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日蓮大聖人・池田大作

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人生問答 現代文明への反省

「人生問答」松下幸之助(池田大作全集第8巻)

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1  科学の進歩に欠落していたもの
 松下 今日、科学技術は進み、いわゆる文明文化の歩みは、お互いのより豊かで便利な暮らしを約束しているようにも思えますが、はたしてそれだけが進歩というものでしょうか。そのほかに精神的な進歩ということも考えられますが、人類の総合した望ましい進歩とは、いったいどういうところに求めたらいいのでしょうか。
 池田 科学文明に裏打ちされた進歩の神話は、いまや崩壊しつつある、といわれます。これが科学技術の成果にあずかる現代人の心の叫びとして深刻に表明されているところに問題の根の深さを感ずる昨今です。
 そこで、今日、あらためて進歩とはいったい何か、はたして、これまでの物質的繁栄というものが進歩の名に値するものであったかどうか、を根源的に問い直す必要があります。
 そして、ご質問にある″人類の総合した望ましい進歩″というような究極的な指標から見直せば、おそらく現代の、いわゆる進歩というものには明らかに偏りがあるといわざるをえないと思います。では具体的に、どこに進歩の指標を求めるべきかということになりますが、それには、これまでの進歩思想に欠落していたものは何であったかを考え直すのが妥当な方法でしょう。
 人類は、人を使い、道具を生みだし、科学を発明し、発展させることによって、今日まで前へ前へと進んできたわけです。いわば、人間の英知を外に向けて発揮していくことによって推進されてきたもと考えられます。
 こうした科学の進歩の陰で忘れさられてきたのは、人間自身の変革という問題でした。その結果、現代文明の、一見、華やいだ賑わいのなかで、人間疎外が無気味に進行しているのです。人間の生命力の衰え、時代の衰微を、今日、感じとらない人はほとんどいないと思います。
 私は、かねてから二十一世紀は″生命の世紀″にしなければならない、と叫んできました。人間生命のトータルな伸展を抜きにした物質文明の繁栄は、かえって人間のなかにある豊かな感情や感覚を退化させてしまうことになりましょう。人類が全滅した後に地上でコンピュータだけが働いていたというような現代の戯画(カリカチュア)が現実とならないためにも、あらゆる進歩の基軸に人間生命の尊厳の思想をおき、真実の進歩とは調和であるとの考え方が必要であると思います。
2  科学の発展にともなう矛盾
 池田 科学、技術が豊かな成果をあげていけばいくほど、科学者、技術者は、ある特定の領域の専門家になってしまうことは避けられないでしょう。というのは、いわゆる″専門バカ″になってしまうことで、他の領域について、正しく理解し、みずからの専門領域の確かな位置づけをするということも、困難になってまいります。現に、自分の狭い視野からの発言しかできなくなっている専門家が多いといえます。しかし、それでは、真に科学、技術を人類のために正しく発展させていくことはできません。
 こうした科学、技術のジレンマを解決する道というのは、はたしてあるのでしょうか。科学、技術者の生き方がどうあるべきかという問題とあわせて、ご意見をおうかがいしたいと思います。
 松下 科学、技術の発展というものは、まことに目覚ましいものがあり、しかも、その進歩の速度は、時とともにますます早まっています。私も長い間、会社の経営にたずさわってきましたが、このごろでは、工場をみたり、話を聞いたりしても、技術的なことはほとんどわからないというのが実情です。
 そのように、進歩発達が盛んになればなるほど、お説のように、だんだんと専門、細分化され、科学者、技術者の人びとも、特定の狭い分野について、深く専門的にこれを究めていくという傾向が強くなるでしょう。したがって、ともすれば自分の専門にとらわれ、広い視野にたっての判断ができなくなってくる危険性も大きくなると思います。もちろん、自分の専門分野で立派な業績をあげつつ、しかもなお、高い見識をもって、幅広い活動をして社会に貢献しておられる科学者の方も少なからずおられるわけですが、一般的には、そうでない場合も多いと思います。
 ですから、やはり科学者、技術者の人びとが、常に視野を広げ、自分の専門だけにとらわれることのないよう、助言、警告していかなくてはならないと思います。そういうことを他からいわれなくても、自分でそれを自覚できる人はそれで結構ですが、やはり人間というものは、他人の注意、忠言を得て、初めて気がつくという面もあるわけです。ですから、科学者がご質問にある″専門バカ″の弊に陥らぬよう、その専門の知識だけにとらわれることなく、自分の技術、自分自身を客観的にみる習慣、習性を教えるというか、そういう導きをしなくてはならないと思うのです。そういうことを、為政者の立場から、教育者の立場から、あるいは一般の指導階級の人びとから、絶えず注意することが大切だと思います。
 そういう注意が適当になされていけば、おっしやるような弊害も、絶無にはならないまでも、ずっと少なくなり、心配はいらないようになると思います。
3  心の豊かさを生みだすには
 松下 昨今のわが国においては、物質的な面は非常な豊かさをみせるようになっていますが、しかしその半面、精神的な面の豊かさが不足しているように思われます。ところが、物は生産すればそれだけ豊かにもなってくるのに反し、心はそうはいきません。しからば、心の豊かさを生みだしていくためには、最も大切なことはどういうことでしょうか。
 池田 物質文明の発展に比して、人間の精神的な面の開発が忘れられ、むしろ、物質的な豊かさの増進とともに、精神的な面は貧弱化してきているということは、残念ながら事実と認めざるをえません。現代文明が豊かな自然を遠ざけ、はては破壊してきたように、物質偏重の考え方は、人間自身の心のなかからも、思いやりとか、誠意とか、愛情とかの、人間固有の豊かさを排撃し、押しつぶしてしまっております。
 この現状を変革するには、発想そのものを、物質中心から人間中心へと転換し、引き一戻すことが、まずなによりも大切なことと私は考えます。現代文明の底にある人間自身の発想をそのままにしておいて、ただ心の豊かさだけを取り戻そうと努力しても、それは激流に抗してボートを漕ぐようなもので、徒労に帰することでありましょう。その一点の変革のうえにたって、人間精神の開拓ということを考えるならば、そこには無限の可能性が開けてくるはずです。
 われわれが使用可能な物質は有限であり、物質的豊かさは、必ずいつかは、それ自身において行き詰まりがくるであろうことは、多くの言葉を費やして語る必要はないでしょう。しかし、これに対して、人間精神の世界、さらには、精神活動と肉体活動とをともに起こしている生命の世界は、大宇宙と等しく壮大な広がりをもった無限の宝庫です。
 この無限の宝庫から、限りない宝を取り出すためには、人類が物質の世界の開拓に惜しみなく労力を費やしたと同じように、一人ひとりの労作業の積み重ねが要請されるといえましょう。なぜなら、″心の豊かさ″を生みだす作業も、一つの創造作業だからです。
 そして、個人の生命開拓という創造の働きを、実りあるものとするには、どうしても人間生命自体を解明した哲理と、そこから実践への道を明瞭にさしじめす宗教が必要不可欠の条件として要請されるのではないでしょうか。
 私たちの生命のなかにあるものは、たんに、理性、知性とか、物質的豊かさを希求する衝動だけではありません。むしろ、これらの心的機能は、宇宙大の広がりをもつ生命の大海の表層に浮かぶ波しずくのようなものと考えられましょう。
 こうした欲望や理性の奥には、家族、隣人、民族、人類をも包み込んで、万物へとおもむく深い情愛もあれば、自然美に感動する心情もあります。さらに、あらゆる人びとの生命の底流には、宇宙そのものと共鳴しつつ、宇宙森羅万象の生死をささえる慈悲と英知の本源的なエネルギーがたたえられているのです。
 個人の生命の内面を探索し、その奥底にまで直入しえた哲理と宗教は、あらゆる人びとの生の内部にたくわえられた、ありとあらゆる生命の″宝″を嚇しだし、それを、現実生活の場へともたらす具体的な手段を保持しています。
 したがって、人びとが、真実の宗教にもとづきつつ、みずからの生命を開拓し、変革への努力をつづけるならば、物質至上の文明によって窒息し、失われてしまったかにみえる、あまりにも豊かな心情と知恵と、慈悲のエネルギーが、くめどもつきぬ清水のように噴出してくることが可能でありましょう。
 一人の人間の生の内奥からわきいだす慈悲に満ちた聡明な知恵は、殺伐とした現代砂漠をうるおすばかりでなく、他者の生命を開くための触媒の役目を見事に果たしていくのではないかと、私は信じます。
 こうした一個の人間の主体的な自己変革の引きおこす波動が、万波を呼びつつ、やがては、社会そのものの基底部まで揺り動かす力となりうるであろうことは、あらためて強調するまでもないと思います。
 私は、こうした生命の開拓に向かうことこそ、真の創造性であろうと考えます。
4  新しい学問創造の指標
 池田 現代文明は、さまざまの分野の学問の成果に負うところが多いといえましょう。たしかに人間の飽くなき″未知への探究心″″真理発見の喜び″が、学問を発展させ、文化を形成してまいりました。しかし、一方で、現代文明そのものが反省の対象になってきているように、核兵器とか、人間性喪失の文明を生みだした要因の一つも、この学問・科学にありましょう。今後の新しい学問創造の指標として、何がその条件となるといえるでしょうか。
 松下 おっしゃるとおり、今日、学問の進歩はまことに目覚ましく、次々と新しい分野が誕生しているようです。医学一つをとってみても、音であれば一人のお医者さんが、なにもかも診察し、治療していたわけですが、今では、内科とか外科とかに分かれ、しかも、そのそれぞれがさらに細分化されているといった具合で、それこそ無数の学問の分野が開かれつつあるといった状況です。
 そのことは、一面、人間生活の進歩を示すものであって、まことに結構だと思いますが、半面、ご指摘のように学問が進めば進むほど、社会が混乱し、人間の不幸が増すといった姿も生じてきています。いったいなぜそういうことが起こるのか、今日の学問に何が欠けているのかというのがご質問のご趣旨だと思います。
 これには、いろいろのことが考えられましょうが、最も基本的な問題は、人間が忘れられているといいますか、人間観の喪失というところにあるのではないかと思うのです。
 言い換えれば、先に「人間学の構築」のご質問にありました、人間学の構築、創造がなによりも大切だと考えます。現在の無数の学問分野というものは、いわば「各論」ではないかと思います。ところが、そういう各論ばかりあっても、それを統合する総論がなくては、それぞれが総合調和されず、バラバラになってしまいかねません。そういうことでは、進歩すればするほど一方で弊害が起こってくるというのも、当然のことです。それが今日みるような社会の姿となってあらわれているわけです。ですから学問の総論としての人間自身の探究を目指す人間学というものがまず打ち立てられることがなによりも肝要だと思います。
 先のご質問に対するお答えのなかでも申し上げましたが、そうした人間の探究は、これまで宗教の分野とされてきた傾向もありましょう。また、今日でも、たとえば心理学、人類学など部分的に人間の解明を目指す学問もあると思います。けれども、そういうものをも包含し、宗教とは別個に、やはり学問という名において、総合した人間学が創造されなくてはならないと思うのです。
 そのような総論としての人間学の基盤のうえに、それぞれの学問分野が進歩していくならば、それは必ず人間の真の繁栄、平和、幸福に結びつくものになるといえましょう。
5  精神の荒廃を救うには
 松下 現代の世相、人心というものを考えてみますと、一方では無関心とか無責任といった姿がみられますし、また一方では、暴力肯定というか、激しい対立抗争の姿もみられ、そして全体として自己中心の考え方が強く、不平不満の度が高いというように、いわゆる精神の荒廃が進んでいるように思われます。このような、現代人の精神をむしばんでいるものがあるとすれば、それはいったい何であるとお考えになりますか。
 池田 現代の世相の一方の極には無関心・無責任があり、もう一方の極には暴力肯定、激しい対立抗争の姿があるとし、その双方を貫く本質に自己中心の考え方――エゴ――があるとのご指摘は、まことにそのとおりであると私も思います。無関心・無責任も、対立抗争も、人間のエゴから発した二つの側面にほかなりません。一方は保身のための手段であり、他方は自己主張の暴走といえます。
 このエゴが人間精神の荒廃を招いたことは疑いありません。これは、生命のもつエネルギーを正しく導く宗教、道義が崩壊したことによると考えます。代わってこのエゴの旋風に拍車をかけたものは、理性を万能とする信仰、物質信仰でした。神とか国家主義への従属から脱却して、人間の主体性を打ち立てたところには、近代合理主義の評価されるべき側面があります。しかしながら、こうした人間性の解放は自己中心のエゴを野放しにすることとなり、科学もまたエゴの手段となり、それを助長する役割さえ果たしてきました。
 今日の物質中心の巨大社会がその栄華を誇りながら、脆弱な精神構造を露呈しているのは、まさに人間がエゴに振り回されきっているからです。そのようななかにあって、一個の人間のおかれた立場をみると、あまりにもその存在は小さく、全体の社会に対して無力であることに気づきます。しかも、人びとは自己の欲望追求に汲々として、連帯の絆を結ぶこともなく、ますます閉ざされた自己のなかへと入り込んでしまうのみです。このような現実の悪循環を打ち破るのは、もはや、過去に捨てさった神や、国家主義の亡霊ではありません。それは人間自身のなかに求められなければならないでしょう。しかも、理性によってはいかんともしがたい欲望やエゴの、さらに奥深くにあって自己をささえている生命の基盤ともいうべきところに立脚点をおかなければならないと考えます。
6  人間疎外の克服
 池田 現代文明の特質は、なんといっても科学技術の驚異的な発展です。しかし、科学・技術文明の進展とともに、ますます重大な矛盾があらわれていることも、幾多の人びとによって指摘されているとおりです。
 そのなかで、最大の問題は、″人間疎外″″人間精神の空洞化″といわれる問題があると思います。一つは、機械による疎外、二つには、管理化社会からくる疎外、三つには、極度に発展した国家権力からの疎外現象です。ほかにも、疎外の要因はあげられると思いますが、この三つが大きな要因といえましよう。
 こうした、人間疎外を、本質的に解決する道は、はたしてあるのでしょうか。いかに克服することが可能でしょうか。
 松下 科学技術とか、いろいろな組織・機構などの発達によって、人間が軽視され、忘れられているといった、いわゆる人間疎外ということが、今日、問題になっているのは事実です。
 しかし私は、本質的には人間疎外というものはないと考えたほうがいいと思います。機械にしろ組織にしろ、誰がそれを生みだしたかといえば人間自身です。人間が衆知を集め、みずからの意思でつくりあげたわけです。そして、それは、人間を不幸にするためでなく、お互いの共同生活をよりよいものにしていくためにつくったものだと思います。それは国家にしても同じことです。ですから、そういうものによって人間が疎外されるということは本来ありえないはずで、もしすべての人がそのような物の見方に徹したならば、人間疎外はなくなると思います。
 それが、現実には人間疎外のような観を呈しているのは、機械が人間を疎外しているのでなく、人間自身が人間疎外を生んでいるのではないでしょうか。言い換えれば、人間が人間を大事にしていないということです。
 たとえば、ある一つの組織のなかで多くの人がそれぞれの役割を分担し、仕事をしていたものが、そこに機械のシステムが入って、半分の人は仕事がなくなったとします。その場合、その人びとがそのままに放置されれば、これは人間疎外が起こるわけです。しかし、そうでなく、適当な導きを与えて、より高度の仕事につけ、その結果、それらの人びとも喜び、全体としても、より好ましい姿になるということであれば人間疎外にはなりません。そのどちらになるかは、機械が決めるのでなく、人間いかんにかかっているわけです。
 そのためには、人間の幸せということが常に前提にされなくてはならないと思います。「なぜ、こういう新しい機械をつくるか」「それは人間の幸せのためである」ということが、ぃっも考えられ、それにもとづく配慮がなされるならば、どんなすぐれた機械が生みだされ、使われても人間疎外は起こりません。そういうことが、経営においても、学問においても、政治においても、言い換えれば共同生活のあらゆる面で考えられるならば、人間疎外というものはしだいになくなっていくと思います。国家権力というものも、国民の幸せのため、共同生活の向上のためにあるのだとなれば、正しく強いほど人間疎外にならないと考えられます。
 今日まで、人間疎外がみられたのは、そういった点に欠けるものがあって、学問のための学問、政治のための政治というようになりがちだったからだと思います。ですから、これからは、常に人間中心、人間尊重ということを前提としていくことがなによりも大切だと考えます。
7  物質的豊かさの陰で
 松下 昔から、″衣食足りて礼節を知る″という言葉があります。しかし、昨今の経済的に繁栄した日本の社会をみると、これに反するような姿が往々にしてみられます。つまり、物質的な豊かさが、必ずしも精神的な豊かさをともなうとはいえないような現実があるわけです。このようなことは、どこに原因があるのでしょうか。また、この衣食足りて礼節を知るという言葉は、今もなお真理と考えてよいものなのでしょうか。
 池田 ″衣食足りて礼節を知る″といいますが、生活の物質的な面でのゆとりが生じれば、しぜんに道徳心が高まり、行ないを慎むようになるというようにはならないようです。
 衣食が足りるということは、礼節を知るという精神的なゆとりのための前提条件ではありますが、自然にそうなるのではなく、「礼節を知る」ためには、それなりの努力が必要となるのです。
 生存の基本的条件が満足されない環境のなかでは、自己自身が生きることにすべてのエネルギーを傾けなければなりません。そのようなときには、人間対人間の関係をより高めようとするような精神のゆとりを求めることは、まず不可能だと思われます。
 しかし、では物質的な面のゆとりができれば必然的に倫理感・道徳心が高まるかといえば、必ずしもそうとはいえません。倫理・道徳等は、物質的生活環境によるよりも、むしろ内面的な力によってささえられているというのが真実の姿でしょう。
 根本的な問題は、人間の内面が確立されているかどうかの問題です。その内面を確立させるものが、思想・宗教という根本的人生の価値観の問題になってくると考えます。
 今日、物質的豊かさ(偏在がめだつ豊かさではありますが)のなかで精神的な豊かさがともなっていないことの根本原因は、物質的・外的条件の整備にばかり目を奪われて、人間の精神的・内面的問題を等閑視してきたことにあるといえましょう。
 私は今後、人間自身をささえる思想を、国家や神という、すでに滅びさった価値体系に求めるのではなく、人間自身を解明した生命の法に立脚点をおきつつ、新たな人間関係の在り方をつくりあげていかねばならないと主張したいのです。
8  消費文明からの転換
 池田 公害、人口、資源の各問題の発生は、人類全体に根本的な「生き方」の転換、文明の在り方への反省を促しているように思われます。それは、物を「つくりだす」という文明発展への考え方から、物を「循環させる」文明への転換であると思います。物を「つくって」、使い終われば「捨てる」という使い捨て文明には限界があるし、そうあってはならないというのが私の考えですが、文明の転換は必要だとお考えでしょうか。また必要だとして、それはどのようにすれば可能であるか、おうかがいしたいと思います。
 松下 最近でこそ使い捨てというようになっていますが、昔というより、少なくとも戦争までは、少々消耗したものでも、修理してすリヘるまで使ったものです。それが、使い捨てになったのは、直して使うよりも、使い捨てて新しいものをつくったほうが経済的であり、トクであるというように情勢が進んできたからです。つまり、直して使っていたのでは、国民全体としてかえって手間がかかり、個人としても必ずしも経済的でないという考えが浸透してきたために、それで誰もが使い捨てるようになったのだと思います。このことは精神的には必ずしも好ましいことだとはいえませんが、直して使ったほうが皆の収入がふえてトクだということであれば、みなそうしたでしょう。また、それだけ生産力が上がり、安く生産できるようになってきたともいえましょう。
 けれども、今度は、それでは公害とか資源の面で問題が起こるということで、いま反省期に入ったのだと思います。使い捨てによるもろもろの弊害による短所が起こってきたのが今日の姿でしょう。
 それで、今までのように大量生産による使い捨てということをつづけてはいけない、適当な数をつくって、使ったあとも再生できるものは再生し、できないものは公害を生まないように処理するように転換しなくてはいけないという反省から自制するようになってきたわけです。ですから、今後は適量生産、適正消費をし、使い終わったものでも、研究して、再生産に結びつくものは資源として取り上げ、そうでないものも、たんに捨てるというのでなく、なにかしらプラスになるような捨て方を工夫していくことが大切でしょう。そういうところに知恵を集める時期にきていると思いますし、そのことを文明の転換という言葉であらわすことが適切であれば、そういうことになろうかと思います。
 私はそういった転換は、お互いがその必要性を真に認識するならば基本的に可能だと考えます。
 ただその場合、大事なのは、転換が必要だということにとらわれすぎて、いたずらにあわてたり、おびえたりするのでなく、なるべく冷静に事実を認識し、合理的にそれに対処していくことだと思います。そうした冷静さが、結局、転換を効果的に進めていくことになるのではないかと思うのです。
9  心の成果を積み重ねるには
 松下 いわゆる科学的知識、技術といったようなものは、古今東西にわたる研究成果が積み重ねられ、ついに人間が月に着陸するといったすばらしい成果まで生みだしました。ところが、人間の心の面、精神の面においては、幾多の先人の努力、成果があるにもかかわらず、必ずしもそれらが積み重ねられてはいないようです。これはなぜでしょうか。心の面の成果の積み重ねを実現するには、どうすればよいのでしょうか。
 池田 非常にむずかしい問題です。人類の残してきた精神的遺産が、なぜ、積み重ねられていないのかということですが、自然科学、また技術というものは、対象が、多く自然界の物質的存在に関するものですから、手にとれるし、客観的な観察、そして理論がつくりやすいといえましょう。したがって、その成果を一つの形あるものとして、記録し、後世に残していくことができるわけです。
 ところが、人間精神の働きというのは、直接、手に取れないし、客観的に学問化していくことが、きわめて困難なものです。たしかに、精神に関することであっても、これを純理論化する哲学とか心理学といった学問分野においては、人間精神の一面が解明され、その成果は、積み重ねられてきている面もあります。心理学などでは、人間の深層心理まで、鋭い洞察が加えられ、現実に精神病理現象の解明にも、あるていどの成果をあげているようです。今後、ますます、あらゆる角度から人間精神の学問や研究がなされていくと思います。
 このように、科学的知識とか、技術といったかたちになったものは、その成果が次の代に伝えられ、後の人は先の人の成果を踏まえて、それに自分の究めた新しい成果を積み重ねていくということが可能でしょう。いわゆる″進歩″ということが成り立つわけです。
 しかしながら、ほんとうの意味での人間の心の問題というのは、一人ひとりが自分で主体的に取り組まなければなりません。それは、先の人がどれだけ偉大な成果を残したとしても、次の人は、それを受け継ぐことはできず、ゼロから始めなければならないのです。いや、その人自身においても、必然的な積み重ねによる成長、進歩ということはありえず、絶えまない努力を必要とするのです。
 たとえば、青年時代に非常に高邁な精神に満ち、立派な仕事をしたとしても、中年、老年にいたって、それを失い、卑しい心になりさがってしまう場合があります。若いころすばらしい芸術作品を創造した人が、老いとともに、才能の泉が枯れてしまう場合もあります。
 人間は瞬間瞬間、みずからの人生に対して責任を負っており、向上への努力を怠ってはならないと思います。もし、その努力を止めると、それは坂道を重い車を押して登るとき、力を抜けば、たちまち車は坂道を転げ落ちるように、これまでの成果は失われてしまうのです。まして、別の人の成果が自分にそのまま譲り伝えられるなどということはありえません。
 心の面の成果の積み重ねということは、本質的に不可能なのです。しかし、それが、人間の主体性と、尊厳性のよってきたる深い基盤をなしているということも忘れてはならないでしょう。
10  哲学の復興を
 池田 現代文明の大きな転換点にあって、私は十九世紀に使命を終えたとされていた哲学の復興がなされなければならないと考えるものです。この点についてのご意見をお聞かせください。もし、哲学の復興がなされるべきであるとのご意見ならば、その哲学はいかなる哲学であるとお考えでしょうか。
 松下 私は哲学の歴史なり、今日どのような哲学があるのかといったことはよくは存じませんが、哲学というものが、前にも申し上げましたように、人間にとって最も根本的な問題について問い、考えるものだといたしますと、その役割はきわめて重かつ大なるものがあると思います。とくに学問が進み、いろいろ細分化されてくればくるほど、根本の問題を考える哲学が必要になってくるのではないでしょうか。いってみれば、哲学は時代とともにだんだんと盛んになっていくべきものであり、また盛んにしていくべき性質のものだと思います。それが、かりに十九世紀に使命を終えたとされたのであれば、これは大変な誤りであったといわなければなりません。先日ある人から聞いたのですが、シュバイツアー博士が「文化没落のおもな原因は、哲学が無力になり、創造的精神を失い、現実に働きかける力をなくしたためだ」という意味のことをいわれたそうですが、やはり哲学というものは、それほど大事なものであり、それが今日失われている、あるいはきわめて停滞しているのであれば、ぜひとも哲学の復興ないしは新たな哲学の創造がなされなくてはならないと思います。
 それでは、その哲学はどういうものかといいますと、一言でいえば「人間哲学」ということになろうかと思います。つまり、人間とは何ぞやという人間の解明といいますか、人間としての自己認識、人間の尊厳の自覚、そういうことを中心とした哲学であることが望ましいと思います。
 先にのべましたシュバイツァー博士は、今日の哲学の無力化について「それは第一に、近代人が多忙と過労のため、精神が萎縮し、まじめな教養よりも娯楽に心を奪われ、自分を忘れ、精神の集中力を失ったためであり、第二に、現代社会では特殊な技術が求められるために、人間の本質を喪失する結果を招いているためである」と指摘されたということです。
 たしかに、今の社会は博士のいわれるような状態であり、お互いにじっくり、哲学を考えるといったことができにくくなっている面がありましょう。しかし私は、それだけ一層お互いが今こそ哲学が必要とされているのだという認識を明確にもって、それを求めていくことが大切だと思います。そして、それは、人間の尊厳というものを中心とした哲学であることが最も望ましいと思うのです。
11  自然保護のために
 松下 最近、自然保護ということが盛んにいわれています。たしかに人間は自然なくしては生きられないし、これを大切にしていかなくてはならないと思いますが、一面また、自然を切り開いて物心両面の文化を築き上げていくところに、人間の人間たるゆえんがあるようにも思われます。
 人間は自然というものをどう考え、どのようにこれを保護活用していったらいいとお考えでしょうか。
 池田 すべての生物は、地球という緑の惑星の表面で、太陽エネルギーの恩恵を受けながら、それぞれの生を享受し、死とともに大地に帰っていきます。植物も動物も、微生物も、この地球という、五十億年もの歴史を刻もうとしている太陽系の一惑星に生をうけ、ともにささえあって生死を繰り返しているわけです。
 人間もまた、こうした地球生物の一員にほかなりません。しかも、生物発生以来の長い年月からすれば、人類は最も最後に、地球生物集団に仲間入りした新参者というべきでしょう。したがって、もし、人類誕生以前の、三十億年にもおよぶ生物進化劇がなければ、現在の私たちも、この地球に生存することはできなかったはずです。人類以前の、各種の生物たちの生と死のドラマが土壌となり、土台となって初めて、人類誕生への道が開かれたのです。
 人類の歴史は、わずか数百万年にすぎません。長久の宇宙流転、生物進化の足跡からすれば、これはまことに短いといわざるをえません。
 地球が、太陽エネルギーをさんさんとうけながら、海をつくり、大地を隆起させ、空気の層を生みだし、そのうえで種々の微生物と植物と動物をはぐくんだ歴史は、そのまま人類発生の土台であるとともに、人間生命存続の条件ともなりうるものです。もし、大気の性質が変化しても、緑が減少して有毒ガスの成分が増加しても、微生物が死に絶えても、それらはすべて人間生命にかかわる結果を引きおこさずにはおかないと思われます。
 それは、これらの変化が、地球という大自然が営々として築き上げてきた地球生物集団の調和を乱し、この生物共同体をささえている生の基盤を傷つける行為となるからです。
 いかなる生物も、地球の営みという長い長い歴史の産物です。その歴史を引き受けながら、生物は生の脈動をたたえています。と同時に、人類誕生と生存の基盤となった生物共同体もまた、四季に彩られた地球のリズムに合わせるかのように、生の脈動を営んでいます。さらに、その生物をささえている無生の自然も、また、生きもののように変動とリズムを織りなしているのです。こうして、自然と生物、生物共同体の内部、各種の生物と人間生命の間には、絶妙な関連性が、見えない糸となって張りめぐらされています。
 すべての生物は、この″生命の糸″を相互に張りめぐらしながら、地球の表面に共存しています。こうした自然界の事実に着目すれば、私たちの自然認識も大いに改められるのではないかと思うのです。つまり私は、この地球自体が一つの生命体であるとの認識が今ほど必要な時はないように考えます。
 人類は、生き物としての地球にいだかれて生をうけ、豊かな生涯が可能となる。その母体である地球と生物集団を傷つけることは、みずからの生存権を断ち切るにも等しい行為となりましょう。たとえ地球生物相互の間に張りめぐらされた″生命の糸″の一本を断ち切ったとしても、その影響性は大自然のすみずみにまでおよんでいくと思われます。
 人類の一人ひとりが、他の生物も含めて、地球自体が一個の生命的存在であるとの深い認識にたてば、自然へのかかわりかたもおのずから変わっていくと思われます。
 だからといって、自然の恩恵を受け、大自然にはぐくまれつつも、その自然を利用しなければ、人類は一瞬の生も保ちえないし、また文化、文明を築き上げることもできないことも事実です。しかし、いかなる生物にせよ自然にせよ、人類は、略奪し、破壊しつくすようなことがあってはなりません。生物は人類の侵略の対象として存在するのではなく、ともに生を享受する生物集団内の友として、地球の母体にいだかれているのです。
 人類は、大自然から数えきれないほどの恩恵を受けているとの感謝の念をもつとともに、もしみずから生きるために自然の一部を破壊せざるをえなかったとしても、人間の行為によって傷つけられた個所を絶えず修復し、いたわりつづけていくべきでしょう。破壊の限度は、生命的存在としての大自然自体に内在する″自然回復力″もしくは″修復力″のおよぶ範囲に、自然利用をとどめることが賢明な道です。
 もし、自然回復力をはるかに超える大きな傷害が加えられた場合には、人類の英知が総結集されるベきです。とくに今日の実情をみていますと、病める自然の診断と、治療法の確立と、具体的な回復への実行が、あらゆる学問と経験の集大成として成し遂げられなければならないようです。地球生物集団の最後の新参者が、一瞬にも等しい間に、地球を死に追いやってはならないと思います。そのために、政治家も経済人も、学者も庶民も、みずからにできうる努力を惜しむべきではないでしょう。
 私は、自然保護を唱え、自然利用を試みるとともに、いや、その前に、自然破壊がとどまるところもなく進みゆこうとしている現代にこそ、すべての人びとの知恵を盛り込んだ新しい自然学の確立が急務であると思うのです。
 宇宙流転の様相には天文学が、地球の過去を知るためには地質学、進化学、地球物理学が、そして、生物集団の内部状況の解明には生物学、生態学等が、きわめて有力な人類の武器となりましょう。私は、そこから、病める自然をいやすだけではなく、大自然内在の自然回復力をさらに増強するなんらかの手がかりが必ず見いだされると確信しています。また、生ける自然としての正確な認識には、古来の自然哲学をはじめとする先人の思索が、新たな色彩をおびて現代によみがえることでありましょう。
 ともあれ、自然利用は、こうした新しい自然学の建設と歩調を合わせて行なうことが必要であり、あらゆる分野の良心ある学者の発言と、自然に対し深い愛情と理解をもっている人びとの発言に謙虚に耳を傾けるべきではないかと考えています。
12  水産資源の将来
 池田 海洋汚染や乱獲などで、水産資源が枯渇してきていることが叫ばれております。しかし一方で、まだ水産資源は十分にあり、規制を強めるのは漁業先進国への妨害だとする声もあるようです。これらの問題解決には、国際協力で立体的な水産資源の流動、増減を調査し結論を出さねばならないと思われますが、水産資源の先行きに関するお考えをうかがいたいと思います。
 松下 世界的な人口の増加につれて、穀物などを中心とした陸上の食糧の不足がいろいろと問題になっています。それとあいまって、海洋の食糧である水産物も足りなくなっていくことが考えられます。
 今日の時点で、真に乱獲がなされていて、水産資源が減少の傾向にあるかどうかについては、ご質問にあるように、国際的な協力による科学的調査がなされることが大切だと思います。先ごろ非常に話題を呼んだ鯨の場合でも、外国の科学者を中心とした公正な委員会の調査では、このところ鯨の数は減っていないことが明らかにされたそうですし、また日本の捕鯨船には外国人の監視員も同乗しており、けっしていわゆる乱獲はなされていないということです。
 しかし、今のままで放置しておけば、世界の人口がふえていくにつれて、だんだん水産資源が枯渇していくことは避けられないでしょう。したがって、各国は各国なりに、いかにこれに対処していくかを考えており、また各国が相寄って共同で研究、討議しているというのが現状だと思います。
 しかし、その現状は必ずしも理想的にいっていないのが事実ではないでしょうか。共同して解決の方策を見いだしていくというよりは、ともすれば自国中心に事を考え、問題を起こしているように思われます。こういうことでは、いたずらに争いばかりが起こって、水産資源の開発保護という共同の責任がなおざりにされてしまいます。
 ですから、世界人口の推移にともなう、水産資源の共同保護、開発ということに重点をおいて、世界水産会議といったものを、最も適切に行なって、問題の解決を図っていくことが必要だと思います。その種の会議は現にやってはいるのでしょうが、各国が自国エゴに陥ることなく、もっと心を開いて協議していかなくてはならないと思うのです。
 水産資源にかぎらず、今日、人口の増加、人間生活の向上にともなって、あらゆる資源は、基本的には人類共通のものであり、共通の発展のために役立てるべきものだという観点にたつことが大切になってきていると思います。
 自分の国にあるから、自分の国だけのものという考えにとらわれると、それは、結局、争いを生むことになるでしょう。あらゆる資源は共通のものである、という考えを世界に普及していくことが必要だと思います。
 とくに日本は、地理的にみて、水産資源に恵まれており、その恩恵に浴しているところも大きいといえましょう。大部分の国は、日本ほどには水産資源の恩恵を受けてないと考えられます。したがって、日本はそのことをよく自覚しつつ、率先垂範そういった会議をリードしていくことが大切です。そのような熱意と、いい意味での手腕、実力を養わなくてはならないと思います。
13  資源枯渇と人類の生存
 松下 最近、この地球上の資源に限りがあって、このままいけばそう遠くない未来において資源枯渇といった事態を迎え、人類全体の生存もむずかしくなる、というような考え方が強調されています。
 もちろん、石油などの埋蔵資源が取り尽くされてしまうということは、たしかにありうるでしょうが、しかし、そういった事態によって、ほんとうに人類全体の生存がむずかしくなってしまうと考えるべきなのでしょうか。ご高見をいただければ幸せです。
 池田 核戦争を別にしても、人類生存の危機を引きおこすと考えられる要因は、種々の地球資源枯渇、それにともなうエネルギー問題、人口爆発と食糧不足、自然破壊と汚染等があげられます。
 このなかで、食糧危機とも合わせて、地球にたくわえられたエネルギー資源の枯渇自体も、やはり重大な問題であろうと思います。もちろん、今日、エネルギー資源の重大な部分を占めている石油が枯渇したとしても、最悪の場合は、かつてのように木材等の燃焼や水力、風力によるエネルギーに頼れば生きていけるのですから、人類の生存が終わる心配はないでしょう。ただし、石油を全部消費したあとに残る大気や水の汚染が、どのような災厄をもたらすかは全く別の問題です。
 また、今日の文化の水準が、少なくとも技術的観点からは低下することは当然でしょうし、そのとき養える地球人類の総数もまた、現在の三十億からはるかに減少せざるをえないでしょう。おそらく人類の英知は、石油などのエネルギー源に代わって核エネルギー――分裂と融合の双方を意味しますが――、太陽エネルギーの利用、大気変動のもたらす運動エネルギーの活用、地熱の効果的な活用などの種々の方法を開発し、エネルギー問題の量的側面だけは乗り越えうると思われます。
 だが、これにもかかわらず、私が、どうしても危惧の念をぬぐいえないのは、地球という大自然からの反逆がすでに開始されているということについてです。人間生命といえども、地球上に生を享受する生物集団の一員であることに変わりはありません。数百万種にものぼるといわれる動植物と微生物を乗せて、宇宙空間を旅する地球もまた、長久の歴史を刻み込んだ一個の生命体だと思うのです。
 この観点から、現在と未来の人類と地球の関係をさらにのべさせていただくならば、この地球という生命体のなかの一部である人類集団は今、この地球生命体にとって巨大な癌細胞に化そうとしているのではないかと考えざるをえないのです。つまり、癌化した細胞が、その母体である人間自体への反逆児であるのと同じように、人類集団は癌的性質へと変化しつつ、大自然への反逆児になろうとしています。そして、癌が母体を侵しながら結局、みずからの死をも招いてしまうように、人類集団も大自然からの略奪と破壊を繰り返しつつ地球の終末のなかで、みずからの歴史をも断絶してしまうことが考えられるのです。あらゆる生物が連鎖している以上、他のどんな生物集団であれ、その死滅は、人類をささえる土台の一つが、崩壊してしまったことを意味すると考えねばなりません。
 また大自然のいかなる生物にとっても、生存のために有害な物質をまきちらすことは、見事に張りめぐらされた″生命の糸″を、みずから切断する行為です。いや、その前に、大地や海や上空へまきちらした種々の毒性物質が、生態系をとおして、人間身体への侵入を繰り返し、公害病の悲惨を引きおこさずにはおかないでしょう。
 私は、石油枯渇を憂える以上に大海の微小な生物を死に追い込む汚染を真剣に考えるべきだと思います。核エネルギーの開発による効果をうんぬんする前に、死の灰の問題に真正面から取り組むべきです。放射性物質をはじめとする各種の有害物質が、生物の染色体に影響をおよばし、また、人間身体の遺伝に重大な害を与えることは念を押すまでもありません。食糧危機を乗り越えたとしても、肝心の人間肉体をつかさどる遺伝子の欠陥が、人類の未来を閉ざすかもしれません。
 さらに″開発″と称する、大自然の営みに傷をつける破壊行為が、大地や大気圏の絶妙な脈動を混乱に追い込む事実にも着目しなければなりますまい。人間のもたらした自然界のリズムの混迷は、必ず、その数百倍、数千倍の強度となって、人類集団へはねかえってくるのが、生態系につながれた大自然の鉄則だからです。
 現在のところ、私たちが確認しうる自然からの″しっぺ返し″は、まだ、局部的なものであったり、また、天災の陰に隠れているため、その重要性を見失ってしまいがちです。しかし、癌細胞が、たとえ徐々であっても、その母体を死に追い込むように、人類集団の発散する毒素と、愚かな行為による自然界の″生命の糸″への傷害が、やがては、地球の大変動を引きおこす結果となって、人びとの生存を不可能にするかもしれません。自然界のリズムの変調からくる激動にあっては、いかなる科学も人間の行為も、その無力さをさらけだすにちがいないと思われます。
 私が、このような人類生存への危機をのべるのは、ただ、現在と未来の人類の最大の課題が何であるかを明瞭に示したいからにほかなりません。私は、人類の目覚めた英知が、この地球リズムの乱れという未来最大の課題をも、見事に乗り越え、新たなる人類の歴史を開きゆくであろうとの希望と、そのために最善の努力を惜しむまいという決意だけは、誰びとに劣らずもっているつもりであることを、最後に付言しておきたいと思います。
14  エネルギー資源の共同開発
 池田 エネルギー資源は、石油の枯渇が数十年後といわれる状況にあって、早急に開発されねばならない問題となっております。これは各国の問題ではなく人類全体の課題であり、たとえば核融合エネルギーの開発などは、世界が協力して実現せねばならないことだと思われます。科学技術協力については、南極大陸における場合にみられるように、一部では実現しておりますが、その実現は困難であるのが実情です。エネルギー資源の共同開発は可能だとお考えになりますか。またその方途についてはどうでしょうか。
 松下 今日の最も重要なエネルギー源である石油は、何十年か後には使い尽くされてしまうだろうといわれています。先年、アラブの産油国が、一致して石油の供給を一部削減またはストップし、それとともに大幅な値上げをしただけでも、ご承知のように日本はもとより、世界全体が先進国たると発展途上国たるとを問わず、大混乱に陥ったわけです。ですから、石油資源そのものがなくなってしまうということは、見方によっては非常に大変なことであり、これに対処するために、いろいろの研究がなされ、場合によっては共同開発ということが行なわれるのが望ましいのはいうまでもありません。
 それでは、そういう共同開発ははたして可能かということですが、私はエネルギー資源の問題は、そのことも含めて、基本的には心配いらないのではないか、必ず解決されるであろうと考え、そう信じております。そういうことを信じて、日本を考え、企業活動を行なっているわけです。
 石油があと何十年かでなくなるということは、今日では周知の事実です。ですから世界各国のそうした問題に関係している人びとは、将来のエネルギー問題について、いろいろ心配して、科学者を中心に研究を進めていると思います。そして、そういう過程では、各国の共同研究、共同開発ということも、自然に起こってくるのではないでしょうか。石油の代わりにどういうエネルギーが考えられ、どんな研究がなされて、どのような成果が上がっていくかということは具体的には私にはわかりませんが、そういうことに、人類の英知は必ず成功し、新たなエネルギー源は適当に供給されるようになるでしょう。もちろん、それぞれの国が自国の利害にとらわれて、離合集散することはあるでしょうが、基本的には、そういう共同開発は可能であり、エネルギー源問題は解決すると考えていいと思います。
 ただ、そういう開発には関係者の非常な苦労がともなうと思います。ですから、お互い国民としても、人類全体としてもその苦労を高く評価し、感謝の心をもつことが大切だと思うのです。
 人類はじまって何十万年か何百万年かになるわけですが、その間、多くの人の非常な苦労によって次々と新しいエネルギー源が発見、開発されてきているわけです。それがあとわずか何十年かでなくなってしまうということはありえないと思います。この宇宙は広大無辺ですから、研究しだいでは、核融合の十倍も二十倍も効率的なエネルギー源が開発されるかもしれませんし、基本的には心配はいらないと私は考えています。
15  人口過疎化の防止
 松下 昨今のわが国においては、人口の都市集中が進み、そのために一方で人口が少なくなってしまう、いわゆる過疎という問題が起こっています。これは、国土の有効活用といった点からも、また過疎地に住む人びと自体の生活向上といった点からも、けっして好ましい姿ではありません。しからば、こういった過疎という姿を解消していくためには、どのような具体的方策が必要だとお考えでしょうか。
 池田 大都市にいっさいの機能を集中させている日本の現状では、大都市に人口が集中し、結果として過疎地が誕生してくるのは必然の成り行きです。したがって、この問題を解決するには、これまで大都市に集中してきた機能を地方に分散し、都市と地方の任務分担を行なっていく必要があるのではないかというのが私の考えです。
 教育機関や官庁は、大都市にあるより閑静な地にあったほうが望ましいでしょう。豊かな自然に囲まれて伸びのびと青少年が育つためには、学園は都会の喧喋のなかにあるより、都会から離れたところにあるほうがかえって能率的です。交通とか宿舎といった問題は当然これにともなって起きますが、解決方法はいくらでも開けてくると思います。事実私も、いくつかの学校を創立いたしましたが、いずれもそのような地に建設しております。
 また官庁なども、わざわざ都会の中心におく必要はありません。大企業との癒着を防ぐ意味からも都会から離れたほうがよいのではないでしょうか。このほか芸術など人文科学に属する分野も、大都市にあるより、豊かな自然環境のなかで創造されることが望ましいのはいうまでもありません。
 こうして、過疎地といわれているところにも、移せる機能を移していくならば、人口の都市への集中は和らげられるはずです。そのためには国家がやはり強大な後押しをして総合的な企画をたてる必要があるでしょう。
 現在のような中央集権的な政治、といって悪ければ、地方自治を充実させることに意を注がない政治では、どうしても中央偏重主義にならざるをえません。地方を豊かにし、さまざまな特色を生かしつつ開拓していく政治の行なわれることが根本の課題です。
 また、これは付随的な問題になりますが、田舎を捨てて都会へ行こうとする青年の動機を探ってみると、都会のほうが進んでいて、田舎にいると遅れると感じていることも大きな原因であるとされています。現代社会のような情報社会になりますと、情報の多寡によって物の価値さえ決まりかねない状況です。ところが、あらゆる情報提供機関は都市型であり、ローカルのそれは充実していません。欧米では新聞等でも各地の特色があらわれており、ニュースも身近なものが多く盛り込まれているようです。日本の新聞はというと、社会面等は別として、全国どこへ行っても同じ紙面であり、そのほとんどが東京を中心とした中央に話題を拾っております。こうした傾向が青年の都市志向を促しているといえなくもありません。
 地方の特色を掘りだし、魅力を生みだす努力を政治やマスコミ等も怠ってはならないでしょう。そして土地、自然を大切にし守り育てていく思潮を高めていくことが、人間形成のうえで必要だという認識をもつべきです。またそれが、一向く豊かな文明をつくりだす源泉となると思うのです。
 ただ、過疎対策といっても、都市の余りものを転嫁し、地方に公害を広めていくような改造主義では、かえって仇となることを知らなければなりません。日本の美しさ、伝統の文化を保護し再発見し、開拓するという姿勢も堅持されるべきです。
16  大都市の過密解消
 松下 現在、東京そのほか大都市の過密対策について、政府も自治体当局もいろいろ苦心しています。ただ、その対策をみると、何年後にはこれこれの人口になる、というように人口の増加を前提として考えているようですが、それで真に効果的に対処できるでしょうか。むしろ、この都市の人口はこれ以上ふやさない、あるいはこれこれに減らしていく、そのためにどうするかというように発想を変えることが必要ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
 池田 現在の日本の状況は、産業、文化のあらゆる部分を都市でまかなうという傾向があり、辛うじて農・漁業を地方に依存している状態だといっても過一言ではないようです。こうした考え方にあっては、必然的に都市人口がふくれあがることになるわけです。大都市、東京や大阪などで、ようやく人口が減る傾向がみえてきたといっても、大都市近郊の爆発的増加によるもので、ますますメガロポリス化していっている現状です。さまざまな機能が雑然と集中している都市に工業地帯が隣接し、環境汚染が絶えまなく進行するという図式がますます明瞭になりつつあります。
 ご質問のように、都市の人口は、手をこまねいて自然の成り行きにまかせる式の行き方ではふえる一方であり、思いきった方策を講じなくてはならないと思います。中国においては北京など人口を増やさないように努力を払っていると聞きましたが、大切なことだと思います。世界一の大都市が日本にある、などということはなんの自慢にもならないことです。
 そのためには、前間のお答えにものべたように、大都市のかかえている機能のいくつかの部分を都市から地方へ移すことです。都市対策という観点だけでなく、国土自体をどうするか、という、より大きな視点にたった総合計画をたて、粘り強い説得と、国家のできる範囲の努力で、この問題と取り組むベきです。そういう意味で発想の転換を主張されているご意見に同感です。
 ただし、考えなければならないことは、都市と農漁村の関連を十分に考えることが重要であり、地方を都市に従属させ、都市の悩みを肩代わりさせるような発想は禁物だということです。地域の住民利益を二の次にして、都会のつごうでさまざまな分野を移転させる(たとえば成田空港問題など)考えは、紛争を呼ぶことになりましょう。
 さらに、これは基本的なことですが、この問題は人口問題に直結していることも忘れてはなりません。人口問題、老齢社会化に対する施策などとからみあわせた都市対策、農村対策、国土総合開発計画がたてられなければならないでしょう。
17  交通戦争の終息
 松下 今日のわが国の交通事故による死傷者数は、一年に六十万人を超え、死者だけでも一万一千人に上っています。考えてみると、これは大変なことで、いってみれば毎年つづけて戦争を行なっているようなものです。
 そういうところから生じる物質的、精神的被害損失というものは、まことに計り知れないものがあると思います。このような不幸な姿をなくし、交通戦争を終息させるために、最も必要なことはどういうことでしょうか。ご高見を賜わらば幸いです。
 池田 一父通事故――これほど残念で、不幸な出来事はないといえます。私たちの周囲を、常に凶器が走っているといった感さえします。
 交通事故の原因とその解決策については、さまざまな角度から論じられ、対策が講じられなければならない問題でしょう。多くの要因が絡みあっているために、簡単に打開への条件を見いだすことは容易なことではないようです。
 政府発行の『交通安全白書』にも、交通事故の状況と分析、そして対策が追究されています。
 白書にも明確にのべられているように、まずなによりも総合的な方策が緊急にたてられる必要があります。従来の対策が、多くの場合、一面的で、しかも後手後手になってきたことは否定できません。事故の原因としてあげられるものを、ちょっと考えてみるだけでも、自動車台数の問題、自動車の構造の問題、運転技術、運転者の心構え、道路交通環境の問題、取り締まり、罰則等の交通秩序の問題、歩行者の問題、自動車産業の問題、果ては、産業構造、産業立地、さらに機械文明そのものの問題など、実に多種多様の分野に広がっています。
 このうちのどれか一つの原因を取り除けば解決するという問題ではありません。――むろん、自動車そのものをなくしてしまうとなれば別ですが……。ともあれ、交通事故問題の解決に、国民全体が総力をあげて取り組むしかありません。しかも一つ一つの問題に対して、できるところから大胆に解決していく以外にないといえましょう。
 しかし、根源的には、人間の生き方に問題があることも事実です。そうした意味で、あえて思いきった提案をするならば、人間自身の生き方を変えよということです。近代以降、人間の欲望を充足させるべく、たとえば便利さを求めて科学技術を発展させてきたわけですが、必ずしも、そのすべての成果が、人間にとって真に幸福をもたらしたかどうかは疑問です。便利さの代償として失ったものも、少なくなかったのではないでしょうか。
 自動車の例でいえば、どうしても自動車によらなければならないという場合もありましょう。しかし、あえて自動車を使わなくともよい場合もけっして少なくないと思います。レジャーとか買い物、通勤の用途にする場合の半分だけでも減らすことができたならと思います。自動車による迅速さ、スピードの快感、運搬の簡易さは失うかもしれませんが、逆に、自動車では得られないものを、たとえば自分の身体をつかって歩くことの充実感、自転車の軽便さ、爽快さを味わうことも可能でしょう。
 ともあれ、何が人間にとって生命を充実させ、ともに幸福のために必要なのか、現代人は、現代文明がかかえているさまざまな問題を根底から静かに問い直す必要がありはしないかと、思えてなりません。少なくとも、交通安全行政だけに任せておいて解決する問題ではないと思います。
18  都市交通機関の開発
 池田 現在、交通機関、とくに都市交通については、市電の廃止により自動車中心の様相を呈しています。しかし、交通事情の悪化や公害の発生、石油2局騰などにより、このままでは壁にぶつかることも十分予測されます。したがって、大量公共輸送機関が開発されねばならない状況であり、モノレールの利用などが研究されていますが、都市交通機関の切り札というようなものはあるのでしょうか。
 松下 この問題を考えるについては、やはり最近の住宅事情というものもあわせ勘案しなくてはならないと思います。つまり、このごろでは住宅がだんだん都心から遠い交通の不便なところに多く建てられるようになってきているわけです。そして、そういうところも住めるようになったのは、やはり自動車がそれだけ発達し、普及してきたからだと思います。そのように交通機関から遠い不便なところに家を求めた人にとって、自動車は生活必需品ともいえましょう。
 しかし、だからといって自動車がどんどんふえていくままでおけば、ご質問にあるようないろいろな問題が起こってきます。それを解決するには、ご指摘のモノレールの利用、地下鉄網の拡充といったこともそれぞれに有効だと思いますが、次のような二つの方法が考えられはしないかと思うのです。
 その第一は、日本の国情により適した超小型の乗用車を開発し、普及させるということです。日本のように国上が狭く、しかも人口が多いところでは、道路にしても駐車場にしても、車の増加に十分対応できるだけつくることはなかなかむずかしいと思います。とくに都市においてはそうでしょう。
 ですから、現在の自動車よりずっと小さい、畳一つ分ぐらいの大きさで、二人乗りていど、しかも乗り心地も快適で見た目もスマートというようなものを開発して、自家用乗用車は原則として、すべてそれに切り替えるようにするわけです。そして現在の中型、大型車は高級車として、国家的見地からみてどうしても必要な人は例外とし、あとは希望する人に高い税金をかけたうえで使用を認めたらいいと思います。先般の金沢市の調査で、マイカーの半分以上が一人しか乗っていないという結果も出ており、こうすることによって、かりに車がふえても、道路や駐車場は今のままでも、交通事情を悪化させることにはならないと思うのです。
 第二の方法は、小型のバスをひっきりなしに走らせ、そのかわりに、都市においてはマイカーをあるていど規制するというものです。
 どれくらいの台数の小型バスがあればいいか専門的に研究したわけではありませんが、東京にかりに三万台なら三万台のバスを走らせ、ほとんど待たずに乗れるようにするわけです。同時に、今日ではバスの路線が入っていない、不便なところにも行くようにしなくてはならないと思います。料金は徴収の手間と費用を考えれば、むしろ無料にするか、あるいは、いわゆる″志″ということで随意にすればいいでしょう。
 もちろん、マイカーのように自由自在に自分の行きたいところへ行けるというわけにはいきません。しかし、都市においては待ち時間もほとんどないうえに、今日のような交通渋滞の心配もなく、いちいち駐車場を探す手間もいらなくなるわけですから、差し引きするとプラスになるかもしれません。
 そういった二つの方法が都市の交通問題の解決策として考えられるのではないかと思います。
19  親と子の関係
 松下 最近のわが国においては、親がわが子を捨てたり、殺したりするといった事件が続出しています。それも生活が苦しいからといった理由よりも、育てるのがめんどうだからとか、束縛されたくないからといった、親の得手勝手な考え方による場合が多いようです。なぜ、こういった風潮が起こってきているのでしょうか。また、親子の絆というものは、いったいどういうところにあるのでしょうか。
 池田 親が子を殺したり捨てたりする事件が多くなっている現状は寂しく悲しいことです。親のいうことをきかないからといって折檻し、わが子を殺してしまったり、自由な生活を妨げられるからといつて産んだばかりの子をビニール袋に入れて捨て、殺してしまったというニュースが、もはやニュースとならないほどあふれている現代の世相から、母性本能の欠如や親子の断絶の風潮が叫ばれているようです。
 しかし、なかには、わが子を殺して捨てるにしのびず、何日間もわが子の遺骸とともに過ごした母親もいます。事件の皮相部分だけをみて、母性本能がないとか、親の利己主義によるときめつけるのは早計といえましょう。もっと奥深いところに、つまり親の子に対する根本的な考え方に問題がある。それが子捨て、子殺しにつながっていると、私は考えたいのです。
 それは、日本の社会においては、子は親の所有物であるという考え方が支配的であったということです。ですから、過去においてはわが子がじゃまだから殺したというより、逆にわが子が可愛いから殺したということもあったようです。貧乏の極にいて、もうこれ以上生きていくことができない、自分はここで死ぬけれども、自分だけが死んでしまったら、あとに残った子供がかわいそうだから、ひとおもいに殺してしまおう――という考えがそこにはあります。わが子の遺骸と過ごした母親の場合も、わが子の行く末を案じ、殺したけれども、離れることができずに、わが子とともに暮らしたのではないか――そういう推量さえもできるようです。
 たしかに親の勝手な考え方によって、子供たちが未来に大きく開くべき才能の芽を摘みとられ、雷のまま人生を終えてしまっている例は多いようです。そのような風潮の奥には、こうした「子は自分のもの」という思想があると私は考えます。
 子供は、生まれた瞬間から、すでに一つの社会的存在であり、立派な人格を有するものと考えるべきだと思います。親は子を養育する義務はあるけれども、その生を自由にする権利はありません。人格として親と全く同等の立場にある生命であるという考えにたつならば、わが子を捨てたり殺したりすることはありえないでしょう。
 私は「子供は未来からの使者である」という考え方にたつことが根本であると考えています。子供を尊敬し、そのために大人は何を残してやれるか、どれだけのことを与えられるかに心血を注ぐことが大切でしょう。
 それに加えて、やはり現代社会にみられる利己主義の風潮が親子の断絶をつくりだしていることは論をまちません。お互いの生命のなかに尊極無上の輝きがあることを認め、敬い合っていくならば、そこに断絶などあろうはずはないからです。
 親子の真実の絆は、親は子を自分以上の人間に育てることを自身に課し、その未来への可能性に対し尊敬の日で接し、子もまた、よりよき社会人として巣立つための師として親を敬う相互敬愛のなかに生まれるはずです。とりもなおさずそれは、お互いに人間がかけがえのない生命の当体であるという基本的な精神にたつものであり、親子の絆にとどまらず、人類全体の深く強固な絆をももたらすものでありましょう。
 また親子は、家庭という一小社会の構成者であり、その社会を平和にし、健全な繁栄を目指し、さらにはより大きな人間社会に貢献しうる家庭を築く、共同作業者であるという認識にたつことが重要でありましょう。より高邁な共通目標にたつとき、そこにはおのずと堅固にして麗しい親子の絆が結ばれるものと私は信じております。
20  核家族における人間関係
 池田 日本では、とくに都会を中心として核家族化が急速に進んでおりますが、これは同時に老人の一人住まい、鍵っ子などの諸問題を生みだしております。なによりも親―子―孫というつながりが稀薄になり、人間関係が冷たくなっていく傾向があるようです。このような核家族化状況において、人間関係をどのようなかたちで維持していくべきか、ご意見をおうかがいしたいと思います。
 松下 今日の日本で核家族化の傾向が進んでいるのは、いわば一つの時代の趨勢だと思います。しかし、その結果、ご質問にありますように、家族のつながりが薄くなり、人間関係が冷たくなっていくのではもちろん好ましくはありません。たとえ核家族化が進んでも、そういう関係がさらに緊密になっていくようにすることが必要だと思います。
 それでは、そういう好ましい姿はどうすれば生まれるかといいますと、まず、各自がつながりを心がけるとともに、幼いときからそういうことの大切さを教え、躾けていかなくてはならないと考えます。やはり人間は教育によって、良い習慣が身についてくるのだと思うのです。そういうことを教えずに放置しておいたのでは、核家族化が進むとともに、人間関係が冷たくなっていくのは自然の成り行きではないでしょうか。
 ですから、家庭にあっても、学校においても、親子兄弟、友人が互いに大切にしあい、仲良くしていかなくてはならないという躾、教育をすることが大切だと思います。また、社会全体としても、そういうことを一つの良き慣習として奨励しあうような社会教育、国民教育によって、好ましい風習を育てあっていく必要があると思われます。
 聞くところによりますと、ソビエトとか中国のような社会主義国においても、そういったことは幼いころからきちんと教えられているようです。たとえば、小学校の生徒守則というものをみますと、ソビエトでは「父母に従い、父母の手助けをし、幼い弟妹の世話をすること」という一項がありますし、中国でも「父母を敬愛し、兄弟姉妹を愛護し、自分でできることは自分でして、父母の手助けをする」という項目があります。結局こういったことは、主義とか国家の体制にかかわりなく、人間としてきわめて大切なことであって、それを幼いころからしつかり教えていくことによって、良き家族関係を維持していくことができるのではないかと思います。
21  世代の断絶は存在するか
 松下 先年、アメリカのドラッカー教授の『断絶の時代』という著書が話題を呼び、ひとしきり、盛んに断絶ということがいわれました。
 いったい、世代の断絶、親子の断絶というようなものは本質的に存在するのでしょうか。
 池田 結論から申し上げるならば、世代の断絶、親子の断絶というものは、いつの時代にあっても存在するものだし、また存在していいものだと思います。社会が発展しているかぎり、世代の断絶というものは、本質的に避けられないものだと思うのです。いや、逆にいえば、世代による断絶というか、考え方、発想の仕方、行動様式の違いというものがなければ、時代というものは進歩しないものだといえましょう。
 むろん、ここで私がいう断絶とは、お互いに理解しあうことも不可能なほど、遠く深い溝という意味ではありません。意見の、また行動の、つまり価値のおきどころの″差異″といったほどの意味で、世代の断絶というのは、いつの時代にもあったし、また、あってしかるべきだと思うのです。
 ただ、急速度に時代、社会が進展し変化する現代は、それだけ過去にみられないほど世代間の溝が大きくなっていることも事実です。
 また、それだけ、社会のさまざまな矛盾が大きくあらわれていることも事実です。そこに今日、断絶ということが、クローズアップされている背景があるのでしょう。
 老人になるほど、人間は自分が遅しく生きた過去にいっさいの価値をおこうとするものです。一方、若者は、その過去は知らない。現在をつくりつつ未来に生きようとする。したがって、老人と若者には、なかなか接点というものが生まれにくいわけです。
 それでは、どうしたら、このように異なった世代同士がそれぞれの良さ、特質を生かしながら、両者の溝を埋めていくことができるのでしょうか。
 そこには、たんに話し合いとか、体制の改革という問題だけでは、すまされない要素があるように思えてなりません。それには、過去と未来を結ぶ″現在″という時点に双方が照準をおかねばなりません。つまり″現在への意識″を最も大切なものとして共有する以外に解決の道はないのではないかと訴えたいのです。
 過去の価値も、現在という時点に流れ込んでいるし、未来図はまた、現在のなかに、その要因をはらんでいるものです。老人は過去によって現在を批判するのではなく、過去のよりよきものを、現在に投射し、若者は、現在を正しくとらえつつ、未来の設計図を描くのでなければならないといえましょう。また現在に生きる壮年は、過去を大事にし、未来を念頭におきつつ現在に対応すべきです。
 あらゆる世代が、よりよき現在と未来のために、英知を投入していくしかありません。断絶を解消するというより、それぞれの持ち味を止揚せしめ、調和させていくところに、いっさいの原点があると考えます。その共通の認識基盤にたつときに、初めて話し合いも実のあるものとなるといえましょう。
22  映像文化と活字文化
 池田 日本のテレビ普及率は世界のトップレベルにあり、知識・情報の獲得には欠かせないものとなっております。しかし、それが、文化に与える影響、なかんずく人間形成に与える影響を変えつつあることも事実のようです。とくに現代青年はテレビ等の映像に接して知識を吸収してきたせいか、物事を感覚的に受けとめ、またバラエティーに富んだ発想を生むことについてはすぐれたものをもっていますが、論理的に分析し、本質を掘り下げる才能が劣っていることも指摘されているようです。論理的人間から感覚的人間への移行が、映像文化によって促進されているようにも感じられるのですが、そうした現象に対して、どのような評価を与えられるでしょうか。
 松下 たしかにご指摘のように、テレビを中心とするいわゆる映像文化の発達によって、人間が論理的よりも感覚的になってくる面はあると思います。
 そのことは、結局それだけ映像によるほうが能率的といいますか、影響力が大きいから起こってくるのではないかと思います。ですから、私は、問題はそうした強い影響力をもつ映像文化をいかに生かして活用していくかということではないかと思います。言い換えれば、その映像文化の内容が大切だと思うのです。
 たとえば、テレビの番組にしても、その内容がいわゆる低俗なものであれば、これは非常に悪い影響を与えることになるでしょう。しかし、教育的といいますか、健全なものであれば、それは活字によるよりも、はるかに効果的に好ましい影響を与えられると思うのです。今日では、どちらかといえば、低俗と評されるような番組も少なくないといわれていますが、映像文化は影響力が大きいだけに、活字文化より以上にその内容が吟味されなくてはならないと思います。
 そういうことが映像文化の仕事にたずさわる人びとに十分自覚されなくてはならないと思いますし、また法律などによってそれを助成するとか、あるいは政府や教育機関などの助言を用いることによってその短所を補うといったことも考えられます。とくにテレビについては、民間放送の場合、いわゆるスポンサーというものがある関係で、ともすれば視聴率にとらわれ、番組を低俗化させるといった弊害も指摘されています。その点、スポンサーも、テレビ放送が、人びと、とくに若い人びとに与える影響の大きさということをよく認識し、自分の利害だけでなく、広い見地から考えなくてはならないと思います。また、放送関係者の人びとも、ただスポンサーのいうなりに堕してしまってはいけないのであって、むしろ、それを説得し、教育するというぐらいの使命感と熱意をもつことが望ましいと思うのです。
 そのようにして、映像文化の内容が適切なものになっていけば、きわめて好ましい結果が得られると思います。もちろん、といっても、それで活字文化が不要になるというのではありません。活字文化には活字文化としての長所も必要性もあるのであって、両者を適度のバランスにおいて取り入れていくことが大切だといえましょう。
23  人間の幸福こそ文化の基準
 松下 文化生活とか文化国家とか、また精神文化、物質文化などという言葉が使われ、これが高いとか低いとかいわれますが、こうした文化の度合を判定する基準は、いったいどこにおけばよいのでしょうか。ご高見を賜わらば幸いです。
 池田 文化の高低を判断する基準は、今日、物質的な豊かさ、科学的技術の優劣といった点におかれているようです。しかし、その物質文明の発展は、一方で、戦争技術の進歩による人間の大量殺象や大量消費による地球資源の枯渇と環境破壊、また組織化社会のなかにおける人間性の疎外などを生んでいます。これらは、けっして好ましい姿とはいえません。
 元来、文化は、人間の生存を脅かす天災・地妖などの自然の脅威から身を守る手段として創造され、築かれてきたものです。そして幾多の歴史のなかで戦いとられた英知の所産が、知識とし遺産として伝承され蓄積されてきました。その内容は、衣食住を構成する卑近な物質的要素から、さまざまな社会の組織機構、さらに言葉や倫理、芸術、学問などの無形の精神文化等をも含んでおります。そして、当然のことながら、その目指すところは、人間の福祉にあったはずです。したがって私は、文化の度合を判定する基準は、どこまでも原点に立ち返って、それがどれほど人間の幸福のために役立っているか、どこまで人間生命を豊かなものとして、守りはぐくんでいるかという尺度によって測られなければならないと考えます。
 今日の文化のゆがみは、この自明ともいえる原点を忘れさり、主体であるべき人間を離れてしまったところから起こったといえましょう。つまり、科学は″真理追究″を絶対的な課題として、際限のない分化と発展をつづけ、その結果は、人間に福祉よりもむしろ脅威を与えつづけています。また、政治機構は権力の論理に導かれて民衆の福祉を忘れ、経済は合理化と利潤追求の原理のもとに、非情なまでに庶民を犠牲にしております。
 このように、今日の文化が″人間″という原点を無視し″人間不在″に走ってしまった根本原因は、一面的な人間観によるところが多いといえましょう。であるがゆえに、私は、文化を人間の手に取り一戻す強力なバネとして、今こそ人間生命への深い洞察と理解とを与える思想を、新たな文化の底流としていかねばならないと考えます。そして人間生命の全体像が人びとの心のなかに浮き彫りにされたとき、初めて、文化は″人間の福祉″という本来の目的のために貢献しうるものになると信じております。
24  自然観の変革
 池田 公害病の発生、自然破壊と汚染、地球的規模における人災の激発などを契機として、人類は今、自然観の変革を迫られています。
 西洋近代文明の自然観は、いうまでもなく自然を征服し、人間のために利用しつくそうとする思想に貫かれています。だが、そうした自然への考え方が、人類を破滅の危機におとしいれかねない状態になって、自然との共存、調和の方向へ転回を始めたようです。
 本来、東洋に流れる自然観の精華の一つとして、仏法では、次のような原理を説いています。それは「依正不二」の原理といい、依報とは環境世界をさし、正報とは主体的生命をさします。正報としての生命体は、依報という環境によってつくられ、それにささえられて初めて生存が可能となります。同時に、正報は、依報に働きかけ、自然を能動的につくりだしていきます。しかし、依報と正報は、その根源において融和し、一体であると説くのです。この関連性を「不二」として表現します。
 人類は、自然との共存を実現するため、この「依正不二論」に示されるような、生命主体と環境との、基本的視点に立ち返るべきだと考えますが、いかがでしょうか。
 松下 ご質問にありますような、仏法の考え方はきわめて妥当なものであり、大切なものだと思います。
 ただ、一般の生物というものをみてみますと、彼らは意識せずして、そのとおりやっているように思われます。そして人間の場合も、結局は大きな目でみれば、意識するとしないとにかかわらず、仏法でいう依正不二の原理にたって、人間生活を営んでいるのではないでしょうか。
 いろいろな虫が植物を食い荒らしたり、大きな動物が小さな動物をとらえて食べるといった姿は、その範囲だけでみれば、自然を破壊しているとみられないこともありません。けれども、自然界全体からすれば、そうしたことによって、動物も植物も共存し、大きな調和を生みだしているわけです。彼らのもつ本能が、自然のうちに依正不二の原理に即した行ないをなさしめているのだと思います。
 人間の場合でも、基本的には同じことだと思います。人間は、もともと環境を破壊しようと考えて、進んで破壊しようとしているのではないと思います。人間生活の向上を目指し、自然の整備といいますか、活用、開発を行なおうとするわけです。ただ、人間には他の生物にない知恵がある半面、意欲をたくましくするといった面もあり、それが行き過ぎて、他の生物とは比べものにならない大きな自然破壊を行なってしまうこともありましょう。けれども、そうした行き過ぎがあれば、そのことに気づき、それを是正していこうとする心の働きも、人間には本来与えられているのです。昨今、外国でもまた日本でも、汚染で魚がいなくなっていた川に再び魚の姿が見られるようになったことが伝えられていますが、そのように、一時の行き過ぎがあっても、それは必ず是正されていくと思います。
 ご承知のように、日本人の平均寿命は戦後非常に長くなり、近年、公害や自然破壊が騒がれるなかにあっても、年々伸びており、今日では、福祉国家として有名な北欧三国にも匹敵するほどの世界の長寿国になっております。
 いってみれば、人間にはそれほどの環境に対する順応力、適応力があるのであり、人間は基本的には絶えず進歩の過程を歩んでいると考えていいのではないでしょうか。
 自然をかりに、十なら十開発しても、それによって人間全体として、十二のものを得るということであれば、これは私はいいと思うのです。けれども、十の開発で、八のものしか得ないといったことでは、これは自然破壊に終わってしまいます。
 そういうことのないよう、好ましい開発を行なっていくうえで、仏法の考え方は、大いに参考となるものだと思います。
25  人類の危機をどう乗り切るか
 池田 現在、人類は資源の枯渇、人口増加、食糧不足等々、さまざまな難問をかかえています。こうした人類の未来の予測に関して、ローマ・クラブの委託で作成されたMITレポート(MIT〈マサチューセッツ工科大学〉がまとめた報告書。『成長の限界』と題して発表された)などをみると、事態の深刻さが、統計的にかなリショッキングなかたちで発表されています。しかし、この危機についても未来学者のなかには、依然として強気の楽観論をいだく人がいますが、こうした現代という時代が直面する危機を、どうみておられますでしょうか。また、いかなる方法によってこの危機を乗りきることができると考えておられるでしょうか。
 松下 数年前に、西欧の有識者の人びとによってローマ・クラブというものが結成され、国際的に協力して、よりよき未来をつくるためにいろいろ研究し、提案していくということで盛んに活動しています。とくに一昨年発表された、いわゆるMITレポートでは、ご質問にあるような、人口や食糧、資源などについてのショッキングな警告と、そういう事態に対処していくための提言が盛り込まれ、世界的に話題を呼びました。
 そういう活動はローマ・クラブだけでなく、その他いろいろな個人や団体によってもなされています。私は、そういったことがなされること自体が、人間の人間たるゆえんではないかと思うのです。イヌやサルであれば、前途にどんな事態が待ち構えていようと、相寄ってそれを研究したり、それに対処する道を考えたりしません。
 人間だけが、そういうことを予測して、事態の深刻さについて世の中に警告したり、なんらかの方策を提唱したりするわけです。それによって、今まで気がつかなかった人も、これは大変だと気がつき、学者は学者なりにそれぞれの分野でそういうことを考慮に入れて研究を進めるでしょうし、一般の人は一般の人で、「これは今までのようにやっていてはいけないな、まあ先のことはどうなるか自分にはわからないが、いま現在から、一片の鉄、一枚の紙でも節約していこう」といった好ましい生活態度を生みだすことにもなりましょう。ですから、ローマ・クラブなどの警告はこれをありがたく受け入れ、それぞれに自分の生活態度をどう規制していくかということを考えなくてはならないと思います。
 しかし、繰り返して申しますが、そういうことを考えるところに、人間の英知の英知たるところがあるわけです。過去、何十万年、何百万年にわたって人間が生きつづけ、人口が増加していながら、今日これまでで一番豊かな生活をしているということは、何を教えているでしょうか。それは、人間はけっして愚かではないということだと思います。
 これまでにも、人類のうえにいろいろ危機と思われるようなことはあったでしょうが、そういうものに直面して、誰かが警告をし、それにもとづいて、お互いにいろいろ知恵才覚を働かせ、協力しあって道を見いだしてきたと思うのです。そういうものが、人間本来の姿だと思います。
 ですから、努力はするが、そう心配はしない、心配はしても苦悩はしない、人間は必ず好ましいかたちに進歩していくだろうというのが私の考えです。
26  終末観流行の原因
 池田 六〇年代のバラ色の未来論に代わって、七〇年代に入ると一転して終末論が流行しました。これは、公害によって環境破壊が進行し、西洋近代の文明原理が行き詰まりを露呈した結果、人びとが新しい文明転換の原理を模索している姿とも思われますが、なぜ急速に終末観が横行するようになったとお考えですか。また、このような終末論を乗り越えて、輝ける二十一世紀を迎えるための方途を、どこにお求めですか。
 松下 今日、いろいろなかたちで、終末論が論じられておりますが、私はそういうものには、あまり重きをおいておりません。終末論は、過去においても時々あらわれているようですし、今後も時に応じて出てくるだろうと思います。
 今、世界的にほとんど軌を同じくして混乱の姿にあります。ですから、世界全体、人類全体として一つの転換期を迎えているとも考えられ、そういうところから終末論というようなことがいわれるようになったのではないかと思います。しかし、私は学問的に研究したわけではありませんが、そういう考えはあまりとりたくないのです。
 私は、人間の世界を含めて、この宇宙は絶えず生成発展していると考えています。人間の死ということも、大きな観点からすれば、これも生成発展の一つの姿だと思います。そういうことからして、終末論というものにはこだわらないほうがいいと思いますし、終末論を乗り越えるということも、あまり大そうに考えず、自然な姿で人間の歩みを進めていっていいのではないかと思うのです。
 つまり、この宇宙の生成発展、世の中の生成発展というものを素直に考えて、そこからおのずと生まれてくる道を求め、その日その日に素直に対処していけばいいのではないでしょうか。そうすれば、輝けるか輝けないかはともかくとして、二十一世紀は今世紀よりいろいろな意味においてよくなるだろうと思います。
 人間の知恵というものは、そういうことを求めて成果を上げることが十分できると思うのです。
 ご質問にあるように、西洋近代の文明原理といいますか、科学技術を中心とした物質文明的な物の考え方は、一つの行き詰まりを示しているともいえましよう。しかし、一つの文明原理が行き詰まれば、また、より時代にふさわしい新しい文明原理がおのずと生まれてくるというのが、これまでの歴史の姿であり、それが生成発展に即した人間本来の姿だと思います。
 ですから、そういう″生成発展″ということをお互いが認識し、そこに基本的な安心感をもって歩んでいくならば、個々にはいろいろ問題はあっても、総じていえば二十一世紀には二十世紀よりも好ましい姿が生まれてくるでしょう。私はそう考え、あまり心配はしていないのです。

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