仮」の世界は「有」「無」の次元で追究できる。しかし「空」の世界は「有」「無」の次元ではとらえきれない……。
 川田 私も、そうだと思います。ところで、この「空」は「我が心性」だけでなくて、物の「性質」あるいは「本性」といったことは、すべて「空」といえますね。
 たとえば、ダイヤモンドも炭も同じ炭素からできています。ところが、同じ炭素でありながら、その分子の配列によって、ダイヤは、炭とは似ても似つかないものになっている。このダイヤをダイヤたらしめている「本性」、これは「空」の概念でとらえられますね。
 池田 そう。戸田先生が「怒る」という「心性」で「空」を説明されたように、ものごとの「性質」は、すべて「空」という状態であるわけです。怒れといわれても、どこにもその実体はない。ないのかというと、縁にふれていくらでもあらわれてくる。したがって「無」ではない。
 では、あらわれてこないときはどうなっているのか。仏法では、これを「冥伏」という表現で説明しているね。これに対して、色法の世界にあらわれているのを「顕在」という。外界の種々の縁によって、冥伏と顕在の間を往来している性分が「空」だともいえるでしょう。
7  北川 ところで、この「有に非ず無に非ず」式の表現は、仏法では非常に多いですね。
 小説『人間革命』にも引用された、「無量義経」の文などは、「其の身は有に非ず亦無に非ず、因に非ず縁に非ず自他に非ず、方に非ず円に非ず短長に非ず……」(妙法蓮華経並開結72㌻)と、ずらっと三十四も否定ばかりならべて、結局「仏」「生命」というものを説明しようとしている。こうした表現が「空」をとっつきにくいものにしている原因の一つのようですね。
 池田 そう。それが有に非ず無に非ずで、無という解釈を否定しているにもかかわらず、結局は「無」に近い感覚で受け取られている原因でしょうね。
 ところで、このように否定形で表現しようとしたのは、もちろん、空が有無の概念を超えているからだけれども、もう一つは、既成の価値判断の枠組みを否定しようとしたことにあると思うのです。
 たとえば、生命の奥深くにある無意識というか、日常生活に直接にはあらわれてこない広大な精神の世界を説明しようとすると、すぐせっかちに、それは、物質的欲望なのか、性の衝動なのか、神経細胞でいえば、どの辺の作用なのか、というように既知の内容の枠組みに押しこめて理解しようとしてしまう。
 ところが、この広大な精神の世界は、それらの既成の概念には入らない新しい世界なのだということを示さなければならない。それには、まず、それまでに用いられてきた認識の枠組みを否定することから始めなければならないわけです。それが「非」の羅列という表現法になったのだと思う。
 したがって、「無量義経」の「非」も、たんなるネグレクト(否定)ではない。既成概念へのネグレクトであり、皮肉ないい方をすれば、通常のネグレクトに対するネグレクトだといえないこともない。
 「仏」というと「どういう姿をしているのだ」とすぐくる。ところが、生命そのものなのですから、こういう姿をしているというようなものではない。
 「方に非ず円に非ず短長に非ず……」式の表現になったのだね。
 川田 色法の世界を「仮」として突き放していくと、どうしてもペシミズム(厭世観)におちいる傾向が出てくる。小乗教の修行者には、この世界を「無」と感じる傾向が強かったように思うのです。
 もちろん「空」という概念は知っていたでしょうが、それを「虚無」に近いものとして受け取っていた。大乗教は、その既成意識を排し、新しい空の概念を確立しようとして起こったのかもしれませんね。
 ところで、「空」の世界である精神の分野ですが、心理学、精神分析の分野においても、その世界を追究してきた結果、いわゆる時空概念、あるいは、有無の範疇ではとらえきれないことを明らかにしており、仏法の「空」の説明と非常に似かよった解釈をしているのですね。精神分析においては、精神世界における無意識の内奥をさして、「イド」または「エス」と称しておりますけれども、そのイドについて、精神医学者である土居健郎氏の『精神分析』(『現代心理学体系10』所収、共立出版社)によりますと、こうなっています。
 「それは、まず組織を全く欠いている。それは方向がなく、論理をしらない。もちろん道徳以前のものである。従ってイドの中の衝動はてんでんばらばらであるが、それでいて相殺することもなく、離反することもない。混沌としているが矛盾はないのである。なおイドの中では、時間の経過というものもないと考えられる」
 時空概念による明確な位置づけはまったくできないし、混沌そのものである。しかし、それ自体矛盾はまったくない、という説明です。
 北川 道徳以前のものというのは……。
 川田 これは道徳的でないということではなく、環境によって道徳として形づくられる以前の原初状態であるということです。
 池田 なるほど。イドというのは、人間が本来もっている本能的欲望をも含んだ、人間生命に内在するすべての生命的なエネルギーともいったものだろうね。善とか悪とかという、価値判断の枠組みをも超えており、右か左かというような論理的判断以前のものであるわけだ。
 しかし、そこには強い不断の発動性があり、人間が人間として生きていくための強力なエネルギーがある。人間が生きていくための原始的精神エネルギーのようなものなのかもしれない。そして、それは、とうぜん混沌の世界でしょう。しかし、矛盾もなければ相殺もない。混沌ではあるが、そこに生ヘの方向をはらんだ、みごとな調和と統一があるということでしょうね。
 むしろ、融合といったほうがいいかもしれない。そのイドが外界との接触をとおして、一個の人間の活動を生みだしていくわけだね。これは「空」以外のなにものでもないといえます。
8  川田 それから、遺伝子であるDNAに含まれる情報なども、「空」といえるのではないでしょうか。人間は、それこそ、膨大な量の遺伝情報を一個の人格のなかにもっています。
 これはDNAの組み合わせを意味するわけですけれども、五十億ともいわれるこの情報というものは、人間が一生かかっても、とても使いきれるわけではない。ほとんどの人はその数分の一だけを使うにすぎないともいわれています。この情報というのは、ユング的にいえば、過去のあらゆる体験、知恵というものが、ぜんぶ入っているわけですね。
 北川 たとえば、人間がヘビなどを一様に嫌い恐れるのも、過去に恐竜類に迫害を受けた古い体験が情報として、すべての人々に組み込まれているのではないか――というようなことですね。
 川田 その情報というものが、ほとんど使われない。いかなる天才でも、大脳の三分の二は使われないままで眠っている。出しきれないまま一生を終わってしまうわけです。
 もし、最大限に情報を使いきることができたとしたら、現在の私たちの能力をはるかに超える力が発揮されるでしょうね。
 池田 一人の生命のなかに、無限ともいえるほどの可能性を秘めているということだね。ただ、人間の性質は、善悪両面を兼ねそなえているものだから、賢くなるということは、同時に悪賢くなることでもありうる。最大限に情報を使えると仮定しても、それを、どう善の方向へ導いていくかは、大きな問題として残るにちがいないね。これ以上、悪賢く残忍になられたら困る面も出てくる。(笑い)
 そういう「情報」自体は、たしかに「空」の存在ですね。それが種々の外界との接触、体験によって、一個の人格のなかにあらわれてくる。それで、「仮」になり、「有無」でとらえられる次元に入ってくるけれども、情報自体、情報が情報として眠っている状態は、顕現への可能性を秘めた冥伏の状態だから、「空」ですね。
9  北川 少し話は変わりますが、物理学という学問は、徹底して「有無」の世界を追究する学問です。有とも無ともいえないなどというのは、物理学の敗北であるとさえ、従来、考えられてきたわけです。
 ニュートン(イギリスの物理学者、天文学者、数学者。一六四一年〜一七二七年)を頂点とする古典物理学では、目に見える世界、測定可能な世界の追究を中心として、宇宙の一切の原理・法則を明らかにしようとしてきた。
 ところが、アインシュタイン、ボーア(デンマークの物理学者。一八八五年〜一九六二年)などにより、場や光子、あるいは素粒子という究極的――もちろん、これが本当の究極であるかどうかわかりませんが――そういう段階になって、きわめて「空」に近い概念を導入しなければならなくなってきた。
 ふつうなら「状態」とか「性質」というのは、物質の分布とか媒体の存在などによって、二次的に明らかにされてきた面もあるのですが、性質や状態を一義的に仮定し、そこから物質の世界へもどって説明しなおす、というようなケースがでてきています。
 川田 たとえば「場」の理論などもそうですね。これは光を運ぶ媒体は何か、を追究してわかったことですが、ふつう、光とか音などの波が離れた地点ヘ到達するには、何かを媒体として伝達されるはずだ――というのが、定説になっていたわけです。音なら、空気とか、水とか、金属などを媒体として伝わる。
 ところが、光の場合は、種々の厳密な実験の結果、これは、マイケルソン=モーレー(マイケルソン=アメリカ〈ドイツ生まれ〉の実験物理学者、一八五二年〜一九三一年。モーレー=アメリカの化学者、物理学者。一八三八年〜一九二三年)の実験として有名ですが、光は真空の中も伝わることが明らかになった。
 これは当時は、驚天動地のことだったのですね。真空とは何もないところなのに、そこを波がどうして伝われるのか、大問題になったわけです。それだけでなく、電波、磁波なども、真空中を伝わる。これらをどう説明するか、というところから「場」の理論が生まれた――。
 北川 結局、真空、空間には、それらを伝える性質があるのだということを、まず認めてしまったのですね。そういう空間の状態を「場」と呼んだ。電場、磁場、重力場ですね。
 池田 よく電力線、磁力線というように空間が電気的、磁気的な性質をおびているのを、たとえば、磁力線なら鉄粉であらわしたものだけれども、空間自体が特殊な状態にあり、そこに置かれた物体は影響を受けざるをえない。それを空間自体に、もともとそういう性質があるのだと規定すると、それはとりもなおさず、「場」が空の状態であるということになる。
 おもしろいのは、そういう状態を物理学などでは、「空間のゆがみ」として表現していることだね。空間自体は、ゆがんでいるのかどうかはわからない。ただ、何もない真空でありながら、そこに置かれた鉄粉なら鉄粉が、磁場により力を受けざるをえない。そういう力を空間が内包している感じを「ゆがみ」として表現したのだろうね。
10  北川 重力場の考えを唱えたのは、アインシュタインですけれども、そういう立場に立つと、物が落ちるということのとらえ方も少し違ってくるんです。ふつうなら、投げ上げた物が落下するのは、地球の引力によって引きつけられて落ちるというわけですけれども、重力場の考えですと、重力線の上を移動するわけですね。
 川田 それから、光についても、先ほど光が波である場合の説明がありましたが、粒子と波の二つの性質を同時にもっているのですね。こういうことは、私たちの常識で考えられないことなんですが、現実に、実験の結果は、光は粒子であると同時に波である、という二つの性質をあわせもっていることを示している。
 北川 少しむずかしくなりますが、光電効果は、光が粒子であると考えなければ、説明ができないし、光の干渉作用は、波ととらえられることを要請していますね。
 川田 そうです。そこで「量子」という考え方が生まれた。ところが、この二つの性質を認めてしまいますと、光の性質というものは、もう単純な説明では理解できなくなってしまうわけです。運動に相対性をもちこむという画期的な、奇想天外ともいえる理論を打ち立てたアインシュタインでさえ、この量子という考えについては、ボーアなどと論争して、結局は、誤りを認めざるをえないようなこともあったようです。
 北川 光子が波と粒子の両方の性質を同時にもっている、ということをわかりやすく説明したものとして、朝永振一郎博士(物理学者。一九〇六年〜七九年)の「光子裁判」という随想がありますが、そこでは、光子を犯人に見立てて、家の外から中へ入るのに、同時に二つの窓を通り抜けるということがありうることを説明しています。もし、どんな犯人でも、そういう特技をもてば、裁判ではやっかいなことになるでしょうが……。(笑い)
 ところで、この粒子と波という二つの性質は、光だけでなく、究極的には、すべての物質がもっているという考えがありますね。
 川田 ド・ブロイ(フランスの理論物理学者。一八九二年〜一九八七年)はそういっています。つまり、物質波ですね。むしろ、そう考えるほうが自然で合理的ですね。
 池田 アインシュタインは、そういった考え方の基礎に立って、統一場の理論を打ち立てようとした。電場と磁場は電磁場として、総合的に把握されていたけれども、重力場の考え方も入れて、全宇宙を一つの統一的な「場」で、説明しようという考えですね。それは、まだ完全にできあがったわけではないけれども、その方向性は正しいように思う。そして、エネルギーが多量に集中しているところが物体となり、少ないところが場になるという考えですね。
 そうなると、物質と場は、いままでは異質のものと考えられていたわけだけれども、本来は同一のものが別形態をとって顕現したのが、それぞれ物質であり、場の空間である、ということになる。とすると、こうした空間というものは、やはり、有とも無とも固定できない実在であり、しかも、それには物質を誕生させるあらゆる可能性を含んでいることになる。
 北川 大きくいうと、宇宙生命自体が「空」の状態で存在するというふうにとらえることができるようですね。
 それから、物質の究極単位として考えられてきた素粒子の問題ですが、これが「素になる粒子」の域を越えて、数百種類も見つけられているわけで、素粒子という名は適当でないとか、基本粒子を捜そう、というような試みが行われていますけれども、この素粒子自体、粒子という概念を離れつつあるんですね。
 湯川博士は「素領域理論」というのを打ち立てていますが、これは、かんたんにいえば、そういう究極のところは、点や物体という考えだけではつかみきれない、領域を考えなければならない、ということだと思います。湯川博士はよく「マル」で表現していますが、そういうつかみ方が必要になったことは、非常に興味深いことです。
 池田 物質、色形の究極における姿が、空間との関係において、「空」に近い概念を導きだしているということは不思議なことだね。また、深層心理学の最先端で、「空」に近い表現でものごとを説明しているのはおもしろい。物質の究極とか、心の内奥という、もっとも基本的なところへくると、そういう状態であることを認めざるをえないということですね。
 いずれにしても、「空」という概念、いわゆる「有」か「無」かで割り切ってしまうという判断形式を打ち破るこの「考え方」は、「あいまいさ」ということではない。たとえ、「空」という概念が「あいまいさ」を意味するものであったとしても、そのあいまいな、混沌としながらも、秩序ある調和を示している状態こそが、世界・宇宙の本質ではないかということに、最先端の科学が気づき始めたということではないだろうか。
11  一貫して不変の「我」=中=
 川田 ところで、このように「仮」という見方、「空」という見方だけでは、まだ、物事の本質をとらえきっていません。そこに「中道」という考え方が導入されてくる所以があります。この「中道」という言葉もまた、これほど誤解されている言葉はないですね。ある場合には、「空」以上にあいまいな概念として受け取られています。
 北川 「十如是事」には、「如是体とは我が此の身体なり是を法身如来とも又は中道とも法性とも寂滅とも云うなり」とあります。ここで「我が此の身体」とあるのは、色法の肉体という意味ではありませんね。
 池田 そう。「仮」と「空」を支えている生命の本体、また、「仮」と「空」を含んだ生命の実在という意味でしょうね。われわれの生命を構成しているものとして、まず「仮」としてとらえられる色法の世界がある。肉体としての姿、形、色ですね。そして、その生命体のもつ特性、性分は「空」の状態でそなわっている。
 しかし、それだけで生命の全体像となるかというと、そうではない。「仮」「空」の世界をつくりだす本源としての存在がある。それが「中道」という発想です。したがって、外見の姿、形は刻々変化し、特性、性分も変わる。しかし、そこに一貫して流れる不変の実在がある。それが「中道」ですね。
 川田 人間生命について考えてみますと、AならAという人の肉体は、仮和合で、瞬時もとどまることなく新陳代謝を繰り返している。それは「仮」のところで話しあったとおりです。また「空」の世界である性分も、外界の縁にふれて、冥伏から顕現へ、顕現からまた冥伏へと変遷しますし、また、どんどん心の世界、精神の豊かさとして形成されていくこともあります。したがって、「空」もまた動いてやまないものとなる。
 では、Aという人は、つねに動き、変化しているから、昨日のAは今日のAではもうないのかということになります。しかし、このように変転を繰り返しながら、しかも、そこに一貫してAという人間が確立しているのですね。「仮」の世界も「空」の世界も、五歳の時のAと三十歳、四十歳のAとはまったく別人といってもよい。しかし、だれも別人とは思わない。顔立ちが似ているとか、考え方が共通しているとか、記憶があるという表面上の連続性だけではなく、「空」や「仮」の世界を生みだし、たえず生を営んでいる「実在」があると考えざるをえないわけです。
 池田 これを、西洋流の言葉で表現すれば、「我」ということにもなるだろうね。しかも、生命のもっとも中核となる「我」だね。「本質我」という言葉を使ってもよいと思う。とくに西洋哲学のなかでは、実存哲学が「中」に近い発想をしているようだ。この世界に出現した自己の「我」というものを追究し、その根源を探ろうとしていると考えてよい。キルケゴール(デンマークの思想家。一八一三年〜五五年)の「単独者」、ニーチェの「超人」、ヤスパース(ドイツの哲学者。一八八三年〜一九六九年)やハイデッガーなどの「本来的自己」という考え方などは、それに近いね。
12  川田 実存主義という哲学の流れは、私たち自身が主体的に生きる道を求めようとしたものだと思います。そのなかで、西洋流の神を認める人たちと、神を否定する人たちがいますが、いずれにしても、人間らしい人生を求め、死とか不安とか絶望とかを乗り越えようとする自己変革に対する努力がうかがえます。
 いま池田先生のあげられたキルケゴールの場合は、最終的にはキリスト教的な神に行きつくのですが、とにかく、ただの一人で、不安とか絶望とかに対決していった。そういう人の生き方をつらぬく自我を「単独者」といったのでしょう。
 ニーチェの場合は、神を真っ正面から否定し、その代わり、人間が強くなる、つまり、西洋流でいう神に代わる力をもつ、そういう自我を求めて「超人」の思想ができあがってきます。さらに、ヤスパースやハイデッガーも、その哲学は違うにしても、ともに、死と不安とに対決して生きる自我、それを本来の人間のあり方だとし、「本来的自己」と表現しています。
 彼らには、日常の種々のことにとらわれ、ごまかされて、人間としての本来的自己を忘れてはならない、という主張が一貫してあります。つまり、実存主義の哲学者のなかには、自己の本質的な自我を直視しつつ、それを深めていった努力がありありとうかがえますね。
 北川 「我」というものを見つめることによって、自己の行動の起点、方向性がはっきりすることは考えられますね。唯物論は「仮」の世界を下部構造とし、それを根源としてとらえているし、観念論は「心性」を掘り下げた。しかし、唯物論や観念論などが行動の機縁になることは、「我」にくらべて薄い面もあるのではないでしょうか。
 たとえば、経済構造については『資本論』の姿勢をとるが、みずからの行動に対する発条としては、実存哲学をよりどころにしているというような青年も多いようです。
 池田 ただ「我」といっても、心理学等でいう自我意識とは、厳密にいえば、違う面もある。心理学でいう「我」は、意識と切り離せないし、精神活動の一部として、とらえられる。フロイトが、イド、自我、超自我と、精神を分析しているけれども、また、その自我には意識だけではなく、無意識層も含むわけだけれど、仏法でいう「我が此の身体」というのは、さらに生命の根源に迫り、生命そのもの、いわば全体像をさしていっているのです。
 たしかに自我意識や、フロイトのいう自我も、他人と区別するみずからの生命を考えているわけだが、仏法の「中」という考えにおける「我」の場合は、いうならば、「生命的我」ともいうべきもので、宇宙と生命の奥底に根ざした、生命の特性、特質というものがある、という考えです。
 川田 戸田先生が「我」を説明するのに、夢を見ているとき、その夢をじっと見つめつつ、苦しんだり、喜んだりしている存在があり、それが「我」というものを理解する示唆になるんじゃないか、という意味のことをいわれていましたね。
 ふつう、夢を見ているとき「これは夢だ」という感覚が起こるときがある。これは「いま起こっていることは現実であるはずがない」という意識が働いているわけですね。夢を夢として判断しているわけではないでしょうが、夢のなかで動き働いている自分を正確に把握してみるならば、そこに「我」がとらえられるのではないか、という意味だと思います。非常に興味深い示唆ですね。
 池田 ところで、このように、あらゆる存在は、空仮中の三諦でとらえることができるわけです。しかし、三諦といっても、それは一つの実在の三つの観点からの認識であって、決して別個に分離して考えるということではない。
 中道が空・仮なるものを支えている存在であるといっても、それだけでは、生命の本質をとらえたことにはならない。「中」が、「仮」にあらわれ、「空」として存在し、そして、その三つが、たがいに補いあって、一つの生命の実在をくまなく照らし晴らすのです。中道だけでは別教で説く「但中」の考え方で、これは円教・法華経からみれば、不十分といえるでしょう。
 つまり、三諦といっても一諦に含まれるし、逆に、一諦といっても三諦によってとらえた実在の一面だということができる。これを「円融の三諦」といい、「法華経」の極理であることは周知のとおりです。
 川田 私たち人間の生命が、仏界とあらわれたときには、「仮」から見れば、応身如来として、実証の姿を示し、「空」からいえば、報身如来として、仏智を顕現していくことができる。そして「中」から見れば、法身如来として、その身がそのまま仏なんですね。三諦が三身とあらわれるわけです。
 池田 円融の三諦によって、あらゆる生命的存在を、ありのままに把握することができる。あるいは変化し、あるいは不変であり、あるいは冥伏している生命の諸相を、正しく全体的につかむことによって、生命を開発し、変革していこうとした仏法の知恵は、深いものだし、一面からの探索にとらわれず、他の面から見直してみるという柔軟性が、やはり、生命とか宇宙という根源的なものを見つめるさいには、必要なのではないだろうか。

1
1