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日蓮大聖人・池田大作

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身体と心  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

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1  生命の不思議な姿
 川田 最近、アメリカの科学者たちの書いた『生命の秘密』(G・ウォールド他、岡本彰祐。永井静江訳、白揚社)という本を読んだのですが、そのなかに、次のような一節がありました。
 「この世界に″三つの謎″――しかも根本的な三つの謎があるという。それは、一つは宇宙とは何か、二つには物質とは何か、そして第三には、生命とは何か、という謎があるという」との書きだしで始まっているのです。
 この本は、これら三つの謎のうち、生命とは何かという課題に挑んでいるわけですが、あらゆる現代科学の粋――生化学の成果を中心にしてですが――を集めて、ひとたびは「20世紀後半の科学者たちは、生命が、すでにその″神秘性″を失ったことを、生命の神話は遠く歴史の坐に去ったことを宣言する」といいながら、そのあとがおもしろいんですね。「しかもなお、生命の秘密は、新しい装いのもとに、深く、遠い」とつづくのです。
 そして、そのあとでもう一度、科学者の自負心が顔を出すのですが、私には生命の神秘に立ち向かった科学者たちの深い嘆息が聞こえてくるように思われます。
 池田 生命は、どこまでいっても神秘に包まれ、むしろ、知れば知るほど、その神秘さは、深まりと広がりを増すということでしょうね。
 北川 たしかに、科学者たちが苦闘し、科学が、発展を遂げれば遂げるほど、生命は、その明らかになる部分が増すとともに、その不思議さも増していくようです。
 科学は、生や死の秘密を解決するのではなく、さらに、不思議な種々の様相を取り出してみせるために進歩しているような気さえしてきます。
 私たちの周囲には、草木あり、小動物あり、また、目には見えませんが無数の微生物ありで、それらが、独自の個性を発揮しつつ生命活動を営んでいます。そのような生き物たちのなかには、人間の想像もおよばないような生存の形を示すものがいます。
 たとえば、東京大学の微生物学者たちは、油田の中から石油を食べて生きる細菌を発見しています。これら地下の住人は、地中深く二千メートルの暗黒の世界に住んでいました。とうぜん、酸素などはないわけです。では、どのようにして呼吸をしているのかというと、硝酸という劇薬を分解して、そこから酸素を摂取しているというわけです。
 また、最近、新聞でも報道されましたが、ソ連の地球物理学者チュジノフ博士が、二億五千万年前に形成されたカリ鉱石の中から、ある種の微生物をよみがえらせています。おそらく、二億五千万年もの間、鉱石の中に閉じこめられてきたであろうその微生物が、培養液の中に入ると、動きだし、増えだしたと報告されています。
 このような生き物の存在を見つけたのも、科学の進歩のたまものであるわけですが、そういう事実を知れば知るほど、生命とは、なんと不思議なものだろうと思わずにはおられません。
2  川田 微生物といえば、近ごろ話題にのぼっているのが、水銀を食べる細菌ですね。発見者は、外村とのむら健三博士ですが、その細菌には、ほそ長いべんもうがあるといいます。オタマジャクシのシッポを長く細くしたような形をしています。「細菌K62」という学名がつけられました。水銀化合物は人間にとっては猛毒で、とくに、メチル水銀は、水俣病の原因となる物質です。このような猛毒を食べて生きているというのですから、変わった生き物がいたものです。
 そのほか、鉄やマンガンを食べる微生物もいます。鉄を食う細菌、つまり″鉄細菌″は、鉄鉱山や鉄分の多い川や沼にいますし、マンガンを食う細菌は、火山灰でできた土地の水の中にいます。
 こういう生物を科学者たちは「ゲテモノ食い」と呼んでいます。人間にも変わったものを食べる人がいますが、これらの細菌の食欲にはかなわないですね。(笑い)
 細菌よりも小さいウイルスとなると、おもしろさも、いちだんと増してきます。ウイルスというのは、生物としての反応を示すわけですが、同時に状況に応じて、食塩と同じような結晶にもなるのですね。結晶は、完全に無生物ですから、ある状況下では、ウイルスは、無生物と同じ様相を示すわけです。ところが、その結晶を栄養分の入った液にとかして、植物や動物の細胞に植えつけると、のこのこと動きだして、さかんに増え始めるのです。
 スタンレー(アメリカの生化学者、ウイルス学創立者の一人。一九〇四年〜七一年)という学者が、世界で初めてタバコモザイク・ウイルスを発見したときには、当の本人がわが目を疑ったといいます。
 これはタバコの葉にタバコモザイク病という病気を起こさせるウイルスなんですが、結晶と生物の間を行ったり来たりしているわけです。
 雪の結晶や食塩と同じような無生物だとばかり思っていた物質が、生物としての活動を始めたのですから、驚くのも無理はない。ウイルスは生物とすべきか、それとも無生物と考えるべきか――ハムレットにも劣らぬ悩みに襲われたと思います(笑い)。考えあぐんだすえ、ウイルスは条件に応じて生物にもなり、無生物にも″変身″しうることを、ありのままに認めようということに落ち着いたそうです。(川喜田愛郎『ウイルスの世界』岩波新書、参照)
 池田 生命は、じつに多様なあらわれ方をするものです。科学が長足の進歩を遂げるにつれて、ますます、複雑にして多彩な生命の姿が、浮き彫りにされていくと思う。そこには、物理学的次元でとらえられる現象もあれば、それとはまったく異なった生物独自の営みもあるでしょう。また、人間生命のように精神の特有な働きもある。
 私たちは、生命活動といえば、ただちに、酸素を吸ったり、筋肉を動かしたり、おいしいものを食べたりすることを考えがちだね。恋人とデートすることだけが、生命活動だと信じている青年もいるかもしれない。(笑い)
 だが、それらは、多彩な生の営みの一つの現象にすぎない。いろいろな生物のなかには、いかにも私たちの常識を超えたものがあるが、所詮、それらすべてを包含したのが、ありのままの生命の姿なのです。
 植物が、地球上に降りそそぐ太陽のエネルギーを利用し、大気中の炭酸ガス、水、無機養分などから、有機化合物と酸素をつくりだす光合成を行うのも生命の働きであれば、マメ科の植物の根に寄生する微生物が、根からエネルギーを得ながら大気中の窒素を集めて窒素化合物をつくるのも、生のあらわれにほかならない。
 春の訪れとともに、草木がかれんな花を咲かせるのも、秋が深まって果実がたわわに実るのも、大地と自然のリズムにもとづいている。ヒグラシが夏の終焉を告げるのも、澄みきった秋の空を渡り鳥の群れが横ぎっていくのも、魚が水に戯れるのも、それらすべてが多様な生の姿です。
 また、身近な例をとれば、私たちがベートーヴェン(ドイツの作曲家。一七七〇年〜一八二七年)の旋律に生の歓びを呼び起こされるのも、あかね色に染まった富士の秀麗な雄姿に心を洗われるのも、人間としての生命の発動の一つだと思う。森羅万象が織りなすあらゆる変化相が、そのまま生命の真実の姿であると考えられますね。
3  北川 宇宙の変転そのものが、広い意味では、底知れぬ不思議さを秘めた生命の活動体だと思われます。昔の人々は、天座にかかる恒星は、永久に変化しないと考えていた。太陽と同じように、みずからの働きで輝いている恒星は、その名が示すとおり、不変の星だと考えられていたわけですけれども、四季を彩るこれらの夜の星にも、生と死の運命が待ち受けていることを、いまでは天文学が証明しています。
 人間や他の生物と同じように、私たちの太陽も、五十億年ほど経てば、光をなくし、死を迎えるときがくるといいます。このいまの瞬間にも、宇宙のどこかでは、新星が産声をあげているし、また、他のところでは、強烈な閃光を残して消滅していく星もある。
 このような、大は恒星から、小は流れ星にいたるまでの数々の星の運命をいだきつつ、現在の宇宙は、不思議なことに、巨大な速度で膨張をつづけているという。宇宙全体が、壮大な生と死のドラマを演じているようです。
 池田 宇宙の営みは、空間的にいえば、小さいところでは、電子、中性子などの素粒子や、それによって構成される原子といったものから、ウイルスや細菌を経て、大きくは、恒星やわれわれの太陽系を含んだ銀河系宇宙、さらに果ての知れない大宇宙そのものにまでいたるといえる。また、時間の観点から考えると、素粒子のように、瞬時にして消えていくものから、星や星雲のように、百億年を超える寿命をもつものもある。
 こうした、さまざまに繰り広げられるすべての活動が、壮大な宇宙生命の神秘を奏でているといえるでしょう。
 宇宙、物質、生命の謎は、どこまでも広く、また、目もくらむほど深い。過去と現代の哲人が、その深さにとまどい、多くの科学者が、嘆息をもらすのも、無理のないところと思いますね。科学者たちは、森羅万象の種々の姿を、ある者は物理化学の法則にあてはめて、また、他の研究者は、生理や心理の現象として探究の手を伸ばしていくであろうし、その努力はまことに尊い。
 しかし、生命の探究において、もっとも重要なことは、あるときは、物理現象や生態現象として、またあるときは、生理や心理の現象として顕現する生命の働きを、ただ直線的に追うだけでなく、まさに、それらの現象を現象として成立させている根源の原理を知ることではないかと思う。
 多彩な生命の種々相を生みだし、生命を生命として顕在化させている根源の実在は、いったい、どのようなものであるかを真に突きとめたとき、宇宙と物質と生命の謎は、一挙に氷解してしまうのではないだろうか。最初に話が出た、世界の三つの謎というのも、三つが、それぞれバラバラなのではなく、じつは共通の謎なのですね。
 生命を探索する哲学と宗教の役割は、あらゆる生の底流にいたり、生命を生命として顕現させる各種の原理と、そこにある源泉を探りあて、それを、人々の生活に反映させ、生の歓喜と創造をもたらすことです。
 私たちの、生命についてのこの論議は、過去の偉大な知性を尊重し、その成果を生かしつつも、それにとどまらず、宇宙と生命の根源的な実在にまで、探究の思索を伸ばしていくのでなくてはならないと考えているが、どうだろうか。
 川田 まったく同感です。この鼎談の目的とその方向と特性が、明瞭になったような気がします。
4  「色法」の世界について
 北川 ときどき「人間の生命はどこにあるのか」という質問を受けて、とまどってしまうことがあります。まったく素朴な疑問のようですが、それでいて明確に答えられる人は、ほとんどいないのではないかと思われます。
 川田 たしかにそうですね。心臓や脳が、どこにあるのかといえば、小学生ぐらいになると、だいたい知っています。ところが、自分の生命自体が、この身体のどこにあるのかと問われると、考えこまざるをえないですね。おそらく生命をめぐる謎のなかでも、もっとも単純な疑問でしょうが、また、もっとも身近で現実的な問題でもあります。
 ノーベル賞を受けた生理学者の一人であるアレキシス・カレル描け士(フランスの医学者。一八七三年〜一九四四年)は『人間――この未知なるもの』(桜沢如一訳、角川文庫)という書のなかで「我々人間は人間を知らない。我々の内部世界は茫漠たる未踏の地である」と述べています。
 その博士が、ガリレオやニュートンやラボアジェーが、あれだけの努力を精神的方面や人間、人生の研究に払っていてくれていたら、われわれは、どれほど幸福になっていたかしれないのに……、と嘆いたという話が伝えられていますが、たしかに、そのとおりですね。
 池田 まったくそのとおりだね。人間は、自分のことなら、何でも知っているような錯覚におちいりがちだが、じつは、自分自身についてこそ、もっともわかっていないというのが真相でしょうね。
 身体が、どのように微妙な調和をたもっているのかも知らないだろうし、欲望や感情が、どこから生じてくるのかも、究極的には突きとめてはいない。人間生命の全体像とその内容を解明しつくさなければ、先ほどの疑問にも答えられないでしょう。まして、臨終がしのびよっても、死後の生命についての明確な認識をもっている人は、ほとんどいないのではなかろうか。
 このような状態では、人間らしい生涯を送ることも、カレル博士がいうように、幸せな人生を切り開くことも、まことにおぼつかないと思う。自己の生命は、どこにあり、どのような実在であるかを思考することは、生命論の出発点であり、また、終着点にもなりうると思う。
 さらに、別の観点からいえば、みずからの生命を知ることは、人間らしい一生を送るための必要不可欠な課題だね、しかも大前提の……。
5  北川 そこでまず、もっとも常識的なことから考えたいと思いますが、人間の生命といえども、その活動を営んでいる肉体は、他の生物や物体と同じように、物質で構成されているという事実があります。
 人間の肉体を細かく分析し、分解していくと、細胞からDNA(デオキシリボ核酸)や蛋白質を経て、最後には、炭素や窒素などの元素にまでなってしまう。少なくとも、現代の科学が明らかにしているところによれば、それらの元素は、宇宙のどこにでもある、宇宙に通瀧している物質なんですね。どのように変わった人間でも、特別な元素でできているなどということはありえません。(笑い)
 したがって、構成成分からいえば、たしかに、人間の身体といっても、この世界を構成している、あらゆる無生物や機械とまったく同じなのです。だからといって、人間の肉体が、時計などの機械と同じだとは、とうてい考えられません。その機能には、機械とまったく異なるものがあるからです。
 川田 生命体の営む働きの神秘さ、複雑さが、まだよくわからなかったころは、肉体を機械と同等にみる考え方もあったようです。二百年ほどまえ、フランスに出現したラ・メトリー(医学者、哲学者。一七〇九年〜五一年)という学者です。彼は、有名なデカルト(フランスの哲学者、自然科学者。一五九六年〜一六五〇年)の流れをくむ学者ですが、動く機械と人間は、同じような存在だと考えました。
 一例をあげれば、心臓はポンプであり、歯はハサミであり、胃はツボであり、肺はフイゴである、といった調子ですね。(『人間機械論』杉捷夫訳、岩波文庫、参昭)
 デカルトは、人間には精神の特異性を認めていたので、これを別にし、「動物は機械である」といったのですが、ラ・メトリーは、精神といえども物質から派生してくるのだから、結局、人間も機械であると主張したのです。
 ところが――ある本で読んだのですが(大段智亮『病気の中の人間――医療の人間学序説』創元社、参照)――おもしろいことに「人間機械説」が発表されたと同じころ、ロンドンでは「人間非機械説」が出版されたそうです。しかも、これを書いたのが、ほかならぬラ・メトリーらしいというので、当時は、そのうわさでもちきりだったそうです。
 人間を分解して、結局は、機械であると割り切ろうとしたところが、すぐそのあとから、人間生命は、たんなる機械ではない、という疑問が生じてきて、そのまったく反対の説を書かざるをえなかったのかもしれません。ともかく、この「人間機械説」は、十八世紀から十九世紀初めごろまで、思想界の主流を占めていました。
 それにしても、生命体と機械との相違点は、どのようなことに求めればよいのでしょうか。その相違点こそが、生命の特質をあらわしていると思うのです。
 池田 そうだね。現在の機械は、デカルトの時代にくらべると、比較にならないほど精巧になっている。ほとんど、自然の生物と変わらないほどの機能を示す機械もある。また、機械の精巧さは、将来、ますます増していくと思われる。しかし、どんなにうまくできた機械でも、天然の生命体とでは、本質的に異なる点がいくつかあるように思う。
 まず、機械には、その製作者がかならずいるものです。動かそうとすれば、エネルギーは外部から与えてやらなければなるまい。エネルギーの供給なしに永遠に動くような″永久機関″などという便利な代物は、この世に存在するはずもないし、自分の力でエネルギーを取り入れることもない。
 ところが、生命体は、みずからの力で、生を営むためのエネルギーを吸収しつつ、みごとな創造をなしとげていく。その知恵と力は、生命の内奥に本来的にそなわっているとしか考えようがない。いいかえれば、生命体は、みずからが作者であり、また作品でもあると表現できるでしょう。
 もう一点あげておけば、機械は、それが組み立てられてしまうまでは、いかなる機能も発揮できない。時計を半分組み立てたところで、正確な時を刻みだしたなどというSF的な現象は起こりそうもないからね。(笑い)
 だが、人間の身体は違う。身体を構成するどの細胞をとってきても、みごとな生を奏でている。しかも、全体としては、細胞や臓器が相互に援助しあい、精妙なリズムを刻みながら、統一的な秩序をたもっている。個と全体の、調和のとれた生の律動がそこにある。人間をはじめとするすべての生命体は、つねに、不完全であり、成長し、変化しつづけるものだが、しかも、どの一瞬をとってみても、一個の生命として完成しているといえるでしょう。
 まあ、こういったところが、主要な相違点だと思うね。生命体を考えるときの重要な点は、それを機械の機能にあてはめるのではなく、ありのままの生命の営みを、素直に知見していくという姿勢を失わないことだね。
6  北川 人間の身体は、約六十兆個の細胞からできているといわれていますが、その一つ一つの細胞の働きでさえ、私たちの想像を絶しています。たとえば、肝臓の細胞は解毒作用、つまり、身体に入ってくる種々の有毒なものを分解するとか、新陳代謝など、現在わかっているだけで、二百種類もの働きをしているといいます。
 余談になりますが、肝臓の解毒作用の強い人は、酒に強い、といわれるゆえんです。また、新陳代謝のほうからいきますと、肝臓が悪くなると、精神状態にも影響してきます。ちょうど、怪談にあるように、真夜中に突然、起きだしてきて夢遊病者みたいになったり、人形かなんかをクギで打ちつけて、のろったりします。銅やアミノ酸の代謝がうまくいかないと、こういうことになります。
 これも耳にした話ですが、ある学者が、肝臓がつくっているだけの多種の化学物質を人工的につくろうとすると、そのための工場を建設するには、京浜工業地帯の何倍かの広さが必要だという計算になったそうです。
 これが大脳になると、もっとたいへんです。私たちの脳は、重さからすれば、約千五百グラムぐらいの、ピンク色をした塊にすぎませんが、そこに約二百億個もの脳細胞が集まって、さまざまな働きをしています。記憶、思考、判断、計算などといった各種の精神現象を織りなす肉体の″座″が、これらの脳細胞ですが、もし、大脳の働きに匹敵するほどの人工頭脳をつくろうとすれば、現在、判明しているだけで、地球の全表面を覆ってしまうほど超巨大なものになるそうです。
 川田 これは池田先生の『私の人生観』(本全集第18巻収録)にも書かれていますが、私自身が、身体の不思議さのなかで、新しい驚きを呼び起こされたのは、血管の長さです。毛細血管まで含めると、その全長は、九万六千キロにもなるという。ちょっと実感がわかないのですが、考えてみれば、地球を二周以上する長さなんですね。また、肺には、約三億の肺胞があり、酸素呼吸を行っていますが、その肺胞の壁の全面積を合わせると、ゆったりした部屋四つ分の広さになるといいます。
 まさに、脳にしても、血管にしても、その長さといい、大きさといい、また、働き自体が、地球的規模であると実感せざるをえません。しかも、一個の身体は、たんなる臓器や細胞の寄せ集めではない。身体は、細胞や組織や臓器の、おのおのの個性を生かし、特徴を十三分に発揮させながら、しかも、全体的統一と調和をたもって、創造的に生を営んでいる。その律動の姿は、神業とさえ思えるほどです。
 こうした神秘的ともいえる生命現象を説明しようとして唱えられたのが、先ほどの機械論に対する生気論です。生気論では、それぞれの生物には、その生命体に固有な力があると考えます。
 池田 プノイマ、つまり生気だね。
 川田 ええ。そのプノイマが身体に宿って活動しているときには、生命は生きており、すっと抜けていくと死が訪れる、と主張しています。ずいぶん、神秘的な力を考えたものですが、ギリシャ時代からずっと生気論として受けいれられてきました。
 まあ、そこに、機械論が台頭してきて、一時は、人間や生物は機械と同じだといわれたのですが、どうも納得できない、となると、こんどは生気論が、新しい科学の装いをつけて、よみがえってきました。それが、ハンス・ドリーシュ(ドイツの生物学者、哲学者。一八六七年〜一九四一年)の新生気論です。彼は発生学の大家で、ウニの研究をしていてウニの″赤ちゃん″が産まれるところを観察していたのですね。そうしますと、やはり、生物には生物固有の原理を考えないわけにはいかない。
 そうして、名づけられたのが、″エンテレキー″です。でも、生気論者や新生気論者のいうように、プノイマとかエンテレキーなどといった、超物質的、超空間的な″他者″を想定することは、ちょっと行きすぎだと思いますが……。
 池田 細胞や臓器を統合し、その働きを調節しつつ、みごとな生を営む力やその原理としての法は、生命自体に内在するものであって、生命以外に、神とかプノイマなどを仮定するのは誤りだと思う。生気という他者によって動かされているとすると、結局、身体も、たんなる機械であり、道具であるということになってしまう。ちょうど、あやつり人形のようにね。
 生気論は、機械説に反対しながら、超物質的な存在を仮定することによって「人間機械説」と同じ誤りにおちいっているような気がしてならない。
 このような悪循環を逃れるためには、身体そのものの特質を見ぬくことです。私は、人間の身体として顕現された生命の特質とは、その内に秘められた能動性であると考えたい。身体が統一調和をたもっているのも、外界へ積極的に働きかけて、自己の自律的な生を創造しゆくのも、生命の能動性のあらわれであると考えることが、生命の本源的な把握の仕方ではないだろうか。
7  川田 まさに、そのとおりだと思います。私が、いま医学を学んだ者として思いあたるのは、次のような二点です。
 一つは、身体には自己修復能力がそなわっているという事実です。自己修復能力というのは、かんたんにいえば、私たちの身体にそなわった自然の回復力というか、治癒力みたいなものです。トカゲなんかだと、シッポを切っても、またすぐはえてきますね。原始的な動物ほど、この力が強いのですが、人間でも、たとえば、先ほど話に出た肝臓などでは、三分の一ぐらい切り取っても、また再生してくるのです。肝臓の細胞自体のなかに再生能力があるのですね。また、私たちがケガをしたとき、新しい細胞群――肉芽と呼んでいますが――それが盛り上がってきて治っていくのも、外科手術が可能なのも、身体にそなわった修復能力のおかげですね。
 二つめは、一般に免疫といわれる現象です。免疫をつかさどる血液の中の多核白血球は、血流にのって生体を回っているのですが、細菌などが侵入してくると、まっしぐらに敵をめざして追いかけていって戦うのです。約一分後には、それを呑みこんでしまう。
 また、抗体という特異な物質をさかんにつくりだす細胞もあります。この物質は、おもに、蛋白質でできているのですが、侵入者をつかまえて、その毒性を無効にしてしまうというおもしろい働きをします。
 わかりやすく説明しますと、よく、カギとカギ穴とにたとえられます。これは、エールリッヒ(ドイツの細菌学者。一八五四年〜一九一五年)という免疫学者の考えだした理論です。いちおうの理解には参考になります。むろん、カギのほうが侵入した細菌や異物で、それをつかまえる抗体がカギ穴です。つまり、抗体がカギ穴みたいになって、そこに、侵入者をとらえこんでしまうのですね。
 しかも免疫現象で興味深いことは、自分と他人を識別する能力をもっているという事実です。細菌などに対しては、抗体ができて、これと戦います。つまり、細菌なんかが、自分のものではないということを、ちゃんと知ってるんですね。
 ところが、同じ蛋白質でできていても、自分の肉体を構成する細胞に対しては、抗体はできません。もし、自分の中の赤血球に対する抗体ができたりすると、赤血球が壊されて全部とけてしまいますから、一瞬さえも生命をたもつことが不可能になります。何を敵として戦うかということを、身体はもともと知っているんですね。身体のもつ偉大な知恵の一つだと思います。
 北川 生命の能動性というのは、生をつくる力ばかりでなく、そのなかに″身体の知恵″をも含んでいるんですね。ところで、生命の特質としての能動性が、まさに、その特質を発揮するためには、宇宙全体から物質を集め、身体として現象の世界に顕現しなければなりません。
 身体とは、生命内在の能動的な特性が、その力を発現し、生を営む生命の座であり、現象世界での場であると考えられます。日蓮大聖人の「御義口伝」のなかで、「帰命」ということについて論じたところに、「又帰とは我等が色法なり命とは我等が心法なり色心不二なるを一極と云うなり」とあります。帰命とは、名のとおり、自己の生命を信仰の対象に帰入させる信仰の姿勢で、この一節の深い意味については、後ほどもう一度、取り上げたいと思いますが、とりあえず、ここに出てくる色法ということについて考えてみたいと思います。
 色法は、心法という言葉とともに仏教用語ですが、そのなかで、まず、色法というのは、生命内在の能動性が、生命を自己創造していく現象世界の座とか場などをさしている、と考えてよいのではないでしょうか。
 池田 この世界は、たしかに物質で構成されている。私たちの身体も、物質的存在であることに変わりはない。しかし、色法とは、「法」とある以上、たんに、物体とか、また物質などをさしているのではないと思う。いままで、種々の角度から考察してきたように、身体は、たんなる物質の集合体――寄せ集めではなく、全体的な秩序と調和のもとに生を営む統合体であり、みごとな生を自己創造する主体的な実在でもある。また、一個の細胞といえども、美しい調和のリズムを奏でる個性的な統一体であるといえるでしょう。
 生命の能動性は、宇宙の奏でる妙なるリズムにのって、不可思議な種々の変化相として姿をあらわす。人間や動物と違った非情の生命としての顕在もあれば、かわいらしい小鳥やチョウとして生を営むこともあるでしょう。そして、生命の能動性の精緻な発現は、人間の身体においてきわまると思うほど、私たちの肉体の働きは絶妙です。このような生の、まことに多彩にして妙なる能動性の顕現するダイナミックな現象の世界を、色法と考えてはどうだろうかと思うのです。
 したがって、現象の世界を探究することによって、そこに能動性としての力とともに、それをもたらす、内なる「法」を見いだすこともできると思う。無生の世界の中から、科学者は、物理、化学の法則を見つけだしているし、生物の世界からは、生理学的法則や生態学的な体系をも抽出できる。だが、これら各種の法則も、それぞれの生に内在する能動性としての生命の「法」の個別的な顕在化であると知ることが肝要です。法として、また力として、生命の能動性の織りなす世界――それが色法の世界であると思う。
 川田 色法とは、決して静的なものではなく、生の内奥から脈動するダイナミズムとしてつかまなければ、その真の姿を知ることはできないのですね。
 日蓮大聖人の「十如是事」の一節には、「初めに如是相とは我が身の色形に顕れたる相を云うなり」とあります。このなかの「如是相」というのは、いちおう、かんたんにいえば、「是くの如き相」という意味で、私たち自身の生命にあらわれた種々の姿とか、形をさしていると考えられます。
 したがって、その次に″色形に顕れたる相″とありますが、ここにいう″相″ですね。それは、肉体自体の活動はとうぜんのこととして、精神活動の営まれる場としての肉体の諸相をも、すべて含むわけですね。
 池田 そうです、理性の働きとしての判断力、計算力、また良心の働きとしての善悪の識別力、それから各種の欲望や感情などのような精神現象は、まさに、人間特有の色法をその座としてあらわれてくるといえる。したがって、逆に「色法」をとおして「心法」を見ることもできるのです。
 しかし、注意しなければならないのは、脳細胞の働きを、どのように精密に分析していっても、精神そのものの内容にまでは立ちいたることはできないでしょう。
 たしかに、脳細胞なくして、いかなる精神現象も浮かび上がってはこない。つまり、脳細胞は、生命の能動性が、精神活動として顕現される肉体の座であって、生命それ自体ではないからです。生命は、肉体を構成し、生を営むが、肉体のみが生命の全体像ではない。
 したがって、精神や心の内容を、真に知るためには、こうした生命の能動性をもたらす根源の実在を求めて、さらに深く、生命そのものの内奥に私たちの眼を向けなければならないと思う。
 北川 色法の世界にしても、その不思議な様相を語りつくすのは、至難のわざですが、脳細胞の働きと、それに密接に関わりあう精神の問題が出てきたところで、ひとまず、現象の世界を去って、生命の内奥の探究に入りたいと思います。
8  心の深層をさぐる
 川田 私たちは、ともすれば、見過ごしてしまいがちですが、日常、どこにでもある出来事であっても、もし、偉大な知性を向ければ、思わぬ真実が発見されるものです。
 これは、十九世紀の、いわゆる精神分析学を開いたフロイト(オーストリアの精神分析学者。一八五六年〜一九三九年)の話ですが、彼は″日常生活で、人間はまったく偶然としか思われぬ行動をすることがある。ふと物忘れをするとか、約束を忘れてしまうとか、書き損いをするとかいったことに、原因はないのだろうか″(『フロイト著作集1』懸田克躬・高橋義孝訳、人文書院、参照)という疑問をいだいたのだそうです。彼には、たんなる偶然とは思えなかったのでしょう。
 周知のように、自然科学では因果関係を追究します。地球が太陽の周りを公転するのも、また、大空高く投げあげた石が落ちてくるのも、物理的な意味での因果関係にもとづいています。同じように、いままで偶然として片づけられてきた、これらの心の働きにも、かならず、心理的な原因があるはずだと考えたのです。
 たとえば、約束を忘れるのは、その本人は意識しなくても、心の底には「約束を破棄したい」という気持ちがあって、その力が、約束の記憶を包みこんでしまったからであるというのです。また、書き損ないをするのも、誤ったほうの字を書くような衝動的な傾向性が、生命自体に秘められていたからだと考えたのです。
 ずいぶん、おもしろい考え方をする人だなと思うかもしれませんが、彼のこのような思索が、生命の深層を開いていったのですね。
 北川 フロイトの思索が正しかったことは、後の歴史が証明するところですが、彼に始まる深層心理学者たちの最大の功績は、心の奥に、意識にのぼらない広大な部分を発見したことだと思います。彼らの説によれば、人間の心――生命といいかえてもよいのですが――は、真っ青な海にただよう流氷にたとえられるといいます。
 氷山というのは、海面上に出ている部分は、たとえ小さくても、その奥には、予想もできないほど巨大な部分が隠れているわけです。私たちの心の内で、意識的な精神活動は、ちょうど氷山の頭のように、ごく小さい領域を占めているにすぎず、ほとんど大部分は、無意識の心として生命の奥深く隠されたままであると考えられます。
 池田 深層心理学が、意識的精神活動は、氷山の水面上にあらわれた部分であり、その下には巨大な無意識の分野があり、しかも、その全体が生命という大海の中をただよっているというのは、非常にわかりやすい譬えですね。
 この譬えを借りると、おそらく、深海には、私たちの想像もつかないような光景が繰り広げられているにちがいない。世にも奇怪な魚類が、わがもの顔に泳いでいるかもしれないし、サンゴのような樹林が広がっているかもしれない。
 同じように、生命の海には、意識活動を起こしたり、肉体の能動性を支えたりする、さまざまな力が渦巻いていると考えられる。
 主要な要素をあげただけでも、食欲や性欲といった本能的衝動あり、不安や恐怖や喜びなどの感情、情念あり、理性あり、良心あり、また、権力欲や所有欲などもあるのでしょう。自分では考えもしなかったようなグロテスク(不気味で異様な)な衝動がうごめいていたり、意識にものぼらぬような感情の嵐が吹き荒れていたりするものだ。
 私たちが、意識するとしないとにかかわらず、これらのあらゆる力が、渾然一体となっているのが、私たちの生命の内奥の姿だね。これを仏法では心法というが、この心法の領域が色法へと顕現しつつ、生を創造へと駆りたてているのが、生命の世界であると私は思う。
9  北川 日蓮大聖人の「十如是事」に「如是性とは我が心性を云うなり」とあります。「如是相」とは、文字どおり読めば、「是くの如き相」ということですが、私たち自身の性質とか性格とかを意味するといちおう考えられます。しかし、その深い根拠を探っていくと、如是性、つまり、ここに出てくる心性というのは、各種の心的内容が、融合しつつ織りなす心法の世界の、統一的な全体像を意味しているように感じられますが……。
 池田 そうだね。各個人は、その人に特有な心法の世界を形成しているものだ。生まれつき本能的欲求の強い人もいれば、激しい感情の嵐がたえず生の奥底をゆさぶっている人もいる。また、精神的欲望の一つである愛情のこまやかな心性をもった人もいると思う。
 これらのさまざまな心性の独自性は、精神活動として肉体の動きのなかに、かならずにじみでてくるものだ。色法としての現象を、鋭い洞察力で詳細に観察すれば、心の深層も、その人の心性も、手にとるようにわかるのではないだろうか。
 川田 心の微妙な動きが、人間の行動や肉体をどれほど大きく左右するかを示す、顕著な実例があります。大段智亮氏が書いた本のなかに、まことに興味深い話があります。それは、ある医者の、粘り強い、詳細な記録によって判明した事実です。
 ある病院で、二人の人が、子どもの看病をしていました。一人は、その子どもの母親です。もう一人は、賃金を払って一雇った付き添いの看護婦さんでした。担当の医者が、この二人の血液の状態を調べていたのですが、不思議なことに気がついたというのです。
 というのは、当の子どもの病気が軽いときには、二人とも、血液の状態は正常なアルカリ性を示していたのですが、子どもの病気が重くなって生死の境をさまようような状態になると、とたんに、母親の血液は強度の酸性にかたむいたのです。心の中の不安や苦しみの感情が、肉体に反映したのだと思います。
 ところが、付き添いの看護婦さんの血液は、つねにほとんど正常であったというのです。だからといって、その看護婦さんが、特別に薄情な人だったというのではありません。また、子どもが全快するのを願わなかったといえばウソになります。それでも、心の状態は、ありのままに、色法の世界に反映していくのですね。
 池田 科学の眼がとらえた、みごとな実験例だね。心法と色法の密接な相互関係を、浮き彫りにした一つの実証だと思う。
 川田 子どもの教育上、たいへん参考になると考えられる実例が、もう一つあります。メダルト・ボス(スイスの精神分析医。一九〇三年〜九〇年)という精神身体医学者のリポートです。(メダルト・ボス『心身医学入門』三好郁男訳、みすず書房、参照)
 七歳になる、元気すぎて、やんちゃな男の子がいました。チョコレートが大好きでしたが、母親は子どもの手が届かない戸棚の引き出しにしまいこんでおいたというのです。男の子は、幼い知恵を働かせて、足台や椅子を組み合わせ、命がけでチョコレートを取っていました。その行為を見つけた母親が、罰として、子どもの手を縛り、高い机の上で、チョコレートがよく見える場所にすわらせておいたのです。かわいそうに、その子は、大好物を目の前にしながら、取ることもできず、机からおりることもできない状態でした。
 この罰則を数回、繰り返しているうちに、子どもの精神状態は非常に不安定になってきました。とともに、全身に、ハシカのような発疹が出てきたというのです。母親には、この病気の原因はつかめなかったのですが、欲しいものを食べたいという本能や、それにともなう興奮、不安、怒りなどの感情が、心身の両面に、異常な形で噴出した結果であることは明らかです。医者の忠告で、この罰をやめると、症状もすっかりおさまったそうですが、心の中の動きは、かくもみごとに色法の世界にあらわれるものだなと、あらためて実感したしだいです。
 池田 いまの話を聞いていると、幼い生命に心の傷を残さないためには、よほどの配慮が必要であることがわかるね。その子どもの心性をよく見きわめて、賢明な形で、欲望や感情をコントロールすることが肝要です。そのためにも、心の深層を、さらに深く知る必要があるのではないだろうか。生命の全貌がわからなければ、どのようにコントロールしていけば、立派な人間性を養えるのかもわからないでしょう。
 ところで、心の世界は、理性や良心や欲望などに限定されるものではない。その底流には、さらに一段も二段も深い生命の法が、実在しているのではないかと考えられる。そうでなければ、理性や良心や衝動、また、感情などの実在とその活動は、たんなる偶然になってしまう。また、これらを生みだした根源の法は、永遠の闇にほうむられてしまうことにもなりかねない。
 このあたりになると、人によって意見が分かれているね。たとえば、フロイトは本能的欲求がすべての源泉であるといい、ニーチェ(ドイツの哲学者。一八四四年〜一九〇〇年)やアドラー(オーストリアの精神病学者、心理学者。一八七〇年〜一九三七年)は権力欲とか権力への意志にそれを求め、マルクーゼ(アメリカの哲学者、社会学者。一八九八年〜一九七九年)は生と死の衝動説を唱えている。
 また、これらはすべて、人間生命が誕生したときに、すでにそなわっていたものだともいう。たしかに、本能、衝動とか、権力への意志などは、理性や良心さえも動かす力をもっているでしょう。しかし、その本能的衝動などの噴出するもう一歩奥の源泉は、個人の無意識の底辺を突きぬけた領域にあるような気がする。
 北川 フロイトと並び称される深層心理学者の一人であるユング(スイスの心理学者、精神病学者。一八七五年〜一九六一年)は、人間の生命の奥底には、人類共通の基盤を形成しているという説をたてています。ユングは、心理学から宗教への有力な橋をかけた学者でもあるといわれていますが、彼の主張するところは、一人の人間の心の底流には、人類発生以来のすべての遺産が流れ込み、他の三十七億の人々と交流しあっている、というのです。彼は、このような人類全体にまで広がった心の深層を「集合無意識」と命名しています。
 池田 科学も発達すれば、ずいぶん、仏法に近づくものだね。「集合無意識」とは、うまく名づけている。人類共通の生命の根源を、さらに掘り下げると、人類の心は、あらゆる生物の生命の底流に通じていよう。そして、すべての生ある存在の内奥には、草木とか、石とか、大地などをも包みこんだ大宇宙自体が実在しているはずです。一人の人間の生命は、たんに自己の無意識層にとどまらず、人類共通の基盤、さらに、あらゆる生物の共通基盤をさえ突きぬけて、宇宙自体に律動する生命の根源的実在へと通じ、そこから生を創造するエネルギーをくみだしているという事実を、仏法の英知は見ぬいていたと思う。
 すべての生の最深部に、生命を生命たらしめている根源の力がある。いや、生物のみならず、死せる物体をも、その根底から支えつつ、力強い調和の律動を奏でる宇宙存在の力と法がある。それを、仏法では、「実相」といい「玄宗の極地」、また「妙法」という。この宇宙の本源的実在のもつエネルギーが、あらゆる存在物に能動性をもたらし、生を創造しゆく発動力ともなるのです。
 もし、この生命のエネルギーが、色法の世界に顕現すれば、物質界のさまざまな法則としての姿をあらわし、物質を統合し、調和させ、大宇宙のリズムとともに共鳴しつつ律動するにちがいない。つまり、これらの法則は、宇宙生命内在の″妙法″という根源的な法の顕在化であり、個別化なのです。
 また、生命エネルギーが精神の領域を形づくれば、理性を生み、良心を芽ばえさせ、各種の衝動ヘと力を与えつつ、さまざまな心的現象を織りなすにちがいない。
 しかも、色法と心法は、渾然一体となり、融合しつつ、生命の創造を繰り広げているのが、宇宙と生命の本質的な真の様相だと思う。
 北川 日蓮大聖人の「御義口伝」には、「大地は色法なり虚空は心法なり色心不二と心得可きなり」とあるように、このような菩薩の境涯を、私たち自身の生命に築きあげることができるのです。
 池田 宇宙生命自体の心性だね。それを虚空といい、心法という。そうすると、大地というのは、私たちの目で見える大宇宙だね。つまり、現象世界を織りなす宇宙だね。
 北川 そうしますと、いまあげた文の意味は、大宇宙自体が、色心不二としてのリズムを奏でているととれますね。
 池田 そう。大宇宙といえば、純粋に物質的存在のようにみられるが、その色法のうえにあらわれる不可思議な種々相の能動性、心法というべきものがある。しかも、その能動性を支え、生みだす根源の法としての″妙法″に眼を開けば、色心の融和した実相を知見できると思う。人間生命について考えれば、このような色心不二の実在としての宇宙生命自体が、個性化し、個別化した一つの実在こそが、各個人の生命といえよう。
 北川 人の生命が、宇宙の生的発展の姿であると考えると、その内奥が宇宙の根源に通じ、しかも、色心不二としての生をつくっているという事実が、明瞭に理解できます。ところで、宇宙と人の生命が、ともに色心不二の実在として、共鳴しつつ、生を営んでいる動的な様相は、先にあげた「帰とは我等が色法なり命とは我等が心法なり」という「御義口伝」の文に、適切な形で示されていると思うのですが……。
 池田 この文は、宇宙と人間の本源的な関係を、まことに鋭くとらえていると思う。生命体を形成する色法は、この大宇宙からその一切を集めてつくられるとともに、それは、やがて宇宙生命に帰っていく。一瞬もとどまることなく新陳代謝を行っている。これが「帰とは我等が色法なり」という意味だね。
 これに対し、心法は、この絶え間なく変転する物質をよりどころとしながら、それ自体としての、統一的な生の調和を少しも損ずることはない。その生命の奥には、生を創造する″生命の火″が赤々と燃えたぎっている。いいかえれば、物質の変転を推し進めるその力こそが、心法の奥深く、生の底流から流れ込んだ宇宙生命そのものの本源力なのです。
 北川 それが「命とは我等が心法なり」という意味ですね。
 池田 すべての生命的存在の心法は、宇宙生命自体にもとずいている。そして、宇宙と人間の生は、その生命の力を中核にして、融合し、立体的に律動していると考えられる。
 川田 じっさいに、人間の身体を構成している物質は、つねに新しいということを立証するデータがあります。たとえば、ナトリウム24という放射性物質を静脈に注射すると、五秒後には心臓や肺や血管にいきわたり、七十五秒後には汗となって排出されます。あとは歯や骨に入りますが、それも一カ月ほどで全部体外に出てしまいます。
 また、肝臓を構成している蛋白質は、二週間ほどで半分が交代し、筋肉の蛋白質は四カ月で、すっかり代わってしまいます。私たちの細胞の構成成分は、一年もたてば、ぜんぶ跡形もなく入れかわってしまうことが、放射性物質をもちいた各種の実験から明らかになっています。
 池田 物質は、刻々と流動している。精神活動も、意識の表層に浮かんだと思うと、次の瞬間には生の内奥に帰っていく。このように色法と心法とが、たがいに融合し、渾然一体となって、生を営んでいるのが、色心不二の実在としての人間生命だと考えられる。色法と心法の二つの世界としてあらわれつつ、しかも融合し、統一された一個の生命体が、私たちの姿そのものなのです。人の生命を色心不二ととらえることによって、生命の全体像を、その根源から解明したことになると思う。
 北川 そこで、先ほどの「御義口伝」の「帰とは我等が色法なり命とは我等が心法なり色心不二なるを一極と云うなり」とあるように、このような菩薩の境涯を、私たち自身の生命に築きあげることができるのです。
 池田 ここにいう「一極」とは、宇宙生命であり、「妙法」といえる。それに「もとずく」ことが、人間として最大の力と幸福を得る根本的な道であり、また、人間としての本来の行動だと考えてよい。人々のなかには、この本源的なエネルギーの、生命内奥への流入が、あまりにも弱かったり、阻害されて苦しんでいる不幸な人が多すぎる。それを根源から変革するのが、仏法の実践の意義である、と私はいいたい。

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