Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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身体と心  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

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9  北川 日蓮大聖人の「十如是事」に「如是性とは我が心性を云うなり」とあります。「如是相」とは、文字どおり読めば、「是くの如き相」ということですが、私たち自身の性質とか性格とかを意味するといちおう考えられます。しかし、その深い根拠を探っていくと、如是性、つまり、ここに出てくる心性というのは、各種の心的内容が、融合しつつ織りなす心法の世界の、統一的な全体像を意味しているように感じられますが……。
 池田 そうだね。各個人は、その人に特有な心法の世界を形成しているものだ。生まれつき本能的欲求の強い人もいれば、激しい感情の嵐がたえず生の奥底をゆさぶっている人もいる。また、精神的欲望の一つである愛情のこまやかな心性をもった人もいると思う。
 これらのさまざまな心性の独自性は、精神活動として肉体の動きのなかに、かならずにじみでてくるものだ。色法としての現象を、鋭い洞察力で詳細に観察すれば、心の深層も、その人の心性も、手にとるようにわかるのではないだろうか。
 川田 心の微妙な動きが、人間の行動や肉体をどれほど大きく左右するかを示す、顕著な実例があります。大段智亮氏が書いた本のなかに、まことに興味深い話があります。それは、ある医者の、粘り強い、詳細な記録によって判明した事実です。
 ある病院で、二人の人が、子どもの看病をしていました。一人は、その子どもの母親です。もう一人は、賃金を払って一雇った付き添いの看護婦さんでした。担当の医者が、この二人の血液の状態を調べていたのですが、不思議なことに気がついたというのです。
 というのは、当の子どもの病気が軽いときには、二人とも、血液の状態は正常なアルカリ性を示していたのですが、子どもの病気が重くなって生死の境をさまようような状態になると、とたんに、母親の血液は強度の酸性にかたむいたのです。心の中の不安や苦しみの感情が、肉体に反映したのだと思います。
 ところが、付き添いの看護婦さんの血液は、つねにほとんど正常であったというのです。だからといって、その看護婦さんが、特別に薄情な人だったというのではありません。また、子どもが全快するのを願わなかったといえばウソになります。それでも、心の状態は、ありのままに、色法の世界に反映していくのですね。
 池田 科学の眼がとらえた、みごとな実験例だね。心法と色法の密接な相互関係を、浮き彫りにした一つの実証だと思う。
 川田 子どもの教育上、たいへん参考になると考えられる実例が、もう一つあります。メダルト・ボス(スイスの精神分析医。一九〇三年〜九〇年)という精神身体医学者のリポートです。(メダルト・ボス『心身医学入門』三好郁男訳、みすず書房、参照)
 七歳になる、元気すぎて、やんちゃな男の子がいました。チョコレートが大好きでしたが、母親は子どもの手が届かない戸棚の引き出しにしまいこんでおいたというのです。男の子は、幼い知恵を働かせて、足台や椅子を組み合わせ、命がけでチョコレートを取っていました。その行為を見つけた母親が、罰として、子どもの手を縛り、高い机の上で、チョコレートがよく見える場所にすわらせておいたのです。かわいそうに、その子は、大好物を目の前にしながら、取ることもできず、机からおりることもできない状態でした。
 この罰則を数回、繰り返しているうちに、子どもの精神状態は非常に不安定になってきました。とともに、全身に、ハシカのような発疹が出てきたというのです。母親には、この病気の原因はつかめなかったのですが、欲しいものを食べたいという本能や、それにともなう興奮、不安、怒りなどの感情が、心身の両面に、異常な形で噴出した結果であることは明らかです。医者の忠告で、この罰をやめると、症状もすっかりおさまったそうですが、心の中の動きは、かくもみごとに色法の世界にあらわれるものだなと、あらためて実感したしだいです。
 池田 いまの話を聞いていると、幼い生命に心の傷を残さないためには、よほどの配慮が必要であることがわかるね。その子どもの心性をよく見きわめて、賢明な形で、欲望や感情をコントロールすることが肝要です。そのためにも、心の深層を、さらに深く知る必要があるのではないだろうか。生命の全貌がわからなければ、どのようにコントロールしていけば、立派な人間性を養えるのかもわからないでしょう。
 ところで、心の世界は、理性や良心や欲望などに限定されるものではない。その底流には、さらに一段も二段も深い生命の法が、実在しているのではないかと考えられる。そうでなければ、理性や良心や衝動、また、感情などの実在とその活動は、たんなる偶然になってしまう。また、これらを生みだした根源の法は、永遠の闇にほうむられてしまうことにもなりかねない。
 このあたりになると、人によって意見が分かれているね。たとえば、フロイトは本能的欲求がすべての源泉であるといい、ニーチェ(ドイツの哲学者。一八四四年〜一九〇〇年)やアドラー(オーストリアの精神病学者、心理学者。一八七〇年〜一九三七年)は権力欲とか権力への意志にそれを求め、マルクーゼ(アメリカの哲学者、社会学者。一八九八年〜一九七九年)は生と死の衝動説を唱えている。
 また、これらはすべて、人間生命が誕生したときに、すでにそなわっていたものだともいう。たしかに、本能、衝動とか、権力への意志などは、理性や良心さえも動かす力をもっているでしょう。しかし、その本能的衝動などの噴出するもう一歩奥の源泉は、個人の無意識の底辺を突きぬけた領域にあるような気がする。
 北川 フロイトと並び称される深層心理学者の一人であるユング(スイスの心理学者、精神病学者。一八七五年〜一九六一年)は、人間の生命の奥底には、人類共通の基盤を形成しているという説をたてています。ユングは、心理学から宗教への有力な橋をかけた学者でもあるといわれていますが、彼の主張するところは、一人の人間の心の底流には、人類発生以来のすべての遺産が流れ込み、他の三十七億の人々と交流しあっている、というのです。彼は、このような人類全体にまで広がった心の深層を「集合無意識」と命名しています。
 池田 科学も発達すれば、ずいぶん、仏法に近づくものだね。「集合無意識」とは、うまく名づけている。人類共通の生命の根源を、さらに掘り下げると、人類の心は、あらゆる生物の生命の底流に通じていよう。そして、すべての生ある存在の内奥には、草木とか、石とか、大地などをも包みこんだ大宇宙自体が実在しているはずです。一人の人間の生命は、たんに自己の無意識層にとどまらず、人類共通の基盤、さらに、あらゆる生物の共通基盤をさえ突きぬけて、宇宙自体に律動する生命の根源的実在へと通じ、そこから生を創造するエネルギーをくみだしているという事実を、仏法の英知は見ぬいていたと思う。
 すべての生の最深部に、生命を生命たらしめている根源の力がある。いや、生物のみならず、死せる物体をも、その根底から支えつつ、力強い調和の律動を奏でる宇宙存在の力と法がある。それを、仏法では、「実相」といい「玄宗の極地」、また「妙法」という。この宇宙の本源的実在のもつエネルギーが、あらゆる存在物に能動性をもたらし、生を創造しゆく発動力ともなるのです。
 もし、この生命のエネルギーが、色法の世界に顕現すれば、物質界のさまざまな法則としての姿をあらわし、物質を統合し、調和させ、大宇宙のリズムとともに共鳴しつつ律動するにちがいない。つまり、これらの法則は、宇宙生命内在の″妙法″という根源的な法の顕在化であり、個別化なのです。
 また、生命エネルギーが精神の領域を形づくれば、理性を生み、良心を芽ばえさせ、各種の衝動ヘと力を与えつつ、さまざまな心的現象を織りなすにちがいない。
 しかも、色法と心法は、渾然一体となり、融合しつつ、生命の創造を繰り広げているのが、宇宙と生命の本質的な真の様相だと思う。
 北川 日蓮大聖人の「御義口伝」には、「大地は色法なり虚空は心法なり色心不二と心得可きなり」とあるように、このような菩薩の境涯を、私たち自身の生命に築きあげることができるのです。
 池田 宇宙生命自体の心性だね。それを虚空といい、心法という。そうすると、大地というのは、私たちの目で見える大宇宙だね。つまり、現象世界を織りなす宇宙だね。
 北川 そうしますと、いまあげた文の意味は、大宇宙自体が、色心不二としてのリズムを奏でているととれますね。
 池田 そう。大宇宙といえば、純粋に物質的存在のようにみられるが、その色法のうえにあらわれる不可思議な種々相の能動性、心法というべきものがある。しかも、その能動性を支え、生みだす根源の法としての″妙法″に眼を開けば、色心の融和した実相を知見できると思う。人間生命について考えれば、このような色心不二の実在としての宇宙生命自体が、個性化し、個別化した一つの実在こそが、各個人の生命といえよう。
 北川 人の生命が、宇宙の生的発展の姿であると考えると、その内奥が宇宙の根源に通じ、しかも、色心不二としての生をつくっているという事実が、明瞭に理解できます。ところで、宇宙と人の生命が、ともに色心不二の実在として、共鳴しつつ、生を営んでいる動的な様相は、先にあげた「帰とは我等が色法なり命とは我等が心法なり」という「御義口伝」の文に、適切な形で示されていると思うのですが……。
 池田 この文は、宇宙と人間の本源的な関係を、まことに鋭くとらえていると思う。生命体を形成する色法は、この大宇宙からその一切を集めてつくられるとともに、それは、やがて宇宙生命に帰っていく。一瞬もとどまることなく新陳代謝を行っている。これが「帰とは我等が色法なり」という意味だね。
 これに対し、心法は、この絶え間なく変転する物質をよりどころとしながら、それ自体としての、統一的な生の調和を少しも損ずることはない。その生命の奥には、生を創造する″生命の火″が赤々と燃えたぎっている。いいかえれば、物質の変転を推し進めるその力こそが、心法の奥深く、生の底流から流れ込んだ宇宙生命そのものの本源力なのです。
 北川 それが「命とは我等が心法なり」という意味ですね。
 池田 すべての生命的存在の心法は、宇宙生命自体にもとずいている。そして、宇宙と人間の生は、その生命の力を中核にして、融合し、立体的に律動していると考えられる。
 川田 じっさいに、人間の身体を構成している物質は、つねに新しいということを立証するデータがあります。たとえば、ナトリウム24という放射性物質を静脈に注射すると、五秒後には心臓や肺や血管にいきわたり、七十五秒後には汗となって排出されます。あとは歯や骨に入りますが、それも一カ月ほどで全部体外に出てしまいます。
 また、肝臓を構成している蛋白質は、二週間ほどで半分が交代し、筋肉の蛋白質は四カ月で、すっかり代わってしまいます。私たちの細胞の構成成分は、一年もたてば、ぜんぶ跡形もなく入れかわってしまうことが、放射性物質をもちいた各種の実験から明らかになっています。
 池田 物質は、刻々と流動している。精神活動も、意識の表層に浮かんだと思うと、次の瞬間には生の内奥に帰っていく。このように色法と心法とが、たがいに融合し、渾然一体となって、生を営んでいるのが、色心不二の実在としての人間生命だと考えられる。色法と心法の二つの世界としてあらわれつつ、しかも融合し、統一された一個の生命体が、私たちの姿そのものなのです。人の生命を色心不二ととらえることによって、生命の全体像を、その根源から解明したことになると思う。
 北川 そこで、先ほどの「御義口伝」の「帰とは我等が色法なり命とは我等が心法なり色心不二なるを一極と云うなり」とあるように、このような菩薩の境涯を、私たち自身の生命に築きあげることができるのです。
 池田 ここにいう「一極」とは、宇宙生命であり、「妙法」といえる。それに「もとずく」ことが、人間として最大の力と幸福を得る根本的な道であり、また、人間としての本来の行動だと考えてよい。人々のなかには、この本源的なエネルギーの、生命内奥への流入が、あまりにも弱かったり、阻害されて苦しんでいる不幸な人が多すぎる。それを根源から変革するのが、仏法の実践の意義である、と私はいいたい。

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