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日蓮大聖人・池田大作

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自然のなかの人間  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

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2  川田 私たちは、土のなかの細菌や、食べ物にもならない生物などには、ほとんど無関心ですが、これらの生き物と人間生命は、やはり、密接な関係があるのですね。
 今日、世界に巻き起こっている公害反対運動の支えとなる学問に生態学がありますが、この学問が見いだした自然界の法則の一つに、次のような原理があります。「すべての生物は、他のすべての生物と結びついている」という原則です。あたりまえのことのようにも思えるのですが、これは科学者が苦心の末にたどりついた、生物集団における″生命の糸″の発見といえますね。
 たとえば、私たちの周囲にある森や林の中では、多くの生物が生息しています。木々の梢では、小鳥がさえずっていますし、かれんな花をつけた草の間からは、すずやかな虫の音が響いている。土壌中には数えきれないほどの昆虫や微生物がうごめいています。そのなかには、農作物に害をおよぼす昆虫もいれば、逆に人間に味方する天敵もいます。また、ゴキブリなどという、あまり関わりたくない仲間も生息しています。(笑い)
 生物学者の計算によると、私たちが森に一歩足を踏み入れると、その足の下には、ざっと数えて四万匹の微生物が生を営んでいるというのです。「一踏み四万匹」と表現していますが……。しかも、これら無数の生き物は、複雑な″生命の糸″に結ばれて、たがいに助けあって生きているわけです。
 かんたんにいいますと、草木の光合成はよく知られた働きですが、その草木を食べて各種の昆虫が生をたもっている。その昆虫類を、鳥や獣がつかまえる。こんどは、それらの動物の死骸を分解して、草木の栄養分として利用できるようにする役割は、土中の微生物が担っている。そして、バクテリア、つまり、各種の細菌が分解した栄養分と、動物の呼吸作用によって吐きだされた炭酸ガスをもとにして、草木が生長し、酸素を供給するというわけです。ちゃんと一つの″輪″になっているのですね。
 だから、草木と微生物と動物の三者が協力しあって、はじめて、すべての生き物が生存できるというわけです。人間も動物の一員として参加していることはいうまでもありません。
 北川 海の中での、″食物連鎖″も、ほぼ似かよったシステムにもとづいています。食物連鎖というのは、おたがいに食物となる、また栄養分となる、といったような関係によって連なっていることをあらわしています。
 森の中などですと、いま話の出た、植物と動物と微生物の関係で、これらは、たがいに相克しあっているのですが、よく考えると、相克することが共存になっているのですね。相克を、もしやめるとすると、共倒れです。みんな滅びてしまう。
 海の中では、プランクトンと大小の魚のつくりだす″輪″が食物連鎖になっている。光を吸収し、有機物をつくりだすのは、植物プランクトンです。それを動物プランクトンが摂取する。そして、動物プランクトンは小魚などの小動物のエサになります。大型の魚は小さい魚を食べて生きているのですが、その死骸はパクテリアに分解されて、植物プランクトンに摂取されるのです。海に石油を流して、これらの生物が死んでしまえば″輪″が破壊されて、人間にとっての″海の幸″もなくなってしまいます。
 川田 石油も、この連鎖を破壊する重大な敵ですが、食物連鎖にのっかって人間生命に襲いかかるというか、傷つけるものがありますね。たとえば各種の有毒物質です。PCBとか、BHCとか、有機水銀ですね。水俣病の場合は、メチル水銀ですけれど、たとえば、これらの有毒物質を河とか海に流しますね。すると、大量の水で薄められるから、少々濃い原液を流しても大丈夫だろうと思うかもしれませんが、本当はまったく逆なんです。
 池田 食物連鎖によって、かえって濃縮されるのだね。
 川田 ええ。水の中ですと、まず、植物プランクトンですが、そこから、何段階も経て大きな魚になりますと、最初の一万倍から十万倍にもなります。
 北川 濃縮された有毒物質をたっぶり含んだ魚を、人間がいただくというわけです。事実を知ると、あまりいい気持ちはしないですね。
 池田 自然は生きているというが、みごとな関連をたもって流動する大自然そのものが、個々の生物体に劣らず驚くべき存在だね。まるで、一つの統一された意志と、全身にいきわたった神経系統をそなえた巨大な有機体の働きのようにさえ思われてくる。大自然のふところにいだかれて、無数の生き物が、助けあい、影響しあい、また、ときにはいがみあう姿を示すこともあるわけだが、全体としての調和と秩序は厳然として維持されているのだね。
 まあ、人間の行為が、この秩序を破壊したり、傷つけたりしなければの話だがね。ともあれ、自然界のこの姿は、私たちの身体が個々の細胞の生と死を含みつつも、統一された全体的な調和をかもしだしている働きにもたとえられるでしょう。
3  川田 分子生物学者・渡辺格博士はある月刊誌に「宇宙に潜む生命誕生の神秘」という論文を発表しているのですが、そのなかで「地球全体を一つの超生物であると考える見方もなりたつ。というより、近い将来、そういう視点が、ぜひとも必要になってくるような気がする」(「潮」昭和四十六年二月号、潮出版社)といっていますが……。
 池田 まったくそのとおりだと思う。大地をはぐくみ、海洋には″生命の水″を満々とたたえ、大気の成分は生物集団の呼吸を支えて、地球という惑星は、自転し、公転しつづけている。もちろん、ときには、台風やハリケーンが荒れ狂い、生物集団に襲いかかることもあるでしょう。大地が怒り、震動し、火山が真っ赤な溶岩を流すときもある。また、周期的に、地球全体の環境が激変することもある。
 たとえば、地球における氷河期は、約百万年前から、一万年前の洪積世の終わりまでつづき、海も河も大地も凍りついたといいますね。さらに、少なくとも、過去三十二万年の間に地球の磁場が五回も逆転したと報告されている。たしか、琵琶湖の地層を調べていてわかったことだったね。わかりやすくいえば、北極が南極になり、南極が北極にと入れかわるという大変動が起きたわけだ。
 だが、そのように波瀾万丈のドラマを織りこみつつも、三十億年におよぶ生物変遷の歴史を生みだした地球は、その中心部に四千度の燃えさかる火をかかえて、ほとんど無限と思われる宇宙空間をさすらっている……。地球自体が「超生物」であり、生命的存在であるとの視点が求められる時代に入ったのかもしれないね。また、渡辺博士が述べられたように、近い将来には、すべての人々の地球観も変わるだろうね。
 川田 たしかにそう思います。このような地球を守るために、一九七二年(昭和四十七年)六月には、ストックホルムで「人間環境会議」が開かれましたが、そのとき、世界各国から多くの生態学者や医学者が参加し、貴重な意見を交換しています。
 会議は「人間環境宣言」を採択して幕を閉じましたが、そこに一貫して流れる精神は、スローガンに掲げられた「Only One Earth(かけがえのない地球)」を守ろうとする人々の願いであり、情熱でした。
 この「かけがえのない地球」というスローガンにこめられた内容も、地球を一個の生命体であると理解することによって、ひしひしと実感できるのではないかと思います。
 池田 ただ、それが一部の動きだけではなく、すべての人が地球を生命的存在であると、感じるようになってほしいものだね。「Only*One」――″ただ一つしかない″ということは、広い宇宙をみれば、他にも生物の存在する世界があるのかもしれないが、少なくとも、私たちや子ども、孫などにとっては、地球はただ一つしかない世界であり、絶対に他にかけがえのない世界だからね。
 それと同時に、もう一歩視野を広げると、地球上にエネルギーを与え、万物の生を支えている太陽も、一個の生命的実在であると考えられるでしょう。また、太陽と同じような恒星も、それが生死流転の旋律を奏で、宇宙を旅する巨大な生命であり、活動体であることに変わりはない。そして、銀河系宇宙だけでも、約一千億個を数える恒星群の間には、精密な″見えざる糸″が張りめぐらされている。ニュートンの発見した万有引力の法則なども、星と星とをつなぐ、隠れた糸の一つだね。
 このように考えてみると、生物集団をめぐる生態学的な連鎖も、地球をつくりあげている大自然のさまざまな働きの間の関連も、星と星、星団と星団をつないでいる物理的な法則も、そのすべてが複雑にからみあい、総合され、統一されて、大宇宙のあまりにもみごとなハーモニーを織りなしていることになる。
 人間、生物集団、地球、恒星、星団へと階層をなして広がっていく大宇宙の様相を、私たちの身体との対比で、わかりやすく説明すれば、次のようになるのではないだろうか……。
 私たちの身体は、まず六十兆にもおよぶ細胞でつくられている。その細胞が集まって臓器や器官となり、また筋肉などの組織となる。しかも、すべての細胞の間には神経が張りめぐらされ、血液や体液がいきわたっている。人間生命や個々の生物を一個の細胞とみれば、生物集団は細胞群に対比されるでしょう。地球と太陽系などの系統は、心臓、肝臓、腎臓などの臓器、目や耳や歯などの器官等に対比されるね。
 川田 そうすると、恒星群ぐらいになると、さしずめ、筋肉群や骨髄系などの組織系ということになる……。
 池田 そういうわけです。そして、これらの各生命的存在にかかる″生命の糸″は、生命の秩序と調和を支える神経系統の働きや、ホルモンなどの化学物質を全身に運ぶ体液や血液の流れと考えられる。したがって、もし、脳卒中で血管が破れたり、心臓病による血栓が血流を止めたり、神経が動かなくなったりすれば、半身がきかなくなったり、手足が麻痺したりするように、大宇宙に張りめぐらされた一本の繊細な糸でも、ぷっつりと切断されれば、その影響力は宇宙のすみずみにまで広がっていくと考えざるをえないわけだね。
 宇宙を住所とする一個の細胞としての人間生命のみが、たとえ間接的であろうと、微小であろうと、その影響を逃れられるはずもないでしょう。そこで一つ提案したいのだが、私たちの生命論の現実的なスローガンの一つとして、先ほどの人間環境会議のスローガンをもう少し広げて、「Only One Cosmos(かけがえのない宇宙)」を掲げてはどうだろうか。
4  北川 私たちの生命論にふさわしい、雄大にしてしかも根源的なスローガンだと思います。現代の地球人が到達した発想の基盤――「かけがえのない地球」――をふまえつつも、それをさえ、はるかに超えた実践目標ですね。たしかに、宇宙の律動を無視しての人類の幸福と安泰は、所詮、はかない砂上の楼閣にすぎないと思われます。
 池田 人間生命のみならず、あらゆる生き物の生の尊厳を守るためにも、地球や太陽系の秩序ある営みを、決して傷つけてはなるまい。それが、どんなに小さいことであっても――。宇宙生命の内部に生をけたすべての生命的存在は″運命共同体″を形成しているといえるでしょう。
 川田 宇宙と人間生命との対比の話が出ましたが、ここで、ちょっと思いつくのは、身体を食いあらす癌の存在ですね。癌の行動というか、生き方は、宇宙における私たちの行動に、きわめて重要な示唆を与えているように思われます。
 人間の身体の中で、癌という細胞はきわめて利己的で、他の細胞を押しのけ、殺しつつ、異常なスピードで増えていきます。私たちのとった栄養分をひとりじめにして、毒素を出しつつ、臓器や組織をも食いあらしていくわけです。私たちがいくら栄養のある食物をとっても、そのほとんどが癌細胞に取り込まれるのですね。
 しかも、癌の行きつくところは、人間生命を滅ぼし、その結果、みずからも死んでしまうという悲しい結末です。癌が″狂った細胞″と呼ばれるゆえんですが……。
 私、つくづく感じるのですが、人間は宇宙という生命体における癌のような存在になってはいけませんね。
 池田 ところが、現実には癌のように利己的な人間も多いから困る。(笑い)
 しかし、地球上のすべての生き物にとって、宇宙の変転はかけがえのない生の基盤だと思う。″狂った細胞″に人間自身が変質しないための、あらゆる努力が必要だね。
5  環境と適応
 北川 宇宙という生命体には、数えきれないほどの見えざる糸が張りめぐらされていることは、先ほどから話題にのぼっていますが、私たちの周囲には、予想さえもしないような糸がからみついています。たとえば、地球上の生き物には、地球の重力が働いている事実は、いまでは、すべての人の常識です。だが、イギリスの宇宙物理学者デニス=シイアマの理論というのは、まことに奇抜ですが、真実でもあります。
 彼は次のように主張しております。「もし君が、一個のボールを空高く投げようとすると、君の手にボールの抵抗を感じるだろう。それは、なぜかといえば、宇宙の全部の星が君にボールを投げさせまいとして、重力的な作用をおよばしているからだ」というのですね。ちょっとひねくれた考えのように思えますが(笑い)、この科学者はまったく真剣なのです。
 たしかに、ボール自体に奇怪なしかけがあるわけではありません。しかし、ボールには地球の重力とともに、宇宙全部の星の総合的な重力が作用しています。その重力に逆らうから、手に抵抗を感じるのだという考えです。
 池田 宇宙の果てからの使者だね。百億光年を越える星であっても、その重力が地球上の生命活動に影響をおよばしているというのは、むしろ詩的だとさえいえるね。
 北川 ええ。それに太陽となれば、さらに直接的な影響を、私たちに与えています。もし、現在の太陽の表面温度が、ほんの少しだけ上昇したとしても、世の中の秩序は、まったくひっくりかえってしまいます。
 太陽の輝きが増すのだから、世の中が明るくなって助かるなどというのは冗談で、太陽が明るく熱くなると、紫外線も非常に強くなりますから、ちょうど年中、雪の中でスキーをしているようなもので、皮膚が真っ黒になり、やがて、日も小さくなっていくにちがいありません。
 川田 そうしますと、美人の評価基準も変わってきますね。色が黒くって、目の小さい女性が美人ということになり、色の白いのは、見向きもされない、なんてことになりかねません。そうなったほうが、助かるんだがなあ、という女性もいるかもしれませんね(笑い)。もう少し進むと、陸の上では暑すぎて、みんな水の中へ入ってしまう。そして、ずっとそんな状態がつづくと、人間の知能よりも、イルカのほうが優秀になって、人間がイルカに飼育されるようになる……。
 まったくの空想みたいですけど、理論的に進めていくと、こういうことになりますね。
 北川 大洪水も起きますね。そして、強い太陽光線に耐えられなくなり、人間の生存自体にも関わってきます。
 池田 なるほど。人間の生命活動が、太陽という生命体に密接に結びついているという実例だね。太陽や天体のほんの少しの変動でも、地上の生活に重大な影響をおよぼすものです。
 川田 最近、多くの学者から聞くのですが、激動する一九七〇年代に入って、牧口常三郎初代会長の著作が急激に脚光を浴び、人類の未来を憂える研究者の必読書になろうとしているといいます。とくに、そのなかでも『人生地理学』(聖教文庫)では、環境のもつ人間精神への影響力についての深い洞察が加えられているわけですが、それが注目されています。この書のなかで「環境と精神的人生」の相互関係を述べた部分を少し引用してみます。
 牧口先生の考察は、大自然と社会のすべてにまでおよんでいますが、代表として、山、植物、社会に関するところだけを取り上げてみますと、まず山についてですが、「いわんや山は人情を和らげ、人心を啓発するの天師たるをや。かならずや山によりて愛護せらるる国民は、山を見ること、あたかも子の親におけるごとけん。誰か山を愛せざるものあらんや。ここに至りて、これまで自己と相対峙し、自己と異なりたるものとせる山は、今や自己と同じく世界の一部員となり、自己と相関の交際あるものとなり、ここにまったく有情物と化す」とあります。
 植物については「要するに植物は吾人の美情を興奮し、吾人の殺気を緩和し、吾人の詩趣を発酵し、もって吾人の心情を涵養するものなり」と記されています。
 社会の心意作用に関しては「人が社会の制裁を恐れ、社会の褒賞を悦ぶことは、これすなわち社会に心意生活のありて作用することを承認するものなり。(中略)すなわち社会も個人と等しく智・情・意の心意作用を有するを観るべし」と述べ、その基盤を各個人の精神にあるとして、「各個人の脳髄は社会なる一つの大なる有機体の脳髄を組成せる個々の細胞にして、それらの細胞の運動が、たがいに相伝播し、連絡し、ついに社会の全員におよぼし、もって大なる社会精神なるもの生ずるなり」と結論づけています。
 池田 人間の精神と自然界や社会的、文化的な環境との相互作用が、みごとにつづられているね。この文章の真髄の意味については、後ほど、もう一度考えてみたいが、ここではただ、環境自体にそなわった″生命の糸″には、物質的なものばかりではなく、精神的、心情的な要素も含まれている事実に盲目であってはならない、という点を強調しておきたい。
 環境のもつ精神的な影響力に着目しなければ、たとえ肉体的な破壊は免れても、そのまえに、人の心は″精神公害″の毒素によって狂乱の巷におとしいれられるにちがいない。
6  北川 それから、やはり、環境と人間の関わりあいを深く考えるときには、日蓮大聖人の「瑞相御書」の有名な一節にある「夫十方は依報なり・衆生は正報なり譬へば依報は影のごとし正報は体のごとし・身なくば影なし正報なくば依報なし・又正報をば依報をもつて此れをつく」との文を思索する必要があると思います。
 この場合、四方八方という表現がありますが、十方というのは、それに上と下との二方を加えたものですから、全空間とか、環境のすべてをさしますね。
 そして、依報という言葉も仏教用語ですが、ここでは、すべての環境をさしていることを考えなければなりません。正報とは、環境とか依報に対する言葉ですから、生命の主体といえます。仏法では、これを衆生ともいっていますが――。そこで正報を人間生命とすれば、私たちを取り巻く一切の環境は、依報としてとらえることができるでしょう。
 この正報と依報の関係を、日蓮大聖人は「譬へば依報は影のごとし正報は体のごとし」と明確に定義されています。つまり依報は影のごとく、生命主体である正報によって動かされ、変革されていく存在であるとの意だと思います。
 こんどは逆に、生命主体としての正報は、それを取り巻く環境によって支えられ、つくられていくものであるとの観点も必要であると説かれています。つまり「又正報をば依報をもつて此れをつくる」の部分です。
 この二つの観点を、ともに考慮しつつ、総合していくときにはじめて、生命と環境との関連を完全に見きわめることができると推測されますが……。
 池田 そう。具体的にいうと、宇宙のすべての星のもたらす総合的な重力、太陽から発するエネルギーの流れ、大自然に網の目のように張りめぐらされた生態学的な糸、また牧口初代会長の洞察力によって、みごとに浮かび上がった大自然と社会の人間精神に与える影響などが、一体となり、調和され、統一されて、人間という生命主体をはぐくみ、つくりあげている。この事実を「又正報をば依報をもつて此れをつくる」との文は簡明に表現していると考えられる。
 だが「瑞相御書」に説かれた文の、より重要な論点は「譬へば依報は影のごとし正報は体のごとし・身なくば影なし正報なくば依報なし」の部分にあるといえるでしょう。正報を体にたとえられ、依報をその影とされた深い内容を、生命論の立場から思考してみると、こうなるのではないだろうか。
 人間生命はたしかに万物の営みによって支えられている。肉体がたもてるのも、精神がその活動を織りなせるのも、宇宙森羅万象の助けを借りていると考えてよいでしょう。
 しかし、いかに強力な宇宙全体の支えがあったとしても、宇宙からの働きかけに対応し、万物の支えを自己のなかへ取り込んで、みずからの血となし、肉と化していく生命主体の能動的な力がなければ、私たちの生命は、一瞬たりとも、維持し活動できるものではない。
 卑近な例をあげれば、どのように栄養たっぷりの料理でも、消化能力が弱ければ、それを吸収し、身体をつくる材料にすることはできない。また、いかに貴重な書物でも、その内容を吸収するだけの知的能力がなければ、ただの紙とインクにすぎないと考えられる。
 川田 そのところが誤って理解されている面が、多分にあります。たとえば、私たちは、ふつうに考えますと、消化管の中、つまり、胃や腸は身体の内部だと理解しがちです。ところが、医学的にいうと、消化管の中は、立派な外界に属するのですね。だから、種々の食物を口から入れて栄養がついたように思っても、消化・吸収力がなければ、少しも身体の内部に取り入れられないのです。
 たっぷりと栄養を取り入れたから生命力がついた、と錯覚してしまう人も多いようですが、細長い環境を素通りするだけなのですね(笑い)。もっとも、食物の消化・吸収力は、一般的にいえば、男性より女性のほうが強いのがふつうである、とされていますね。
 ところで、私たちの生命にそなわっている能動的な力を、環境との関係からとらえて、医学では適応能力と呼んでいます。先ほどの消化・吸収力のほかに、空気中の酸素と結合し、炭酸ガスを吐きだす呼吸作用や免疫の働き、四季の変化に対応する力などがあげられます。
 夏の暑いときなどは、汗腺がさかんに働いて、皮膚の温度を調節しますし、冬になると、こんどは毛細血管が収縮したりして、保温につとめます。
 夏に、犬が大きな息づかいをしているのをよく見かけますが、あれは、体温を調節しているのですね。人間のように汗腺が発達していませんから、カッコ悪いといっても、まったく生理的な働きです(笑い)。私たちは、汗腺がよく発達していてよかったなと思います(笑い)。それと、外界に対する認識能力も重要ですね。目とか耳などの働きですね。
 北川 重力に対応する物理的な力もあります。もし、物理的な抵抗力がなければ、私たちの身体は、重力に押しつぶされて、ひしゃげたカエルのような(笑い)、あわれな姿になってしまうでしょう。さらに、人間生命において、重要な位置を占めるのは、精神的な適応力ですね。社会への適応力や文化の摂取力、学問や知識の理解力などが含まれると思います。
 池田 話が根本的なところに入ってきたね。生というものにひそむ能動性、あるいは活動力を分析していけば、そこにも、じつに多彩な姿が見いだせるでしょうね。生の内奥からの多種多様な発動力が顕現し、生命主体の具体的な活動が織りなされ、創造的な生が営まれる。したがって、生命活動の主因といえるものは、あくまで、環境条件を取り入れ、生の方向へと生かしていく発動力と、外界への対応性としての能動性が担っている、と考えることができると思う。
 いかなる環境に対峙し、栄養分と化していくかという選択権をもっているのは、能動的な生命であり、その主体の働きに応じて、外的環境のもつ意味も、微妙に変化していかざるをえないでしょう。いいかえれば、生命主体の発動力、能動性こそが、生命顕在化の原動力であるとともに、依報としての環境の変革・創造者でもあると考えたい。
7  川田 私たちのもつ認識能力についてですが、西洋哲学の最高峰の一人であるカント(ドイツの哲学者。一七二四年〜一八〇四年)の洞察は鋭いですね。
 彼は、人間生命には生まれながらにして外界を認識する力がそなわっている、と主張しています。机があるとか、母親がいるとか、星がきらめいているとか、また、飛行機の動き、生物の動きなどを、すっととらえる力が、私たちにはもともとそなわっている。先天的な心の能力といっていますけれども……。
 池田 さすがだね。西洋近代では、生命のなかにそなわった能力を見いだしたのは、カントが初めてだと思う。単純化していえば、西洋近代を飾った哲学の流れを分けると、一つは合理論的方向になるし、他は経験論的方向だね。
 川田 前者の代表が、デカルト、スピノザ(オランダの哲学者。一六三二年〜七七年)、ライプニッツ(ドイツの哲学者、数学者。一六四六年〜一七一六年)などで、後者に属する哲学者が、イギリス経験論学派のホップス(哲学者。一五八八年〜一六七九年)、ロック(哲学者、政治思想家。一六三二年〜一七〇四年)、バークリ(哲学者。一六八五年〜一七五三年)、ヒューム(哲学者、歴史家。一七一一年〜七六年)などですね。
 池田 そこで、外界の認識に関する考え方だが、合理論では、思惟とか理性が中心になって、外界を認めるとしているね。一方、経験論では、ロックは、人間の心は白紙みたいなものでそこに経験がしみこんでいくという説だね。
 どちらも、その一面では、真理をついていると思うが、しかし、外の世界を認識するという人間自身に内在する生命の働きに着目し、これを分析し、論理だてたのは、やはリカントをおいて、ほかにはないと思う。
 少しむずかしくなるが、ひとまず、カントの理論を聞いておくとね、私たちが外の世界を認識するのは、まず、私たちの感性という心の能力によって、外界を直観的にとらえる。カントは、時間と空間のワクを通じて、人は外界を知るなどと表現しているがね。たとえば、私の前にコップが一つ置いてある。その形を空間的にパッととらえる。同時に、少し前にもここにあった、という時間的なとらえ方もする。
 また、もう一例あげると、窓の外に雪が降っている。その雪の形や大きさがそのまま入ってくる。そして一瞬前には見えなかったのが、いまは窓の中間ぐらいにきている。次の瞬間には、大地にとどくな、などと考える。
 まあ、考えるというところまでくれば、理性とか思惟の働きになり、それをカントは悟性といっているが、私たちの生命が、外の物を直観的にとらえる働きは、カントによると、先験的感性の機能と表現できよう。
 さて、認識論においては、生命主体に内在する能力、つまり、カントの言葉にしたがえば、先験的感性を正報とすれば、その対象は依報になる。正報にそなわった先天的な心の能力に応じて、依報としての対象の姿は、多彩に変化していくと考えられる。たとえば、人間の見る世界の姿と、アメーバや昆虫や他の動物の感じている環境はまったく異なったものだろうね。
 川田 ええ。生物が、対象を認識するのは、目や耳などの感覚器官をとおしてですが、視覚によって浮かび上がる世界、つまり、目で見る世界だけを考えても、多種多様ですね。
 アメーバやミミズは、明るさだけしか感じません。うすぼんやりとした、ひと昔前の写真のようなものです。昆虫の複眼は、人間の眼のように正確な像は結べませんが、動くものをすばやくキャッチします。たとえば、スズメバチは、壁にとまっているハエとクギの頭を区別できないといわれます。だが、同じ昆虫であるトンポは、目の前を横切っていく餌をすばやくとらえることができます。
 人間ですと、あまり早い動きはとらえられませんが、昆虫は、ちゃんとその動きを追っていきます。また、夜行性の動物、たとえば猫は、瞳孔が闇のなかでは大きく開き、光を当てると、細く閉じてしまいます。ほんのかすかな光でも、感じとることができるからです。
 人間も、夜行性の生活を長くつづけていると、闇のなかの少しの光でも見えるように変わっていくのでしょうね(笑い)。ですが、一般には、人間という生物には共通の感覚器官と対象を認識する心の能力が、先天的にそなわっていますから、人間同士は同じような世界を見いだすといえましょう。
 池田 一般的に、ものを認識する能力については、人間は生物学的に共通の特質をもっていると考えてよい。また、身体にそなわった各種の適応能力や、社会、文化をつくりあげていく力も、ほぼ共通しているといえるでしょう。
 このうち、人間精神に特有と思われる社会、文化を創造する力については、先ほどの『人生地理学』によっても、明らかです。社会の心意作用の個所で、一個の有機体としての社会精神は、それを構成する各個人の精神が基盤となり、たがいに伝えられることによって生じるものである、という意味のことが記されていたね。
 社会精神という個々の人間にとっての環境は、人間生命の能動的な働きを基盤として創造されるものです。もし、人間に、社会を形成する能力がなければ、社会精神なるものは生じるはずもないでしょう。
 だが、人間生命にひそむ能動性、発動力には、さらに人間や自然への愛もあれば、生命と宇宙の謎に挑戦する止みがたい衝動もあるでしょう。また、芸術や科学的真理への心も見いだされるのではないでしょうか。愛、芸術心、宗教心、真理探究の心などは、まさしく人間らしい発動のエネルギーであり、このような力の顕現によって、その人の住む環境も一変されるのではないかと思う。
 また『人生地理学』の山の個所には、山が人間にとって、一つの生き物のような意味をもってくる事実が述べられている。人間の愛によって、冷たい無生物としての山も、その本質を一変し、温かい脈動をたたえた有情物と化してしまうとの意でしょうね。また、植物の美をくみとることのできる心は、豊かな詩趣を満々とたたえた大地に憩うのであり、大自然をこよなく愛する人の生命は、自己と同じく生の脈動を感じる有情の世界に生きることができる。
 地球を愛し、地球のみごとな営みにまで想いを馳せる人間の生命は、一個の生命体と化した地球大の影をひいて生きている。宇宙の本源に達し、その内奥をきわめた哲人の生命は、宇宙のかなたにまで広がっているにちがいありません。自然を愛し、人生を愛し、地球や宇宙の本源にまで慈しみの心をもって肉薄する人の生命には、詩趣があふれ、科学の英知がひらめき、哲学心が芽をふき、宗教への抑えがたい願いがわきおこるはずです。
8  川田 それに関連することですが、興味深い話を聞いたことがあります。現代生態学の第一人者である宮脇昭博士の自然観は、まことに、独創的なものですが、博士の主張によると、自然にも、人間の顔と同じように、目やほおの部分があるというのです。
 人の顔のなかでも、目は傷つきやすいところですが、ほおの部分は、風や雨にさらされても比較的抵抗力があると考えられます。大自然における目の部分というのは、奥まったくぼ地、山の尾根筋、急斜面、湿原などであるとされています。もし、この部分に、コンクリートの道路を通すとすれば、それは、人間の目に焼けひばしをつっこむようなものだというのです。(『植物と人間――生物社会のバランス』日本放送出版協会、参昭)自然界の顔の、ほおの部分は強いところだから、うまく利用し、開発することができます。
 このように、人間の身体と同じように自然を診察し、診断していく生態学者の心に映る万物の姿は、もはや、死せる無生の物体ではなく、温かい血潮が脈打っているのではないかと思われます。
 池田 おもしろい表現だね。大自然それ自体も、本来、生命体としての性格をもっているということだね。
 大自然に対峙する人の生命に応じて、依報の姿は、現実に変化していく。つまり、人間生命を含めて、すべての生命的存在は、みずからの能動性や活動力に応じて、それにふさわしい環境をつくりあげ、それを影として生きているといえるでしょう。
 ゆえに「身なくば影なし正報なくば依報なし」で、生命主体の能動性が消失すれば、それに対応する影としての依報も消えていかざるをえない。動物は動物としての影をひき、人間は人間としての影をともなっている。また、各個人の生命状態、境涯に応じて、影としての環境も異なっていくと考えられます。
 ところが、人間でありながら、動物のような影をともなっている人もいる。その人の生命状態は、肉体的には人間の姿を示していても、動物の境涯に住んでいると推測せざるをえませんね。願わくは、人間生命にふさわしい影をのこして、生涯を送りたいものだね。
9  生命のなかの交流
 川田 先ほど引用された日蓮大聖人の「瑞相御書」のすぐ後の部分に、次のような一節があります。
 「かるがゆへに衆生の五根やぶれんとせば四方中央をどろう駭動べし・されば国土やぶれんと・するしるしには・まづ山くづれ草木れ江河つくるしるしあり人の眼耳等驚そうすれば天変あり人の心をうごかせば地動す」との文です。
 「衆生」という言葉は、一般には生物、とくに人間生命をさしていると思いますが、衆生の五根、つまり、衆生の生命自体が、正報であり、体としての位置を占め、それを取り巻く依報としての環境は影のごとき存在である。ゆえに、生命主体が破壊されていくことは、そのまま「四方中央」つまり、環境の破滅、激変を呼び起こさずにはおかない、との文意であると思います。
 だから、大自然が破壊されてしまうその前兆として、まず、山が崩れたり、草や木が枯れていったり、江河が尽きたりする。それらは、人間生命を色心ともに、驚愕させ、激動させていけば、天も地もともに変動を起こさざるをえないのだ、という一つの原理にもとづいている。まあ、いちおうはこういった意味に解することができると思います。
 さて、この文を、現今、私たちを取り巻く種々の状況と照らしあわせるとき、人類の絶滅さえひきおこしかねない現代社会と文明の悪の根源を、手にとるように映しだしているように思われます。とくに、日本列島では「山くづれ・草木かれ江河つくるしるし」が、全土いたるところにあらわれています。
 いまさら、実例をあげるまでもないほど、大自然の激変は、直接人間の生を脅かしています。まさに「国土やぶれんと。するしるし」だと思うのですが、その元凶は、人間自身の生命のなかにひそんでいると考えられます。
 貪欲や無知や自己中心的な自我の奴隷となり、人間としての生を失った人々の行為が、みずからを死におとしいれてしまう。のみならず、大地を剥ぎとり、気候異変を呼び起こし、海の正常な活動を破壊して、すべての生き物の生存の根を、断ち切ろうとしているように思われます。このような現状は「衆生の五根やぶれんとせば四方中央をどろうべし」の文のとおりです。
 ところで、そのあとのところにも「人の眼耳等驚そうすれば天変あり人の心をうごかせば地動す」とあります。人間生命の働きが、環境に作用する場合、色法の世界での相互の関連は理解できるのですが、生命の内奥でも、主体とその依報は、たがいに影響しあうのでしょうか。
 池田 きわめてむずかしい問題だね。人間のもつ自然観などが、具体的、意識的な行動をとおして、環境に反映していくことは比較的納得されやすいと思う。
 自然観、人生観などとして色法の領域に顕現する生の能動性は、それを支え、動かす生命内奥の世界と一体不二となつて律動している。とすれば、心法の世界での依正の相互関係を無視しては、生命主体と環境との関わりあいをすべて解明したことにはならないでしょう。
 北川 そこで、現代の自然観の代表として、ハイデッガー(ドイツの哲学者。一八八九年〜一九七六年)の存在論が、ある程度、参考になると思われます。ハイデッガーの自然観は、きわめてむずかしいし、また、彼独自の用語もあって、その説明から入らないと、十分には理解できないのですが、ここではいちおう、私の理解していることを平易に述べてみます。それも、自然観に限ってですが――。
 私たちは、ともすれば、自然界の調和のとれた動きに感嘆しつつも、その表面だけを考えがちです。しかし、ハイデッガーにとっては、宇宙万物が、このように秩序ある姿を示すのが不思議でならなかったのですね。まるで、一つの生命体のように動いている宇宙の姿に魅せられて、彼は、万物の調和を生みだす根源の実在に思いを馳せるのです。まあ、それを「存在」の次元などといって表現しています。
 「この、神秘を秘めた大宇宙の底流には、それを生みだす根源の実在があるのではなかろうか――」との彼の思索は、ついに、大自然の母体としての実体をとらえ、それを「原自然」と名づけています。彼は「原自然」を想定することによって、宇宙の神秘を明かしたと主張しています。
 池田 大自然の底流を求めて思索する現代超一流の実存哲学者の努力が、いたいほどわかるね。彼の思索は、たしかに群を抜いて深い。その「原自然」は、私たちの生命自体をも含めて″永遠に常住するもの″と見るのが、仏法です。
 北川 彼は、人間は死ねば、やはり無に帰してしまう、と考えているようです。つまり「原自然」を、自然と人間の根拠としながらも、人間や生物などの生命自体を永遠の実在としては見ていないように思われます。
 池田 彼のいう「原自然」は、仏法からいうと、宇宙律動の極致としての「妙法」と自然との中間的なものとして位置づけられるだろう。ハイデッガーのいう「原自然」の底に流れる永遠不滅の宇宙生命そのものが「玄宗の極地」としての「妙法」なのです。
 川田 大宇宙自体が、一つの生命体である、という考え方は、一見、飛躍的のようですが、宇宙生命に内在する「妙法」そのものが、森羅万象として顕現するのであると、とらえれば、明瞭に理解できますね。
 池田 私が「かけがえのない宇宙」とのスローガンを提唱した真実の理由も、大宇宙が「妙法」の当体であり、万物を支える根源の実在であるという思索にもとづいているわけです。
 川田 日蓮大聖人の「諸法実相抄」には、「下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・ことごとく一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり依報あるならば必ず正報住すべし、釈に云く「依報正報・常に妙経を宣ぶ」等云云」とあります。
 地獄とか仏界とか十界という、この仏教独自の概念については、あらためて考察していきたいと思いますが、ここでは、宇宙森羅万象のすべての生命体と解釈しておきたいと思います。
 この宇宙のあらゆる生命的存在は、すべて「妙法」の現ずる姿にほかならない、といったような意味だと思いますが……。
 池田 もう少し精密に思索すれば、色法と心法の領域における人間生命と環境の、ありのままの関係性が体得されるのではないかね。「依報あるならば必ず正報住すべし」との一節も、たんに、依報と正報がともに実在しているという平面的な意味だけではないでしょう。次に述べられている「依報正報・常に妙経を宣ぶ」との釈と考えあわすとき、生命主体と環境とのダイナミックな律動が、妙法としての宇宙生命との関連のもとに、あざやかに描きだされてはいないだろうか。
 つまり、万物の根源にあり、あらゆる法の活動となってあらわれる宇宙生命内在の力と法、つまり「妙法」ですね。それが、宇宙の内奥から、しだいにその具体的な働きを顕在化するにつれて、各生命主体が個別化し、同時に依報としての環境が形成されるのだといえるでしょう。
 正報と依報は、宇宙生命自体に秘められた発動力と能動性があらわれるとともに、同時に形づくられていく実在であり、本来、不二のものの、色法の世界における二つの差別相と考えられるね。正報としての人間生命の形成は、その依報の顕在化の過程だともいえる。動物や植物の発育、生長は、彼らの住む世界の形成と分離することはできないでしょう。
 結論していえば、生命主体とその環境は、現象世界においては、二つの実在とあらわれていても、内奥においては渾然一体となり、宇宙生命自体として脈動している。しかも渾然一体とは、たがいに融合しつつも、そのなかに、あらゆる生命的存在と、その環境を生みだす力と法をはらんでいるという意味です。各生命主体へと個別化し、個性化する発動力を内にもち、能動性を秘めていながらも、一体となって律動しているのが生命の本質でしょうね。
 したがって、一つの生命主体の能動性の変化は、生の内奥においても、他の生命的存在に重大な影響をおよぼすと考えてよい。
 さらに思索を進めれば、大自然や宇宙自体も生命的実在と考えられる以上、一人の人間生命の波動は、あらゆる生き物の生の根源をゆるがすのみならず、無生物とされている存在の基底にもおよびうるものと考えられるのだが……。
10  川田 私たち人間の生命が、心法の世界において、他の生命に影響を与えうるという点について、興味深いデータがあります。むろん、科学的方法による実験ですから、現象世界における分析を通じての推測です。実験のやり方には、研究者によって、さまざまな方法があり、いちがいにはいえないし、また種々の複雑な手続きがあるのですが、簡略にするために、私なりに整理した形で述べてみます。
 実験には、二つの部屋を使い、その間には三百メートルの距離があります。連絡は、二つの部屋を結んだ電線を通じてのブザーだけです。一つの部屋に、学校の先生が入り、他の部屋には生徒が入ります。ブザーが鳴ると、先生は机の上に置かれたカードを繰り、そこに書かれた数字なり、絵を、他の部屋にいる生徒に送ります。送るといっても、カードを見せたり、特殊な信号を発するのではありません。心の中で、数字や絵を、一生懸命に念じるのです。生徒の心に通ずるように念じつづけるのです。生徒はあらかじめ打ち合わせた時間どおりにカードを繰っていきます。生徒の繰るカードが先生のカードと一致するときもあれば、はずれる場合もあります。このような動作をできるだけ多く繰り返すのです。
 私たちは、カードが一致するのは、たんなる偶然だと思いがちです。もし偶然ならば、統計的な確率にしたがうはずです。ところが、数人の生徒に、この実験を行ってみると、まことにおもしろい事実が判明しました。先生と生徒が、たがいに好意をいだき、尊敬しあっている組み合わせでは、あたる率が非常に高いのです。また、生徒が、先生の心が通じてくると信じているときも同様です。反対に、先生に敵意をいだき、不信感をいだいている生徒の場合は、カードが一致する確率が低くなるというのです。
 もし、この二つの場合に起きる確率が、たんに偶然だけにもとづくものとすれば、百万回実験して一回ぐらいしか起きないであろう、と学者たちは計算しています。つまり、偶然だけでは生じえないといってもいい現象だというのです。超心理学者たちは、先生と生徒の間に、それぞれの心の内奥での交流が起きていると考え、それを″遠隔感応″または″テレパシー″と名づけています。
 テレパシーなどという言葉を使うと、非常に神秘的に感じる人がいるかもしれません。また、テレビの見すぎじゃないかといったとり方をする人もいるでしょうね(笑い)。でも、立派な学術用語でして、原理的には感覚器官をとおさないで、人と人との間に伝達が行われることと定義されています。
 このほかにも、超心理学では、たとえば、目や耳を使わないで物を認知する″透視″といったものから、手や足を使わないで物を動かすといった″精神的遠隔操作″や、未来のことをある程度、予知することなどが、種々の実験にかけられ、その一部は確かめられています。しかし、まだ十分に納得できないことも多いですから、こんどの成果を待つほかはないわけですが、でも、最小限、次のことだけはいえそうです。
 二十世紀も後半に入った今日、生命内奥での絶妙な働きを否定することは、かえって非科学的と考えられるようにさえなりつつある――と。
 池田 先生の心の波動が、確実に、それぞれの生徒の生命に伝わっていくという貴重な実証だね。
 北川 そういえば、よく″虫の知らせ″があったとか、予感がしたなどといわれますね。このような現象も、まったく否定してしまうことはできないと思うのですが……。
 池田 予感などというと、死とか事故の予感など悪いことを、すぐ連想しがちだが、良い例も多いね。いままでぜんぜん思ってもいなかったのに、急にその気になって親しい友人をたずねたとしよう。と、その友人がおどろいて「君が来るような予感がしてね。会いたいと、きのうから思っていたんだよ」といったような話も、たびたび耳にするものだね。
 たとえ、口に出し耳に聞くといった五官を経ないでも心の奥の次元で、直接に親愛の情が通じあっていた例とはいえないだろうか。少なくとも、二人の生命は、その奥底でたがいに引きあっていたのであり、そのような状態が、行動としてあらわれたと考えることはできるはずだ。
 人と人との生命の内奥には、信頼や愛情で求めあう力の交流もあれば、逆に不信感と憎悪で反発しあう力が渦巻いていることもある。正報と依報の関係でいえば、生命主体とその環境は、その生の内奥で渾然一体となり、融合しつつも、たがいに影響をおよばしあっています。生命主体の能動力と、依報としての他の生命的存在はたんに物質的な面だけでなく、内面的にも交わり、たがいに交流しあっていく。一人の人間の発する波動が、生の内奥において、他の人間生命の心底を揺り動かすことだけはたしかです。
 むろん、現実問題としては、その人の能動性の強さと質(笑い)、および他の生命体の状況、境涯などの複雑な条件が重なってくることを考慮しなければならないでしよう。また、すべての生命的存在は色心不二の当体だから、現実には、色心ともに影響しあっていると考えねばなりません。それにしても、私たちの内奥の動きが、他の生命的実在に影響をおよばしうるという事実が、仏法以外でも立証されはじめたことは、偉大な成果の一つだね。
 川田 超心理学者のウォータリー・キャーリントンは「集団心」の説を唱え、人類の心はその底流で融合しつつ一体となって律動していると主張していますが、これは私たちの立場からいえば、仏法の洞察に一歩近づいたといえるのではないでしょうか。
 また、ハイデッガー哲学の基盤ともなったギリシャにおける自然観では、人間と自然とは、本来、同質であり、人間は自然の内部に入りこめると考えていたようです。ギリシャ語では、自然とはフュシスとかコスモスですね。つづりは Phsis, Kosmos となりますが、とにかく、宇宙と同じ意味なのですね。その宇宙、自然のうちに生命があり、自然は生きているものであると考えていました。自然も、そこに生息する生物や人間も、ともに生きている。そして、これらの間に、もし対立することがあっても、それは新たな調和を生みだすための相克であり、対立だというふうにとっているのです。
 だから、自然も人間も他の生物も、同じ生き物として対等に、しかも平等に心をかよわせるというか、生命の交流ができるのですね。でも、人間の心と自然との具体的な内面の交わりについては、それほど深くは考えていなかった。このあたりは科学も各種の哲学も、まだ未踏の領域といえそうです。
 池田 そうだね。だが、仏法の「依正不二論」からすれば、一人の人間生命の波動が、他の生命的存在をゆさぶり、民族の心や人類の底流をさえ変えていくことはとうぜんと思われる。さらに、人類の心はたがいに融合しつつ一体となって、他の生物や大自然そのものの実在に、色心ともに影響力をおよばしつづけるでしょう。
 科学や哲学は、少しずつではあっても、やがて、人類心の深層と他の生物や大自然との本源的な関連にまで、考察の光をさしこんでいくものと考えられます。
11  北川 それにしても、一人の人間生命の影響力が、少なくとも、人類全体の内奥にまでおよびうるとするならば、正報としての生命主体の確立こそが、民族と人類の未来までも左右するのですね。
 池田 私たちの住む大宇宙の秩序ある変転のなかにあって、各個人が、いかなる生命状態にあり、どのような能動性を発現しうるかに、人類と地球の運命がかかっているといえよう。万物の調和のリズムに眼を開き、あらゆる生き物と共存しようとする人間生命の姿勢は、宇宙に張りめぐらされた″生命の糸″の働きを支え、新たな宇宙の創造へと向かっていくでしょう。
 人類の心は、愛や信頼や慈悲心に満たされ、その脈動が生命体としての自然を創造の営みへと導いていくにちがいない。こうした大宇宙の一個の生命的な営みは、″かけがえのない宇宙″の律動を守り、支えようとする人間生命を、こんどは逆に、″かけがえのない一個の生命体″として慈しみとおすと考えられます。「依正不二論」の人間らしい実践のあり方だね。
 逆に、私たちが、醜い貪欲や愚かさやエゴイスティック(利己的な)な自我のままに、敵対し、憎しみあい、殺害しあうとき、どす黒い″殺しの血″に衝き動かされる「狂った細胞」としての人類の心は、他の生物と大自然を破壊し、万物を支える″生命の糸″をずたずたに断ち切ってしまうでしょう。大自然が崩壊し、地球が死と暗黒の惑星に姿を変えてしまう状況に直面して、個々の人間の生もその根底から断ち切られざるをえないはずです。
 このいずれの道を選ぶかは、私たち人間の自由であり、また、その能力も本来、人間の生の内奥にそなわっている。要は、人間生命に内在する、宇宙を生の創造に向かわしめる発動力と能動性を、いかにして開発し、顕現するかです。
 もし、一個の生命主体に、愛や信頼心がそなわっていたとしても、その発動力が弱ければ、他者を動かし、生命の波動をおよぼすことは、きわめて困難でしょう。また、いかに能動性が強くても、疑念、不信、敵憮心などに満たされていれば、人類も自己も滅びさるだけでしょう。
 ″かけがえのない宇宙と自己″を、生の創造へと導く発動力と能動性を顕現させるような人間の生き方と、真に、宇宙の律動と協調しつつ生を営む人間らしい境涯を、さまざまな角度から明確にしえたとき、「依正不二論」は、人類救済の偉大な実践哲理として、人々の行動のなかに生かされるのではないだろうか。

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