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日蓮大聖人・池田大作

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「人生問答」松下幸之助(池田大作全集第8巻)

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2  インフレ抑制の施策
 池田 四十八年から四十九年にかけてのインフレの進行は、まことにすさまじいものがありました。政府は、このインフレ収束の時期を、先へ先へと延ばした発言をしているように、この勢いはまだ止まりそうにもありません。
 いったい、現在の自民党政府に、インフレの進行を止める施策を期待できるとお考えですか。また、インフレ経済を構造的に大転換するには、どのような方策が望ましいとお考えですか。
 松下 最近のわが国にみられるインフレの原因は、とくにその一年に限っていえば、石油価格の高騰があると思います。燃料、原材料として、各方面で多量に使われている石油の価格が、ニドル台から十ドルと四倍にもなったことが、まず根本の原因といえるでしょう。また石油以外の非鉄金属その他、原材料の世界的な高騰、世界的な食糧不足による穀物の値上がり、さらにはアメリカ経済がベトナム戦争によって安定を失い物価上昇を招いたこと、そういったもろもろの世界的な動きが大きな原因となっています。そういう情勢が、現在の日本の急速なインフレを起こしていると思います。
 しかし、そういった世界的な原因については、これを日本人がただちにどうこうするというわけにもいきませんから、ここでは見方を変えて、お互い日本人自身にも原因がありはしないかを考えてみたいと思うのです。
 そう考えてみると、私は、お互い国民の諸活動のうえに大きなムダがあり、そのムダが、徐々に、しかも基本的に進行しつつあるインフレに結びついているような気がするのです。つまり、海外要因によるここ一年の急速なインフレの一方で、国民お互いのムダによる緩慢にして継続的な、より大きなインフレが進行しているのではないかと思われるのです。
 たとえば、会社における活動を一つ取り上げて考えてみても、重要な会議を一時間ですませる会社もあれば、なかなか意見がまとまらず三日もかかる会社もあります。前者をA、後者をBとすれば、Bの会社はインフレを招く会社で、Aの会社はインフレに打ち勝っている会社ということになります。
 今の日本は、はたしてA、Bどちらの姿でしょうか。インフレを招くBの姿になってはいないでしょうか。議会にしても、三か月ですむものを一年もかかるとすれば、これはBの姿です。そして、それが議会だけでなく、会社も団体も、社会のあらゆる面の姿になっていないでしょうか。もしそうであるとするなら、日本にインフレが起こるのは、いわば起こるべくして起こる姿だといえると思います。
 そういう国民全般にわたるムダを指摘し、それをなくすような政治を行なうなら、どの政党でもインフレを止めることができると思います。反対に、それができないなら、どの政党が政権についてもインフレを止めることはできないのではないかと思うのです。
 仕事のムダ、施設のムダ、物資のムダ、時間のムダ、機構のムダ、企業間の過当競争から起こるムダ、そういうムダがインフレに結びついていることに気がつかねば、どの政党でもインフレを止めることはできないでしょう。
 もちろん、現在のインフレは、初めにもふれたように、世界的な動きが大きな原因となっていると思いますが、しかし、国民お互いのムダな活動の積み重ねがさらに大きな原因となっていると思うのです。したがって、このインフレを止めるためにお互いがなすべきことは、国民全般にわたってそれぞれの生活、活動をムダなきように正す、ということではないかと思います。
3  物不足と買い占め
 松下 先般のいわゆる物不足にともなって、買い占め、買いだめといった姿が、国民の間に起こりました。これは、人情としてはムリからぬものがあるかもしれませんが、このように、とかく自己中心的な行動に国民が走りがちなのは、いったいどこに原因があるのでしょうか。いわば国家国民的な躾が研究され、なされていないということとも関連してこようかとも思われますが、非常時になっても、あのような姿の起こらないような安定した社会を、どうすればつくりあげることができるのでしょうか。
 池田 この問題については、私はお説と異なった見解と意見をもっております。
 まず「物不足」ということですが、ほんとうに物資が不足していたのでしょうか。これは後に明るみに出たことですが、実際はメーカーや流通機構が売り惜しみ、価格をつりあげるために隠匿していたのです。洗剤にしても、紙にしても、何か月か倉庫に眠らされていたわけです。そのため当時は、どこも倉庫が一杯で、ないのは倉庫だけだ、などと皮肉られています。これは、国会でも厳しく糾弾されたように、まさに反社会的行為といえるでしょう。
 次に「買い占め」「買いだめ」ということですが、自己の生活防衛のためにこれを行なった庶民を責めることは筋違いであり、巨大な資金によって買い占め、値を自在に操って暴利を貪った大手商社こそ責められるべきです。これも国会で責任を追及されましたが、大手商社による生活必需物資の「買い占め」が、一時的に「物不足」の現象を生み、一部にパニック現象によってトイレット・ペーパーや洗剤を「買いだめ」した主婦もあったでしょう。しかし、毎月の家計のやりくりに四苦八苦している庶民の買いだめも、それはたかが知れた量です。しかも、それを転売するために買ったのではなく必要に迫られての買いだめであって、商社のように「買い占め」によって価格を上げ、高い値段で放出して利益を得ようとするものではありません。ですから、国民が自己中心的な行動に走ったというより、庶民は犠牲者であったわけです。
 ただ、たしかに、現代社会において大衆は、情報や暉や周囲のふんいきに影響されやすく、自分で冷静な判断が下せないといった弱さがあり、一つの方向に突っ走るところがあります。その点、ご指摘のとおりですが、石油危機にしても、またそれにつづくインフレ、物不足、買い占め、物価上昇といった一連の現象は、何者かが演出した行為であるとまでいわれております。大事なことは「非常時」といわれるような事態を生まないことであり、それこそ政治をとる者、世論の形成に大きい影響力をもつ者の責任であるということではないでしょうか。
4  商道徳に反する企業
 池田 石油危機にはじまる経済の混乱は、大手メーカーや大企業によって演出されたものであることが、国会などでも追及されました。とくに大手商社による買い占め、売り惜しみ行為に対しては、世論の批判も強いようです。
 このような企業の在り方に対して、どのような所感をおもちでしょうか。
 松下 石油危機にさいしての物不足などの混乱がもし演出されたものだとすれば、これは商道徳に反する行為だといわなくてはなりません。ただ私自身は、真に大手商社や大企業によって演出されたものかどうかということには多大の疑問をもっています。見方によっては演出されたともみえるかもしれませんが、やむをえない情勢に追い込まれたということもあるていど考えられますし、これは調べてみないことには、第三者としては軽々には申し上げられません。
 いわゆる便乗値上げとか売り惜しみということは、いつの場合でも商行為にはともなうものですが、しかし、ああした混乱期にいちじるしくそれに便乗するようなことは、これは商道徳上許されないことですし、断固排さなければなりません。ただこれとても、声高に叫ばれたのは事実ですが、現実にどのていど便乗的な値上げがあったのかは、実際には調査してみないとはっきりはわかりません。
 しかし原則としては、便乗値上げにせよ、買い占め、売り惜しみにせよ、そうしたこと自体は商道徳に反するものであることはいうまでもありません。今後ともああした石油危機に類した事態はいろいろと起こってくると思いますが、商社といわずメーカーといわず、そのことをはっきり認識して、商道徳に反するような行為は厳に慎まなくてはならないと思います。
 ここで一つ申し上げたいのは、かりに石油危機にさいして、商社なり大企業にそういう商道徳に反する行為があったとすれば、これは大いに反省されなくてはなりませんが、それをもって、これまで商社や大企業が果たしてきた役割を軽視してはならないということです。
 たとえば、わが国の卸売物価は石油危機の前後で大幅に上昇しましたが、それまでの十年をみますと、世界で一番安定していたのです。こうした成果は、商社が各国の開発、資源の効果的な購入ということに努め、メーカーはメーカーで生産性の向上にいろいろと努力してきた結果だといえましょう。しかも、そのように卸売物価が安定していた一方で、一般国民の収入も国家所得も、世界一といっていいほどの高い伸び率で増大してきたのであって、そうしたことも企業努力の所産でしょう。
 石油危機にともなう商社、企業の在り方について反省すべき点もあると思いますが、その罪を責めるあまり、こういった功績を見忘れたのでは、かえって混乱も起こり、インフレを増進させるような面も出てきはしないかと思うのです。
 なお、ご質問からはややはずれるかもしれませんが、石油危機にさいしては企業にも反省すべき点はあったでしょうが、一番の問題は政府がああした事態にさいして、確固たる方針を国民に示すことができなかったところにあると思います。そういうものがあれば、あれほどの混乱は起こらなかったでしょうし、便乗的な行動に走る企業も少なかったと思うのです。
 石油が一挙に四倍も値上げされるというのは、これは尋常のことではありません。この十数年、水力の開発も石炭の開発もあまりせずに、ほとんどの熱源を石油に頼り、石油を中心に生活文化、生産文化を維持してきたのですから、その石油が一挙に四倍も上がれば、国民も企業もうろたえるのは当然です。それはいわば地震や台風にあってうろたえるのと同じことです。
 そういうときこそ、政府は確固たる方針を発表する必要があると思うのです。石油が四倍も上がれば、それにつれてあるていど物価が上がるのは当然です。だから政府は、国民に対して「石油が四倍になったのだから、物価はこれだけは上がる。しかし、それは当然のことなのだから、うろたえないでほしい。それに対しては政府はこういう手を打つから、心配しなくてもいい」と訴えるべきでした。そして、それとともに、国会でそれについて、政府の見解を示し、野党も含めて超党派で、産油国に対して、抗議するとか嘆願するといった決議をすればよかったのです。「石油の大幅な値上げは、日本の国民生活を根本から揺るがせ、大変なことになるから困る。値上げはやむをえないとしても、一挙に四倍も上げるのではなく、五年にわたって毎年少しずつ上げるようにしてほしい。それであれば、われわれもなんとか吸収していける」といった、抗議・嘆願の決議をするのです。その一方で、国民には、やはり厳しさに対処する覚悟をしてもらうよう訴え努力する、そういったことがピシッとできていたら、ああした混乱もなかったし、むしろ災いを転じて福となす結果になったと思うのです。
 そうした根本を忘れて、政府も野党も企業や商社の追及といった枝葉にばかり走っていたところに一番問題があったのではないでしょうか。
5  治にいて乱を忘れないために
 松下 先般の石油危機をきっかけとして、われわれ日本人のこれまでの姿、歩みというものに対する反省が一部に生まれています。いってみれば、治にいて乱を忘れた太平ムードで歩んできた面が多かった。それで、石油危機であのようにあわてふためいたのだというわけです。
 そういうことからして、今後、お互い日本人は、治にいて乱を忘れないことが大切だと思いますが、それでは、そのためには、具体的にどのようなことを考えねばならないでしょうか。
 池田 治にいて乱を忘れないことは、私も大切だと思います。そのためには、絶えず時代の動向を見通す先見性を養うことが必要ではないでしょうか。
 時代は急速に流れ揺れ動いています。とりわけ現代社会の動向は、科学技術等の進歩によって、めまぐるしいものがあります。このような時代にあって、とくに一国の指導者をもって任ずるほどの政治家は、時代の動向を的確に見通す先見の明をもつベきであると主張したいのです。というのは、わが国の場合、ほぼ三十年近くも保守党が政権を維持し、ともすれば、国際社会の激動に遅れをとる場合が少なくありませんでした。その点、第二次大戦後に限ってみても、西欧では、イギリスにしても西独にしても、何回か政権の交代が行なわれ、それを契機に政治の転換があり、むしろ保守党のほうが革新政党の政策を実行化し、柔軟な姿勢にさえなってきている、といった対応がみられます。
 もちろん、わが国の場合、議会政治の母国といわれるイギリスのように、すぐには健全な二大政党制になるのは無理かもしれません。しかし野党が政権担当の力をつけ、今よりもっと強くなっていけば、今日のような激しい時代に適応しうる政治も可能になるでしょう。
 このように、まず政治家が新しい時代感覚をもつべきは当然として、国民もまた目を広く世界に開き、時代の動向に鋭敏であることが必要でしょう。
 さらに、もっと本源的には、資源を浪費している現代の消費文明のたっている脆さというものを厳しく認識すべきではないでしょうか。
 だいたい、心ある具眼の士は、もう何年も前から石油危機を予見していました。また、それによって招来されるインフレの加速化も、何人かの経済学者は警告を発しております。
 ただ、残念ながら、政治家や役人が、そうした先見の明をもたず、まさに治にいて乱を忘れ、世界の動向に対処することを怠っていたといえましょう。保守・革新を含めて、政治家にもっとしっかりしてもらいたいものですが、政治家を選ぶのは国民ですから、国民一人ひとりの意識の向上こそ、なにより大事といえます。
6  エネルギー源の確保と開発
 池田 石油の供給は、ひとまず確保されたといっても、原油価格は大幅に上昇し、これから真剣に石油問題と取り組んでいかなければなりません。とくに日本経済・産業は、そのエネルギー源の大部分を石油に求めていることからしても、非常に困難な時代を迎えたものといえましょう。
 エネルギー源の確保について、また石油に代わるエネルギーの開発について、どのような見通しをおもちでしょうか。
 松下 エネルギー源の確保、開発についてのご質問ですが、この問題を解決していくうえで最も大切なことは、まず、いかにエネルギー源が大事であるかということを国民の間に浸透させていくことだと思います。そうすることによって国民の考えが変わってきます。
 そして、専門家をして日本国内に新たなエネルギー資源があるかどうかを探さしめるということを一方において進める必要があります。外国に対しては、その資源を十分に供給してもらえるよう、友好的な一体感を高めて、あたかも自国に資源があるかのごとき状態を生みだしていくことに努めねばなりません。資源輸入に関して日本が安心できる取り決めを行なうことが大切だと思います。
 それはカネによって取り決めるか、あるいは理解と理解で友情をもって取り決めるか、ということですが、やはり日本の行ないが、外国をして日本を援助しなければならないと思わしめるようなものになることが肝要だと思います。日本のような立派な国を放っておいてはいけない、というような姿になることが大切です。
 第二次大戦中、日本の京都や奈良には爆弾は落とされませんでした。京都や奈良は日本の古都であるが、これはまた世界の古都でもある、だから爆撃してはいけない、というように考えられ、戦災をまぬかれたのだと思います。フランスのパリにしても、あのヒトラーでさえ破壊していないのです。パリはいわば宝物だと考えられていたのではないでしょうか。
 ですから、もし日本の精神が一つの宝だと考えられたら、日本と日本人を困らすようなことはしないと思います。日本の存在はなくてはならないものだと世界の人びとが考える、そういったものを日本はもたなければならないのです。日本全体を一つの神殿、あるいは精神的な公共の遊園地であるといった感じを与えるようにすることです。
 そういうものをもたずして資源を確保しようとすることは、むずかしいのではないでしょうか。資源を強奪して手に入れる時代ではありません。やはり、日本が崇高な精神、徳心をもてば、外国からなんでも提供してくれる、というような姿になることが大切だと思うのです。もし日本がそのように各国から尊敬されるような国となることができないとしたら、国内資源の乏しい日本としては、相当貧困な、みじめな生活をしなければならなくなるのではないでしょうか。
 エネルギー資源の確保ということについては、このように、世界の資源がわが資源となること、そのためにはわが資源たらしめるものを日本がもつようにすること、これが最も大事なことではないかと考えています。
7  公共事業と住民運動
 松下 今日、さまざまな公共施設の工事がいわゆる住民運動によって、いちじるしく阻害され、完成が遅延している姿がみられます。もちろん、住民の福祉、心情というものは十分に尊重されねばならないでしょうが、こうした公共事業の遅延が、国民活動の能率を低下させ、物価騰貴に結びついている面も無視できないと思います。いったい政府はこういう事態にどう対処していくべきだとお考えでしょうか。
 池田 たしかに住民運動が、国民全体の利益や福祉を遅らせている例もあるでしょう。かといって、国民全体の利益のために、一部の住民を犠牲にすることがあってはなりません。まして、国民全体という名目のもとに、最大の受益者は大企業や一部の特権者であるというような場合は、厳しく糾弾されてしかるべきでしょう。
 したがって、私は、政府が国民の多数の利益のために行なう事業であるならば、政府自体、国民多数の意思の支持によって成り、事を行なう存在であるはずですから、その事業の意図、および、それによってもたらされる効果、利益について、広く国民に知らせ、賛同を得るべきだと思います。
 また、その事業によって、損害や被害をうける人が出るとすれば、その人びとに対して、いかなる補償をすべきかについても、明確に示し、やはり賛同を得るべきです。
 そのようにして、国民多数の意思の代弁者という立場と筋を通すならば、住民も納得せざるをえないでしょうし、いわゆる住民エゴといったものは押し通せなくなるはずです。
 過去においては、あるすぐれた政治家が、その先見の明から、住民の反対を押しきって事業を強行し、それが後になっりました。しかし、て感謝されているという例もあそれは結果的にはよかったとしても、一歩間違えると「知らしむべからず、由らしむべし」という、封建時代の政治感覚の一変形になってしまいます。
 民主主義社会の原理は、政治家は、民衆の意思を受けて、これを代行するというところにあります。この点をあくまで踏まえていくことが、いっさいの前提であり、したがって、政治家は、みずからのいだく政治プランについて、国民の裁可を受けるべきです。そうすれば、選挙なども、組織とカネの力や、たんなる知名度によって争われる、いい加減なものでなく、政策論争を中心とする、真剣で意識の高いものになるはずです。
 もちろん、だからといって、国民多数が支持し、あるいは熱望することであるなら、どんなことでも通されてよいというのではありません。冒頭に申し上げたように、たとえ少数者であっても、犠牲にされてはなりません。損失を受ける人に対しては、国民全体の意思によって、十分な補償手段が講じられるべきです。
8  私権と公共性の対立
 松下 道路とか空港、その他の公共施設の建設にあたっては、関係住民の人がいろいろ迷惑や犠牲をこうむる場合があります。そのため、そこに反対運動が起こり、それでいつまでたっても施設が完成しないという姿が最近多くみられるようです。こうした姿では、その施設もその建設に使われた費用も生きてこず、大きなムダが生じて、それが物価騰貴の原因にもなりますから、国民全体の福祉という点からも速やかな解決が望まれます。
 もちろん、迷惑や犠牲をうける人びとが反対するのは一面もっともであり、したがって、適切妥当な補償が当然なされなくてはならないでしょう。しかし、十分な補償をしても、まだいけないという場合、どうしたら速やかな解決ができるでしょうか。政府、自治体なり公団なりと住民とが適正な一致点を見いだしていくには双方にどのような心構えが必要でしょうか。
 あるいは政党が間に入って斡旋するということも考えられますが、こうした紛争を一刻も早く解決していくためには、どうしたらいいのかということについて、ご高見を賜わらば幸いです。
 池田 この問題は、私権と公共性との対立から生じるものですが、民主主義の原則は私権を最大限擁護するところにポイントがおかれています。
 もちろん一部の人びとの私権が大多数の利益を損なうようなものならば、これは公共の名において制限を加えることも必要なことはいうまでもないでしよう。
 しかし、ここで取り上げられた公共施設の建設というのは、いったいなぜ反対運動のために長引き、あるいは中断せざるをえないか、という背景を考えなければなりません。それはご質問に「関係住民の人がいろいろ迷惑や犠牲をこうむる場合がある」とのべておられるように、建設に着手するまえに、十分に″関係住民″の納得をとりつけていないところから起こる場合が多いようです。
 したがって、ここではっきりしていることは、私権のエゴイステイックな暴走が公共性を損なっているというのではなくて、公共性に名を借りた強弗な政府あるいは自治体、公団の行為が私権を脅かしているところから問題が生じている場合が多いということです。
 さて、こういう場合について、この問題を考えるならば、関係住民の反対運動にあって工事が続行不可能になった、その結果、それに費やされてきたいっさいの費用が無価値なものとなってしまったというような、国民の税のいちじるしい無駄づかいの原因は、それを執行しようとした側に帰せらるべきものであります。
 ともあれ、こうした場合に起きる紛争をいかに解決するかということですが、根本的には両者が十分に話し合っていくことにつきます。なお、そのときに公共の側にたつ執行者は住民の意思をよく汲みとることが大事でしょう。住民が生活者の論理にたっているのに、執行者が金権主義、資本の論理にたって自己の主張だけを押し通しては、ミゾは深まるだけでしょう。執行者が住民の心理をよく理解していくことが大切であると思います。
9  住民運動をどうみるか
 池田 日本人は、市民意識が未発達でみずからの生命を守り、生活を防衛し、社会を変革していくという″市民運動″″住民運動″が発生しにくく、また、なかなか定着、持続しにくい状況です。しかし、そうした弱さが企業エゴなどを許し、公害などの惨事をみずからに招いた一つの原因であるといわれています。
 自身の権利を守るためには、ときには市民・住民が連帯して事にあたる積極的な姿勢が必要でしょうし、また、それが民主主義の精神でもあると思いますが、いかがでしょうか。あわせて、現在までの各種の住民運動をどう評価されますか。また今後あるべき住民運動の方向について、ご所見をうかがいたいと思います。
 松下 住民運動というようなものは、戦前の日本にはなかったように思います。当時はもっぱら政府が、あるていど住民の環境などを考えて保護していたのでしょう。しかし、戦後、民主主義になってからは、政府ももちろん、そういった環境保護などに努力するとともに、住民もみずからの発想によって自由に運動することができるようになりました。それで戦後は、しだいにそういう運動が起こってきて、最近は相当活発になってきました。
 たとえば、一つの企業が公害を出しても、政府、監督官庁がそのことに気がつくまえに、住民がそれをいいだすという場合も多いようです。そのように、今日では住民運動は相当に盛り上がりつつあり、それによって公害の防除や環境の保全などが迅速、効果的に行なわれるなど、一面好ましいかたちに成長しているのではないかと思われます。
 ただ、こうした住民運動は、それ自体は好ましいとしても、行き過ぎるようなことになると、そこに弊害も起こってきます。住民全体の福祉向上のために必要な施設が、一部の人たちの運動によっていつまでもできないというのでは、かえってマイナスです。ですから、やはり、行き過ぎることのないよう、一方で良識を涵養することが必要だと思います。
 先哲の言葉に「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」とありますが、どんなにいいことでも、それが過ぎれば弊害を生むのが世の常ではないかと思います。先生は、かねてから中道ということを唱えておられますが、これはまことに大切だと私も感じております。
 ですから、住民運動も、行き過ぎることのないよう、中道の精神にたって展開されることがきわめて望ましいと考えます。
10  労働組合運営の基本理念
 松下 今日、労働組合の在り方というものは、国家経営の盛衰に非常に大きな影響をおよぼすようになってきています。それだけに、組合運営の基本理念をどこにおくべきか、すなわち、いかなる考え方に立って労働組合を運営しなければならないかということは、国家・国民にとっての重要関心事でなければならないと思います。この基本理念についてのご高見を賜わらば幸いです。
 池田 労働組合は、本来、働く人びとの生活権を保護することを目的に生まれたものと思います。この生活権の保護ということから、さらに進んで労働者の利得の追求が目的になり、そのための手段としての運動が一般社会に迷惑をかけるような事態がしばしば生じていることは、私も残念なことだと思います。
 その意味で国民一般が組合運動に対して関心をもつようになってきていることは事実ですが、だからといって、労働組合の存在や、本来の目的、理念というものに対して、それを改めなければならないという必然性はなんらないと考えます。むしろ、私は、この組合の本来の精神に立ち返り、そこから、手段としての運動の在り方を再検討することこそ、この問題の中心課題ではないかと思います。
 労働組合には、「基本の理念」として人間尊重の思想が根底となっていることは、組合存立の目的からして疑問の余地はありません。組合運動も当然、その視点に立脚してなされるべきでありましょう。では具体的に、人間尊重の思想が根底をなすというのはどういうことなのかという問題になりますが、それは組合運動のなかに人間の血を通わせるということです。
 あらゆる集団的運動というものは長期化し、恒常化すると、それ自体のメカニズムによって自己運動するという面があります。労働組合の場合も例外ではありません。そして、この集団・組織の自己運動が、手段の目的化、目的の手段化のサイクルにはまりこみ、人間組織を非人間化する主たる要因となっています。
 現在の労働組合の指導層間の意見の対立、また労使間の激しい対立の姿のなかに、多かれ少なかれ、こうした自己運動化という非人間的な論理に引きずられている面が指摘できるのではないでしょうか。
 ともあれ、今日、労働組合は、社会的、政治的に強大な影響力をもってきておりますので、とくに指導層にお願いしたいことは、組織内部の団結を図りながらも、内外に人間尊重の思想を実践していっていただきたいことを、心から願ってやみません。
11  労使関係の在り方
 松下 今日、労使関係の在り方というものは、国家活動なり国民生活のうえに非常に大きな影響をおよぼすようになってきています。けれども、これまでの歩みなり、今日の現状をみますと、必ずしも円満な協調のうちに推移しているとはいえず、ときにその関係が非常に悪化するという姿もみられます。
 そうした姿を避け、両者が協調していくためには、経済的な問題だけでなく、それに加える基本の理念が必要ではないかと思うのですが、それはどういうところに求めたらいいとお考えでしょうか。
 池田 これは、ご自身としても苦慮されてきた点であろうと思いますし、私がお答えするのはむしろ僣越かと存じますが、私の思っているままをのべさせていただきます。
 一般に景気が上昇しているときには労使の関係は順調にいくといえます。需給のメカニズムがうまくバランスし、生産されたものがストックされることなく、市場に広く出回って売買される、この商品回転のスピードが速ければ速いほど、景気がよいとされるわけですが、これは経済が成長の過程つまり生活物資が不足しているときにあてはまる原理で、現在の日本のように、物資がだぶついている国では(正確には偏在しているという表現になりますが)該当しないものです。
 今日、日本経済は、″成長″を目指すよりも、いかに配分するかという″調整″の段階に入っていますので、旧来の労使間にあった共通利害の図式「企業が成長することによって労働者の生活はささえられていく」というものでは説明されなくなっています。
 労使間の協調のために、ご指摘のように「経済的な問題だけでなく、それに加える基本の理念」が求められるゆえんもここにあるのではないかと思います。
 さて、ではその「基本の理念」とはいったい何かということですが、私は経済的な専門知識はあいにく持ち合わせておりませんので、いささか見当違いの答えになるかもしれませんが、一人の庶民の意見として申し上げるならば、資本家も労働者も、それぞれ資本家であるまえに人間であること、労働者であるまえに人間であることを自覚しなければならないということです。人間であるということは、利己的であるとともに、他をいつくしむ心をもった存在であるということです。そして人間は闘争的になるとき利己心がむきだしになり、相互信頼に結ばれるとき、利己心は抑制されて人間関係は円滑になるものです。
 労働組合は労働者の地位向上、生活権の確保を目的として発足したもので、もともと弱者の救済が基本理念にあったし、今日もそれは変わらないと思います。
 ところが、毎年繰り返される春闘をみていますと、弱者切り捨てといった感が素直な感情としてぬぐえません。加えて、政府の調停のまずさ、経営者の無力を痛感するしだいです。そして、とくに私が憂慮するのは、そういうテクニカルな問題もさることながら、労使間は相互不信のぬきさしならない壁に直面してしまっているということです。
 労働運動について申し上げれば、現体制のもとでは労働者の権利は保障されない、したがって社会主義体制、あるいは共産主義体制に夢を託す以外ない、という発想が運動の原点をささえるようになると、運動そのものがいたずらに先鋭化し、真の労働者保護から遠ざかってしまう危険があるので、賢明に推進されなければならないでしょう。
 また資本家は、労働者と対立的に向き合った姿勢ではなくて、企業経営の責任と同時に労働者の生活水準を維持することに心を砕く責務があります。したがって、労働者の生活状態や意見に絶えず耳を傾け、日ごろから腹蔵ない対話を積み重ねて、労働者の生活向上のために改善を惜しまない姿勢が必要と思います。
 このように、労働者も、資本家も、等しく人間であるという自覚を基盤に、企業経営のなかに人間性の息吹が通い合った労使関係というものが回復されてこなければならないと思います。
12  企業の内部告発をどう思うか
 池田 最近、企業のさまざまな不正の実態が明らかにされていますが、それには、外からの調査だけでなく、企業内部からの″告発″が不正追及の有力な証拠を提供している場合が少なくないようです。企業が、いわゆる″社会的責任″をまっとうしていくうえにも、こうした″正義のため″の企業内からの告発が許されるべきだと考えますが、いかがでしょうか。
 経営者の立場から、また、一社員としての立場から、また、一個の庶民としての立場から、この問題をどう考えていけばよいと思われますか。
 松下 結論から申しますと、企業の内部告発ということは当然許されていい、また許されるべきだと考えます。それと同時に、企業は内部から告発されることのないように、常にその社会的責任というものを正しく自覚し、誠心誠意それを果たしていくよう努めることが大切だと思います。
 企業の活動のうえで、社会に迷惑をおよぼすような、なんらかの好ましからざる事態が生じて、従業員がそれに気づいた場合、まず第一には、企業のなかでそれに注意を喚起し、その解消に努めるということが大切でしょう。そのためには企業としてもつね日ごろからいわゆる意思の疎通を図り、下意上達が行なわれやすいような空気をつくっておくことが肝要だと思います。そうすれば、そういう問題は迅速に解決され、社会に迷惑がおよぶこともなくなると思うのです。
 しかし、せっかく従業員が問題に気がついて社内で注意しても、それが受け入れられず、ほうっておけば社会に損害を与えることになるといった場合、これを外部に告発することは、許されていいと思います。それは社会共同の利益になることであり、大きな観点からみれば、企業にとってもプラスとなるでしょう。
 ただ、告発すること自体が好きだからとか、なんらかの意図をもって告発するということでは困ります。あくまで、社会と企業の共同の利益という観点から善意にもとづいてなされるものでなくてはならないと思います。
13  対立と調和
 松下 日本においては、たとえば労使間でも、各政党間でも、お互いに激しく対立し、日角泡を飛ばして激論をたたかわせている姿がよくみられます。そしてその対立があくまでも平行線で歩み寄りがなく、なかなか双方が調和一致するにいたらないのが現実の姿ではないでしょうか。
 けれども、対立しつつも調和し、調和のもとに対立するということが、国民にとってきわめて重要だと思われますがいかがでしょうか。また、そのためにはどういうことが大切なのでしょうか。
 池田 民主主義のもとにあって、意見の対立があるというのは当然といえばそれまでですが、問題は、それが″対立のための対立″に堕して不毛な議論の繰り返しになってしまっている、その現状を憂えておられるものと思います。
 なぜ政党も労使もこのような不毛の迷路に迷い込んでしまうのでしょうか。これは私がお答えするというよりも現場で苦労を重ねてこられた貴方にお聞きしたい問題ですが、一庶民の素直な感想をのべますならば、まず労使関係についていえば労働組合は労働者の利益代表ですから、賃金上昇や労働条件の改善を求めて資本家と対します。資本家はできるだけ安価なコストで人件費や諸設備の費用を切り上げたいという意思がありますので、当然、労使間には鋭い対立が生まれます。ここまでは一定のパターンをたどるわけです。
 ところが、両者が対峙しているうちによくある例は、相互不信に陥ってしまうということです。労働者代表はその背後に多数の労働者の生活を控えていますので、簡単に要求よりも低い回答をのみこむわけにはいかない。また資本家は、企業の経営実態を知らないであのような要求をするのはけしからん、というふうに対立がドロ沼の様相を呈してきます。これがまず迷路への第一歩です。
 会談の場に臨むまえにすでに双方に不信の根は存在している。それが議事進行の不手際とあわさって出国のない迷路に迷い込んでしまっているのが実情のように思われます。
 そして、両者が妥協へとなだれこむのは、これ以上長く争議をつづけることは相互にとってみずからの生活の基盤まで危うくなる、という切迫した事情による場合が多いように見受けられます。
 これは私のような平凡な常識人の目には妥結の仕方としては、まずい方法と映るのです。双方が対立の材料をもって会談の場に臨むのは、相互不信を幾分かでも少なくするためであって、そのためにさらに不信を深めるようになってしまうというのでは、かえって反価値です。
 そこで、私の意見ですが、西独で試みとして行なわれた労使関係の新しい動きが、労使の調和を考えるうえで一つの参考になるのではないか、とつね日ごろ思っております。それは、企業の経営方針の決定などについて労働者の代表に参加を呼びかける行き方です。それを通じて企業経営の実情などを日ごろから労働者に広く知らせていくことができるし、また、経営方針という重要な問題をとおして経営者と労働者が日常的な接触ができます。これを採用した西独企業の労使関係は比較的スムーズであると聞いています。
 さて、こうした例をとおして考えられることは、労使や政党間だけでなく、対立の気分は世の中に無数にあります。そして対立が決定的な亀裂とならない歯止めは、対立する相手の側にあるのではなく、むしろ自分のほうに存在するということです。
 さきほど、例にとった労使間には利害関係という要素が絡んできますが、利害を離れた個々の人間同士の対立などは、双方がお互いの立場をよく理解しあうということによって回復されるものです。そして、よく理解しあうためには、各人が閉ざされた精神から、開かれた精神へと一念の転換を図っていくことが重要になってきます。
 それは開かれた精神は調和を基本とするのに対して、閉ざされた精神は対立をその根底とするからです。
14  人手は不足しているか
 松下 昨今のわが国においては、いわゆる人手不足という問題が各方面に起こっており、それが社会の諸活動の能率を妨げているきらいもあるようです。この人手不足は、たしかに一つの現実の姿でしょうが、日本全体としてみて、ほんとうに人手は不足しているのでしょうか。たとえば、いろいろな面で、ムダとも思われること、あるいは国情などから考えて、今する必要のない、させる必要のないことをしているなど、人手をムダづかいしているといった面はないのでしょうか。ご高見を賜わらば幸いです。
 池田 今日の日本の社会を冷静に眺めるとき、およそ生産とは関係のない消費欲のみをかりたてる分野、また華々しい名声を追う分野に社会全体の比重がおかれすぎているような感じがします。
 それに対して、地道で着実な人間らしい生活をささえ人間の文化の向上に尽くそうとする人びとにとって、日本の現状はあまりにも厳しい状態を示しています。生存の最も大事な基盤をささえる農業や漁業、基礎的な研究に打ち込む学問の場、真実の芸術に生きようとする精神発現の場、良心的な生産にたずさわる中・小の企業、名もない人びとの生命を守る辺地の教育や医療の場所などが、人材不足であるばかりでなく、人手そのものの不足をまねき、存続の危機にひんしているところも少なくはありません。
 だが、社会全体の活動の円滑な運営を妨げているのは、人手不足のところだけではないようです。むしろ、政財界などの、利権がうずまく個所に群がる人びとこそ、社会活動を妨害する最たるものでしょう。自己のエゴのために、果てしない権力闘争にあけくれる人たち――その数のなんと多いことでしょうか。
 有為の青年たちのなかにも、青春の純粋な生命を、いつのまにか、権力、財力、虚栄のあやしげな魅力に売り渡す人が絶えないようです。青年の未来を、社会のために生かすのではなく、はかない欲望のために浪費させるほどのムダがどこにあるでしょうか。もし、こうした数多くの青年たちを、人間らしい正しい生き方に目覚めさせることができたならば、人手不足のみならず、人材の枯渇も解決の方向へと向かうのではないかと考えます。
 ご質問では、解決法の一つとして、国情から考えての、必要、不必要の分野を色分けされようとしていますが、私は、むしろ、現在の日本では国情を至上命令としてきたがゆえに、現状の「ひずみ」を生んだと主張したいのです。政治家たちの、国情に対する誤った判断から、その犠牲になったのは、青年であり、庶民なのです。
 戦後の日本では、経済至上、物質文明偏重に走り、自然の営みと精神文明を圧迫しつづけた結果が、大企業の傲慢を許し、巨大な利権の横行する悪の温床を築き上げたのだといえましょう。それは、まさに、国情に忠実であったがゆえの現代社会の悲劇です。
 大企業優先の国家政策を後ろ盾にした企業の強引な進出に漁場を奪われた人びと、政治家のエゴのために、農地を追われた青年、産業に利用できるかどうかが明確でないとの理由だけで、地道な研究のための費用をけずられた青年学究、あまりの薄給に、その情熱をも断ち切らざるをえなかった辺地志望の青年教師等々――これらはすべて、経済大国へと盲目的に突き進んだ″国情″という名の怪物のなせるものであったと考えます。
 だからといって、国家の全体観を無視してよいといっているのではありません。国家、民族の行く手を明瞭に認識し、いかなる社会を目指すべきかという賢明な考察は、当然必要です。しかし、いかなる時代にあっても、庶民の人間らしい生活を守り弱者を犠牲にしないという基本的な鉄則だけは踏まえていかなければならないと思うのです。そうであるならば、人材配置の根本的基準は、あくまで、個としての人間生命の幸福におかれるべきでしょう。
 庶民の人間らしい生活を保障し、確保するという基準にたてば、物質的条件と同様、あるいはそれ以上に、精神的条件を重視しなければなりません。また、自然を傷つける行為に歯止めをかけることも大切な案件です。現在の日本の状態にあてはめれば、私が列挙したような、窮地に追いつめられている場にこそ、十分な費用と援助の手をさしのべるべきでしょう。そのような場に生きがいを発見しようとする人たちの生活をこそ、まず、なにをおいても保障しなければならないでしょう。
 また、それと同時に、悪の温床ともいうべき政治、経済、国家にまつわるエゴを打ち破るための精神的基盤を、指導者たちは、真剣に探し求めるべきではないでしょうか。権力、財力等に巣くった″甘い汁″がなくなれば、有為の青年の、それぞれの個性に応じた未来が開かれるはずです。そして、人びとは、金銭や権力の奴隷になることもなく、真実の生きがいある生活へと帰っていくでしょう。
 人材不足解決の抜本策であり、しかも、第一歩の道は、権力、財力をもった人たちが、真の人間らしい行動を求めて、自己自身を変革することにあると、私は訴えておきたいのです。
15  労働の意義、勤勉の価値
 松下 昔は、労働の神聖ということをよく耳にしましたが、最近はそういうことがあまりいわれず、どちらかといえば労働を軽視し、レジャーや趣味などに高い価値をおく風潮がみられます。また、日本人は働きすぎだという批判もあって、勤勉ということの価値にも疑問がもたれているようです。しかし、はたして労働とか勤勉ということは価値うすいものなのでしょうか。また、そういう考え方がほんとうに人間の幸せに結びつくのでしょうか。労働の意義、勤勉の価値というものについてどうお考えでしょうか。
 池田 人間の最も美しい姿の一つは、真剣に仕事に打ち込んでいるときだと、私は思っています。
 ビクトル・ユゴーは「労働は生命なり、思想なり、光明なり」といっております。仕事をすること、労働することが、人間の本性にかかわる大事であるとの謂でありましょう。
 常識的に考えてみても、人類が今日まで、営々と築き上げてきた文化というものの原動力となったのは、″労働の力″にほかなりません。
 人間が生きつづけるために、また、さらに文化を発展向上させていくためにも人間から″労働″という価値をなくすことは、できないと思います。
 現在、物資が豊かになり、生活にゆとりが出てきたとはいえ、その豊かさをささえているものは労働にほかならないし、労働を嫌いレジャーや趣味だけに生きがいを求めようとしても、本質的にはそうできないのが人間の″本性″ではないでしょうか。
 そうした意味では、誰しも労働のなかに、生きがいを求めているのだといえます。しかし、多くの人が、労働の意欲を失い、仕事に生きがいをなくしつつあることも事実です。だが、それは、労働、勤勉の価値を見失っているという個人の側の問題より、むしろ、そうした価値を喪失させている、社会機構の労働システムそのものに問題があるといえましょう。
 管理化社会、オートメーションの機械化工場のなかで、人間の労働が画一化され、個人の創造的な豊かさを生みだす余地がきわめて縮小され、ひいては労働者を部品化におとしいれていることが問題です。それが、人間から労働の喜び、働きがいを喪失させている最大の要因でありましょう。
 そこからレジャーとか、マイホームといった仕事以外の生活の場面に、生きがいを求める傾向が生まれてきているのだといえます。したがって、労働そのもののなかに個人の創造性を生みだし、高め、生かしていくような″人間的な労働システム″が追究され実現化されねばならないと思います。
 次に、労働と余暇という問題について、一言触れておきたいと思います。人間が、生きることの意義、人生における労働の意味や位置づけを忘れ、ただ″モーレツ″に労働することだけが、人間の生きがいであるという姿も、また真に人間的なものとはいえないでしょう。むろん、人生の一時期には、なにもかも忘れて仕事いちずに打ち込むというときもあるでしょうし、また必要でもありましょう。
 しかし、概していえば、そうしたなかにも、人間らしい″ゆとり″と″憩い″が不可欠です。そこに遊びも、趣味も、休息も、生きがいに欠かせない要素として取り入れていく意味があるといえます。極端に、労働に走りすぎたり、またレジャー等に行き過ぎたりするのは、人間精神のアンバランスのあらわれといえましょう。
 ことに昔から″労働″とか″勤勉″は日本民族の一つのよき特性としてあげられているわけですが、近代産業の巨大なメカニズムのなかにとりこまれ、非人間的なかたちで推し進められてきたところに、いわゆる″エコノミック・アニマル″と、呼ばれなければならないような状態を生みだし、公害などの社会矛盾を噴出させたことも否定できません。
 要は、国家的な規模であれ、一個の人間次元であれ、全体的な調和と統一を目指す潤いある人間性に生きることが、正しいのではないかと思っております。
16  完全一雇用と労働意識
 松下 日本は今日、完全雇用を達成したといえます。それはそれなりに意義もあり、輝かしい成果ともいえます。しかし、その完全雇用を達成したために労働流動性が失われ、国民の間に働くことを尊ぶ意識が薄れている面もあるように思われます。
 完全雇用は、はたして国民にとってよかったのかと疑問に思うむきもあるようですが、今日のわが国のこうした完全雇用の現状についてご高見を賜わらば幸いです。
 池田 完全雇用は資本主義社会においては、理想とすべき一つの目標であり、失業のために路頭に迷う人がいないということは、なによりも喜ばしいことです。
 したがって、コ死全雇用は、はたして国民にとってよかったのかと疑問に思うむきがある」とのご指摘は、私には納得できかねます。あえていえば、完全一雇用といわれているものの内容が、はたして国民にとって満足のいくものであるのか、つまり内容的に検討され、改められるべきではないかという意味であれば、まさしくそのとおりでしょう。
 しかし、ご質問において前提とされている「完全雇用を達成したために労働流動性が失われ、国民の間に働くことを尊ぶ意識が薄れている」ということ、そしてその意味で、完全雇用はよかったのかという問いかけは、やや見当違いではないでしょうか。
 この場合、強いて「よかったのか」という問いが生じるとすれば、それは「国民にとって」ではなく、「資本家、経営者にとって」ではないかと思えてならないのです。
 それはともかく、完全雇用の達成ということが、労働流動性が失われるということに結びつくようにいわれていますが、はたしてそうでしょうか。そもそも、労働流動性とは、何のために大事なのでしょうか。
 雇用者側にとってみれば、労働者が気にいらない思想をもっていたり、使用者の方針に従わなかった場合、補充要員を心配しないで解雇できるために、流動性が必要だということのようです。しかし、私は、それは雇用者側のエゴにすぎないと考えます。
 労働流動性がもし必要であるというなら、それは労働者が、自分の能力に適した働き口を自由に求められるという意味においてでありましょう。その意味でならば、完全雇用が達せられているほうが、流動性が高いといえます。なぜなら、労働者は、失業による苦しみを心配しないで、自分に適した仕事を探せるからです。
 そして、もし、労働者が自分に適した仕事を見いだして、喜びをもって働けるようになれば、国全体の生産も、はるかに向上するであろうと思うのです。
 わが国の場合、労働流動性の喪失が問題になるとすれば、それは、完全雇用との関連ではなく、終身一雇用制との関連で考えられなければならないのではないかと考えます。
 次に、国民の間に働くことを尊ぶ意識が薄れている面があり、これも完全雇用の達成に原因があるとされている点ですが、この点についても、私は賛同しかねます。
 たしかに、失業の危険が高まった状態にあっては、労働者は失業を恐れて仕事をするでしょう。しかし、それは望雇される口実をつくらないという、消極的な″勤勉″にすぎません。私はそのような″勤勉″は、「働くことを尊ぶ意識」といえるものでは毛頭ないし、そのような″勤勉″の成果は、企業にとっても、けっして満足できる貢献はしないであろうと思います。
 ほんとうに労働者が、自分の情熱を仕事にかけるという意味の「働くことを尊ぶ意識」を向上させたいと願うなら、労働者がみずからの願望に適った仕事につけるようにすることです。
 すなわち、失業の恐れによって後押しされた″勤勉″でなく、積極的な労働意欲からくる″勤勉″こそ、質的にもはるかに高い成果をもたらし、ひいては、それが企業の力を高めるのではないでしょうか。
17  株式の大衆化
 松下 今日のわが国においては、企業の株式を少数の資本家がもっているという姿よりも、広く大衆が株式をもって株主となっているといった姿が強まっています。こういった、いわゆる株式の大衆化ということは、今後さらに進めていくことが大切だとお考えでしょうか。それとも、その必要はないとお考えでしょうか。
 池田 公害企業の反対運動の一つのやり方として″一株運動″というのが行なわれました。これは企業の発行株数からいうと、まさに塵のごときものではありますが、企業の悪を内部から突き崩そうとする庶民の怨念が生みだした実践的知恵といえます。
 企業の株式を大衆がもつということは、私は企業エゴを追放するのに有効であるという意味において賛成です。私の親友の社会学者は、「大衆というのは、ふだんは保守的だが、自分の既得権益が奪われるというときには猛然と反撃に出る」という意味のことを以前、話しておりました。私は正しい理念を身につけた大衆の判断には、大筋において誤りはないと思います。何が正しい理念かは後述するとして、そのとき私は親友の言葉には真理を穿った一面がある、否、まさしくそれが革命の歴史の中核であると思いました。
 株式が一部の資本家の手に握られているときには、経営が閉鎖的になり密室性を帯びることは不可避です。それがまた諸悪の根源となることも避けられないでありましょう。株式が大衆化するということは、企業が経営においても公共性をもつということに通じます。
 そして、さきほどの親友の言葉を借りれば、大衆が株式をもった場合、企業がもし反社会的(反大衆的)な行動に出たときには、みずからの既得権益防衛をバネとして、内部からその非を撃つことも可能となります。
 たとえば昨今の大商社の″濡れ手で粟″式の暴利商法、庶民の目をくらませながら価格をつりあげる一連の手口というものも、今まで泣き寝入りを余儀なくされていた大衆が株式をもつことによって、主体者の側にたって企業の内部から弾劾していくこともできるわけです。もちろん、逆に株主となった大衆が企業エゴに吸収されてしまうおそれも皆無とはいえません。株式が大衆化するということは、公共性、社会性をより多くもつとともに企業の責任が分散されるという一面も出てきます。つまり経営者が″責任分散″のぬるま湯のなかで大衆株主をうまく抱え込むことに走ってしまうと、これはかえって大衆ぐるみの反社会的存在となってしまいます。
 さて私は、さきに正しい理念を身につけた大衆ということをのべました。この正しい理念とはみずからをも含め、企業にせよ政治家のそれにせよ、あらゆるエゴの本質を見抜く力ということです。暴利商法で得た企業の利益の配当を一時的に多くとっても、その反動として悪性インフレが誘発されたならば、結局、大衆の生活は苦しくなることになります。そのことを大衆株主は見抜いていかねばなりません。
 人間らしい意識に目覚めた大衆が企業の暴走の歯止めとなり、企業エゴを追放する担い手となるならば、株式の大衆化は、企業の公共性を自覚させ、ほす有力な方法と思います。
18  公害企業の在り方
 池田 水俣病の歴史は、日本資本主義の生みだした公害企業による最大の罪悪の一つであり、同時に、庶民犠牲の受難史を鮮明にえがきだしています。私は、もし、水俣病発生が浮かびあがり、その企業に疑惑がもたれるにいたった時点で、企業の良識ある対応がなされていたならば、あれほどの悲惨事を引きおこすことはなかったであろうと考えています。仮定の問題になりますが、少なくとも、一九六〇年までに、なんらかの形で、その企業経営にたずさわる機会を得る立場であったとすれば、いかなる対応をされたでしょうか。具体的方策について、真実の企業の在り方をお示しいただければ幸いです。
 松下 公害というものは、経済活動が盛んになれば、その反動としてあるていどは生じてくるものであって、それは資本主義でも社会主義でも同じだと思います。また、公害に対処する心なき企業の在り方というものも、いかなる経済体制でも同様だと思うのです。
 社会主義諸国の実情については、十分な報道が得られませんが、断片的に伝え聞くところによりますと、産業の進んだ国においては、ある面では資本主義の国以上に公害が発生しているともいわれています。社会主義国では、強大な国家権力のもとでの、いわば国家独占資本による企業活動ですから、そういうことも十分ありうるように思われます。
 そういうことを前提として、私がかりに公害企業の経営者であったとしたら、どのように対処したかということです。詳細な状況については、私は知りませんので、具体的なことは申し上げられませんが、基本的な考えを申し上げますと、まずそういう事態が発生し、調べてみて、それが重大な問題だということがわかれば、それに対してどのような処置をとったらいいかをすぐ研究します。そして研究の結果、適切な方策があれば、それをただちに具体的に実現しますが、もし、当面そういう方策がないという場合には、一時操業を中止するとか、工場を閉鎖するといったことを考えるでしょう。
 こうしたことは、なにも公害の場合に限ったことではありません。たとえば、万一、不良品が発生して、消費者やお得意先に迷惑がかかるおそれがあるというようなときには、いっぺん工場をとめてでも、良品ができるまで待たなくてはいけないということを、私どもはつね日ごろから考えています。
 いってみれば、それが世の多くの経営者の日常の心構えであって、そういうものがなくては、自由な競争が行なわれている資本主義経済のもとで、企業がほんとうに世間の支持を得て、長きにわたって発展していくことはできないと思います。
 ですから、水俣病はまことに不幸な出来事ではありますが、それをもって、資本主義経済における、企業の本来の姿だとみることは、当を得ていないのではないでしょうか。
 いずれにしても、企業はそういった事態に対しては、迷うことなく、断固、迅速、適切な措置をとらなくてはなりませんし、また政府なり自治体にもそのことが望まれると思います。
19  公害防除の費用の分担
 松下 公害の防除ということは、お互い国民の生命と健康を守るという点からも、美しい自然の景観を保つという点からも、きわめて大切なことだと思います。が、一方では、そのために非常な費用がかかることも事実だと思います。
 公害の防除と費用との調和、また、その費用の負担の適正な配分というものをどのようにしたらいいとお考えでしょうか。
 池田 ご質問にお答えするにあたって、私は、一つの実例を思い出しています。
 多分、大正の初期だったと記憶していますが、ある銅の精錬所で、できうるかぎり、周囲の自然と地域の人びとの健康を害さないようにとの配慮がなされました。むろん、当時の技術からすれば、精錬による有毒物質を完全に排除することは望みえなかったと思われます。そこで、苦慮を重ねた末、当時としては、まことに巨大な煙突を建設しました。それも、経営者自身の陣頭指揮で、その会社の全力をあげて取り組んだと聞いています。
 この方式自体が、現在において通用するとは考えませんが、私は、こうした良心的努力のなかに企業者の真実の在り方をかいまみる思いを禁じえません。
 また、これは、西ドイツでの話ですが、ある企業が、経営方針上で、今までの地域を立ち去らねばならないことになりました。そのとき、立地場所、並びに、その周辺における緑の回復を図るべく、草木の苗を植え、木を植え込んで、工場がつくられる以前と同じような豊かな大地にしようとの必死の努力をしたという実例を耳にしました。ここにも、企業の在り方の一端が示されていると思われます。
 昔も今も同じでしょうが、いかなる企業といえども、地域社会の人びとの健康と大自然を害しては、存続の根拠さえ失うことになるでしょう。地域の人びとと、この地上に生息する生き物への配慮は、企業自体にとっての社会的責任であるとともに、人間としての当然の義務でもあります。また、企業が存続しうるための絶対条件でもあるのではないかと考えます。その絶対条件を貫くための、企業者の誠意ある行動が、公害への取り組みにおいて最も大切であり、住民との友好を積み上げていく土台でもありましょう。
 私は、経営者の心のなかに、地域の人びとの健康状態と自然界の様相が、絶えず去来してやまないならば、少なくとも、公害の拡大は、最小限におさえうるのではないかと思います。現に、世界中に、その悪名をとどろかせている水俣病の場合も、発生の疑いがもたれた時期に、すばやく対策をたて、あるていどの費用を惜しまなかったならば、あれほどの惨事を招くことはなかったでしょう。その費用は、当時の企業にとって、経営を危うくするほどの負担にはほどとおい少額であったことはいうまでもありません。
 たしかに、利潤を少しでも多く競争に向け、生産に使って、みずからを強化したいという企業者の心理もわからないわけではありません。しかし、企業がその生産物と利潤によって社会になしている貢献度と、人命さえ奪うという悪の罪を比較すれば、この功罪の決算はあまりにも明瞭です。さらに、その結果が、今となっては、企業の存続さえ危ぶまれるような負担を招きよせている事実にも目を向ければ、早期の、誠意ある行動の大切さは、身にしみてわかるのではないかと思われます。
 それでも、企業の性質によっては、公害にかける費用の負担に耐えられない場合もありうるでしょう。そこで、私は、一庶民の立場から、次のような提案をしたいのです。
 現在までの、生産技術の目標は、より経済的で、より便利なもの、そして、効率のあがるものを求めつづけての進歩であったといえましょう。しかし、現在の状態においては、より安全なもの、長持ちし、そして無害なものに重点をしぼるべきではないでしょうか。
 たとえ、便利さ、手軽さ、効率と利潤の多少をさえ犠牲にしても、安全で、無害な生産形態へと移行することが、かえって、地域の人びとと、庶民の心をとらえうると考えます。企業間競争の問題もあるでしょうが、庶民の生命に共感を呼ばない企業は、一時の繁栄を得ても、やがて消滅の運命をまぬかれえないのではないでしょうか。
 自然が破壊され、民族と地球の滅亡さえもが話題にのぼる現在と、そして未来において、地域の人びとと庶民の心をひきつけるものは、もはや一時の便利さではない。瞬時の快楽に酔いしれるための生産物でもない。安全性と持続性と、人体、生物への無害性を絶対目標として苦闘する企業の、人間らしい誠意こそが、庶民の良識に守られて繁栄の道をたどりうると思うのです。
 私は、企業者にとっては厳しいと思われるかもしれませんが、原則として、公害防止の費用は、企業がもつべきであると考えています。
 みずからの責任において、庶民の生命と大自然の脈動をけっして傷つけないとする企業総力をあげての戦いが、技術目標と体系の変革を呼びおこし、真実の企業の在り方をさし示すにいたるでしょう。
 もし、安全性、無害性を貫くために費用を惜しまず、そのための負担から企業の存続が危ぶまれる場合には、地域住民の運動が、政治家を動かし、行政を動かして、その企業を守り抜くはずです。もし、住民や消費者自身がこのような強い自覚をもたなければ、企業だけではなく、この日本という大地は破滅をまぬかれないところまで、追い込まれていくでしょう。
 企業の公害を未然に食いとめる費用の分担は、企業の側から社会に要請すべき性質のものではなく、いかなることがあっても、その企業の存続を守り抜きたいという地域住民と消費者の運動のなかから自発的に出てくる声、善意を待つべきでしょう。企業が真に住民に愛され、名もない庶民が費用の援助を積極的に引き受けてくれるような企業に、あらゆる企業が体質を転換してほしい、それであってこそ真の自由主義的産業社会といえるというのが、私の描いている理想像です。
20  公害の予測技術
 池田 今日、環境汚染が全世界的な規模で広がり、その与える影響は人類の存続にさえもかかわろうとしております。しかも、これからいかなる公害があらわれ、人類を計り知れない恐怖におとしいれるかわかりません。これからのさまざまな技術開発においては、それにともなう公害の発生を十分に予測ナる技術も並行して開発されなければならないと思われますが、このことに関してのお考えをうかがいたいと思います。
 松下 おっしゃるとおりだと思います。
 別のところでも申しましたように、今日における公害というものについては、すでにお互いにその弊害に気づいており、政府も企業も国民も、また世界全体としても、これをなくすべくいろいろな工夫努力を重ねているわけです。ですから、人間がひとたびそういうことに気づき、それを取り上げて努力しいる以上、時日に長短はあっても、今日存在している公害は必ずなくなっていくと考えていいと思います。
 しかし、それだけでいいかというと、けっしてそうではありません。進歩というものには一面で絶えず弊害がともなうものです。したがって、今後、科学技術にしろ、いろいろな社会活動にしろ、急速に進歩していくと考えられますから、それにともなって、やはりいろいろの公害が派生してくることも考えられます。また、そうした科学の進歩によって、今日では有益無害だと考えられている物資の思わぬ毒性が発見されるということもありうると思うのです。
 ですから、今後はそのような新たな公害に対処していくことが、今日すでに存在している公害をなくしていくことと同様に大切になってくるわけです。そしてその場合、たんに新たに起こってきた公害に対処していくというだけでなく、すすんでこれを予知予測し、未然に防止していくことが、より好ましいのはいうまでもありません。病気でも、発生してからそれを治療するよりも、病気が起こらないよう予防することが大切なのと同じことだと思います。ですから、ご質問にあるように、これからさまざまの技術開発をするについては、それにともなう公害の発生を十分に予測する技術も並行して開発されることが必要でしょう。そういうことに真剣に取り組まなくてはならないと思います。
 ただ、その場合、私は、公害というものにいたずらな恐怖心はもたないほうがいいと思うのです。公害におびえてしまっては、かえっていい知恵も出ず、その防除が遅れることにもなりかねません。天変地異ならともかく、人為によって生じたことは、それ相当の努力さえすれば、必ず人為によってなくすことができると思います。そのような考えを基本的にもちつつ、冷静に公害の予知、予防に努めていくことが、そのことを効果的に行なっていくうえできわめて大切だと思います。
21  企業秘密の公開
 池田 公害問題の焦点の一つは、企業の秘密主義に阻止されて、その本質解明に支障をきたすところにあります。企業秘密の壁が、大きく立ちはだかって、公害の本源を隠し、被害者の増大をきたし、さらには、死にいたる苦悩におとしいれる場合も少なくはありません。
 私は、少なくとも、人命にかかわる疑惑が生じた場合には、一刻の猶予もなく、関連企業は、すべての企業秘密を公開すべきではないかと考えます。また、そうした行動に、企業の良心が反映されるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
 松下 人命にかかわるような問題が生じたときは、企業はその秘密を公開すべきだということは、おっしゃるとおりです。
 現に日本の企業の大部分はそのようにやっていると思います。なぜかといいますと、そうしたことを放っておけば、損害をこうむるのは被害者だけでなく、企業自身も致命的な打撃を受けるわけです。これは自明の理ですから、多くの企業はそういう心構えをもってやっていると思います。
 もちろん、人間のやることですから、やはり見落としということもありましょうし、それだけ注意に注意を重ねなくてはならないことはいうまでもありません。しかし、まじめに経営する者は、もし公害的なことが起これば、その損害は必ず自分に返ってくることを知っています。だから、会社を守るという点からいっても、ただちに操業を停止するなどの対応策をとるのは当然で、経営者がそれを隠そうとしたりすることは、ある種の錯覚といわざるをえません。そういう錯覚を大きく取り上げて、企業全体がそのような姿にあると考える場合もありますが、私は、そうした解釈はとらないほうがいいと思います。
 そのような錯覚的な考えでは、企業は発展できません。前にも申しましたが、人命にかかわることでなくとも、不良品が出るような場合も、工場をとめて直すということを多くの企業はやっているわけです。そうしなくては、結局、企業自身の信用を落とすことにもなるのです。そういう配慮のできない会社は、必ず行き詰まったり、事故を起こすでしょう。
 そうはいっても、なかなか万全とはいかない場合もありますから、声を大にしてそれを警告するということは、今後ともつづけていくことは大事だと思います。しかし、基本的には、そういう配慮をしていかなければ会社自体がつぶれてしまう危険性があるのであって、だから、だいたいにおいては、公害とか不良品には企業は非常に敏感になっています。
 遠い昔はともかくとして、今日ではそうなっているわけです。
 そして、それは資本主義ほど、そういう傾向が強いと思います。自由でしかも激しい競争のなかでは、誠心誠意そういう配慮をしていかなくては、企業は信用を保ち、発展していくことはできません。
 資本主義は利益を追求するもので、そのゆえに公害を出すのだという考え方もありますが、それはうがちすぎた考えではないでしょうか。なかには、そういう好ましからざる企業もありますが、おおむね真の資本主義であればあるほど、そういうものには敏感なのが自然な姿ではないかと思います。
22  税制・税率の基準
 松下 税金は国家経営の必要経費ですから、国民はこれを納める義務があります。しかし、その税金があまり重かったり不公平であれば、すすんで納める気にもなれず、いきおい脱税などもふえてくると思いますし、逆にあまり軽くといっても当然限度があると思います。
 そこで適正な税制、税率が求められるわけですが、それは何を基準に、どういう考え方のもとに定めていけばよいのでしょうか。この点についてご高見をいただければ幸いです。
 池田 自由主義社会では国家の経費は勤労者、大衆、また法人からの税収入によってまかなわれることが原則になっていますから、税を納めるのは国民に義務づけられた行為といえます。したがって、納税の義務については、国民に異論はないのは当然ですが、問題は、ご指摘のように、現行の税制・税率が公平なものであるかどうかという点にあります。
 私は現行の複雑な税体系を知悉しているわけでなく、むしろ、その方面の知識には疎いほうですから、ご質問の意にかなうような意見をのべることは、残念ながらできないと思いますが、ただ税制度とは本来、こうあるべきものだということについて愚見をのべさせていただきたいと思います。
 まず、税の公平な負担ということですが、この場合、公平ということの基準をどこに定めるかということが明確にされなければなりません。公平というのは関係性のなかから出てくる概念であって相対的なものです。たとえばAとBという二人の人間に、第二のCという人が、A・Bから一万円ずつもらうことになったとします。A・Bが同等の収入、家族構成であれば、Cは、A・Bから公平に一万円ずつもらったということになりましょう。しかしAの収入が三十万円でBの収入が七万円だとすると、Aにとってはそれほど負担にならないでしょうが、Bにとっては大げさにいえば死活問題になります。Cは金額的には公平にAとBから一万円ずつもらったのは事実ですが、Bの生活はそれによって窮迫してしまいますからけっして公平とはいえないわけです。
 ここで私がいいたいのは、公平という関係概念のなかに、いかなる価値観を導入するかということが大切であるということです。AとBからともに同額のおカネを取るというのは、A・Bの生活内容を除外し、あくまでもおカネという非情の物指しを基準にし価値観として導入しているわけです。それに対して、その両者の生活内容をよく配慮したうえでもらう金額を決めるというのは、人間性を基準にし価値観とした行き方であるといえましょう。
 私は、この例を一挙に税制の問題に短絡させるつもりはありませんが、初めにお断わりしたように、人間社会における公平というのは、けっして物理的なバランスだけに中心をおくのでなく、大衆、庶民の生活の総体を把握したうえで行なわれなければならないということをいいたいのです。
 ご承知のように現行の税体系は、戦後、連合軍のシャウプ勧告を骨格としてつくられたものですが、これは、戦後の国家の経済的復興ということに焦点がおかれたもので、大資本、大企業の資本蓄積にはまことに有利な税体系でありました。その後、何回か税制の改革が行なわれてはきましたが、当初の基本は強化されこそすれ大企業擁護の原則は変更していません。私は、庶民の視点にたつとき、現行税制度の不公平は、どうしても大資本、大企業からの取り立ての緩さに対して庶民から徴収する税、大衆課税に対する厳しさという点に疑惑をいだかざるをえないのです。
 一人の人間が一生の間に当面するであろう税の種類はほぼ五十五にのぼるといわれます。このなかには、いくつもの種類が一時に重なってくる場合も多いでしょう。つまり、生きているということは即税金を支払っているということの言い換えといっても過言ではないような実情です。それだけに不公平な税制であれば一生涯苦しまなければならなくなるわけですから、税制改正は一刻も早く手がけなければなりません。そして、そのさいの基準は庶民擁護、大衆擁護におかれるべきであります。
23  企業は諸悪の根源か
 松下 昨年の石油危機にともなって、いわゆる便乗値上げによる不当な利益があったとして、それに対する超過利得税というものが定められました。ところが、その対象となった企業をみてみますと、いろいろ原材料費や人件費が上がって、以前より減益になっているところが大多数なのが実情です。
 もともと、日本の企業は外国に比べて利益が少ないことが指摘されており、たとえばアメリカの十大企業の平均売り上げ利益率が七・三パーセントなのに対し、日本の場合は三・ニパーセントとなっています。また、この二十年をとってみますと、日本では、どこの国よりも物価に比して収入のふえ方が大きいといえます。
 経済の問題で恐縮ですが、そういうことを考えまして、最近、企業は諸悪の根源のようにいわれていますが、そのような考え方でいいとお考えでしょうか。今のように、利益が減少しているのに懲罰的な増税が行なわれていては、産業が困窮していくのではないかと考えるのですが、いかがでしょうか。公平な立場からみた、ご高見を賜わらば幸いです。
 池田 公平な立場からというご要望ですが、私の場合、狂乱物価の影響を深刻に受けとめざるをえない一庶民としての意見ということにならざるをえません。ご指摘のように、石油危機にともなう便乗値上げが次々と明るみに出るにおよんで、企業は諸悪の根源であるとの声が高まってきました。その声のなかに、私は、企業の在り方に対する庶民の怒りを感じとらざるをえないのです。
 むろん、そうした庶民の感情も、あらゆる企業活動そのものが、すべての悪の根源であるなどといった単純な意味ではないでしょう。しかし、少なくとも庶民にしてみれば、これまで信頼をおき、企業者の良心にかけてきた期待が、ものの見事に裏切られたのです。
 石油不足はつくられたものであり、そのうえ、便乗値上げまで実施していた企業が実在していたという事実、企業側の発表するデータにもとづき安全性を疑わなかった物質に発ガン性などの副作用が認められるとの指摘、今までに大量に使用してきた薬剤が実は誇大宣伝であったとの報告等々が重なり合って、企業への信頼が音をたてて崩れているのが、現代の状況ではないでしょうか。こうした庶民の批判が、狂乱物価による生計の困窮をともなって、政治よりもまず企業に焦点を当てはじめたのです。
 政治家は、こうした人びとの批判、攻撃をかわすために、懲罰的な意味を込めて企業への税をふやしていく。私は、現行の一時的な企業への増税は、盛り上がる世論をかわすための政治家の悪どい世論操作の一つであるとみています。
 企業としては、重税をうんぬんするまえに、自分たちに向けられた庶民の怒りと不信感をぬぐいさるための、あらゆる誠意ある努力を示すことが先決ではないかと思うのです。企業者自身が、みずからのモラルを正し、いかなる意味でも庶民を裏切らないという証拠を積み重ねる以外に、人びとの信頼を取り戻す道はないのではないでしょうか。
 なお、ご指摘にある平均売り上げ利益率は、たしかに、アメリカと比べると少ないかもしれません。だが、そうした比較は、アメリカの企業と日本の企業の性格を抜きにしては論じられません。中小企業をかかえ、資源の乏しい日本の産業構造は、おのずから、資源国のそれとは異なっているからです。また、物価に対する収入の増加率についても、数字だけの比較から推論するのは妥当ではないと思います。物価指数といっても、そのなかのどのようなものの上昇が高く、どれが低いかによって、庶民の生活に受ける負担は全く違ってきます。現実に、生鮮食品などの生活必需物資が異常な高騰を示しており、庶民の生活を圧迫しているのです。
 さらに収入の増大といっても、その内容つまり配分が問題です。ごく少数の高所得者に集中している状態では、全体の数字として収入が増大したといっても、庶民の生活は向上しません。かえって所得の少ない人びとは、相対的にますます困窮する結果を引きおこしています。これは政治の貧困に帰すべきことでしょうが、その政治との醜い癒着を断ち切れない部分が企業側にも残っているかぎりは、連帯責任はまぬかれないでしょう。
 最後に、産業活動の困窮を心配されていらつしゃるようですが、私は、庶民にささえられた企業への体質改善がなされるならば、その企業は一時は困窮したとしても、必ず乗りきって、さらに発展を遂げるであろうことを確信しています。日本全体の産業活動についても同様のことがいえるのではないでしょうか。
24  住宅・土地問題の解決
 池田 住宅問題、土地問題が、現在の日本の社会、政治の緊急を要する最大の課題の一つでありますが、はたして、抜本的な方策は、あるのでしょうか。これに関して、一つは、理想とされている考え方、二つには、これならばただちに現実にも可能ではないかといった改善策が、もしおありになれば、おうかがいしたいと思います。
 松下 これは大変に重要で、かつ、むずかしい問題だと思います。第一には、土地は他の物資と同じようにどんどんつくりだすことができないからであり、第二には、一から仕事を始めるのでなく、これまで誤りを重ねてきた土地政策を改革するわけですから、それだけむずかしいと思うのです。
 けれども、全く解決不可能ということはないと思います。たとえば、香港は淡路島の二倍ぐらいの大きさのところに、四国の人口よりも多い四百二十五万人余の人が住んでいます。人口密度にして日本の十倍以上です。しかも、香港は戦後六十万人ほどだった人口が、中国革命による難民を受け入れたために、一挙に七倍になってしまったのです。にもかかわらず、住宅問題は十分とはいかないまでも、あるていど解決されているように思われます。
 その原因は私も詳しく調べたわけではありませんが、一つには土地を何倍にも使っているということです。つまり平面に使わず高層化して活用しているわけです。もちろん、田畑ではそういうことはできませんが、こと住宅については、かりに十階建てにすれば、一万坪が十万坪になります。
 日本は土地が余っているわけではありませんが、香港に比べれば、人口に比してはるかに広いわけですから、使い方さえ当を得れば土地問題は解決できるでしょう。
 そのために、まず一番大事なことは国民の合意ということです。それなしには、どんな方策でもうまくいかないと思います。国民の合意を得て、そして適切な方策を実行していけば、かなりの年月は要しても解決は可能でしょう。
 今の日本では、一方に都市の過密化がある半面、他方において過疎地では土地が余っているという現象が起こっています。なぜそんなことになるかといえば、過疎地では適当な仕事もなく、生活も不便だからだと思います。ですから、土地住宅問題解決の方策としては、国民の合意を得て、都市においては高層化を図って土地を何倍にも使っていくことと、過疎地を開発して、多少経済性という点では大都市には劣っても、仕事もあるし、あるていど生活の便利もいいという状態にすることだと思います。そのためには政府も道路その他の開発に費用をかけるとともに、企業も経済性を多少犠牲にしても、過疎地に工場を建設し、そこの人びとが都会に出なくても、仕事もあり収入も保証されるという姿をつくりだしていく社会的責任を自覚することが大事になってきます。そのようにして、今日の過疎地においても仕事もある、生活もそう不自由でないというようになれば、都会に出ていく人も少なくなり、反対に今まで都会に出ていた人も故郷へいわゆるUターンするようになって、過密過疎もしだいに解消され、地価も安定してくると思います。
 これ以外に私は土地住宅問題を解決する方策はないと思います。今まで誤ってきた政策を直すのですから、簡単に治療するということは望みえないのであって、やはり香港の例にならって、こうした根本的な方策により、一度切開手術する荒療治以外にはないと思うのです。香港でできたことですから、日本でやれないはずはないと思います。
 強いてそのほかに求めるとすれば、土地を一度国が預かる、あるいは買い取るということです。つまり、個人といわず法人、団体といわず、国民のもっている土地をすべて国が時価で買い取り、その代金は低利の国債で払うのです。そして、その土地を貸すか売るかは別として、必要な人に再配分するわけです。その場合、今までそこに住んでいたり、仕事をしている個人なり法人には、その人が希望すればそのままそこを使わせるようにしたらいいと思います。
 そういうことが、国民合意のもとにできれば、これも一つの方策と考えられます。ただ、現実にこれを行なうとなった場合、その再配分その他の行政事務がスムーズにいくかどうかは大きな疑問があります。新しく住宅を建てるにせよ、事業を始めるにせよ、いちいち必要な土地を借りるために所管の官庁の認可を得なくてはならないわけで、誰にその土地を貸すかを決定すること一つをとっても、そこに非常に手間がかかったり、いろいろ弊害が起こってくる可能性もあって、むしろ今より悪い状態になる恐れも多分にあります。
 そういうことを考えますと、多少時間はかかっても、最初に申しましたような方策を国民の合意によって行なっていく以外に道はないような気がするのです。
25  抜本的な土地対策は
 池田 政府の無策と大商社や一部の悪質な不動産業者によって地価の騰貴はまさに狂乱の様相をみせ、その勢いはとどまるところをしらずの感をいだかせます。昭和四十九年一月の建設省の公示価格発表をみても、全国平均三二・四パーセントの上昇、宅地は三年で倍値になる計算になります。この土地狂騰の反動が諸物価にも影響し、今日の悪性インフレの元凶となっているといえましょう。地価騰貴は″諸悪の根源″といわれるゆえんですが、地価対策に抜本的な快刀乱麻を断つ施策があるとすれば、それは何でしょうか。
 松下 ご指摘のように、土地の価格は過去、政府の無策に加えるに一部の企業などのいわゆる買い占めもあって非常な高騰をつづけてきました。そういうことが国民の批判を招き、また多くの企業も、工場を建て事業を拡張しようとしても、土地が高くて買えないといった事態になってきたわけです。
 それで、長年無策をつづけてきた政府も、先般「国土利用計画法」を制定して、悪質な買い占めなどができないようにしました。そうした法律の成立と金融の引き締めとがあいまって、このところ地価の上昇は沈静の傾向を示しているようです。ご質問にありますように、昭和四十九年一月現在の公示価格は前年に比べて非常な上昇となっていますが、その後発表された数字を見ますと、昭和四十九年に入ってからは地価は横ばいもしくは若干下がりつつあるということです。
 現に今まで買い占めていた人も、そのように地価が安定してきた一方で、金融の引き締めもあって土地は売れず、しかも税金とか金利が高くなっているために四苦八苦しているといったことも報じられています。
 ですから、国土利用計画法ができたことを転機として、地価の異常な上昇ということは、いちおう収まり、今後大幅に上がる心配はなくなったといえましょう。もちろん、そうはいっても今後の施策しだいでどのように変わっていくかはわかりませんから、これからも土地政策を十分注視していくことが必要ですし、企業も個人もいらざる土地を買わないようにすることが大事だと思います。
 ただ地価が、いちおう安定したとはいっても、非常に高いところで安定したわけで、そのため土地が欲しくても買えない、売りたくても売れないという、硬直化した困った状態にあるわけです。
 こうした事態を抜本的に解決する快刀乱麻を断つような妙案があるかということですが、私には残念ながら考えられません。ただ一つ考えられるのは、土地をすべて国有化することです。しかし、これについては、前項でも申し上げましたように、国民が土地を使用したいと思っても、それについての認可の行政手続きが非常に煩雑になると思います。今日私どもの仕事に関係あることで申しますと、新しい技術的な発明考案について、特許や実用新案登録の出願をした場合、その審査に五、六年もかかるのが今日の行政の実情です。それと同じことが土地について起こったのでは、かえって混乱を大きくするだけになるかもしれません。
 したがって、今のところ私には快刀乱麻の妙案は急には考えられません。しかし、土地の価格自体は、前述のように「国土利用計画法」ができたこともあって、今後は今までのように、地価だけが他物価に抜きんでて騰貴することはちょっと考えられないと思います。
26  革命芸術について
 池田 文学や演劇などに、革命を扱い賛嘆したものがあります。ここでそれらの価値をうんぬんするわけではありませんが、革命芸術を宣揚するあまり、他の広範な部分の芸術がなおざりにされる場合が、とくに社会主義国においてしばしばあるようです。このことについてはどのようにお考えになりますか。
 松下 おっしゃるように、革命を成し遂げた国が、その国家意識を固めていくために、革命を賛嘆したいわゆる革命芸術を盛んにすることは往々にしてみられる姿です。かつてのソ連や今日の中国などをみても、そういう傾向があるように思われます。それは、そうすることが革命国家が新たな国家を形成していくうえにおいて必要だからではないかと思います。したがって、その必要性にもとづいて努力している過程では、いきおい革命芸術以外の芸術は第二義的になってくることも考えられます。これはその国としては、やむをえない状態だといえましょう。もちろん、そういった国でも、あるていど国家建設の基礎が固まり、発展を遂げていくにつれて、革命芸術でない一般の芸術も興隆してくると思います。けれども、革命の途上であるとか、革命の後でもその基礎が安定するまでの間は、革命芸術に重点がおかれることも、やむをえないと思うのです。したがって、かりにある国が革命芸術を中心とした姿をとっているとしても、それはその国の必要性によってそうしているのであって、他の国の立場で軽々にその是非を論ずることはできないと思います。
27  人種差別をなくすには
 松下 今日なお、世界のいたるところで人種差別的傾向が存続しているといいます。そのために、同じ人間同士がいたずらに対立し、憎み合い、しばしば不幸な好ましからざる姿を生みだしているようです。こうした人種差別というものをなくしてしまうことはできないものでしょうか。異なった人種がともに生活をし、しかもそこに調和を保ち、ともどもに生活を高めていく、といった姿を生みだすための方策はないものでしょうか。
 池田 この問題を考えるには、人種差別感情が何によって起こってくるかを考えねばなりません。もし生理的な先天的なものであるとするならば、その障壁は越えがたい強固なものとなるでしょうし、もしそれが後天的なものであるとすれば、必ずや突破口はみつかるはずです。
 私は差別感情というのは、主として社会慣習や社会的感情の伝承という広い意味での「教育」によるものであるという考えをもっております。たしかに差別意識は幾世代にもわたって引き継がれ、深刻な対立を生んでいる例が多くみられます。なかでもアメリカなどにおける白人と黒人の差別感情はかなり根強いものがあるようです。意識的に他の皮膚の色の人たちと接しよう、理解しようとしても、生理的な嫌悪感が先にたって、差別意識を克服できないと訴える人さえもいるようです。
 しかし、私は、そういう人であっても、根本的には教育による後天的なものであると考えたいのです。社会に行なわれている偏見と差別の雰囲気に育つうちに、それが先天的なものであると感じるようになったのではないでしょうか。親、友人、教師、その他、自身を囲むあらゆる環境において、差別教育が慎重に、しかも幾度となく繰り返されて、差別意識を植えつけていく。社会自体がそのような考え方にならされ、それを偏見として拒絶することは不可能のようにさえなっていくのです。
 とするならば、人種差別の意識というものは、私たちの生命の奥深いところから出発したものではなく、生命のきわめて表層部分に植えつけられた硬い感情であるということになります。たとえば、同じ白人であっても、ラテン系諸国の人びとは黒人に対して差別感情をあまり強くもっていないことからも、先天的なものでないことが推察できます。
 差別意識が教育によって形成されたものであるとするならば、逆に、人種差別の感情を取り払うことも、教育によって可能となるはずです。人種の違い、風俗・習慣の違い、言葉の違いが、根本的なすべての生命の尊厳性、同質性からすれば、いかに「相違」とはいえないほどのものであるか、ということを当然の前提として、差別をしない、意識さえしない社会的な風習が確立されていくとき、必ずや差別意識は消滅していくにちがいないし、またそうであらねばならないと信じております。
 事実、私は、人種や膚の色の違いを乗り越えて、それまで対立し、あるいは忌避しあってきた人びとが、手をつなぎ理解しあっている姿を見ております。お互いの生命のなかに、尊極無上の輝きの内在することを認めるとき、人びとは「地球人」「世界人」として共通の基盤にたっているお互いを発見するのではないでしょうか。
 さらに、ただ人間は平等であると叫ぶだけでなく、なぜ人びとは平等なのか、という確たる根拠が人びとの意識のなかに打ち立てられたとき、おのずから人種差別は吹き払われていくでしょう。
28  オカルト・ブームと社会
 池田 ひところのオカルト・ブームについて、どのようにお考えですか。また、このブームは日本だけではなく、世界的現象のようですが、それはどのような社会的背景をもつとごらんになりますか。テレビで放映され、話題を呼んだような超能力を、どのように受けとめておられますか。
 松下 ひところ、念力とか、そういったいわゆる超能力によって、スプーンを曲げるというような、不思議な現象が、テレビなどに映されたりしていろいろ話題を呼んだようです。
 このようなものは、過去の歴史をみても、しばしば流行するように思われます。健全な常識では判断できないようなことが、ことさらに吹聴されたり、理論づけられたりするような世の中というものは、今にはじまったことではありません。ずっと昔から、その時代その時代の程度に応じてつきまとっていたように思います。
 私は、ああしたものが真実性をもつという見方はしていませんし、そうは信じたくありません。もちろん、過去、キリストのような人も出ているのですから、ごくまれにそういう超能力をもつ人があるかもしれないことは否定しませんが、しかし、ふつうの人間が自然の理法にかなわないような力をもつことはありえないと考えていいのではないでしょうか。最近のオカルト・ブームのような摩訶不思議な力は真実には存在しないと思います。
 それでは、どうしてこのようなブームが起こってきたのか、それも日本だけでなく、世界的に起こっているのかということですが、これは多くの人が指摘しておられるように、世界的に、不安、動揺、混乱といった状態になってきているからだといえましょう。たとえば石油問題です。今回の石油問題は、産油国が申し合わせて価格をつりあげたわけです。そのつりあげ方が誰がみても妥当だというものならいいのですが、いっぺんに四倍も上げるという、常識では考えられないようなものです。そして、そういうものが通ってしまうというところに、今日の世界の混乱、混迷があるわけで、そこから人心の不安、動揺も起こってきます。
 そのような世相を背景に、超能力という現象が真実らしく伝えられ、それが話題を呼んでオカルト・ブームになったのだと思います。最初にものべたように、過去にもたびたびこうしたことはあったわけで、それはやはり、社会なり人心が不安定な時代に起こっていると思うのです。
 ですから、やがて社会が安定してくれば、こういうことも少なくなってくるのではないでしょうか。

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