Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

何のための教育か  

「人生問答」松下幸之助(池田大作全集第8巻)

前後
1  教育の目的
 松下 今日の教育においては、知識を教えることに重点がおかれ、人間そのものの教育といいますか、人間としていかにあるべきか、また日本人として何を考えるべきかという教育がどちらかというとおろそかにされているといわれております。そして、このことによって、知識はあっても、人間的にはどうも好ましくないといった姿も生まれるのではないかといわれておりますが、いかがお考えでしょうか。
 池田 教育の目的が、人間形成にあり、人間建設にあることは論ずるまでもないことのように思えます。また教育が、文化の発展、興隆に欠かすことのできない要因であり、また根本的な力であることも誰びとも認めるところでしょう。
 しかし、現実は、ご指摘のように、たんなる知識の詰め込みというか、いわゆる知識偏重の教育が行なわれているようです。これが、どれほど青年たちの創造性を歪めているか、文化の健全なる発展を阻害しているか計り知れないものがあると私は考えます。「教育は、書物を読むことができるが、どの書物が読む価値があるかを見分けることができない人口を増加せしめた」と、ある歴史家は語っていますが、知識・技術は与えられても、みずからの人間完成への道を切り開く人間教育が、おろそかにされてきたということでしょう。
 教育こそ、文化の原動力であり、人間形成の根幹をなすものです。したがって、教育は、国家権力からも独立した、独自の立場で組織され、学問的にも追究されるものでなければならないと信じます。
 そうした意味で私は、新たな概念と価値観をもって教育権の独立という構想を唱えてきたしだいです。
 さらに、世界各国から教師、父母、学生、学識経験者が集まって「教育国連」をつくり、人類的視野にたった教育の実現を図るべきである、と提案しております。
 教育が、どこまでも人間を対象とし、しかも多くが、未来を担う青少年の動向を決定するものであるだけに、それにたずさわるあらゆる機関も教師もあふれるばかりの情熱と、確固とした教育理念をもっていなければならないでしょう。そして教育理念とは、まずなによりも、人間に対する徹底して深い洞察と理解、そして愛情がその根幹となるべきものといえます。
 その原点を踏みはずしていては、いかなる教育技術も、制度も、ビジョンも、砂上の楼閣に帰するしかないと思います。
 さらに、ご指摘の″人間としていかにあるべきか″という問題も、ひとことでいえば″よき社会人、すぐれた職業人であるまえに、すぐれた人間であれ″″生涯、人間であることを目指せ″といった教育理念が貫かれなければならないということでしょう。また″日本人として何を考えるべきか″という問題は、世界人類のために、日本が、その民族の持ち味を、どう生かしながら貢献していけるかどうかという、地球家族の一員であるという自覚から出発したものでなければなりません。けっして偏狭な民族主義や、エリート主義であってはならないと思います。
 しょせん、いずれの課題も、人間さらには生命の尊厳という普遍的な次元から発し、またそこに帰する教育でなければならないというのが、私の一貫した考えです。
2  義務教育の基本的理念
 松下 今日、義務教育の在り方について、いろいろと論議されています。これは国民が義務として受けなければならない、言い換えれば、国家が義務として国民に与えなければならない教育のことですから、国民育成という国家的見地からみて、非常に大事な論議であり、その成果いかんによっては、国家の命運を左右するものといえましょう。それだけに、その教育は、次代を背負う国民に何を教え、何を与えるべきかが大切な問題になってきます。知識ある人間を育てるのか、人間として、また国民としての良心そのものを培養するのか、その基本的理念というものについて、ご高見をいただければ幸いです。
 池田 教育は、次代を担う人を育てること、あるいは、もっと根本的にいえば、次の世代の人びとを、次の時代を担うにふさわしい人間にすることを目的として行なわれるものです。
 したがって、生活の舞台が一つの家族という枠のなかで営まれていた時代にあっては、教育も、家族のなかの年長者が、新しい世代に、その家族を維持していくために不可欠のことを伝えるというかたちで行なわれました。わが国の徳川時代にみられたように、藩が生活の舞台であり、社会の基本的枠組みであったときには、藩校のように、その藩の長老、有識者が次の世代に教育を施しました。
 今日、国家が主体となって、国民に義務教育を施しているのも、そうした社会の発展のなかの、一つの段階を示すものとみるべきでしょう。それは、明治以来のわが国が経験し、世界的には近世以後のヨーロッパ諸国に育ったナショナリズムの風潮と結びついています。
 以上の点を踏まえて、生活の舞台、社会の基本的枠組みは、今後とも、従来のように国家であるのかどうかを考えてみますと、すでに現実は大きく変わりはじめていると思います。産業を取り上げてみても、国内で得られる原料で国内を市場とする考え方では、あてはまらないものが大半を占めるにいたっているのではないでしょうか。
 たとえば、日本人は、今後ますます、工業生産の原料を外国から輸入し、それを加工し製品にして外国へ輸出する方式によっていかなければならないでしょう。半面、食料については、どんなに農政に力を入れるにしても、全日本人口を養える食料を、日本国内だけでまかなうことは、不可能であり、世界各国からの輸入に頼らざるをえません。
 いわんや、現在の核開発による平和の危機、大気や海洋の汚染といった公害問題、あるいは情報の世界的交流という情勢等々をみたとき、これからの時代の生活の舞台は、一国の狭い枠をはるかに超えた国際時代となりつつあることは、疑う余地がありません。
 とすれば、これからの時代を担う人びとを育成するうえで、なにより求められることは、広く世界に視野を開いた展望と心情であり、それは、とりもなおさず、普遍的な人間としての自覚と英知でありましよう。
 ご質問は、知識を重点とするのか、良心のほうを重視するのかということですが、そのどちらにせよ、まず、教育における視野の拡大、基盤の転換を前提としなければならないと考えます。
 そのうえで、知識と良心という点について申し上げれば、これは、本来、両方そなわって初めて、正しく発揮されるものだと思います。どんなに知識のみが積み上げられようと、それを使いこなす人間の良心が確立されなければ、知識は、人間が本然的にもっているエゴイズムの道具として悪用されるのみです。この恐るべき結果は、今日の、技術産業によって流されている各種公害や、武器、戦争技術の発達にみられるとおりです。
 逆にまた、良心といっても、具体的現実に対する、広い知識、鋭い認識、正しい判断がなければ、良心から発する情熱が、思いがけない″悪″を生むことになりかねません。私たちは、歴史を振り返ってみるとき、誤った人間の良心が、いかに残虐さと愚かさを生みだしてきたかを知ることができます。
 ただ、今日の教育において、良心という問題があまりにも忘れられ、知識教育にのみ偏重しているのを是正するという意味で、良心の面が強調されることには異存がありません。
3  教育の改善すべき点
 松下 今日わが国の教育は、いわゆる知識を与えることに重点がおかれ、人間そのものを育てることがおろそかにされているとか、あるいは受験中心の教育になっているとかいった問題が指摘されています。教育というものは、やはり人間そのものを育てることが第一の目的だと思いますが、そういった意味から、今のわが国の教育において改善すべき点があるとお考えでしょうか。また、あるとすれば、それはいったいどういう点でしょうか。
 池田 この問題については、すでに教育の基本理念を取り上げられたご質問と重複するようですが、ここでは具体的な方策を考えてお答えしたいと思います。
 知識を与えることに重点がおかれすぎているというご指摘には私も同感です。もとより知識を与えることは重要であり、とくに今日の高度に発達した文明社会にあっては、どんなにすぐれた知恵、人格をもっていても、知識がなければ、その力を発揮することはできないでしょう。しかし、もっと大事なことは、知恵、人格の涵養であるという点については、すでにのべたとおりです。
 現在の日本において、学歴偏重の風潮から学校をますます「受験校」化して受験のための知識詰め込みに終始させ、それでも足りずに「塾」の流行を生んでいることは悲しいことです。根本的には、こうした社会の、教育への見方を改めなければならないことは当然ですが、そのために、教育者の側として具体的にできることを考えなければなりません。
 たとえば、生徒の生活相談や、人生上の諸問題と取り組む時間を、週に何時間か決めて義務化することとか、現在行なわれている道徳教育のようなものではなく、生徒と教師が将来の日本、世界、あるいは人生の諸問題について積極的に語り合う時間をふやしてはどうかと思います。現在行なわれているホームルーム等の時間はなおざりになっているところが多いようです。そうした時間を充実させるために、教師の間で研修する期間を設けて、どうすれば生徒の人格形成に寄与できるかを真剣に討議もすべきでしょう。
 さらに、人間教育ということを考えた場合、学校と家庭のつながりも軽視することはできません。教師は生徒の家族とみずからの責任において連係をとりあう必要があります。これはもちろん、家庭・父母の側にとっても同様であり、他人まかせの態度はよくないのはいうまでもありません。
 それから、これは教育者であった初代牧国会長の発想であり、さらに戸田第二代会長の念願であったのですが、半日学校制度という考え方があります。これは机上の知識に陥りがちな学校教育の弊害を取り除くため、学校生活の半分を知識の吸収に注ぎ、あとの半分を実生活に生かすための実習に使うという教育の方法です。野に働き、機械と汗して取り組むなかに、書物をとおして得た知識が、生き生きとした「生活上の知恵」として砂漠に吸い込まれる水分のように青少年の心のなかに吸収され、肉化していくでしょう。
 私が先日、中国を訪れたさい感じたことの一つは、この理念が、まさに実現されているということでした。青年たちはそれによって労働の尊さ、生産の意義を知り、あらゆることをとおして創造精神を学んでおりました。私はうらやましいと思うとともに、日本においても、一日も早く実施されなければならないと思ったのです。
 こうした基本的な教育論争が、どうして日本においてなされないのか、教育国というにはあまりにも恥ずかしいことだとも感じたのです。
4  学問のための学問では
 松下 学問のための学問、という言葉がありますが、学問にしろ思想にしろ、あるいは政治や教育にしろ、本来は人間の幸せのためにあるのだと思います。ところが、現実の人間生活では、ともすれば学問のための学問、政治のための政治になり、人間があたかも、そうしたもののために存在するかのようになっていると指摘する声もあるようですが、そういう指摘は当たっていると思われますか。もし当たっているとするならば、なぜそのような姿になるとお考えでしょうか。
 池田 学問や思想・政治・経済等が、本来、人間の幸せのためにあるにもかかわらず、現実の人間生活にあっては、ともすれば、学問のための学問、政治のための政治になり、人間がそれらのために存在するかのようになっているとのご指摘は、まことにそのとおりと思います。
 たとえば、政治の世界にあっては、権力の獲得ということが、今日の政治家の至上目的となっています。たしかに政治現象とは、権力の獲得と配分と行使との過程にほかならず、権力追求が政治現象の核心をなしていることは事実です。しかし、本来ならば、この権力も、人間の幸福生活と社会の秩序を実現するための手段であり道具であって、権力をもった人びとは、この権力という道具をもって、みずから人間の福祉という目的のために奉仕すべきが当然です。したがって、権力の獲得それ自体は、目的達成への手段であるはずです。
 ところが、現実は、権力の獲得は、政治家がみずからのエゴを満足させる手段となっており、それをもって民衆のために尽くすという面は、はなはだおろそかになっているのが実情です。これは、選挙のさいの公約が、当選のためへの空手形であり、いったん権力の座につけば、公約実現への努力はなされず、ひたすら権力の座を維持することに専心している姿、また、選挙まぎわになると、選挙向けの法案をゴリ押しで通過させる姿などに明らかです。まさしく政治のための政治の姿です。
 また、学問の世界にあっても、真理の探究ということのみが絶対目標となり、その結果が人間の福祉に反しようと意に介さないといったような情景も、よく見受けられるところです。大量殺象兵器を生みだし、また生身の人間を実験材料としてモルモットのごとく使った戦争当時の科学者たちは論外としても、科学のための科学に堕している姿は、いたるところに顕著にあらわれているといってよいでしょう。このように、それぞれが、本来、人間の幸福のためにあるという自明の理が、いつのまにか忘れさられ、それぞれのメカニズムで動いていくのは、どこにその原因があるのでしょうか。
 私は、その根本原因は、今日の社会において、本来″人間″から出発したその学問の基礎が十分学ばれず、ただその最新の成果のみを追っている学問の在り方、なかんずくその根底となり、いっさいの原点となるべき″人間観″が確立されていないところにあるのではないかと考えます。いかなる分野にたずさわる人びとも、あえて″人間″を忘れさろうとしている人はいないはずです。しかし、その人間を全体像においてとらえるべき尺度がないところから、いつのまにか、自己の専門分野の方法をもって、人間をみる基本尺度としてしまっているところに、今日の悲劇の発端があると考えます。政治も、経済も、科学も、すべてを生みだした人間自身に関する学が、今日ほど強く要請されている時代はないといえましょう。
5  学問と実生活
 池田 今日の学校教育について、そこで習得した知識が現実に適用できない場合が多いという声が久しく聞かれます。
 これは日本の明治以来の教育風土によるもので、知的営為の場が現実生活とかけ離れているために起こるものともいわれていますが、学問が「人間のため」という目的を見失わずに進められ深化されていくには何を心がけるべきでしょうか。
 松下 おっしゃるように、今日、学校教育で習得された知識が、そのまま実社会で役立ちにくい傾向があるのは事実だと思います。そしてその大きな原因が、ご質問にありますように、学問から「人間のため」という目的がともすれば見失われがちなところにあることも、これまた事実だと考えます。
 古来、学問の進歩は、人間生活の向上に大いに役立ってきていると思います。学問によって知識が広まり、また、もろもろの研究が深められ、それらが人間生活に適用されることによって、生活の豊かさ、便利さが高められてきたと思うのです。
 したがって、今後とも、各種の学問が、それぞれの専門の分野において進歩し深まっていくことは、大いに進められてよいと思います。
 けれども、また一面、そのように専門的に学問が深められていくことによって、いつのまにか、いわゆる学問のための学問をするというような姿に陥ってしまうと、学問が現実生活からかけはなれてくると思います。つまり、その学問をいかに人間生活に役立てるかということを忘れて、とにかく学問を深めさえすればそれでよい、といった姿になると、学問の意義は薄れてしまうでしょう。したがつて、やはり学問は人間のためにある、人間お互いの共同生活の向上のためにこそ学問の意義があるのだという認識を、お互いがしっかりともたなくてはならないと思うのです。
 そのためには、学問の進歩というものが、あくまでも人間として必要な良識の培養を基礎としたものでなければならないと思います。そういった良識、人間としての良心の培養を行なわずして、ただたんに学問のみ専門的に深めていくというのであれば、これは望ましい姿だとはいえないと思うのです。
 したがって、学問が「人間のため」という目的を見失わずに進められ深化されていくには、学問それ自体と並行して、人間として必要な良識、良心の培養ということをしっかりと行なっていくことが肝要だと思います。
 言葉をかえていえば、いわゆる人間教育というか、人間そのものを育てる教育が大切だということです。人間としていかにあるべきか、何が正しいかといったことについて適正な考えをもつ人間に育てるということです。そういう人間教育を基礎とし、そのうえに各種学問、専門教育というものを進めていくことが大切ではないかと思うのです。
6  いかなる人間に育てるか
 池田 義務教育に関するご質問がありましたが、私はたんなる知識の詰め込み教育には一貫して反対してきました。知識の習得とともに大事なことは、人間英知の開発こそ、教育の目的であると考えるからです。
 ところで、義務教育に関して、いかなる人間に育てるかという問題があります。そのさい、国家的見地にたった教育という考えには、私は好離をもちます。なぜなら、戦前の日本の教育の失敗は、まさに国家的見地にたった教育の失敗であったからです。時代はすでに国際化の時代を迎え、狭い国家の枠を超えて、全人類的見地にたつ人間の養成こそ急務です。この点について、どのようにお考えでしょうか。
 松下 ご指摘のように、たしかに戦前の日本の教育は、国家的見地が中心となっており、そこに一つの問題があったと思われます。ただ、当時は世界全体として、普遍的な人間としての世界観といったものがまだ十分に考えられておらず、どの国でもおおむね国家意識というものが中心になっていたと思います。現に、日本だけでなく、欧州の先進国が三度の大戦を繰り返しているのをみてもそういうことがいえましょう。
 ですから、そのような時代にあっては、いわゆる全人類的な見地にたった教育は実際問題としてできなかったのではないでしょうか。教育が主として国家的見地にたってなされたということも、これはいわば人間の発展の過程において一度は踏まなくてはならない段階だったとも考えられ、いいとか悪いとかというよりも、むしろやむをえない姿だったと思うのです。
 しかし、今日では人間はそれだけ進歩しているわけで、当然それにふさわしい教育がなされなくてはならないと思います。
 具体的に申しますと、まず第一に人間というものを考える、第二には民族とか国家というものを考える、第三には個人というものを考える、そういう見地にたった教育が望ましいと思います。ですから、まず世界人類的なといいますか、普遍的な人間としての在り方を考える。そしてその人間観のうえに民族的、国家的な伝統や慣習とかいったもののよさを加味していく。さらにそのうえにたって、個人としてはどうあるべきかを考える。そういった三段階に分けて教育を考えていくことが最も望ましいといえましょう。
 そうした三つの色合いを、適当とか適度にというと曖昧な言葉になりますが、その適度にというところを、衆知を集め、英知によって見いだして教育していくことが大切だと思います。その三つを適度に並行させつつ教育していくならば、世界人類的な見方もでき、国民としても立派である、しかも個人としてもきわめて好ましいというように、世界人としての立場、国民という立場、個人としての立場というものをそれぞれかみわけて考えられる人間が育てられてくるのではないでしょうか。
 そのような意味から、私は世界人類的な見地、国家民族的見地、個人的見地、そのいずれも重要であって、大切なのはそれらのバランスではないかと考えるしだいです。
7  学問の自由・大学の自治
 松下 昨今は、大学の自治という名のもとに、なにか大学を特別扱いし、極端にいえば、大学構内を治外法権の場所と考えるような傾向があるようです。もちろん大学の自治は尊重しなければなりませんし、学問の自由はこれを侵してはなりません。しかし、大学というものが法の外にあるわけではありません。したがって、大学もまた大学に属する人たちも、一般の集団や個人と同じように、すべて平等の責任において法を守っていかねばならないと思うのですが、いかがでしょうか。
 池田 学問の自由の名のもとに、大学が全く治外法権の場となり、そのなかで無法な行為が行なわれているとしたら、これほど悲しいことはなく、大学の名を傷つける以外のなにものでもありません。大学生であり教員であるといっても、それ以前に国民であることには変わりなく、同じ義務、同じ責任、同じ権利をもっているのであり、一般市民より義務だけは少なく、権利は多くもつということは絶対にありえません。そういう意味では、ご意見に全く賛成です。
 しかし、それと同時に逆の観点からこの問題を見直してみる必要も、同じ重要さをもって、あるといえましょう。それは、大学だけが特別扱いではないという考えを極端に推し進めた場合の危険な兆候です。この問題は、大学の自治、学問の自由ということが、なぜ強調され大切にされているかということから考える必要があります。
 学問の自由は、思想・良心の自由という、国民の権利として最も基本的なものにつながる重要な権利であり、それゆえに、日本国憲法に明確に規定されております。大学の自治は、それを保障するためのものです。それは、大学というところは、不変の真理の探究にたずさわる人びとの世界であり、この人びとは、正義についての強い観念と責任感は、当然、一般社会の人びとより、より以上にもっているとされているからです。
 学問は、とくに大学におけるそれは、研究にせよ、教育にせよ、文明の形成にあずかって大きな力をもっており、もしそれが権力によって支配され方向を誤るようなことがあれば、重大な影響をもたらすのは明白です。
 したがって、研究・教育の内容に関しては、大学が自主的に決定する権利が要請されるのは当然であり、それにともなって、大学の運営、これは人事の決定などを含むでしょうが、これに関しても、やはり権力の恣意によるのではなく、大学が自主的に決定すべきものと考えます。さらに、財政面に関しても、たとえば、いかなる教育にこれだけの予算をさき、いかなる研究に規制を加えるかということに大学の自由が大幅に認められず、外部からの要求が大きな力をもつとしたら、これも弊害となる恐れがあるでしょう。
 これらの大学の自主性が守られることが明瞭なかたちで規定されなければ、天動説の通説に地動説を唱えることが異端とされ、圧迫を加えられた歴史的事実が物語るように、また軍事政権が大学に大量殺象兵器開発研究を強制するおそれが存在するように、文明全体の進歩発展に重大な阻害をもたらすことが予測されるわけです。
 学問が、学問それ自体の要請にもとづいて行なわれる必要があるとするのは歴史の知恵であり、大学の自治は、そうした意味から、これからも大切に扱われていかなければなりません。大学を治外法権の場とせよというわけではありませんが、平等の義務を強調するあまり、権力が大学の自治に関与する口実を与えるスキをつくることを、恐れなければならないでしょう。ただ、昨今、大学構内で暴力行為が頻繁に繰り返され、大学の自治を守るにふさわしくない事態を生みだしているのは事実であり、それは大学人の深い自覚と反省によって改められなければならないでしょう。
8  創価大学の精神と実践
 松下 創価学会では、新しい理念と構想にもとづく人間教育のために、創価大学を設立され、人間育成を目指して力強い教育活動を進めておられると聞きますが、同大学設立の精神というもの、また、それにたった実践の内容はどのようなものでしょうか。
 池田 現今の大学の多くが、教育のマスプロ化といわれるように、教授と学生との人間関係の疎遠を招き、大学の使命である人間教育も、また研究活動も、十分な効果をあげているとはいえません。それが、かの大学紛争の遠因でもあったと思われます。大学が、教育研究の最高学府として、本来の使命を回復することが強く要望されるわけですが、こうした時代の要請にこたえるために、私は創価大学の設立を決意し、数々の困難を克服しながら四年前に、創立することができました。
 建学の基本的理念については、次の三つをモットーとして掲げました。
 一、人間教育の最高学府たれ
 一、新しき大文化建設の揺監たれ
 一、人類の平和を守るフォートレス(要塞)たれ
 第一のモットーは、まず大学の使命は、最高の学問、研究の場であると同時に、それ以上に最高の人間教育の場でなければならないという教育の根本義を訴えたものです。たんに知識と技術の伝達と習得に終わるものであってはならない。なによりも、人間であることの意味を考え、人間としての生き方を学ぶ最高の府であってもらいたいと念願するからです。さらに、いっさいの学問の原点として″人間″をおくことを忘れないでもらいたいと思うからです。
 次に「大文化建設の揺監たれ」とは、人間教育でみがかれた知性と情熱は、必然的に、新しき人間文化の創造の萌芽となるにちがいない。そして、これによって、時代を切り開く新たな文化を誕生させていく源流となってもらいたいと思うからです。
 さらに、あくまでも、大学は、人類の平和を守る砦でなければならないと、第三のモットーを掲げたしだいです。歴史的にみても、いざ戦争となった場合は、当然そうならないときさえも、平和の仮面の裏側で、まず軍事研究の要塞と化すのが大学でありました。真理と真の人間的価値を追究する大学であれば、なによりも、平和を守る頑強な要塞であってもらいたい。どこまでも全人類の平和を守る英知の要塞であってもらいたいと念願するからにほかなりません。
 あとの実際的な指針と運営は、すべて学長をはじめ、大学当局に任せてあります。細かい指示はしておりません。ただ、具体的な教育方針、研究の方向のなかに、今あげた三つの理念が、なんらかのかたちで、生かされ、にじみでるものであってほしいと希望しております。また創立者としての責任から、できうる範囲で、陰ながら応援し、激励はしているつもりです。教育にしろ、研究にしろ、ただちにその成果があらわれるとは思っておりません。十年、二十年、否、より本源的には百年、三百年の歴史を刻むうちに真の意味で成果があらわれるのだといえましょう。温かく見守っていただきたいと思います。
9  私立大学の特質
 松下 わが国では明治維新当時、国家に必要な人材を育てるのに、民間に十分な力がなかったため、国の力で国立大学をつくり、人材の育成を図りました。
 しかし、今日のように発展した日本では、民間で大学を経営できる状態になっていると思います。そこで、国家として大きな教育方針を定め、あとは適宜民間に大学教育をゆだねたほうが、効果も特色もある教育ができ、多種多様の人材が輩出するのではないかとも思われますが、いかがでしょうか。ご高見を賜わらば幸いです。
 池田 ご質問の点に関して、私は、昭和四十九年の創価大学の入学式の時に創立者として出席し、私立大学の特質について触れ、あわせて国・公立大学との相違を明らかにしておきましたが、そのさいの講演の一部をもって、お答えしたいと思います。
 その内容は、私立大学のもつ最も大きな特色の一つとして、国家権力からの制約を受けることなく、自主的に、建学の精神を貫き通すところにあることをのべたものです。
 私立大学には、経営のうえで起こってくる困難と、そのための堕落ということさえなければ、本来的に、人類の未来に思いをはせ、世界的視野にたった有為の人材を、自由に、伸びのびと育成していくことができます。
 国立大学の場合とちがって、国家や民族といった狭い枠にとらわれることなく、世界のひのき舞台に雄飛すべき、スケールの大きな、視野の広い青年たちを、荒れ狂う社会の変革のために送り出すことが、より可能であるわけです。
 次に、あらゆる大学の使命の一つである学問研究の推進という点からいっても、私立大学には、自由な活力に満ちた気風があります。思想の自由、研究の自由、発表の自由といった学問研究における絶対条件を満たしうるのも、私立大学に課せられた特色といえましょう。このような、みずからの信条にもとづいて築き上げた学問の場こそ、独創的な研究成果を生み、個性豊かな研究者を育てゆく母体となり、土壌となるでありましょう。
 また、時流にとらわれることなく、長大な展望にたっての息の長い研究に取り組めるのも、私立大学の特徴です。本来、このような、教育と研究の在り方は、大学という制度の目標であり、使命ですが、それをより純粋に保持できる立場が私立大学といえましょう。
 もちろん国・公立の大学にも種々の長所があり、特色があることも認めなければなりませんが、国・公立の大学は、なんといっても、国家からの要請に束縛されるという条件を背負っています。
 私立大学には、一国家、一民族の要請を受け入れつつも、さらに遠大な視野にたって教育と研究を自由に行ないうるという最大の長所がそなわっています。また、国家権力のあくどい介入に対抗して、真実の学問と文化の精華を守り抜く砦は私立大学にこそあるといいたいのです。
 ところが、これまでの日本のパターンは国・公立の大学主流型であったといえます。それは、必ずしも望ましい傾向ではなく、今後は、むしろ私大主流型にしていったほうが、学問全体に腰測たる息吹を取り戻すのに有効ではないかと考えています。
 ただ、そうした私立大学が誕生し維持されるためには、教育への深い関心と理解をもった、私心のない人びとの、息の長い支援が必要とされましょう。私は、民間に経済的な力があるかないかより、こうした精神的土壌がどうであるかが、より重要であると考えます。
10  大学教育の在り方
 松下 戦後のわが国においては、大学進学者の数は増加の一途をたどり、そのため大学それ自体も次々とふやされています。これは、学歴偏重といったことも関係して、とにかく大学を出ておかなければといった考えの人が非常に多いことが一つの原因だといわれています。
 一部には大学が企業化しているというような世評もありますが、このような姿で真の大学教育ができるのでしょうか。大学教育の本来の目的は、どういうところにあるとお考えでしょうか。
 池田 教育の普及ということからいえば、大学の数が多いということ自体は、否定すべきことではなく、かえって喜ばしいことだと思います。しかし、ご指摘のように、現在の日本の大学の多くが、教授も学生も、また社会も何のために大学に学ぶのかという、根本の″目的観″を喪失してしまっているように思います。学園紛争の悲劇を生みだした根本原因も、実は、ここにあるのではないかと思います。
 大学出という経歴は、今日では多分に将来の生活と地位を得るための一種の″保証書″のように思われており、大学に学ぶということが、その本来の目的を失って、個人の利益、立身出世のための手段と化してしまっているということです。
 今日の社会に、ほとんど不動の地位を占めている学歴偏重主義には、さまざまな原因が考えられますが、本質的には、人間観――つまり人間の価値をどこにおくかという問題にあるのではないかと思います。学歴は、その人がどういう分野で活躍できるかの可能性を測るための一つの物指しになるかもしれませんが、そのすべてではないということです。学歴にはあらわれない″全人格的な力″――たとえば知力、情緒、意思力、判断力、行動力、指導力、包容力などの総合こそ、評価の対象とされねばなりません。
 大学教育の目的も、まず、なによりもこの全き人間としての力を養うことにあると思います。
 もう少し具体的に大学の使命と目的をいえば、教育と研究であるといえましょう。
 教育とは、社会に有為の人材を送りだす教育ということです。さらに教育の内容を掘り下げれば、″知性″と″心情″の教育であるといえましょう。知性とは、本源的には、人間として、人格的知性ということですが、さらに敷衍していえば、社会人、職業人になっていくための、知識と知恵を与え、学び取る教育ということです。さらに″心情″と申し上げたのは、人間的な心の豊かさの意味であり、これもまた人間の条件であるからです。これは、教授と学生、また学生同士の人間的な触れ合いのなかで、はぐくまれていくものです。
 ところが、今日の大学教育のマスプロ化は、この人間的な触れ合いを失い、心情教育は皆無といっても過言ではありません。知性の教育の面でも、それはたんなる知識の詰め込み教育であって、全人格的な知性の錬磨はなされていないといえましょう。
 この大学の使命の第一である″教育″こそ、まず今日の大学に回復されなければならないと訴えたいと思います。
 次に、第二の″研究″という目的は、大学が新しい学問の創造の原点であり、真理の探究と発見の電源地であるということです。
 実り豊かな人間文化の源泉には、必ず創造的な学問の興隆があることは論ずるまでもありません。さまざまな難題をかかえた現代文明を切り開き、未来の人類の発展と平和を構築する、新たな学問創造の使命を、大学は担っているといえましょう。
 大学の使命を、教育と研究という二つの視点からのべてみましたが、さらに私の信ずる大学の理念は、創価大学の創設にあたって掲げた三つのモットーであることは、前にも申し上げたとおりです。
11  学問研究を行なう体制
 松下 いわゆる学問研究というものは、無限に行なわれなければならないと思いますが、その研究を専門に行なう人は、国民総数のなかでおのずから適正数というものがあると思います。
 したがって、学問研究の場である大学の数というものも、それぞれ国情に応じて、おのずから適正数というものが生まれてくると思いますが、わが国の場合、どれくらいを適正数とお考えでしょうか。
 池田 あらゆる学問は、その研究者の知的欲望や社会的存在意義を示したいという願望から、絶えず研究の成果を重ね、無限に進歩しゆく性質をもっています。そうした学問研究に専門にたずさわる人を守り、確保することは、一国、一民族のみならず人類の未来を築くためにも必要不可欠な要素でありましよう。
 むろん、民間の有為の人びとの尽くした業績のほうが、すばらしい場合も少なくはありませんが、現在まで、学問の研究は、主として大学の場で行なわれてきました。
 大学には、教育と研究という二つの課題があります。当然この両者が、連動する必要があるわけですが、今後の学問の方向からいっても、大学自体は教育が主体となり、専門研究は大学院並びに研究所等に移されていくのではないかと私は考えます。また、そうした方向でなければ、極度に専門化し、高度化しつつある学問を、さらに推進することは望みえないでしょう。
 そうした意味からすれば、学開発展の基盤、体制をととのえるという観点では、大学院をそなえた大学が問題になると思います。
 さて、大学院を問題にする場合、私は、量と同時に質が取り上げられなければならないと考えます。まず量についてみますと、大学院の数は、日本において、ほぼ百数十であると推定しますが、この数が、現状では少なすぎることはいうまでもありません。また、大学院研究生をはじめ、研究にたずさわる人びとの数も、とうてい十分とはいえないでしょう。
 更に、最も問題なのは、研究者への待遇と研究自体の質ではないでしょうか。もし、この質を抜きにして、大学院、または大学等の数、研究者数を取り上げても、たんに体裁をととのえるという外面にとどまり、その内容をともなわない状態を引きおこしてしまいます。
 したがって、もし、研究の質的内容がよければ、人員がかりに少なくてもカバーできるでしょうが、もし質が悪ければ、いくら数をふやしても、効果をともなわない結果に陥ります。したがって、適正数という問題は、研究自体の質によって、極端にいえば変動の幅が大きすぎて、定めようがないと思われます。
 最後に、私は、質という言葉を使いましたが、この点について一言しておきます。
 現状では、研究者は、おもに金銭的問題などから、アルバイトとか、研究以外の仕事に追われています。これでは、どんなに優秀な人でも、その頭脳を十分に発揮することはできません。
 さらに、研究費の問題があります。どの大学や研究所でも、十分な費用を得ているところは、まずないと思います。自己の学問研究のための費用さえ、アルバイトでかせいで、つぎこまなければならない状態のところも、少なくないと聞いています。
 もう一点取り上げますと、これは重大なことですが、研究を大別して文科系、社会科学系、理科系に分けますと、とくに文科系は研究者の数も少ないし、また、研究しようとしても、それに与えられる予算があまりにも少なすぎるようです。また、他の系統でも、時流、国情に合った分野には研究費が豊富であっても、基礎的な地道な領域はとかく圧迫されがちです。
 ここにも、私が、たんに国民総数などによって適正数を決めては、かえって真実の学問発展をゆがめてしまう結果を招くのではないかと、危惧の念をいだく理由の一つが存在するのです。
 私は、現在の国情、国家、企業からの要請を受け入れつつも、むしろ、長期の見通しにたって、思いきって、要請のない分野であっても研究費を投入し、教室の数をふやすべきではないかといいたいのです。そのような分野として、当然、物質文明に圧迫されつづけてきた、精神文明興隆の原動力となるべき、哲学、文学、芸術、思想などにかかわる教室が含まれるべきでしょう。
 基本的にいえば、あらゆる領域における質の改善のための努力が急務であり、その努力をつづけるなかで、大学院、研究者の数も、変動を繰り返しつつ、おのずから、おっしゃるところの″適正数″におさまるのではないでしょうか。
12  教育権の独立を
 池田 現在、わが国においては、立法・司法・行政の三権が分立し、お互いがお互いを監視する関係で、それぞれの立場が守られている形式になっております。その理想が必ずしも守られていないのは残念であり、厳守されるべく国民がチェックしていかなければならないでありましょう。それに加えて、私は国民の精神形成、ひいては文明形成に多大な影響をおよぼす教育の分野においても、政治権力による介入から独立した体制が築かれねばならないと考えています。それが次代の健全なる国民の育成をもたらす方策であると考え、教育権を加えて四権分立のかたちをとるのが理想的であると思っておりますが、この教育権の独立という問題についてどう考えておられますか。
 松下 教育の在り方について、どのような姿が理想的かということはなかなかむずかしい問題ですが、今日の状態をみるかぎりにおいては、私もご質問のように、教育権というものを独立させることが、より好ましいように思います。
 新しい憲法によって、三権分立ということで今日まで三十年ちかくきたわけですが、その結果をみると、教育は無責任といってもいいような状態に放置されているのが実情です。一つの例をあげてみますと、教育行政の衝にあたる文部大臣が、過去十年間に十回交代しています。つまり、平均すれば一年ごとに代わっているというわけです。また、大臣を補佐する事務次官にしても、二年ていどで交代しているのです。
 民間の企業でも、社長が毎年かわり、副社長も二年で交代するというようなことでは、いかに優秀な人材を集めても、経営の成果はなかなかあがらないでしょう。まして一国の教育行政ともなれば、そんなことではどんな立派な人がその任にあたっても、ほんとうに魂の入った教育が生まれないと思います。結局これは、教育が政治のつごうで左右されているところから起こるわけです。ですから、その意味からすれば、教育権というものを政治から独立させ、教育府というような機構をつくり、国民の総意によって教育を行なっていくほうがより好ましいと思います。
 そうした教育の府を設け、十名なら十名のいわば国家最高教育委員といった人を、国民の直接選挙によって選ぶのです。そして、その委員の人が、互選で委員長、副委員長その他の分担を定め、そこで国民の合意を得つつ教育の基本理念やもろもろの施策を定め、どこからも支配を受けない、中正な教育を行なったらいいでしょう。そのためには、この委員の人はどの政党にも属さず、政治的にあくまで厳正中立でなくてはなりません。また、選挙なり運営には、どの政党も関与してはならないと思います。そのことを必要な法律なり規約を定めて、そこに明記するわけです。
 実際の教育にたずさわる教員の人の処遇なり、在り方についても、その委員会で決めたらいいと思いますが、委員会が政治的に厳正中立なのですから、やはりそれにしたがって、教員の人の在り方もどこまでも中正でなくてはならないと思います。
 このようなことを行なうについては、憲法その他の法律の改定も必要になってくるかもしれませんが、それは国民の合意のもとに行なっていったらいいと思います。いずれにしても、今のように、教育がたんに行政の一機関としての地位しか与えられていないのでは、ほんとうに政治に左右されない、一貫した好ましい教育はできにくいと思うのです。そういうことで、お考えに私も賛成です。
13  教育の普及と犯罪の増加
 松下 わが国では、国民お互いの教育に対する関心、熱意が強く、義務教育の普及度も、また高校、大学への進学率も非常に高いのが現状です。しかし、それほど熱心に教育が行なわれているにもかかわらず、犯罪や非行も多く、世の中はけっして好ましい姿に高まっていません。これはどうしてでしょうか。今日の教育それ自体に問題があるのでしょうか。問題があるとすれば、その最たるものはどういうところにあるのでしょうか。
 池田 日本は、世界でも最も教育の普及した国なのに、青少年の非行、犯罪の凶悪化が増加するのはなぜか、という点については、今日の教育の在り方、すなわち教育の質的な面を考えてみる必要があります。
 それは、これまでにも″知識偏重教育″に対する批判として、さまざまに論議されてきたように――そして私もたびたび訴えてきたことですが――知識の量をふやすということに重点をおいた教育制度、方針に問題があることは、まず指摘しなければならない第一の点でしょう。
 これについて、私の友人である、ある歴史家の話を紹介しますと、その人は、自分のこれまでの生涯を歴史研究一筋にかけてきた。人生をその一点に絞って生きてきたのです。しかし今、自分の過去を振り返って反省するのは、「専門的な領域に深く沈潜して人間を忘れてきたことです」と嘆息まじりにつぶやいていたのを印象深く覚えています。短い言葉ですが、これは、その人だけの反省というものではなく、日本の教育の実情をいみじくも指摘しているように思うのです。
 教育の目的が″知の創造″にあることはいうまでもありません。その一環として、知識を教えることも当然に大切な使命といえます。しかし、知識そのものが、人間の生き方、人間としての在り方に直接影響を与えるのではありません。知識が人間に対して創造的に働きかけてくるのではなく、人間が知識をどう活用し使いこなすか、つまり人間の知恵によって創造性を帯びてくるものです。
 この人間の知恵とは、″人間としてどうあるべきか″を知るということで、そこには人間としての正しい価値判断と意志の力が働いています。そしてここに教育の根本理念としてたんに知識だけでなく、″人間としての在り方″を教え、はぐくむとの一点が確認されなければならないゆえんがあるといえます。スイスの哲人・ヒルティは教育論を展開したなかに「すべての正しい教育は、全生涯の主要事業である自己教育に人を導入するものでなければならぬ(『ヒルティ著作集』第10巻、高橋三郎訳、白水社)とのべていますが、まことに教育の本質をうがった言葉といえましょう。
 以上の観点から日本の教育の現状をみた場合、知識の伝達にのみ重点をおきすぎ、最も大切な教育理念を忘れているということを指摘できます。教育が普及しながら、なぜ青少年の犯罪がふえる一方なのかということも、人びとが知的にレベルアップしただけならば犯罪も知能的になり、増加するのは、しごく当然で、教育が″人間を教える″ことを置きざりにした結果、陥るべくしてはまった落とし穴といえましょう。
 また教育における人格形成の面に焦点を当てるならば、教師の人格の錬磨が、ここで重きをなしてきます。知識はそれ自体客観的なもので、プリントでもマイクロフォンによってでも十分に伝えられていきますが、人格形成つまり人間らしさとか、知識をどう活用すべきかといった価値創造的な問題は、教師と学生の人間的な交流、接触を通じて自然のうちに生命に刻まれていくのです。もちろん、人間的な錬磨というのは、学校だけに委ねられるべきものではなく、家庭、地域、さらに社会全般の問題として取り上げられるべきものです。そうすると、問題は大人と子供ということになってきますが、世の大人は、未来の使者である子供たちに真心からの愛情を注ぎ、よりよき教育環境をつくることが大切と思います。
 今日の教育に人間不在が叫ばれているのは、断片的な知識の授受がなされているだけで、人間と人間との血のかよった交流がないからであり、今後、私たちが改革の主要目的として取り組んでいくべきポイントは、人間教育の復興という点に尽きると思います。
14  学校教育と家庭教育の関連
 池田 学校教育は、人間生命の知の開発に重点をおきます。ところが、家庭教育においては、情と意に重心をおきつつも、全人教育を目指しての努力がつづけられるべきでありましょう。としますと、家庭教育こそが、人間教育の基盤であり、そのうえで、学校教育の成果が見事な花を咲かすことが可能になると考えられます。
 ところで、現代の教育では、家庭教育がなおざりにされ、また、学校教育の下請け的存在になってしまっているようです。家庭教育には独自の理念と方法が必要であると思うのですが、いかがでしょうか。また、家庭教育と学校教育の理想的な関連の仕方について、どうお考えになりますか。
 松下 私は、学校教育については、これをいわゆる義務教育と高等教育の二つに分けて考えたいと思います。ですから幼児期の家庭教育とあわせて、三つの段階があるわけです。
 そして、家庭教育と義務教育においては、全人教育と申しますか、人間教育と申しますか、人間としての基本的な躾、人間形成の教育というものに重点をおくわけです。もちろん、家庭教育は、これを広義にいえば、子供が家庭を出て独立するまで、学校教育と併行してずっと行なわれるものでありましょうから、厳密には分けがたい面もありますが、あえていえば、人間教育の初期が家庭教育であり、後期が学校における義務教育であるとも考えられます。そして家庭教育においては、家庭的な立場にたって、情操面に重点をおいた人間教育をやる、義務教育は学校という立場において、人間教育をやるわけです。知識教育をなおざりにするわけではありませんが、やはり″三つ子の魂百まで″といわれるように、幼少年期に教えたことは生涯身につくわけですから、人間的な良識、人間の道というものは、義務教育終了までに家庭と学校の両方で、しっかり教えなくてはならないと思います。
 そういう人間教育が中学校卒業までに十分にできたならば、それからあとの高等教育では、もっぱら知識を教えることに重点をおいても間違いは起こらないと思います。人間形成ができたうえであれば、そのうえに知識がいくら入ってきても、人間的な良識というものは、もうけっして失われることはありませんし、知識もすべて生かされていくと思うのです。
 今離のように科学の分野をはじめとして、世の中の進歩発展の激しい時代にあっては、知識教育というものも一面きわめて大切だと思います。けれども、いかに知識教育が大事だからといって、人間教育を怠って知識だけを与えたのでは、せっかくの知識も正しく生かされず、むしろ場合によってはそれが悪用されるおそれさえあると思います。ですから、今日の時代こそ、かえって人間教育が大事だともいえるわけで、家庭教育、義務教育はそこに最重点をおかなければならないでしょう。また、その意味からすれば、高等学校の入学試験は、今日のように学科中心でなく、人間的良識というものの査定を合格の可否を決定する一番大きなポイントとしてもいいほどではないかと私は考えております。
15  教師の選び方
 松下 小学校、中学校、また高校、大学のいずれにおいても、教師を選定し任命するにあたっては、学問、良識、人格など、いろいろな点からみてすぐれた人が選ばれることが望ましいと思います。もちろん、現在でもそれはしかるべく行なわれているのでしょうが、しかし、必ずしも満足とはいえないとよく世間でいわれています。教師の選び方については、さらに一段の工夫が必要ではないでしょうか。ご高見を賜わらば幸せです。
 池田 教育は、一国の知的、精神的財産を創造する土壌となるものであり、文明を形成し、発展させるうえで最も重視しなければならないものの一つであることは論をまちません。
 さいわい、わが国は教育の普及においては世界に例をみないほど水準が高く、この点に関しては非常に恵まれた条件にあるといえます。ただ、教育がいかに幅広い層にまで行き渡っていようとも、大切なのはその中身の質であることはいうまでもありません。
 そこで、どうしても教師となるべき人は、次代を担ってたつ青少年を教育するに足る、人格高潔にして知識豊富な人である必要があります。けっして他の職業と区別をつけるわけではありませんが、教師に対する期待が大きいのは当然といえましょう。
 中世のパリにおいて生まれた教師の連合は、最初「国民」と呼ばれていたといいます。すべての国民を代表し、旧勢力たる教会等に対抗して、その利益を守り自治を守ろうとしたのであり、国民の名のもとに次々と大学が生まれていったのであります。教師は本来、国民を代表し、その信頼と希望の象徴とならなければならないということでもありましょう。そういう意味で、他に就職先がないから教師になるとか、青少年に対する教育はそっちのけで教育の場を政治闘争の場と考えたり、知識の切り売りのみを事として全人間的な教育を忘れている教師が一部に存在することは悲しいことです。
 しかし、これは一方では教師に対する処遇の問題も影響しているようです。先ほどものべたように、底辺を広くすることに意を注いだあまり、教育の中身、すなわち知識偏重を排して人間教育に力を注ぐべきことや、教師への待遇改善を図ったりすることをなおざりにしてきた傾向があるのではないかということです。
 教師を尊敬し、厚く遇する風潮がつくられるなら、そこには自然のうちに「人」が集まってくるはずです。待遇を改善しないで教師の質の低下を嘆いても、これは片手落ちというべきです。
 さらに注意しなければならないのは、教師の選び方に問題があるからといって、ただちに厳格な規制を考えることは、思想統制につながる危険があるということです。たとえば、知識だけでなく人間教育ができなければならない、ということを金科玉条として、そのためには人格が問題だとして事実上思想統制を行なうなら、これほど恐ろしいことはありません。
 学校教育を肩書きを得る手段と考えたり、知識・技術だけを要求したり、教師への待遇を考えない政府、あるいは社会全体の教育への根本的姿勢にこそ、最も改善しなければならない根本問題があると考えるべきではないでしょうか。
16  教育における父親の役割
 池田 現在の教育で、最も欠乏しているのは、父親によるわが子の教育ではないかと思います。心理学者たちの統計などをみましても、子供の不良化とか、また、社会の荒波に耐えられない弱々しい生命、自己本位で他の人の心のわからない生命などが浮かびあがる背景には、必ずといってよいほど、父親不在があげられています。
 父親には、母親とは異なった教育上の役割があると思うのですが、この点に関してのご意見をおうかがいしたいと思います。
 松下 私自身、わが子の父親であるわけですが、振り返ってみますと、自分の事業なり仕事というものに専心してきた結果、子供の教育についてはすべて家内に任せきりだったようなしだいで、その意味ではこのご質問にお答えできる資格はないように感じております。そういうことを前提として、あえて私なりの考えを申しのべさせていただきます。
 私は、親が直接的に子供に″ああせよ″″そうしたらいけない″といったように教えたり躾けたりすることはきわめて大切だと思います。しかし、それとともに、あるいはそれ以上に必要なのは、親自身が一つの社会観なり人生観というものをもっているということではないかと思うのです。そういうものがあれば、それがその人の信念となって、知らずしらずのうちにその言動にあらわれ、それが子供に対する無言の教育になっていくのではないでしょうか。そういうものをもたずして、いくら口先だけで、″ああせい、こうせい″といったとしても、それは、なにもいわないよりはいいにしても、十分な効果があるかどうかは疑問だという感じもいたします。
 ところが、昨今の世の中をみていますと、どうもそうした社会観、人生観といったものが曖昧模糊としているように思われます。親自身が迷っている、だから教育するすべを知らないというのが、今の姿ではないでしょうか。そういうところに大きな問題があると思います。
 ですから、親となった以上は、その良否はむろんあるにしても、なんらかの人生観、社会観をみずから求め生みださなくてはいけないと思います。
 そのことは、もちろん父親、母親のどちらについてもいえると思いますが、やはりどちらに、より必要性が強いかといえば、父親のほうではないでしょうか。父親にそういうものがあれば、母親もそれに準じたものをもつようになってくると思います。今は、父親に確たる信念がないから、母親にもそれが生まれない。したがって、たんなる感情的な愛情によって子供を育てているといった面が強いように思われます。もちろん、母親としてそういった感情的な愛情も大事でしょうが、それだけでは子供も教えられるところが少ないため、欲望が善導されないままに成長してしまうということになると思います。ですから、そういうことのないよう、確たる人生観、社会観をみずから求めることが、父親として最も大切ではないかと思うのです。
17  親としての責任
 松下 最近は、いわゆる子供の自主性尊重とかで、どちらかというと、厳しい躾を避ける傾向もあるように思いますし、あるいは親子の断絶とか、親の権威失墜という姿も、ままみられるようにも思われます。
 しかし、いつの時代でも、親は親として子供を正しく育て導く責任があると思うのですが、いかがでしょうか。親の責任として一番大事なものは何であるとお考えになりますか。
 池田 価値の多様化が叫ばれ、世の中が複雑化するにつれ、親と子の関係も、一元的に、こうあるべきだと規定することはむずかしくなってきたといえます。青少年の非行化の現象一つをとってみても、そこには、さまざまな社会矛盾が反映されているし、複雑に屈折した深刻な原因をはらんだ問題が、少なくありません。
 そうした時代、社会であるだけに、それだけ、子供たちを正しく、強く、しかも遅しく育てる教育の使命と責任は大きいものといえます。ことに家庭教育は、教育の原点としてもっともっと重要視されなければならないと思います。
 子供たちにとって、家庭は、学校とか、友だち仲間では得られない、生命の憩いの場であるとともに、最も深い人間性をはぐくむ最高の教育の場です。そうした意味で、親の責任が、きわめて重要なことは論ずるまでもありません。
 親の責任として、子供に何を与えるかということになりますと、具体的には、さまざまな点が指摘できると思いますが、まず大前提として、子供にどう接するか、子供をどうとらえるかということが問題とされねばならないと思います。
 私は、子供といっても一個の人格である、一個の独立した人間であるという前提にたたなければならない、と訴えるものです。けっして、親の所有物ではありません。社会を構成する一個の人格として、愛情豊かにはぐくんでいかなければならないと思うのです。
 子供には子供の原理があり、世界があります。といっても、大人と対立してみるところの子供という世界だけではない。ある人が「子供のなかに大人がある」といっていました。子供の心には、いわゆる幼い心と、また一方に、きわめてすぐれた大人の自覚が育っているものであります。
 ということは、たんに子供だからといった言動とか、応対の仕方ではならないということです。ときには、子供にはむずかしいと思われる問題でも、ともに意見を語り交わすということも必要でしょう。平和の問題、正義の問題、政治、社会の問題でも、真剣に話してあげれば、子供なりに、旺盛な意欲と好奇心で吸収していくものです。
 父親の場合であれば、きょう一日の出来事、社会の動きでも話してあげることも、ときには必要だと思います。子供たちは、父親を媒介にして、徐々に、未来社会を担う人格として、社会観の核といったものを形成していくのではないかと思います。ときには厳しく叱責しなければならないときもありましょう。それも、些細なことで叱るのではなく、子供の生命や将来にとって、重大だと思われる問題に関して、しかも子供を信頼し、尊敬したうえでの愛情の発露として、叱責するのでなければならないと思います。
 要は、子供の主体性、自主性を見守りながら、健やかに伸ばしていけるように配慮していくことが根本であると思います。
 どんな子供も、それぞれに豊かな個性と素質をもっているものです。みずからの経験に照らしつつ、あるときは諭し、またあるときはアドバイスし、そして励まし、自由に遅しく創造性をはぐくみ、伸ばしていってあげたいものです。
 さらに、子供たちは、黙っていても、親の生き方というものを膚で感じ取っています。日でどんなに正義を教え、良識を訴えるよりも、親自身が、みずからの生活のなかで、それを身をもって示していることが、なににもまして、最良の教育であることを忘れてはならないといえましょう。
 子供を正しく育て導くということは、けっきょく、子供に何を与えるかという教育技術論ではなく、親その人が、一個の人間として、正しく責任ある生き方をしているかどうかにかかっていると主張いたします。
18  子供は誰のものか
 池田 日本では、戦前の大家族主義の思想の影響などもあって、子供は家のもの、親のものという考え方が、いまだに根強く残っています。そのため、親が子供を自由にしてもよいといった、親のエゴイズムの犠牲になっている面がしばしばみられるようです。
 ところが、ヨーロッパや中国などでは、両親の所有とみるより、社会的存在とみる傾向が強い。そのいずれが強いかによって、子供の躾、教育まで違ってくると思います。
 そうした意味で、とくにこれからの日本人は、子供の教育という点で、視点、発想の転換がなされねばならないと思いますが、その点についてのご所見をおうかがいしたいと思います。
 松下 子供は誰のものか、ということを本質的に考えてみた場合、これは子供自身のものであって、それ以外の誰のものでもないのではないかという気がします。親の力を借りてこの世に誕生してはきますが、その生命は本質的には子供自身のものだと思います。
 ただ現実的に、子供を人間として好ましく生育させていくうえでは、親の子であるとか、社会の一員あるいは国民の一人であるというように考えていくことも必要だと思います。
 ですから、そういう観点からすれば、子供は第一次的には親のものであり、第二次的には社会のもの、あるいは国家のもの、そして第三次的には子供自身のもの、と考えてはどうかと思います。言い換えれば、幼にしては親のもの、やや長じては国家社会のもの、さらに長じては子供自身のものということです。
 躾なり教育を主として誰がするかという問題も、したがっておのずと決まってくると思います。すなわち、幼児の間は、両親がもっぱら自分の子供の躾、教育の責めを負うということです。そして、やや長じて少年時代といいますか、義務教育の間は、国家なり社会が責任をもって、人間としての正しい躾、教育を行なわなくてはなりません。それからあとは、子供がみずから自主的に自分を教育していく責任があるわけです。今日、子供の自主性を尊重するということがよくいわれます。それもたしかに非常に大事なことですが、そうした三つの段階を前提として考えることが必要だと思います。つまり、幼少年期の、両親なり国家社会が教育の責めを負うべきときに、子供の自主性尊重ということで、両親や社会がみずからの責任を忘れるようなことがあってはならないのであって、そのところを見誤ると、子供自身のためにもかえって好ましくない結果になってしまいます。
 もちろん、最初にのべたように、本質的には子供は子供自身のものなのですから、″幼にしては親のもの″といっても、これは両親が自分の好き勝手に子供を扱い、教育してよいというものではありません。子供は親のものというと、ともすればそのように解釈され、その結果、最近みられるような子捨て、子殺しといった、好ましくない風潮を生む結果にもなってしまいがちです。しかし、これはあくまで、親が責任をもって、共同生活の一員として真に好ましい人間的躾、人間教育を行なわなくてはならないということです。このことは、子供は社会のもの、という場合も同様であるのはいうまでもありません。
19  賞罰の必要性
 松下 よいこと、正しいことを行なった場合にはこれを賞し、悪いこと、不正なことに対してはこれを罰するという、いわゆる信賞必罰を実際に行なうことはなかなかむずかしいことだと思います。そのせいか、昨今の日本では、教育の場にしろ、あるいは経営や政治においても、あまり信賞必罰ということがいわれたり、実行されていないような感じもします。これも一つの時代の流れともいえますが、また一方、いつの時代にあっても信賞必罰を厳正に行なうことが望ましいという考えもあるようです。信賞必罰の必要性、重要性についていかがお考えでしょうか。
 池田 賞罰を明らかにするということは、指導者の要件だと思います。ビクトル・ユゴーの『九十三年』のなかで、嵐にあった艦上で砲手の怠慢によって砲が暴れ、砲手は、必死につないで事なきをえた。それに対し、将軍は、まず勲章を与えた後に、死刑に処したという話が出てきます。また『三国志』に出てくる、諸葛孔明の″泣いて馬談を斬る″という話は、あまりにも有名です。
 これらの例は、軍隊という、一歩誤れば、全軍の生死にもかかわるという厳しい条件下の話ですが、程度の差こそあれ、いかなる組織、団体においても、それ相応の賞罰という原則はあってしかるべきだと思います。
 ことに、問題が他の多くの人びとの将来を左右するような場においては、厳正なる処置がとられるベきだといえましょう。たとえば、政治家であれば、市民、国民の信任を得て選ばれ、人びとの利益を図ることが本来の責務ですから、その責任と使命は、きわめて大きいものといえます。それが、いいかげんなことをしていても、まかりとおるというのであれば、政治は死にます。すぐれた政治が行なわれるためにも、厳正なる賞罰があるべきでしょう。
 また国民が、それを行なえるだけの見識をもつべきだともいえます。政治家を甘えさせないだけの厳しさがほしいものです。
 また、他のいかなる組織体においても、大なり小なり賞罰は欠かせないものではないでしょうか。ただ留意しなければならないのは、そこに、確かな″道理″があるかどうかということ、また、公平さがなくてはならないという点です。
 意外に、道理を抜きにして、感情で事を処する人が多いものです。賞罰にあたっては、相手にも、他の人たちにも納得のいく道理が明らかにされなければならないでしょう。また、真に人を公平にみる人も少ないといえます。公平にみるということは、一つの力といえましょう。公平であるかぎり、最終的には人はついてきます。
 もう一つ大事なことは、賞するにしろ罰するにしろ、相手の立場と、人間をよく理解していなければならないということではないでしょうか。人の本質をよく見抜き、その人にふさわしい処置が必要でしょう。同じ人でも、誉めて激励になり、ますます力を発揮する人と、誉められて、いい気になり、かえってうぬばれて、成長を止めてしまう人もいるでしよう。
 したがって、賞罰が必要であるといっても、がんじがらめの規則をつくって、型にはめて行なうということには、私は、あまり賛成できません。ことに青少年の教育という場における賞罰は、扱う相手が多感な年代であるだけに、教師という人生の指導者の英知と、根本的には信頼感と愛情が大切になってくるのではないかと思います。
20  歴史教育と古代神話
 松下 昨今、歴史教育について、いろいろ論議がなされているようです。とくに『古事記』などにみられる、日本の古代の神話については、さまざまな学者によるさまざまの説がありますが、こうした日本の古代の神話を、たんなるつくられた物語とみるか、それとも、なんらかの事実にもとづくものと考えるべきか、ご高見をいただければ幸いです。
 池田 神話とか伝説といったものに対しては、いろいろなとらえ方がありますが、そこには大別して三つの立場が考えられます。
 第一の立場は、ある存在、あるいは体制などを権威づけるために創作された完全な虚構であるとみるものであり、第二は、逆に全くの歴史的事実であるとする見方です。
 第三には、そのままの事実ではないが、神話や伝説に、歴史的事実の内容・意義を変容させて盛り込んでいるものとみる立場が考えられます。
 この三つの立場にはそれぞれ根拠があり、実際には、さまざまな言い伝えのなかには、それぞれのものが入り雑じっているのでしょう。
 神話のなかに扱われていることが事実であったと判明したものの一つとして、有名なトロイ戦争があります。素人考古学者シュリーマンが、ホメロスの作と伝えられる叙事詩『イーリアス』に説かれたトロイ戦争の事実を信じ、ついにその遺跡を発掘したのですが、この場合などが、神話の扱っていることが必ずしも虚構でないという一つの証例ともいえましよう。
 たしかに、多くの場合、歴史的事実であっても、神話のなかでは荒唐無稽な形に変容して伝えられているとはいえます。たとえば素菱鳴尊が八岐大蛇を退治したという伝説も、頭尾が八つに分かれた大蛇が存在したのではなく、異民族であるオロチ族を撃退したことが、そのように伝えられたのだ、とする考え方もあるようです。
 このように、神話、伝説といっても、それがいかに史実と相反するような記述様式をとっていたとしても、そのまま葬りさることは早計にすぎるでしょう。仏教の経典をみても、虚構としか思えないような記述に満ちていますが、どのようなものにも、それぞれ哲学的な意義が含まれており、その内容を伝誦に適した表現形式をとって後世に伝えようとしたものであろうということに、ほぼ意見が一致している現状です。
 ただ、神話や伝説すべてが事実をあらわしている、ないしはそれを含んだものであるとして解釈することもまた、歴史を読み取るうえにおいて危険であるということです。最初に申し上げたように、神話や伝説の多くは権力を裏づけるために権力者によって編まれたものが多く、そこに記されていることも、史実そのものとして解釈できるようなものは数少ないし、ほとんどの神話・伝説は歴史的事実の一暴づけをもたないものであるかもしれないのです。もしそうした神話や伝説が、歴史を歪曲させ、権力による民衆支配のために用いられたとしたら、民主主義にとって最も恐るべきことでしょう。
 神話や伝説は民族の知的財産の一つであり、軽々に扱ってはならないものです。であるからこそ、その意味するもの、真実性については、より慎重に、公正に探究されるべきであります。現今の歴史教育において、その点、慎重な配慮に欠ける面があるとしたら、即刻改めるべきです。
21  性教育について
 池田 現在、性教育が大きな社会問題の一つになっております。実際に学校教育のなかでも、本格的に取り上げられておりますが、性の肉体的・生理的側面だけが強調されているようにも思えます。しかし、性の問題は、また精神的、社会的、そして歴史的な多面の要素を含む問題ですから、教育においても、もっと総合的な見地からなされるものでなければならないと思いますが、いかがでしょうか。性教育に関するご見解をうかがえれば幸いです。
 松下 今日考えられ、取り上げられようとしている性教育の内容がどういうものかよく存じませんので、軽々に論ずることはできないのですが、ごく一般論として、私は性教育というものがほんとうに必要なのかどうか、いささか疑問に感じております。
 と申しますのは、一つには自然の山野で生きる動物たちは、別に性教育をしなくても、それでとくに不都合が起こっているとも思われません。自然のままにうまくいっているのではないでしょうか。人間と動物とを同一に論ずることはできないのは当然ですが、しかし、あまり詳しく性知識といったものを教える必要はないような気がします。
 また、性というのはきわめてデリケートな問題で、そこにあるていどの神秘性といいますか、未知なるものがあっていいのではないでしょうか。ことこまかに、なにもかもあからさまにしてしまうよりも、むしろ何があるかわからないといった神秘性のようなものを残しておくことも人間の心の面を考えますと、必要ではないかと思います。
 そういうことを考えますと、性教育は軽々に行なうべきではなく、おっしゃるように、総合的見地から慎重に判断すべきだといえましょう。
 ただ、別のところでも申しましたように、性道徳を高めていくための教育は、これは必要だと思います。そういうものも性教育の一環と考えれば、その面での性教育は適切な姿で大いに推進されていいと考えます。
22  学問の専門化と総合化
 松下 学問というものは、進めば進むほど専門化され、それぞれに深められていくように思われます。これは真理探究の進歩の姿としてまことに喜ばしいことですが、半面、とかく一面の真理のみにとらわれて、全面の真理というものを見失いがちの傾向も見受けられるようです。その意味において、専門化された学問の総合調和ということがきわめて大事になってくると思うのですが、その点いかがお考えでしょうか。
 池田 現在、西洋における科学革命以来の、分析に分析を重ねる学問の在り方が、さまざまな批判を受け、ようやく新たな展開をみせはじめているようです。
 人間の理性・知性を駆使しての真理探索が、これまでの数世紀の間に、目をみはるばかりの進歩発展を成し遂げたことは、あらためて強調するまでもないことでしょう。
 しかし、ご質問のなかでおっしゃっておられるように、理性にもとづく真理への肉薄は、ともすれば、部分的真理の領域にとどまりがちであります。それは、理性による分析という手段が、その対象を客観視し、理性のメスで切るという方向をとらざるをえないからです。そこから「全面の真理」を見失うという欠陥をさらけだすことにもなるわけです。それにしても、多くの先人が苦闘の末に発見した真理、法則は、たとえ「一面の真理」であったとしても、貴重な人類の遺産であることに変わりはありません。要は、これらの分析智の所産としての真理を尊重しつつ、そのうえに、真理の全体像を浮かびあがらせる努力をすることであり、現代の心ある学者のとろうとしている方向も、まさに、全体的真理への探索に向かっているのではないかと思います。その一つの試みとして、各学問の間に、まだ未開発の分野として横たわる、いわば限界領域への挑戦が始まっています。たとえば、生命現象の解明に物理学を導入しようとする生物物理学とか分子生物学、量子生物学などは、無生の世界と生物の世界との接点を明らかにするうえで、きわめて有力な手段となりうるでしょう。
 また、人間生命の探索においては、従来の物質的側面から明らかにされた真理と心の領域に見いだされる真理、法則を組み合わせようとする心身医学、精神身体医学の胎動があります。
 これらの試みは、幾多の曲折を経ながらも、分析から総合へ、分解された真理から統合した真理への道を、少しずつ切り開いていくでありましょう。部分的法則は一挙に全面的真理へとつながるものではありません。しかし今、学問の潮流は、対象の分解、分析から、総合統一への道を歩みはじめていると私は思うのです。
 このような、学問の潮流の方向転換にあたって、私は、近代文明発生以前の、東西の先哲の英知に、再び光を当て、そこから偉大なる知恵をくみとるべきではないかと提案してみたいのです。
 たしかに、対象とするものの部分的実証は、現代の学問の成果のほうが、より精密であり、詳細であるかもしれません。それらは、近代に再発見された理性の所産にほかならないのですが、しかし、少なくとも、人類数千年の歴史を流れきたった先哲の所説には、理性の光の届く合理の領域を含みつつも、それを乗り越えた超合理の世界への、見事な直観智のきらめきを発見することがけっして少なくはないようです。
 西洋には、ある面では、ルネサンスをとおして近代理性の母体ともなったギリシャの哲人の思索があり、東洋には、インドのウパニシャド哲学、仏法に示された宇宙と生命に関する膨大な哲理、漢民族の英知の精華とも考えられる陰陽五行説と、宇宙と人間との本質的な関連に直入した思想等が、現代の光を当てられないままに、それぞれの民族の心のなかに眠りつづけているといっても過言ではないでしょう。
 私は、学問の総合化を目指す人びとが、自己の専門分野をさらに深めるとともに、古今東西の人類の遺産に謙虚な姿勢で取り組み、先哲のまばゆいばかりの直観智に学ばれんことを願ってやみません。そして、近代理性と古来からの直観の英知がともに助け合って、宇宙と生命の全体的真理を浮かびあがらせる学問体系の建設のつち音の響く日を待ち望むものです。
23  統合の原点に″人間の学″を
 池田 学問について、細分化とともに統合の面を重視しなければ全体像の把握ができないとのご意見を、前におうかがいしました。ところで、政治にせよ、経済にせよ、科学にせよ、すべて人間の幸福を求めつつ細分化されていった分野です。にもかかわらず、今日それらが独自の理論で自己回転を始めてしまっているようです。これらを統合して、本来の役割に引き戻すためにも、統合の原点としての″人間の学″が、より深く学ばれ、打ち立てられねばならないと考えますが、この点についてのご意見をうかがいたいと存じます。また″人間の学″を何に求められるかをお聞かせください。
 松下 別のところでも申し上げましたように、今日の学問の進歩はそれこそ日進月歩といってもいいほどのものがあります。そうした進歩というものは、一方では、それぞれの学問分野の内容の深まりとなり、もう一方では、次々と新しい分野が生まれてくるというかたちになると思います。
 そういう姿において、より多くの真理が解明され、それが人間生活のうえに役立てられて、人間生活を発展向上させるということは、まことに好ましいことだと思います。政治にせよ、経済にせよ、その他、共同生活におけるもろもろの活動は、学問の成果を取り入れることによって進歩するものであって、学問の進歩なくしては、人間の共同生活の向上もありえないといってもいいかもしれません。
 ところが、そうした学問の進歩の半面、それにともなって弊害も起こってきています。それはなぜかというと、学問の分野が細分化されるにつれて、狭い範囲での真理に固執するといいますか、一つの学説にとらわれて、より大きな真理を見忘れ、学問の総合調和を怠るからではないかと思います。したがって、そこにどうしても、より高い観点にたった学問の総合調和ということが必要になってきます。
 その総合調和の役割を果たすものは″人間の学″だというご意見には私も全く賛成で、その必要性を痛感するものです。学問の目的は真理の探究にあるということがいわれますが、しかし、何のために真理を探究するのかといえば、それを人間生活に役立てるためであり、結局は人間のためということになると思います。つまり、いっさいの学問はみな人間のためにあるのであって、それ以外の何のためでもないと思います。したがって、そうした学問の統合の原点となるものは、「人間とは何ぞや」という人間学でなくてはなりません。
 その人間学を何に求めるかということですが、今日の学問でも、たとえば医学とか生物学のように、人間を体の仕組みや働きの面から研究するもの、心理学のように精神作用を中心として研究するものなど、部分的に人間探究を目指しているものもいろいろあると思います。しかし、私のいう人間学は、たんにそういう部分的なものでなく、それらをも含めた総合した人間学であり、そういう観点から、人間の本質と、その本質から生まれてくる広範囲にわたる人間の在り方に焦点を当てて研究するところのものなのです。
24  人間学構築への提言
 池田 学問の進歩は、今後ますます加速度を加えていくでしょう。また、分析と同時に、各学問間の総合化も試みられています。
 しかし、いかなる学問の進歩も、その究極の目標は、人間生命を守ることにある以上、各学問を総合化し、リードする中核には、前にも申し上げたとおり、人間学がすえられるべきでしょう。
 今、社会科学、人文科学、自然科学と並んで、生命科学が時代の脚光を浴びていますが、これらの学問の基礎のうえに、人間学を築き上げなければならないと思います。
 全力をあげて、すべての学問の領域の人が、人間生命の探究に向かうとともに、総合学としての人間学を構築することが急務であると考えるのですが、いかがでしょうか。
 松下 あらゆる学問の中核として、新しい人間学がつくられなくてはならないというお考えに私は全面的に賛成するものです。
 このようなことを、今ごろになって一間一答のなかに加えなくてはならないことを思うと、いかに重大な問題を世の識者の人びとが今日まで放任していたかを痛切に感じさせられます。お互い人間が共同生活の調和ある向上を実現し、自他ともの幸せを生みだしていくためにも、人間学こそすべての学問の中心にならなくてはならないと思います。私は学問のことはよくわかりませんが、それほど重要なことが、ひとり日本においてのみならず、諸外国においてもあまり取り上げられなかったというのであれば、ごく常識的に考えてみて、まことに不思議でなりません。
 一つ考えられますことは、これまではそういう人間自身の探究といったものは、宗教にゆだねられていたのではないかということです。そして学問は、主として、いわゆる科学的な分野を担当してきたということも考えられます。そのようにして、宗教が人間の探究ということを大きな領分として、そこに成果をあげてきたということ自体はそれはそれで好ましいことだと思います。
 けれども、やはり学問が学問としてこれを取り上げなかったことは、いわばウカツであったと思います。それは東洋といわず、西洋といわず、ともにウカツであったわけで、これからは、人間学というものを、科学的、精神的の両方の面から、大いに取り上げ、探究していかなくてはならないと思います。
 具体的にそれがどういうものになるかは、いわば門外漢である私には論及いたしかねますが、やはり、そういった人間学というものの必要性を、世の識者の人びと、学者の人びとが痛感していただくことが、まずなによりも大切だと思います。そして、その認識にたって衆知を集めていただくならば、必ずやそこに立派な人間学というものが生まれてくるのではないかと思うのです。
 そのような意味において、幸いに先生のご関係しておられる創価大学というものがあることですじ、そこにおいても、ぜひともこの人間学を主要な科目としてお取り上げいただきたいと願うものです。

1
1