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世界平和のために  

「人生問答」松下幸之助(池田大作全集第8巻)

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1  真の世界平和とは
 松下 今回の石油問題で、日本の見せかけの繁栄が露呈され、厳しい反省が行なわれていますが、考えてみれば、今日の世界情勢下にあって、今われわれが享受している平和というものも、実は見せかけの平和のうえにたっているのではないかという意見もあります。
 日本としては世界平和のうえにしか生きていく道がないと思いますが、はたして真の世界平和は望みうるものなのでしょうか。また、それはいかなる姿において実現するとお考えでしょうか。
 池田 戦後日本の繁栄が、実は見せかけの平和のうえに築かれたものであるというご所見に、私も賛成です。
 この三十年間、日本の国土を主戦場とした戦争は、たしかにありませんでした。明治以来、わが国はほぼ十年単位で対外戦争にかかわってきた歴史からすれば、戦後の三十年間は「平和」であったかもしれません。
 しかし、日本もその一員であるアジア全体をみた場合、第二次大戦後のアジア民衆は、まさに戦乱に次ぐ戦乱に巻き込まれた犠牲者であったといっても、けっして過言ではないと思います。しかも日本は、朝鮮戦争の時も、またベトナム戦争にさいしても、戦争の一方の当事者であるアメリカ軍に基地を提供し、武器・弾薬の補給や、経済的な面での協力を行なったことによって、アジアの民衆から非難される対象になりました。とりわけ日本経済の奇跡的な繁栄は、そうしたアジアの戦争を背景にして初めて可能であった、といわれます。その意味で″平和国家″としての戦後日本の繁栄が、実は見せかけの平和のうえに成り立つものであった、といわれるのでしょう。
 では、真の世界平和は、はたして望みうるものなのか、どうか――という趣旨のご質問ですが、私は平和は「望みうる」ものではなく、むしろ、みずからが主体的に創出すべきものであると思います。
 平和は、みずからが戦争に巻き込まれないようにしていれば守れるというものではありません。世界の平和を実現するということは、積極的創造的な努力を必要とするものです。たしかに、戦争を起こす一部の権力者を除いて、世界中の誰もが平和を待望していることにはまちがいない、と思います。そうした民衆の素朴な願望と連帯の輪を広げていくならば、けっして真の世界平和、人類の恒久平和は不可能ではないはずです。
 だが、平和を願う心さえあれば平和が得られるかというと、けっしてそうでないことは、今日まで、人類は真の平和を待望しつつも、なお野蛮な戦争を繰り返してきた事実によって余りにも明らかです。その本源的な原因を追究していくならば、最後には人間の「生命」の問題に行き着くはずであります。それは、あのユネスコ憲章に謳われたような「心」の問題もさることながら、心のもっと奥にある人間の生命を本源的に変革する哲理をもって、この地上に真の世界平和を築くことが、私たちの絶対の信条であり、かつまた実践の目標でもあります。
 しかし、ここで誤解されないように付言しますが、われわれが生命の変革を第一に掲げるからといって、それは観念論的な範疇に属する平和論ではない、ということです。一個の人間生命の変革は、やがて社会の変革を促し、ついには一国の宿命をも転換しうることを、私は小説『人間革命』等で強調してきました。
 すなわち、私が想定する世界平和へのプログラムは、これを制度的な面からいえば、まず近代から現代にかけての戦争の主体であった「国家」のエゴを乗り越えることです。そのうえに、世界連邦政府といった機構を創設することによって、永久に崩れざる真の世界平和を確固不抜のものとしたいと念願しているのです。
2  人類の平和を築く道
 松下 人類全体が平和のうちに生きていくということは、人間誰しもの願いであり、また理想とするところではないかと思いますが、しかし現実には、人と人との争いや、国と国との戦争が繰り返し起こり、人間の不幸をもたらしています。こういった不幸な姿を起こさぬよう、人類の平和を築き保っていく道はないのでしょうか。もし、そういう道があるとするなら、その道の根本をなすものはどういうものでしょうか。
 池田 人類全体が平和のうちに生きていくことが、人間誰しもの願いであり、理想とするところであるというご高見に、私もまた賛成です。しかし現実には、人間と人間が争い、国と国とが戦争を繰り返してきたのも、また偽らざる歴史の事実です。
 では、なぜ人間は、一方では平和を望みながら、現実には人と人とが争うのでしょうか。しかも、いったん戦争になると、人間と人間とが殺し合うことが、公然と認められ大量殺人が合法化される。これほどの不条理はない、といえましょう。
 人間と人間が争うのは、それは人間が欲望をもつ存在だからだと思います。一個の人間の欲望というものは、それを無制限に追求していくと、必然的に他人の利害得失とかかわってきます。したがって、まず各人が自己の野放図な欲望を制御することから始めて、制度的には富が公平に配分されるような仕組みを考える必要があると思われます。
 人間がみずからの欲望をコントロールすることについて、最も深く討究した教えが私は仏教であると思っています。インドに生まれた釈迦以来の仏教の歴史というものは、幾多の先達が人間のもつ欲望に対して、真正面から対決した歴史ともいえるのです。なかでも大乗仏教の系譜においては、小乗仏教の出家の僧侶たちが欲望を否定し、断滅しようと苦闘したのに対して、人間に本然的な欲望を明らかにみて、それを使いこなしていく実践活動を重視した。すなわち、とくに在家の仏教者たちは、むしろ人間の欲望を発条として、それを善の方向に向け、社会の繁栄と平和に寄与する人間共和の世界を目指したのでした。
 このように、まず人間の生命に内在する欲望を制御するには、最も鋭く人間の内面を解明した哲理によるとしても、それをさらに社会的に保障するものが必要となってまいります。近代社会の法体系というものは、人間と人間との争いが物理的暴力をもって行なわれることを禁じ、どこの国でも殺人に対しては死刑などの厳罰をもって臨んでいるのが一般です。しかし、近代から現代にかけての国家というものは、一方では物理的暴力による私刑や殺人を禁止していながら、他方では国家自体が物理的暴力の装置をそなえ、国家の自衛権とか交戦権と称して、互いに国家主権を主張して譲らず、人間と人間とが殺し合う戦争行為を合法化しているのです。ここに、人類が平和を希求しながら、現実には戦争を繰り返してきた歴史の不条理の根本的な原因が潜んでいるといえましょう。
 そこで私は、まず人間生命の根底的な変革の必要性を主張するとともに、制度的にも人類が真の平和を築いていくため、人間が人間を殺す行為である死刑の廃止と、戦争を準備するためのものであるいっさいの軍備の撤廃を一貫して提案してきたのです。むろん、その道は険しいかもしれません。だが、一方では殺人を禁じながら、みずから他方では殺人を合法化しているという現代国家のもつ根本的な不条理は、すでに誰もが気づいているところであります。この簡単しごくな論理を、人類の英知をもって実現しえないはずはあるまい、というのが私の考えであり、確信です。
3  世界平和を目指す実践
 池田 真の世界平和は、望みうるかどうかを、座して論じてもはじまりません。なぜなら、ごく一部の権力者を除いて、全世界の大多数の民衆は、平和を待望しているからであります。問題は、どのようにして平和な世界を築くかにかかっていると思います。
 平和は、待望するだけでは実現できません。真の世界平和を目指しての実践こそ尊いと考えます。そこでおうかがいしたいのですが、そのような世界の平和に対して、具体的に何を目指し、かつ実践なさっておられるでしょうか。
 松下 おっしゃるとおり、平和というものは待望しているだけでは生まれないと思います。それにふさわしい働きを各国民がしなければならないと思います。しかし、一国の国民がそういう働きをしても、他の国の国民がそれに反対していたのでは、平和は生まれないでしょう。全世界の国民が平和を愛好すると同時に、その平和にふさわしい実践をしなければならないと思うのです。
 しかし、必ずしもそのとおりになっていないのが現実です。戦争や争いが絶えないのが、世界の一つの実情です。この実情を踏まえて、一歩一歩、平和を築いていくのは相当時間のかかることだと思います。しかし、いかに時間がかかろうと、平和への実践は必要です。
 世界各国の指導者が、平和を願い実践していることは事実だと思います。しかし、平和を願っている半面に、自国の繁栄ということを考えています。そこにいろいろのとらわれもあって、さまざまな問題をかもしていると思われます。そういうとらわれのないように、指導者は自戒しなければならないと思います。そして、平和を一歩一歩築き上げていくことに、絶えまない努力を注ぐ必要があります。また国民は、そういう指導者に対して、好意と助成の働きを寄せていくことが大切です。
 そういった姿を、一国だけでなく、世界全体として進めていく必要があると思うのです。先生の指導しておられる創価学会が、その思想を広く世界に普及することによって世界の平和に貢献していこうとしておられるのは、まことにうれしく、賛成です。
 私の関係した事業は、今私は第一線にたってはいませんが、今まで数十か国に会社、工場などをつくってきています。そして、それらの会社、工場は、常にその国のためになるかならないかを自問自答しつつ建設しています。ですから、各国それぞれに物の考え方は異なりますが、今までのところ、おおむねそれらの会社、工場は、その国において是とされているのです。また範とされている面もあります。
 そういうことで、世界各国に経済的にいささかの寄与をし、また私は私なりに平和的な思想を多少なりとも提供していると考えていますが、最近、しだいにそういうことが認識され、感謝されるようになってきたように思います。
 とはいえ、私ども一部だけの力では、とうてい世界平和を助成することができないのはいうまでもありません。各国すべての人びとが思いを同じくして、絶えず世界の平和と繁栄を口にし、実践していくことが大事だと思うのです。
4  平和というものの姿
 松下 昨今は戦争の悲惨な姿がいろいろな媒体を通じて報道され、平和を求める声が世界の各地に力強く生まれてきていると思います。しかし、真の平和とはいったいどのような姿をいうのでしょうか。もちろん戦争がない状態とか、対立抗争がみられないとか、生命が脅かされないとか、いろいろ考えられるとは思いますが、何が真の平和の基本の姿なのでしょうか。ご高見を賜わらば幸いです。
 池田 何をもって「真の平和」と考えるかは、個人により事態によって違いがあるはずです。今日の国際世界の場にあっては、ご質問にあげていらっしゃるように、「戦争がない状態」とか「対立抗争がみられない」とか「生命が脅かされない」といった状態も、平和の姿として欠かせないものでしょう。要は、平和というこの定義が問題なのではなく、どういう状態を求めるかということが問題です。
 私個人の考えとしては、まず第一に、戦争のない状態が未来にわたって保障されること、つまり将来にわたって戦争が起こされないような世界を築くことが大事だと思います。一時的には戦争がない状態が訪れても、それが″つかの間の平和″であっては、真の平和とはいえない。いつなんどき戦争が起こるかもしれない状態というものは、たとえ戦争の人ぶたは切られていないとしても、準戦時下にあるようなもので、人びとは安心して生活できないでしよう。
 第二に、これは今のべたことと関連しますが、世界中の各国が現に戦争の準備を行なっていない状態、つまり、いっさいの常備軍が廃止されることだと思います。むろん、現在のような権力政治の横行する国際社会では、それぞれ自衛権といったものがあるのは当然でしょう。
 しかし、真の平和な世界を想定したときには、国際紛争を解決する手段としての戦争は認められないわけですから、そのための軍備は無用の長物となるでしょう。いうまでもなく、軍隊というものは、もともと存在すること自体が危険な代物です。過去においても、国民の意思を無視して軍人が独走し、それによって戦争が起こされた例は、枚挙にいとまがありません。ケネディ大統領も指摘したように、偶発・誤算・狂気による核戦争を避けるためにも、兵器をはじめとするいっさいの軍備を撤廃することが、真の世界平和を招来するための里程標となるでしょう。
 第三に、より本源的には、人間と人間とが殺し合うような生命の傾向性を根底的に変革することですが、それについては他の個所でのべました。そこで制度的な面でいえば、そのような生命変革の理念を根底にして、人類が永遠の未来にわたって平和であるような国際機構を構築することだと思います。すでに触れたように、この地球上に百数十か国もの主権国家が対立して存在し、互いに戦争の準備を進めているような状態では、いつになっても真の平和は望めません。
 私としては、すでに小説『人間革命』第五巻の「驀進」の章で詳しく考えをのべてありますが、現代の「国家」といった概念を乗り越え、地球上のすべての民族自治体が、それぞれの特性を生かしつつ、しかも世界連邦政府を形成することによって、制度的にも真の平和が末永く保障されるような体制を築きたいものです。それこそ、現代の私たちの世代の、最大の課題ではないでしょうか。
5  平和のための前提条件
 池田 今日ほど平和ということが要求される時代はないといってよいことは、人類が最終兵器を開発した事実からしてもうなずけることです。しかし、日に平和を唱えることはやさしく、実現は困難です。平和の名のもとに戦争さえ行なわれた史実がそれを裏づけております。たんに平和を口にするだけでは平和は達成されないのであり、そこには平和の前提条件ともいうべきものがなければならないと考えますが、このことについてどのようにお考えになりますか。
 松下 おっしゃるとおり、平和というものはたんに口で唱えるだけでは実現されません。平和が大切だということは、何千年も前から繰り返し唱えられていると思います。平和という言葉がいつの時代につくられたのかは知りませんが、そうした言葉のできる以前から、おそらく人間の歴史はじまって以来、平和ということが求められてきたのではないでしょうか。
 にもかかわらず、人間の歴史からこれまで戦争が絶えたことがないといってもいいと思います。平和を国にしつつ一方では戦争している、はなはだしきは、平和のための闘争とか戦争といったことが口にされ、行なわれているというのが、過去、現在における人間の姿だといえましょう。
 それでは、そのような状態を脱却し、平和を実現する前提として、どういうことが必要かといいますと、私は、やはり人間としての意識革命ではないかと思います。つまり真の平和というものをはっきり見極め、心からそれを愛好し、切望するというように、一人ひとりの意識革命が行なわれなくては、いつまでたっても、平和のための闘争といったことがなくならないと思うのです。
 真の平和とはどういうものかを、科学的にも研究し、また人間の心の在り方としても考え、それを口先だけでなく、心の底から愛好するというように、国家としても、また個々の人間としてもなっていくことが大切です。
 そういうことを一国の政治のうえにも、また教育のうえにも取り入れて、国民またみずから平和の意識革命を醸成していく、そのようなことが世界の各国において徹底して行なわれたならば、求めずして平和は生まれてくると思います。
6  世界と国家の在り方
 松下 「世界が多くの国家に分かれているから、国際紛争、戦争などの好ましからざる姿も起こる。だから、すべての国家をまとめて、世界全体を世界連邦といった一つの国にすべきである」「いや、世界を一つにするのでなく、多くの国々に分かれているほうが、それぞれの国民性に合致した政治、社会の仕組みも可能であり、好ましいことである」というように世界と国の在り方について二つの方向の考え方があるようですが、はたしてどちらの方向が望ましいのでしょうか。ご高見をいただければ幸いです。
 池田 これは、現在から未来にかけて、人類がかかえる最大の課題の一つといえましょう。理念的には、個と全体の調和をいかに図るかという問題に置き換えられますが、今や、これは、たんに理念的な次元ではすまされない、人類の存続にかかわる、最も現実的な課題です。
 核兵器の脅威という点でも、また経済、産業の問題にしても、さらに人口、資源、環境破壊といった生存の基本にかかわる問題を論じても、グローバルな視点にたって初めて、その打開の方向が見いだされる課題であり、しかも、全人類の衆知によるしかない難題といえます。そのためにも、一日も早く、世界を統括するなんらかの機構の実現が望まれるわけです。その統合化の方向だけは、好むと好まざるとにかかわらず、一つの避けがたい歴史の潮流ともいえましょう。
 しかし、その実現は、権力や武力によってなされるべきではないし、また、それらによっては可能な道理もありません。統合のために個々の国家、民族の独自性が抑圧され、犠牲にされることがあってはならないことは当然です。だからといって、そうした国家や民族の独自性も、全体を無視したエゴイズムであってはならないことは無論です。
 では、権力や武力に代わる、何によって世界の統合が可能になるでしょうか。この一点を凝視し掘り下げることしかないと思います。そうしますと、物理的な力でない、文化という力に着目せざるをえないわけです。
 結論的にいって、そこでとられるのは、ご質問にあげられた二つの考えを総合した第三の方向ということになります。私は統合化が必要であることは認めますが、各国、各民族の個性をその存立の根底から否定するような統合化であってはならない。もちろん統合化のために個性の一部を犠牲にしなければならない場合も出てくるでしょうが、その犠牲はあくまで最小限にとどめられるべきだと考えます。つまり、それぞれの独自の個性を尊重し、これをよりいっそう発達させながら、しかも″人間性″という、最も深い次元において、地球民族、地球家族ともいうべき普遍的な文化の世界に融合していく道を考える必要があるわけです。
 したがって、その融合の鍵は、国家、民族的次元を超えた、人間次元に求めるしかありません。そのためにも、人類の英知が、人間次元の開拓に注がれることが不可欠の要請でありましょう。
7  世界連邦の可能性
 池田 現代科学文明の発達は、地球人全体を、運命共同体とすることを要請しており、世界連邦の実現も叫ばれております。しかし、現実には、続々と新しい国が独立し、国境線はますます多く引かれており、世界連邦の要請とは全く逆の方向へ向かいつつあるようにみえます。この現象をどう理解されますか。また、それに対してどのような運動が必要とお考えになりますか。
 松下 結論から申しますと、私は将来的には世界連邦というかたちになっていくと思います。
 今後の過程にはいろいろ問題もありましょうが、究極的に考えられることは、やはり人知が進み、世界がだんだん近くなってくれば、好むと好まざるとにかかわらず、世界が一つということにならざるをえないでしょう。たしかにご指摘のように、今日、次々と新しい国が独立し、互いに争ったりして、分離行動的なことが起こり、世界は一つになるより、バラバラになるかのような観を呈しています。しかし、これは今までの反動にすぎないと思います。過去それぞれの国の発展の度合が異なり、そのために植民地ができたりしてきた、その反動が、一時的に起こってきているのだと考えられます。
 ですから、今後さらに人知が進み、文化が発展していくにつれ、世界はますます狭くなり、お互いの利害が相反するより共通する場合が多くなってくるでしょう。そうなれば、ある年月は要するにしても、世界は好むと好まざるとにかかわらず、世界連邦という組織に統一されてくると思います。その時には、やはり素直にその世界連邦に入るという心構えをもっておくことが大切です。
 ただ、連邦内でのある種の自治というものは、その時でも必要だと思います。世界連邦ができても、伝統の民族性というものは現実に存在するわけですから、これを強いて取り除こうとしないほうがいいでしょう。自然の推移にまかせるというか、むしろある期間は民族性を尊重するという方向で考えたらいいと思います。だから、共通性のあるものは連邦制のなかに取り入れ、そうでないものについては独立性をもたすわけです。
 いずれにしても、やがては世界連邦という姿になっていくでしょうし、そしてまた、そのことは、世界の究極的な安定、繁栄に結びつくことにもなると思います。資源の問題で相争うといったことも防げるでしょう。人びとの福祉というものも公平に向上していくでしょう。つまりは、人類の共同生活が高まり、好ましい人間社会ができていくと思うのです。
 したがって、少なくとも、やはり世界の各国が、将来的には世界連邦が結成されていくことが好ましいことであり、必要であるという認識、態度をもたなくてはならないと思います。
8  ″世界語″は必要か
 池田 今日、経済的にも、文化的にも、世界のあらゆる民族、国家が交流し、地球は一つ、世界は一つと考えられるようになってまいりました。そこで障害となるものの一つに、言語の相違という問題があります。
 それを解決するために、はたして将来″世界語″というものが、必要になってくるでしょうか。またそれは、エスペラント語のような科学的な″人造語″というようなものであるべきでしょうか。
 松下 一父通とか通信の発達によって、世界がだんだんとちぢまり、また、しだいに国境というものもなくなって、世界が一体化するような傾向になっています。そういう状態ですから、もし世界の共通語というものが、スムーズに抵抗なく考えられるのであれば、これは非常に便利ですし、大いに結構だと思います。ですから、世界の各国が会議をして、そういうものがあったほうがいい、世界共通語をつくっていこうということで一致すれば、そうしたらいいでしょう。それは新しい言葉をつくってもいいでしょうが、お互いが自国の言葉にとらわれずに、いま世界で一番使われている言葉を共通語にしていくということでもいいのではないかと思います。
 ただ、問題はそういう世界共通語ができたら、それぞれの国家、民族の言葉はだんだんなくしていくのかどうかということです。私は、その必要はない、というより、むしろそうしてはいけないと思います。たしかに、共通語ができ、一つの言葉に統一されれば、実用的にはまことに便利がいいでしょう。しかし、人間は実用一点ばりで生きられるものではありません。もし、世界の言葉が一つだけになってしまうと、各国民、各民族の人情の機微に触れるような微妙なもの、精神文化的なものがだんだん薄らいでいくおそれもあります。
 ですから、二本立てとでもいいますか、一方で世界共通語をつくるとともに、その一方で、それぞれの国語、民族語というものも大切にし、盛んにしていくことが望ましいと思うのです。かりに日本人であれば、世界共通語も勉強する、同時に日本語も今まで以上に勉強するというわけです。
 やはり、いい意味での民族意識、国民意識というものは大事にしなくてはなりませんし、それぞれの国家、民族の伝統に根ざした文化の多様性があるほうが、この世界というものが味わい深いものになると思います。そういう多様性が、世界共通語をつくることによって失われてしまうのでは、これはかえってマイナスになりますから、やはり各国語、民族語を大事に守っていくことはどうしても必要だと思います。
 いずれにしても、世界共通語というものはあるにこしたことはありませんが、やはり、世界の人びとの自然な合意のうちに、スムーズにつくられていくことが肝要で、性急につくる必要はないと思います。
9  国連の効用と未来
 松下 国際連合は、これまで世界平和と国際理解のために、それなりの貢献をしてきたわけですが、しかし最近では、その活動、影響力、効果というものの限界が指摘され、その存在意義にまで疑問が向けられている面もあるといいます。国際連合の効用についてどうお考えでしょうか。また、国連をさらによりよく生かしていくために一番大切なことは、いったいどのような点だとお考えでしょうか。
 池田 国際連合の問題は、現時点における効用、影響力をうんぬんする前に考えるべき事柄があるように思います。
 もともと、国際連合は第二次大戦後に、世界平和と国際理解を主目的に、それ以前の国際連盟に代わって設立されたことは周知のところです。
 目的に関するかぎり、国際連合には、地球上の人類の永遠の願いが込められると同時に、その願いを実現すべく立ち上がった全世界の人びとの強い意志が結晶されています。この崇高な目的にたつならば、国際連合の効用や存在意義を論ずる前に、いかにして、目的を円滑かつ強力に推進すべきであるかをこそ考えるべきであり、また、目的遂行を阻んでいる諸問題の解決に邁進するのが先決ではないかと思います。
 世界平和や国際理解といった目的は、崇高な人類の理想であるだけに、泥沼のごとき現実のなかにあっては、″未だ遠し″の感を常にいだかざるをえないのは、むしろ当然でしょう。
 しかしながら、たとえ、国際連合が非力であり、その存在意義すら問われるような局面があらわれてきたとしても、ただちにその限界や効用を論ずるのは、事態を悪くこそすれ、新たな展開に少しも寄与しないように思います。
 今日、国際連合の行き詰まりが語られるとき、必ずといってよいほど提出される問題が大国主義と各国のエゴイズムです。世界平和という理想の目的すらが、国際連合の主導権を握る大国間の利害、駆け引きに左右されている姿はまことに残念です。また、開発途上国と先進国との軋礫、角逐も、国際連合に暗い影を投げかけています。
 元来、国際連合は、各国のエゴイズムによる三度の大戦の惨禍に対する反省から、国家エゴを乗り越えるものとして生まれた国際機構です。ところが今日、この国連を無力化しているのは、国家エゴそのものにほかならないといえます。原因である国家エゴの克服、打破を忘れて、国連の無力化という結果だけを問題にするのは、本末転倒というべきでしょう。
 もし国家エゴを克服できなければ、どんな国際機構をつくっても、国連と同じく、無力な存在になってしまうことは明らかです。したがって、大切なのは、大国をはじめ、各国がみずからのエゴイズムを捨て、世界平和という全人類の大局的目的のもとに衆知を集めるということです。
 私は″全人類が一つである″との理念こそ、全世界の人びとが等しく胸にいだきつづけるべきものであると思います。二十一世紀を目前にした今日の人間の知恵は、もうそろそろ、エゴイズムを超えた賢明な判断と高次元の発想にたたねばならない時を迎えているように思うのです。
10  武力の均衡をどうみるか
 池田 原水爆は人類がつくりだした究極兵器ともいえ、それを使用するということは人類の歴史に完全な終止符を打つことになります。ジョン・F・ケネディはこの人類のおかれた危機の状況を評して″ダモクレスの剣″といいましたが、今日でも、この危機の様相は人間の頭上に重く垂れ下がっています。
 ところが、こういう危機の渦中にありながら、バランス・オブ・パワーという言葉をつくりだして虚構の平和に安住しようとする意見もあります。こうした武力の均衡をどうみておられますか。
 松下 ″ダモクレスの剣″というのは、一すじの髪の毛でつるされた鋭い剣が、頭上に垂れ下がっている姿だそうですが、ボタン一つ押せば核兵器が飛びかい、人類を絶滅させかねない危険な今日の状態をそれにたとえたのだと思います。
 たしかに今日の世界は、そのように一歩誤れば、人類絶滅ともなりかねない危険な核兵器の均衡によって、平和が保たれているという、きわめて複雑な様相を呈しています。
 こうした核兵器というか、武力の均衡、いわゆるバランス・オブ・パワーによって保たれている平和が真の平和かといえば、これはそうではないと思います。このことにつきましては、拙著『人間を考える』のなかでも、やや詳しくのべておりますが、一部を抜粋いたしますと、次のような一節があります。
 「核兵器というものは、けっして真の平和を保証するものではないと思うのです。
 やはり、真の平和というものは、たんに戦争がないという、形だけのものではありません。人びとの心と心がかよいあい、お互いに助け合って、知恵と力を供与しあうというようなところから、初めて実現してくるものでしょう。そのような意味からすれば、今日の世界の姿は、まだまだ真の平和にはほど遠いといわなくてはなりません」
 このように、私は核兵器による武力の均衡は、真の平和を招来するものではないと思います。やはり、人びとの心のなかに根ざした平和が望まれるわけで、人間は衆知を集めつつ、そういった真の平和を追求し、実現していかなくてはならないと思うのです。
 しかし、そういう理想の姿を今すぐ実現することは、現実の問題としては不可能でしょう。それには、まだまだ多くの時間を要すると思います。したがって、そのような理想の姿に到達するまでの過渡期においては、核兵器を中心とした武力の均衡による平和という姿も一面やむをえないといえましょう。かりにそれが、ご質問にあるように″虚構の平和″といえるものであっても、世界が戦乱の巷と化すことに比べれば、そういう姿においてでも平和が保たれているほうが、より好ましいと思います。
 もちろん、いつまでもそうした姿に甘んじているのでなく、歩一歩と真の平和への歩みを進めるべく、世界の衆知を集めて努力していかねばなりませんし、そういう声を世界に浸透させていくことが大切だと思います。が、その一方では、武力の均衡による平和をも、過渡期のものとして、現実的にこれを評価していくことも必要だと考えます。
11  戦略兵器制限交渉と米ソの姿勢
 池田 米ソの間の戦略兵器制限交渉(SALT)は、両国の思惑がからんでなかなかスムーズに進展していないようです。SALT2会議を続行中のさいのアメリカの軍事予算をみますと、前年よりかえって増大しています。
 このSALTの具体的な内容は米ソ間の核バランスをいかに図っていくかという点にありますが、このままの進展をつづけますと、均衡の水準がさらにエスカレートしていくことは十分に懸念されます。これを一定の段階で凍結し、順次縮小傾向にもっていくには、両国はいかなる姿勢でSALT2に臨むべきでしょうか。
 松下 今日の世界は、日本やEcの経済発展、あるいは中国の台頭といったことから、米ソ両国の地位が相対的に低下し、いわゆる多極化してきたといわれています。しかし、米ソがやはり世界の二大大国であることには変わりありませんし、とくに核兵器を中心とした軍備の面では、世界を三分する超大国であるといっていいと思います。
 したがって、その米ソ両国間の戦略兵器制限交渉の結果いかんということは、世界の平和にとって非常に大きな影響をおよぼすことになるでしょう。米国もソ連も、そのことを十分に認識し、両国の姿勢いかんが世界全体に大きく影響することを考え、慎重に交渉にあたってほしいと思うのです。
 具体的な交渉にあたっては、内容のバランスとか、その他いろいろの点について駆け引きがなされるでしょう。そのことは、あるていどはあっていいと思いますし、米ソといえども、やはり自国の立場というものを考えるのはムリからぬことだと思います。しかし、その結果、世界全体の平和ということが忘れられてしまってはなりません。常にそのことを念頭におきつつ交渉するところに、超大国である米ソの責任があると思います。
 世界のいずれかの国を尊しとして、他を軽視するわけではありませんが、やはり大国には大国として、他の国々以上の大きな責任が課せられていると思うのです。小国が少々行き方を誤っても、その影響はわずかですみますが、大国の場合は、世界の平和を根底からくつがえすことにもなりかねません。ですから、米ソが自国の立場にとらわれ、力のバランスということにあまり固執すると、そこから両国の、ひいては世界各国の軍備拡張競争という好ましからぬ事態を生みだし、世界を再び動乱の巷に陥れるおそれもあると思います。したがって私は、両国が世界全体のことを考えつつ、良識ある姿勢で交渉にあたることを望むものです。
 もちろん、米ソが交渉をもつこと自体、両国がそういうことを認識していることのあらわれとも考えられます。その点に大きな救いを見いだせるわけですが、その交渉の結果がさらに平和の増進に結びつくものであるよう、他の国々は大いに米ソに要望を寄せ、また交渉の行くえを見守ることが大切だと思います。
12  国家防衛の在り方
 松下 一つの国家が存立する以上は、その国の国民は、自分の国を真の独立国家たらしめる努力をしなければならないと思います。とくに自国の防衛ということについては、最大の関心を払わなければならないと思います。
 ただその防衛は何をもって行なうのか。いわゆる軍事力をもって対抗し防衛するのか、徳の力をもって他国の信頼を得て防衛するのか、あるいは財力をもって防衛の役割を果たさすのか、いったい理想の防衛とは何かということについて真剣に衆知を集めなければならないと思います。
 大事なことは、防衛の本義は、国民がその国で安心して活動できるためにあるということだと思いますが、この国家防衛の在り方についてご高見をいただければ幸いです。
 池田 理想的な防衛の在り方について、国民が真剣に、衆知を結集して考えるべきであるというご趣旨には、私も賛成です。
 しかし、防衛問題を考える場合、国家を防衛するのか、それとも国民の安全を守るのか――それによって、問題の立て方は随分ちがったものになると思います。国家を守ることと、国民を守ることとは必ずしも一致しません。というのは、国家を動かしている存在が一握りの人びとである場合、国民のためという大義の名のもとに、実質は、その人びとの利益を守ることが第一義になっていく危険性があるのです。近代から現代にかけての国際間の戦争は、そのほとんどが「国家」によって起こされてきました。しかも、そうした国家間の戦争によって、いつも犠牲になってきたのは「国民」でした。
 したがって私は、まず国家の防衛を考えるより先に、国民の安全を守ることに視座をおくべきであると主張したいのです。とくに「核時代」と呼ばれる現代にあっては、いったん全面戦争に突入したが最後、国体の護持よりも先に、国家を構成すべき原点である国民全体が、たちまちにして死滅しかねないからです。その意味では、お説のように、防衛の本義は「国民がその国で安心して活動ができるため」という一点におくべきである、と思います。
 それでは、具体的に国民の安全を守るためには、何をもって行なうか。その例として軍事力、徳の力、財力の三つをご質問のなかであげておられました。そのうち軍事力については、もはや理想の防衛形態となりえないことは、すでに周知のことでありましょう。地球上の全人類を何十回と殺し尽くしても、なお余りある米・ソ両大国の軍事力に対抗するためには、それ以上の核開発が必要であり、だいいち日本の国力の限度をはるかに超えております。それに米・ソ両国も、とめどない軍備拡張競争が愚かなことと悟って、最近では戦略兵器を制限する交渉も重ね、あるていどの合意に達しました。
 平和憲法によって、世界に先駆けていっさいの軍事力を放棄した日本は、では何をもって一国の安全を図るのか。第二次大戦後の日本は、従来の軍事力にかえて、ひたすら経済の高度成長を図り、財力の蓄積に努めてきたといえます。しかし、それもエコノミック・アニマルとの批判をうけ、アジア諸国からは経済侵略を指摘されています。さらに財力をもってする防衛が、いかにも脆弱な基盤にたつものであることは、先の石油ショックによって露呈されました。
 そこで最後に、徳の力によって他国の信頼を得るという道が考えられますが、それは権謀術数が渦巻く現在の国際情勢下にあっては、理想的にすぎるという批判もありましょう。しかし、ここに日本の世界に対する勇気ある試みがなされなければならないでしょう。人類の共滅を回避し、やがて世界連邦政府ともいうべき運命共同体を構築するためにも、とくに平和憲法をもつ日本は、あえてこの理想の追求に最大の比重をおく発想にたつべきであると私は主張するものです。
 ともかく諸外国の脅威をあおるのではなく、相互の理解を深め、信頼の道を広げていく方向がとられるべきでしょう。
13  文武両道の国家
 松下 日本には昔から「文武両道」という言葉があります。これは、文を文官による徳行政治とすれば、武はその政治を守る、武人の武力とも考えられます。そういう両者の調和というものが日本の一つの伝統であり、そこから文武両道ということがいわれるようになったのではないかとも思われますが、そのどちらか一方が欠けた場合、文だけで、あるいは武だけで国家の力強い活動ができるのでしょうか。
 池田 「文武両道」という歴史上の概念を、今日の時代に適用して考える場合、次のような点に留意しなければならないと思います。
 まず、歴史上、どのような背景から、文武両道といった考えが生まれ、どのような意味で使われたのか、という考察が必要でしょう。したがって、それを現代に適用して考えるとするならば、現代という時代状況はどうかということと、その言葉の現代における意味はどう理解すべきなのかということまで、十分に考察しておく必要があると思います。
 かつて、通用した概念が、現代にもそのまま適用できるとは、必ずしも、いいきれません。むしろ適用できないことのほうが多いでしょう。したがって、どこまでが、時代・社会を超えて普遍的な概念、理念であり、どこが、その時代なり、社会に密着し限定された要素なのかを、はっきり見定めたうえで、議論されなければならないと思うのです。
 まず、歴史的にみますと、文武という言葉は、むろん、もとは中国から出た言葉ですが、個人についていう場合と、一国家の活動としていう場合が考えられます。多くの場合、国家に仕える役人は、文官か武官かという区別がありましたが、理想的人間像としては、文武の両道にすぐれた人物が掲げられたわけです。それが日本においても、受け入れられたわけですが、とくに日本の場合、武士は鎌倉期以降、たんに権力に仕える立場でなく、みずから権力を握りましたから、武だけでなく文を身につけることが重視されたといえましょう。戦略、戦術論から剣・馬・弓などの武芸百般、つまり″武道″に長けていることは、武士にとっては、いわば、自身の拠ってたつ基盤ですから、当然のこととされながら、さらに、武の面だけでなく、儒教哲学、歴史、詩歌などの文の面にも長けていることが理想とされ″文武両道″ということがいわれたのだと思います。
 ――むろん文といっても、このなかでも当時は、武家社会の精神的支柱と考えられた儒学がおもなものだったと思います。
 本来、文武両道というのは、このように、個人とくに武士の理想とされたもので、国家についていわれた例は、あまり見当たりません。明治に入る前の幕藩体制の時代においては、国家という意識がほとんどありませんでしたから、これは当然と思われます。明治以後は、日本はひたすら富国強兵を目指し、武のほうが主眼で、文は軽視されてきました。
 あえて国家規模における文武の意味を考えれば、文は、倫理から文学、芸術におよぶ広い文化活動をさし、武は、対外的な活動としての軍事を意味したといえましょう。ことに武については、絶えず外からの脅威に対処するという意味で、軍備は不可欠とされ、一国家において″武″の占める位置は、きわめて重要なものであったといえましょう。
 ところで、この国家的観点からする文武両道の原理を、そのまま現代という時代に適用できるかどうかは疑問です。もっと正確にいえば、そのまま適用することが現代国家の在り方として正しい道なのか、どうかという問題です。というのも、時代背景が異なるからです。文武両道といわれた前提条件として、次の点がありました。国家間に弱肉強食の原理が働いているということが一つ。第二に、現実問題として文武それぞれに力を入れつつ、バランスを保つことが可能だということなどです。
 しかし、世界の現状と将来の方向はどうでしょうか。まず、第一の点から考えてみますと、もちろん現在も、まだまだ″大国のエゴイズム″というかたちで弱肉強食の論理が闊歩している現状ですが、そうした″力の政治″が許されない方向に世界は動いていることも確かです。少なくとも、全地球的な次元から、全体の調和ある発展を進めていく以外に、一国の恒久的な繁栄というものも得られない時代に入りつつあるといえましょう。それは、科学、技術、文化、経済などの交流が全世界的になってきているという理由だけでなく、人類が存続していくための基盤である資源、人口、食料などの最も基本的な問題が、一国の範囲だけでは、解決できなくなってきており、全世界の衆知を集めて、問題の解決にあたっていく以外になくなってきているからです。
 そして第二次大戦後、米ソの対立に代表される力の政治は核兵器を開発させ、またそのために国家予算を莫大な軍事費に傾けてきましたが、軍備対軍備という力の論理でいくかぎり、それは、シーソーゲームのように、双方ともにますますエスカレートするしかなくなってしまいます。しかも、現実に核を使用することはできないというジレンマがある以上、軍備そのものの意味を考えなおさねばならなくなってきているといえましょう。
 また、当然、こうした軍備の拡大は、国民の生活を圧迫し、真の文化の向上を阻害させています。つまり、軍備が、核までエスカレートしていくような今日の時代においては、もはや、第二の問題であった文武の健全なるバランスなどということが、適用できなくなっているといえましょう。本来、″武″をもたねばならないということは、相互不信と、自己のエゴイズムが根本原因です。全人類的視野と展望にたって、この二つの根を克服していくことこそ、現代のあらゆる国家と、国民一人ひとりに課せられた急務ではないでしょうか。
 この意味から私は、ご質問の「文だけで、あるいは武だけで国家の力強い活動ができるか」という見方ではなく、どうしたら、武をもたずに、それぞれの国家が、力強く活動できるか、人類全体の調和ある発展が得られるのか、その道は何か、といった視点から考え、努力していくことが、なによりも大切ではないかと考えます。
14  ″愛国心″について
 松下 古来、国民の愛国心というものが、その国を進歩向上せしめてきている面が数多くありますが、またその愛国心が災いして国家間の軋礫やときには戦争を引き起こしている一面もあるように思います。真の愛国心というものは、いったいいかなるところにたつべきだとお考えでしょうか。
 池田 愛国心というものは、これまでの歴史のなかでさまざまな屈折した光を受けて、一面では、暗く血なまぐさい色彩さえ帯びているようです。しかし、未開社会や古代都市国家にみられる外の集団に対して恐怖や敵対感をもち、その反作用として自己の集団を理想化していくような愛国心は別として、近代のコーロッパおよび明治初期の日本における愛国心は、より解放的な意味をもっていたといえます。
 つまり、封建的な地域への束縛や主従の絆を離れて、自由人として、国家というより広い次元にたって社会のことを考えていくという性格のものでした。この場合の愛国心は、郷土愛とも連動し、より広い範囲で自己の生存をささえている国土を愛し、そこになんらかの価値創造をしていこうという、美しく、重要な精神作用であったといえましょう。自己の生まれ育った国土を愛し、そのために戦っていこうという意欲も、気力もないとするならば、それは、あまりにも寂しい人びとといわざるをえません。
 しかし、本来美しかるべきこの心情が、国家主義のもとに従属させられ、絶対主義国家等の為政者の利欲と、虚栄と憎悪のために利用されたところに、侵略主義的、独善的性向を帯びることになった原因があるといえましょう。
 ともあれ、今日までの愛国心の対象が国家にあったことは間違いありません。それは、国家が人間生存の不可欠の要素と信じられたからであるといえましょう。二十世紀の現代においては、″国家″は必ずしも不可欠の要素ではなくなりつつあります。資源問題・流通機構等からみても、生活の基盤自体が、現代人にとっては、国家の枠をはるかに超えて、世界全体に拠っているといって過言ではありません。このような現代にあって、もし、かつての純粋なままの愛国心の理念を求めるとするなら、私は、世界全体を″わが祖国″とする人類愛、世界愛でなくてはならないと思います。
 国家主義の束縛や、偏った民族主義から離脱して、世界市民という広い次元に立って、わが祖国地球のために、生涯を捧げていく人こそ、本来の意味における″愛国″の人といえるでしょう。そのとき、″国家″への愛は、ちょうど郷土愛のような自然的な心情として位置づけられるのではないでしょうか。
15  人材をもって世界の平和に寄与
 池田 日本は、かつて武力によって世界への進出を図り、これは敗退しました。戦後は経済力をもってその進出を目指しましたが、外にはさまざまな抵抗や反感をうけ、内には公害を宿して、頓挫をきたしているようです。
 私は豊かな人的資源をもつ日本は、今や武力や経済力による進出ではなく、人材をもって世界平和に寄与するのだという考え方にたつべきだと思っていますが、それについてのお考えをうかがいたいと存じます。
 松下 今後の日本は、人材をもって世界平和に寄与していくべきだというお考えに、私は全く賛成です。
 ただその場合、人材をもって寄与するということと、経済力をもって寄与するということとは、けつして相反するものではない。むしろある場合には、表裏一体をなすものだと私は考えております。ご質問にありますように、日本の経済進出が、海外で一部反感をもたれたり、いろいろな抵抗があったことも事実です。
 しかし、それは日本の経済援助、経済協力そのものが排斥されているということでなく、むしろ正しい意味の援助、協力は切望されているといってもいいと思います。ただ、これまでは、正しい基本の理念をもたなかったり、海外に行く人が必ずしも当を得た人でなかったために、そこから反感や抵抗を招来したのでしょう。真に相手国のためを考えるという正しい理念にたち、それにふさわしい人材をもってするならば、必ず喜ばれ歓迎されると思います。
 そういう意味からしても、私は日本のこの豊かな人的資源を真に生かすための、人間教育、徳育というものがきわめて大事だと考えます。
 一国の経済力というものをどこに求めるかということについてはいろいろの見方がありましょうが、三つあると思います。一つは天然資源です。しかし、これは日本の場合、きわめて乏しいことはご承知のとおりです。もう一つは、経済活動を裏づけるような生産性の高いすぐれた政治の存在です。紙数の関係で、詳しくは申し上げられませんが、経済活動の生産性というものは、たとえば、いくら工場を合理化したとしても、それだけで万全というものではありません。そういうことで効率が上がるのはいわば半分で、残りの半分は政治の生産性いかんによるのです。いくら工場を合理化しても、その成果を殺すような生産性の低い政治ではなにもなりません。しかし、残念ながら、そういう傾向が強いのが今日の日本の政治です。
 そうしますと、今の日本は経済力の三つの柱のうち、二つまではダメだということになります。それではあとの一つを何に求めるかというと、人材です。日本の国民は非常に立派である、徳がある、といったようなことが世界に認識されれば、天然資源でも、「日本にはいくらでも提供しよう。値段も安くしてもいい」というようなことに期せずしてなってくるのではないかと思います。
 そういう姿を実現するためには、国民一人ひとりが、それにふさわしい人間にならなくてはいけません。しかし、現実には経済人でも、あるいは一般旅行者でも、海外で反感をもたれるような行為をする人が少なくない状態です。これでは、海外に人材をもって寄与していくどころか、日本自体の経済すら危うくなってしまいます。
 ですから私は、徳育を中心とした真の人間教育、国民教育がきわめて大切だと考えるのです。
16  資本主義と共産主義の対立
 松下 今日の世界においては、いわゆる共産主義の行き方を是とする国々と、資本主義の行き方を是とする国々とがあり、互いにみずからの行き方をよしとして、他を受け入れることをよしとしていません。そこで、双方の間には消えることのない対立、反感が横たわっているようです。
 この資本主義と共産主義の対立は、やむをえないものとして放っておいてよいものでしょうか。また、対立を解消すべきだとしたら、その道はどういうところにあるでしょうか。
 池田 資本主義と共産主義の対立を、やむをえないものとして放っておいてよいとは、私は考えません。しかし、ひところの東西冷戦時代と比較して、最近では資本主義と共産主義との体制上の対立というより、北の先進工業諸国と、南の発展途上国との対立、すなわち南北問題がむしろ表面に出てきたのではないでしょうか。
 たとえば、資本主義を代表するアメリカと、共産主義を目指すソ連、中国とは、それぞれ平和共存路線をとり、互いに経済的交流も行なわれるようになりました。もはや資本主義とか、共産主義といった社会体制上の問題ではなく、対立するとすれば、それは世界の主導権をめぐる国家対国家の争いであるように思われます。とくにそのことは、同じく共産主義の社会を目指しながら、国境紛争などを発端として、ことごとに対立している事例に明らかです。
 日本と中国の場合も、明らかに社会体制は異なります。しかし、そうした制度上の違いを乗り越えて、両国は国交を回復することができました。むろん、戦後の二十数年にもわたって、日本と中国とが正常な国交関係を結ぶことができなかったのは、資本主義と社会主義という体制上の違いが横たわっていたからである、ともいえましょう。しかし、そうした体制上の対立意識が、たんなる偏見に過ぎなかったことは、両国の国交回復によって一つの実証をみたといえましょう。
 しかも、日本と中国との国家対国家の関係の正常化は、なるほど三十年近くもかかりましたが、その間にも民間人の交流は一貫して絶えることなくつづけられていました。つまり、国境を越え、社会の仕組みの違いを超克するものは、民衆と民衆との誠実な交流であり、その流れが政治次元をも動かすにいたったとき、国と国とが平和裏に結ばれることが可能になるわけです。
 資本主義と共産主義との対立も、人間と人間との誠実な絆が結ばれることが、なによりの前提であると思います。また今日の南北問題についても、先進工業国と発展途上国との国家対国家の利害の調整といった小手先の政策ではなく、相互に大乗的な見地にたって、ともに人類の一員として共存するという発想に基盤をおくならば、信頼の橋をかけていくことも可能と考えます。
17  中国の社会主義路線
 池田 戦後中国は、マルクス・レーニン主義をもって新しい国造りに取り組んでおります。しかし、同じく共産主義の社会を目指していながら、中ソ論争によっても明らかなように、ソ連とは違った独自の路線を歩んでいるようです。
 このような毛沢東主義とも呼ばれる中国の社会主義路線を、どのように評価されますか。ソ連の路線との比較のうえで、ご意見をうかがえれば幸いです。
 松下 中国の路線がどのようなものであり、それがソ連の路線といかに異なっているかについて、あまり研究をしておりませんので、具体的にそれについて可否を論ずることはできません。
 しかし私の感ずる範囲で申しますと、同じマルクス・レーニン主義をとっていても、中国とソ連とは長き民族の伝統が違うわけですから、そこにおのずと相違が出てくると思います。マルクス・レーニン主義といえども、その適用の仕方は国によって異なるのがむしろ自然な姿ではないでしょうか。だから、ソ連と中国の路線になんらかの相違があるとすれば、それは当然であり、かえって好ましい姿ではないかと思います。
 ですから私は、ソ連はソ連なりに、中国は中国なりに、それぞれやはり自分の信ずる路線をとっていいと思うのです。多少の違いがあっても、それを意に介せず、論争すべきものは論争して、そしてマルクス・レーニン主義というか、共産主義というものを守っていこうというところに、むしろ意義があるのではないでしょうか。
 ただ、そのような中国の路線に対して日本がどう対処していくかということは大事な問題だと思います。やはり、わが国にはわが国としての独自の方針がなくてはならないでしょう。わが国独自の民主主義というものを堅持しつつ、前にものべましたように、兄弟としてのよしみを生みだしていくことができれば、それはそれでいいのではないかと思います。
 それを、日本の民主主義の考え方をムリにまげてお付き合いしなくてはならないと、とらわれてはいけないと思うのです。そういうことは中国もけっして要求していないと思います。日本は日本の姿であっていい、日本は日本としての独自性をもちなさい、そしてお付き合いしましょうといっているわけです。ですから、日本はそうした自主性、独自性をもつことが大切だと考えます。
18  毛沢東と周恩来
 池田 二十世紀の奇跡とまで呼ばれた長征、延安を根拠地とする抗日戦争、そして内戦から革命を経て新中国の建設と進んだ過程において、毛沢東の指導力が世界的にも注目されております。また、その影の体に添うごとく、ともに協力して今日の中国を築いてきた周恩来の手腕も、二十世紀後半の現代において高く評価されているようです。この二人の指導者について、どのような感想をもっておられますか。
 松下 毛沢東主席と周恩来首相という、中国の二人の指導者についての感想を一言にしていえば、これはもう、絶賛に値するということです。
 中国の歴史をみれば、非常に統一されて国民も幸せであったような、良き時代もあったとは思いますが、概していうと、国民は不幸な姿で推移してきていると思います。だいたい、いつの世もそういうかたちできたし、とくに近代になってからは、きわめて不安定で混乱した国情にあったと思うのです。
 しかし、そういうなかに毛沢東主席が出てきて、混乱の極というか、貧困のきわみにあった中国を見事に再生させ、しかも八億という大きな数にのぼる国民を微動もしないようなかたちで統一したわけです。そして共産主義思想のもとに、独立自主・自力更生を中心として、国を築き、青年も喜々として国家の建設に邁進しているのです。
 そういう、非常な大事業を力強く推し進めてきた毛沢東主席の抜群の指導力というものに対しては、これはまことに偉大な英雄であり、傑物であると考えますし、絶賛を惜しみません。よくもあれだけのことができたものだと思います。
 もちろん、ああした偉大な事業は、毛沢東主席一人の力で成し遂げられたものでなく、多くの人びとの協力があってのことでしょう。そのなかでも、終始一貫、毛沢東主席を助け、力を合わせて新中国の建設を成功させた周恩来首相も、これまたまことに偉大な存在だといわなくてはなりません。
 この二人の偉大な指導者が、いつまでも長寿と健康を保たれ、手を握りつつ、八億の人びとの幸福のためにさらに邁進されんことを、隣邦の国民の一人として期待しています。
 数々の業績のなかでも、私はとくに、「独立自主・自力更生」ということを国是とし、「毛沢東語録」をいわば国訓として、国家建設を進めていることを非常に高く評価したいと思います。ともすればどこの国でも、他に大きな力があれば、その力に頼るという傾向に陥りがちなのが常だと思うのです。その点、中国は、多数の人をかかえ、困苦の道ではあったでしょうが、そうした国是・国訓によってその人たちに目覚めを与え、着々と成果を上げつつあります。そのことは私たちの範とすべきことであり、今日の日本が明確な国是・国訓というものをもたないことは非常に残念に思います。
19  文化大革命について
 池田 中国の文化大革命については、世界中でさまざまな見方がなされ、その評価の仕方も大いに分かれました。最近では批林批孔の運動も進められ、終わりなき永続革命であるとまで呼ばれていますが、いちおう、初期文革の推進者であった林彪の失脚が明らかにされた時点までをみて、この中国を揺るがした文化大革命を、どのようにごらんになっておられますか。新中国が誕生してから二十五年、その四半世紀の歴史における位置づけと関連してご所見をうかがいたいと思います。
 松下 ご質問にありますように、中国の文化大革命については、いろいろな見方がなされ、その評価もまちまちです。つまり、これがどういう性質のものであり、どのような過程をたどって推進されたかということの具体的な詳細が必ずしも十分には明らかにされていないため、専門に中国問題を研究しておられる人びとの間でも、解釈や評価が分かれるのだと思います。まして私の立場では、その実情というものは知るよしもありませんので、軽々に論評することはまことにむずかしく、また当を得ていないと思うのです。
 そういうことを前提としてあえて申しますならば、これは革命によって生まれた新中国を、さらによりよき姿にしていこうというものであり、それでいちおうそれに成功しつつあるというのがほぼ共通した見方であり、私もそういうことではないかと考えます。
 毛沢東を中心として、劉少奇とか林彪といった人びとが力を合わせて、混乱と窮乏の底にあった中国を統一し再建してきたわけですが、その革命をさらによりよいものにしていこうというのが、文化大革命であり、その過程でどういう事情かは知りませんが、劉少奇、林彪など毛沢東主席の後継者と目された人びとが失脚したということです。
 そうした要職にある人が失脚し落伍するということは、見方によっては好ましからぬ問題でしょう。しかし、考えてみれば、あれだけの大きな国で、あれだけの大きな革命をやろうという場合、そこにいろいろ意見の対立が生じ、その結果やむをえざる犠牲者が出ることは、世の常の姿ではないでしょうか。なんらの対立もなく、大きな改革ができればこれにこしたことはありませんが、過去の歴史をみても、ああいった大きな変革には、あるていどそういうことがともなうのは避けられないように思われます。
 そういう意味では、実際にどのていどの意見の対立による犠牲者があったのかは知りませんが、発表されている範囲のものであれば、あのような国の根本的な革命としては、比較的犠牲が少なくして大きな成果を上げえたと考えてもいいように思います。したがって、文化大革命は、成功を収めつつあると受けとっていいのではないかと私は考えています。
20  中東紛争解決の道
 松下 一一千年来つづいてきて、これからもまだつづきそうな中東の紛争というものは、当事者双方にそれぞれの深い理由があるのでしょうが、人類社会にとって大きな不幸といわねばなりません。はたしてこれは解決の道があるのでしょうか。
 池田 アラブとイスラエルの対立抗争は、私が調べたところでは、それほど遠い昔からのことではないようです。というのは、中東問題の専門家たちの説によりますと、いわゆる政治的シオニズムと宗教的シオニズムは、これを厳密に区別して考えなければならないということです。
 ユダヤ民族が、パレスチナの地にユダヤ人自身の国家をつくろうとする考えが現実化してきたのは、今から百年ほど前の一八九七年、スイスのバーゼルで開かれた第一回シオニスト会議からであるといわれます。これは、とくに西欧諸国においてユダヤ人が差別を受けていたこともありますが、なによりもイギリスなどの十九世紀的な植民地主義政策が、中東諸国の利権を得ようとして彼らを後押しした結果でありましょう。
 もちろん、それ以前から、『旧約聖書』の預言を信じてシオンの丘に帰ろうとする宗教的シオニズムもありました。しかし、それがユダヤ民族の宗教的信条にとどまっているかぎりは、中東地域において回教徒も、キリスト教徒も、またユダヤ教徒を含めて、諸民族は平和的に共存していたのです。
 ところが、そのシオニズムが、いったん政治上の権力による後押しを受け、パレスチナの地にユダヤ人の国家をつくろうとする政治的シオニズムに転化するや、それはユダヤ民族以外のアラブ民族を排し、ここに紛争を生むこととなったわけです。しかし、二千年以上も昔の約束であるからといって、地球上の各民族が固有の領土を主張したとすれば、それこそ地球上のいたるところで戦争が勃発するでありましょう。したがって、この狭い有限の地球上に、各国がそれぞれ主権を主張し、国境線を画定しようとするところに、まず紛争の根本的な原因があるといわなければなりません。
 そこで、以上の歴史的背景を考慮しつつ、当面の中東紛争をどのように解決したらいいか、いったい、この問題に解決の道があるのだろうか――それを考えてみたいと思います。
 まずイスラエルは、その政治的シオニズムの旗を下ろすべきではないでしょうか。これはかつてアメリカにおいて、ソ連や中国のような共産主義国を″アカ″と呼び、互いに相互不信の悪循環に陥って核戦争の瀬戸際までいってしまったように、このような排外主義的な政治思想は、いたずらに対立をあおり、みずから国際社会に敵対勢力を生みだしてしまうからです。
 次に、パレスチナの地を追われた二百万ものパレスチナ難民の問題があります。彼らは、二十世紀の現代において、生まれ故郷を失った流浪の民であり、その父祖の地に帰ることを念願としているわけです。したがって、彼らがその目的を達しないかぎりは、中東問題は根本的な解決となりえないこともまた事実です。しかし、それもイスラエルが政治的シオニズムの旗を下ろし、人間の思想・信条・宗教の自由が保障され、人種や宗教によって差別されることのない民主的な社会に変わるならば、アラブの難民が定住の地を得ることは可能であり、これは彼らも主張しているところです。
 ですが、現実はそれほど簡単ではないことは私もよく承知しているつもりです。それはいうまでもなく、中東の地が、現代世界の最大のエネルギー源である石油の産出地域であり、その利権をめぐって国際社会の複雑な利害が入り乱れた係争の地であることに求められましょう。とくにアメリカとソ連は、むしろ中東紛争を互いに有利に運ぼうとして利用しているフシさえみられます。むろん、経済大国日本も一枚かんでいることは知られていますが、しかし各国が醜い国家エゴをむきだしにしているようでは、いつになっても紛争の根本的解決は図れないばかりか、まかり間違えば中東情勢の危機が、そのまま世界の破滅につながる核戦争に発展するかもしれません。
 このように考えてくると、中東問題の解決は、たんにアラブとイスラエルとの宗教的な宿命の対決として片づけられるものではなくなってきます。実は、現代文明のもつ矛盾が、ここに集約的にあらわれたものであって、その解決には人類の英知を結集しなければならない問題であると思います。そこで私は、米ソ両大国をはじめとして、各国が中東地域の利権をひとまず棚上げし、公平な立場にたって、この問題の解決にあたるべきであると主張します。これ以上、パレスチナの地に血を流すことは、やがて大国が歴史の厳粛なる審判の前に立たされるばかりでなく、人類全体にとっても自殺行為につながりかねないと憂えるからです。
21  中東民衆の平和のために
 池田 中東紛争は、たしかに世界の平和を望む人にとって、大きな心配の種です。その解決への道は、なお今後に多くの困難を残していますが、私もまた同じ人類の一員として、なんらかの解決策を提示し、一日も早く中東の地に平和が訪れるよう、微力を傾けたいと思います。
 そのさい、気をつけなければならないのは、イスラエルとアラブ諸国に対して内政干渉にわたらないことであることは、いうまでもありません。そのうえにたって、日本としても、できるだけのことはすべきではないでしょうか。といっても、米ソ両国や西欧諸国のように、双方の国に武器を援助することは、絶対に慎まなければならないと思います。あくまで日本は、経済的な面の協力を通じて、中東地域の民衆の平和に寄与すべきであるのかどうか、その点のご意見をおうかがいしたいと存じます。
 松下 中東問題は非常に大きな問題であり、中東に平和をもたらすことは、世界平和に寄与することになると思います。だから中東の平和は、世界中の人びとの願いだといえるでしょう。したがって、この中東の平和のために、日本としてもできるだけのことはすべきだというご高見に、私も賛成いたします。
 ただ、中東紛争というものには、紛争の当事者でなければわからない、宗教的、民族的なものがからんでいるように思われます。この紛争を解決しようとするなんらかの努力は、過去三千年余の間もなされてはきただろうと思います。にもかかわらず、当事者同士の確執はいまだに残っているわけです。そういう二千年来の努力が今なお実っていないのは、実に不思議です。ケンカはするが、やがて仲良くなるというのがぶつうの姿ではないかと思います。二千年来の確執というのは、われわれの常識では判断できない姿であって、それだけ根深い複雑なものがあるのではないでしょうか。
 もちろん、万物は日に新たに生成発展していくのが自然の理法です。したがって、中東紛争もいつかは必ず時の流れによって終息していくでしょう。そして人類の悲願である中東問題も解決するでしょう。そう私は信じたいのです。
 当面の問題として、中東に平和をもたらすためには、もちろん当事者双方が和解することが最も望ましいと思います。しかし、それが現実にむずかしいなら、第三者である日本としては、できる範囲で解決への助成を行なう必要があると思います。経済協力にしても、これを惜しんではならないと思うのです。しかし、その協力を実施するさいに、今のべたような二千年来の確執からくるむずかしさがあるわけです。つまり、当事者の一方に協力すれば他方が喜ばないのはもちろん、双方に過不足なく協力しても、そのとおりには受けとってもらえない場合もあるかもしれません。そのことをわれわれは知らねばならないと思います。
 したがって、日本としては、中東紛争の当事者双方に、できるだけの協力をして、解決への助成を行なうことが必要だと思いますが、そのさいには、協力の仕方に疑惑をもたれることのないよう、できるかぎり双方ともに受け入れられるよう十分考慮してこれを進めていかなければならないと思います。つまり、日本が協力していく場合、無私平等の精神に徹していくことが、非常に大切なことだと考えるのです。
 それと同時に、日本が双方の国から、いわば尊敬されるようになるということが大切だと思うのです。そうすれば、日本の協力に対して思わぬ疑惑をもたれることも少なくなるでしょうし、むしろ心からの感謝をもって迎えられるのではないでしょうか。そこから、中東の平和へ日本が貢献する道も開けるのではないかと思われます。したがって、日本が双方の国から尊敬されるにふさわしい国となるということが、中東の平和への貢献の第一歩ともなると考えるのです。
22  アジアは共通の基盤にたてるか
 池田 かつて岡倉天心は、「アジアは一つ」と訴えましたが、現実には、さまざまな風俗・習慣、物の考え方が混在して、アジアは一つとは考えられない状況です。考え方によっては、ヨーロッパやアフリカなどのほうが一つにまとまりやすい傾向をもっています。アジアを共通の基盤にたたせることは可能だとお思いでしょうか。またそれにはどのような理念が必要であるとお考えでしょうか。
 松下 一口にアジアといっても、そのなかにいろいろの国家、民族があり、それぞれに異なった伝統や風俗、宗教などをもっています。ですから、そうした国の成り立ち、伝統、習慣、宗教などの違いという点からみれば、アジアは一つではないともいえます。とくに、ヨーロッパではそれぞれの国がおおむね陸続きであるうえに、富の程度、知識、文化の水準もほぼ同じようなものであり、さらに宗教もおおむねキリスト教です。ですから、ECのように一つにまとまりやすいでしょうが、アジアは、島国が多いうえに、富や知識の水準、さらには宗教もまちまちです。開発の進んだ国もあれば、非常に遅れているところもあって、一つにまとまることはなかなかむずかしいといえましょう。
 けれども、世界全体からみれば、皮膚の色といった人類学的な面でアジア人同士は相似ていますし、気候風土から生まれてくる物の考え方という面でも、西洋とは異なったアジアとしての共通性があるように思われます。そういう面を重視すれば、アジアは一つということになりましょう。
 ですから、アジアの共通の発展ということを考えれば、一つとしてやっていくということがむずかしいなら、相似ているという点を強調したほうがいいのではないかと思います。
 通俗的な言い方をすれば、西洋を友人とすれば、アジアの国々はお互いに血のつながった兄弟だというわけです。友人である以上、仲良く友好的に交際していかなくてはならないことは当然です。しかし「血は水よりも濃い」という言葉もあるように、やはり兄弟同士であれば、それ以上に親密にし、共通の繁栄のために、相互に援助し、協力しあっていこうということになると思います。ですから、伝統や風俗、習慣、宗教などに異なる点があっても、それすらも包含し、アジアとしての相似ている点を強調し、その共通点を抽出し、それを発展させていくことが大切だと思います。そういうことが、共通の発展に結びつくと思うのです。
 ですから、少々一方的な国があったり、あるいは誤解しているような国があっても、そうした国々も同じ兄弟の一員なのだという考えにたてば、互いに許し合い、導き合っていくということもできやすいと思います。また、発展の途上にある国に対しても、兄弟として協力、援助の手をさしのべるということにもなりましょう。
 ですから、お互いにそういう兄弟意識に徹していくことが大事だと思います。今日では全体にいささかそういう意識が薄いようにも感じられますし、とくに日本については、他のアジアの諸国から、欧米を重視してアジアを軽視しているようにみられている面もあるということです。ですから、率先してそういう意識を強調し、それに徹していかなくてはならないと思います。
23  アジアに共同体は可能か
 池田 現在、ヨーロッパにはECがあり、善きにつけ、悪しきにつけ、強い結東と影響力をもっております。コーロッパは共同体を実現することにより、アメリカとともに自由主義圏の一大文柱となることができたわけですが、アジアにECのような共同体を形成することは可能でしょうか。また日本はそのなかでどのような役割を果たすべきだとお考えですか。
 松下 ECのような共同体をアジアにつくることは、ヨーロッパの場合に比べて、はるかにむずかしいと思います。コーロッパの場合は、なんといっても、おおむね一つの大陸にあるうえに、各国の知識の程度、富の程度がほぼ接近していますし、意識も同じくしています。
 しかしアジアはそうではありません。地理的にも島国が多いうえに、各国民の間の知識の差、富の差というものが大きく、開発の非常に遅れた国、あるていど進んだ国、日本のような欧米先進国上肩を並べる国など、いろいろな様相を呈しています。
 ですから、アジアに共同体をつくることについては、ECの場合の十倍あるいはそれ以上の困難がともない、努力が要求されるでしょう。したがって、今ただちに実現することはできないと思います。
 しかし、永遠に不可能かというと、けっしてそうではないでしょう。努力をしていけば必ずできると思います。また、そうした共同体の結成がアジアの国々の共通の発展にプラスするところも大きいと思うのです。
 そういうことを考えますと、たとえむずかしくても、アジア共同体の結成という可能性に挑戦していくことは、非常に意義があると考えられます。非常にむずかしいといっても、世界連邦を結成するのに比べれば、はるかに楽でしょう。その世界連邦でも結成していこうと今日多くの人が考えているのですから、アジア共同体も、その可能性を信じ、またそのことが共通の平和と幸せをもたらすことを信じて、実現に取り組んでいったらいいと思います。
 ただ、こういう大きな仕事をするについては目標をはっきりさせておくことが大切です。そこで私は、今から約三十年後の紀元二千年に共同体の結成を目指して準備を進めていってはどうかと思うのです。それぐらいの年月をかけ、各国の合意のもとにやっていけば十分可能ではないかと思います。
 そういうことをいくつかの国が提唱し、世話役となっていくことが、アジア全体の発展のために望ましいと思います。その場合、日本は重要なる世話役の一員を務めるべきでしょう。
24  平和を守る義務
 松下 お互い国民として果たすべき、責任とか義務というものについては、憲法その他の法律に定められているものもあれば、成文化されていなくても、いわば無言のうちにお互いが承認しあっているような倫理的道徳的なものもあると思います。そこで、そのような有形無形の国民としての義務のなかで、これはとくに大切だというょうな、三大義務あるいは五大義務といったものをかりに考えるとすれば、それはどういう項目になるでしょうか。
 池田 私は平凡な一庶民であって、国民の三大義務とか五大義務を示す立場ではありません。また義務は本来的に、誰かが示すというものでもないと思います。時代に生きる民衆が自然のうちに生みだし、定めていくものかと思います。
 ただ、あえて一点あげれば「平和を守る義務」ということです。今後の日本の進路を考えると、ここに日本の人びと全体のコンセンサスを高め、人類の平和のリーダーシップをとっていくことの必要性を痛感いたします。平和は、人間が願う最も基本的な欲求ではありますが、今日まで、この欲求を満たしえてきたとはけっしていえません。平和を脅かす要因は、人間社会のなかに常に深く宿っているようです。
 ユネスコ憲章の前文に「戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」という指導精神がうたわれていますが、私は、平和を守るという、この一点を国民的義務として訴えておきたいと思います。

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