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人生問答 後記

「人生問答」松下幸之助(池田大作全集第8巻)

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1  後記  「池田大作全集」刊行委員会
 本巻は、故・松下幸之助氏と池田名誉会長の往復書簡集『人生問答』上・下を収録したものである。『池田大作全集』対談編の四冊目であり、全集の通巻では第八巻(第十九回配本)となる。
 松下氏と名誉会長の出会いは、一九六七年(昭和四十二年)十月、千駄ケ谷の国立競技場で開かれた創価学会の「東京文化祭」にさかのぼる。来賓として出席した松下氏は、文化祭の壮麗な演技もさることながら、来賓一人一人に寄せる名誉会長(当時、会長)のこまやかな心配りに感動したという。
 その後、二人は出会いを重ね、親しく語り合う間柄となった。
 両著者が巻頭で述べているように、書簡のやりとりは一九七三年(昭和四十八年)の秋ごろから始まり、その一部は翌年十月から約九カ月にわたり「週刊朝日」に連載された。百五十問ずつに及ぶ″問答″を収めた原著が潮出版社から刊行されたのは、一九七五年(昭和五十年)のことである。
 松下氏は周知の通り、松下電器産業の創業者で、日本を代表する経済人である。
 明治二十七年(一八九四年)、和歌山県の生まれ。生家の困窮のため小学校を四年で中退し、火鉢屋や自転車店に奉公に出る。電気に関心をもち、電灯会社の勤めを経て二十二歳で独立した。自ら考案した改良ソケットの製造、自転車用の電池ランプの販売を振り出しとして、戦後日本の経済成長とともに急速に事業を拡大。不屈の努力と独創的な経営で「家電王国」を育てあげ、″経営の神様″と呼ばれた。
 一方、戦後間もなく「PHP研究所」を創設して出版活動に取り組んだほか、昭和五十五年(一九八〇年)には「松下政経塾」を開き、日本の政治・経済の未来を託す人材の育成に力を注いだ。更には「国際科学技術財団」を創立し科学技術の振興に努め、ノーベル賞に倣った「日本国際賞」を創設するなど、スケールの大きな社会活動家でもあった。
 「経世済民(世の中を治め民を救うとという経済の本来の語義に照らしても、優れた「経済人」と呼ぶにふさわしい氏の足跡である。
 人間と人生、生と死、宗教・道徳、政治、教育、文明への視座、日本の進路……。「問答」で語り合われたテーマは、まことに多岐にわたっている。
 仏法の実践者であり詩人でもある名誉会長と、松下氏とは、本来、まったく畑が違うはずである。にもかかわらず、個々のテーマに対する二人の考えが共鳴しあうさまは、実に驚くばかりである。
 原著の発刊当時、すでに八十歳を越えていた松下氏の、長年の事業経験から培われた人生哲学。また、「まことの・みちは世間の事法にて候」と説く仏法の英知――。そこには自ずから、人類社会への貢献を志向する″対話の土壌″が熟成されていたかのようである。
 「素直な心」――。本文でも紹介されている、松下氏の有名なモットーである。
 氏は、渋谷の国際友好会館で名誉会長と懇談したさいにも、芳名録にこの言葉を記している。のちに名誉会長は、この言葉を通し、「人は、社会的な地位を手にし、財産を築くにつれ、徐々に『素直な心』を失っていくものだ。若き日の理想を忘れ、慢心と傲りに堕していく人も、少なくない。
 そうしたなかにあって、有数の財界人である松下氏は『素直な心』としるされた。私は、真実の法則と人生に対する敬虔な心の音律を、そこに感じてならなかった。偉大な人は、どこまでも偉大である。
 偉大そうな人と、偉大な人とは違う。これが私の人物観である」と述べている。
 人生の風雪に打ちひしがれ、寂しき心の敗残者になる人もいる。逆に、労苦を追い風として、ますます大きく輝いていく人もいる。ともに少年時代から病弱であり、数々の苦労を経てきた両著者の語らいには、顛難によって鍛え抜かれた「素直な心」「開かれた心」のかもし出す深い味わいがある。松下氏は、名誉会長にしみじみと述懐していたという。「池田先生、やっぱり、若い時の苦労は、買ってでもせにゃ、あきまへんなあ」と。
 ところで、巷間、「企業社会の頂点を極めてしまった松下氏は、晩年、むしろ孤独だったのではないか」とも言われる。
 もしそうだとすれば、それは経営の第一線を退いた閑居の孤独などではなく、日本や世界の未来を語り合うに足る後進に巡り会えない寂しさにあったのではなかろうか。そして、名誉会長との出会いは、警世の念を深くする氏にとって、希望の光を見る思いがしたに違いないと思われるのである。
 人間教育・人材育成に全力を注ぎたいとの心情から創設した「松下政経塾」についても、氏は後年、「もっと早くつくっておけばよかった」ともらしていたという。
 「塾」の構想は、すでに開設の九年前、名誉会長に明かされている。名誉会長は創価大学・創価学園を創立した経験から、教育についての所信を語った。同構想について、松下氏から十項目ほどの質問も寄せられたという。若き仏法指導者の言葉に、真摯に耳を傾ける松下翁の姿が彿彿と浮かんでくる。
 「松下さんは、一個の企業利益などという俗念はとっくに乗り越えて、国家、世界の行く手を憂える真情に満ちておられる」
 「経済界と、精神界と――。私たちの立場は異なる。しかし″人間・松下″のめざすところと、それにかける情熱とは、すべての指導者の胸中に高く共鳴しているといってよいのではないだろうか」(『心に残る人びと』から)――。
 松下氏は一九八八年(昭和六十三年)、新年のあいさつとともに名誉会長の誕生日(一月一一日)を祝し、こう書き送っている。
 「本日を機に、いよいよ真のご活躍をお始めになられる時機到来とお考えになって頂き、もうひとつ〈創価学会〉をお作りになられる位の心意気で、益々ご健勝にて、世界の平和と人類の繁栄・幸福のために、ご尽瘁じんすいとご活躍をお祈り致します」と。
 もう一つ創価学会を――。里目春とは心の若さである 信念と希望にあふれ 勇気にみちて 日に新たな活動をつづけるかぎり 圭目春は永遠にその人のものである」との信条を貫いた松下氏ならではの、若き友人への贈言であろう。
 一九八九年(平成元年)四月二十七日、松下氏は肺炎のため大阪の病院で亡くなった。九十四歳であった。氏が生涯をかけた松下グループや松下政経塾も、今では創業者の遺志を継ぎ、後継者たちの手で新たな歴史を刻んでいる。
 立志伝中の経済人と、世界的な仏法指導者の友誼の結晶である本巻が、読者の方々のよき人生の糧となることを願ってやまない。
   平成五年七月三日

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